2013年5月8日水曜日

『道教史』 窪 徳忠 著

古代から現代に至る中国における道教の歴史を追った本。

著者は道教研究の泰斗である窪 徳忠氏。1977年の出版ということで、近年注目を浴びて急に研究が進展してきた道教に関する著作としてはやや心許ないところもあるのだが(随所に「今後の研究に期待」と書いてある)、平易かつ実直に道教の歴史が纏められており、この分野の基本文献と呼べるだろう。

私自身の興味としては、宋代の道教に関心があって読み始めたのだが、それ以外の時代に関しても目から鱗が落ちるような記載がたくさんあり、蒙を啓かれる思いであった。

本書を通読して大変印象に残るのは、古来より仏教と道教はあまり区別されておらず、互いに大いに影響し合いながら発展してきたということだ。道教は民間信仰に立脚していたため、仏教のような体系的な教義や布教組織を持たない時代が長かった。だからきっと仏教に対抗意識があったのではと思いがちだが、著者によるとそうとも言えないという。むしろ仏教寺院に神仙の像が置かれたり、僧侶が道観(道教のお寺)で修行したりするなど、仏教側からの交流も盛んだったようだ。もちろん、道教側については言うに及ばず、神仙のみならず仏像も礼拝したのであった。

さらには、禅宗と道教の類似も言われてみれば著しいものがあり、禅宗とはある意味で道教化した仏教なのではないかと思うほどだ。ちなみに、宋代には儒仏道の三教を糾合させたようなコンセプトを持つ全真教が登場し、ここに道教と仏教の垣根は限りなく低くなったのであった。

本書は非常に勉強になるが、もちろん足りない部分もある。その一つが図像発展の歴史がほぼ全く取り上げられていないことである。本書が語る歴史のメインは時の政権と道教の関係にあり、 これはこれで重要だがビジュアルの情報がほとんどないのは残念だ。とはいっても、これはようやく中国に渡航できるようになった時代に出版されているわけだから、テキストベースの研究がメインになるのはしょうがない。

そしてもう一つが、教義史や政治史ではなく、民衆と道教との関わりがあまり丁寧に扱われていないことだ。民衆の信仰は文字に書かれないものだから、これもしょうがない面があるが、どのような社会階層の人が、どうしてその宗教を信仰したのか、というのは宗教学的には大変重要なことと思われるので、こういう面をもっと具体的に語れるように研究が進展して欲しいと願うばかりである。

いろいろと不完全なところはあるにせよ、本書はおそらく初めて纏められた一般向けの道教通史であり、その読みやすさ、情報量、そして著者の見識も含め全てが水準が高い。道教を深く知ろうと思ったら、必ず手に取るべき本であると思う。

2013年4月18日木曜日

『扇―性と古代信仰』吉野 裕子 著

扇の起源を古代の信仰から探る本。

扇とは何だろうか? 日本の芸能において扇は非常に大きな役割を担っている。能、日本舞踊、神事、落語などいろいろな場面で扇は様々な意味を付託され、扇一本が千変万化する。これらの芸能は、扇無しには成立しないと言ってもいいほどである。

しかし、この扇が一体何なのかということについて、著者が着目するまでほとんど研究されなかった。本書は、扇の本質を探求したおそらく初めての本である。

著者の主張は次のように要約できる。即ち、扇はもともとビロウの葉だったのであり、ビロウは男根を象徴するものであった。古代、神の顕現は男性と女性の結合による誕生を擬することによってなされると考えられていたが、その男性の象徴としてビロウが用いられ、それゆえにビロウの葉も神聖視されたのである。

私は、実は扇について興味を持ったのではなく、ビロウという不思議な植物に興味を持ち本書を手に取ったのであるが、なぜビロウが男根の象徴となったのかという点に関して、本書ではあまり説明がない。少し乱暴に言えば、「私がそう感じたのだからそうに違いない」という書き方になっているが、それは根拠としては弱い。

その他の点でも、きっとそうに違いない、疑いもなくそうである、という調子で推測が容易に断定に変化している箇所が散見され、全体の信憑性を低めている。

だが、沖縄では神木とされ、また天皇の大嘗祭においても重要な役割を果たすビロウという植物についてかつてこのような論考が纏められたことはないと思うので、古代研究に新たな視点を提供したという点で本書の意義は極めて大きい。推測が断定に変化している箇所は多いながら、当時の宗教学や民俗学の研究を見てみるとそう言う調子で書いている人は多いし、事実私は本書はエリアーデ的な書き方であると感じさせられた。

