江戸中期までの儒学の勃興と挫折を経て、本居宣長が登場する。宣長は古事記を研究して、神代からの歴史における日本人の優れた心根を称揚した。
日本人は、心もふるまいも素直で雅やかで、天下は穏やかに治まってきているから、中国のように煩わしく難しい社会制度など不要だというのだ。彼は和歌や王朝物語も研究し、そこに現れたはかない人情、雅な心こそが重要だと説いた。
宣長は、道理(道)は人の本性ではなく、むしろ虚飾だとする。儒学では、世界は秩序と規範によって治まるものとされるが、宣長は逆にそこから逸脱するものを「心のまこと」として重視した。彼は師と仰いだ賀茂真淵の考えを受けて、日本人には儒学による統治など必要ないのだと嘯いた。
こうして、過去の日本人を理想化し、そこへ復ることが宣長の目標となった。しかし宣長は儒学者たちと違って、社会の変革は目指さなかった。それどころか、むしろ社会に順応して平凡に生きることを選んだ。彼にとっては、今を古に「見立てて」生きることで、「古の大御代」を生きることができたのである。
「人の今日の行ひは、だだその時々の公の御定めを守り、世間の風儀に従ひ候が、即神道」なのだ。これはちょっと倒錯的な考えなのかもしれないが、雅やかではかない人情こそ至上であり、穏やかに天に従って生きる日本人を目標とする彼にとってみれば、たとえ俗悪なる政府だったとしても、それに反抗するような真似は日本人らしくないのである。
それに、日本は天皇を戴く特別な国なのだ。「本朝は、天照大御神の御本国、その皇統のしろしめす御国にて、万国の元本大宗なる御国」(!)だと宣長は言う。天皇は徳によってではなく、神の子孫であるという神聖性により国を治めている。であるから理屈を廃して、ただ恭しく御上に従えばよいというのである。
日本は、天皇ではなく将軍の統治する国ではないのか? との疑問も湧くが、実はこの宣長の考えは次第に実質化していった。宣長が常用した「皇国」という言葉が、速やかに普及していったことはその象徴である。朝廷の権限は別に強化されていっていないのにだ。
そもそも、幕府は形式上こそ天皇から任命されて統治を行っていたが、実際には朝廷の上に立っていた。徳川家康は「禁中並公家諸法度」を定めて朝廷の行動を制約している(これは一度も改正されない)。年号の改元すら、江戸の当初は天皇の即位ではなく将軍の即位に合わせて行われたし、形式的には朝廷が与えることとなっている官位(「従三位」など)も実際には幕府が自由に発令することができた。
ところが、幕末にかけて日本はにわかに「皇国」となっていく。それはなぜか。
その大きな要因に、幕府や武士たちの権威の低下があるという。江戸時代というといわゆる士農工商の身分制度があり、固定的な社会であったことが想像される。しかし実際には、百姓や町人は、定められた義務さへこなせばあとは自由だった。身分制度や家職制(イエごとに商売が決まっている)はあったものの、その中で努力すれば栄達は望めた。百姓ですら、意欲的に経営を行えば豪農となって、いわば経営者として暮らすことはできたのである。
だが武士は違った。予め定められた家格の中でしか人生を送ることはできなかった。どんなに優秀でも、無能な上司に従わざるを得なかったし、昇進の可能性もなかった。上級武士はいいとしても、下級武士にとっては飼い殺しにも等しい状態であった。それは構造的な問題でもあっただろう。もはや太平の世の中で武士は本質的に不要なのだ。いくら二本の刀を掲げてみても、その刀を振るう機会は一生やってこないのである。
その上、俸禄(給与)は十分に支払われなくなった。百姓は、自ら「御百姓」と称し、お殿様のかけがえのない領民であることを強調して、しばしば増税を阻んだ。下級武士は、誇りだけはあったが、貧乏で、権威もないという状態へ陥っていた。
「昔は町人の娘はとかく武士の妻になる事を好みけるゆゑ、御禁制にもなりたる程なるが、今は武家の妻女になる事などは風上にも嫌ひ、(中略)武家の風儀は無風流なりとて忌み嫌ひ」という状態だ。要するに、武士は貧乏なうえにダサくて、町人の娘にとってまっぴら御免だというのだ。武士は、町民の娘からすら軽んじられていた。
もはや、「御威光」は存在しなかった。江戸幕府にとっての唯一の支配の力であった「御威光」がなくなったら、あとは「禁裏(朝廷)からの大権委任」という形式論で統治の正統性を強調するしかない。社会的威信のなくなった武家は、公家の権威を利用したのだ。その依存は次第に深まり、やがて「公武合体」へと進んでいく。武家は、「公」の威を借りなければ日本を統治することができないほどに落ちぶれていったのである。そしてその裏返しとして、日本は「神国」であるとか、皇統の連続とかが強調され、国学が花開いていくのである。
こうした趨勢の中で、日本は「開国」を迎える。開国というと、まずは黒船に代表される外国からの軍事的圧力に屈したものだと考えがちであるが、著者によればそうではないという。
開国の前から漏れ伝えられてきた西洋の有様を調べると、どうも「道」の実践において西洋の方が勝っていると考えられた。西洋は、学問が盛んである、人を大事にする(儒学的に言えば「仁」)、政治制度が整っている、というようなことからだ。民主主義によって大統領を選ぶやり方は、中華古えの理想に近く(禅譲)、儒学者たちから誉め称えられた。ペリー来航のはるか前に、普遍妥当の「道」を信ずるがゆえに西洋をみとめ、「皇国」というプライドの裏側で、日本の統治に疑問を持つ態度が醸成されてもいた。
そういう西洋が、日本に開国を要求してきたのである。しかも軍事的に制圧するというような脅しではなく、補給をしたいとか、遭難者を送り届けたいとか、儒教的に言えば「礼」に基づく要求として、正々堂々と主張してきた。これに対して、猛々しい海防の戦術論や、夜郎自大の攘夷論も起こったが、この主張を真面目に受け取ると、相手の道理を認めざるを得ない。実際に、開国すべきか否か諮問された大名たちはそのように意見した。「開国」とは、軍事技術の脅威も背景にはあったが、それよりも普遍的に妥当する「道」に関する説得に出会い、倫理的・思想的な挑戦を受けた結果でもあったのである。
このように、本居宣長がことさら儒学を否定しようとしたほど、この頃は儒学が日本に浸透していたのだ。その結果、実力による制圧と土地の給付による主従関係(徳川と大名への服属)よりも、官位授与による君臣関係(天皇と臣民)こそ「義」だと往々信じられた。こうして、禁裏(朝廷)自身は派手な宣伝活動をしたわけでもないのに、どんどんその威光は高まっていった。一方で、禁裏自身には自ら独裁者となる気概はなかった。そのため、禁裏を担げばそれによって権力を握り、政局を動かせるという構造が成立した。これが明治維新を動かす公然たるルールになった。
こうして、江戸時代の矛盾を解消するべく明治維新が動き出した。それは特に、飼い殺しされてきた下級武士の鬱屈の解消だ。彼らは「立身出世」できる自由を欲していた。そしてその統治原理として、「公議輿論」が持ち出された。これは民主主義というよりも、「人心の居合」を秩序の条件とする儒学的な発想から、「衆議」「群議」によれという手続き論が支持された結果だ。よって、五箇条の御誓文の第一は、「万機公論に決すべし」となった。
しかしこの「公論」の重視は、ひとたび明治政府が確立するとそれ以上に育てられることはなかった。岩倉使節団が西洋の事情をつぶさに観察してみると、西洋文明の根幹にキリスト教があり、その信仰が社会の基盤となっていることに気づいた。そこで、伊藤博文らはキリスト教の代替物として「皇室」を臣民に崇拝させることで、国家を統合することを企図した。
福沢諭吉は、文明の根幹はキリスト教ではなく「独立の精神」だとしたし、ほとんど朱子学者であった中江兆民はルソーと孟子の一致を感じ、普遍的な「理義」にそれを求めたが、こうした民衆を鼓舞し内省を促す理論は十分に育たず、結局次の時代の大きな思潮は皇学へと収斂していくのである。
本書は、東京大学での講義を元にしたものであり、特に前半はいわゆる「名物教授」的な雰囲気が強い。つまりアクが強いのである。しかし中盤以降はその調子に慣れてくるからかほとんどエキサイティングとも言うべき迫力があり、江戸時代の儒学という地味なテーマが非常に面白く感じられる本である。
