2025年10月23日木曜日

『鎌倉仏教の中世』平 雅行 著

中世仏教を顕密体制論に基づき再構築して語る本。

「顕密体制論」とは、中世仏教の基軸が顕密仏教(顕教と密教=南都六宗・天台宗・真言宗=旧仏教)であるとするもので、1975年に黒田俊雄によって提唱された学説である。

それまで、中世仏教といえばいわゆる「鎌倉新仏教」、つまり法然、親鸞、日蓮、一遍、道元、栄西らの宗派が中心だと考えられていた。しかし記録を徴してみれば、彼らの宗派が支配的になったのは戦国時代であり、中世を通じて大きな存在感と影響力があったのは顕密仏教だったのである。

この顕密体制論は学界に大きな衝撃を与え、中世仏教の研究を一変させた。ところが一般的にはこの事実はあまり浸透せず、やはり「鎌倉仏教」といえば「鎌倉新仏教」であると認識され続けている。そもそも、黒田俊雄の論文「中世における顕密体制の展開」はなかなか難解なものであり、黒田以降も顕密体制論に関する研究は数多いが、一般向けにわかりやすく解説された本は未だ存在していない。「鎌倉仏教=鎌倉新仏教」なる誤解が改められないのも故なしとしないのである。

そこで登場したのが、中世の宗教のありさまをわかりやすく体系的に述べる本書である。

なお、本書では顕密体制論という用語はあまり登場しない(終章を除く)。それは、顕密体制論はもはや「論」ではなく事実であるということ、そして本書は「顕密体制論に関心がある人」ではなく、「中世仏教に関心がある人」を対象としているということを表しているように思われる。

著者は本書を「顕密仏教がどのようにして鎌倉仏教の中核へと発展していったのか、その歴史的経緯と、顕密仏教の中世的実態をあきらにしようとするもの(p.9)」としている。 

「序章」では、前提知識として中世の顕密仏教が概説される。「関心がなければ読み飛ばしてくださって結構です(p.9)」としているが、ここは大変参考になる。

まず、当時の僧侶とはいかなるものだったか。僧侶には制度的に見ると①顕密僧、②遁世僧・聖、③異端の3種類があり、このうち顕密仏教の正式な僧侶は①顕密僧である。顕密僧は、受戒して国家制度上の僧侶(官僧)となったもので、受戒の他に官位・公請(くじょう)を得るという特徴があった。

官僧は、官位(僧位)[法師→大法師→法橋→法眼→法印]と僧官[律師→僧都→僧正]を持っていたが、この2系統が混淆して[法師→大法師→法橋→律師→法眼→少僧都→大僧都→法印→権僧正→正僧正→大僧正]と昇進するよう落ちついた(面白いことに「権大僧都」がこの昇進ルートにない。いつ現れるのだろうか)。

そして平民は大法師までしか昇進できず(つまり法橋以上は貴族としての扱い)、 法橋・法眼は数十貫文(数百万円)から百貫文で売買されたが、律師・僧都・僧正は学僧だけが補任された。顕密僧の昇進は実家の家格にほぼ対応していた。

公請は、朝廷が主催する仏事に招待されることで、この仕事を務めることが顕密僧の特権であった。なお鎌倉幕府の祈祷は最初は公請と認められなかったが、宗尊親王が将軍となった建長4年(1252)以降は将軍祈祷も公請と認められた。

また、上述の制度的僧位とは別に、顕教の場合は竪義(りゅうぎ)という口頭試問に合格すると「竪者(りっしゃ)・得業(とくごう)」という称号を手に入れ、また密教の場合は伝法灌頂を受けて正式の密教僧となると「阿闍梨(あじゃり)」となった。これらが今でいう大学院修士課程修了にあたるという。なお、阿闍梨になるには総額五百貫文(約5千万円)もの費用がかかったといい、「密教修法は全般的に非常にお金がかかります(p.17)」とのことである。 

なお、この伝法灌頂もお金があればできるというものではなく、先述の通り僧位は実家の家格(=官位)に連動しているので、実力はあっても官位が低いものが多い御家人の場合は顕密仏教界での立身出世や伝法灌頂が容易ではなかった。そのため、御家人子弟は家格にうるさくない禅宗に流れたのである。「武士の気風にあったので、禅が武士に広まったと言われたりしますが、何の根拠もない俗説です(p.18)」。

次の②遁世僧・聖は、上述の朝廷の官位体系からはずれた僧侶のことである。法然・親鸞・日蓮・貞慶・明恵など、鎌倉時代に仏教革新運動を担った者はいずれも遁世僧である(栄西を除く)。また禅律僧も遁世僧と見なされた。禅律僧とは、臨済系の禅僧と、俊芿や叡尊の門下である律僧をいう。遁世僧といっても、彼らは隠棲していたのではなく社会的に活動していた。それどころか臨済系の禅僧は、国家から認められていたにもかかわらず、朝廷の官位体系に組み込まれていなかったので遁世僧とされたのである。「そのため国師号・禅師号・菩薩号・上人号を付与して、顕密僧と異なる形で遁世僧に国制的な位置づけ(p.20)」が与えられた。

