2025年8月16日土曜日

『神国日本』佐藤 弘夫 著

中世の神国思想を考究する本。

中世には「日本は神国(しんこく)である」という言説が常識となった。それはどうしてか。なぜこのような言説が生まれたのか。一般には、神国思想は戦前日本の狂気じみたイデオロギーであったとみなされているが、実際はそういうものではない。ではその実態はいかなるものであったのか。本書は神国思想を丁寧に解明するものである。

神国思想が興隆した平安時代末期~鎌倉時代、日本では浄土教が流行し、日本を末法の辺土粟散とみる一種の自虐国家観があった。日本は仏法の本場インドから遠く、時代は末法で、機根の劣った人ばかりの小さな国だというのである。一方、神国思想では、日本は「神の国」なのだからこの国家観と真っ向から対立するように見える。従来、学界ではこの見方が通説となってきた(例えば、古川哲史など)。しかし神国思想を大きく鼓吹した『神皇正統記』(北畠親房)では、日本の末法辺土観も前提となっている。

また、神国思想では、天皇が超越的な存在にならざるをえないと考えられてきた。しかし中世では不徳の天皇は退位が当然とも思われていた。さらに親房は、天皇となるためには過去世に戒律を受持する必要があると『神皇正統記』で述べている。前世で仏道を真摯に実践したからこそ天皇として生まれたのだ、というのである。

このように、神国をめぐる通説は、神国思想の原典の一つである『神皇正統記』と乖離する。だから神国思想について再検討する必要があると著者はいう。

古代の天皇の神聖性は、天皇号の採用、大嘗祭の創出などから、天武天皇あたりで高められたと考えられる。そして国家が日本全国の神祇を一元的に祭祀に組み込む体制が構築された。しかし律令国家が瓦解し、寺院への国家からの財政支援が途絶えると、寺院は荘園領主として自立することを迫られ、神祇界にも自由競争原理が持ち込まれた。こうして「国家から相対的に独立した有力社家(p.41)」がしのぎを削った。そうした大社を国家がいちおう統合したのが「二十二社制度」である。そして地方の神社は「一宮制」によって似たような秩序を形成した。

そうした制度は、いちおう国家が神社の序列を設けるものであったが、それは絶対的なものではなかったので各社は地位上昇をもくろみ、特に比叡山の日吉山王社は、みずからを伊勢神宮を超える根源的な神社であると主張した。「神道史家の高橋美由紀氏は、天照大神という神祇世界に君臨してきた至高神を相対化し、それを超越しようとする中世神道界の動向を「神々の下剋上」と評している(p.47)」。

また神祇の世界は、荘園経営と深くかかわるようになり、12世紀ごろからは、その領地を「神領」などとして課税を逃れようとしたり、寄進を善行として促すような言説がみられるようになった。神の存在が土地の支配と関連付けて観念されるようになっていったのである。

一方、それに先立つ10世紀あたりから本地垂迹説が広まった。仏の教えは機根の劣った人ばかりの末法辺土の日本には理解されない。だから日本人を救済するため、仏は神として垂迹したというのである。これは本地(仏)の偉大さを述べつつ、実際には神社への参詣や帰依を進めることとなった。

そしてこうした変化と並行して、平安時代中頃から、神の性格が徐々に変化した。その象徴が、天皇による神社行幸と返祝詞(かえしのりと)の制度の確立だ。古代の神はひたすら畏れられる存在だったが、このころには神は対話可能な存在と受け止められるようになった。そして神は「祟る」のではなく「罰」を与える存在として表象された。神は信賞必罰の合理的な存在になったのである。そして本地垂迹説によって、一見無関係に見える神々の世界が、仏を媒介にしてつながり、包摂された。そして道教の神々までも含めた神仏の壮大なコスモロジーが観念されるようになった。こうした中で神国の観念が育っていくのである。

日本を神国とみなす観念は古代までさかのぼる。日本書紀の「神功皇后紀」に、新羅王の言葉として「東方に神国がある」という一節がある。「日本=神国の理念は、神々に対する素朴な崇敬の延長線上に自然発生するようなものではなかった(p.90)」。その背景には統一王権による神々の再編成と、対外関係の緊張があり、当初から「きわめてイデオロギー的色彩が濃厚(同)」だったのである。