しかし、取り上げる思想に粗密があるからなのか、幕末をあれだけ騒がせた吉田松陰などは全く触れられていない。また、著者自身が後書きで述べているとおり平田篤胤も「扱うべくして扱えなかった」とされている。幕末の志士への影響力という点で言うと、宣長よりも篤胤の方が数段大きいような気がするが、どういう判断で篤胤には詳しく触れなかったのだろう。
そういう編集方針に対する疑問もあるにはあるが、とにかく平板になりがちな政治思想史を面白く書くという意味では成功している本であり、タイプは違うがマイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』を彷彿とさせた。
明治維新を理解する上での基礎となる日本儒学が辿った近世史を、深く面白く学べる本。
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2017年5月14日日曜日
2017年5月11日木曜日
『日本政治思想史[十七〜十九世紀]』渡辺 浩 著(その1)
江戸時代から明治維新に至るまでの、日本の政治思想の変遷を辿る本。
明治維新は、日本の社会にとって急展開の変革だった。にも関わらず、盤石に見えた江戸幕府は速やかに雲散霧消し、さほどの抵抗もなく人々は新様式の社会に順応していった。なぜならば、明治維新の背景となる思想的な準備が江戸時代になされていたからだ、というのが著者の考えだ。
このように、本書は「徳川の治世の元で(中略)政治・社会の在り方を根底から変革させ、新体制を生み出させるような何かが、知的にも、すでに起きていた(p.4)」という認識の下、17〜19世紀における儒学を中心とした知的な変遷を辿るものである。
徳川幕府の成立当初においては、統治の大義名分を示すという意味での政治思想にはさほどの意味がなかった。戦国の覇者が今のところ徳川である、というだけで、いつまた戦乱の世に戻るとも知れなかったし、武士たちはいつでも臨戦態勢を取れるよう準備していた。ただ戦国の覇者としての「御威光」があれば、人々はそれにひれ伏していたのである。
しかし、いつまでも戦乱の世はやってこなかった。こうなると、武士は支配階級としての存在意義がなくなってくる。戦は起こらないのに、見せかけの武力だけで「御威光」の一端を担っていた。そのために、「武士道」はほとんど「武士らしさ」を偽装する演技になってしまった。
そんな偽装をしても、太平の世の中でいつまでも武断政権が続くわけがない。「武」はもはや不要の世界になっていた。「武」による統治から、「文」による統治、文治主義へ移行して行かざるを得ないのである。
そこで徐々に勃興してくるのが、儒学である。当初、幕府は儒学を統治原理としては採用しなかったから、江戸初期において儒学は「遊芸」の一つにすぎなかった。思想集団としても、例えば寺院が全国に組織化されていたのに比べれば、日本全体でほんの数十人しかいない少数勢力だった。だが、それが遊芸であるがために、かえって本気になる人も出てくる。俳諧や茶の湯が遊芸として発展していったごとく、儒学も遊芸として普及していくのである。
この頃の儒学といえば、ほとんど「朱子学」と同義である。朱子学は、孔孟の教えを基盤にして、森羅万象をも説明する緻密な理論を打ち立てていた。(本書には詳しく書かれないが)朱子学を奉じる林羅山は徳川家康に厚遇され、そのブレーンの一人となった。林羅山は朱子学の官学化に寄与し、朱子学はやがて「正学」とされて特別扱いされてゆく(寛政異学の禁)。
しかし、江戸幕府(本書の用語では「公儀」)の支配原理が儒学でない以上、儒学が広がることは実は危険だった。というのも、儒学によれば支配者は「天命」を受けた「聖人」であり、「聖人」は最高の「徳」の体現者でなくてならない。だが江戸幕府は徳によって支配しているのではなく、武力によって支配しているのが歴史的事実なのだ。そもそも、儒学というものは統治の学である。これを学んだものが科挙によって抜擢され、統治機構に組み込まれていくという仕組みがないのに、遊芸として統治の学が学ばれるということ自体が一つの倒錯であった。
よって、儒者たちは、自らの理想とする理知的な社会と、無知な武人が支配する現実の落差を感じ、現実を変革しようとするにせよ、あるいは理論を修正するにせよ、なんらかのつじつまを合わさなくてはならなかった。
山崎闇斎の門人で、正統な朱子学者だと自認していた浅見絅斎(けいさい)は、そういう矛盾の中で、一種の尊王論にまで至った。彼は現状の君臣関係を絶対化し、それを儒者らしく「道」だとしたが、これを突き詰めると徳川すら天皇の臣ということになり、将軍は「天子の御名代(代理人)」として統治しているに過ぎないということになってくる。現状の秩序をあくまでも肯定する立場から、武家の支配それ自体の正統性に疑問を投げかけるという逆説的な事態が生じたのである。徳川体制ができて約100年、儒学がようやく地位を得てきた頃のことであった。
元来、儒学は「革命」を肯定する。ひとたび「天命」が下ってもそれは絶対ではない。「天子」が本来の統治を忘れ、権力におごり享楽に耽れば、天変地異などにより「天」はその意志を変えたことを示し、新たな「天命」を下して権力者をすげ替える(放伐・革命)のである。儒学は、世がうまく治まっていれば現状肯定の思想であるが、世が乱れれば革命の思想となるのである。
そんな儒学であったから、儒者は必ずしも政権に重用されなかった。だがその例外が、6代将軍家宣に使えた新井白石である。新井は、家宣が将軍になる前からの学問の相談相手だったことにより、旗本として取り立てられ官位をも与えられて統治全般にわたって大きな影響力を持った。新井白石は将軍のブレーンとして朱子学に基づいて政策を立案し、しかもそれがかなり実行に移された。
彼は、日本を「儒教」によって統治する国に作りかえようとした。例えば、武家諸法度を初めて全面改正し、万民を道徳的たらしめる訓示へと変質させた。さらに、儒教としては重要な「礼」制定の努力もなされた。即位と元服、孔子廟礼拝、服喪の規定、外交儀礼の改正といったものだ。彼は中国的な「儒教」を日本に適用しようとしたのである。そういう新井白石だったから、天皇の権威は認めていたが、『日本書紀』に描かれるような神の子孫としての神聖性は否定していた。
しかし新井白石の改革は、8代将軍吉宗によって否定されることになる。武家諸法度は元に戻され、儒教に基づく礼楽は取りやめになった。日本を儒教によって治める国にしようとした朱子学者による改革は、挫折によって終わった。
新井白石とほぼ同時代を生きた荻生徂徠(おぎゅう・そらい)は、こうした朱子学の挫折を目の当たりにして、朱子学を批判して独自の儒学思想(いわゆる「徂徠学」)を作り出した。
徂徠は、儒学の根本に帰ろうとした。一種の復古主義である。孔孟の教えを素直に解釈し、夾雑物のない儒学を樹立した。しかも醒めた現実主義と悲観主義によってそれを現実の社会に適用しようとした。いくら普遍的な「道(真理)」の実践であるといっても、「天子」の「徳」によって人民が感化されて世の中が治まる、といった話は徂徠にとっては呑気すぎるのであった。「天子」たる統治者は、社会制度を巧妙に設計して人民を治めなくてはならない、というのが徂徠の基本姿勢だ。
徂徠にとって、徳川の治世は末期的な状況だった。様々な改革を行い、根本から立て直す必要があった。彼は吉宗にも政策提言を行っているがその内容は過激である。現状の秩序を維持するため、家ごとに株を定めて移動を禁じ、身分毎に生活の様式と水準を固定、さらに貨幣をも廃止し、武士は城下町集住をやめて知行地に住まわせるようにさせ、都市化による商品経済化を停止させる。また徂徠は、宗教を「愚民」への統治の道具として使うことを構想した。このように徂徠の思想は、徹底して反進歩・反成長・反都市化・反市場経済であり、上下の差別を固定化し、統治は反民主主義的に行い、個人の生活については反自由・反平等であった。徂徠は、本来は古に復るという保守思想から出発したはずが、反近代のラディカルな改革案に至ったのである。
だが、当然ながらこのような提言が受け入れられるはずもない。徂徠は、幕府がこの提言を受け入れないとしたら、きっと再び乱世に陥ってしまうだろうと予言して死んだ。「聖人」による統治でない限り、天がそれを許すはずがない、世が乱れるはずだ、というのが儒学の教えなのだ。しかしやはり太平の世は続いた。徂徠学を学んできたものたちは、彼らが批判するやり方で統治してなぜ太平の世の中が続くのか、という難問に突き当たることになった。それを解かない限り、徂徠学は間違いだったということになる。
