近代日本における最初の歴史家ともいうべき重野安繹(やすつぐ)と久米邦武の小伝。
重野安繹と久米邦武というと、明治政府が行った修史事業の中心的メンバーであったにも関わらず言論弾圧によって政府を去り、修史事業も頓挫したことで有名だ。しかしこの二人がどういった人物だったのかはよく知らなかった。特に重野については薩摩藩出身の人物であるのにこれまでなんとなく人物像は知らないで済ませてきた。そこで手に取ったのが本書である。
重野が歴史に登場するのは薩英戦争においてである。重野は漢学を修めた昌平黌(江戸幕府の最高学府)での人脈や学殖を買われ、薩英戦争の戦後処理の首席交渉官のような立場に抜擢される。その後、家庭の事情などから自ら政治の表舞台から去り、島津久光の命により「皇朝世鑑」という歴史書の編纂に携わった。明治維新後には政府に出仕し、明治8年には太政官正院修史局副長となって歴史家としての本格的な活動をスタートさせた。
一方、重野より一回り下の久米邦武は、佐賀藩において学者として活躍していたが、その名が知られるようになったのは明治維新後、岩倉使節団に随行してその記録『特命全権大使米欧回覧実記』を書き上げたことによる。彼は経済的なことにもかなり関心があったようで、文明比較論的な視座とともに当時はあまり顧みられなかった統計情報についても気配りしている。
この2人はその学識が認められ、長松幹(つかさ)、川田剛、小河一敏(おごう・かずとし)、などとともに明治政府の修史事業に携わることとなった。この事業は拡大や縮小を経て二転三転しながら進められたが、最終的には明治10年に「修史館」となり、重野と対立していた川田を追放して重野が主導権を得、ついに重野は「大日本編年史」の執筆に着手する。そしてその右腕になったのが久米であった。
この事業は、国家権力によって正史を編む、というものだった。よって、史料の収集も権力を背景に半ば強制的に行い、各地から大量の一次資料が収集された。これは強権的な側面もあったが、一次資料に基づく歴史の記述という日本の実証的歴史研究の出発点にもなり、この資料群は後に東京大学史料編纂所に引き継がれている。なお修史事業は明治21年に帝国大学に移管され、明治24年には史誌編纂掛となる。
重野は当初、漢学者として漢文による伝統的な史書を執筆することを考えていたようだ。ところが、実際に集められた史料を付き合わせてみると、従来『太平記』などで流布し歴史だと思われていたことが必ずしも事実ではないらしいという部分が目についてきた。重野は伝統的な史書の構成を批判してむしろ西洋の歴史学に範を取り、厳密な考証による歴史記述を志向していく。
そして明治20年台前半には、『太平記』の記述が事実ではないこと、特に楠木正成の忠臣児島高徳(たかのり)が実在の人物ではないことを主張してこれが問題となり、やがて重野は新聞などで「抹殺博士」なるあだ名で呼ばれることになる。国民道徳の重要な材料であった楠木正成の歴史が事実でないと主張することは、不道徳なことだとみなされたのである。
一方、久米は元来挑発的な論文を発表するきらいがあったが、そんな中、明治24年の「神道は祭天の古俗」という論文が大問題となった。この論文で久米は、神道は古代人類に普遍的に見られる原始的祭祀の一種であるとした。これは現代から見ると当然のことであるし、当時としても発表当初は学術誌に掲載されたこともあり問題視されなかった。
しかし田口卯吉というジャーナリストによって『史海』という一般誌に挑発的に紹介されたことで久米のもとには脅迫的な反論が届くようになる。久米は論文を撤回したが騒ぎはそれで収まらず、内務省はこの論文が発表された『史学会雑誌』と『史海』を発禁処分とした。さらに久米は辞表を提出して帝国大学文科大学教授と史誌編纂委員を依願免職した。これが有名な「久米邦武筆禍事件」(本書では「久米事件」と表記)である。
この事件には東京大学総長加藤弘之も積極的には擁護せず、それどころか重野ですら沈黙を守った。この時点で、修史事業は危殆に瀕していたといえよう。そして明治26年、井上毅は修史事業を抜本的に改革する案を閣議に提出。修史事業は肝心の歴史書はいつまでも出来あがらず、編纂委員は考証ばかりに力を注いでいる、と批判し、事実上歴史書の編纂を諦めるものであった。
こうして重野と久米は修史事業から去った。重野はそれでも引き続き一人の歴史学者として活動し続けた。重野は依然として漢学の大家であり、初代史学会長として歴史学会の重鎮であった。晩年には81歳という高齢でヨーロッパへの視察旅行にも旅だった。そして死の直前まで『国史綜覧』という編年体史書の編纂を続け、「大日本編年史」の夢を追い続けていた。
久米もまた旺盛な執筆活動を続けた。立教大学や東京専門学校(→早稲田大学)で教鞭を執り、『日本史学』『日本古代史』『南北朝時代史』などを出版した。だが久米の歴史記述は後世の史学からみると考証が甘く、やがて柳田国男らから批判された。
ちなみに頓挫した修史事業は、収集した史料の編纂と刊行のみが続けられた。今も東京大学で続けられている『大日本史料』『大日本古文書』である。しかし収集した史料はいかなる名目でも一切外部に漏洩してはならず、個人の論説の発表は制限された。「久米邦武筆禍事件」の再来を恐れていたのだ。重野や久米がいささか無頓着に学問の自由を謳歌したのとは違い、やがて国家が学問をも手中に収める時代がやってくるのである。
近代日本にとって「歴史観」が問題となった最初のケースについて生き生きと知れる良書。
【関連書籍】
『嵐のなかの百年—学問弾圧小史』向坂 逸郎 編著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/06/blog-post_23.html
明治から昭和初期にかけての学問・言論への弾圧についての論考集。
いかにして言論の自由が失われていったか克明に知らされる良書。
2018年6月28日木曜日
2018年6月23日土曜日
『嵐のなかの百年—学問弾圧小史』向坂 逸郎 編著
明治から昭和初期にかけての学問・言論への弾圧についての論考集。
本書には「学問弾圧小史」の副題がつくが、大久保利謙氏執筆の「洋学の迫害」「ゆがめられた歴史」がそれにあたるもので、その他の論考については学問そのものへの弾圧というよりも言論弾圧に関する内容が多く、社会主義思想家であった向坂逸郎が編者であるからか特に社会主義思想への弾圧について詳しい。
私自身の興味は、「ゆがめられた歴史」に述べられている、重野安繹、久米邦武、喜田貞吉、津田左右吉のケースについて知りたくて本書を手に取った。
これらのケースのみならず社会主義思想への弾圧についても言えることだが、全体として弾圧された学問・言論は、特に過激なものではなかった。それどころか当時の学問水準から見ても至極妥当・穏当な見解のものが多く、 実際に著作物の発表直後は何ら問題視されなかった場合も多いのである(例:津田左右吉の『古事記及日本書記の研究』)。
ところが、そういう書物がひとたび右翼主義者の注目するところとなるや盛んに攻撃が加えられ、「国体を毀損する」「国体の明徴に疑義を生ぜしめる」などといって学説が極めて危険で、「国体」を否定するものであるかのように喧伝し、やがて当局もこれを問題視したことで発禁処分、そして大学からの追放といった厳重な弾圧が加えられていった。
