『梁塵秘抄』に基づいて書かれた詩集。
本書は、一応『梁塵秘抄』の現代語訳ということで販売されているが、実態としては翻案であり、ほぼ創作に近いものが多い。例えばこんな調子である。
【訳】
甘い言葉も やさしい嘘も
あなたの口から 聞きたいの
ほんとの愛など うそっぱち
いまの 夢だけ あればいい
【原歌】
狂言綺語のあやまちは 仏を讃(ほ)むるを種として 麁(あら)き言葉も如何なるも 第一義とかにぞ帰るなる
どうしてこんな超訳がなされているかというと、もともと『梁塵秘抄』というものは庶民の間での流行歌を収録したもので、「今様(いまよう)=当世風」の言葉の世界が展開されているものであるから、まじめくさった古典の翻訳ではなく、あえて今様の現代語訳にしようという意図があるのである。
私は、その意図には大変共感する。庶民の俗謡を表現するのに、韜晦な訳文を使うのはよくないと思う。しかし本書ではこの意図は十分成功しているとはいえない。というのは、著者の現代語訳は、今様というよりも昭和歌謡調、演歌調であり、どちらかというとレトロな、古くさい表現が多いのである。そして、原歌と比べてどうも「ありがち感」が増している。
つまり、『梁塵秘抄』の詩想を、ありがちな演歌型にはめて表現したような現代語訳が多い。『梁塵秘抄』への入り口として、こういう遊びが入った作品に親しむのもいいと思うが、肝心の現代語訳があまりよくないというのが根本的な問題である。
私が思うに、『梁塵秘抄』を現代詩に翻案するとすれば、演歌というよりヒップホップのようなものになぞらえる方がよい。試みに先ほどの歌を私が訳してみればこんな風だ。
【風狂訳】
うまいセリフ とびきりのライム でも
それ中身空っぽ! なんて言うなよ?
見かけだけクール てわけじゃないんだぜ
ほんとうはフール マジでクソまじめさ
神も 仏も 畏れる男
不器用なリリック でもわかってくれるだろ?
この歌の価値!
ちなみに原歌を少し解説すると、「無闇に飾り立てた言葉や小説・和歌の類は、仏教の立場からは過ちとされるが、その本意には仏への讃仰(今の言葉で言ったら「人間讃歌」かもしれない)があるわけで、それが乱暴な言葉や無理な言葉であっても、結局はその本意こそ重要で軽んずべきではない」というような意味であると思う。
この歌は、この俗謡集を編纂した後白河法皇のまさに衷心が仮託されたものである気がする。後白河法皇は、天皇・上皇の地位にありながら、当時の庶民の歌に惹かれてその練習に明け暮れた。ハイ・カルチャーが支配する宮中の中で、サブ・カルチャーを愛好していた変わり者だった。社会の主流派から軽んじられた俗な流行歌に狂い、最高の地位にありながら、名も無き歌人(うたびと)から歌を習った。後白河法皇の周りには、一種のサブカル・サークルができあがったが、彼ほどの熱意で庶民の歌を歌う人間は他になく、孤独もあったようである。
その後白河法皇が、何十年来聞き、習い、歌った歌を、せめて後の世に残しておこうと編纂したのがこの『梁塵秘抄』なのである。後白河法皇がいなかったら、決して残らなかったであろう、社会のはみ出しものたちの謡。陳腐な昭和歌謡の枠にはめてしまうのは、惜しいと思うのである。
2016年9月9日金曜日
2016年9月8日木曜日
『宗教を生みだす本能―進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド著、依田 卓巳 訳
宗教を進化の産物と見る視点から、宗教の来し方行く末について考える本。
著者は進化学の研究者でもないし、宗教学の専門家でもない。本書はジャーナリストである著者が、これまでの研究成果をまとめ、それに対する自らの考えを述べた本である(つまり著者自身の研究ではない)。
私は、宗教の進化心理学的考察については、本書でも参照されている主要な一般向け書籍を割合読んできた。例えば、パスカル・ボイヤー『神はなぜいるのか?』、ダニエル・C・デネット『解明された宗教』、スティーブン・ドーキンス『神は妄想である』、Marc Hauser "Moral Minds"、スティーブン・ピンカーの諸著作といったものだ。こうした書籍に既に目を通していれば、本書のようなジャーナリストがまとめた本を手に取る必要はないかもしれない。だが、素人には素人の慧眼というものもあるので、自らの理解を確認する意味も兼ねて本書を読んでみた。
本書は、概ね4つの内容から構成される。
第1に、宗教は進化の産物であることを論じる(第1〜3章)。すなわち、宗教行動は人間が恣意的に作った文化ではなく、生得的にプログラムされている行動であるということだ。宗教を持った集団はより生き残りやすかったため、宗教を持つ遺伝子はどんどん広まっていった。宗教には集団を結束させる力があり、宗教を持たない集団との戦闘においては、信心深い集団の方が有利だったのである。なぜなら宗教には、自己の利益を顧みないで組織的な行動を優越させる力があるからだ。
この部分は、既存研究のまとめがほとんどであるが、少し要約が過ぎて議論に丁寧さを欠くのが気になる。歯切れよく言おうとするあまり、未だ研究が煮詰まっていないことについても素人の独断を発揮している部分がある。例えば、宗教が進化の産物だとするのは今や通説だとしても、宗教を構成する行動全てが適応的(子孫を多く残せる)かどうかはまだ明らかではない。パスカル・ボイヤーは人間が神を認知するのは、人間の生得的な認知機構の誤作動や副作用であると考えるが、そうした考えを一蹴して、宗教行動の全てが進化的に獲得された、生き残りに有利なものだったと決めつけるのは粗い議論である。
この部分だけでなく全体として、素人の蛮勇というか、先行研究を大雑把にまとめて臆断するような粗い論調が目立つ。宗教の進化・変容というものは、まだ分かっていないことがとても多いので慎重に扱うべきものと私は思う。この部分だけで本1冊分くらい使いたいところである。
第2に、宗教に先立つものとして、音楽やトランスを伴う儀礼が進化したのではないかと論じる(第4、5章)。ここは少し面白いところで、私自身は音楽の発生を宗教と関連させて考えたことがなかった。確かに、音楽は宗教と密接な関係を持ち、その進化の黎明において宗教と共に発達したことはありそうなことである。トランスについては、ヒト以外の霊長類には集団で動きを同期させる(同じリズムに乗る)能力はないとして、なぜヒトでは集団でのリズム運動が発達したか、という考察から原始宗教におけるトランスの重要な役割を推測している。これらは概ね納得できる議論ではあるが、ここに提出された事例が少なすぎるので、悪く言えば床屋談義の域を出ていないようにも思われる。音楽については、リズムだけでなくメロディーや和声のことも考えると宗教との関連で全てを理解することはできないのは当然なので、もう少し広い視野で起源を研究すべきだろうと思った。先行研究を確認したいところである。
第3に、狩猟採集社会から定住社会へ、そして都市文明への社会進歩に応じて、どのように宗教が変容していったかを論じる(第6、7章)。ここは一種のケーススタディ(事例紹介)であり、 あまり理論的なことは述べられていない。しかも提出された事例も少ないので、著者の考える宗教の変容を語るために、恣意的に事例が選ばれているように感じる。特に、定住社会以降の宗教の変容については、ユダヤ、キリスト、イスラムという3大一神教を取り上げているが、このかなり特殊な宗教を事例の代表として持ってきたのはよくなかったと思う。