徂徠が復ろうとした儒教そのものは間違っていなかったが、それは結局カラ(中華)の人を治める道具だったのだ、というのがその解答の一つとなった。日本人は元来優れているから「聖人の道」なしに治まるのだ、というのである。制度が儒教に基づいていないのに、太平の世が続いている鍵は「人」だとされた。こうして、徂徠学の存在意義は否定され、むしろ中国に対する日本優位論さえわき起こった。その後の国学の台頭は、徂徠学の崩壊の結果という一面もあるのである。
新井白石にせよ、荻生徂徠にせよ、理念的には保守思想から出発して、現状の権威や秩序をあくまでも肯定し保存しようとする中から、理想と現実のギャップを埋めるために社会を根本から作りかえようとする改革志向の儒学が生じたと言える。しかしその改革は、現実の社会に立脚して課題を解決していこうとするものではなく、あくまでも理念上の問題から構想されたものであった。
(つづく)
明治維新は、日本の社会にとって急展開の変革だった。にも関わらず、盤石に見えた江戸幕府は速やかに雲散霧消し、さほどの抵抗もなく人々は新様式の社会に順応していった。なぜならば、明治維新の背景となる思想的な準備が江戸時代になされていたからだ、というのが著者の考えだ。
このように、本書は「徳川の治世の元で(中略)政治・社会の在り方を根底から変革させ、新体制を生み出させるような何かが、知的にも、すでに起きていた(p.4)」という認識の下、17〜19世紀における儒学を中心とした知的な変遷を辿るものである。
徳川幕府の成立当初においては、統治の大義名分を示すという意味での政治思想にはさほどの意味がなかった。戦国の覇者が今のところ徳川である、というだけで、いつまた戦乱の世に戻るとも知れなかったし、武士たちはいつでも臨戦態勢を取れるよう準備していた。ただ戦国の覇者としての「御威光」があれば、人々はそれにひれ伏していたのである。
しかし、いつまでも戦乱の世はやってこなかった。こうなると、武士は支配階級としての存在意義がなくなってくる。戦は起こらないのに、見せかけの武力だけで「御威光」の一端を担っていた。そのために、「武士道」はほとんど「武士らしさ」を偽装する演技になってしまった。
そんな偽装をしても、太平の世の中でいつまでも武断政権が続くわけがない。「武」はもはや不要の世界になっていた。「武」による統治から、「文」による統治、文治主義へ移行して行かざるを得ないのである。
そこで徐々に勃興してくるのが、儒学である。当初、幕府は儒学を統治原理としては採用しなかったから、江戸初期において儒学は「遊芸」の一つにすぎなかった。思想集団としても、例えば寺院が全国に組織化されていたのに比べれば、日本全体でほんの数十人しかいない少数勢力だった。だが、それが遊芸であるがために、かえって本気になる人も出てくる。俳諧や茶の湯が遊芸として発展していったごとく、儒学も遊芸として普及していくのである。
この頃の儒学といえば、ほとんど「朱子学」と同義である。朱子学は、孔孟の教えを基盤にして、森羅万象をも説明する緻密な理論を打ち立てていた。(本書には詳しく書かれないが)朱子学を奉じる林羅山は徳川家康に厚遇され、そのブレーンの一人となった。林羅山は朱子学の官学化に寄与し、朱子学はやがて「正学」とされて特別扱いされてゆく(寛政異学の禁)。
しかし、江戸幕府(本書の用語では「公儀」)の支配原理が儒学でない以上、儒学が広がることは実は危険だった。というのも、儒学によれば支配者は「天命」を受けた「聖人」であり、「聖人」は最高の「徳」の体現者でなくてならない。だが江戸幕府は徳によって支配しているのではなく、武力によって支配しているのが歴史的事実なのだ。そもそも、儒学というものは統治の学である。これを学んだものが科挙によって抜擢され、統治機構に組み込まれていくという仕組みがないのに、遊芸として統治の学が学ばれるということ自体が一つの倒錯であった。
よって、儒者たちは、自らの理想とする理知的な社会と、無知な武人が支配する現実の落差を感じ、現実を変革しようとするにせよ、あるいは理論を修正するにせよ、なんらかのつじつまを合わさなくてはならなかった。
山崎闇斎の門人で、正統な朱子学者だと自認していた浅見絅斎(けいさい)は、そういう矛盾の中で、一種の尊王論にまで至った。彼は現状の君臣関係を絶対化し、それを儒者らしく「道」だとしたが、これを突き詰めると徳川すら天皇の臣ということになり、将軍は「天子の御名代(代理人)」として統治しているに過ぎないということになってくる。現状の秩序をあくまでも肯定する立場から、武家の支配それ自体の正統性に疑問を投げかけるという逆説的な事態が生じたのである。徳川体制ができて約100年、儒学がようやく地位を得てきた頃のことであった。
元来、儒学は「革命」を肯定する。ひとたび「天命」が下ってもそれは絶対ではない。「天子」が本来の統治を忘れ、権力におごり享楽に耽れば、天変地異などにより「天」はその意志を変えたことを示し、新たな「天命」を下して権力者をすげ替える(放伐・革命)のである。儒学は、世がうまく治まっていれば現状肯定の思想であるが、世が乱れれば革命の思想となるのである。
そんな儒学であったから、儒者は必ずしも政権に重用されなかった。だがその例外が、6代将軍家宣に使えた新井白石である。新井は、家宣が将軍になる前からの学問の相談相手だったことにより、旗本として取り立てられ官位をも与えられて統治全般にわたって大きな影響力を持った。新井白石は将軍のブレーンとして朱子学に基づいて政策を立案し、しかもそれがかなり実行に移された。
彼は、日本を「儒教」によって統治する国に作りかえようとした。例えば、武家諸法度を初めて全面改正し、万民を道徳的たらしめる訓示へと変質させた。さらに、儒教としては重要な「礼」制定の努力もなされた。即位と元服、孔子廟礼拝、服喪の規定、外交儀礼の改正といったものだ。彼は中国的な「儒教」を日本に適用しようとしたのである。そういう新井白石だったから、天皇の権威は認めていたが、『日本書紀』に描かれるような神の子孫としての神聖性は否定していた。
しかし新井白石の改革は、8代将軍吉宗によって否定されることになる。武家諸法度は元に戻され、儒教に基づく礼楽は取りやめになった。日本を儒教によって治める国にしようとした朱子学者による改革は、挫折によって終わった。
新井白石とほぼ同時代を生きた荻生徂徠(おぎゅう・そらい)は、こうした朱子学の挫折を目の当たりにして、朱子学を批判して独自の儒学思想(いわゆる「徂徠学」)を作り出した。
徂徠は、儒学の根本に帰ろうとした。一種の復古主義である。孔孟の教えを素直に解釈し、夾雑物のない儒学を樹立した。しかも醒めた現実主義と悲観主義によってそれを現実の社会に適用しようとした。いくら普遍的な「道(真理)」の実践であるといっても、「天子」の「徳」によって人民が感化されて世の中が治まる、といった話は徂徠にとっては呑気すぎるのであった。「天子」たる統治者は、社会制度を巧妙に設計して人民を治めなくてはならない、というのが徂徠の基本姿勢だ。
徂徠にとって、徳川の治世は末期的な状況だった。様々な改革を行い、根本から立て直す必要があった。彼は吉宗にも政策提言を行っているがその内容は過激である。現状の秩序を維持するため、家ごとに株を定めて移動を禁じ、身分毎に生活の様式と水準を固定、さらに貨幣をも廃止し、武士は城下町集住をやめて知行地に住まわせるようにさせ、都市化による商品経済化を停止させる。また徂徠は、宗教を「愚民」への統治の道具として使うことを構想した。このように徂徠の思想は、徹底して反進歩・反成長・反都市化・反市場経済であり、上下の差別を固定化し、統治は反民主主義的に行い、個人の生活については反自由・反平等であった。徂徠は、本来は古に復るという保守思想から出発したはずが、反近代のラディカルな改革案に至ったのである。
だが、当然ながらこのような提言が受け入れられるはずもない。徂徠は、幕府がこの提言を受け入れないとしたら、きっと再び乱世に陥ってしまうだろうと予言して死んだ。「聖人」による統治でない限り、天がそれを許すはずがない、世が乱れるはずだ、というのが儒学の教えなのだ。しかしやはり太平の世は続いた。徂徠学を学んできたものたちは、彼らが批判するやり方で統治してなぜ太平の世の中が続くのか、という難問に突き当たることになった。それを解かない限り、徂徠学は間違いだったということになる。
