2017年3月21日火曜日

『島津重豪』芳 即正 著

薩摩藩が雄飛する基礎をつくった型破りの藩主、島津重豪(しげひで)の初の本格的評伝。

重豪の人生は決して順調な出発だったとはいえない。産まれた時に母を亡くし、また父も11歳にして亡くした。しかも薩摩藩ではこのころ数代病身の藩主が続いており、先々代の藩主は若くして病死し藩政は停滞していた。しかも先代藩主(父)も若くして急遽病死したという事情から、彼は僅か11歳という若さで藩主になったのである。

若い重豪は貪欲に知識を吸収した。侍読(じどく)となったのは室鳩巣(むろ・きゅうそう)の学派の儒者たち。山田有雄や児玉実門である。重豪は儒者を重用し、たくさんの書籍を購入したり、郡山遜志には藩主心得の書ともいうべき『君道』を編纂させた(1769年)。
 
しかし重豪は書斎の人ではなかった。唐船が漂着していると聞けば見学に行くなど、機会を捉えて外国の見聞を広めた。長崎では帰化中国人が創建した4つの寺とオランダ商館にも訪問し、特にオランダ商館長ヘンミー、その後任ズーフとは親交を深めている。重豪はオランダ商館を通じてオランダ文物の収集にも努めた。閉鎖的で遅れていた日本の端っこの地、鹿児島で、重豪は世界に目を開いていた。

そんな重豪にとっては、鹿児島の遅れた社会が気にくわない。期待した成果は上げられなかったが、重豪は鹿児島の風俗矯正にも力を入れた。また、乱暴だった鹿児島の士族たちに文治主義を徹底させた。まだ戦国の遺風が残っていた鹿児島の士族社会を、平和な時代に適した官僚的なシステムへと組み替えていったのである。さらに、他国人の出入りを自由化した。商業振興のための方策だった。

重豪の治世に光るのは文教政策である。藩士の教育施設である造士館・演武館を設立し、医学院と薬園もつくった。ついで薩摩藩独自の暦を作成・研究する明時館を創建した。この明時館は天文観測施設を備えており別名「天文館」ともいうが、これが後の繁華街天文館の名の起こりである。

さらに各種の図書編纂事業、研究事業も行った。20代で着手し半世紀以上を費やした中国の口語辞典『南山俗語考』、藩の正史である『島津国史』、国学者の白尾国柱に命じた神代山稜の研究、その白尾らによる農業生物の巨大な百科全書とも言うべき『成形図説』、南西諸島の薬草の薬効について中国の学者に問い合わせたものをまとめた『質問本草』、中国帰りの琉球客に中国の事情を自らインタビューした記録である『琉客談記』、晩年になって自らまとめた鳥類事典『鳥名便覧』など多岐にわたる。また、重豪の命であるとは明確でないながら、重豪に仕えた石塚崔高が磯永周経と公刊した『円球万国地海全図』は、高橋景保が地球図を公刊するまでは我が国最大の世界図であった。

重豪は各種の開花政策を精力的に進め、43歳の若さで隠居した。娘の茂姫は将軍家斉の御台所(正妻)となって重豪は将軍外戚となり、隠居屋敷があった高輪で書籍編纂など文化事業に一層力を入れた。

ところが、重豪を継いだ藩主・斉宜(なりのぶ)は近志録党と呼ばれる一党を重用して一種の揺り戻し政策を実施。重豪の開明・拡大路線から一転して保守・緊縮路線へと藩政を転換させた。これに重豪は激怒し、藩法で厳禁されている党類を結んだという廉で一党を粛清。切腹13名、遠島25名を含む111名もの大量処分であり、近世薩摩藩史上最大の政変であった(近志録崩れ)。

こうして重豪は、次期藩主斉興(なりおき)の藩政後見となり表舞台に返り咲く。しかしこの頃には藩の財政も限界に近づき重豪自身が緊縮路線を実施。調所広郷(ずしょ・ひろさと)を重用して財政改革を強行した。文政末年(1830年)には、藩の借金(藩債)の額は500万両にも達していた。この巨額の借金の原因が、重豪の積極的な開明・拡大路線にあると言われるのであるが、著者の問題意識は、本当にこの借金は重豪が元兇なのであろうか。ということである。

実は私も、本書を手に取った興味は、果たしてこのような巨額の借金をどうやって借りたのだろうか? ということだった。この頃の薩摩藩の経常収入はせいぜい20万両弱である。その20倍以上もの借金は、そもそも普通は借りることすらできない。いくら重豪が「下馬将軍」と渾名されるほどの影響力があったにしても、商人がこのような返済される見込みのないお金を貸すものだろうか?

この疑問に対して、著者は文政年間に大阪で藩財務を担当した新納時升(にいろ・ときのり)の証言を取り上げて考究していく。結論を言えば、この500万両の借金は、重豪がつくったものではなく、重豪治世が終わってから、藩財政の悪化が露見したためにまともなところから金が借りられなくなり、高利で金を借りるしかなくなってその利子が雪だるま式に増えてできたものだ、ということができる。

その証左の一つが藩債の推移を表したこの図(p.208)。それまでも毎年の赤字経営ではあったが、文政年間(重豪は隠居後)に急に借金が激増している。普通の経営をしていたら、このような急激な借金の増え方はしない。

実は、文政に先立つ文化10年秋頃、薩摩藩では徳政令(借金踏み倒し)を行っているのである。これで商人たちからの信用がガタ落ちして金を貸して貰えなくなった。しょうがないので、特定の豪商には藩財政の帳簿を見せて信用して貰おうとしたが、今まで大藩だと思って金を貸していたのにその家計は火の車だ、ということがわかってしまい、信用を増すどころかかえって底を見透かされる結果になった。

そこでしょうがなく牙儈(すあい・仲買人)の手を借りることになり、彼らに有利な条件で藩の商材の売買を任す代わりに高利もやむなく借金をするようになったのである。そのため僅か10年あまりで借金は5倍以上に膨らみ、藩財政は逼迫の度合いを一層増していた。

重豪に重用された調所広郷はこれを打開するため様々な財政改革を実施するが、そのハイライトである500万両の借金踏み倒し(正確には、借金の証文を無利子250年分割払いに勝手に書き換えた事件)は、この借金が正当な条件によるものではなく牙儈の姦計と高利による不当なものであったことを逆手に取った、一種のしっぺ返しだったのだろうと著者は考える。私自身、500万両もの借金の証文が勝手に書き換えられると大変な混乱や暴動が起こるのではないか、なぜ穏便に事は済んだのか、と今まで疑問であったが、債主たる牙儈たちには後ろ暗いことがあって、公に訴え出られない理由があったのだろうと得心がいった。

重豪は、後進的だった薩摩藩を幕末には日本をリードさせる西南の雄藩に変えたきっかけを作った。ひ孫の斉彬は、その開明的な手腕を引き継いでさらに産業振興事業にも取り組んでいるが、重豪が斉彬に与えた影響は非常に大きいだろう。鹿児島の幕末史を研究する上では、重豪をその出発点におかなければならないと強く感じさせられた。

一次資料に基づいてわかりやすくまとめられた島津重豪のコンパクトな伝記。

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