③異端は、国家によって弾圧された僧侶で、概念的には②に含めることができる。 

なお、①顕密僧と②遁世僧・聖では、僧服が異なっているため一目で違いが分かった(顕密僧=顕密装束/遁世僧・聖=黒衣)。しかし、一つ注意が必要なのは、在俗出家の人たち(つまりノンプロ僧侶)の服装である。彼らは、顕密僧を戒師として出家すれば顕密装束、聖を戒師として出家すれば黒衣を着た。在俗出家は見た目として①でも②でもありうるようなマージナルな存在だったのである。

「第1章 鎌倉仏教史観はなぜ破綻したか」では、中世仏教の研究史を振り返り、冒頭で述べたようなパラダイム変換について概説している。

鎌倉仏教史観は、そもそも中世をどのような時代と捉えるかという中世史観とも関連する。かつての中世史は、石母田正『中世的世界の形成』に代表される武士中心史観によって構成されていた。 これは領主制論を中心として、「武士中心史観を精緻なまでに論理化し、体系化し(p.34)」たものである。

これに対し、石井進の論文「院政時代」では、院政時代を中世社会の成立期と結論し、中世=武士ではない、ということが学界に大きな衝撃を与えた。そして「古代的」とされる「荘園領主」であった寺社や貴族が、中世を通じて何百年も命脈を保っていることが改めて認識され、古代勢力(寺社・貴族・朝廷)が10〜12世紀に「中世的な存在」として生まれ変わったのだという考えで「研究の潮流は一変(p.37)」した。

つまり、中世を理解するためには武士の研究だけでは十分でなく、寺院や朝廷のことをも理解しなければならない。そして武士と朝廷・寺社は対立していたのではなく、協調していた。こうして旧仏教の見直しが必要になり、その仕事をしたのが黒田俊雄だった。鎌倉新仏教といえば念仏・法華信仰・民衆仏教と思われているが、旧仏教にはすでに念仏信仰・阿弥陀信仰・法華信仰があり、また延暦寺や興福寺は貴族仏教だったのではなく民衆の世界と深く結びついていた。こうして「中世社会を貫く文化体系が旧仏教(p.42)」であることが徐々に明らかになった。

では、鎌倉新仏教とは一体何だったのか改めて問わなくてはならない。どうして貞慶や明恵など旧仏教を改革しようとした人や、法然や親鸞などの鎌倉新仏教の祖師が登場することになったのか。

これに対し、従来「貴族仏教である旧仏教が堕落・腐敗していたため、それを改革・復興しようとした人が現れ、また民衆へ向けて教えを説いた人が現れた」と言われてきた。

しかし、旧仏教が堕落・腐敗していた証拠はない。平安時代初期には律令体制の崩壊があり、仏教への国家的保護がなくなり質的転換を余儀なくされた。堕落・腐敗よりもこの質的転換の方がずっと大きな変化の要因である。 

また貞慶・明恵・俊芿・叡尊・忍性らは聖(つまり顕密僧ではない)であり、朝廷の保護を受けるようになってからも公請を受けていない。だからそれは「旧仏教の復興」とは言えない。叡尊らの律宗(西大寺流)も、従来の律宗とは全く別物になっている。彼らは旧仏教の内側から改革しようとしたのではなかったことは明らかだ。では貞慶らと法然らの違いは何か。著者は「鎌倉新仏教か、旧仏教の復興かの分類基準は、戦国・江戸時代の処遇のされ方(p.49)」にすぎないという。

そして著者は、この時代の仏教に改革派が次々と登場した要因を戦争だと考える。治承・寿永の内乱(1180〜85)と承久の乱(1221)である。

当時の仏教の最も重要な機能は「鎮護国家」である。にもかかわらず東大寺の大仏が焼け落ちた。なぜ仏法が敗北したのか、そこに当時の人々の深刻な反省があった。 

穏健改革派(貞慶・明恵・栄西・叡尊・俊芿)は、戒律を守ることによって仏法の力を取り戻そうと考えた。 これが鎌倉時代の革新運動の主流である。

急進改革派(法然・親鸞・道元・日蓮)はこれまでの仏法そのものに問題があり、新しい仏法を根本から考えようとした。彼らはこうして「仏法を純粋化し絶対化してゆくことによって、社会に鋭い批判の目を向け(p.57)」た。そのため弾圧されることにもなったのである。