徂徠が復ろうとした儒教そのものは間違っていなかったが、それは結局カラ(中華)の人を治める道具だったのだ、というのがその解答の一つとなった。日本人は元来優れているから「聖人の道」なしに治まるのだ、というのである。制度が儒教に基づいていないのに、太平の世が続いている鍵は「人」だとされた。こうして、徂徠学の存在意義は否定され、むしろ中国に対する日本優位論さえわき起こった。その後の国学の台頭は、徂徠学の崩壊の結果という一面もあるのである。
新井白石にせよ、荻生徂徠にせよ、理念的には保守思想から出発して、現状の権威や秩序をあくまでも肯定し保存しようとする中から、理想と現実のギャップを埋めるために社会を根本から作りかえようとする改革志向の儒学が生じたと言える。しかしその改革は、現実の社会に立脚して課題を解決していこうとするものではなく、あくまでも理念上の問題から構想されたものであった。
(つづく)
2017年5月8日月曜日
『神秘学マニア』荒俣 宏 著
神秘学に関する小文の集成。
本書は、著者が70年代後半から90年代初めに発表した神秘学にまつわる気軽な文章をまとめたものである。神秘学といっても、宗教的なそれについてはさほど触れられておらず、サブカルチャー的なものが中心だ。
第1部はオカルトについて。ヨーロッパで今(執筆当時)でも息づいている幽霊信仰とか、吸血鬼の話なんか割と面白い。
第2部の前半は著者なりのオカルト史。ベルクソンの霊的進化論など、思想史的なものからイルミナティの陰謀論の発祥まで、やや脈絡はないが興味深い。後半は数についての神秘思想。ピュタゴラス学派の考え方や数についての迷信(?)の紹介。
第3部は70年代のLSDを中心としたドラッグ文化や神秘的サブカルチャーの展望について。興隆と挫折を繰り返してきたLSDの申し子たち(例えばティモシー・リアリー)への挽歌。
本書に語られる「神秘学」は、学術的・体系的なものでなく、エピソード的なものであって、本書を読んで「神秘学」の何かがわかるというものでもないが、私が非常に興味を持ったのは本書に横溢する80年代の雰囲気そのものである。
21世紀になって、オカルトはすっかり児戯に堕してしまったが、1970年代には(だったと思うが)米国やソ連は大まじめになって超能力の研究をしたり、LSDは本当に人間の精神を解放すると信じられたりもした。
70年代後半は現代の様々な学問が堅牢な体系を築いた時代でもあったと思う。一方で、「成長の限界」が認識されるなど、現代文明はこのままでいいのだろうか? という内省も促された時代でもある。そうした雰囲気の中で、既存の学問体系への反発、東洋思想(ZENなど)への接近、未だ科学で解かれない超能力への憧れ、LSDやドラッグによる「精神の解放」の強烈な体験、性の開放の進展などがないまぜになって、伝統的な西洋文明に対する挑戦が、西洋社会そのものによって草の根レベルから行われたのだ、という気がする。
今になってみると、どうして当時の人はこんな子供だましに引っかかったのだろう、という部分もある。しかし本書を読むと、子供だましどころかそっちの方が真理への近道と感じた当時の人たちの気持ちが少し分かる気がする。
大げさに言えば、「西洋文明」に抑圧されていた人間本来の力を解放するための新しい教義こそが、「神秘学」であり「オカルト」であり「LSD」だった。それら自体は、頼りない張りぼてだったかもしれないが、70年代から80年代にかけて文化の伏流水として確かに機能していたのだ。
本書は、著者が70年代後半から90年代初めに発表した神秘学にまつわる気軽な文章をまとめたものである。神秘学といっても、宗教的なそれについてはさほど触れられておらず、サブカルチャー的なものが中心だ。
第1部はオカルトについて。ヨーロッパで今(執筆当時)でも息づいている幽霊信仰とか、吸血鬼の話なんか割と面白い。
第2部の前半は著者なりのオカルト史。ベルクソンの霊的進化論など、思想史的なものからイルミナティの陰謀論の発祥まで、やや脈絡はないが興味深い。後半は数についての神秘思想。ピュタゴラス学派の考え方や数についての迷信(?)の紹介。
第3部は70年代のLSDを中心としたドラッグ文化や神秘的サブカルチャーの展望について。興隆と挫折を繰り返してきたLSDの申し子たち(例えばティモシー・リアリー)への挽歌。
本書に語られる「神秘学」は、学術的・体系的なものでなく、エピソード的なものであって、本書を読んで「神秘学」の何かがわかるというものでもないが、私が非常に興味を持ったのは本書に横溢する80年代の雰囲気そのものである。
21世紀になって、オカルトはすっかり児戯に堕してしまったが、1970年代には(だったと思うが)米国やソ連は大まじめになって超能力の研究をしたり、LSDは本当に人間の精神を解放すると信じられたりもした。
70年代後半は現代の様々な学問が堅牢な体系を築いた時代でもあったと思う。一方で、「成長の限界」が認識されるなど、現代文明はこのままでいいのだろうか? という内省も促された時代でもある。そうした雰囲気の中で、既存の学問体系への反発、東洋思想(ZENなど)への接近、未だ科学で解かれない超能力への憧れ、LSDやドラッグによる「精神の解放」の強烈な体験、性の開放の進展などがないまぜになって、伝統的な西洋文明に対する挑戦が、西洋社会そのものによって草の根レベルから行われたのだ、という気がする。
今になってみると、どうして当時の人はこんな子供だましに引っかかったのだろう、という部分もある。しかし本書を読むと、子供だましどころかそっちの方が真理への近道と感じた当時の人たちの気持ちが少し分かる気がする。
大げさに言えば、「西洋文明」に抑圧されていた人間本来の力を解放するための新しい教義こそが、「神秘学」であり「オカルト」であり「LSD」だった。それら自体は、頼りない張りぼてだったかもしれないが、70年代から80年代にかけて文化の伏流水として確かに機能していたのだ。
2017年4月22日土曜日
『島津重豪と薩摩の学問・文化—近世後期博物大名の視野と実践』 鈴木 彰・林 匡 編
島津重豪とその周辺に関する論文集。
幕末に薩摩藩が雄藩として活躍するその素地を作ったのが島津重豪である。長く薩摩藩の政務の中心にいた重豪の業績は多岐にわたるが、特筆すべきは各種の出版事業や学校の設立など文教政策である。
本書は、重豪の文教政策を柱の一つにして、重豪を取り巻く人々や薩摩の文化状況、そして琉球との繋がりまでを視野に、13の論文と4つのコラムによって構成されるものである。
その内容は、出版社のウェブサイトに掲示されているので詳述しないが、特に面白かった論文は松尾千歳による「広大院—島津家の婚姻政策」というもの。広大院とは将軍家斉に嫁いだ重豪の娘・茂姫のことで、将軍の御台所(正妻)は公家または摂家から迎えるのが通例だったところ、これは将軍家にとっても島津家にとっても異例の婚姻であった。
その背景には重豪の祖母である竹姫の存在もあるが、戦略的に実現したものというよりも、いろいろな偶然が重なって行われた結婚であった。しかしそれが及ぼした影響は甚大であり、外様大名が将軍の岳父となるという立場上の大転換は、薩摩藩の雄飛に一役買っているのである。もちろんこのことは篤姫にまで繋がっていく。そうしたことは聞きかじっていたものの、本論文はそのあたりの事情を丁寧に追っていて非常に面白かった。
ところで、本書を手に取ったのは、重豪と国学との繋がりはどうだったのだろうという興味からである。
平田篤胤は重豪をたびたび訪問しており、重豪は篤胤に「顕幽無敵道」という額を与えたことから国学に私淑していたと見なされることもあるが、一方では仏教への信仰も篤く、特に黄檗宗との関わりは深い。黄檗宗は禅宗の中でも最も中国的な宗派であるから、国学とは相容れない部分がある。
とはいえ、国学者・博物学者の白尾国柱を取り立てて『成形図説』という農業生物百科全書を編纂させたり、神代山稜を研究させたりといったこともしており、国学的な方向の業績があるのも確かである。一体、重豪は国学とどのように付き合ったのだろうか?
