2017年3月13日月曜日

『江戸の本屋さん—近世文化史の側面』今田 洋三 著

江戸時代の出版・流通事情をまとめた本。

「これまでの江戸の文化研究といえば、作品の形式や内容や、作者・思想家についての研究ばかりで、作品を出版し、世の中に送り出し、作品と読者をむすびつける役割を果たす書物屋・出版業の人々について研究することがあまりにもおろそかではないのか」という問題意識から、著者は江戸時代に出版された本の奥付(本の最後にある著者や出版社が記載されたページ)を手当たり次第に捜索し、特別な記録が残されていない、出版業で働いていた人びとの姿を浮かび上がらせ、江戸時代の出版史としてまとめたのが本書である。

江戸初期の出版業の中心は京都である。寛永年間のころ(1620〜40年代)京都の町衆は大寺院と結んで仏典や儒書、日本の古典などを刊行するようになった。武士たちも、武力による統治から次第に文治主義へと移行してきて、行政官にふさわしい教養を身につけなくてはならなかった。この時代の出版業は、こうした特権階級の知識人たちと関係を結ぶことで成立した。こうして京都には「書林十哲」と呼ばれる10の大書商が現れた。

元禄期(1700年代前後)になると、大阪の書商が勃興してくる。当時京都には100軒以上本屋(出版社)があったが、大阪には30軒に満たなかった。しかしこの少数勢力が出版界に新風を入れた。井原西鶴の『好色一代男』を嚆矢とする浮世草子類、すなわち好色本である。『好色一代男』(1663年)の成功でこれに類する好色本がたくさん出版され、本は特権階級・知識階級のみが読むものではなく、大衆的な商品になっていった。

俳諧の本もたくさん出版された。そして都会だけでなく、おそらくは俳諧のネットワークを通じて農村にまで本は流通するようになる。本書に例示される豪農の「読書生活」は驚くべきものだ。田舎にいながら、書物の行商が頻繁に訪ねてきてたくさんの本を借りたり買ったりしている。かつては書商が特権階級と結びついていたのでさして宣伝の必要もなかったが、大衆向けの本が作られるようになると宣伝・流通の方もやらなくてはならない。それまで本が売られていなかったところへ積極的に切り込んでいく書商が現れるのである。江戸時代の農村にここまで知識の流通があったのかと蒙を啓かされる思いであった。

元禄時代の出版文化を象徴する存在に「八文字屋」がある。八文字屋は井原西鶴の成功の2匹目のナマズを狙ったような出版社で、とにかく売れる本をたくさん世に出した。その経営の特徴は、(1)庶民向け、(2)好色性、(3)実用性、(4)教訓性、(5)積極的な販売策、(6)稿本の積極的確保(売れる原稿を仕入れる)といったもので、要するに庶民にとって商品価値の高い本を積極的に販売する、ということである。八文字屋は一つの時代をつくったが、こうした特徴からその場しのぎ的な作品を残したに過ぎず、出版文化を発展させる力はなかった。それどころか、元禄文化をダメにしてしまうようなところすら内在していた。

一方、幕府の方でもこの新興の出版業については厳しい言論統制で臨んだ。既に寛文期(1660年代)にその規制は始まっている。時代が進むにつれ規制はどんどん厳しくなり、元禄の頃には「批判がましい言動をとる者は、あっという間に死刑に処せられ、三宅島・大島に流罪、島流しにする」というくらいになっていた。また幕府は書物屋に組合を作らせ、相互監視させるという策をとった。

享保の頃になると、江戸の書商も次第に形を整えてくる。最初は京都の書商の出店(でみせ)のような系列店が多かったのが、だんだんと江戸生え抜きの出版社の方が(両者抗争しつつ)中心になっていった。こうした江戸の出版文化を象徴する出来事が、杉田玄白の『解体新書』の出版(1775年)である。これを出版したのが江戸の書商を代表する須原屋市兵衛。須原屋市兵衛は、杉田玄白の他、平賀源内、森島中良ら田沼時代に活躍した一流の学者の作品、それも学問史上画期的な作品を矢継ぎ早に出版した。文化人や学者のパーソナルな交流から生まれた学問的成果を出版して公的な場面に送り込んでいく役割を市兵衛は果たしていた。

