2025年8月24日日曜日

『老子』福永 光司 訳(『世界古典文学全集37 老子・荘子』所収)

老子の思想。

『老子』を通読するのは3度目である。以前は道の思想に憧憬を抱き、無為の世界を体得しようとさえ思っていた。だから以前は、「聖典」へ向かう態度で『老子』を見ていたと思う。今でも道の思想には魅力を感じているが、一歩引いてみられるようになった。そして今回は、今まであまり目につかなかった部分が見えてきた。そこでこの読書メモでは、老子の思想そのものというより、私が今回気になったことを中心として述べたい。

まず注目したのは、老子は「天」を肯定するということ。例えば「人を治め天に事(つか)うるは、嗇(しょく)に若くはなし(=民を治め天に事えるには、つつましやかであるといことが第一である)(第59章)」と老子は言う。

この「天」とは何か? 古来、中国では「天」の祭祀が行われてきた。「天」は至高の存在として祀られたのだが、老子が生きたと考えられている戦国時代には、すでにインテリは天帝や鬼神といったものを信じていなかったとされている(ただし墨子を除く)。だから「天」は実在の何かとしては捉えられていなかったようだ。しかしそれでも「天」は至高の存在として認められていた。老子はこの常識を承認する。そして老子は「天」を人間の力ではどうしようもないものとして認識した。「天下は神器、為す可からざるなり(=天下というものは不思議なしろもので、人間の力ではどうすることもできない)(第29章)」。だから「自然」に従うほかないのである(第29章)。

そして老子は「帝」や「王」や「侯」を肯定する。老荘思想というと、「竹林の七賢」に代表されるように支配機構から背を向けているという印象がある(もっとも、現実の「竹林の七賢」の多くも公職についていたのだが)。だから老荘思想では、支配機構そのものが否定されているかのようなイメージを(少なくとも私は)抱いていた。ところが実際にはそうではない。老子は「故に道は大、天は大、王も亦た大(第25章)」という(この「大」は「偉大」の意味である)。

老子は、王は偉大でなくてはならないと考える。「王を道の最高の担い手として天地と並列するのは、老子思想の特色の一つである(p.31)」。しかしもちろん現実にはそうでない。「朝は甚だ除(よご)れ、田は甚だ蕪(あ)れ、倉は甚だ虚しきに、文綵を服し、利剣を帯び、飲食に厭き、財貨余り有り(第53章)」と彼はいう。現代の政治批判と同じようなことがここに言われている。政治は汚職にまみれ、田は荒れて民衆のふところは乏しいのに、政治家たちは虚飾の繁栄を楽しんでいるというのである。だから彼はいろいろと統治機構に注文をつける。『老子』は、隠棲者のための書ではなく、政治論でもある。

その注文は、大まかに言えば「余計なことは何もするな(=無為)」ということに尽きる。人為的なものを廃して(第38章)、刑罰を設けず(特に死刑を否定する)(第72章、第74章)、税金を少なくし(第75章)、戦争は行わない(第31章、第80章)。そして、人々を愚かな状態に留めておく(第3章、第65章)。ここはいかにも老子的な言説である。老子は人間が小賢しくなったことが禍の元だと考える。だからいっそ愚かな方がよい。儒学では人間は勉学に励んで賢くなることが必要だと考える。ところが老子は逆に、勉学などするから争うのだという。だから民衆を愚かにせよというのは極論のようであるが、「老子のいう愚とは無為の道と一体になった無知である(p.76)」。「学を絶てば、憂い無し(第20章)」である。

ともかく、老子は統治機構を表面的には否定しないが、実際には何もしない方がよいという。しかしこれは、無政府主義であろう。このような国家がもしあったら、存続できないことは明白だ。というよりは国家の体を成さない。だから老子の考えはユートピア的な空想だと思える。しかし彼は、おそらく農村に暮らして政治の現実を見ていた現実主義者なのである。『老子』には、しばしば現実主義者の顔が出る。例えば、「是を以て聖人は、終日行(ゆ)いて、輜重(しちょう)を離れず(第26章)」という。「聖人は、終日行軍しても輜重車を手放さない」すなわち、聖人は行軍において兵站(へいたん=物資の補給)を疎かにしないというのである。

そもそも老子は戦争を愚かな行為として否定するが、彼の生きた時代は戦国時代であったので、現実に戦闘が行われていた。そんな中、おそらくは兵站を疎かにした行軍が行われていたのだろう。それで困るのは末端の戦闘員である。老子はこういう下っ端に最も共感しているように見える。彼らは、税金に喘ぎ、為政者が恣意的に定めた刑罰によって捌かれる人間であった。「為政者よ、何もしてくれるな」というのが、老子の叫びなのである。