本書には、その疑問に直接答えるような論文はないのであるが、関連するいくつかの論文を総合して考えると、重豪は様々な分野に関心を寄せたため、国学もその中の一つとして学んだが、特にこれを重視するということもなかった、とまとめられると思う。
実際、薩摩藩から本居宣長の門人となっているのは日向国諸県郡高岡の横山尚謙、毛利勝作、有馬直右ヱ門の3人に限られるという(つまり薩摩・大隅の人間は一人も宣長の門人となっていない。これは九州では例外的)。少なくとも、宣長についてはさほど重視されていなかったのは事実であろう。
では問題の平田篤胤についてはどうか。明治に至るまで、薩摩藩からは数多くの藩士が平田国学の門人となっていた。篤胤と重豪が交流していたことを考えると、その源流は重豪の頃に求められそうである。とはいっても、重豪は組織的に国学を推進するということもなかったようだ。本書掲載の論文、永山修一「学者たちの交流」によれば、「少なくとも儒学・国学の面では外からの積極的な人材起用は不十分で、藩外からの評価は高いものとはならなかった」ということである。
おそらく、重豪自身は平田国学をさほど重んじていなかったのだろうと思う。蘭学や中国に大きな関心を持っていた重豪が、日本を極度に特殊化して偉大な国に仕立て上げる平田国学を好んだとは思えない。しかしながら、篤胤との個人的な繋がりもあってこれを無下にすることもなかった。それで結果的に、藩士たちが平田国学へと向かう素地が作られたのではないだろうか。
幕末に薩摩藩が雄藩として活躍するその素地を作ったのが島津重豪である。長く薩摩藩の政務の中心にいた重豪の業績は多岐にわたるが、特筆すべきは各種の出版事業や学校の設立など文教政策である。
本書は、重豪の文教政策を柱の一つにして、重豪を取り巻く人々や薩摩の文化状況、そして琉球との繋がりまでを視野に、13の論文と4つのコラムによって構成されるものである。
その内容は、出版社のウェブサイトに掲示されているので詳述しないが、特に面白かった論文は松尾千歳による「広大院—島津家の婚姻政策」というもの。広大院とは将軍家斉に嫁いだ重豪の娘・茂姫のことで、将軍の御台所(正妻)は公家または摂家から迎えるのが通例だったところ、これは将軍家にとっても島津家にとっても異例の婚姻であった。
その背景には重豪の祖母である竹姫の存在もあるが、戦略的に実現したものというよりも、いろいろな偶然が重なって行われた結婚であった。しかしそれが及ぼした影響は甚大であり、外様大名が将軍の岳父となるという立場上の大転換は、薩摩藩の雄飛に一役買っているのである。もちろんこのことは篤姫にまで繋がっていく。そうしたことは聞きかじっていたものの、本論文はそのあたりの事情を丁寧に追っていて非常に面白かった。
ところで、本書を手に取ったのは、重豪と国学との繋がりはどうだったのだろうという興味からである。
平田篤胤は重豪をたびたび訪問しており、重豪は篤胤に「顕幽無敵道」という額を与えたことから国学に私淑していたと見なされることもあるが、一方では仏教への信仰も篤く、特に黄檗宗との関わりは深い。黄檗宗は禅宗の中でも最も中国的な宗派であるから、国学とは相容れない部分がある。
とはいえ、国学者・博物学者の白尾国柱を取り立てて『成形図説』という農業生物百科全書を編纂させたり、神代山稜を研究させたりといったこともしており、国学的な方向の業績があるのも確かである。一体、重豪は国学とどのように付き合ったのだろうか?
本書には、その疑問に直接答えるような論文はないのであるが、関連するいくつかの論文を総合して考えると、重豪は様々な分野に関心を寄せたため、国学もその中の一つとして学んだが、特にこれを重視するということもなかった、とまとめられると思う。
実際、薩摩藩から本居宣長の門人となっているのは日向国諸県郡高岡の横山尚謙、毛利勝作、有馬直右ヱ門の3人に限られるという(つまり薩摩・大隅の人間は一人も宣長の門人となっていない。これは九州では例外的)。少なくとも、宣長についてはさほど重視されていなかったのは事実であろう。
では問題の平田篤胤についてはどうか。明治に至るまで、薩摩藩からは数多くの藩士が平田国学の門人となっていた。篤胤と重豪が交流していたことを考えると、その源流は重豪の頃に求められそうである。とはいっても、重豪は組織的に国学を推進するということもなかったようだ。本書掲載の論文、永山修一「学者たちの交流」によれば、「少なくとも儒学・国学の面では外からの積極的な人材起用は不十分で、藩外からの評価は高いものとはならなかった」ということである。
おそらく、重豪自身は平田国学をさほど重んじていなかったのだろうと思う。蘭学や中国に大きな関心を持っていた重豪が、日本を極度に特殊化して偉大な国に仕立て上げる平田国学を好んだとは思えない。しかしながら、篤胤との個人的な繋がりもあってこれを無下にすることもなかった。それで結果的に、藩士たちが平田国学へと向かう素地が作られたのではないだろうか。
2017年4月6日木曜日
『契沖の生涯』久松 潜一 著
江戸時代の国学者、契沖(けいちゅう)のコンパクトな伝記。
契沖といえば、江戸時代の国学者の中でも最も早く頭角を現した国学者の嚆矢とも言える人物であるが、本居宣長や平田篤胤に比べるとあまり知られていない。私も契沖の研究業績については多少知っているが、どんな人物であったのかよく知らなかったので手に取ったのが本書である。
没落しつつある武士の子として生まれた契沖は、11歳で出家し真言宗の僧侶となった。幼少の頃より抜群の記憶力だったようだ。13歳で高野山に入って約10年間仏道を修行した。この頃、快賢という僧侶について学んだが、この快賢が仏学のみならず神道や和学(日本古典文学)にも通じていて、このことが契沖を真言僧侶でありながら国学の道へ進ませた大きな要因であると見られる。23歳くらいの頃、契沖は高野山を下りて曼荼羅院という寺の実務を担当するようになった。
契沖は寺務をこなしながら、古典研究に励むようになる。そして彼は曼荼羅院を去り山寺にこもって修行したり、各地を放浪したりして30代を静かな研鑽の時代として過ごした。現実の人生に飽き果てた彼は、隠棲にも等しい生活をしながら、仏典漢籍の研究や悉曇(サンスクリット)学の研究を進めていったらしい。この頃に、彼は大阪は和泉の伏屋家へと寄寓したが、伏屋家には日本古典文学がたくさん蔵書されていた。日本紀などの国史、和歌、歌書といったものである。契沖はこれらを読破し、やがて日本古典文学の研究を極めていくことになる。
契沖は39歳で大阪の妙法寺という寺の住職となり、ここに身を落ち着けた。契沖としては、俗務に携わることは本意ではなかったかもしれないが、この頃にはすっかり家運が傾いていて、母や兄を養って行かなくてはならないという事情もあったようである。
ところで曼荼羅院時代の下河辺長流との出会いが、契沖の研究人生には大きな影響があった。徳川光圀は下河辺に万葉集の注釈書を執筆するよう依頼していたものの、下河辺は病気のためこの仕事が果たせず交流が深かった契沖を紹介。契沖は求めに応じて主著となる画期的な万葉研究書『万葉代匠記』を完成させ、光圀から白銀千両と絹30匹という当時としては異例な褒美をもらった。
