2017年5月14日日曜日

『日本政治思想史[十七〜十九世紀]』渡辺 浩 著(その2)

江戸中期までの儒学の勃興と挫折を経て、本居宣長が登場する。宣長は古事記を研究して、神代からの歴史における日本人の優れた心根を称揚した。

日本人は、心もふるまいも素直で雅やかで、天下は穏やかに治まってきているから、中国のように煩わしく難しい社会制度など不要だというのだ。彼は和歌や王朝物語も研究し、そこに現れたはかない人情、雅な心こそが重要だと説いた。

宣長は、道理(道)は人の本性ではなく、むしろ虚飾だとする。儒学では、世界は秩序と規範によって治まるものとされるが、宣長は逆にそこから逸脱するものを「心のまこと」として重視した。彼は師と仰いだ賀茂真淵の考えを受けて、日本人には儒学による統治など必要ないのだと嘯いた。

こうして、過去の日本人を理想化し、そこへ復ることが宣長の目標となった。しかし宣長は儒学者たちと違って、社会の変革は目指さなかった。それどころか、むしろ社会に順応して平凡に生きることを選んだ。彼にとっては、今を古に「見立てて」生きることで、「古の大御代」を生きることができたのである。

「人の今日の行ひは、だだその時々の公の御定めを守り、世間の風儀に従ひ候が、即神道」なのだ。これはちょっと倒錯的な考えなのかもしれないが、雅やかではかない人情こそ至上であり、穏やかに天に従って生きる日本人を目標とする彼にとってみれば、たとえ俗悪なる政府だったとしても、それに反抗するような真似は日本人らしくないのである。

それに、日本は天皇を戴く特別な国なのだ。「本朝は、天照大御神の御本国、その皇統のしろしめす御国にて、万国の元本大宗なる御国」(!)だと宣長は言う。天皇は徳によってではなく、神の子孫であるという神聖性により国を治めている。であるから理屈を廃して、ただ恭しく御上に従えばよいというのである。

日本は、天皇ではなく将軍の統治する国ではないのか? との疑問も湧くが、実はこの宣長の考えは次第に実質化していった。宣長が常用した「皇国」という言葉が、速やかに普及していったことはその象徴である。朝廷の権限は別に強化されていっていないのにだ。

そもそも、幕府は形式上こそ天皇から任命されて統治を行っていたが、実際には朝廷の上に立っていた。徳川家康は「禁中並公家諸法度」を定めて朝廷の行動を制約している(これは一度も改正されない)。年号の改元すら、江戸の当初は天皇の即位ではなく将軍の即位に合わせて行われたし、形式的には朝廷が与えることとなっている官位(「従三位」など)も実際には幕府が自由に発令することができた。

ところが、幕末にかけて日本はにわかに「皇国」となっていく。それはなぜか。

その大きな要因に、幕府や武士たちの権威の低下があるという。江戸時代というといわゆる士農工商の身分制度があり、固定的な社会であったことが想像される。しかし実際には、百姓や町人は、定められた義務さへこなせばあとは自由だった。身分制度や家職制(イエごとに商売が決まっている)はあったものの、その中で努力すれば栄達は望めた。百姓ですら、意欲的に経営を行えば豪農となって、いわば経営者として暮らすことはできたのである。

だが武士は違った。予め定められた家格の中でしか人生を送ることはできなかった。どんなに優秀でも、無能な上司に従わざるを得なかったし、昇進の可能性もなかった。上級武士はいいとしても、下級武士にとっては飼い殺しにも等しい状態であった。それは構造的な問題でもあっただろう。もはや太平の世の中で武士は本質的に不要なのだ。いくら二本の刀を掲げてみても、その刀を振るう機会は一生やってこないのである。

その上、俸禄(給与)は十分に支払われなくなった。百姓は、自ら「御百姓」と称し、お殿様のかけがえのない領民であることを強調して、しばしば増税を阻んだ。下級武士は、誇りだけはあったが、貧乏で、権威もないという状態へ陥っていた。

「昔は町人の娘はとかく武士の妻になる事を好みけるゆゑ、御禁制にもなりたる程なるが、今は武家の妻女になる事などは風上にも嫌ひ、(中略)武家の風儀は無風流なりとて忌み嫌ひ」という状態だ。要するに、武士は貧乏なうえにダサくて、町人の娘にとってまっぴら御免だというのだ。武士は、町民の娘からすら軽んじられていた。