嚆矢であるがゆえに足りない部分も多いが、扇という広大な研究の沃野を切り拓いた本。

2013年4月16日火曜日

『日羅伝』台明寺 岩人 著

仏教公伝のころ、日本から百済に渡って高官に上り詰め、帰国し暗殺された日羅についての伝記的小説。

南九州に多くの事績を残す日羅について興味を持ち、少し勉強してみようと本書をノンフィクションのつもりで手に取ったら、実は小説だった。

というわけでところどころ飛ばしながら読んだのだが、小説としての出来は正直イマイチである。

難点を挙げれば、まずは小説としてのドラマ性がなく、年表風に日羅の生涯をたどるだけという筋が退屈である。そして文章表現の幅が乏しく、説明的・事務的な表現が多い。登場人物もどことなく平坦な印象で、いかにも作り物という感じがぬぐえない。味方の善人と敵方の悪人という構図も浅薄だ。

また、一番気になったのは時代考証が不十分であることだ。本書では宴会の場面が数回出てくるが、当時は今のようなアルコールはなく、酔っ払うまで酒を飲むことは考えられないのに、ほとんど現在と同じような宴会描写となっている。 さらに、百済や新羅、そして梁との交渉の場面において、通訳を通さずに会話がなされている点も気になる。当時の国際間の意思疎通は漢文による筆談だったと思われるので、リアリティに欠ける。

さらには、本書の本質とも言える日羅の情報量自体も多くない。日羅に関しては日本書紀以外の情報源が乏しいので、伝記的小説を書こうとすればどうしても日本書紀の内容を潤色するだけになってしまうのだろうが、このレベルであればわざわざ小説に仕立てる必要はなく、単に伝記(ノンフィクション)に留めてよかったのではないかと思う。

ただ、作者の気持ちになってみると、日羅の研究者でもない人間が伝記を書くことを躊躇う部分があったのだろうし、日羅をもっと多くの人に注目して欲しいという思いから気軽な小説という形をとったのだろう。しかしこの出来では、本書をきっかけに日羅に興味を持つ人は少ないと思う。

とはいうものの、本書には一つ救いがあって、巻末にある日羅に関わりある旧跡や神社仏閣の写真付きリストは貴重だ。著者自身が訪れた場所らしいが、こうした地味なフィールドワークをして本書を書いたというのは実直で好感が持てる。日羅は日本に与えた影響という点で謎が多く、探求しがいのあるテーマと思われるので、本書をかなり否定的に紹介したけれども、より注目が集まって欲しいと思う。

2013年3月23日土曜日

『石敢當』 小玉 正任著

沖縄及び鹿児島において、丁字路のつきあたりなどで見かける除災の石塔である「石敢當(セキカントウ、イシガントウ等いろいろな読み方がある)」について、その由来の文献調査を行った本。

石敢當の由来として、「中国五代の勇士の名」が挙げられることが多いのだが、本書の主要目的はこの俗説を完膚無きまでに否定することである。このため著者は多くの漢書典籍に当たり、こうした俗説がなぜ生じたのかを丹念に追う。

結論としては次のようにまとめられる。
  • 俗説の典拠を遡ると、『序氏筆精』が引用する『姓源珠璣』に行き着く(共に明代の書)。
  • しかし、『姓源珠璣』の原文にあたってみると、似たような話は書かれているが俗説の典拠となる部分はない。
  • どうやらその部分は『序氏筆精』の著者が引用にあたって勝手に付け加えた部分らしい。名のある学者がどうしてそのように改変して引用したのか不明。
  • というわけで、俗説が広まったきっかけとして『姓源珠璣』が挙げられることがあるがそれは間違いで、本当の犯人は『序氏筆精』なのである。
とまあ、このまとめを読んだだけでも分かるように、非常にマニアックな内容であるし、たったこれだけのことを何十ページもかけて論証するということで、石敢當に興味を持つものにとっても退屈な本であり、本というより研究ノート的な存在である。

ただ面白いのは著者の小玉さんで、この人は官僚出身で、沖縄開発事務次官にまでなった人。国立公文書館の館長も務めており、本書で漢書典籍の原文を縦横に渉猟するのは、公文書館での仕事(人脈)が活かされた結果でもある。小玉さんが石敢當に興味を持ったのは沖縄出張中に目にしたことをきっかけとしており、役人稼業の傍らで地道な研究を続けたらしい。その結果は、本書と、更に網羅的に研究を纏めた『日本の石敢当―民俗信仰』に結実している(未読)。

