明治大正の世相の移り変わりを文明批評風に述べた本。
本書の構想は独特であって、普通の「歴史」の本ではない。明治大正史と言っても、明治維新も大正デモクラシーも、日露戦争も出てこないのである。では何が描かれるかというと、著者が「毎日われわれの眼前に出ては消える事実のみに拠って、立派に歴史は書けるものだと思っている」と自序で述べるとおり、普通の人の普通の暮らしがどのように変わったか、ということが主眼である。
しかし、実はそれすらも歴史風には語られない。例えば、郵便がいつごろ普及したとか、乗合馬車がどう現れたのか、というようなことはほとんど触れられない。庶民の暮らしの変転を語る中で、そうしたこともごく僅かに顧みられるが、それよりももっと力が割かれているのは、衣食住の変化、ありふれた町の風景の変化、庶民の人生の変化である。
その上、そうした変化自体もさらりと書かれるに過ぎない。では何が書かれているかというと、明治に世が移って社会が様々な面で変化した結果、人々の暮らしへ向けた態度や心持ちが、どのように移ろっていったのか、ということが本書の核心である。
明治、そして大正へと世の中が進んでいく中で、いままで薄ぼんやりとした認識しかなかった広い世界がだんだんとその姿を現すと共に、自らの暮らしぶりや村のあり方がそうした広い世界に位置づけられ、緩やかにではあるがあらゆる面で自由が拡大していった。そうして、人々は、江戸の眠りから醒めたように、自らの行動を意識的に、あるいは無意識的に改めて、足早に新様式の暮らしへと進んでいったのであった。
新様式へ進んでいった人達が、どのような気持ちで歩みを進めたのかということは、説明がある場合もあればない場合もある。衣食住・仕事・社会生活といった面において、明治から大正のスナップショットを撮ってみたという風情であり、そこに社会学的な分析を加えようというものではないからだ。しかし、そうしたことを淡々と述べる中で、明治大正という時代が人々の心にもたらした巨大な変化とその影響が澎湃と姿を現す思いがする。
それは、意外に現代の人が直面しているものに近い。いや、本質的には、むしろ明治大正の人々が取り組んだものと全く同じものが我々にも突きつけられているのだということを、本書を読むと痛感する。特に後半の章は、百年前の人々のことを描いているとは思えない。我々は、明治大正の人間が未解決に残した問題を、未だに先延ばしにしているのだろう。
2013年10月10日木曜日
2013年10月8日火曜日
『日本の歴史をよみなおす(全)』 網野 善彦 著

従前のイメージでは、江戸時代は自給自足的な農本主義の時代と思われており、農業以外の産業はあまり注目されてこなかったため、例えば山奥にあるとか、水田の適地がないというような村は貧しかったに違いないと思いがちだったのであるが、著者はそれは正しくないという。江戸時代においても、金融や商業、そして海運といった産業は重要な役割をになっており、都市的な場とそのネットワークは日本全体に広がっていたため、山奥の村が意外に流通の拠点になっていたり、耕地をほとんど持たない人が大変裕福に暮らしていたりした。
また、非人は次第に被差別階級化していったのであるが、これは非人が貧しく汚らしかったということではなく、むしろ金融や商業によって裕福だったため、その反発もあったのではないかと示唆する。このあたりは欧州におけるユダヤ人の被差別の歴史も想起させられるところだ。
本書は、こうした著者の提唱する新しい江戸時代のイメージを若い世代に向けて講演したものが元となっていて、あまり込み入った話はなく、江戸時代の金融・商業の重要性を例証するようなものの列挙といった側面が強い。
そして読者として不満なことは、それらが重要とはいっても、何においてどのように重要なのか、という点についてあまり明快に語られないことだ。最後の方では、
そのように考えてみたときに、日本の近世社会、あるいは中世後期から江戸時代にかけての時代がどのように見えてくるか、またそれをどのように規定すべきかについては、まったくの未知数、未開拓の状態で、私にもいまは積極的な意見を出すことはできません。(本書p.401)と著者自身が述べており、「だから何?」という状態ではある。つまり、非人や悪党が担う金融や商業といったものが、どのように重要かはわからないが、重要に違いない、というのが著者の信念なのである。それは理解するが、そういう視点で見たときに日本の歴史がどう再解釈されうるのか、という可能性すら提示できないのは残念だ。『日本の歴史を読みなおす』というタイトルも名折れで、『読みなおしたい』くらいのニュアンスが適当であろう。
近世社会の商業主義について新たなイメージを提供するが、それ以上に踏み込んだ歴史観については黙して語らない本。
