2016年5月10日火曜日

『かくれた次元』エドワード・ホール著、日高敏隆・佐藤信行 訳

人間の空間利用について考察する本。

隣に座っている人と話すときと、2メートルくらい離れた人と話すときは口調も使う語彙も異なったものになる。普段あまり意識されることはないが、人と人との距離やどれくらい混み合っているかは、我々の行動を強く規定している。著者は、人間が相手との距離に応じてその行動を変化させることをプロクセミックスという(本書には明確な定義がないが著者が提唱する)概念を用いて考察する。

本書は大まかに4つの内容で構成される。

第1に、動物の世界における個体距離について。動物は増えすぎて適切な個体距離(すなわち縄張り)が保てなくなると、正常な行動ができなくなる。破滅的な行動や病気が多発するこの状態を「シンク」と呼び、これに陥ると個体数が激減する。増えすぎた動物が減るという現象は、餌の不足というような外的な要因で起こるのではなく、仮に餌が十分であったとしても「空間の不足」によって引き起こされるのである。

「シンク」はつがい行動や出産、子育てに顕著である。混みすぎの状態にある動物は、正常につがいを形成することができず、攻撃的な行為を繰り返したり、巣作りをしっかりと行えなかったりする。さらに子どもを産んでも育児が途中で放棄されることもある。ネズミであっても、出産や子育ての一時期には「プライバシー」が必要なのだ。だから増えすぎた状態でも、清潔で小さな箱を用意して積み重ね、「プライバシー」を確保できる空間を作ってあげれば「シンク」は起こらないという。

第2に、人間の生物学的な認知機能(五感)と距離認識について。人間も動物である以上、動物的な個体認識の基盤からは逃れることはできない。ここでは、人間が距離をどのように知覚するかということの機械論的な説明をしている。そうした説明の後、人間における距離の意味について考察を深めていく。例えば、近すぎる距離が「威圧」または逆に「親密さ」を表すということは、文化が違っても共通している。このように、人と人との距離は関係性を表す強力なサインでもある。

著者は人と人との距離を4種類に分けてそれぞれを考察する。(1)密接距離、(2)個体距離、(3)社会距離、(4)公衆距離の4つである。この4つの距離における行動の変化の探求がプロクセミックスの主要な内容である。ただし、これらの距離は確定的なものではなく、文化によってかなりの程度幅がある。手が触れ合うことを嫌う文化もあれば、見知らぬ人とでも肩を寄せ合う文化もあり、距離が持つ社会的意味は文化次第なのである。

第3に、異なる文化における距離の扱いの違いについて。アメリカ、フランス、イギリス、ドイツ、アラブ、日本という異なる文化圏において、人と人との距離や空間の広がりがどのように異なったものとして認識されているかを述べている。この部分は、著者の主張がどの程度妥当なのか私には判断することができない。例えば、アメリカでは通りに名前がつくのに、日本では通りには名前がつかず交差点につく、というような指摘は面白い。確かに日本では道路は「県道○号線」のような味気ない記号で呼ばれるが、交差点には特色ある名前がついている。でもそれが日本人とアメリカ人の空間知覚の違いに起因するものかどうかはよくわからない。

第4に、それまでの話を踏まえ、これからの都市と文明のあり方について遠望している。我々は増えすぎ、都市は混みすぎている。このままでは「シンク」が起こるかもしれない。「シンク」を避けるためには、様々な工夫が必要だ。そこで著者は「未来の都市計画の趣意書」という提言を行っている。

我々は、都市や家々といったものは、文化の表現だと思いがちである。しかし著者によればそれは最大級の過ちだという。「人間とその延長物はいっしょになって、一つの相互に関連しあったシステムをつくり上げている」のである(p.259)。すなわち、都市や家々は我々が作ったものであるが、逆に都市や家々が我々を作ってもいるのである。その2つは分離できない一体のものだ。