しかし「国体」というあやふやで、どうとでも使える概念を使い、学説を理解することもなくその片言隻句を捉えて批判のための批判を繰り広げたことは、結局は国民の自由を自ら狭めていくことになった。「国体」は神聖不可侵のものとなり、国家の根幹に思考停止せざるを得ない領域ができてしまったことで我が国の思想は著しく退歩し、ファシズム国家へと変容する原因となった。
本書は、学問・言論への弾圧の歴史をまとめたものというより、弾圧の個別のケースについての小論といった性格が強く、全体的な弾圧史の見通しはよくない。具体的には、時系列的に何があったということが書いていない場合が多く、弾圧の事実については既知のものとして論評が中心になっている小論もある。
ただし、昭和の言論弾圧の歴史について書いた本は多いが明治・大正の学問の弾圧についてまとめた本はあまり多くなく、この部分だけでも本書の価値は大きいと言えよう。また、美濃部達吉の「天皇機関説」については息子の美濃部亮吉がまとめており、津田左右吉の研究については本人を訪ねて取材しているなど、関係者に直接取材しまとめているので、そういう点でも本書には価値がある。
いかにして言論の自由が失われていったか克明に知らされる良書。
【関連書籍】
『続・発禁本』城 市郎 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/11/blog-post_24.html
明治以来の様々な「発禁本」を紹介。
発禁本から権力と言論の対峙を考えさせる奥深い本。
本書には「学問弾圧小史」の副題がつくが、大久保利謙氏執筆の「洋学の迫害」「ゆがめられた歴史」がそれにあたるもので、その他の論考については学問そのものへの弾圧というよりも言論弾圧に関する内容が多く、社会主義思想家であった向坂逸郎が編者であるからか特に社会主義思想への弾圧について詳しい。
私自身の興味は、「ゆがめられた歴史」に述べられている、重野安繹、久米邦武、喜田貞吉、津田左右吉のケースについて知りたくて本書を手に取った。
これらのケースのみならず社会主義思想への弾圧についても言えることだが、全体として弾圧された学問・言論は、特に過激なものではなかった。それどころか当時の学問水準から見ても至極妥当・穏当な見解のものが多く、 実際に著作物の発表直後は何ら問題視されなかった場合も多いのである(例:津田左右吉の『古事記及日本書記の研究』)。
ところが、そういう書物がひとたび右翼主義者の注目するところとなるや盛んに攻撃が加えられ、「国体を毀損する」「国体の明徴に疑義を生ぜしめる」などといって学説が極めて危険で、「国体」を否定するものであるかのように喧伝し、やがて当局もこれを問題視したことで発禁処分、そして大学からの追放といった厳重な弾圧が加えられていった。
しかし「国体」というあやふやで、どうとでも使える概念を使い、学説を理解することもなくその片言隻句を捉えて批判のための批判を繰り広げたことは、結局は国民の自由を自ら狭めていくことになった。「国体」は神聖不可侵のものとなり、国家の根幹に思考停止せざるを得ない領域ができてしまったことで我が国の思想は著しく退歩し、ファシズム国家へと変容する原因となった。
本書は、学問・言論への弾圧の歴史をまとめたものというより、弾圧の個別のケースについての小論といった性格が強く、全体的な弾圧史の見通しはよくない。具体的には、時系列的に何があったということが書いていない場合が多く、弾圧の事実については既知のものとして論評が中心になっている小論もある。
ただし、昭和の言論弾圧の歴史について書いた本は多いが明治・大正の学問の弾圧についてまとめた本はあまり多くなく、この部分だけでも本書の価値は大きいと言えよう。また、美濃部達吉の「天皇機関説」については息子の美濃部亮吉がまとめており、津田左右吉の研究については本人を訪ねて取材しているなど、関係者に直接取材しまとめているので、そういう点でも本書には価値がある。
いかにして言論の自由が失われていったか克明に知らされる良書。
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『続・発禁本』城 市郎 著
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発禁本から権力と言論の対峙を考えさせる奥深い本。
2018年6月18日月曜日
『日本仏教史入門』田村 芳朗 著
日本仏教史を日本文化論と絡めて概説した本。
日本仏教史としての本書の特色は、第1に教学史にあまり深く立ち入っていないことである。例えば、南都六宗の説明は簡略だし、曹洞宗と臨済宗の違いはほとんど語られていない。
第2に、その代わり社会状況や文芸、民間信仰など仏教の周辺についてはやや詳しく述べられており、完結した仏教史ではなく、歴史の中の仏教の動きについて理解を深められる。
そして第3に、日本にとって仏教は外来思想として受容されたものであるから、それをどう消化し、日本流なものとして再創造したか、という観点で仏教史が記述されているということだ。よって、本書には一種の日本文化論の側面がある。
通読した感想としては、まず仏教史としては非常に読みやすいと感じた。煩瑣な教学史を大胆に捨象しているので退屈な部分がなく、時代毎の仏教の趨勢を理解するのによい。また仏教の周辺についての記載は、近現代の新興宗教についてなどは少し詳しすぎる感じもしたが、全体的に見れば要を得ており、気づかされる点も多かった。
一方、本書には著者なりの仏教各宗派・各思潮への評価が割と出ているところがあり、それについては疑問を抱く点もあった。例えば、著者は天台本覚思想を日本仏教の一つの到達点として「これは仏教思想史上のみならず世界哲学史上における究極・最高の哲理であるといえよう」と称揚するのであるが、なぜそのように評価できるのか、その理由は全く書かれていない。
というのは、元来の仏教において悟りというものは理知的に到達するもののはずなのに、本覚思想ではあるがままの姿が肯定され、後には「山川草木悉有仏性」などといって自然物すらもそのままで仏となりうるという極論まで生んだ。確かに仏教の日本化の行き着くところであり、一つの到達点であるとは思うが、それを究極・最高の哲理とまで言えるかどうか。例えば、この思想でどれだけの人が救われたというのか、社会にどれだけよい影響を及ぼしたというのか。宗教である以上、そうした観点から評価を受けてしかるべきであるが、本書にそうした観点はなくやや一方的な記述となっておりあまり説得的ではなかった。
また、著者が非常に重視している日蓮宗・日蓮主義については詳しい一方、浄土教系については記述が薄いのも気になった点である。信徒数だけでいえば、現代日本では浄土真宗が最も多いと思うので、浄土教系の動きはもう少し詳述してもよかったと思う。
全体的に「入門」ということで、かなり略述している部分があるので物足りない点もあるものの、巻末の日本仏教史年表はそれを補う力作で非常に参考になる。年表だから記載は簡潔だが内容は豊富で、仏教史上の主要な著作も網羅されており、この年表だけでも本書の価値があると思う。
簡略すぎるきらいはあるが、その分とても読みやすく特に巻末の年表が素晴らしい本。
日本仏教史としての本書の特色は、第1に教学史にあまり深く立ち入っていないことである。例えば、南都六宗の説明は簡略だし、曹洞宗と臨済宗の違いはほとんど語られていない。
第2に、その代わり社会状況や文芸、民間信仰など仏教の周辺についてはやや詳しく述べられており、完結した仏教史ではなく、歴史の中の仏教の動きについて理解を深められる。