しかしその褒美は貧しい人に施したという。光圀からはこの他にも生活支援も受けていたようである。契沖としては、そうした支援を受けることは心苦しかったが生活のためやむを得なかったようだ。『万葉代匠記』を完成させた後、父母の最期も看取って身軽になった契沖は、元禄の初め頃、妙法寺を去って大阪高津の圓珠庵に移った。ここでは寺の事務もなく、光圀からの援助も受けて悠々として学問に専念することができた。契沖が50代に入ったこの時代が、彼の学問の完成期に当たっていた。
契沖は控えめで謙虚な人柄だったらしい。本居宣長とは違って、弟子もほとんど取らなかった。契沖は天下の青年を指導しようというよりは、深く自己に沈潜して精神を陶冶していこうというタイプであった。そういう契沖が、圓珠庵で気心の知れた弟子たちに向かって行ったのが、万葉集講義であった。その研究の集大成となる万葉集講義を終えてほどなくしてから、契沖は62歳の生涯を閉じた。
本書は昭和17年が初版であり、かなり古いものではあるが割合に読みやすく、契沖の温かい人柄への愛情が伝わってくる好著である。ただし、あくまでも契沖の生涯を辿るという構成であるため、契沖の研究成果についてはほとんど何も述べられない。学者の人生を辿るのにその研究内容について触れないというのは、ちょっと無理があるのではないかという気もする。
そういう意味では物足りないが、契沖という人物を知るにはちょうどよい入り口の本。
契沖といえば、江戸時代の国学者の中でも最も早く頭角を現した国学者の嚆矢とも言える人物であるが、本居宣長や平田篤胤に比べるとあまり知られていない。私も契沖の研究業績については多少知っているが、どんな人物であったのかよく知らなかったので手に取ったのが本書である。
没落しつつある武士の子として生まれた契沖は、11歳で出家し真言宗の僧侶となった。幼少の頃より抜群の記憶力だったようだ。13歳で高野山に入って約10年間仏道を修行した。この頃、快賢という僧侶について学んだが、この快賢が仏学のみならず神道や和学(日本古典文学)にも通じていて、このことが契沖を真言僧侶でありながら国学の道へ進ませた大きな要因であると見られる。23歳くらいの頃、契沖は高野山を下りて曼荼羅院という寺の実務を担当するようになった。
契沖は寺務をこなしながら、古典研究に励むようになる。そして彼は曼荼羅院を去り山寺にこもって修行したり、各地を放浪したりして30代を静かな研鑽の時代として過ごした。現実の人生に飽き果てた彼は、隠棲にも等しい生活をしながら、仏典漢籍の研究や悉曇(サンスクリット)学の研究を進めていったらしい。この頃に、彼は大阪は和泉の伏屋家へと寄寓したが、伏屋家には日本古典文学がたくさん蔵書されていた。日本紀などの国史、和歌、歌書といったものである。契沖はこれらを読破し、やがて日本古典文学の研究を極めていくことになる。
契沖は39歳で大阪の妙法寺という寺の住職となり、ここに身を落ち着けた。契沖としては、俗務に携わることは本意ではなかったかもしれないが、この頃にはすっかり家運が傾いていて、母や兄を養って行かなくてはならないという事情もあったようである。
ところで曼荼羅院時代の下河辺長流との出会いが、契沖の研究人生には大きな影響があった。徳川光圀は下河辺に万葉集の注釈書を執筆するよう依頼していたものの、下河辺は病気のためこの仕事が果たせず交流が深かった契沖を紹介。契沖は求めに応じて主著となる画期的な万葉研究書『万葉代匠記』を完成させ、光圀から白銀千両と絹30匹という当時としては異例な褒美をもらった。
しかしその褒美は貧しい人に施したという。光圀からはこの他にも生活支援も受けていたようである。契沖としては、そうした支援を受けることは心苦しかったが生活のためやむを得なかったようだ。『万葉代匠記』を完成させた後、父母の最期も看取って身軽になった契沖は、元禄の初め頃、妙法寺を去って大阪高津の圓珠庵に移った。ここでは寺の事務もなく、光圀からの援助も受けて悠々として学問に専念することができた。契沖が50代に入ったこの時代が、彼の学問の完成期に当たっていた。
契沖は控えめで謙虚な人柄だったらしい。本居宣長とは違って、弟子もほとんど取らなかった。契沖は天下の青年を指導しようというよりは、深く自己に沈潜して精神を陶冶していこうというタイプであった。そういう契沖が、圓珠庵で気心の知れた弟子たちに向かって行ったのが、万葉集講義であった。その研究の集大成となる万葉集講義を終えてほどなくしてから、契沖は62歳の生涯を閉じた。
本書は昭和17年が初版であり、かなり古いものではあるが割合に読みやすく、契沖の温かい人柄への愛情が伝わってくる好著である。ただし、あくまでも契沖の生涯を辿るという構成であるため、契沖の研究成果についてはほとんど何も述べられない。学者の人生を辿るのにその研究内容について触れないというのは、ちょっと無理があるのではないかという気もする。
そういう意味では物足りないが、契沖という人物を知るにはちょうどよい入り口の本。
2017年3月26日日曜日
『知識の灯台―古代アレクサンドリア図書館の物語』デレク・フラワー著、柴田 和雄 訳
古代アレクサンドリア図書館にまつわる人々についてエッセイ風に語る本。
数々の伝説に彩られた古代アレクサンドリア図書館。その蔵書数は定かではないが、古代社会においては世界最大だったと思われる。併設の学術施設(ムーセイオン)とともに、古代社会における知の中心として数々の学者や文化人が文明の精華を生みだした。
その失われた図書館を再建しようというプロジェクトが20世紀の終わりに動き出し、エジプト政府とユネスコとの共同事業として、かつてアレクサンドリア図書館があったとされる場所に2001年に再建された。
本書は、それを記念してエジプト出身の著述家・テレビ局キャスターであるデレク・フラワーがアレクサンドリア図書館にまつわる人々についてまとめた本である。
内容は、図書館そのものというよりも学者・文化人の紹介がメインで、紹介されている数も多いのでそれぞれの項目の記載は簡潔であり、体系的というよりエピソード的である。
本書を買ったのは、古代アレクサンドリア図書館がどんなものであったのか、ということに関心を持ってのことであったから、これはちょっと期待はずれだった。
しかし驚いたのは、新アレクサンドリア図書館の約2億ドルという建設費。本書では厖大な建設費用として紹介されていたが、世界の知の中心を再建するという野心的な目標を達成するための建物と最初の蔵書が約2億ドル、つまり200億円程度で済んでしまうというのは格安ではないか。
日本で考えると、東京五輪の費用が何兆円、リニア新幹線が何兆円、原発の廃炉費用が何兆円とか言われているが、世界の知の中心の再建、というには大げさにしても文化発展の基礎となる大図書館をたった何百億円で設立できるとしたら、そういうことにお金を使った方がどんなにか有意義だろう、と思われた。