「神国」がまとまって使われるようになるのは9世紀後半の清和天皇の時代で、貞観11年(869)、新羅のものと思われる船が筑前に来航した際、諸国の寺社に国土の安穏を祈願した告文に「神明の国」「神国」といった語が散見する。この「古代的」な神国思想は、「天照大神の指揮のもと、有力な神々が一定の序列を保ちながら天皇とその支配下の国土・人民を守護する(p.95)」というものであった。ここでは仏教的要素は見られない。

そして「院政期ごろから日本を神国とする表現が急速に増加し始める(p.99)」。『古今著聞集』、『私聚百因縁集』、『神道集』、『八幡愚童訓』などは神国思想が前提となっており、頼朝も「わが朝は神国である」と述べているが、 なぜ頼朝は神国を強調せねばならなかったのか、奇異に感じるほどである。そして元寇があると神国思想は一層興隆した。神風が吹いたから神国なのではなく、それ以前の敵国調伏の祈祷の段階で神国は強調された。そういう祈祷を行った僧侶に東巌慧安(とうがん・えあん)という人がいる。彼の願文では、日本は仏が神として垂迹しているから神国なのだ、という論理になっている。これが「中世的」神国思想の特色である。

ところで、神国は何よりも国家・国土に対する観念である。では神国思想のいう国土は具体的にはどういう領域なのか。『貞観儀式』所収の追儺祭文には、東:陸奥/西:五島列島/南:土佐/北:佐渡よりも遠方、という国土観が示されている(村井章介)。これはやがて南:鬼界が島(硫黄島?)/北:外が浜(青森県?)へと拡大したが、ともかく日本の国土は人為的に成立したものというよりは、各種の「日本図」で明らかなごとく(例えば日本は独鈷杵の形をしているとか)、宗教的に(さらに言えば仏教的に)意味のある、あるいは予め定まったものとして観念されたのである。

このように、神国思想は末法辺土観を克服するものだったという通説はあたらない。むしろ日本が末法の辺土悪国だからこそ仏が神として垂迹したと考えるのであり、末法辺土観はその前提である。そして神の偉大さは末法辺土の劣った人間への救済者として強調された。神国思想は、「仏教をライバル視し、それに対抗しようとする立場から主張されることはありえない(p.119)」のである。

では、神国思想は蒙古襲来を契機として勃興し、日本を他国より優れた国だとするナショナリズムが内包されていたという通説はどうか。神国思想が前提としていた仏教の世界観では、世界を三国(インド・中国・日本)として把握したが、その上に真理の世界をも措定した。そこには曲がりなりにもインターナショナルな認識があった。神国思想は日本の優越を一方的に主張するものというよりは、仏が神として垂迹した国という特殊性を強調していると思われる。

また、神国思想は、奇妙なことに寺社の強訴に際して院周辺から主張された。著者は「国家的な視点に立って権門寺社間の私闘的な対立の克服と融和・共存を呼びかけるために、院とその周辺を中心とする支配権力の側から説き出されたものだった(p.137)」と考える。「そんなワガママいわないでください。同じ神国に住む仲間じゃありませんか? 」というところだろうか。

面白いことに、専修念仏運動を弾圧した延暦寺も、専修念仏教団が神祇を尊ばないことを神国をないがしろにするものとして批判した。とにもかくにも神国思想は「国家に対する観念」なのである

蒙古襲来に際して神国思想が盛んに鼓吹されたことは、それを象徴している。「日本は神国だから他国が侵略することはできない」と主張されたが、このころの日本は荘園の分捕りによって分裂気味であった。「神国の論理は、内部にさまざまな問題と矛盾を抱えていた日本の現実を「神国」と規定して蒙古に対峙させることによって、そのきしみと裂け目を覆い隠そうとするものだった(p.152)」のである。神国思想が支配者から盛んに言われていることはその証左である。神国思想は、対立する諸権門の融和を企図し、「中世国家体制を正当化するための宗教イデオロギーとして支配権力側から説き出されたものと推定できる(p.157)」。