第7章は、ユダヤ教史、キリスト教史、イスラム教史の要約となっているが、その取り上げ方もあまり誠実なものではない。例えばキリスト教史については、随所にポール・ジョンソンの『キリスト教の2000年』が参照されているが、これはローマ史を繙くのに塩野七生の『ローマ人の物語』を参照するようなもので、学術的な態度としては疑問である。イスラム教史に至っては、ムハンマドは実在していなかった、という仮説をかなり重んじて述べており、無闇にセンセーショナルなことを言おうとしているだけではないかと感じた。
また、宗教が進化的な産物とするならば、最初の人類が既にそれを持っていたはずなので、全ての宗教はその祖宗教からの系統を描けるのだ、という仮説を述べている(つまり全ての宗教は遡るとある一つの宗教へとたどり着くという)が、これはちょっと先走り過ぎの議論である。遙かに研究が先行している言語ですら、全ての言語の祖語があったのかどうかということは未だ明らかでない。こういう議論は軽率であると思う。
第4に、宗教の発展を辿りつつ、社会機構にまつわる様々なことを論じる(第8〜12章)。道徳、取引(経済)、出生率の調整、天然資源の管理、戦闘、国家(アメリカの宗教事情)、そして宗教の未来について。この部分の議論はあまり深みのあるものではなく、それぞれ簡単に宗教との関わりが述べられているに過ぎない。我々は既に脱宗教化した世俗国家に生きているので、こうした社会機構の様々な面に宗教が深く関わっていたことを忘れがちであるが、現在でも宗教は大きな影響力を持っているんですよ、という主張である。ここについては、著者は随分気焔を上げて書いているが、別段新味のある内容でもないと思う。
全体として、専門家ではないから議論が浅くなりやすいのは仕方ないとしても、その浅い議論から断定的に述べる粗忽さが目に付いた。エピソードをいくつか紹介して、そこからすぐに結論に飛びつくようなところがあり、論理的に堅牢でない書物である。ジャーナリストはジャーナリストらしく、自らの見解はあまり述べないで、現在の研究の最前線を素直にまとめるだけでももっと充実した本が書けたのではないかと思う。そもそも、著者はジャーナリストでありながら、本書を書くために誰一人として取材していないようである。要するに、これは刊行資料を読んだだけでわかったつもりになり、自分の考えを付け足した本で、そのために著者の独善が修正されずそのまま書かれている。
また、文化の進化ということを考える際に重要なはずの「ミーム」の概念が全く提出されていないことは重大な問題だと思う。宗教がある程度適応的だったにしても、それが広まるには宗教を生みだす遺伝子が存在している必要はない。宗教がミーム(つまりそれを伝えていく文化的遺伝情報)によって伝わっていけば十分なのだ。ダニエル・C・デネットなどは、宗教は我々に寄生するミームを持つ、譬えればウイルスみたいな存在である、というようなことを述べていて、このアイデアは本書においても紹介する必要があったと思う。
いろいろ問題点を述べてきたが、一つだけ擁護するとすれば本書の内容はそれほど的外れではない。議論は粗忽で、同じことの繰り返しが多く、筆の運びは論理的繋がりが曖昧だが、書かれていることそのものは妥当なことが多い。進化生物学や宗教学者たちにもしっかり取材して書けば、かなり面白い本になったような気がする。
宗教の進化を探るという面白いテーマとそれなりの内容を持ちながら、書き方がマズい惜しい本。
著者は進化学の研究者でもないし、宗教学の専門家でもない。本書はジャーナリストである著者が、これまでの研究成果をまとめ、それに対する自らの考えを述べた本である(つまり著者自身の研究ではない)。
私は、宗教の進化心理学的考察については、本書でも参照されている主要な一般向け書籍を割合読んできた。例えば、パスカル・ボイヤー『神はなぜいるのか?』、ダニエル・C・デネット『解明された宗教』、スティーブン・ドーキンス『神は妄想である』、Marc Hauser "Moral Minds"、スティーブン・ピンカーの諸著作といったものだ。こうした書籍に既に目を通していれば、本書のようなジャーナリストがまとめた本を手に取る必要はないかもしれない。だが、素人には素人の慧眼というものもあるので、自らの理解を確認する意味も兼ねて本書を読んでみた。
本書は、概ね4つの内容から構成される。
第1に、宗教は進化の産物であることを論じる(第1〜3章)。すなわち、宗教行動は人間が恣意的に作った文化ではなく、生得的にプログラムされている行動であるということだ。宗教を持った集団はより生き残りやすかったため、宗教を持つ遺伝子はどんどん広まっていった。宗教には集団を結束させる力があり、宗教を持たない集団との戦闘においては、信心深い集団の方が有利だったのである。なぜなら宗教には、自己の利益を顧みないで組織的な行動を優越させる力があるからだ。
この部分は、既存研究のまとめがほとんどであるが、少し要約が過ぎて議論に丁寧さを欠くのが気になる。歯切れよく言おうとするあまり、未だ研究が煮詰まっていないことについても素人の独断を発揮している部分がある。例えば、宗教が進化の産物だとするのは今や通説だとしても、宗教を構成する行動全てが適応的(子孫を多く残せる)かどうかはまだ明らかではない。パスカル・ボイヤーは人間が神を認知するのは、人間の生得的な認知機構の誤作動や副作用であると考えるが、そうした考えを一蹴して、宗教行動の全てが進化的に獲得された、生き残りに有利なものだったと決めつけるのは粗い議論である。
この部分だけでなく全体として、素人の蛮勇というか、先行研究を大雑把にまとめて臆断するような粗い論調が目立つ。宗教の進化・変容というものは、まだ分かっていないことがとても多いので慎重に扱うべきものと私は思う。この部分だけで本1冊分くらい使いたいところである。
第2に、宗教に先立つものとして、音楽やトランスを伴う儀礼が進化したのではないかと論じる(第4、5章)。ここは少し面白いところで、私自身は音楽の発生を宗教と関連させて考えたことがなかった。確かに、音楽は宗教と密接な関係を持ち、その進化の黎明において宗教と共に発達したことはありそうなことである。トランスについては、ヒト以外の霊長類には集団で動きを同期させる(同じリズムに乗る)能力はないとして、なぜヒトでは集団でのリズム運動が発達したか、という考察から原始宗教におけるトランスの重要な役割を推測している。これらは概ね納得できる議論ではあるが、ここに提出された事例が少なすぎるので、悪く言えば床屋談義の域を出ていないようにも思われる。音楽については、リズムだけでなくメロディーや和声のことも考えると宗教との関連で全てを理解することはできないのは当然なので、もう少し広い視野で起源を研究すべきだろうと思った。先行研究を確認したいところである。
第3に、狩猟採集社会から定住社会へ、そして都市文明への社会進歩に応じて、どのように宗教が変容していったかを論じる(第6、7章)。ここは一種のケーススタディ(事例紹介)であり、 あまり理論的なことは述べられていない。しかも提出された事例も少ないので、著者の考える宗教の変容を語るために、恣意的に事例が選ばれているように感じる。特に、定住社会以降の宗教の変容については、ユダヤ、キリスト、イスラムという3大一神教を取り上げているが、このかなり特殊な宗教を事例の代表として持ってきたのはよくなかったと思う。