そして第3に、日本にとって仏教は外来思想として受容されたものであるから、それをどう消化し、日本流なものとして再創造したか、という観点で仏教史が記述されているということだ。よって、本書には一種の日本文化論の側面がある。
通読した感想としては、まず仏教史としては非常に読みやすいと感じた。煩瑣な教学史を大胆に捨象しているので退屈な部分がなく、時代毎の仏教の趨勢を理解するのによい。また仏教の周辺についての記載は、近現代の新興宗教についてなどは少し詳しすぎる感じもしたが、全体的に見れば要を得ており、気づかされる点も多かった。
一方、本書には著者なりの仏教各宗派・各思潮への評価が割と出ているところがあり、それについては疑問を抱く点もあった。例えば、著者は天台本覚思想を日本仏教の一つの到達点として「これは仏教思想史上のみならず世界哲学史上における究極・最高の哲理であるといえよう」と称揚するのであるが、なぜそのように評価できるのか、その理由は全く書かれていない。
というのは、元来の仏教において悟りというものは理知的に到達するもののはずなのに、本覚思想ではあるがままの姿が肯定され、後には「山川草木悉有仏性」などといって自然物すらもそのままで仏となりうるという極論まで生んだ。確かに仏教の日本化の行き着くところであり、一つの到達点であるとは思うが、それを究極・最高の哲理とまで言えるかどうか。例えば、この思想でどれだけの人が救われたというのか、社会にどれだけよい影響を及ぼしたというのか。宗教である以上、そうした観点から評価を受けてしかるべきであるが、本書にそうした観点はなくやや一方的な記述となっておりあまり説得的ではなかった。
また、著者が非常に重視している日蓮宗・日蓮主義については詳しい一方、浄土教系については記述が薄いのも気になった点である。信徒数だけでいえば、現代日本では浄土真宗が最も多いと思うので、浄土教系の動きはもう少し詳述してもよかったと思う。
全体的に「入門」ということで、かなり略述している部分があるので物足りない点もあるものの、巻末の日本仏教史年表はそれを補う力作で非常に参考になる。年表だから記載は簡潔だが内容は豊富で、仏教史上の主要な著作も網羅されており、この年表だけでも本書の価値があると思う。
簡略すぎるきらいはあるが、その分とても読みやすく特に巻末の年表が素晴らしい本。
2018年6月6日水曜日
『フランス・ルネサンスの人々』渡辺 一夫 著
フランスでルネサンス期に生きた12人の小伝。
普通、ルネサンスというとまずはイタリアで活躍したダ・ヴィンチやダンテといった人々を思い起こすし、そうでないにしてもチョーサーやモンテーニュのように文芸復興運動の担い手を想起するのであるが、本書の中心となるのは、そうした華々しい文化活動ではなく、暗澹たる宗教戦争を引き起こすことになる旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)の争いの渦中にあった人々である。
彼らは、いわば近代社会の産みの苦しみに立ち会わなければならなかった人々であった。
宗教改革は、聖書の原典研究という地味な活動から始まった。エラスムスやルッターといった人々は、当時のキリスト教、特に教会の行動が聖書に書かれた精神から乖離し、元来の精神性をなくして夾雑物に覆われ、権力に歪められた存在だと批判した。聖書の原典をたずねることで、社会のしくみへの懐疑が生まれたのであった。
そして彼らは「それはキリストと何の関係があるのか?」と問い、現今のキリスト教(旧教)を改革しようとするにせよ(エラスムス)、それを破壊し新しい教会を打ち立てようとするにせよ(ルッター、カルヴァン)、あるべき正しい道を自由な精神で選び取って進もうとした。
しかし、それは頑迷固陋な旧教と清新な新教の争いではなかった。自由な検討の精神から始まったはずの新教も、旧教側からの容赦ない弾圧、粛正、虐殺を受けることによって過激に凝り固まっていき、やがては新しい狂信となって旧教側を弾圧・粛正することになるのである。それこそが新教の教祖の一人ともいうべきカルヴァンの呪われた運命であった。
そのカルヴァンと一度は盟友になりながら、当初の理想を忘れ旧教弾圧の独裁者となり悪鬼道へと堕ちていくカルヴァンを勇気と理知をもって批判したのがセバスチアン・カステリヨンである。しかしカルヴァンは、カステリヨンを異端として排撃した。
またカステリヨンと同様に、聖書に記載のない数々の迷信を斥け、清新な神学を打ち立てようとしたミシェル・セルヴェも、カルヴァンに教えを請うていたものの、やがてその神学はカルヴァンを激怒させ、セルヴェはカルヴァンによって逮捕され異端として火刑に処されたのである。
旧教と新教の争いという大きな構図の中に、敵味方が入り乱れた様々なドラマがあった。本書はそうした12人の人生を辿ることによって、根本の精神をたずね、社会に対して率直に検討を行うことの難しさを描き、精神が硬直する悲劇(あるいはあまりにも悲惨すぎるがゆえの喜劇)を垣間見せるものである。
しかしその筆は非常に抑制的である。フランス・ルネサンスの文芸に通じた著者の学殖が傾けられ、事実を整理し正確に述べることに大半が費やされ、皮相的な文明批評じみたところはない。しかしその行間のはしばしに、感情の高ぶりともいえる社会への警鐘が感じられるのである。
本書は終戦間際から書き継がれ、漸次改訂させられてきたものであり、戦後社会の行方を案じるような部分も見受けられる。『フランス・ルネサンスの人々』は決して過去の興味深いエピソードを開陳するだけの本ではなく、人類社会が普遍的に直面している危険性——争いや失敗を避けることは十分可能なのに、破滅へと猛スピードで進んでしまう危険性——に目を向けさせる本でもある。
「そして、人間というものは、何という「無欲」なものだろうとも思った。つまり、血を流さないですむ道がありながら、その道を歩こうともしないからである」(p.119)
宗教改革にまつわる人々の人生を通じ、人間が原罪的に背負った愚かさをほのかに感じさせる名著。
※本書で描かれる12人
ギョーム・ビュデ、アンブロワーズ・パレ、ベルナール・パリッシー、ミシェル・ド・ロピタル、ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス)、エチレンヌ・ドレ、ギョーム・ポステル、アンリ4世、ミシェル・セルヴェ、ジャン・カルヴァン、イグナチウス・デ・ロヨラ、セバスチヤン・カステリヨン
普通、ルネサンスというとまずはイタリアで活躍したダ・ヴィンチやダンテといった人々を思い起こすし、そうでないにしてもチョーサーやモンテーニュのように文芸復興運動の担い手を想起するのであるが、本書の中心となるのは、そうした華々しい文化活動ではなく、暗澹たる宗教戦争を引き起こすことになる旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)の争いの渦中にあった人々である。
彼らは、いわば近代社会の産みの苦しみに立ち会わなければならなかった人々であった。
宗教改革は、聖書の原典研究という地味な活動から始まった。エラスムスやルッターといった人々は、当時のキリスト教、特に教会の行動が聖書に書かれた精神から乖離し、元来の精神性をなくして夾雑物に覆われ、権力に歪められた存在だと批判した。聖書の原典をたずねることで、社会のしくみへの懐疑が生まれたのであった。
そして彼らは「それはキリストと何の関係があるのか?」と問い、現今のキリスト教(旧教)を改革しようとするにせよ(エラスムス)、それを破壊し新しい教会を打ち立てようとするにせよ(ルッター、カルヴァン)、あるべき正しい道を自由な精神で選び取って進もうとした。