なお、鎌倉・室町といえば禅宗の興隆が強調される。これは北条時頼が得宗権力を象徴するものとして禅を選んだことによる。しかし旧仏教も盛んであり、鎌倉・室町幕府は禅と旧仏教の併置政策をとっている。「鎌倉幕府に仕えた旧仏教の僧侶は、主要な人物だけでも400名にのぼり、その総数は数千名(p.61)」もいる。しかも「禅僧になった北条氏は5名ですが、北条出身で旧仏教の僧侶になった者は52名にのぼ(同)」る。このように、武士・幕府=禅という図式は事実に基づいておらず、この見解を打破する必要があるとのことである。

「第2章 中世人は神仏をどの程度信じていたのか」では、中世仏教と科学や技術との関係を述べている。 

従来「日本中世を呪術からの解放の時代と捉える見方と、それを否定する見解が真っ向から対立(p.63)」してきた。中世人はそう簡単に神仏を信じていたわけではないと考えられる事実がありながら、呪術が盛んに行われていたことも事実である。実態はどうであったか。著者は4つの側面からこれについて考えている。

第1に、中世では密教修法が盛んに行われた。太元帥法(たいげんのほう)という天皇を護持する修法は、仁寿元年(851)から明治維新まで行われ続けた。しかもこれは効き目が大きいということで天皇家が独占した。

中世では呪詛を行う密教修法が異常な発達を遂げ、「仏教による呪詛が宗教的暴力の頂点に立った(p.67)」。呪詛は実際に効力があると信じられており、呪詛から身を守るために「護持僧」が必要だった。天皇の護持僧は、3名が別々に一日3回祈祷を行っており、天皇の体調に何の問題がなくても年3000回以上の祈りが行われた。平清盛や源義朝にも護持僧が確認できる。日本中世では、宗教の暴力も武士の暴力と同様に重要であり、「それゆえに中世の宗教勢力は大きな力を持つことができた(p.71)」。なお江戸時代の将軍に護持僧はいない。

第2に、中世では合理的思考が発達した。『東山往来』では、いろいろな俗習に対して文献を調べて「何の根拠もない」などと指摘しており「迷信や俗説に囚われない合理性が顕著(p.73)」である。また、中世の仏教は非常に高いレベルで経典が研究された。例えば、法華八講では、経典の意義について問答が行われたが、そのためには経典の内容が頭に入っていなければならないだけでなく、その研究史まで頭に入っていなくてはならない。

院政時代には論議が興隆して仏教文献学を大いに発展させた。これが「論拠を示したうえで自分の考えを述べるという、挙証主義の精神を広くゆき渡らせ(p.77)」た。

これは、一見呪術の発達と矛盾するように見える。仏教の言説には呪術性があったが、同時にそれは高度な合理性をも持っていたということだ。中世の顕密仏教は「高い合理性を保持した呪術」であると規定できる。

第3に、中世は「仏教医学の時代」でもあった。中世の仏教的医学書として『頓医抄』や『喫茶養生記』が挙げられる。それらには迷信ばかりでなく、人体解剖の結果を踏まえるなど実証的な考えも見られる。僧侶たちは医学的知識を持っていた。中世仏教の強さの根本は「文化的パワー(p.80)」にある。

第4に、中世では「神仏が万能でないことを説く文献が非常に多い(p.80)」。前世からの宿業が規定するとか、神仏に祈るだけでなく努力も大事だとか。鎌倉幕府の裁判では、証言が食い違う場合など神社に参籠して神判を受けるといった手続きがあったが、それにしても恣意的な運用ができないよう工夫されていた。神仏万能の時代ではないのである。

これら4点をまとめて、「中世仏教は、呪術からの解放と、呪術性の深化・拡充という二つの側面を併せもつ(p.85)」ものであったとし、「高度な合理性をもった呪術であったがゆえに、顕密仏教は中世社会に広く深く浸透することができた(同)」としている。

なお、本章を読みながら、私自身は「中世の人は宗教と技術の境目を意識していたのだろうか?」と疑問を持った。例えば著者は「人間の力でできることは人がやる。やれないところは神仏に頼る、これが中世という時代(p.84)」とか、「病の原因を、人間の身体や生活様式に直接原因があるものと、宗教的要因との二つに分けて…(p.79)」など、非宗教と宗教という二元的な記述しているが、当時の人の意識がどのあたりに境目を感じていたかはまた別に考えなくてはならない問題ではないだろうか。

栄西の『喫茶養生記』で「五臓の不調による病と、鬼魅(きみ)による病という二元的病因論をとってい(p.79)」ることを考えると、当時も境目を意識する人はいた。しかし一般にはどうだっただろう。栄西が境目を考えていたとしても、一般人は境目を感じていなかった可能性が大きいような気がする。そもそも「宗教」という意識はなかったことは確実で、ではどのような意識(「神仏」なのか「鬼魅」なのか)でいわゆる「宗教の領域」を捉えていたのか。これについては改めて考えてみたい。