第7章は、ユダヤ教史、キリスト教史、イスラム教史の要約となっているが、その取り上げ方もあまり誠実なものではない。例えばキリスト教史については、随所にポール・ジョンソンの『キリスト教の2000年』が参照されているが、これはローマ史を繙くのに塩野七生の『ローマ人の物語』を参照するようなもので、学術的な態度としては疑問である。イスラム教史に至っては、ムハンマドは実在していなかった、という仮説をかなり重んじて述べており、無闇にセンセーショナルなことを言おうとしているだけではないかと感じた。
また、宗教が進化的な産物とするならば、最初の人類が既にそれを持っていたはずなので、全ての宗教はその祖宗教からの系統を描けるのだ、という仮説を述べている(つまり全ての宗教は遡るとある一つの宗教へとたどり着くという)が、これはちょっと先走り過ぎの議論である。遙かに研究が先行している言語ですら、全ての言語の祖語があったのかどうかということは未だ明らかでない。こういう議論は軽率であると思う。
第4に、宗教の発展を辿りつつ、社会機構にまつわる様々なことを論じる(第8〜12章)。道徳、取引(経済)、出生率の調整、天然資源の管理、戦闘、国家(アメリカの宗教事情)、そして宗教の未来について。この部分の議論はあまり深みのあるものではなく、それぞれ簡単に宗教との関わりが述べられているに過ぎない。我々は既に脱宗教化した世俗国家に生きているので、こうした社会機構の様々な面に宗教が深く関わっていたことを忘れがちであるが、現在でも宗教は大きな影響力を持っているんですよ、という主張である。ここについては、著者は随分気焔を上げて書いているが、別段新味のある内容でもないと思う。
全体として、専門家ではないから議論が浅くなりやすいのは仕方ないとしても、その浅い議論から断定的に述べる粗忽さが目に付いた。エピソードをいくつか紹介して、そこからすぐに結論に飛びつくようなところがあり、論理的に堅牢でない書物である。ジャーナリストはジャーナリストらしく、自らの見解はあまり述べないで、現在の研究の最前線を素直にまとめるだけでももっと充実した本が書けたのではないかと思う。そもそも、著者はジャーナリストでありながら、本書を書くために誰一人として取材していないようである。要するに、これは刊行資料を読んだだけでわかったつもりになり、自分の考えを付け足した本で、そのために著者の独善が修正されずそのまま書かれている。
また、文化の進化ということを考える際に重要なはずの「ミーム」の概念が全く提出されていないことは重大な問題だと思う。宗教がある程度適応的だったにしても、それが広まるには宗教を生みだす遺伝子が存在している必要はない。宗教がミーム(つまりそれを伝えていく文化的遺伝情報)によって伝わっていけば十分なのだ。ダニエル・C・デネットなどは、宗教は我々に寄生するミームを持つ、譬えればウイルスみたいな存在である、というようなことを述べていて、このアイデアは本書においても紹介する必要があったと思う。
いろいろ問題点を述べてきたが、一つだけ擁護するとすれば本書の内容はそれほど的外れではない。議論は粗忽で、同じことの繰り返しが多く、筆の運びは論理的繋がりが曖昧だが、書かれていることそのものは妥当なことが多い。進化生物学や宗教学者たちにもしっかり取材して書けば、かなり面白い本になったような気がする。
宗教の進化を探るという面白いテーマとそれなりの内容を持ちながら、書き方がマズい惜しい本。
2016年9月2日金曜日
『ガラスの道』由水 常雄 著
ガラス工芸がどこで生まれ、どのように伝播し、どう発展したかを世界史的に述べる本。
本書は、ガラス工芸家でありガラスの研究者である由水 常雄が、十数年の研究の結果をまとめ、世界で初めての試みとして「ガラスの世界史」を概説したものである。ガラス探求のためプラハのカレル大学(大学院)に留学したり、中近東にフィールドワークをしている著者らしく、概説とはいえ調査は綿密を極め、通説のつぎはぎではなく、通説を批判的に検証しつつ糾合し、堅牢な歴史を紡いでいる。
ガラスという人類史上初めての人工素材が誕生したのは、メソポタミアにおいてだったらしい。紀元前2200年くらいのことで、遅れて紀元前15世紀あたりにエジプトでもガラス技術が花開いた。その後、ガラスは「文化伝播の露払い」として、文明交渉の歩みとともにユーラシア大陸に広がっていった。
特にその技術が大きく発展したのがローマ帝国において。それまでは「コア・ガラス」といって、ガラス器の製作は粘土などで作った土台に融かしたガラスを巻き付ける方法によって行われていたが、ローマ帝国の地中海沿岸において現代のガラス器製法と同じ「吹きガラス」技法が開発される。これが1世紀のことで、これによりガラス器の大量生産が可能になり、また技法も格段に進歩して、それまでの百年で作られる量のガラス器がわずか1年で作られた、というほどガラス文化が花開いた。これがユーラシア大陸を席巻したローマン・グラスである。2、3世紀には、「あらゆる種類のガラス器が作られ、超豪華なガラス器から、ごく普通の日常ガラス器、飲食器や容器のほかに、窓ガラス、モザイク、鏡、装飾品などが作られていた」。
ローマ帝国が滅亡しても、ガラス文化の中心は中近東でありつづけた。ローマン・グラスを受け継いで、完成されたデザインと大量生産という、現代的なガラス製造によってユーラシア大陸中にガラス器を輸出したのが、ササーン朝ペルシアである。これまでササーン・グラスはそのデザインの少なさなどから実態が不明であったが、ササーン・グラスの製造体制を近代的工場生産システムと推測したのは著者の創見である。
ササーン・グラスといえば、我が国の正倉院宝物にあるガラス器の一群が思い起こされるが、著者は水も漏らさぬ厳密な考証によって、これらが検証によらず古代から伝来したササーン・グラスとされてきただけで、実際には来歴が詳らかでない品がかなり混入していることを明らかにする。この正倉院宝物の調査は、追って『正倉院ガラスは何を語るか - 白瑠璃碗に古代世界が見える』と『正倉院の謎』でもさらに展開されている。
ササーン・グラスの後に発展したのがビザンチン・グラスである。ローマン・グラスの伝統を受け継ぎつつも、イスラーム文化にも影響されて育ったビザンチン・グラスは、従来その名のみ高い一方で実態は不明であった。それが近年考古資料の出土などによってだんだんと明らかになってきているとのことである。しかし、本書ではイスラーム世界でのガラス工芸については簡単に触れられているのみで、詳細は今後の研究が俟たれる。
そして近世に入ると、有名なベネチアン・グラスが勃興してくる。 シリアやビザンチン帝国からガラスの技術を学んだベネチアは、国家財政を支える重要な輸出品としてガラス器の製造を始め、東方のガラス産地が戦乱によって潰滅することで世界の一大ガラス供給地となり巨利を得る。しかしその裏には、その技術を流出させぬようガラス工人をムラノ島という島に一人残らず幽閉し、貴族のように厚遇しながらも奴隷のように働かせるという非人道的政策があった。14世紀から15世紀、こうして国家の力によりガラス技術は研ぎ澄まされていった。