ところで、本書でアレクサンドリアで活躍した学者を、数学者や医学者も含めて「アレクサンドリア学派」と呼んでいるが、これは正確な用語法なのだろうか。アレクサンドリア学派というと文法・文献学の学派のことかと思っていたので気になった。ジャーナリストの著作であるから学問的に厳密でないことは仕方ないのかもしれないが。
古代アレクサンドリア図書館のことについては説明は少ないが、古代の知をつくった人々について気軽に読める本。
数々の伝説に彩られた古代アレクサンドリア図書館。その蔵書数は定かではないが、古代社会においては世界最大だったと思われる。併設の学術施設(ムーセイオン)とともに、古代社会における知の中心として数々の学者や文化人が文明の精華を生みだした。
その失われた図書館を再建しようというプロジェクトが20世紀の終わりに動き出し、エジプト政府とユネスコとの共同事業として、かつてアレクサンドリア図書館があったとされる場所に2001年に再建された。
本書は、それを記念してエジプト出身の著述家・テレビ局キャスターであるデレク・フラワーがアレクサンドリア図書館にまつわる人々についてまとめた本である。
内容は、図書館そのものというよりも学者・文化人の紹介がメインで、紹介されている数も多いのでそれぞれの項目の記載は簡潔であり、体系的というよりエピソード的である。
本書を買ったのは、古代アレクサンドリア図書館がどんなものであったのか、ということに関心を持ってのことであったから、これはちょっと期待はずれだった。
しかし驚いたのは、新アレクサンドリア図書館の約2億ドルという建設費。本書では厖大な建設費用として紹介されていたが、世界の知の中心を再建するという野心的な目標を達成するための建物と最初の蔵書が約2億ドル、つまり200億円程度で済んでしまうというのは格安ではないか。
日本で考えると、東京五輪の費用が何兆円、リニア新幹線が何兆円、原発の廃炉費用が何兆円とか言われているが、世界の知の中心の再建、というには大げさにしても文化発展の基礎となる大図書館をたった何百億円で設立できるとしたら、そういうことにお金を使った方がどんなにか有意義だろう、と思われた。
ところで、本書でアレクサンドリアで活躍した学者を、数学者や医学者も含めて「アレクサンドリア学派」と呼んでいるが、これは正確な用語法なのだろうか。アレクサンドリア学派というと文法・文献学の学派のことかと思っていたので気になった。ジャーナリストの著作であるから学問的に厳密でないことは仕方ないのかもしれないが。
古代アレクサンドリア図書館のことについては説明は少ないが、古代の知をつくった人々について気軽に読める本。
2017年3月21日火曜日
『島津重豪』芳 即正 著
薩摩藩が雄飛する基礎をつくった型破りの藩主、島津重豪(しげひで)の初の本格的評伝。
重豪の人生は決して順調な出発だったとはいえない。産まれた時に母を亡くし、また父も11歳にして亡くした。しかも薩摩藩ではこのころ数代病身の藩主が続いており、先々代の藩主は若くして病死し藩政は停滞していた。しかも先代藩主(父)も若くして急遽病死したという事情から、彼は僅か11歳という若さで藩主になったのである。
若い重豪は貪欲に知識を吸収した。侍読(じどく)となったのは室鳩巣(むろ・きゅうそう)の学派の儒者たち。山田有雄や児玉実門である。重豪は儒者を重用し、たくさんの書籍を購入したり、郡山遜志には藩主心得の書ともいうべき『君道』を編纂させた(1769年)。
しかし重豪は書斎の人ではなかった。唐船が漂着していると聞けば見学に行くなど、機会を捉えて外国の見聞を広めた。長崎では帰化中国人が創建した4つの寺とオランダ商館にも訪問し、特にオランダ商館長ヘンミー、その後任ズーフとは親交を深めている。重豪はオランダ商館を通じてオランダ文物の収集にも努めた。閉鎖的で遅れていた日本の端っこの地、鹿児島で、重豪は世界に目を開いていた。
そんな重豪にとっては、鹿児島の遅れた社会が気にくわない。期待した成果は上げられなかったが、重豪は鹿児島の風俗矯正にも力を入れた。また、乱暴だった鹿児島の士族たちに文治主義を徹底させた。まだ戦国の遺風が残っていた鹿児島の士族社会を、平和な時代に適した官僚的なシステムへと組み替えていったのである。さらに、他国人の出入りを自由化した。商業振興のための方策だった。
重豪の治世に光るのは文教政策である。藩士の教育施設である造士館・演武館を設立し、医学院と薬園もつくった。ついで薩摩藩独自の暦を作成・研究する明時館を創建した。この明時館は天文観測施設を備えており別名「天文館」ともいうが、これが後の繁華街天文館の名の起こりである。
さらに各種の図書編纂事業、研究事業も行った。20代で着手し半世紀以上を費やした中国の口語辞典『南山俗語考』、藩の正史である『島津国史』、国学者の白尾国柱に命じた神代山稜の研究、その白尾らによる農業生物の巨大な百科全書とも言うべき『成形図説』、南西諸島の薬草の薬効について中国の学者に問い合わせたものをまとめた『質問本草』、中国帰りの琉球客に中国の事情を自らインタビューした記録である『琉客談記』、晩年になって自らまとめた鳥類事典『鳥名便覧』など多岐にわたる。また、重豪の命であるとは明確でないながら、重豪に仕えた石塚崔高が磯永周経と公刊した『円球万国地海全図』は、高橋景保が地球図を公刊するまでは我が国最大の世界図であった。
重豪は各種の開花政策を精力的に進め、43歳の若さで隠居した。娘の茂姫は将軍家斉の御台所(正妻)となって重豪は将軍外戚となり、隠居屋敷があった高輪で書籍編纂など文化事業に一層力を入れた。
ところが、重豪を継いだ藩主・斉宜(なりのぶ)は近志録党と呼ばれる一党を重用して一種の揺り戻し政策を実施。重豪の開明・拡大路線から一転して保守・緊縮路線へと藩政を転換させた。これに重豪は激怒し、藩法で厳禁されている党類を結んだという廉で一党を粛清。切腹13名、遠島25名を含む111名もの大量処分であり、近世薩摩藩史上最大の政変であった(近志録崩れ)。
こうして重豪は、次期藩主斉興(なりおき)の藩政後見となり表舞台に返り咲く。しかしこの頃には藩の財政も限界に近づき重豪自身が緊縮路線を実施。調所広郷(ずしょ・ひろさと)を重用して財政改革を強行した。文政末年(1830年)には、藩の借金(藩債)の額は500万両にも達していた。この巨額の借金の原因が、重豪の積極的な開明・拡大路線にあると言われるのであるが、著者の問題意識は、本当にこの借金は重豪が元兇なのであろうか。ということである。
実は私も、本書を手に取った興味は、果たしてこのような巨額の借金をどうやって借りたのだろうか? ということだった。この頃の薩摩藩の経常収入はせいぜい20万両弱である。その20倍以上もの借金は、そもそも普通は借りることすらできない。いくら重豪が「下馬将軍」と渾名されるほどの影響力があったにしても、商人がこのような返済される見込みのないお金を貸すものだろうか?