「人間の存在と行為は事実上すべて空間の体験と結びついている」(p.249)ことを様々な面から論証する本。

【関連書籍の読書メモ】
『人間の家』ル・コルビュジエ、F・ド・ピエールフウ共著、西澤 信彌 訳
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/08/f.html
ル・コルビュジエとド・ピエールフウによる、住みよい家をつくるための都市計画提案の書。狭すぎる住居で暮らすことは、衛生上も、精神面でもよくなく、人びとの住宅事情が現在の大混乱のふかい原因、真の原因だとしている。


2016年4月14日木曜日

『人はなぜ花を愛でるのか』日高 敏隆・白幡 洋三郎 編

地球研(総合地球環境学研究所)が企画して人間文化研究機構が開催したシンポジウムに基づいた本。

本書では、動物行動学者の日高 敏隆(地球研の所長)が出した「人はなぜ花を愛でるのか」というテーマに基づいて、様々な分野からその答えを考えるヒントとなる事例が提出されている。大まかな内容は以下の通り。

「はじめに」(日高敏隆)では、本書の基調となる問題意識が説明され、それに対する日高氏なりの考えが提出されている。曰く「花は自分の気持ちを伝えてくれるような気がしていたのではないか。」

「第1章 先史美術に花はなぜ描かれなかったのか」(小川  勝)では、洞窟絵画に花の表現が一切存在しないことを指摘している。

「第2章 六万年前の花に託した心」(小山 修三)では、ネアンデルタール人の墓に花が手向けられていたかもしれないという事例について考察している。

「第3章 花を愛でれば人間か」(大西 秀之)では、人類の進化の歴史を簡単に振り返り、そもそも「花を愛でたかどうか」を確認するのは難しい問題だとしている。

「第4章 メソポタミア・エジプトの文明と花」(渡辺 千香子)では、実利的側面が中心のメソポタミアにおける花の扱いと、象徴や宗教的な価値が中心のエジプトにおけるそれを比較している。

「第5章 人が花に出会ったとき」(佐藤 洋一郎)では、花が人の身近な存在となったのは、「里」が誕生した約1万年前くらいのことだったろうと推測している。森林が中心の世界では花は目立たない。人が手を入れる草地が出来てからたくさんの花が存在するようになった。

「第6章 花をまとい、花を贈るということ」(武田 佐知子)では、日本では花を贈る文化がなぜあまり一般的ではないのかという問いから出発し、古代社会において花を頭につける習慣があったことをやや詳しく論じて、日本では花は下賜されるものだったのではないかと推測している。

「第7章 花を詠う、花を描く」(高階 絵里加)では、主に絵画(西洋絵画、東洋絵画)に登場する花についていろいろと紹介している。

「第8章 花を喰らう人びと」(秋道 智彌)では、花食の事例について紹介している。

「第9章 花を観賞する、花を育てる」(白幡 洋三郎)では、日本の変化咲きアサガオを紹介し、花を栽培しまた観賞する文化について考察している。

全体を通じ中尾 佐助『花と木の文化史』がたびたび参照されており、同書の内容をそれぞれの専門分野から補強するような論考が多い。また、「人はなぜ花を愛でるのか」という問いへの考察としては、同書で既に述べられていることを超える知見は残念ながらほとんどない。

ただ心に残ったのは、花は自分の気持ちを伝えるものだという日高氏の指摘と、花は他者との関係を取り持つ道具として使われてきたのではないかという白幡氏の指摘である。つまり、花は人と人との間に情緒を媒介してきた。花がなぜ情緒を媒介するのかということはさておき、これが山や海、岩や巨木といった他の自然物と花との大きな違いだと思う。

本書では、ほとんど「人はなぜ花を愛でるのか」という問いに答えられていないが、花と情緒の結びつきを考えてゆくことが、この問いへのより深い考察に導いてくれるような気がする。