一方で、ベネチアとは真逆のやり方でヨーロッパにガラス技術を伝播していったのが同じイタリアのアルターレという小都市。アルターレにはガラスの同業者組合があり、ヨーロッパ各地にこの組合員を派遣して技術を広めていったのである。ベネチアと比べれば知名度はないが、ヨーロッパのガラス工芸の発展に寄与した面からいえば、この「アルタリスト」の活躍はベネチアよりも遙かに重要だ。
しかし技術的には、国家政策によってガラス製造を推し進めたベネチアはアルターレの敵ではなかった。各国はベネチアのガラス器を競って買い求め、大きな鏡やシャンデリアなどの高価なガラス器の購入はその財政を傾けるほどであった。そのため各国は、ベネチアにスパイを送り込んでムラノ島に幽閉されているガラス工人たちの引き抜きを試み、逆にベネチアの隠密はそれを防禦するという激烈な産業スパイ戦が繰り広げられた。
このスパイ戦は意外な展開によって終わりをみせた。16世紀になって、ベネチアのガラス製造法が本になって出版されだしたのである。そして1612年、フィレンツェにおいてアントニオ・ネリがガラス工芸の集大成とも言うべき『ガラス製造法』を出版すると、ヨーロッパにはベネチアの進んだガラス技術が一気に伝播していった。ネリの『ガラス製造法』は、我が国でも翻訳・出版されており、世界各国にガラス技術を伝えていったガラス史上もっとも基本的な著作となった。
これ以降のガラスの歴史は、本書ではごく簡単に描かれるに過ぎない。ボヘミアン・グラスとかアール・ヌーボーのガラスについては専門の著作も多く、概説としては深入りするには及ばないとの判断であろう。
ところで、ユーラシア大陸の東へと伝わっていったガラスについては不思議な運命が待っていた。中国には早くも周代にはガラスが伝わっていたらしい。そして戦国時代にはトンボ玉が流行し、しかもその製造も始まっていた。だが古代において中国では粘土の低いガラスが製造されていて、ガラスといえば鋳作(型に鋳れて作る)するものとの観念ができあがってしまった。これにより、吹きガラスの技法が開発された後も、この観念に阻害されて吹きガラスをうまくこなせなかったほどの悪影響を与えたとのことだ。
さらに、古代中国では、象嵌ガラスなど装飾にはよくガラスは使われたが、不思議なことにガラス器はほとんど作られなかった。一方で、窓ガラスは唐の武帝が使ったという記録があり、これは事実とすれば地中海沿岸の諸都市に先んじており世界初のことだった。その形状は不明であるが、漢〜晋代には確実に窓ガラスが使われており、このような古代に窓ガラスを使うことが理想の建物の条件ともなっていたことは驚異的なことである。
このように、地中海世界とは違う形でガラス文化を発展させた中国文明であったが、その後はガラス器はほとんど発展しなかった。ユーラシア大陸中に広まったローマン・グラスも、さほど中国人の関心を引かなかったらしい。同じガラスの技術である釉薬を使う陶磁器は絢爛豪華に発展したのに、なぜガラス器は閑却されたのかよく分からない。中国人がガラスに再び熱を入れるのはずっと後代の清代になってからで、玉器を模したレリーフ(カメオ)・グラスである乾隆グラスの開発を待たねばならない。技術的にも困難であり、ガラス界にかつてなかったデザインで登場した乾隆グラスは世界的に影響を与え、乾隆グラスの工房自体は消失して廃絶してしまったが、アール・ヌーボーのカメオ・グラスの登場に繋がっていく。
中国とは違った形でガラス文化を受容したのが朝鮮半島の新羅で、著者は出土資料を丹念に紐解き、大量のローマン・グラスが中国を経由せずに新羅に輸入されていたことを突き止める。新羅は中国文化よりも遠方のローマ文化を積極的に導入し、国力の源泉としていたことがガラス器から見えてくるという。この考えは後に出版された『ローマ文化王国—新羅』でさらに詳細かつ大胆に展開されている。
本書は、一部専門的な記載もあるが概ね読みやすく、かつ情報は正確で考証が綿密であり、ガラスの歴史書として第一級の価値を持っている。著者は、本書が処女作というからビックリである。本書によって示された着想は著者のその後の著作によってさらに花開かされており、そういう意味では処女作にふさわしい、由水 常雄という人物を知る上でもキーになる本であろう。
あえて難点を言えば、ガラス工芸の歴史であるため、工芸ではないガラス器(例えば実験器具や医療器具など)についてはほとんど記載がないことと、イスラーム・グラスについてはかなり簡潔な記載しかないことである。私は、ガラスの実験器具こそが中世において化学が発展した主な要因ではないかと思っており、イスラーム・グラスやそれを受け継いだベネチアン・グラスから錬金術が展開されたことは象徴的である。未だ詳細が明らかになっていないイスラーム・グラスの実態が解明されるにつれ、こうした研究が進むことを期待したい。
文明の精華であるガラス器を通じて、文明の伝播・交渉を考えさせる素晴らしい本。
本書は、ガラス工芸家でありガラスの研究者である由水 常雄が、十数年の研究の結果をまとめ、世界で初めての試みとして「ガラスの世界史」を概説したものである。ガラス探求のためプラハのカレル大学(大学院)に留学したり、中近東にフィールドワークをしている著者らしく、概説とはいえ調査は綿密を極め、通説のつぎはぎではなく、通説を批判的に検証しつつ糾合し、堅牢な歴史を紡いでいる。
ガラスという人類史上初めての人工素材が誕生したのは、メソポタミアにおいてだったらしい。紀元前2200年くらいのことで、遅れて紀元前15世紀あたりにエジプトでもガラス技術が花開いた。その後、ガラスは「文化伝播の露払い」として、文明交渉の歩みとともにユーラシア大陸に広がっていった。
特にその技術が大きく発展したのがローマ帝国において。それまでは「コア・ガラス」といって、ガラス器の製作は粘土などで作った土台に融かしたガラスを巻き付ける方法によって行われていたが、ローマ帝国の地中海沿岸において現代のガラス器製法と同じ「吹きガラス」技法が開発される。これが1世紀のことで、これによりガラス器の大量生産が可能になり、また技法も格段に進歩して、それまでの百年で作られる量のガラス器がわずか1年で作られた、というほどガラス文化が花開いた。これがユーラシア大陸を席巻したローマン・グラスである。2、3世紀には、「あらゆる種類のガラス器が作られ、超豪華なガラス器から、ごく普通の日常ガラス器、飲食器や容器のほかに、窓ガラス、モザイク、鏡、装飾品などが作られていた」。
ローマ帝国が滅亡しても、ガラス文化の中心は中近東でありつづけた。ローマン・グラスを受け継いで、完成されたデザインと大量生産という、現代的なガラス製造によってユーラシア大陸中にガラス器を輸出したのが、ササーン朝ペルシアである。これまでササーン・グラスはそのデザインの少なさなどから実態が不明であったが、ササーン・グラスの製造体制を近代的工場生産システムと推測したのは著者の創見である。
ササーン・グラスといえば、我が国の正倉院宝物にあるガラス器の一群が思い起こされるが、著者は水も漏らさぬ厳密な考証によって、これらが検証によらず古代から伝来したササーン・グラスとされてきただけで、実際には来歴が詳らかでない品がかなり混入していることを明らかにする。この正倉院宝物の調査は、追って『正倉院ガラスは何を語るか - 白瑠璃碗に古代世界が見える』と『正倉院の謎』でもさらに展開されている。