ちなみに、現代の代表的な石敢當研究者はもう一人いて(もう一人しかいなくて)久永元利さんというが、この人も学者ではなく趣味でフィールドワークをしている方である。こうした在野の人が主要な研究者というのは、石敢當というやっかいな習俗は、安定的に業績を出さなくてはならない大学所属の研究者としては難しいテーマだからなのだろうか。

ともかく、石敢當は在野の研究者が中心というニッチな研究領域であり、基本的な事実を積み上げることは重要なことなので、読んで面白いものではないが意義のある本。

2013年3月2日土曜日

『薩摩塔の時空―異形の石塔をさぐる』井形 進 著

薩摩塔の時空―異形の石塔をさぐる (花乱社選書)
近年研究が進みつつある「薩摩塔」について、著者の体験も交えつつ紹介する本。

「薩摩塔」とは、九州西岸に数十基が確認されているに過ぎない非常にレアな石塔で、中世に中国から渡来した商人が造立したのではないかと考えられている。

この石塔、数が少ないのは勿論のことその形も変わっていて、壺型の本体に仏が彫り込まれている。そして、どこの誰が、どんな目的で作ったのかも分かっていないという研究途上の石造物である。

それが、いろいろなきっかけがあったことで、著者も含め数人が平行して研究に着手し始め、2000年代に入って急速に研究が進んできた。そして、ある程度その研究にまとまりが見えてきたので、その成果をまとめておこうというのが本書執筆の動機だ。

その内容はどうかというと、研究内容の紹介以上に、著者の薩摩塔のフィールドワークの記録(いついつどこそこに行って○○を見た)が多く、正直ここまで書く必要はなかったのではないかと思う。だが、著者が一歩一歩研究を進めていく様をドラマ的に追いたい向きにはよいと思われるので、これは好みの問題かもしれない。

ところで、本書によって「薩摩塔とは何か」が分かるかというと、そこまでは研究が進んでいないというのが率直なところではないかと思う。著者の考えでは、塔の造立には神仙思想もしくは道教が関係しているのではということだが、まだまだ茫漠としている。今後研究がさらに進むことが期待されるテーマなので、もう少しまとまってからさらに執筆してもらいたい。

『日宋貿易と「硫黄の道」』山内 晋次 著

日宋貿易と「硫黄の道」 (日本史リブレット)
日宋貿易において日本からの重要な輸出品だった(と思われる)硫黄について、その貿易の実態を探る本。

日宋貿易と言えば、日本からは金が輸出されていたというが、量的には硫黄の方が大きいのでは? というところから、資料に残された硫黄貿易の記録を辿り、東アジアにおいて10世紀末から16世紀ごろまで硫黄貿易のネットワークが広がっていたことを推論し、それを「硫黄の道」と名付ける。

そもそも硫黄貿易に関する記録は少なく、論拠する資料が限定的にならざるを得ない。正直、「それだけしかないのか」というのが感想だ。そのため、当時硫黄貿易が盛んに行われていたこと自体は事実らしくても、定量的な話は今のところ一切できないし、具体的にどのような船でどのような人々が硫黄を扱っていたのかもよく分からない。

とはいえ、そのあたりの研究もないわけではないのだから、もう少し紹介したほうが親切だと感じた。800円(税別)もするにしては内容が薄い(87ページしかない)と言わざるを得ないが、硫黄貿易の研究は始まったばかりで、このように纏められたのは最初と思うのでその点は大いに評価したい。

『美の幾何学―天のたくらみ、人のたくみ』伏見 康治、安野 光雅、中村 義作 著

美の幾何学―天のたくらみ、人のたくみ (ハヤカワ文庫 NF 370 〈数理を愉しむ〉シリーズ)
伏見 康治、安野 光雅、中村 義作の三人が、対称性をテーマにして幾何学について語る本。

特に「美の幾何学」というものがあるわけではなく、これはキャッチフレーズ的につけているだけで、中身は三人が「これもきれい、あれもきれい」と語り合う内容。

私は本書が「幾何学における美の構造を探る」的なものかと思っていたのでかなり期待はずれな部分があった。さらに、取り扱っている内容もサワリだけをちょっと紹介して終わり、というようなものが多く、正直もう少しそれぞれの題材についてテーマを深めるべきだと思ったし、そのために鼎談の内容を大胆に編集する必要があったと思う(結構、とりとめもなくしゃべっている感じがする)。

ただ、対称性の幾何学のサワリを垣間見る、というだけなら悪い本ではない。特に内容があるわけではないが、ふーん、と眺めるにはちょうどよい本。