「第3章 中世延暦寺をどのように捉えるか」では、中世延暦寺を多様な側面から検討している。

私自身、中世仏教を理解するには延暦寺の理解が必須だと痛切に感じていたので、本章は大変参考になった。本章ではまず(1)延暦寺の中世的転生、(2)治承・寿永の内乱における危機克服、(3)顕密系浄土教の社会的広がり、の3つが述べられる。

(1)延暦寺の中世的転生:10世紀には律令国家体制が限界を迎え、租税制度が人頭税中心から土地中心に変化した。それにより僧侶の免税特権が失われて得度を制限する意味もなくなった。その他の面でも「規制緩和・民営化・地方分権、そして大きな政府から小さな政府への転換(p.92)」が起こった。寺院は、もはや国家を頼りにできず、民衆の世界に積極的に進出することが必要となったのである。

一方、地方には武士が進出して国衙を私物化した。「暴力団が県庁を乗っ取って、行政権・警察権・裁判権を握ったようなもの(p.93)」と著者は言う。規制緩和・地方分権なので、弱肉強食の世界になった。そこで民衆は我が身を守るために「悪僧と提携した(p.94)」のである。

延暦寺や興福寺の悪僧たちは、「国司や武士に不満をもつ地域民衆を神人や講衆に編成(同)」した。そういう身分を持っている人を武士が殺害すれば大問題になるのである。寺院も抗議するし、神人は神仏に加護されていると信じられてもいた。

地域住民はそれまでも国司の苛政を訴えてきたが、11世紀には百姓らの「訴えが消滅し、代わって強訴が登場(p.95)」することは、寺院が民衆の後ろ盾になっていったことの傍証である。「地域を食い物にしている国司や武士に対する地域民衆の怒りを、中央政府に反映させる手段が強訴(p.96)」であり、それは民衆運動の側面を持っていた。そして興福寺や延暦寺の保護を受けるため、各地の寺社が末寺末社へとなっていった。

こうした背景で、すでに院政期には仏教の教えは民衆的世界へ広がっていた。禅瑜『阿弥陀新十疑』、良源『極楽浄土九品往生義』などでも「悪人往生や悪人成仏は常識(p.97)」となっている。『中右記』元永3年(1120)2月12日条で「極楽往生したければ念仏だけ称えればよい」と書いてあり、また大治2年(1127)5月4日条では、河内国の平凡な人妻が念仏を専修している様子が書いてある。法然が民衆に対して念仏信仰を説く半世紀以上前のことである。

また寺社領荘園の成立が在俗出家の盛行を生みだした一因ではないかという。

民衆世界への進出の一方、学問的にも仏教は興隆した。院政期には、二会・四灌頂・三講という法会体系が整備され、鎌倉時代に基幹的制度となった。 [二会=南京三会・北京三会]、[四灌頂=尊勝寺・最勝寺・東寺・仁和寺の結縁灌頂]、[三講=宮中最勝講・法勝寺八講など]であるが、要するに僧侶として出世するためには口頭試問や議論に強くなければならず、学問を研鑽する必要があったのである。さらに、僧侶として期待される学問は幅広く、医学・天文・兵法・農業技術・算術・卜筮・管弦などまで含み、「顕密寺院は一種の総合大学のような存在(p.107)」であった。

こうしたソフトパワーが延暦寺の強靱さの根源にあった。 

(2)治承・寿永の内乱における危機克服:第1章のメモで、治承・寿永の内乱で大仏が焼け落ち、仏法が敗北したと述べたが、そういう反省は仏教内部で起こったもので、権力者は仏法が無力だとは考えなかった。後白河は寿永2年(1183)に顕密の高僧を動員して百壇大威徳供という非常に大規模な修法を実施している(木曽義仲の滅亡や平家の敗北はこのおかげだと当時の人は受け取った)。また東大寺を焼いた平家が滅亡したことは仏罰の明証と考えられた。

そのため、後白河は復権するといち早く仏教の再建事業に取り組んでいる。「堂塔の再建、仏神事興行、そして所領回復・新寄進が執り行われ、顕密仏教は復興ブームに沸く(p.114)」こととなった。なお禅宗と念仏宗の禁止は、復興ブームの余勢によって行われたものだという。

また、承久の乱の場合はそれが後鳥羽の「積悪」「逆徳」に帰せられ、顕密仏教にはほとんど影響を与えていない。

(3)顕密系浄土教の社会的広がり:従前の浄土教の発達史は法然・親鸞を終点にしていたが、むしろ法然・親鸞とは異質な「顕密系浄土教」こそが中世浄土教の本流であった(はっきり書いていないがこの用語は著者によるものと思われる)。