ササーン・グラスの後に発展したのがビザンチン・グラスである。ローマン・グラスの伝統を受け継ぎつつも、イスラーム文化にも影響されて育ったビザンチン・グラスは、従来その名のみ高い一方で実態は不明であった。それが近年考古資料の出土などによってだんだんと明らかになってきているとのことである。しかし、本書ではイスラーム世界でのガラス工芸については簡単に触れられているのみで、詳細は今後の研究が俟たれる。
そして近世に入ると、有名なベネチアン・グラスが勃興してくる。 シリアやビザンチン帝国からガラスの技術を学んだベネチアは、国家財政を支える重要な輸出品としてガラス器の製造を始め、東方のガラス産地が戦乱によって潰滅することで世界の一大ガラス供給地となり巨利を得る。しかしその裏には、その技術を流出させぬようガラス工人をムラノ島という島に一人残らず幽閉し、貴族のように厚遇しながらも奴隷のように働かせるという非人道的政策があった。14世紀から15世紀、こうして国家の力によりガラス技術は研ぎ澄まされていった。
一方で、ベネチアとは真逆のやり方でヨーロッパにガラス技術を伝播していったのが同じイタリアのアルターレという小都市。アルターレにはガラスの同業者組合があり、ヨーロッパ各地にこの組合員を派遣して技術を広めていったのである。ベネチアと比べれば知名度はないが、ヨーロッパのガラス工芸の発展に寄与した面からいえば、この「アルタリスト」の活躍はベネチアよりも遙かに重要だ。
しかし技術的には、国家政策によってガラス製造を推し進めたベネチアはアルターレの敵ではなかった。各国はベネチアのガラス器を競って買い求め、大きな鏡やシャンデリアなどの高価なガラス器の購入はその財政を傾けるほどであった。そのため各国は、ベネチアにスパイを送り込んでムラノ島に幽閉されているガラス工人たちの引き抜きを試み、逆にベネチアの隠密はそれを防禦するという激烈な産業スパイ戦が繰り広げられた。
このスパイ戦は意外な展開によって終わりをみせた。16世紀になって、ベネチアのガラス製造法が本になって出版されだしたのである。そして1612年、フィレンツェにおいてアントニオ・ネリがガラス工芸の集大成とも言うべき『ガラス製造法』を出版すると、ヨーロッパにはベネチアの進んだガラス技術が一気に伝播していった。ネリの『ガラス製造法』は、我が国でも翻訳・出版されており、世界各国にガラス技術を伝えていったガラス史上もっとも基本的な著作となった。
これ以降のガラスの歴史は、本書ではごく簡単に描かれるに過ぎない。ボヘミアン・グラスとかアール・ヌーボーのガラスについては専門の著作も多く、概説としては深入りするには及ばないとの判断であろう。
ところで、ユーラシア大陸の東へと伝わっていったガラスについては不思議な運命が待っていた。中国には早くも周代にはガラスが伝わっていたらしい。そして戦国時代にはトンボ玉が流行し、しかもその製造も始まっていた。だが古代において中国では粘土の低いガラスが製造されていて、ガラスといえば鋳作(型に鋳れて作る)するものとの観念ができあがってしまった。これにより、吹きガラスの技法が開発された後も、この観念に阻害されて吹きガラスをうまくこなせなかったほどの悪影響を与えたとのことだ。
さらに、古代中国では、象嵌ガラスなど装飾にはよくガラスは使われたが、不思議なことにガラス器はほとんど作られなかった。一方で、窓ガラスは唐の武帝が使ったという記録があり、これは事実とすれば地中海沿岸の諸都市に先んじており世界初のことだった。その形状は不明であるが、漢〜晋代には確実に窓ガラスが使われており、このような古代に窓ガラスを使うことが理想の建物の条件ともなっていたことは驚異的なことである。
このように、地中海世界とは違う形でガラス文化を発展させた中国文明であったが、その後はガラス器はほとんど発展しなかった。ユーラシア大陸中に広まったローマン・グラスも、さほど中国人の関心を引かなかったらしい。同じガラスの技術である釉薬を使う陶磁器は絢爛豪華に発展したのに、なぜガラス器は閑却されたのかよく分からない。中国人がガラスに再び熱を入れるのはずっと後代の清代になってからで、玉器を模したレリーフ(カメオ)・グラスである乾隆グラスの開発を待たねばならない。技術的にも困難であり、ガラス界にかつてなかったデザインで登場した乾隆グラスは世界的に影響を与え、乾隆グラスの工房自体は消失して廃絶してしまったが、アール・ヌーボーのカメオ・グラスの登場に繋がっていく。
中国とは違った形でガラス文化を受容したのが朝鮮半島の新羅で、著者は出土資料を丹念に紐解き、大量のローマン・グラスが中国を経由せずに新羅に輸入されていたことを突き止める。新羅は中国文化よりも遠方のローマ文化を積極的に導入し、国力の源泉としていたことがガラス器から見えてくるという。この考えは後に出版された『ローマ文化王国—新羅』でさらに詳細かつ大胆に展開されている。
本書は、一部専門的な記載もあるが概ね読みやすく、かつ情報は正確で考証が綿密であり、ガラスの歴史書として第一級の価値を持っている。著者は、本書が処女作というからビックリである。本書によって示された着想は著者のその後の著作によってさらに花開かされており、そういう意味では処女作にふさわしい、由水 常雄という人物を知る上でもキーになる本であろう。
あえて難点を言えば、ガラス工芸の歴史であるため、工芸ではないガラス器(例えば実験器具や医療器具など)についてはほとんど記載がないことと、イスラーム・グラスについてはかなり簡潔な記載しかないことである。私は、ガラスの実験器具こそが中世において化学が発展した主な要因ではないかと思っており、イスラーム・グラスやそれを受け継いだベネチアン・グラスから錬金術が展開されたことは象徴的である。未だ詳細が明らかになっていないイスラーム・グラスの実態が解明されるにつれ、こうした研究が進むことを期待したい。
文明の精華であるガラス器を通じて、文明の伝播・交渉を考えさせる素晴らしい本。
2016年8月18日木曜日
『ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書』石光 真人 編著
幼い時に会津戦争によって人生を狂わされ、塗炭の苦しみの中で生き抜き、やがて軍人として大成した柴五郎の前半生の自伝。
会津は、明治維新において一方的に朝敵とされ、会津からみれば言いがかりのような理由によって薩長連合軍に蹂躙された。城下は火の海と化して藩士たちは戦いに倒れ、婦女は生きて辱めを受けぬため、また兵糧を徒に費やさぬためとして次々に自刃、そして幸か不幸か生き残った者たちにも過酷な運命が待ち構えていた。
敗北した会津藩はかろうじて恩赦され下北半島に移封となり、新たに斗南藩となって藩士は集団移住するが、そこは冬は氷に閉ざされる荒れ地であった。会津藩は30万石弱あったが、斗南藩はたったの3万石、しかもそれは帳簿上だけのことで、実態は僅か7000石ほどしか生産高がなく、移封というよりも、ほとんど追放・流罪に等しい境遇だったのである。本書の主人公柴五郎は、武士の子として育てられながら、この時代の濁流に呑み込まれて零落し、下北半島の地で乞食同然の暮らしを強いられる。それでもどうにかして再起を果たそうと足掻いたのは、ひとえに薩長、特に薩摩への恨みをなんとかして雪がなければならないという、強烈な復讐心だった。五郎の祖母、母、姉妹は、会津戦争において自刃し兄弟は離散、この過酷な運命への反抗こそが五郎の前半生だ。