なお、これは対立する勢力を対象としたイデオロギーであるから、民衆に訴えかけるのではないことは注意が必要だ。

神国思想は天皇を超越的存在に仮構するという通説はどうか。中世では天皇は政治の実権を失っていたが、確かに宗教的な権威は高まっていた。しかしそれは古代のように無条件に現御神としてあがめられるものではなかった。摂関・院政期には天皇がさまざまなタブーから自由になり、神秘性を失ってしまったとも指摘される(益田勝美の説)。そして天皇・院には仮借なき批判が寄せられるようになった。天皇が死後地獄に落ちたという言説もしばしばみられる。「中世社会においては歴代のほとんどすべての天皇について、仏神の罰やたたりを蒙ったというネガティブな噂が存在した(p.171)」。幼童の天皇が続いたことも天皇の形式化の証左である。

しかし同時に、いくら天皇の存在が形式化しても、天皇を超える国家の支配権力結集の核が形成されなかったことも事実である。だから結局「支配秩序を維持しようとする限り、必然的に国王=天皇を表に立てざるをえな(p.187)」かった。つまり、天皇の実権が弱い状態では、その権威のみを強調する神国思想は諸権門にとって都合がよかったのである。

このように、中世の神国思想の通説は主に3つの点で訂正されねばならない。(1)神国思想は蒙古襲来を契機として言われるようになったのではなく、その淵源は意外と古い。(2)神国思想は日本礼賛の論理ではなく、日本を末法辺土の小国であるとする仏教的世界観を前提としており、日本の特殊性を強調する。(3)天皇は神国思想の中心的要素ではない。

本書は最後に、神国思想がどう現代までつながっていくかを簡単に述べている。神国思想は中世後期から変貌していった。その背景には、「彼岸世界の後退(p.200)」がある。それまでは人々は此岸・彼岸の二重世界に生きていたが、彼岸世界のリアリティがなくなり、この世での充実した生活の方がずっと重要になっていった。秀吉や家康も神国思想に言及しているが、そこで仏教的世界観こそ否定はされていないものの、日常の儒教論理の方が前面に出てきている。近世になると、彼岸での救済といった観念が批判され、神国思想から仏教的要素が希薄化して、神国思想は日本の絶対的優位性を主張するものへと転換していった。そのような近世的神国論は、林羅山や熊沢蕃山から見られる。そして「江戸中期以降は神道家や国学者をはじめ、心学者・民間宗教者の著作や通俗道徳書などに広く散見するようになる(p.210)」。そして「だれもがなんの制約もなしに、仏教・儒教・国学などの諸思想に結びつけて「神国」を語ることができるような状況(同)」になっていた。このような中で、神国思想が天皇と強く結びつけられ、明治維新以降に大きく担ぎ出されることになったのである。

本書は全体として、神国思想を中心として中世の思想史を紐解くものであり、神国思想そのものよりも、神国思想を生み出した基盤についてより重点的に語っている。例えば、北畠親房の『神皇正統記』などはもっと内容を詳細に紹介してもよさそうに思ったが、著者の関心は「なぜこういう言説が生まれ、広まったのか」という点にある。その要諦は、神国思想を育んだのは仏教であったということである。そこから仏教的要素が脱落したことで近世の神国思想が生まれ、さらに天皇が中心となることで戦前の神国思想へと変貌した。

なお、本書は学術書ではないため、注がない。全体的に平易な書き方をしてはいるが(というより、そうだからこそ)、注があった方がよいと感じた部分もいくつかあった。巻末に掲げられた参考文献一覧では、神国思想研究を形作った文献がまとめられているので、備忘のため下に年代順に掲げる(出版社等適宜省略した)。

神国思想をキーにして中世思想を紐解く良書。

山田孝雄『神皇正統記述義』1932
長沼賢海『神国日本』1943
田村圓澄「神国思想の系譜」『日本仏教思想史研究浄土教篇』1959
黒田俊雄「中世国家と神国思想」『日本中世の国家と宗教』1975
藤田雄二「近世日本における自民族中心的思考」1993
高橋美由紀「中世神国思想の一側面」『伊勢神道の成立と展開』1994
河内祥輔「中世における神国の理念」『日本古代の伝承と東アジア』1995
佐藤弘夫「中世的神国思想の形成」『神・仏・王権の中世』1998
白山芳太郎「神国論形成に関する一考察」『王権と神祇』2002
鍛代敏雄「中世「神国」論の展開」2003
佐々木馨「神国思想の中世的展開」2005

【関連書籍の読書メモ】
『日本中世の国家と宗教』黒田 俊雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/06/blog-post_22.html
日本中世の国家と宗教の在り方を考察した論文集。中世社会への見方を一変させた記念碑的論文集。

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