当時は非常に多くの人が在俗出家を行った。鎌倉時代の評定衆は半数以上が在俗出家だったし、百姓の世界でも村の指導者層のかなり多く(鎌倉末・南北朝期には3割)が在俗出家であった。 それらの出家は専修念仏とは関係なく、顕密系浄土教に基づいていた。 

これまで閑却されてきた顕密系浄土教の実態解明は今後の課題である。

これら3つの点を踏まえ、本章の最後に「延暦寺と中世社会」として延暦寺の権力構造と延暦寺の武力、僧侶の妻帯について簡潔に語っている。

延暦寺の権力構造:延暦寺といえば「天台座主」だが、延暦寺はトップダウンの組織ではなかった。天台座主が大衆によって放逐された事例まであり、座主は下部組織に手を焼いていた。鎌倉時代には門跡へ権力が移って天台座主には政治的実権が失われる。門跡はいくつもあったので、さらに権力構造が複雑化することとなった。

延暦寺の武力:朝廷は寺院境内の検断権を認めていたが、過剰な軍事力を持つことは禁止した(兵仗禁止令)。しかしながら、民衆の動員ということを考えると、重要なのは制度的軍事力よりも多数を動かすことばの力である。平安・鎌倉の悪僧には学僧が多いことはそれを示している。 「教理に卓越した学僧が悪僧の中心(p.128)」となったのは、延暦寺の武力の実態を示唆するものである。

僧侶の妻帯:中世になると僧侶の妻帯が国家によって処罰されなくなり、妻帯は普通のこととなった。これは法皇に原因があるのではと著者はいう。法皇は出家後も子をもうけていたからだ。また、戒律も守ればいいというものではないというような意識があったらしい。それが仏教の本質ではないと考える僧侶もいた(栄西など)。

中世延暦寺を考える上では、こうした多様な側面を考慮に入れる必要がある。

「第4章 道元禅は輸入仏教なのか」では、 道元の思想がオリジナルなものであることが論証される。

かつて家永三郎は道元について、「大陸仏教を機械的に移植したものにすぎない」と評した。 しかし「宋朝禅の展開から道元思想は説明できない(p.134)」。

まず、道元は日本の顕密仏教(と当時の禅宗)を全否定していた。日本には「正師」がおらず「仏法」も広まっていないと彼は断じる。なぜ道元は自ら(のみ)が仏祖相伝の仏教を知っていると思っていたのだろうか。いろいろな宗派があって「どれが真実の仏法なのかわからない」というならわかるが(実際、道元は「曹洞宗」といった宗称を拒否した。真実の仏法はただ一つのはずで宗派があるのはおかしいと考えたのだ)、真実の仏法はどこにもないと断じたのはなぜか。ともかく、彼の目から見て、顕密仏教も禅宗も本来の仏教の在り方から逸脱しているように見えたのは間違いない。

それは、それらが権力者のためのものになっていたからで、これは法然・親鸞・日蓮らが仏法至上主義的に権力と対峙したのと一脈通じるものがある。法然と日蓮は治承・寿永の内乱や承久の乱を目の当たりにしてその思想を形成したのだが、道元の場合はどうか。

道元は入宋して天童如浄に師事しその印可を受けている。道元は如浄を反権力の人物として記録しているが、実際の如浄は反権力でもなければ脱俗的でもない人物だったようだ。にもかかわらず道元は帰国後、「顕密仏教による鎮護国家を否定し、天下太平を実現するには「真実の仏法」の新たな導入が必要だと主張(p.145)」し、また仏法(仏勅)を王法(王勅)より優越するものだとした。道元の仏勅優位論は宋朝禅から受け継いだものでないことは明らかだ。

著者は、道元の場合も承久の乱を契機としてこうした考えに傾いたと考える。俗権に迎合する仏法だからこそ承久の乱での敗北に帰結したというのだ。つまり道元の思想形成においても、法然や日蓮と共通して戦争の影響が色濃かったとしている。

なお、朝廷はあらたな宗派の設立には勅許が必要としており、達磨宗と念仏宗を勅許なき立宗として弾圧した。道元はこれに反対し、また興聖寺を「一向禅院(禅だけの寺院)」として創建した。達磨宗が禁じられていることでも分かる通り、顕密仏教は禅を快く思っておらず、栄西の建仁寺も禅と天台・真言との併置によって開創が認められていた。しかし道元はこうした政策と手続きを無視し、勝手に「一向禅院」を設立したのである。

朝廷はこれを当然に問題視し、興聖寺を破却し道元を京都から追却した。面白いのは、この弾圧にかかわった俊範という延暦寺の僧侶(なんと日蓮の延暦寺時代の師匠!)が、専修念仏の弾圧にも関わっていたことだ。ともかく、この弾圧によって道元は権力への反感を強めたことは間違いない。