★Amazonページ
https://amzn.to/3usrmHf

2016年4月13日水曜日

『花と木の文化史』中尾 佐助 著

人間が観賞用の花と木の栽培をどのように発展させてきたかを概観する本。

本書は「花と木の文化史」という大変広大なテーマを標榜するが、実際に書かれているのはほとんどが品種改良の歴史である。すなわち、人間が花や木とどう付き合ってきたかということの全体像を提示するものではなくて、植物学者の著者らしく、具体的な栽培品種に注目してその来歴を解き明かしつつ、その背景にある花と木の文化について考察するものである。

本書は4部構成となっている。

第1部では、人間はなぜ花を美しいと感じるのかという難しい問いから出発し、文化的な美意識の発展について考察している。

第2部では、世界の花の歴史を概観する。世界には2つの花文化の中心があった。すなわち、中国を中心とする東洋と、エジプトやバビロニアからローマ、西ヨーロッパへと至る西洋である。文明は世界のあちこちで起こったが、本格的な花の栽培・育種がされたのはごく一部しかない。花は観賞以外の実利的な目的がないために、高度に文明が発展すれば必ず栽培されるというものでもないのである。例えば、大変高度な文明を築き上げた古代ギリシアは花の栽培という点ではさほど見るべきものがなかった。

さらに第2部では、いわゆる大航海時代におけるプラント・ハンターの活躍について述べている。花卉園芸文化の発展には異国趣味的なものが意外と大きな役割を果たしており、有用植物の探索と相まって園芸文化の大発展が起こったのが大航海時代である。当時の航海では博物学者も同乗して各地の植物が熱心に検分された。その情熱は、今となってはちょっと想像できないほどである。

第3部では、中国から受け継いだ花卉園芸文化を非常に高度に発展させた日本の花卉栽培の歴史について述べる。日本の花卉園芸は、室町時代以降独自の発展を遂げ、特に江戸時代に至って当時世界最高の水準に達した。桜や椿といった高木性の花木の品種改良は当時の世界で類を見ないことで、他にも専門の園芸業者・植木業者の出現は世界に先駆けており、庶民にまで花の栽培が広まっていた裾野の広さも注目される。日本の誇るべき歴史であろう。

そうした園芸文化の極北として、日本人は現在「古典園芸植物」と呼ばれているものを生みだした。例えば、マツバラン、イワヒバ、オモトといったものである。これらは派手な花が咲くわけでもなく、その奇異な外観を楽しむという非常に地味なものでその観賞には文化的な素養を要し、いわば抽象芸術的なものである。こうした植物は今では細々と栽培されているに過ぎず、世界的にもその価値が認められていないが、日本の花卉園芸文化の到達点を示すものである。

一方で、多種多様な園芸用の品種改良がされながら、日本では育種の原理、すなわち遺伝学の理論が全く存在しなかった。日本(中国でも)の品種改良では、なんと人工交配が全く行われなかったのである。江戸時代にはアサガオの育種が非常なる流行を見たが、実質的にはメンデルの遺伝の法則が使われていながら、それが名人芸的な「秘伝」となり理論化されなかった。他方西洋では、メソポタミアの時代から既に植物の有性生殖の原理が知られており、これが西洋と東洋の花卉園芸文化の相違の一つである。

第4部では、栽培植物ではなく、自然の花と木の景観への観賞ガイドである。自然の中に存在する美しいものを選抜・育種してできあがったのが園芸植物なわけなので、本来は栽培植物による景観の方が自然の景観よりも美しいはずである。しかし著者は植物学者らしく、自然の植生の美に惹かれており、世界各地にある植生の美のスポットを紹介して本書を終えている。

全体を通じてみて、世界史的な花卉園芸文化の到達点は19世紀にあるように感じた。西洋においても、プラントハンターの活躍(その中心は18世紀かもしれないが)や植物学への熱の入れようを考えると、その最高潮は19世紀である。有用植物の探索という実利的な側面があったにせよ、新しい土地での見なれない植物をよく理解したいという文化的営為を強く感じさせられる。日本では、江戸後期から明治にかけて花卉園芸文化は世界最高の水準に達し、多様な品種改良とその観賞態度は簡単に理解できないところまで行き着いた。