しかし、それは頑迷固陋な旧教と清新な新教の争いではなかった。自由な検討の精神から始まったはずの新教も、旧教側からの容赦ない弾圧、粛正、虐殺を受けることによって過激に凝り固まっていき、やがては新しい狂信となって旧教側を弾圧・粛正することになるのである。それこそが新教の教祖の一人ともいうべきカルヴァンの呪われた運命であった。
そのカルヴァンと一度は盟友になりながら、当初の理想を忘れ旧教弾圧の独裁者となり悪鬼道へと堕ちていくカルヴァンを勇気と理知をもって批判したのがセバスチアン・カステリヨンである。しかしカルヴァンは、カステリヨンを異端として排撃した。
またカステリヨンと同様に、聖書に記載のない数々の迷信を斥け、清新な神学を打ち立てようとしたミシェル・セルヴェも、カルヴァンに教えを請うていたものの、やがてその神学はカルヴァンを激怒させ、セルヴェはカルヴァンによって逮捕され異端として火刑に処されたのである。
旧教と新教の争いという大きな構図の中に、敵味方が入り乱れた様々なドラマがあった。本書はそうした12人の人生を辿ることによって、根本の精神をたずね、社会に対して率直に検討を行うことの難しさを描き、精神が硬直する悲劇(あるいはあまりにも悲惨すぎるがゆえの喜劇)を垣間見せるものである。
しかしその筆は非常に抑制的である。フランス・ルネサンスの文芸に通じた著者の学殖が傾けられ、事実を整理し正確に述べることに大半が費やされ、皮相的な文明批評じみたところはない。しかしその行間のはしばしに、感情の高ぶりともいえる社会への警鐘が感じられるのである。
本書は終戦間際から書き継がれ、漸次改訂させられてきたものであり、戦後社会の行方を案じるような部分も見受けられる。『フランス・ルネサンスの人々』は決して過去の興味深いエピソードを開陳するだけの本ではなく、人類社会が普遍的に直面している危険性——争いや失敗を避けることは十分可能なのに、破滅へと猛スピードで進んでしまう危険性——に目を向けさせる本でもある。
「そして、人間というものは、何という「無欲」なものだろうとも思った。つまり、血を流さないですむ道がありながら、その道を歩こうともしないからである」(p.119)
宗教改革にまつわる人々の人生を通じ、人間が原罪的に背負った愚かさをほのかに感じさせる名著。
※本書で描かれる12人
ギョーム・ビュデ、アンブロワーズ・パレ、ベルナール・パリッシー、ミシェル・ド・ロピタル、ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス)、エチレンヌ・ドレ、ギョーム・ポステル、アンリ4世、ミシェル・セルヴェ、ジャン・カルヴァン、イグナチウス・デ・ロヨラ、セバスチヤン・カステリヨン
2018年5月20日日曜日
『五重塔』幸田 露伴 著
幸田露伴の若き日の傑作中編小説。
本書は、技倆はありながらも魯鈍なために「のっそり」と馬鹿にされる大工十兵衛が、一世一代の仕事として五重塔建築に名乗りを上げて、本来建築を担うはずであった源太と一悶着起こしたものの、立派に五重塔を仕上げるまでの話である。
この物語の形式的な主人公は十兵衛であるが、ほとんど十兵衛の心理描写はない。十兵衛は内省的な性格ではなく、ただ五重塔を自分がつくってみたいという一徹な、思い詰めた感情があるだけだ。
一方で、源太は違う。源太は腕も確かで義理も人情も篤く、人望もある職人であり、また江戸っ子風の気っぷの良さもある。彼は十兵衛を目に掛けてきた恩人であって、仕事を取り合うというよりは譲り合う気持ちでいる。その源太が、様々な葛藤を抱えながらも、結局は魯鈍な十兵衛に五重塔の仕事を全て譲るというのがこの物語の極点であって、私としては源太の方が善良な近代的人間性を表しているように思った。一方、十兵衛の方はいわばなりふり構わない中世的な人間であって、象徴的に考えれば、この物語は近代的視点から中世的な生き方が肯定されるという仕組みになっていると思う。
ところで本書中、出来たばかりの五重塔が暴風雨に見舞われる描写があって、これは坪内逍遙に激賞されたことで日本文学中の名文とされている。描かれる暴風雨の夜は、単純な風景描写ではなく寓意と象徴の嵐でもあって、このような書き方が可能なのかと驚くほどの、空前にして絶後の表現だ。外国語への翻訳が非常に困難と感じさせる、日本語の一つの到達点である。
文体は文語であるが慣れればそれほど難しくはなく、そのリズムを摑めば割合に読みやすい。現代の基準からすれば一文がたいへん長く、1ページで1文というくらい長い文もあるが、表現は簡潔で品格があり、文の長さはむしろ心地よく感じる。
このような文章はいつまでも読んでいたくなるのである。
【関連書籍】
『連環記』幸田 露伴 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/07/blog-post.html
幸田露伴、最晩年の中編。露伴の到達した言語世界の精華。
本書は、技倆はありながらも魯鈍なために「のっそり」と馬鹿にされる大工十兵衛が、一世一代の仕事として五重塔建築に名乗りを上げて、本来建築を担うはずであった源太と一悶着起こしたものの、立派に五重塔を仕上げるまでの話である。
この物語の形式的な主人公は十兵衛であるが、ほとんど十兵衛の心理描写はない。十兵衛は内省的な性格ではなく、ただ五重塔を自分がつくってみたいという一徹な、思い詰めた感情があるだけだ。
一方で、源太は違う。源太は腕も確かで義理も人情も篤く、人望もある職人であり、また江戸っ子風の気っぷの良さもある。彼は十兵衛を目に掛けてきた恩人であって、仕事を取り合うというよりは譲り合う気持ちでいる。その源太が、様々な葛藤を抱えながらも、結局は魯鈍な十兵衛に五重塔の仕事を全て譲るというのがこの物語の極点であって、私としては源太の方が善良な近代的人間性を表しているように思った。一方、十兵衛の方はいわばなりふり構わない中世的な人間であって、象徴的に考えれば、この物語は近代的視点から中世的な生き方が肯定されるという仕組みになっていると思う。
ところで本書中、出来たばかりの五重塔が暴風雨に見舞われる描写があって、これは坪内逍遙に激賞されたことで日本文学中の名文とされている。描かれる暴風雨の夜は、単純な風景描写ではなく寓意と象徴の嵐でもあって、このような書き方が可能なのかと驚くほどの、空前にして絶後の表現だ。外国語への翻訳が非常に困難と感じさせる、日本語の一つの到達点である。
文体は文語であるが慣れればそれほど難しくはなく、そのリズムを摑めば割合に読みやすい。現代の基準からすれば一文がたいへん長く、1ページで1文というくらい長い文もあるが、表現は簡潔で品格があり、文の長さはむしろ心地よく感じる。
このような文章はいつまでも読んでいたくなるのである。
【関連書籍】
『連環記』幸田 露伴 著
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幸田露伴、最晩年の中編。露伴の到達した言語世界の精華。
2018年5月10日木曜日
『西郷札 傑作短編集(三)』松本 清張
松本清張の短編時代小説集。
表題となっている「西郷札」は、松本清張の処女作で懸賞小説へ応募された作品。この処女作の出来は非常によく、後の清張を予感させるものとなっている。実際ドラマ化もされており、清張の短編の中で割合に知られている。