この後、道元は北条時頼に招聘された。将軍と得宗の権力闘争において顕密僧の多くが将軍方についたことで、時頼は「幕府の宗教政策を劇的に改め(p.156)」、将軍方の顕密僧を追放して北条家が顕密仏教界を掌握し、さらに得宗権力に相応しい新たな仏教を求めて禅宗の保護を考えたのである。ところが、仏法至上主義を掲げる道元は時頼の肌に合わず、道元に代わって蘭渓道隆が登用されることになった。

こうして道元は権力に背を向けるようになり、俗権が優越する社会への失望と諦念が「最終的に道元を道元たらしめることになった(p.159)」。

なお、蘭渓道隆の建長寺は「一向禅院」で、これは時頼が朝廷の政策を無視して創建したものである。得宗権力の確立の中で、興福寺や延暦寺はこの措置に反対できなかったようだ。建長寺は「一向禅院」であることによって顕密仏教に風穴を開けたという重要な歴史的意味がある。

「第5章 歴史にみる差別と仏教」では、仏教が差別とどう関わっていたかが述べられる。

本章では、まず奴隷と非人身分について整理している。奴隷は売買や相続の対象となった人、つまりモノとして扱われた人で、中世ではその存在が認められていた。それどころか奴隷を獲得するための戦争が行われ、奴隷は南蛮貿易では日本からの主要な「輸出品」であった。

この奴隷が非人=中世被差別民となっていったのではない。当時は貧民や病人も多かったが、それがただちに非人となっていったのでもない。詳しい話は割愛するが、物乞いが活発化する中で、物乞いの場所(乞場)を巡っての抗争が行われ、これに勝利して京都の乞場を独占した清水坂の人々が非人身分となっていった。これに仏教がどう関わったかであるが、人々が物乞いに応じたことの背景に浄土教があったのである。

また叡尊は非人救済の社会活動をしたことで有名であるが、一方彼は非人を悪業の結果とする因果応報思想を持っていた。癩者や身障者は罪深いからそうなったというのである。癩者は悲惨であれば悲惨であるほど仏教に都合がよかった。そしてそういう罪深い存在を救済することが善行であると位置づけられた。非人たちも「せめて来世では救われたい(p.191)」と考え、神仏への奉仕に励んだ。こうして「彼らは領主権力の最末端の暴力装置に編成されて(同)」いき、「京都の非人は延暦寺に組織され、奈良の非人は興福寺の配下(同)」となった。非人は寺院が統括したのである。

一方、法然や親鸞は少し違った人間観を持っていた。彼らは「すべての人間は等しく凡夫であり悪人である」と考えた。彼らは人間の能力の平等を説き、「格差の自己責任論から仏教を解き放った(p.195)」。

なお本章の最後には仏教の女性差別の問題についても簡単に触れている。仏教には女性差別的言説が多かったが、道元はそれを真正面から批判している。

「第6章 神々の中世」では、(1)中世社会と宗教との密接な関係、(2)神社制度の中世的展開、(3)神国思想、について述べている。 

(1)中世社会と宗教との密接な関係:中世では宗教の力が実体的なものとして捉えられていた。モンゴル襲来の後、従軍した御家人にはほとんど恩賞が与えられていないのに、寺社には莫大な恩賞が与えられた。

(2)神社制度の中世的展開:10世紀における律令体制の崩壊によって古代的神社制度(神祇官、幣帛班給)は衰退し、院政期には[宗廟−二十二社−諸国一宮]という中世的な神社制度へと転換した。諸国一宮は国家によって定められたものではなく地方で成立したが、国家は一宮を税制優遇した。

また院政時代には、国衙祈祷体制と本末関係という二つの秩序が登場した。国衙すなわち地方の官庁が有力寺社を編成して国内(地域内)の五穀豊穣・鎮護国家を祈らせたもので、その見返りに公領の一部を免田として与えた。また国衙直属の顕密僧を置いた。これが国衙祈祷体制の中核となった。

さらに院政時代には、神仏習合が劇的に進んだ。神仏習合を主導したのが院権力である。大江正房は神仏習合を推し進めるブレーンだった。こうした政策が行われたのは、律令国家の崩壊による神祇政策の動揺を神仏習合によって沈静化させる目的があったと見られる。神の本体が仏とされたことには、原始的な動物神などが仏法によって合理化され、人々の知的な発展に適合していたという側面もあった。 

(3)神国思想:ここが本章の中心である。これまで神国思想は様々に議論されてきたが、それが「仏国思想」と一体であったことも留意すべきだと著者はいう。神=仏であるならば、神国は仏国でもあるからだ。そもそも、仏教的な世界観、すなわち日本の外にも広大な世界が広がっており、日本は辺境に過ぎないという世界観がなくては、神国思想が成り立たない。