2013年6月30日日曜日
『土とは何だろうか?』久馬 一剛 著

書名の通り、「土とは何か」を平明に解説する本。
土壌学というのは農学の中でも特に難しい学問である。土は物理性、化学性、生物性の3つの観点から分析することができるが、その根幹には土がどのような成分で出来ているかというところが重要で、これを記述するためには数々の化学式が出てくる。
しかも、土壌学における化学式というのは、フラスコの中での反応とは違って、土の中でゆっくりと進む複雑な反応を記述するものなので、これをしっかりと分析しようとすればいきおい複雑にならざるを得ない。
そのため一般向けの土壌学の本はあまり多くないのであるが、この状況を憂慮した著者が満を持して世に問うた本が本書である。
その内容は、①土が何から出来ているかから説き起こし、②植物にとっての土の役割をまとめた後、②日本の畑の土と、③水田の土を解説し、④土中の生き物について述べ、⑤世界の土と日本の土を外観して、⑥環境問題と土について考察し、⑦「人間にとって土とは何か」というやや文明論めいた章で終わる。
特に面白かったのは③の稲作と土についてであって、日本の土は意外に肥沃ではなく畑作に向かないため水田稲作が安定的であったという指摘は、とても参考になった。私は日本の土はとても肥沃だと思い込んでいたのだが、それは間違いだったようだ。
その他にも、へー、と唸るような、ことがたくさん述べられており、これまで縁遠かった土壌学が少し身近に感じられるようになった。難しくて取っつきにくい土壌学の大変よい入り口を提供してくれる本。
2013年6月21日金曜日
『かごしま農36景—南薩の水と土と人—』写真:東 桂子、文:門松 経久
鹿児島県薩摩半島南部(南薩)における灌漑事業を中心として、農業や暮らしについてエッセイ的に語る本。
著者は鹿児島県庁にかつて勤め、南薩における灌漑事業を手がけた人物。今は、農業のテーマパークである「アグリランドえい」に附設された学習施設である「畑の郷 水土利館(みどりかん)」の管理人を務める。
私は、本書をフォトエッセイ的なものかと思って手に取ったのだが、実際には写真と文章はあまり関係がなく、写真はいわば刺身のツマとして添えられるに過ぎない(ちなみに写真は頴娃に住む写真家の東 桂子さんという人の作品)。中心は、南薩の灌漑事業を推進した著者が、実際に事業の行方を見つめながらいろいろ感じたことや考えたことである。
灌漑事業自体は、大規模な畑地を形成し、生産性の高い農業を実現できたという点で成功したけれども、人々が生きる条件が変わったことで集落のありようも少しずつ変わっていき、非常に大きな影響を及ぼしたということに関しては功罪がある。昔の悲惨な農民の暮らしということを思う時、灌漑事業は大きな価値があった、と著者は振り返り、基本的にその価値を今でも信じているのであるが、どうもそうとも言い切れない部分があるのか、あるいは灌漑事業だけでなく、個々の農業経営まで地道に革新していく努力をもう少しすればよかったという後悔があるのか、少し文章の歯切れが悪い。
だが、その歯切れの悪さというか、言い訳じみた部分が本書の魅力の一つでもあり、県庁の担当者が思う南薩の灌漑事業を垣間見ることができる。本書において、著者はエッセイ風に灌漑事業そのものには関係がないことや、少し気の利いた文明批評的なことをも書こうとするのであるが、正直なところ、その部分はあまり面白いものではない。見方が凡庸で、オヤジの床屋談義の域を出ないような退屈なものだ。面白いのはいかにも役所風な記載のところで、データと建前論的な無味乾燥な文章が続くけれども、ここは実直に書いていて、さすが元担当者というか、現場にいた人間の息づかいが感じられる。
読み物として面白いものでもないが、あと何十年かして南薩の灌漑事業について振り返る時が来たら、必ず繙かれるべき本であると思う。このような資料的価値が高い本が、鹿児島県内の図書館にはほとんど置かれていないというのはゆゆしきことである。ちなみに、鹿児島市にあるジュンク堂書店には在庫がたくさんあったようなので必要な方はそちらでお買い求めありたい。
著者は鹿児島県庁にかつて勤め、南薩における灌漑事業を手がけた人物。今は、農業のテーマパークである「アグリランドえい」に附設された学習施設である「畑の郷 水土利館(みどりかん)」の管理人を務める。
私は、本書をフォトエッセイ的なものかと思って手に取ったのだが、実際には写真と文章はあまり関係がなく、写真はいわば刺身のツマとして添えられるに過ぎない(ちなみに写真は頴娃に住む写真家の東 桂子さんという人の作品)。中心は、南薩の灌漑事業を推進した著者が、実際に事業の行方を見つめながらいろいろ感じたことや考えたことである。