翻って現在の花卉園芸文化を考えると、もちろん技術的には長足の進歩を遂げており比較にならないほどだが、異国の土地・植生・気候などへの興味や理解、一見地味な植物にもその美しさを見いだす観賞態度などは、逆に退化しているように感じる。わかりやすい美しさを持った花だけが表面的にだけ持てはやされていないか。つまり花卉園芸文化が悪い意味で大衆化してしまっていないかと思わされた。

現代の遺伝学による新しい品種改良について触れることもできたはずなのに、著者がそれをせずに最後は自然の植生の美について述べたのは象徴的である。人間は不可能と言われた青いバラを作り出すことができた。だが、それを観賞する文化の方が育っていなくては「青いバラすごいねー」という一瞬の話題性だけのことである。花卉園芸文化というのは、ただキレイな品種を求めるコンテスト的なものであっては虚しいのだ。

観賞用の花と木の品種改良の歴史をコンパクトにまとめつつ、それを観賞する人間の態度の方も考えさせられる好著。

【関連書籍】
『人はなぜ花を愛でるのか』日高 敏隆・白幡 洋三郎 編
(読書メモ)https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/04/blog-post_14.html
地球研(総合地球環境学研究所)が企画して人間文化研究機構が開催したシンポジウムに基づいた本。 中尾佐助が『花と木の文化史』で述べたことをより探究する話が多い。

★Amazonページ
https://amzn.to/3vW4q3M

2016年4月3日日曜日

『自省録』マルクス・アウレーリウス著、神谷美恵子 訳

哲人皇帝による、魂の葛藤の書。

ローマ皇帝マルクス・アウレーリウスは、「善き人間」であることを何よりも目指していた。理知的で激情に流されることなく、公共の利益を最優先に考え、己の内にある欲望を抑制し、寛容で温和な人間にならんとした。そしておそらく、彼はそういう人間になった。事実アウレーリウスはその仁政で万人に敬愛されていたという。

しかし、彼は自然体で「善き人間」であれたわけではない。周りの俗物たちは彼の高邁な精神を理解することができなかった。妻や息子でさえも、彼の話し相手にはなれなかった。ただでさえ孤独な皇帝の地位にあって、彼には心を許せる人が誰一人いなかったらしい。それでなくても、在位中には蛮族の侵入が相次ぎ、彼は度重なる遠征で席の温まる暇もない程であった。本当は哲学者・書斎人になりたかったアウレーリウスが、軍人として生きなればならなかったのも悲劇であった。

さらには、本書には具体的な記載はないが、おそらく政権内での内紛、讒言や裏切り、佞臣、公共よりも自己の利益や享楽を優先する元老、無能な部下、彼はそういったものに悩まされていたように見える。そしてそういった俗物たちを、軽蔑し、憎み、叱責したくなる衝動に襲われることもあっただろう。彼はこう記す。
他人の厚顔無恥に腹の立つとき、ただちに自ら問うて見よ、「世の中に恥知らずの人間が存在しないということがありうるだろうか」と。ありえない。それならばありえぬことを求めるな。その人間は世の中に存在せざるをえない無恥な人びとの一人なのだ」(第9章43)
と。彼は、そうした度し難い人間に対しても、寛容であろうとした。そうした人間も、ローマ帝国を構成する大事な構成員であると思っていたのである。だが、いくらそう思おうとしても、俗物への沸き上がる嫌悪感は抑えることができない時もあったようだ。そういう時には、「人間はお互い同士のために創られた。ゆえに彼らを教えるか、さもなくば耐え忍べ」(第8章59)というような言葉で、自らを慰めていたに違いない。諦めろ、人間とはそんなものだ、と。「よし君が怒って破裂したところで、彼らは少しも遠慮せずに同じことをやり続けるであろう」(第8章4)から。