「日本は辺境に過ぎない」という世界観を裏返して「日本は大乗仏教の中心地だ(『扶桑略記』『転法輪抄』)」とか「仏教が繁栄しているのは日本だけだ(『興禅護国論』)」といった「自尊的仏国観」が現れてくるのである。そして日本が仏法を担う特別な使命を持った国だという主張が起こり、日本は独鈷の形をしているという日本独鈷論も現れた(坊津の輝津館所蔵「独鈷型日本図」)。

さらにモンゴル襲来後には、伊勢神宮の心御柱が南閻浮提の中央にある須弥山にあたるという言説が現れ「日本は三千大千世界の中心だ」とされた(『渓嵐拾葉集』)。南北朝時代の歴史書『帝王編年記』では、世界史の根源が日本だとまで言われている。このように日本を特別な仏国と見なす観念が神国思想の母体となった。

モンゴル襲来後に神本仏迹説が登場する。これは、仏の本体が神であるという説である。西田直二郎はこれを「反本地垂迹説」と呼んだがこれは不適切で、本地垂迹説を否定したのではなく本地垂迹説をさらに進めた考えである(吉田兼倶『唯一神道明法要集』)。そもそも神本仏迹説を創唱したのは東密の智円『鼻帰書(びきしょ)』で、その次が延暦寺の慈遍の『旧事本紀玄義』である。仏教界で言われていた日本優越論から、仏教の始原がインドではなく日本であるという主張がなされるようになったのである。このように神国思想は国粋主義的であったが、中国の文化を相対化し、日本文化の自立を促したという意味もあった。

従来、神仏隔離が徹底されていた伊勢神宮でもモンゴル襲来後には伊勢神宮に隣接して巨大寺院(法楽堂)が建立され、伊勢の神々を活性化させる祈りを捧げた。院も伝法灌頂を受けるようになり、異例なことに後醍醐天皇は在位中に伝法灌頂を受けている。モンゴル襲来後の寺社への保護と仏教の保護は綯い交ぜになり、顕密仏教は最盛期を迎えることになるのである。

最後に、著者は神国思想を打ち砕いたのはヨーロッパ人がもたらした世界地図だったとしている。仏教的世界観がフィクションであったことが明らかになったからである。

「終章 顕密体制論と私」は、著者の大阪大学での最終講義を再構成したものである。

大学生の時に歴史学から足を洗おうとしながらも仕上げた卒業論文が親鸞に関するもので、著者は「ダメになっていく親鸞を共感をこめて描(p.246)」いた。これが独特な視点で、後に『歴史のなかに見る親鸞』の最終章に使われている。

学問的に先が見通せない中で、著者は修士1年の冬に『昭和新修法然上人全集』と古本屋で運命的な出会いをする、そしてそれまでの法然研究を根本的に見直して「法然の思想構造とその歴史的位置」という修士論文を書いた。これが著者のデビュー論文である。著者は、法然は「行の仏教」「知の仏教」から「信の仏教」へ転換させたとし、「「信の仏教」を初めて提起した点で、法然は仏教の歴史のなかで画期的な人物(p.251)」と評価する。

この論文は学会・宗門からあまり取り上げられなかったが、黒田俊雄の顕密体制論に支持を表明した学界初の論文でもあった。そして、この法然論によって著者の中で確乎として存在していた井上光貞の浄土教発達史が瓦解し、中世史を再構築する必要に迫られた。そして博士課程で荘園文書に取り組んだ時、そこには教理史には現れなかった顕密仏教の姿があった。

そして、思想・教理ではなく宗教政策を基軸として中世仏教を理解し、結果的に思想に肉薄するという「歴史学的思想史」に取り組んで行くのである。そして著者が勢力を傾けたのは鎌倉幕府の宗教政策研究である。「鎌倉幕府も王朝国家に包摂されていたことを改めて論証しない限り、顕密体制論に未来はない(p.264)」と考えたためだ。著者の緻密な研究の結果、鎌倉幕府の宗教政策は時頼の時代とモンゴル襲来の2度転換したこと、顕密僧が幕府に大量に重用され、顕密仏教は依然として国家的仏教として君臨していたことが明らかになったのである。

また著者が黒田俊雄から受け継いだ仕事として黒田俊雄編『訳注日本史料 寺院法』がある。これには28年かかったという。 

最後に顕密体制論の課題として「総合的把握の模索」と「宗派史の新たな探求」が挙げられている。本書はこの「総合的把握」の試みであり、現段階での顕密体制論の「教科書的な本」といって差し支えないと思う。 

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本書は全体として、まず非常に読みやすい。講演調の文体が理解しやすいし、読者が段階的に理解を深められるように配慮されている。本書は高校の歴史の先生を読者に想定して書かれたもののようだが、この分野に関心のある人ならば通読は難しくない。