本書は、薩長への強い復讐心を抱きつつ、明治の混乱を生き抜いたこの青年の目を通して、敗者からの維新史を綴るものである。時代としては、明治維新から西南戦争までのほぼ10年を中心としており、西南戦争に兄たちが参戦することで薩摩へと一矢報いたところで擱筆されている。
しかし、その内容は単に薩長への恨み辛みだけではない。むしろ、書こうと思えば恨み辛みはもっとたくさん書けたはずなのに、幼い自分が経験したことを素直に記録しておこうという真面目な記述が多い。自らの人生に託して薩長の悪逆を糾弾するという部分はなく、あくまで経験に即した事実だけが述べられている。
私は鹿児島に育ったが、会津戦争のことは学校教育でほとんど教えられていないと記憶している。逆に会津の方では、会津の人の運命を狂わせ、多くの人の命を奪った会津戦争をかなりしっかり伝えている印象があり、会津の人の持つ薩摩人への敵意にはビックリすることがある。本書を読むまで、その敵意にピンと来ていなかったが、ようやく私はその敵意の理由に合点がいった。
我々が知っている明治維新史は、勝者の作った歴史でしかなかったのであり、敗者の側からの歴史は、また違ったものだったのだ。しかし、本書は勝者がなしてきた歴史の修飾を糾弾するものでもない。本当に淡々と、自らの経験を述べるものであって、だからこそ一層、踏みにじられたたくさんの会津人を思い起こさせる。記録に残らなかった、過酷な人生の数々が、本書の裏に見え隠れする。
本書は、柴五郎が80歳を超えてようやく書けるようになった苦難の前半生であり、そうした機会を持たなかった多くの会津人の不運の一片(ひとひら)でも記録し、失われた魂の菩提を弔うためにものされたものであろう。
鹿児島県人には必読と思える、会津人の鎮魂の書。
会津は、明治維新において一方的に朝敵とされ、会津からみれば言いがかりのような理由によって薩長連合軍に蹂躙された。城下は火の海と化して藩士たちは戦いに倒れ、婦女は生きて辱めを受けぬため、また兵糧を徒に費やさぬためとして次々に自刃、そして幸か不幸か生き残った者たちにも過酷な運命が待ち構えていた。
敗北した会津藩はかろうじて恩赦され下北半島に移封となり、新たに斗南藩となって藩士は集団移住するが、そこは冬は氷に閉ざされる荒れ地であった。会津藩は30万石弱あったが、斗南藩はたったの3万石、しかもそれは帳簿上だけのことで、実態は僅か7000石ほどしか生産高がなく、移封というよりも、ほとんど追放・流罪に等しい境遇だったのである。本書の主人公柴五郎は、武士の子として育てられながら、この時代の濁流に呑み込まれて零落し、下北半島の地で乞食同然の暮らしを強いられる。それでもどうにかして再起を果たそうと足掻いたのは、ひとえに薩長、特に薩摩への恨みをなんとかして雪がなければならないという、強烈な復讐心だった。五郎の祖母、母、姉妹は、会津戦争において自刃し兄弟は離散、この過酷な運命への反抗こそが五郎の前半生だ。
本書は、薩長への強い復讐心を抱きつつ、明治の混乱を生き抜いたこの青年の目を通して、敗者からの維新史を綴るものである。時代としては、明治維新から西南戦争までのほぼ10年を中心としており、西南戦争に兄たちが参戦することで薩摩へと一矢報いたところで擱筆されている。
しかし、その内容は単に薩長への恨み辛みだけではない。むしろ、書こうと思えば恨み辛みはもっとたくさん書けたはずなのに、幼い自分が経験したことを素直に記録しておこうという真面目な記述が多い。自らの人生に託して薩長の悪逆を糾弾するという部分はなく、あくまで経験に即した事実だけが述べられている。
私は鹿児島に育ったが、会津戦争のことは学校教育でほとんど教えられていないと記憶している。逆に会津の方では、会津の人の運命を狂わせ、多くの人の命を奪った会津戦争をかなりしっかり伝えている印象があり、会津の人の持つ薩摩人への敵意にはビックリすることがある。本書を読むまで、その敵意にピンと来ていなかったが、ようやく私はその敵意の理由に合点がいった。
我々が知っている明治維新史は、勝者の作った歴史でしかなかったのであり、敗者の側からの歴史は、また違ったものだったのだ。しかし、本書は勝者がなしてきた歴史の修飾を糾弾するものでもない。本当に淡々と、自らの経験を述べるものであって、だからこそ一層、踏みにじられたたくさんの会津人を思い起こさせる。記録に残らなかった、過酷な人生の数々が、本書の裏に見え隠れする。
本書は、柴五郎が80歳を超えてようやく書けるようになった苦難の前半生であり、そうした機会を持たなかった多くの会津人の不運の一片(ひとひら)でも記録し、失われた魂の菩提を弔うためにものされたものであろう。
鹿児島県人には必読と思える、会津人の鎮魂の書。
2016年8月14日日曜日
『バガヴァッド・ギーターの世界―ヒンドゥー教の救済』上村 勝彦 著
ヒンドゥー教最高の聖典「バガヴァッド・ギーター」の解説書。
インドに古い大叙事詩「マハーバーラタ」というのがあって、これは複雑で複合的なシナリオと厖大な登場人物によって非常にややこしいものなのだが、その一節に「バガヴァッド・ギーター(神の歌)」がある。これは、主人公のアルジュナという戦士が、親族同士で殺し合うことに悩み戦意喪失した時、御者に扮していた最高神クリシュナがアルジュナに対して語った一幕で、その内容を一言で述べれば「なすべきことをなせ」と諭すものである。
これは要するに、ウジウジ考えずに戦いなさい、というものなのだが、その内容は古代ヒンドゥー教の要諦を凝縮したものになっており、マハトマ・ガンジーを始め多くの人が「ギーター」を座右の書としてきた。今でも、インドでは「ギーター」が国民的聖典とされているそうだ。それあたかも、我が国の般若心経のようなものであろう。
具体的に何が書いてあるかというと、本書「おわりに」にまとめられているように、
この考え方を好意的に解釈すれば、無私の境地でやるべきことをやるという求道者的なものであることは間違いない。しかし、私などは心が汚れているためか、どうもブラック企業の経営者が言いそうなことだ、と思ってしまう。「執着を捨て」とか「結果にとらわれず」というのが「給料が安くて労働環境が悪くても」に変換しうるように思う。いや、もっと言うと、クリシュナのいうことを聞いていると、全体主義的、軍隊的、思考停止的なところが多いと感じる。
行為の善悪や結果を考えてはダメで、やるべきことをやりなさい、というのは自分の頭で考えるのを辞めなさいと言っているように聞こえるし、しかも行為の全てを最高神への捧げものとして行うというのはどう考えてもおかしい。例えば、お風呂に入るとか、水を飲むといったことすら最高神への捧げものということになるんだろうか。やっぱり、清潔にするため、喉が渇いたから、という考えの方がずっと素直だと思う。そういったことすら、最高神のために行わなくてはならないというのがちょっと理解できない。
そもそも「目の前の敵を倒しなさい」という内容なのだから軍隊的なのはしょうがないとしても、全体の目的のための駒になりなさい、歯車になりなさい、と諭しているようで非常に気持ち悪い。そして、歯車になりきることに疑問を覚えてはだめで、結果を顧みずにやるべきことをやるのですよ、と思考停止を求める。一段高い境地から考えると、それは尊い生き方にもなりうるが、言葉通り受け取るととても危険な思想のようでもある。