このように、本書はアウレーリウスが自己を保つために書いた、自分への備忘録である。

彼の理想を実現するのは困難であった。俗塵にまみれた世界で、独り「善き人間」であることは超人的な努力を要した。何よりも、自分独りがいくら「善き人間」であろうとしても、その他大勢の俗物たちのなかで、それに何の意味があるのか。彼自身が、人生は儚い幻のようなもので、善いことも悪いこともすぐに忘れ去られる、というようなことを繰り返し述べている。「人間に関するものは全て煙であり無」(第10章32)なのだ。そして、自分の仕事が実を結ぶということすら信じられなかった。「万物は変化しつつある。しかしなに一つ新しいものの出現する恐れはない」。彼は、自らがいくら仁政を敷いても、人びとに愛されても、そこに何らの社会的意義もないことを自覚していた。世の中の全ては胡蝶の夢に過ぎなかった。

では何のためにアウレーリウスは超人的な努力を続けたのか。それは、徹底的に自己のためであった。自らがなすべきことをなすこと、あるべき人間でいること、それだけが彼の目標だった。究極の自己満足といってもよかった。「そして結局どこにも真の生活は見つからなかったのだ。それは三段論法をあやつることにもなく、富にもなく、名声にもなく、享楽にもなく、どこにもない。ではどこにあるのか。人間の(内なる)自然の求めるところをなすにある」(第8章1)のである。究極の目的は、自己の完成と救済であった。

こうして、彼は自己の裡へどんどん沈溺していった。社会の雑事は、彼にとっていかほどのものでもなかった。いや、どんなに気持ちをかき乱されても、いかほどのものでもないと思いたかった。「すべては主観にすぎないことを思え。その主観は君の力でどうにでもなるのだ」(12章23)自分にそう言い聞かせ、一方で、そのいかほどでもない皇帝としての仕事には真摯に誠実に取り組んだ。

こうして、マルクス・アウレーリウスはあるべき人間として生き、あるべき人間として死んだ。

決して幸福な人生だったとは言えない。彼が皇帝でなかったら、たいした学者になっていただろう。その方が、自己の救済になっていただろうと思う。「哲学するには、君の現在あるがままの生活状態ほど適しているものはほかにないのだ」(第11章7)と書いているように、悩みの多い皇帝としての生活は確かに彼を陶冶した。しかし、こう自分に言い聞かせねばならなかったほど、彼の人生は自らの「内なる自然」とは違う生き方を要求したのも事実である。

生き方は唯一無二だが、彼の哲学には独自性はないという。思想的には、彼の師エピクテートスの受け売りばかりなのだ。でも本書は哲学書ではない。立派なことを言うなら誰にでも出来る。本書は、立派なことを言うためにものされたものではない。日々の俗事に悩まされ、悲しみ、怒り、無力感にさいなまれ、それでも「善き人間」として生きようとした一人の人間が、自己を保つために書かざるを得なかった魂の葛藤の書なのである。

「しかし君が正しく、慎み深く、思慮深く行動するのを妨げうる者はいない」(第8章32)。最高の知性を持ちながら、ままならない人生を送らざるを得なかったアウレーリウス。それでもその境遇を託(かこ)つことなく、職務を全力で果たしたアウレーリウス。そして超人的努力の果てに、「善き人間」として生きたアウレーリウス。

本書を読めば、少しでも「善き人間」として生きようとする全ての人にとって、マルクス・アウレーリウスはよき友人となるであろう。

2016年3月28日月曜日

『トポフィリア―人間と環境』イーフー・トゥアン著、小野 有五・阿部 一 訳

人間が環境をどのように受容するかについて、情緒的な部分に注目して語った本。

「トポフィリア」とは、著者イーフー・トゥアンの提唱する概念で、「人々と、場所または環境との間の、情緒的な結びつき」のことである。とはいえ本書は、「トポフィリア」を大上段に論証・研究する本ではなく、それをテーマにしながら、人間が身の回りの環境をどう理解し、受容し、評価してきたかを述べるものである。