市兵衛は、学問的成果だけでなく、当時の農村の疲弊や社会の矛盾をえぐり出す『民間備荒録』といった本を採算を度外視して出版。さらに『三国通鑑図説』や『万国一器界万量総図』など世界地図・地理書をも刊行し、世界のありさまを日本人に知らしめようとした。しかし『三国通鑑図説』は幕府から絶版の処分にされ、罰金を払わされた。そして市兵衛の盟友・森島中良は松平定信の家臣に取り立てられ、在野の啓蒙勢力であった市兵衛らのサークルは瓦解させられた。田沼時代の江戸文化の結晶を社会に送り込んできた須原屋市兵衛は、急速に没落して版木も他の出版社に売り払い、誠に寂しい晩年を送ることになった。

須原屋市兵衛についで現れたのが、写楽を世に出したことで有名な「蔦重」こと蔦屋重三郎。重三郎は吉原に生まれ、ちょうど『解体新書』が出版される頃、吉原の案内書である『吉原細見』の出版権を手に入れ、『細見』の序文を一流の知識人に書いてもらい、積極的に販売するという手法で頭角を現した。重三郎は、町人と武士が一体となった江戸っ子文化の創出に、演出家的な役割を果たしつつ出版経営を行った。浄瑠璃本、黄表紙(絵付きの滑稽本)、狂歌本などを次々に出版し、しかも町人・武士といった身分にとらわれず一流の文人に依頼して高水準なものを生みだした。

さらに重三郎は、当局の政策を茶化す『文武二道万石通』といった時事を風刺する作品も世に送り出し大評判を得る。「蔦重」が時事に取材して黄表紙を成功させたことは当時の出版社を驚かせた。それまでの洒落本や狂歌本は売れたとしても所詮は「通」向けのもので流通量も限られていた。ところが重三郎の黄表紙は、いわば漫画本であるから大衆向けのものであった。こうして、江戸の識字層は一気に黄表紙や様々な「読書」へと引きずり込まれていったのである。

しかし重三郎の冒険も、やはり松平定信によって弾圧されることになる。松平定信は寛政2年(1790年)に出版取締りの触書を出した。要するに、幕府にとって都合の悪いことは出版できないという規制だ。重三郎は見せしめとして捉えられ、多額の罰金と刑罰を受けた。重三郎はそれでもめげずに、利益を度外視して写楽の絵を刊行したが、それが最後の出版文化への挑戦で、晩年は寂しく亡くなった。そうした晩年の蔦重の下で手代をしていたのが若き日の滝沢馬琴、寄宿していたのが十返舎一九である。

続く化政期に入ると、中下層の町人にまで文化の受容層が拡大して出版物の数は膨大となり出版文化は興隆の時を迎えたが、質的には停滞していた。そもそも言論統制がさらに厳しくなり、筆禍事件、禁書が頻発したため当たり障りのない本しか出せなくなった。そこで活躍したのが貸本屋だ。出版は難しくても、写本(書き写した本)なら草の根の活動であるため規制をかいくぐりやすい。この時代は貸本屋が「秘本」の流通を担った。貸本屋の店頭はなじみ客たちの文化サロンにもなった。 江戸だけで10万軒に及ぶ貸本屋があったという。

幕末期には、本の需要は地方にも拡大してくる。地方の本屋(出版社)は江戸の本屋と提携して本を出すようになった。幕末には、封建社会の動揺が切実な課題として地方にも迫ってきていた。こうした課題に対応するための本が求められるようになったし、寺子屋での教科書需要も大きくなってきていた。特に、天保の救荒対策のため武士層にかつてない書籍需要が生じたという。それは庶民としても同じで、寺子屋の増加に象徴されるように、この時期に読み書きの必要性を大きく感じるようになったようだ。危機を乗り切るためどうしたらいいか、そういう実用的な知識が書物に期待されるようになっていた。

学術・文化、そして近代的ジャーナリズムを育んだ江戸の出版文化は、厳しい統制によって停滞させられつつも明治維新を準備した。しかしいざ明治期に移ると、江戸時代までの書物屋は、明治の中頃までにほとんど没落し去ってしまった。新しい印刷技術や新聞を代表とする急テンポのジャーナリズムといった新しい時代の情報流通に対応できず、明治の新興出版業者との競争に負けてしまったのである。江戸幕府は、言論を弾圧した出版文化の敵役ではあったが、江戸の出版文化はやはり幕藩体制にその基盤を負っていた。敵対していた江戸幕府の滅亡と共に、江戸の書商たちが消え去ってしまったのは怖ろしい皮肉である。

本書は、そうした消え去った歴史を、奥付などの限られた原資料を基に1ピースずつ再構成した労作であり、江戸の出版文化の豊かさに驚かされるだけでなく、それを弾圧した幕府との対決と敗北、そしてその終焉までも一気に読ませる歴史絵巻でもある。

書商という文化の裏方から見る江戸の文化史。

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