しかし、「ギーター」はこうした内容だけでなく、ヒンドゥー教の哲学的な部分をも含んでおり、大乗仏教の「如来蔵思想」や「本覚思想」、「念仏」の元になった考えが開陳されているなど、ただ「あなたの義務を盲目的に遂行しなさい」というだけのものではない。自己や知性、瞑想や苦行に対しての考え方などは、現代からみても高尚なものであり、共感を抱いた。
とはいってもやはり疑問なのは、個人と全体(組織)の問題である。戦いたくない、というアルジュナに対して、全体(組織)を優先させて戦いを鼓舞するクリシュナを、私は認めることはできない。あるがままの個人でいられること、それがアートマン(真実の自己)なのではないのだろうか? どうも組織の論理を優先させて、個人を埋没させる思想のように思えてしまう。
「ギーター」の紹介(訳文)は平易で解説もわかりやすいが、個人的にはその思想が合わなかった本。
インドに古い大叙事詩「マハーバーラタ」というのがあって、これは複雑で複合的なシナリオと厖大な登場人物によって非常にややこしいものなのだが、その一節に「バガヴァッド・ギーター(神の歌)」がある。これは、主人公のアルジュナという戦士が、親族同士で殺し合うことに悩み戦意喪失した時、御者に扮していた最高神クリシュナがアルジュナに対して語った一幕で、その内容を一言で述べれば「なすべきことをなせ」と諭すものである。
これは要するに、ウジウジ考えずに戦いなさい、というものなのだが、その内容は古代ヒンドゥー教の要諦を凝縮したものになっており、マハトマ・ガンジーを始め多くの人が「ギーター」を座右の書としてきた。今でも、インドでは「ギーター」が国民的聖典とされているそうだ。それあたかも、我が国の般若心経のようなものであろう。
具体的に何が書いてあるかというと、本書「おわりに」にまとめられているように、
この世にうまれたからには、自分に定められた仕事をひたすら遂行せよ。行為には罪悪がつきまとうが、行為をしても悪い結果を残さないためには、執着を捨て、行為の結果を顧慮しないことが肝要である。そして、そのように執着なく、結果にとらわれずに行為するには、すべての行為を最高神(絶対者)に対する捧げものとして行うべきである。ということだ。そして、このような生き方をすれば、やがて最高の存在(ブラフマン)は真実の自己(アートマン)と同一であることが自覚され、行為を超越する存在へとなっていくという。
この考え方を好意的に解釈すれば、無私の境地でやるべきことをやるという求道者的なものであることは間違いない。しかし、私などは心が汚れているためか、どうもブラック企業の経営者が言いそうなことだ、と思ってしまう。「執着を捨て」とか「結果にとらわれず」というのが「給料が安くて労働環境が悪くても」に変換しうるように思う。いや、もっと言うと、クリシュナのいうことを聞いていると、全体主義的、軍隊的、思考停止的なところが多いと感じる。
行為の善悪や結果を考えてはダメで、やるべきことをやりなさい、というのは自分の頭で考えるのを辞めなさいと言っているように聞こえるし、しかも行為の全てを最高神への捧げものとして行うというのはどう考えてもおかしい。例えば、お風呂に入るとか、水を飲むといったことすら最高神への捧げものということになるんだろうか。やっぱり、清潔にするため、喉が渇いたから、という考えの方がずっと素直だと思う。そういったことすら、最高神のために行わなくてはならないというのがちょっと理解できない。
そもそも「目の前の敵を倒しなさい」という内容なのだから軍隊的なのはしょうがないとしても、全体の目的のための駒になりなさい、歯車になりなさい、と諭しているようで非常に気持ち悪い。そして、歯車になりきることに疑問を覚えてはだめで、結果を顧みずにやるべきことをやるのですよ、と思考停止を求める。一段高い境地から考えると、それは尊い生き方にもなりうるが、言葉通り受け取るととても危険な思想のようでもある。
しかし、「ギーター」はこうした内容だけでなく、ヒンドゥー教の哲学的な部分をも含んでおり、大乗仏教の「如来蔵思想」や「本覚思想」、「念仏」の元になった考えが開陳されているなど、ただ「あなたの義務を盲目的に遂行しなさい」というだけのものではない。自己や知性、瞑想や苦行に対しての考え方などは、現代からみても高尚なものであり、共感を抱いた。
とはいってもやはり疑問なのは、個人と全体(組織)の問題である。戦いたくない、というアルジュナに対して、全体(組織)を優先させて戦いを鼓舞するクリシュナを、私は認めることはできない。あるがままの個人でいられること、それがアートマン(真実の自己)なのではないのだろうか? どうも組織の論理を優先させて、個人を埋没させる思想のように思えてしまう。
「ギーター」の紹介(訳文)は平易で解説もわかりやすいが、個人的にはその思想が合わなかった本。
『人間の家』ル・コルビュジエ、F・ド・ピエールフウ共著、西澤 信彌 訳
ル・コルビュジエとド・ピエールフウによる、住みよい家をつくるための都市計画提案の書。
本書が書かれたのは、第二次大戦中。ル・コルビュジエ自身が疎開していたさなかのことである。破壊されつつあったパリの街をどう再建するか、という切実な問題意識の下、単に壊れた建物を作り直すというのではなく、これを機にパリをもっと人間的な街に変えていこうという意欲的な都市計画案を二人は考察していった。
例えば、パリの住居はあまりに狭すぎて、近接しすぎ、道路交通が非効率で、また緑が足りないという課題。狭すぎる住居で暮らすことは、衛生上も、精神面でもよくなく、ル・コルビュジエは「人びとの住宅事情は悪い、現在の大混乱のふかい原因、真の原因だ」と述べる。
本書で開陳されるその解決策は、高層の集合住宅だ。住宅を集団化・高層化して床面積と緑地面積を広くし、日当たりもよくする。また自動車道路と歩行者用道路を分けて、自動車道は街の中心部を通らないようにする、といったものである。
この提言は、ル・コルビュジエの代表作『輝く都市』へと受け継がれ、パリでは異端視されて相手にされなかったものの、ブラジリアなど新興の都市における都市計画に影響を与えたという。
本書は、共著の形を取っているが、不思議な構成になっている。右ページに本文が、左ページが挿絵や短文が書いてあって、右の本文をド・ピエールフウ、左をル・コルビュジエが書いているのである。右ページと左ページは、つかず離れずというか、決して挿絵は本文の解説ではないし、かといって本文が挿絵を説明するのでもない。が、無関係というわけでももちろんない。敢えて言えば、二人が同じようなもの(「同じもの」ではない)を違う角度と方向から述べている、という感じだろうか。
そして、ド・ピエールフウの筆は理念的・説明的であり、ル・コルビュジエのそれは具体的・啓示的である。読者は、右ページだけ読んでいっても、左ページだけ読んでいっても本書を理解できるのではないかと思われるが、両方を併せて読むとさながら二重奏のように違った読書体験が絡まり合うという仕組みになっている。
本書で提言されている都市計画は、現代においては少し無味乾燥なものに思われるかもしれない。彼らの提言を真に受けて都市を建築すると、世界中のどこでも似たような高層住宅や商業施設が建築されそうである。日本で言えば、六本木ヒルズのような場所ばかりになってしまう危惧がある。