もはや、「御威光」は存在しなかった。江戸幕府にとっての唯一の支配の力であった「御威光」がなくなったら、あとは「禁裏(朝廷)からの大権委任」という形式論で統治の正統性を強調するしかない。社会的威信のなくなった武家は、公家の権威を利用したのだ。その依存は次第に深まり、やがて「公武合体」へと進んでいく。武家は、「公」の威を借りなければ日本を統治することができないほどに落ちぶれていったのである。そしてその裏返しとして、日本は「神国」であるとか、皇統の連続とかが強調され、国学が花開いていくのである。

こうした趨勢の中で、日本は「開国」を迎える。開国というと、まずは黒船に代表される外国からの軍事的圧力に屈したものだと考えがちであるが、著者によればそうではないという。

開国の前から漏れ伝えられてきた西洋の有様を調べると、どうも「道」の実践において西洋の方が勝っていると考えられた。西洋は、学問が盛んである、人を大事にする(儒学的に言えば「仁」)、政治制度が整っている、というようなことからだ。民主主義によって大統領を選ぶやり方は、中華古えの理想に近く(禅譲)、儒学者たちから誉め称えられた。ペリー来航のはるか前に、普遍妥当の「道」を信ずるがゆえに西洋をみとめ、「皇国」というプライドの裏側で、日本の統治に疑問を持つ態度が醸成されてもいた。

そういう西洋が、日本に開国を要求してきたのである。しかも軍事的に制圧するというような脅しではなく、補給をしたいとか、遭難者を送り届けたいとか、儒教的に言えば「礼」に基づく要求として、正々堂々と主張してきた。これに対して、猛々しい海防の戦術論や、夜郎自大の攘夷論も起こったが、この主張を真面目に受け取ると、相手の道理を認めざるを得ない。実際に、開国すべきか否か諮問された大名たちはそのように意見した。「開国」とは、軍事技術の脅威も背景にはあったが、それよりも普遍的に妥当する「道」に関する説得に出会い、倫理的・思想的な挑戦を受けた結果でもあったのである。

このように、本居宣長がことさら儒学を否定しようとしたほど、この頃は儒学が日本に浸透していたのだ。その結果、実力による制圧と土地の給付による主従関係(徳川と大名への服属)よりも、官位授与による君臣関係(天皇と臣民)こそ「義」だと往々信じられた。こうして、禁裏(朝廷)自身は派手な宣伝活動をしたわけでもないのに、どんどんその威光は高まっていった。一方で、禁裏自身には自ら独裁者となる気概はなかった。そのため、禁裏を担げばそれによって権力を握り、政局を動かせるという構造が成立した。これが明治維新を動かす公然たるルールになった。

こうして、江戸時代の矛盾を解消するべく明治維新が動き出した。それは特に、飼い殺しされてきた下級武士の鬱屈の解消だ。彼らは「立身出世」できる自由を欲していた。そしてその統治原理として、「公議輿論」が持ち出された。これは民主主義というよりも、「人心の居合」を秩序の条件とする儒学的な発想から、「衆議」「群議」によれという手続き論が支持された結果だ。よって、五箇条の御誓文の第一は、「万機公論に決すべし」となった。

しかしこの「公論」の重視は、ひとたび明治政府が確立するとそれ以上に育てられることはなかった。岩倉使節団が西洋の事情をつぶさに観察してみると、西洋文明の根幹にキリスト教があり、その信仰が社会の基盤となっていることに気づいた。そこで、伊藤博文らはキリスト教の代替物として「皇室」を臣民に崇拝させることで、国家を統合することを企図した。

福沢諭吉は、文明の根幹はキリスト教ではなく「独立の精神」だとしたし、ほとんど朱子学者であった中江兆民はルソーと孟子の一致を感じ、普遍的な「理義」にそれを求めたが、こうした民衆を鼓舞し内省を促す理論は十分に育たず、結局次の時代の大きな思潮は皇学へと収斂していくのである。

本書は、東京大学での講義を元にしたものであり、特に前半はいわゆる「名物教授」的な雰囲気が強い。つまりアクが強いのである。しかし中盤以降はその調子に慣れてくるからかほとんどエキサイティングとも言うべき迫力があり、江戸時代の儒学という地味なテーマが非常に面白く感じられる本である。

しかし、取り上げる思想に粗密があるからなのか、幕末をあれだけ騒がせた吉田松陰などは全く触れられていない。また、著者自身が後書きで述べているとおり平田篤胤も「扱うべくして扱えなかった」とされている。幕末の志士への影響力という点で言うと、宣長よりも篤胤の方が数段大きいような気がするが、どういう判断で篤胤には詳しく触れなかったのだろう。

そういう編集方針に対する疑問もあるにはあるが、とにかく平板になりがちな政治思想史を面白く書くという意味では成功している本であり、タイプは違うがマイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』を彷彿とさせた。

明治維新を理解する上での基礎となる日本儒学が辿った近世史を、深く面白く学べる本。

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