次に、タイトル『鎌倉仏教の中世』が非常によい。このタイトルにしたことで、「鎌倉仏教」つまり一般的には「鎌倉新仏教」に関心がある人が本書を手に取ると思われる。しかし本書の中心は、法然や親鸞ではなく、中世を通じて顕密仏教がいかに重要であったかという主張なのだ。つまりこの書名には、「鎌倉仏教」を「顕密仏教」に上書きするという意図があるのだろう。顕密仏教は未だ必ずしも一般的な用語ではないが、今後この用語は広く通用するものになるだろう。

また、本書は仏教を語るものでありながら、思想について深入りしない。というより、思想だけを見ていては見えないものを積極的に語ろうとしている。例えば「序章」の「阿闍梨になるには総額五百貫文(約5千万円)もの費用がかかった」というようなことは、思想よりもずっと強く人間の行動を規定する事実を示している。宗教政策が最も重要であるが、それだけでなく、その制度がどう運用されたのかというところまで目配りして語られているのが大変わかりやすく啓発的である。

そして、黒田俊雄の顕密体制論からより進んだ主張がなされていると思われる部分を私が分かる範囲で述べておきたい。

第1に、本書では顕密仏教が中世仏教の中心であったことが国家制度から論証される。黒田の場合は、国家を超越したものとして仏教が捉えられ、顕密仏教が「全思想を包摂するものであった」というような思想的な面が重視された。そして黒田は、権門体制論の論述の中で、権門を超える権威として天皇と仏法が重要となったと考えた。しかし本書では権門体制論にはほぼ触れられていない。権門体制論を前提にせず、国家制度を中心として顕密仏教を位置づけ直しているのである。

第2に、本書では悪僧の活動が民衆運動の側面があったと評価される。黒田の場合は、悪僧の活動は仏教の腐敗・堕落であるという意識があったように思う。寺院領荘園が拡大していく中で、実務を担当する悪僧たちが力をつけ、天台座主のいうことを聞かなくなり、上層部を振り回す形で強訴が行われたという見方である(黒田俊雄「延暦寺衆徒と佐々木氏—鎌倉時代政治史の断章」)。ところが本書では、延暦寺にとっては民衆を取り込むことが必要だったため、民衆上層部に神人などの社会的立場を与えることで民衆と提携したと考える。悪僧は民衆の要求を代弁する立場へと評価が180度変わったのである。

第3に、 本書では禅宗の鎌倉幕府における国家的位置づけを一変させた。黒田は、顕密体制を「日本中世の国家と宗教との関係の基本構造」と述べ、それが中世を通じて存在したと考えたが、禅宗がそこでどう位置づけられるのかとう検討は甚だ不完全だった。著者はこれを遺憾とし、鎌倉幕府の宗教政策を詳細に分析して、武士=禅という図式が思い込みにすぎないこと、むしろ顕密仏教は鎌倉時代にも禅よりもずっと大きな力があり基軸であったことを示した。これは黒田の論を大きく補強・発展させるものである。

第4に、本書では顕密仏教が非常に高い学問的水準にあったことを示している。黒田の場合は、顕密仏教の呪術性が強調されるきらいがあった。ところが著者は、顕密仏教の僧侶たちが高い学問的水準にあったことを、個別的な僧侶の学識ではなく、二会・四灌頂・三講という法会体系から明解に示した。そして呪術と合理的思惟との共存を「高い合理性をもった呪術」という概念で捉えている。 また、僧侶の学識を「文化的パワー」と捉え、顕密仏教の力の根源をそうした点においている。顕密仏教は国家的に承認されてはいたが、そのために存立したのではなく、文化的パワーによって盤石だったのである(ただし、これは黒田も似たようなことを述べている)。

第5に、本書では鎌倉時代に仏教の改革派が次々と登場したことを戦争の影響とみなしている。 黒田の場合は、仏教革新運動の登場の理由を思想的なものとみなし、社会的な要因はあまり語っていない。一方、著者は有り難いはずの仏法が有効に働かなかったという戦争の経験が改革運動の引き金になったと考える。これは現段階では一つの仮説であり、今後検証がなされるであろう。

以上、大変長いメモになってしまったが、本書は顕密体制論の現段階の到達点に位置づけられるものである。今後、顕密体制論の歴史的展開を明解にする編年的に書かれた本が登場することを願ってやまない。

顕密体制論の現段階での教科書。

【関連書籍の読書メモ】
『日本中世の国家と宗教』黒田 俊雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/06/blog-post_22.html
日本中世の国家と宗教の在り方を考察した論文集。中世社会への見方を一変させた記念碑的論文集。

『日本中世の社会と仏教』平 雅行 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/01/blog-post_19.html
顕密仏教と浄土教を考える論文集。専修念仏教団と顕密仏教の関係を詳細に明らかにした労作。顕密体制論をさらに精緻化している。

 『神国日本』佐藤 弘夫 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/08/blog-post.html
中世の神国思想を考究する本。神国思想をキーにして中世思想を紐解く良書。 

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