彼らが盛んに攻撃する”パリの狭苦しい街並み”というのも、我々日本人からすると統一感がありこぢんまりして品のいいものであるし、確かに住宅の狭さなど改善すべき点もあろうが、その解決策が高層マンションであるとすれば、随分味気ないもののように思われる。
しかしながら、彼らの都市計画案は、十分に広い住居と、たくさんの木々と眺めの良い場所、そこを自由に逍遙できるような歩行者用通路が都市になければ健康な生活は送れない! という現代的な視点に立脚しており、決して時代遅れの高層礼賛ではない。むしろ、彼らの問題意識は現代日本の都市計画でももっと考慮されてしかるべきもので、実際に高層マンションをつくるのがいいのかどうかはともかくとして、改めて「人間の家」がどうあるべきか考えるために再読される価値があると思う。
本書が書かれたのは、第二次大戦中。ル・コルビュジエ自身が疎開していたさなかのことである。破壊されつつあったパリの街をどう再建するか、という切実な問題意識の下、単に壊れた建物を作り直すというのではなく、これを機にパリをもっと人間的な街に変えていこうという意欲的な都市計画案を二人は考察していった。
例えば、パリの住居はあまりに狭すぎて、近接しすぎ、道路交通が非効率で、また緑が足りないという課題。狭すぎる住居で暮らすことは、衛生上も、精神面でもよくなく、ル・コルビュジエは「人びとの住宅事情は悪い、現在の大混乱のふかい原因、真の原因だ」と述べる。
本書で開陳されるその解決策は、高層の集合住宅だ。住宅を集団化・高層化して床面積と緑地面積を広くし、日当たりもよくする。また自動車道路と歩行者用道路を分けて、自動車道は街の中心部を通らないようにする、といったものである。
この提言は、ル・コルビュジエの代表作『輝く都市』へと受け継がれ、パリでは異端視されて相手にされなかったものの、ブラジリアなど新興の都市における都市計画に影響を与えたという。
本書は、共著の形を取っているが、不思議な構成になっている。右ページに本文が、左ページが挿絵や短文が書いてあって、右の本文をド・ピエールフウ、左をル・コルビュジエが書いているのである。右ページと左ページは、つかず離れずというか、決して挿絵は本文の解説ではないし、かといって本文が挿絵を説明するのでもない。が、無関係というわけでももちろんない。敢えて言えば、二人が同じようなもの(「同じもの」ではない)を違う角度と方向から述べている、という感じだろうか。
そして、ド・ピエールフウの筆は理念的・説明的であり、ル・コルビュジエのそれは具体的・啓示的である。読者は、右ページだけ読んでいっても、左ページだけ読んでいっても本書を理解できるのではないかと思われるが、両方を併せて読むとさながら二重奏のように違った読書体験が絡まり合うという仕組みになっている。
本書で提言されている都市計画は、現代においては少し無味乾燥なものに思われるかもしれない。彼らの提言を真に受けて都市を建築すると、世界中のどこでも似たような高層住宅や商業施設が建築されそうである。日本で言えば、六本木ヒルズのような場所ばかりになってしまう危惧がある。
彼らが盛んに攻撃する”パリの狭苦しい街並み”というのも、我々日本人からすると統一感がありこぢんまりして品のいいものであるし、確かに住宅の狭さなど改善すべき点もあろうが、その解決策が高層マンションであるとすれば、随分味気ないもののように思われる。
しかしながら、彼らの都市計画案は、十分に広い住居と、たくさんの木々と眺めの良い場所、そこを自由に逍遙できるような歩行者用通路が都市になければ健康な生活は送れない! という現代的な視点に立脚しており、決して時代遅れの高層礼賛ではない。むしろ、彼らの問題意識は現代日本の都市計画でももっと考慮されてしかるべきもので、実際に高層マンションをつくるのがいいのかどうかはともかくとして、改めて「人間の家」がどうあるべきか考えるために再読される価値があると思う。
2016年8月6日土曜日
『昔の鹿児島—かごしま新聞こぼれ話—』唐鎌 祐祥 著
明治・大正・昭和初期の鹿児島の新聞記事を眺めて、昔の鹿児島を知る本。
内容は、風俗、行事、興行、天文館の街の様子が中心。新聞記事といっても、政治・経済についてはあまり触れられず、今で言えば「地方欄」に当たる部分からの話題が多い。
本書によって、今では廃れた風習や行事を知ることができた。例えば「加世田参り」。旧暦6月22〜23日にかけて、鹿児島から加世田へと「兵児」たちが駆け抜け、往復20里(80キロ)を競争する行事があったらしい。今で言えばトレイルランみたいなものだろうか。随分過酷な年中行事があったものである。
このほか、鹿児島で最初に自動車が導入された時の話、街道沿いあった松並木が売却された話など、たくさんの些細な話が収録されている。一つひとつの記事は、文庫本1ページ分くらいのもの。著者はそれに対して考察を加えるというでもなし、淡々と記事紹介を行っている。ここに挙げられた記事の数々は、それ自体どうということはないが、当時の社会の雰囲気を如実に伝えるものだと思う。
なお、当時の社会を知るために最も有効なのは、新聞広告を眺めることだと思うが、本書には広告そのものの記事はあまり多くない。もう少し広告そのもの(当時はこんなものの広告がありました、というような)も取り上げたら面白かったと思う。
著者は、高校教諭を経て図書館行政等に携わり、鹿児島県の教育委員長も務めた人。特別なテーマなく興味の赴くままに記事を収録しているので、本書で何が分かるというものでもないが、昔の鹿児島を垣間見る新聞記事が淡々とまとめられた実直な本。
内容は、風俗、行事、興行、天文館の街の様子が中心。新聞記事といっても、政治・経済についてはあまり触れられず、今で言えば「地方欄」に当たる部分からの話題が多い。
本書によって、今では廃れた風習や行事を知ることができた。例えば「加世田参り」。旧暦6月22〜23日にかけて、鹿児島から加世田へと「兵児」たちが駆け抜け、往復20里(80キロ)を競争する行事があったらしい。今で言えばトレイルランみたいなものだろうか。随分過酷な年中行事があったものである。
このほか、鹿児島で最初に自動車が導入された時の話、街道沿いあった松並木が売却された話など、たくさんの些細な話が収録されている。一つひとつの記事は、文庫本1ページ分くらいのもの。著者はそれに対して考察を加えるというでもなし、淡々と記事紹介を行っている。ここに挙げられた記事の数々は、それ自体どうということはないが、当時の社会の雰囲気を如実に伝えるものだと思う。
なお、当時の社会を知るために最も有効なのは、新聞広告を眺めることだと思うが、本書には広告そのものの記事はあまり多くない。もう少し広告そのもの(当時はこんなものの広告がありました、というような)も取り上げたら面白かったと思う。
著者は、高校教諭を経て図書館行政等に携わり、鹿児島県の教育委員長も務めた人。特別なテーマなく興味の赴くままに記事を収録しているので、本書で何が分かるというものでもないが、昔の鹿児島を垣間見る新聞記事が淡々とまとめられた実直な本。
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