灌漑事業自体は、大規模な畑地を形成し、生産性の高い農業を実現できたという点で成功したけれども、人々が生きる条件が変わったことで集落のありようも少しずつ変わっていき、非常に大きな影響を及ぼしたということに関しては功罪がある。昔の悲惨な農民の暮らしということを思う時、灌漑事業は大きな価値があった、と著者は振り返り、基本的にその価値を今でも信じているのであるが、どうもそうとも言い切れない部分があるのか、あるいは灌漑事業だけでなく、個々の農業経営まで地道に革新していく努力をもう少しすればよかったという後悔があるのか、少し文章の歯切れが悪い。
だが、その歯切れの悪さというか、言い訳じみた部分が本書の魅力の一つでもあり、県庁の担当者が思う南薩の灌漑事業を垣間見ることができる。本書において、著者はエッセイ風に灌漑事業そのものには関係がないことや、少し気の利いた文明批評的なことをも書こうとするのであるが、正直なところ、その部分はあまり面白いものではない。見方が凡庸で、オヤジの床屋談義の域を出ないような退屈なものだ。面白いのはいかにも役所風な記載のところで、データと建前論的な無味乾燥な文章が続くけれども、ここは実直に書いていて、さすが元担当者というか、現場にいた人間の息づかいが感じられる。
読み物として面白いものでもないが、あと何十年かして南薩の灌漑事業について振り返る時が来たら、必ず繙かれるべき本であると思う。このような資料的価値が高い本が、鹿児島県内の図書館にはほとんど置かれていないというのはゆゆしきことである。ちなみに、鹿児島市にあるジュンク堂書店には在庫がたくさんあったようなので必要な方はそちらでお買い求めありたい。
2013年6月4日火曜日
『僧侶と海商たちの東シナ海』 榎本 渉 著
9-14世紀の日本と中国大陸間の僧侶の動きを追った本。
私自身の興味としては、僧侶よりむしろ海商の方にあり、この期間に海商たちが東シナ海においてどのような活動を繰り広げていたのか、という疑問を念頭に置いて読み始めたのであるが、実際には海商についての記載は少ない。
著者はもともと仏教史の専門家ではなかったが、必要に迫られて仏教側の史料を読み込むうち、ちゃんとした記録がたくさん残っていてこれをその他の史料と対照することでより具体的な渡航の姿がわかるということに気づき、次第に仏教史側へと傾いていった。本書では、むしろ僧侶の動きが話の筋になっており、海商はそれにスパイスを添える存在に過ぎない。
そして本書で述べられる僧侶と海商の関係を一言で要約すれば、「遣唐使以降は、日中間には海商の日常的往来があり、それによって僧侶が移動することができた。また僧侶は海商経由で大陸の情報を入れることも多かった」となるだろう。つまり、海商は僧侶の渡航のツールとしてしか描かれていないのである。
そういうことで、本書では、あくまでも僧侶が主人公であるために、私が期待していたような海商の実態はほとんどわからなかったし、僧侶に関する記載もかなりマニアックなことが多く、著者自身の研究ノート的な、やや散漫な記載も見受けられる。素人考えだが、著者の専門の通り、海商の動向を中心に据えつつ、僧侶を脇役にして描いた方が、完成度の高い本になったような気がしてならない。
僧侶の渡航の実態については詳細な記述があるので、そこを知りたい向きにはよいだろうが、タイトルが内容と乖離している本。
私自身の興味としては、僧侶よりむしろ海商の方にあり、この期間に海商たちが東シナ海においてどのような活動を繰り広げていたのか、という疑問を念頭に置いて読み始めたのであるが、実際には海商についての記載は少ない。
著者はもともと仏教史の専門家ではなかったが、必要に迫られて仏教側の史料を読み込むうち、ちゃんとした記録がたくさん残っていてこれをその他の史料と対照することでより具体的な渡航の姿がわかるということに気づき、次第に仏教史側へと傾いていった。本書では、むしろ僧侶の動きが話の筋になっており、海商はそれにスパイスを添える存在に過ぎない。
そして本書で述べられる僧侶と海商の関係を一言で要約すれば、「遣唐使以降は、日中間には海商の日常的往来があり、それによって僧侶が移動することができた。また僧侶は海商経由で大陸の情報を入れることも多かった」となるだろう。つまり、海商は僧侶の渡航のツールとしてしか描かれていないのである。
そういうことで、本書では、あくまでも僧侶が主人公であるために、私が期待していたような海商の実態はほとんどわからなかったし、僧侶に関する記載もかなりマニアックなことが多く、著者自身の研究ノート的な、やや散漫な記載も見受けられる。素人考えだが、著者の専門の通り、海商の動向を中心に据えつつ、僧侶を脇役にして描いた方が、完成度の高い本になったような気がしてならない。