著者は、人間主義的地理学(humanistic geography)の創設者であり、 また現象学的地理学の旗手だという。この聞き慣れない学問は、要するに「人間の主観を頼りに地理を理解する」というものらしく、例えば普通の地理学が文字通り地形や地質を相手にしたり、人間社会の地理を考察するのでも統計や各種のデータを相手にしたりするのとは異なって、人間がそこをどう感じるかを糸口に地理を研究するもののようである。つまり、心理学的地理学とでもいえるだろう。

本書は、主に3つの内容で構成されている。

第1に、古代からのコスモロジー(宇宙観)について。コスモロジーは、我々が環境を知覚する際に大きな影響を与えてきた。世界を秩序として見るか、混沌として見るか、そして秩序として見るなら、その秩序の中心に何を見るか(例えば、神?)。そして世界の秩序を模するものとして、都市が建築されたりもした。コスモロジーは環境評価の土台を与えるものなのだ。

第2に、主に自然の景観に対する評価の仕方とその変遷について。例えば山は、ヨーロッパではかつて不毛で怖ろしく、不気味なものだった。それが19世紀のロマン主義により、気高く美しく、崇高なものとして受容されるようになる。それどころか、レクリエーションの場ともなって、ハイキングや登山が流行するようになった。山そのものは19世紀以前と以後で変わったわけではないのに、その受容の仕方は随分と変わったのである。知覚(視覚や聴覚)の対象が変わらなくても、その感じ方は変わってしまうことは多い。一方で、時代や場所によって変わらない、普遍的と思える環境の評価もある。例えば島、谷、海岸は様々な文化で描かれるユートピアが備えている特徴である。こうした近代以前の例を中心にして、人間の基本的な環境の認知の仕方について考察する。

第3に、 都市に対する両義的な評価について。都市は、繁栄やきらびやかさ、自由や洗練といったプラスの評価と同時に、悪徳や貧困(スラム等)、抑圧や汚穢といったマイナスの評価も受ける両義的(アンビヴァレント)な存在である。都市への評価はその両極端に振れながら変遷してきており、都市が発展するのと平衡して、田園の生活を理想視する態度も形成されてきている。そして都市と田園のいいとこどりとしての郊外(田園都市)という形態も発展してきた。アメリカの都市の発展を中心に、人々がその発展をどのように受容してきたかを考察している。

本書は、大まかには上記3つの内容を持ちながら、「あれもあるこれもある」式でいろいろなことがエッセイ風に書かれ、悪く言えば散漫に、よく言えば多角的に場所と人間との結びつきを語っている。何かを論証するような本ではないので、本書を読んで何がわかるかというと特にこれが分かるというものはなく、その意味では物足りない感じもするが、いろいろなヒントをもらう本として読むのがよいと思う。

特に心に残ったのは、風景であれ芸術作品であれ、審美的な目で(美しいなあ、という感動を持って)見られるのはせいぜい2分間だ、という指摘。それ以上楽しもうとするなら、そこには批評の知識など何か他の理由がいる。視覚の快感は「時間」が非常に限られたはかないものだということは、あまり指摘されないように思うがとても重要なことだと感じた。しかしかといって、視覚的なものが短時間しか人々の心理に影響しないかというとそんなことはなく、例えばゴミゴミした汚いところにずっといれば精神的にも混乱・衰弱してくる。清潔でよく整頓された美しい街にいることは「自分が自分でいられる」ための重要な条件ともいえるのである。視覚による快感は一瞬のものでしかないが、それによる影響は持続的なのだ。

このように、本書は1970年代に上梓されたものであるが未だ現代的といえる慧眼に溢れており、環境への評価を考える上での基本図書の一つと言えるかもしれない。

だが、これは現象学的地理学の弱点と思われるが、環境に対する人間の心理を問題にしながら、それがほとんど確固たる基盤を持っていないことは指摘しておかねばならない。本書では、文学作品に表現された環境(土地)への評価、アメリカの都市についてはアンケートといったものを取り上げているが、それだけでは科学というには弱いところがある。先ほど「エッセイ風」と書いたように、「こうとも考えられる」というような部分があまりに多いので、人間の心理を出発点とするなら、そこにもっとしっかりした土台を設けなくてはならないと感じた。