西郷札とは、西南戦争時に薩軍が軍費調達のために作ったその場しのぎのお金のことで、本作ではこの西郷札が重要な仕掛けとして明治半ばの人間ドラマが動いていく。これがノンフィクションともフィクションとも判断できないような仕掛けになっていて(しかし私の知る範囲ではフィクションである)、いわば歴史の隙間を描いたような不思議な作品に仕上がっている。
その他、江藤新平の末路を実録風に描いた「梟示抄」、幕末に大名、家老、軽輩(と作中では書かれているが比較的高禄取りの家臣)の子として生まれた3人の人生の明暗を描く「啾々吟」など12編が収録。
全体として共通しているのは、敗者や世の中に疎まれたもの、恋に破れたものなど、いわば「負け組」とされる人々を忠心に物語が構成されていることで、同じ歴史小説でも概して「勝ち組」を描くのがうまい司馬遼太郎とはかなり違う読後感である。
ただし特に後半に収録された作品の出来はそれほどでもなく、ちょっと感傷的すぎるというか、例えば恋情のもつれから刃傷沙汰に及ぶようなありきたりの展開が散見される。ある意味では歴史小説(というか時代劇もの)として安定的な作品とも言えるが、山本周五郎とか藤沢周平とか、こういうタイプの小説にはもっと上手(うわて)がいることを考えると物足りない感じは否めなかった。
というわけで、全体的な出来は高くないが、処女作「西郷札」は(繰り返しになるが)非常に読み応えがあって、それだけでも本書の価値はあると思う。
ところで、あの松本清張が、作家の出発点として西郷札というモチーフを取り上げたということが私には興味深く、そういう思いで本書を手に取った。これは西南戦争の戦後処理の裏話みたいなものだし、「梟示抄」も西南戦争前夜の粛正の話である。また他の話も、明治維新にあたって、新しい時代にうまく乗れなかったものが主人公となっていることが多く、松本清張の作家としての視点をよく示していると思う。勇壮な英傑たちが躍動する司馬遼太郎の歴史小説とは対極的なのである。
表題となっている「西郷札」は、松本清張の処女作で懸賞小説へ応募された作品。この処女作の出来は非常によく、後の清張を予感させるものとなっている。実際ドラマ化もされており、清張の短編の中で割合に知られている。
西郷札とは、西南戦争時に薩軍が軍費調達のために作ったその場しのぎのお金のことで、本作ではこの西郷札が重要な仕掛けとして明治半ばの人間ドラマが動いていく。これがノンフィクションともフィクションとも判断できないような仕掛けになっていて(しかし私の知る範囲ではフィクションである)、いわば歴史の隙間を描いたような不思議な作品に仕上がっている。
その他、江藤新平の末路を実録風に描いた「梟示抄」、幕末に大名、家老、軽輩(と作中では書かれているが比較的高禄取りの家臣)の子として生まれた3人の人生の明暗を描く「啾々吟」など12編が収録。
全体として共通しているのは、敗者や世の中に疎まれたもの、恋に破れたものなど、いわば「負け組」とされる人々を忠心に物語が構成されていることで、同じ歴史小説でも概して「勝ち組」を描くのがうまい司馬遼太郎とはかなり違う読後感である。
ただし特に後半に収録された作品の出来はそれほどでもなく、ちょっと感傷的すぎるというか、例えば恋情のもつれから刃傷沙汰に及ぶようなありきたりの展開が散見される。ある意味では歴史小説(というか時代劇もの)として安定的な作品とも言えるが、山本周五郎とか藤沢周平とか、こういうタイプの小説にはもっと上手(うわて)がいることを考えると物足りない感じは否めなかった。
というわけで、全体的な出来は高くないが、処女作「西郷札」は(繰り返しになるが)非常に読み応えがあって、それだけでも本書の価値はあると思う。
ところで、あの松本清張が、作家の出発点として西郷札というモチーフを取り上げたということが私には興味深く、そういう思いで本書を手に取った。これは西南戦争の戦後処理の裏話みたいなものだし、「梟示抄」も西南戦争前夜の粛正の話である。また他の話も、明治維新にあたって、新しい時代にうまく乗れなかったものが主人公となっていることが多く、松本清張の作家としての視点をよく示していると思う。勇壮な英傑たちが躍動する司馬遼太郎の歴史小説とは対極的なのである。
2018年5月6日日曜日
西郷隆盛と西南戦争
私は鹿児島の人間だから、西郷隆盛というと、もう物心ついた時からいろいろ聞かされていて、内容はあまり覚えていないが高校生の頃に伝記(か海音寺潮五郎の小説か)を読んだ記憶がある(曖昧)。
その後祖父が「これも読みなさい」といって3冊、本をくれた。
『西郷隆盛のすべて―その思想と革命行動』(濵田尚友)、『首丘の人 大西郷』(平泉 澄)、の2冊は覚えているが、3冊目がなんだったか今や分からなくなってしまった。『南洲翁遺訓』だったか。こちらも曖昧である。
なぜ曖昧かというと、これらの本を読んでも、どうも西郷隆盛という人間が自分の中にスッと入ってこない。だいたい、これらの本はどれも最初から西郷隆盛賛美を決めてかかっているところがあって、大げさに言えば、「西郷はかくも偉大であった」というようなことが結論としてあり、それに枝葉をつけたような書きぶりなのだ。
それで、どうも西郷隆盛は自分にとって謎の存在ということになってしまった。伝記的なことを一応は知っていても、等身大の姿というものが見えなかったのである。
そんな西郷に再び興味を抱いたのはだいぶ後になってからで、西南戦争のことが気になり出してからだった。
そのきっかけは、『近代日本の戦争と宗教』(小川原 正道)という本だ。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2013/12/blog-post.html
この本で、西南戦争には「不平士族の暴発」だけでない、多様な性格があった事を知った。西南戦争発端の裏側には、鹿児島で布教を進めたい西本願寺と、真宗の教化によって鹿児島の民衆を政府に馴化しようとする大久保利通らの思惑があった。
西南戦争を起こした者たちには、単なる新政府への不平不満だけでなく、思想的な反抗があったということが朧気ながらに見えた。
なぜ、鹿児島の士族たちは、明治維新を主導しながらも反政府的になってしまったのか。西郷はなぜ、その士族たちを抑えることが出来ずに望まない戦争に担ぎ出されたのか。鹿児島の歴史を知るにつれ、それが私の中で大きな疑問となっていった。
もちろん、通り一辺倒の答えならすぐに準備できる。鹿児島の士族たちが反政府的になったのは彼らが廃藩置県で無職になってしまったからだし、西郷が彼らを止められなかったのは、県内各所の温泉など巡っていて現場(城下)にいなかったからだ。
でも私は、もっと深いレベルで西南戦争を理解したいと思った。西南戦争は、「鹿児島の明治維新」を象徴するものであり、いろいろな意味でその後の日本を先取りしている点がある。そしてその中心にいる西郷隆盛を、今までとは違った視角から理解したくなった。
そういう視角を準備してくれたのが、『南洲残影』(江藤 淳)である。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2016/11/blog-post.html
本書は、西郷が残した文学作品(漢詩)や檄(指示)を読み解くことで、西郷の心情に迫ろうとするもので、その内容の多くが西南戦争に費やされている。
本書が用意した視角というのは、西郷を「維新の英雄」としてではなく、むしろ「国賊として討伐された敗者」として描いたことだ。西郷賛美でも西郷否定でもなく、一人の非命の人間として西郷を理解しようとする姿勢が、意外と類書にはない。本書によって初めて、私は西郷という人間がこちらの方へ歩み寄ってくれたような気がした。