僧侶の渡航の実態については詳細な記述があるので、そこを知りたい向きにはよいだろうが、タイトルが内容と乖離している本。
2013年6月2日日曜日
『幸せに暮らす集落―鹿児島県土喰集落の人々と共に―』ジェフリー・S・アイリッシュ 著

著者は世界的な一流大学であるエール大学を出て清水建設に入社、その後なんと甑島に移住し漁師の仕事をしばらくした後、ハーバード大学と京都大学の大学院で民俗学を学び、1998年から川辺の土喰(つちくれ)集落というところに移り住んだ。翻訳や論文の編集、講演で生計を立てながら、この限界集落の小組合長(自治会長)も務めるという、なんというか超弩級の変わりモノである。
その内容は、変わりモノの著者自身に関する部分はあまりなく、集落の日々の様子、おばあちゃんやおじいちゃんから聞いた話、そして後半は、集落の人間がどう死んでいったかというもので、特にこれというところはないのに引き込まれる。著者の人を見る暖かい目、それに細やかな観察眼、深い思索に裏打ちされながらも素朴にまとめられた文章が心地よい。
この本には、教訓めいた部分はほとんどなく、日本の片隅で静かに滅びゆく小さな集落の日常が淡々と描かれるだけである。それなのに、人間にとってとても普遍的な何かが伝わってくるような気がする。それが何なのか、明確に述べるのは難しい。内容を要約できる本ではなく、完成された文学のように、何も言っていないのに何か大事なことが述べられている本。
2013年5月19日日曜日
『砂糖の世界史』川北 稔 著
砂糖の生産と消費の動向を巡って世界史を逍遙する本。
岩波ジュニア新書ということで、その語り口は極めて平易なのであるが、内容は充実していて、砂糖という「世界商品」を巡って歴史が動いていく様子が生き生きと描かれている。
著者はイマニュエル・ウォーラーステインのいう「世界システム」、すなわち近代世界をひとつながりのものと認識する考えを援用しつつ、サトウキビの生産が不可避的に奴隷労働と植民地を生み出し、植民地のみならず本国の歴史すら動かす大きな力となったことを解き明かす。
こうしたことは、概略的には高校の世界史あたりでも習うことではあるが、著者の筆致は非常に具体的であって、一般論に陥ることなく、当時の事情から「どうして今ある世界はそうなっているのか」を説明している。
砂糖、という具体的な商材にフォーカスすることで、「世界システム」をリアリティをもって感じることができる内容である。モノが語る世界史、というのは個人的に注目していたが、本書を読んでこれからいくつかその類の本を読んでみたいと思わされた。
大げさに言えば、歴史を学ぶ醍醐味を感じることのできる本だろう。
【関連書籍】
『砂糖百科』高田 明和、橋本 仁、伊藤 汎 監修
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2015/09/blog-post_9.html
砂糖についての科学的知識を網羅的に提供してくれる本。
砂糖についてたった一冊で深く知ることができる。
岩波ジュニア新書ということで、その語り口は極めて平易なのであるが、内容は充実していて、砂糖という「世界商品」を巡って歴史が動いていく様子が生き生きと描かれている。
著者はイマニュエル・ウォーラーステインのいう「世界システム」、すなわち近代世界をひとつながりのものと認識する考えを援用しつつ、サトウキビの生産が不可避的に奴隷労働と植民地を生み出し、植民地のみならず本国の歴史すら動かす大きな力となったことを解き明かす。
こうしたことは、概略的には高校の世界史あたりでも習うことではあるが、著者の筆致は非常に具体的であって、一般論に陥ることなく、当時の事情から「どうして今ある世界はそうなっているのか」を説明している。
砂糖、という具体的な商材にフォーカスすることで、「世界システム」をリアリティをもって感じることができる内容である。モノが語る世界史、というのは個人的に注目していたが、本書を読んでこれからいくつかその類の本を読んでみたいと思わされた。
大げさに言えば、歴史を学ぶ醍醐味を感じることのできる本だろう。
【関連書籍】
『砂糖百科』高田 明和、橋本 仁、伊藤 汎 監修
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2015/09/blog-post_9.html
砂糖についての科学的知識を網羅的に提供してくれる本。
砂糖についてたった一冊で深く知ることができる。
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