というような不満はあるものの、「トポフィリア」という概念はまだまだ考究する余地と価値がある。やや散漫で何かを分かった気にはなれないが、ヒントに溢れた論考。


2016年2月24日水曜日

『逝きし世の面影』渡辺 京二 著

外国人が残した記録によって辿る、徳川期の日本の残照。

著者は、日本のかつての姿を探るため、幕末から明治にかけて来日した外国人が残した記録を丹念に紐解いていく。当時の社会がどうだったか、ということは意外と日本人自身の記録ではわからない。当たり前の日常についてはわざわざ記録しようと思わないものだからだ。だから社会の姿は、その外部からの目によって新鮮に記録される。当時来日した外国人たちは、西洋とは違う意味で発展した日本の「文明」に目を見張ったのであった。

そこにあったのは、天真爛漫で幸せそうな親切な人々、地味ではあるが手の込んだ意匠の道具、清潔で植物に彩られた気持ちのよい街や村、形式的な階級はあるがうまく棲み分けられ、悲惨な貧困や抑圧が存在しない平等な社会、有能で自尊心があり男性と対等にやりあう美しい女性たち、のびのびと育てられ可愛がられている子ども、弱いものへのいたわりと他者への礼節、つまり子どもっぽくもありながら同時に洗練されてもいた人間の姿であった。そこには、近代西洋が捨ててきた、産業革命以前の古き良き社会が西洋と違った形で存在していたのである。

こういった社会の残映は、現代の日本にもある面では受け継がれているが、その多くは既に無くなっている。明治時代、日本は大急ぎでその姿を改造しなくてはならなかった。少なくとも、この国のリーダーたちは、国の姿をまるっきり変えてしまわなくては国際社会で生き残っていけないと考えた。そして、前時代的なるものを全て遅れたもの、悪いものと断罪して旧文明を破壊していった。

そうした旧文明の破壊を、当時日本を訪れ、その美しさに感動した外国人たちは惜しんだ。この夢のようなおとぎの国が、自分たちの祖国と同じつまらない工業国になっていく未来が見えたのである。一方我々は、旧文明が遅れたものだとする見解を鵜呑みし、江戸時代といえば無知と蒙昧、酷い不平等、貧困と不潔、混乱と飢餓の時代だと思わされてきた。一面、それも事実である。本書には出てこないが、江戸時代には子どもの間引きがあり、貧困や飢餓が存在しなかったというわけにはいかない。しかし総じて、260年間続いた穏やかな社会は、まどろむような平衡に到達していたということも間違いないのである。

ところで本書を読みながら、私の頭に浮かんだのはブータンのことである。ブータンには幕末の日本と少し似ているところがある。周囲の国家と距離を置き、未だ工業化されない素朴な社会。ブータンには確かに幸せで呑気な人々が生きている。たぶん、明治の日本はこんな感じだったのだろうと思う。

しかし、実はブータンの上流階級は、そうした人々のことを内心苦々しく思っている。時間を守らない労働者、約束を平気で反故にする人たち、契約よりもしきたりを守ろうとする慣習…。そうした古い社会を捨て去らない限り、ブータンの近代化はありえないと。

当時の日本もそうだった。すばらしく平穏な完成した社会がありながら、国家の指導階級はそれを疎ましく思った。しかしその階級は、外国人から見ると形式と体裁だけを気にするビックリするほど無能で不機嫌な連中だったのである。こうした無能な連中の下で、完成された社会が存在していることにもまた、外国人は驚いた。

1860年代に鉱山技師として来日したパンペリーという人物がいみじくもこう書いている。「日本の幕府は専横的封建主義の最たるものと呼ぶことができる。しかし同時に、かつて他のどんな国民も日本人ほど、封建的専横的な政府の下で幸福に生活し繁栄したところはないだろう」と。