だが本書の憾みは、適度な距離感をもって語りはじめたはずの著者が、最後には西郷に飲み込まれ、「日本人はかつて「西郷南洲」以上に強力な思想を持ったことがなかった」といったことを言い出すことである。私には、西郷が「思想」だったとはどうしても思えないのだ。いや、「西郷の思想」が何だったのかさえ、未だ茫洋としてつかみどころがないのである。
一方、猪飼隆明は『西郷隆盛―西南戦争への道』によって、西郷の行動原理が「忠君」であることを主張した。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2015/08/blog-post.html
要するに西郷は古いタイプの人間で、武士としてのあるべき行動原理である「忠」をずっと守っていたというのである。
最初は主君島津斉彬に対し、そしてその後は明治天皇に対して。そして明治天皇も、ことのほか西郷を寵愛したという。それは、他の維新の功臣が形式的にしか天皇を尊重していなかったのと比べ、西郷は天皇を主君として仰いでいたからではないかという気がする。
また、西郷もその胸の内に様々な葛藤を抱えていた。
例えば、斉彬が残した国(鹿児島藩)を解体してしまってよいのかという葛藤だ。700年も続いた島津氏の支配を、「廃藩置県」を行うことで微臣に過ぎぬ自分が終わらせてよいのか。そういった葛藤を、西郷は天皇への忠心によって乗り越えたという。
私は、本書を読んで、西郷は、みずから「時代遅れの男」であることを自覚しつつ、むしろ「時代遅れの男」として死のうと決意した人間であると思うようになった。西南戦争は彼にとっては望まない戦争であったが、彼以上に「時代遅れの男」たちであった鹿児島の士族を見捨てきれなかったのも、西郷の西郷らしい点であった。
このことは、最初期に「藩」という意識を脱却し、日本の「政治家」としての自覚を持った進歩的な人間、大久保利通と全く対照的な点だった。
だがもちろん、西郷はただの「時代遅れの男」ではなかった。
西郷は鹿児島の士族たちとは、全く違う想いを抱いていた。明治政府のやり方が気にくわなかったのは事実であるが、彼の中には「万国公法」と通ずる進歩的思想が旧来の儒教道徳の上に打ち立てられてもいた。
だから、「時代遅れの男」ばかりの鹿児島の不平士族たちの中にあって、西郷は孤独だった。鹿児島の大勢の士族に慕われながら、実のところ西郷は四面楚歌だったのである。
そもそも、士族が失職した原因である「廃藩置県」は西郷が主導したものなのだ。鹿児島の士族は西郷をまつりあげたけれども、内心憤懣やるかたない想いがあったのではないか。そういう空気を感じられるのが、『西南戦争 遠い崖—アーネスト・サトウ日記抄13』(萩原 延壽)に描かれる一場面である。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2015/08/13.html
明治10年2月11日、もうあと数日で薩軍が進軍を開始するというその時、西郷は旧知のサトウを突然訪問した。その時の様子をサトウはこう記す。
しかしながら、西郷がただ士族たちのいいように手玉に取られていたかというと、それはまた違う。
当時イギリスの外交官で日本に赴任していたオーガスタス・マウンジーが『薩摩国反乱記』(安岡 昭男 補注)を書いているが、彼は仕事の外交記録としてではなく、一個人として本書を書きイギリスで公刊した。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2017/09/blog-post_8.html
マウンジーは、イギリスにとっては東洋の遅れた島国の内輪もめにすぎない西南戦争についてなぜ一書をものしたのか。それは、おそらく彼が西郷隆盛を高く評価していたからであり、西郷はイギリス人にとっても知って損はない人間だと信じていたからであろう。
マウンジーは、西南戦争については「封建制度をいくらか復活させようとする最後の真剣な企図であった」としていて、それ自体に進歩的意義は認めていない。しかし西郷については「その波瀾に富んだ生涯とその悲劇的な死とによって、国民の間で、「東洋の偉大な英雄」との称号を得、またイギリスの読者の興味をひくにも事欠かないのである」と述べている。
彼がこうした記述をしたことを考えてみても、西郷が鹿児島の士族にいいように使われていただけということは考えにくく、戦争中はかなり自由を制限されていたとはいえ、西郷が西南戦争の性格に大きな影響を及ぼしていることは確実なのだ。西南戦争は西郷にとって望まない戦だったが、鹿児島ではこの戦いは「せごどんのイッサ(戦)」と呼ばれ、確かに「西郷の戦い」だったのである。
そして、西郷の思想そのものが西南戦争にどう現れているか、ということはさして重要ではない。それよりも、西南戦争において、西郷にどのような思想が付託されていたのか、ということが、この戦争を理解する上でもっと重要だ。
西南戦争は、「時代遅れの男」たちの守旧的な戦いであると同時に、明治維新の精神が骨抜きになっていくなかで、自由と言論をもって権力に対抗し明治維新の大業を貫徹させようとする進歩的な思想を持った人々の戦いでもあった。
そういう西南戦争の二面性を描いたのが、『西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦』(小川原 正道)である。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2018/04/blog-post_23.html
五箇条のご誓文では「万機公論に決すべし」とされていなかがら、実際には言論が制限され、薩長の政治家たちによる独裁政権(有司専制)が敷かれていたのが明治政府の実態であった。
そのため、いわゆる「民権派」という、自由と言論を重視する勢力が勃興してきたのが明治10年の頃である。そして「民権派」は、政府の横暴なやり方を糺すには武力を使うこともやむなしとさえ考えつつあった。例えば、板垣退助は明治政府の独裁を打破するため西郷を擁した反乱を企図し、島津久光に建言するのである。
後に板垣は西郷に批判的に転じるが、こういう背景があったから、薩軍には民権を求める進歩的な人々が多数参加している。
薩軍には、武士の特権を信じ封建制の復活を目指す人々と、自由と言論を信じ民権の拡大を目指す人々という、全く正反対の勢力が奇妙に同居していた。しかもそれぞれの勢力が、共にその思想を西郷に託していたのである。
どうしてそんなことが起こりえたのか。例えばこれが大久保利通であったなら、こんなことは起こりえなかっただろう。ほとんど共通点がない正反対の思想が西郷その人に付託されたという事実そのものが、西郷という人物を読み解く鍵であるように私には思える。
そして二つの思想の唯一の共通点は、理想の社会を実現するために身命をなげうつ点であったろう。ご一新の世の中に順応しえた人々が薩軍を冷ややかに見つめる中で、「この社会は間違っている」と憤った人々が西郷を旗印に集結した。社会を自分たちの手で変えようとする第2の明治維新を、西郷と共に起こそうとした。
だがこの戦いは、敗北を宿命付けられていたとも言える。なぜなら当の西郷にはその気がなかったからだ。彼は、あくまで明治天皇に忠誠を尽くそうとしていたのだから。