この疑問に対して、著者は文政年間に大阪で藩財務を担当した新納時升(にいろ・ときのり)の証言を取り上げて考究していく。結論を言えば、この500万両の借金は、重豪がつくったものではなく、重豪治世が終わってから、藩財政の悪化が露見したためにまともなところから金が借りられなくなり、高利で金を借りるしかなくなってその利子が雪だるま式に増えてできたものだ、ということができる。
その証左の一つが藩債の推移を表したこの図(p.208)。それまでも毎年の赤字経営ではあったが、文政年間(重豪は隠居後)に急に借金が激増している。普通の経営をしていたら、このような急激な借金の増え方はしない。
実は、文政に先立つ文化10年秋頃、薩摩藩では徳政令(借金踏み倒し)を行っているのである。これで商人たちからの信用がガタ落ちして金を貸して貰えなくなった。しょうがないので、特定の豪商には藩財政の帳簿を見せて信用して貰おうとしたが、今まで大藩だと思って金を貸していたのにその家計は火の車だ、ということがわかってしまい、信用を増すどころかかえって底を見透かされる結果になった。
そこでしょうがなく牙儈(すあい・仲買人)の手を借りることになり、彼らに有利な条件で藩の商材の売買を任す代わりに高利もやむなく借金をするようになったのである。そのため僅か10年あまりで借金は5倍以上に膨らみ、藩財政は逼迫の度合いを一層増していた。
重豪に重用された調所広郷はこれを打開するため様々な財政改革を実施するが、そのハイライトである500万両の借金踏み倒し(正確には、借金の証文を無利子250年分割払いに勝手に書き換えた事件)は、この借金が正当な条件によるものではなく牙儈の姦計と高利による不当なものであったことを逆手に取った、一種のしっぺ返しだったのだろうと著者は考える。私自身、500万両もの借金の証文が勝手に書き換えられると大変な混乱や暴動が起こるのではないか、なぜ穏便に事は済んだのか、と今まで疑問であったが、債主たる牙儈たちには後ろ暗いことがあって、公に訴え出られない理由があったのだろうと得心がいった。
重豪は、後進的だった薩摩藩を幕末には日本をリードさせる西南の雄藩に変えたきっかけを作った。ひ孫の斉彬は、その開明的な手腕を引き継いでさらに産業振興事業にも取り組んでいるが、重豪が斉彬に与えた影響は非常に大きいだろう。鹿児島の幕末史を研究する上では、重豪をその出発点におかなければならないと強く感じさせられた。
一次資料に基づいてわかりやすくまとめられた島津重豪のコンパクトな伝記。
【関連書籍】
『島津重豪と薩摩の学問・文化—近世後期博物大名の視野と実践』 鈴木 彰・林 匡 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/04/blog-post_22.html
島津重豪とその周辺に関する論文集。
重豪の人生は決して順調な出発だったとはいえない。産まれた時に母を亡くし、また父も11歳にして亡くした。しかも薩摩藩ではこのころ数代病身の藩主が続いており、先々代の藩主は若くして病死し藩政は停滞していた。しかも先代藩主(父)も若くして急遽病死したという事情から、彼は僅か11歳という若さで藩主になったのである。
若い重豪は貪欲に知識を吸収した。侍読(じどく)となったのは室鳩巣(むろ・きゅうそう)の学派の儒者たち。山田有雄や児玉実門である。重豪は儒者を重用し、たくさんの書籍を購入したり、郡山遜志には藩主心得の書ともいうべき『君道』を編纂させた(1769年)。
しかし重豪は書斎の人ではなかった。唐船が漂着していると聞けば見学に行くなど、機会を捉えて外国の見聞を広めた。長崎では帰化中国人が創建した4つの寺とオランダ商館にも訪問し、特にオランダ商館長ヘンミー、その後任ズーフとは親交を深めている。重豪はオランダ商館を通じてオランダ文物の収集にも努めた。閉鎖的で遅れていた日本の端っこの地、鹿児島で、重豪は世界に目を開いていた。
そんな重豪にとっては、鹿児島の遅れた社会が気にくわない。期待した成果は上げられなかったが、重豪は鹿児島の風俗矯正にも力を入れた。また、乱暴だった鹿児島の士族たちに文治主義を徹底させた。まだ戦国の遺風が残っていた鹿児島の士族社会を、平和な時代に適した官僚的なシステムへと組み替えていったのである。さらに、他国人の出入りを自由化した。商業振興のための方策だった。
重豪の治世に光るのは文教政策である。藩士の教育施設である造士館・演武館を設立し、医学院と薬園もつくった。ついで薩摩藩独自の暦を作成・研究する明時館を創建した。この明時館は天文観測施設を備えており別名「天文館」ともいうが、これが後の繁華街天文館の名の起こりである。
さらに各種の図書編纂事業、研究事業も行った。20代で着手し半世紀以上を費やした中国の口語辞典『南山俗語考』、藩の正史である『島津国史』、国学者の白尾国柱に命じた神代山稜の研究、その白尾らによる農業生物の巨大な百科全書とも言うべき『成形図説』、南西諸島の薬草の薬効について中国の学者に問い合わせたものをまとめた『質問本草』、中国帰りの琉球客に中国の事情を自らインタビューした記録である『琉客談記』、晩年になって自らまとめた鳥類事典『鳥名便覧』など多岐にわたる。また、重豪の命であるとは明確でないながら、重豪に仕えた石塚崔高が磯永周経と公刊した『円球万国地海全図』は、高橋景保が地球図を公刊するまでは我が国最大の世界図であった。
重豪は各種の開花政策を精力的に進め、43歳の若さで隠居した。娘の茂姫は将軍家斉の御台所(正妻)となって重豪は将軍外戚となり、隠居屋敷があった高輪で書籍編纂など文化事業に一層力を入れた。
ところが、重豪を継いだ藩主・斉宜(なりのぶ)は近志録党と呼ばれる一党を重用して一種の揺り戻し政策を実施。重豪の開明・拡大路線から一転して保守・緊縮路線へと藩政を転換させた。これに重豪は激怒し、藩法で厳禁されている党類を結んだという廉で一党を粛清。切腹13名、遠島25名を含む111名もの大量処分であり、近世薩摩藩史上最大の政変であった(近志録崩れ)。
こうして重豪は、次期藩主斉興(なりおき)の藩政後見となり表舞台に返り咲く。しかしこの頃には藩の財政も限界に近づき重豪自身が緊縮路線を実施。調所広郷(ずしょ・ひろさと)を重用して財政改革を強行した。文政末年(1830年)には、藩の借金(藩債)の額は500万両にも達していた。この巨額の借金の原因が、重豪の積極的な開明・拡大路線にあると言われるのであるが、著者の問題意識は、本当にこの借金は重豪が元兇なのであろうか。ということである。
実は私も、本書を手に取った興味は、果たしてこのような巨額の借金をどうやって借りたのだろうか? ということだった。この頃の薩摩藩の経常収入はせいぜい20万両弱である。その20倍以上もの借金は、そもそも普通は借りることすらできない。いくら重豪が「下馬将軍」と渾名されるほどの影響力があったにしても、商人がこのような返済される見込みのないお金を貸すものだろうか?
この疑問に対して、著者は文政年間に大阪で藩財務を担当した新納時升(にいろ・ときのり)の証言を取り上げて考究していく。結論を言えば、この500万両の借金は、重豪がつくったものではなく、重豪治世が終わってから、藩財政の悪化が露見したためにまともなところから金が借りられなくなり、高利で金を借りるしかなくなってその利子が雪だるま式に増えてできたものだ、ということができる。
その証左の一つが藩債の推移を表したこの図(p.208)。それまでも毎年の赤字経営ではあったが、文政年間(重豪は隠居後)に急に借金が激増している。普通の経営をしていたら、このような急激な借金の増え方はしない。
実は、文政に先立つ文化10年秋頃、薩摩藩では徳政令(借金踏み倒し)を行っているのである。これで商人たちからの信用がガタ落ちして金を貸して貰えなくなった。しょうがないので、特定の豪商には藩財政の帳簿を見せて信用して貰おうとしたが、今まで大藩だと思って金を貸していたのにその家計は火の車だ、ということがわかってしまい、信用を増すどころかかえって底を見透かされる結果になった。
そこでしょうがなく牙儈(すあい・仲買人)の手を借りることになり、彼らに有利な条件で藩の商材の売買を任す代わりに高利もやむなく借金をするようになったのである。そのため僅か10年あまりで借金は5倍以上に膨らみ、藩財政は逼迫の度合いを一層増していた。
重豪に重用された調所広郷はこれを打開するため様々な財政改革を実施するが、そのハイライトである500万両の借金踏み倒し(正確には、借金の証文を無利子250年分割払いに勝手に書き換えた事件)は、この借金が正当な条件によるものではなく牙儈の姦計と高利による不当なものであったことを逆手に取った、一種のしっぺ返しだったのだろうと著者は考える。私自身、500万両もの借金の証文が勝手に書き換えられると大変な混乱や暴動が起こるのではないか、なぜ穏便に事は済んだのか、と今まで疑問であったが、債主たる牙儈たちには後ろ暗いことがあって、公に訴え出られない理由があったのだろうと得心がいった。
重豪は、後進的だった薩摩藩を幕末には日本をリードさせる西南の雄藩に変えたきっかけを作った。ひ孫の斉彬は、その開明的な手腕を引き継いでさらに産業振興事業にも取り組んでいるが、重豪が斉彬に与えた影響は非常に大きいだろう。鹿児島の幕末史を研究する上では、重豪をその出発点におかなければならないと強く感じさせられた。
一次資料に基づいてわかりやすくまとめられた島津重豪のコンパクトな伝記。
【関連書籍】
『島津重豪と薩摩の学問・文化—近世後期博物大名の視野と実践』 鈴木 彰・林 匡 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/04/blog-post_22.html
島津重豪とその周辺に関する論文集。
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