日本は、社会全体が幸福な平衡に達していたわけではなく、あくまでその平衡は下層階級の間に限られていた。幸福な下層階級と、無能で不機嫌な指導階級。その対比が社会にどのようなダイナミズムをもたらしたのかということが、本書を読みながら大変気になったところである。

ここに描かれたおとぎの国は、もはや存在しない。我々は既に近代化し、まどろみから目覚めてしまった。一方ブータンは、近代化しながらも、古い社会の良さを失わないようにする困難な社会実験をしている。その結果がどうなるのかは興味あるところだ。その取り組みがぜひ成功し、西洋近代社会とは違った文明システムが、この世界には共存できるのだということを示して欲しいと本書を読んで思った。

失われた日本の「手触り」を感じられる珠玉の論考。


2016年2月14日日曜日

『風景学入門』中村 良夫著

日本の景観工学の第一人者による「風景学」の入門書。

景観工学は、土木建築の際に周囲の環境と調和してしかも見栄えよく、そして機能的な構造物を作るのに必要な学問であるが、「風景学」はそれをさらに敷衍して、我々が日々暮らす都市や田園、そして自然の風景の諸相をよく理解するための学問であるといえる。

本書では、まずは風景を物理的に考察する。例えば、視角が何度の時に風景は収まりがよいか。山は大きければ大きいほど迫力があって風景として好ましいかというとそうでもない。むしろ、垂直方向10°・水平方向20°くらいにひとかたまりの図がある方が好ましい。例えば、仙巌園から見る桜島の大きさがこれくらいらしい。また、星座なども20°×20°の大きさにほとんど収まるという。これ以上図が広がると、それが一つのものと認識されなくなったり、全体を見渡すために首を回さなければならなかったりして図としての心地よさが減じる。

次に、風景は自然や都市のありさまそのものではなく、それによって我々が行う解釈、つまり心象であると主張する。我々は現実の風景を見る前に心の中に「理想の風景」を持っていて、その理想の風景という型に沿って風景を理解している部分がある。例えば田んぼがたくさんある山里の景観は、我々にとっては「日本の原風景」と認識される好ましいものであっても、砂漠に生きる人たちにとっては異なる解釈になるであろう。風景が心象であるならば、風景を論ずるためには我々は心理学者たらねばならないのである。

また、風景が心象であるならば、風景を構成する事物そのものに絶対的な存在感があるわけではないということになる。松いっぽん、橋ひとつとっても、それがどこにどのように存在しているかによって風景としての意味は変わる。それあたかも、大乗仏教で「いっさいの存在は空(くう)である」とされるようなもので、全ては相互関係(仏教用語で言えば「縁」)に基づくのである。まちづくりなどで土木工事を行う際も、構築物そのものの存在のみを考えていては好ましい景観は生まれない。構築物自体は空じて、場所との結縁(けちえん)の中でそれが風景にどうあるべきかを考えなくてはならない。

最後に、そうした風景についての考察に基づいて、これからの建築土木がどうあるべきかを提言している。そこに書かれた内容は至極納得できるものであるが、本書の出版から30年以上経っても、依然として心地よい風景が顧みられない公共事業がなされている現状には落胆せざる得ないところがある。

本書は、景観工学を土台にして書かれているが、漢詩、俳句といった文学を豊富に引いて、我々が風景をどのように捉えてきたかという歴史や人間心理を紐解いたり、仏教の考え方を援用して風景を考えるといった学際融合的な取り組みをしていたりと大変読み応えがあるもので、著者の提案する「風景学」の奥深さを感じることができる。「心地いい風景はどんなものか」「都市や農村を美しくするためには何が必要か」というような答えをすぐ出すのではなく、その答えや問いそのものの基盤にある、風景と人間の関係について理解を深めていく構成が心地よい。

新書であり、また「入門」を銘打ってはいるが、風景と人間についての本格的な論考。

【関連書籍】
『風景と人間』アラン・コルバン著、小倉孝誠 訳
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/01/blog-post_18.html
「感性の歴史家」として知られるアラン・コルバンが風景について語った本。