西郷をどう評価するかということは、近代日本の歩みを評価することと等しい。西郷には、古い社会の理想と新しい社会の理想が、両方投影されていた。しかし自分ではそのどちらも選び取ることが出来ず、新しい社会の理想を夢見ながら、「時代遅れの男」として死んだ。
「武士らしく生きることができない世の中なら、せめて武士らしく死なせてくれ」とでも言わんばかりの同胞と共に。
こうして西郷は「神話」となった。彼はあくまで黙して語らない。だから彼をどう評価してよいのか、考えれば考えるほど途方に暮れてしまう。
明治時代を鋭い目で見た橋川文三でさえ、西郷をどう扱えばいいのか悩んだ。『西郷隆盛紀行』(橋川 文三)は、依頼された西郷の評伝を書くために行った対談や小文をまとめたものだが、これを読めば西郷の評価がどうして難しいのかが分かるだろう。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2018/04/blog-post_7.html
だから、こうしていくつかの本を読んできたが、私もまだ「西郷隆盛と西南戦争」をどう考えたらいいのか、正直よく分からないのだ。以前とは違った意味で、西郷隆盛は私にとって謎の存在のままだ。
それにまだまだ知りたいことがいくつかある。西郷が設立したと一般的には思われているが、実はそうではないらしい「私学校」の実態について(例えば徳富蘇峰の『近世日本国民史「西南戦争」第1巻』参照)。西南戦争を始めた戦犯ともいうべき篠原国幹や桐野利秋、別府晋介といった人々の動向。そして私学校を保護して薩軍を支援し、実質的な薩軍の代理人をつとめたといえる県令・大山綱良のこと。
こうしたことを分かった上でないと西南戦争の評価は出来ないし、西郷の評価もできないだろう。近代日本史の分水嶺であった西南戦争は、もっと深く理解されてしかるべき戦いだ。もう少し、書の径(みち)をさまよってみなくてはならない。
その後祖父が「これも読みなさい」といって3冊、本をくれた。
『西郷隆盛のすべて―その思想と革命行動』(濵田尚友)、『首丘の人 大西郷』(平泉 澄)、の2冊は覚えているが、3冊目がなんだったか今や分からなくなってしまった。『南洲翁遺訓』だったか。こちらも曖昧である。
なぜ曖昧かというと、これらの本を読んでも、どうも西郷隆盛という人間が自分の中にスッと入ってこない。だいたい、これらの本はどれも最初から西郷隆盛賛美を決めてかかっているところがあって、大げさに言えば、「西郷はかくも偉大であった」というようなことが結論としてあり、それに枝葉をつけたような書きぶりなのだ。
それで、どうも西郷隆盛は自分にとって謎の存在ということになってしまった。伝記的なことを一応は知っていても、等身大の姿というものが見えなかったのである。
そんな西郷に再び興味を抱いたのはだいぶ後になってからで、西南戦争のことが気になり出してからだった。
そのきっかけは、『近代日本の戦争と宗教』(小川原 正道)という本だ。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2013/12/blog-post.html
この本で、西南戦争には「不平士族の暴発」だけでない、多様な性格があった事を知った。西南戦争発端の裏側には、鹿児島で布教を進めたい西本願寺と、真宗の教化によって鹿児島の民衆を政府に馴化しようとする大久保利通らの思惑があった。
西南戦争を起こした者たちには、単なる新政府への不平不満だけでなく、思想的な反抗があったということが朧気ながらに見えた。
なぜ、鹿児島の士族たちは、明治維新を主導しながらも反政府的になってしまったのか。西郷はなぜ、その士族たちを抑えることが出来ずに望まない戦争に担ぎ出されたのか。鹿児島の歴史を知るにつれ、それが私の中で大きな疑問となっていった。
もちろん、通り一辺倒の答えならすぐに準備できる。鹿児島の士族たちが反政府的になったのは彼らが廃藩置県で無職になってしまったからだし、西郷が彼らを止められなかったのは、県内各所の温泉など巡っていて現場(城下)にいなかったからだ。
でも私は、もっと深いレベルで西南戦争を理解したいと思った。西南戦争は、「鹿児島の明治維新」を象徴するものであり、いろいろな意味でその後の日本を先取りしている点がある。そしてその中心にいる西郷隆盛を、今までとは違った視角から理解したくなった。
そういう視角を準備してくれたのが、『南洲残影』(江藤 淳)である。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2016/11/blog-post.html
本書は、西郷が残した文学作品(漢詩)や檄(指示)を読み解くことで、西郷の心情に迫ろうとするもので、その内容の多くが西南戦争に費やされている。
本書が用意した視角というのは、西郷を「維新の英雄」としてではなく、むしろ「国賊として討伐された敗者」として描いたことだ。西郷賛美でも西郷否定でもなく、一人の非命の人間として西郷を理解しようとする姿勢が、意外と類書にはない。本書によって初めて、私は西郷という人間がこちらの方へ歩み寄ってくれたような気がした。
だが本書の憾みは、適度な距離感をもって語りはじめたはずの著者が、最後には西郷に飲み込まれ、「日本人はかつて「西郷南洲」以上に強力な思想を持ったことがなかった」といったことを言い出すことである。私には、西郷が「思想」だったとはどうしても思えないのだ。いや、「西郷の思想」が何だったのかさえ、未だ茫洋としてつかみどころがないのである。
一方、猪飼隆明は『西郷隆盛―西南戦争への道』によって、西郷の行動原理が「忠君」であることを主張した。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2015/08/blog-post.html
要するに西郷は古いタイプの人間で、武士としてのあるべき行動原理である「忠」をずっと守っていたというのである。
最初は主君島津斉彬に対し、そしてその後は明治天皇に対して。そして明治天皇も、ことのほか西郷を寵愛したという。それは、他の維新の功臣が形式的にしか天皇を尊重していなかったのと比べ、西郷は天皇を主君として仰いでいたからではないかという気がする。
また、西郷もその胸の内に様々な葛藤を抱えていた。
例えば、斉彬が残した国(鹿児島藩)を解体してしまってよいのかという葛藤だ。700年も続いた島津氏の支配を、「廃藩置県」を行うことで微臣に過ぎぬ自分が終わらせてよいのか。そういった葛藤を、西郷は天皇への忠心によって乗り越えたという。
私は、本書を読んで、西郷は、みずから「時代遅れの男」であることを自覚しつつ、むしろ「時代遅れの男」として死のうと決意した人間であると思うようになった。西南戦争は彼にとっては望まない戦争であったが、彼以上に「時代遅れの男」たちであった鹿児島の士族を見捨てきれなかったのも、西郷の西郷らしい点であった。
このことは、最初期に「藩」という意識を脱却し、日本の「政治家」としての自覚を持った進歩的な人間、大久保利通と全く対照的な点だった。
だがもちろん、西郷はただの「時代遅れの男」ではなかった。
西郷は鹿児島の士族たちとは、全く違う想いを抱いていた。明治政府のやり方が気にくわなかったのは事実であるが、彼の中には「万国公法」と通ずる進歩的思想が旧来の儒教道徳の上に打ち立てられてもいた。
だから、「時代遅れの男」ばかりの鹿児島の不平士族たちの中にあって、西郷は孤独だった。鹿児島の大勢の士族に慕われながら、実のところ西郷は四面楚歌だったのである。
そもそも、士族が失職した原因である「廃藩置県」は西郷が主導したものなのだ。鹿児島の士族は西郷をまつりあげたけれども、内心憤懣やるかたない想いがあったのではないか。そういう空気を感じられるのが、『西南戦争 遠い崖—アーネスト・サトウ日記抄13』(萩原 延壽)に描かれる一場面である。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2015/08/13.html
明治10年2月11日、もうあと数日で薩軍が進軍を開始するというその時、西郷は旧知のサトウを突然訪問した。その時の様子をサトウはこう記す。
「西郷には約二十名の護衛が付き添っていた。かれらは西郷の動きを注意深く監視していた。そのうちの四、五名は、西郷が入るなと命じたにもかかわらず、西郷に付いて家の中へ入ると主張してゆずらず、さらに二階に上がり、ウイリスの居間へ入るとまで言い張った」護衛たちは、他ならぬ西郷を監視していたのであった。そして西郷は、西南戦争のさなかにあっても直接に指揮を執らせてもらえなかった。戦場から隔離され、激しい戦闘が行われている裏側で、西郷は呑気にウサギ刈りなどしていたのである。いや、「させられていた」と言う方が正しいか。彼は西南戦争において、少なくとも戦いの半ばまで蚊帳の外に置かれていた。
しかしながら、西郷がただ士族たちのいいように手玉に取られていたかというと、それはまた違う。
当時イギリスの外交官で日本に赴任していたオーガスタス・マウンジーが『薩摩国反乱記』(安岡 昭男 補注)を書いているが、彼は仕事の外交記録としてではなく、一個人として本書を書きイギリスで公刊した。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2017/09/blog-post_8.html
マウンジーは、イギリスにとっては東洋の遅れた島国の内輪もめにすぎない西南戦争についてなぜ一書をものしたのか。それは、おそらく彼が西郷隆盛を高く評価していたからであり、西郷はイギリス人にとっても知って損はない人間だと信じていたからであろう。
マウンジーは、西南戦争については「封建制度をいくらか復活させようとする最後の真剣な企図であった」としていて、それ自体に進歩的意義は認めていない。しかし西郷については「その波瀾に富んだ生涯とその悲劇的な死とによって、国民の間で、「東洋の偉大な英雄」との称号を得、またイギリスの読者の興味をひくにも事欠かないのである」と述べている。
彼がこうした記述をしたことを考えてみても、西郷が鹿児島の士族にいいように使われていただけということは考えにくく、戦争中はかなり自由を制限されていたとはいえ、西郷が西南戦争の性格に大きな影響を及ぼしていることは確実なのだ。西南戦争は西郷にとって望まない戦だったが、鹿児島ではこの戦いは「せごどんのイッサ(戦)」と呼ばれ、確かに「西郷の戦い」だったのである。
そして、西郷の思想そのものが西南戦争にどう現れているか、ということはさして重要ではない。それよりも、西南戦争において、西郷にどのような思想が付託されていたのか、ということが、この戦争を理解する上でもっと重要だ。
西南戦争は、「時代遅れの男」たちの守旧的な戦いであると同時に、明治維新の精神が骨抜きになっていくなかで、自由と言論をもって権力に対抗し明治維新の大業を貫徹させようとする進歩的な思想を持った人々の戦いでもあった。
そういう西南戦争の二面性を描いたのが、『西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦』(小川原 正道)である。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2018/04/blog-post_23.html
五箇条のご誓文では「万機公論に決すべし」とされていなかがら、実際には言論が制限され、薩長の政治家たちによる独裁政権(有司専制)が敷かれていたのが明治政府の実態であった。
そのため、いわゆる「民権派」という、自由と言論を重視する勢力が勃興してきたのが明治10年の頃である。そして「民権派」は、政府の横暴なやり方を糺すには武力を使うこともやむなしとさえ考えつつあった。例えば、板垣退助は明治政府の独裁を打破するため西郷を擁した反乱を企図し、島津久光に建言するのである。
後に板垣は西郷に批判的に転じるが、こういう背景があったから、薩軍には民権を求める進歩的な人々が多数参加している。
薩軍には、武士の特権を信じ封建制の復活を目指す人々と、自由と言論を信じ民権の拡大を目指す人々という、全く正反対の勢力が奇妙に同居していた。しかもそれぞれの勢力が、共にその思想を西郷に託していたのである。
どうしてそんなことが起こりえたのか。例えばこれが大久保利通であったなら、こんなことは起こりえなかっただろう。ほとんど共通点がない正反対の思想が西郷その人に付託されたという事実そのものが、西郷という人物を読み解く鍵であるように私には思える。
そして二つの思想の唯一の共通点は、理想の社会を実現するために身命をなげうつ点であったろう。ご一新の世の中に順応しえた人々が薩軍を冷ややかに見つめる中で、「この社会は間違っている」と憤った人々が西郷を旗印に集結した。社会を自分たちの手で変えようとする第2の明治維新を、西郷と共に起こそうとした。
だがこの戦いは、敗北を宿命付けられていたとも言える。なぜなら当の西郷にはその気がなかったからだ。彼は、あくまで明治天皇に忠誠を尽くそうとしていたのだから。
西郷をどう評価するかということは、近代日本の歩みを評価することと等しい。西郷には、古い社会の理想と新しい社会の理想が、両方投影されていた。しかし自分ではそのどちらも選び取ることが出来ず、新しい社会の理想を夢見ながら、「時代遅れの男」として死んだ。
「武士らしく生きることができない世の中なら、せめて武士らしく死なせてくれ」とでも言わんばかりの同胞と共に。
こうして西郷は「神話」となった。彼はあくまで黙して語らない。だから彼をどう評価してよいのか、考えれば考えるほど途方に暮れてしまう。
明治時代を鋭い目で見た橋川文三でさえ、西郷をどう扱えばいいのか悩んだ。『西郷隆盛紀行』(橋川 文三)は、依頼された西郷の評伝を書くために行った対談や小文をまとめたものだが、これを読めば西郷の評価がどうして難しいのかが分かるだろう。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2018/04/blog-post_7.html
だから、こうしていくつかの本を読んできたが、私もまだ「西郷隆盛と西南戦争」をどう考えたらいいのか、正直よく分からないのだ。以前とは違った意味で、西郷隆盛は私にとって謎の存在のままだ。
それにまだまだ知りたいことがいくつかある。西郷が設立したと一般的には思われているが、実はそうではないらしい「私学校」の実態について(例えば徳富蘇峰の『近世日本国民史「西南戦争」第1巻』参照)。西南戦争を始めた戦犯ともいうべき篠原国幹や桐野利秋、別府晋介といった人々の動向。そして私学校を保護して薩軍を支援し、実質的な薩軍の代理人をつとめたといえる県令・大山綱良のこと。
こうしたことを分かった上でないと西南戦争の評価は出来ないし、西郷の評価もできないだろう。近代日本史の分水嶺であった西南戦争は、もっと深く理解されてしかるべき戦いだ。もう少し、書の径(みち)をさまよってみなくてはならない。
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