ところで、老子は自衛のための戦争は否定はしない。「兵は不詳の器、君子の器に非ず。已むを得ずして之を用うれば…(第31章)」といい、「武器は君子の手にすべきものではない」といいつつも、それを使わざるを得ない時があることも認めるのである。つまり一見老子は無政府主義的であるが、いつ他国に攻め込まれるかもしれない戦国時代の現実を見ていた。そしてひとたび戦争になれば「人を殺すことの衆(おお)き、哀悲(あいひ)を以て之に泣(のぞ)み、戦い勝つも喪礼を以て之に処(お)る(第31章)」べきだという。悲しみを以て戦いに臨み、戦いに勝っても葬礼を以て対処する、ということだろう。

では、老子のいうような国家があったとして、それが他国に攻め込まれないかどうか。ここはかなり怪しい。まず、老子は富国強兵を否定する。税金はなるべく取らない方がいい。とすると強大な軍備は不可能となる。刑罰も設けないから、民衆に何かを強制することも難しい。となると他国に攻め込まれるほかなく、しかもその国は弱いから敗北が必定である。となると、やはり老子はユートピア主義者なのだろうか。だが老子は「弱い」ことに積極的な価値を見出す。というより、勝利の価値を疑う。そんなもの一時的なものじゃないか、と彼は考える。

老子の哲学は女性的だ、と言われてきた。剛よりも柔、強よりも弱を老子は永続的なものと見る。「物壮なれば則ち老ゆ(=物はすべて威勢がよすぎると、やがてその衰えがくる)(第30章)」。儒教が男性的な思想だとすれば、老荘は女性的思想である。「敗北してよい」とまでは老子は言っていないが、 軍国主義が招くのは農村の荒廃であると彼はいう(第30章)。だから富国強兵は一時的にはうまくいっても、結局はゆきづまる。ではどうしたらいいのか。そこを老子は突き詰めて考える。その答えが、文明そのものを疑えということなのだ。

しかしながら、それは個人の思想としては力を持ち得ても、政治論としては無力である。

老子の時代に活躍した諸子百家と呼ばれる思想家は、みな政治コンサルタントとして活動した者たちである。彼らはどうすれば他国に打ち勝てるかを君主たちに説いて回った。しかし老子はそういう者たちと全然違う。彼の思想は、諸子百家の系譜には位置づけられない。彼の思想は農村に生きる、下っ端の思想である。そこでは社会的価値が顚倒する。官僚よりも農民が、賢い人よりも愚かな人が、強い人より弱い人が、名声を得た人より無名の人が、文明より野蛮がよいとされる。それらは全て、人為的な虚飾にすぎないというのが老子の考えだ。農村の下っ端は、一番文明から遠いからいいのだ。

しかしそういう言説こそ観念論に過ぎないのではないか。むしろ文明が生みだした虚飾の思想に過ぎないのではないか。結局、老子だって「小」より「大」を好む。「小国寡民(第80章)」を理想としながら、無為の道を体得すれば「天下を取る(第48章)」という。老子は「天下を取るなんて価値がない」とは言わないのである(ただし第48章は後次的なものとみる説もある)。彼は敗北主義者のように見えるがそうではなく、天下に君臨する聖人は無為である、無為な人こそ天下を取れる、といっているのだ。

では、その聖人は具体的には何をするのか。どうして天下を取るのか。これは儒教の徳治主義にも通じる問題である。儒教では、徳のある君主がいれば、彼は何もしなくても民衆は彼に靡き、他国もそれを尊重して天下はうまく治まると説く。老子の言説もこれと同じである。無為の聖人は何もしないが、何もしないことで全てはうまく治まる。落ちつくところに落ちつくから、全てがうまくいくのだという。しかしそんなことはありそうもない。

ここに回答を与えたのが、意外なことに法家の人たちであった。つまり、巧妙な法がありさえすれば、君主は何もしなくても世の中はうまく治まると彼らは考えた。だから老荘思想を発展させたのは、無為自然とは最も遠いはずの法家思想の人たちであり、『韓非子』には老子の影響が色濃い(逆に、『老子』の中に『韓非子』の文章が改作されて竄入したと考えられる箇所もある)。しかし法家思想と合体することにより、夢想的だった老荘思想が現実に適用できる政治論となり、長く巨大な影響力を持つことになった。現在伝わる『老子』のテキストは、おそらく法家の人々によって伝えられたものなのであろう。

よって、もともと老子(老聃)が説いた教えは、今の『老子』とは少し違っていたのかもしれない。だがそのエッセンスは明確である。それは、何かをやることに価値があるのではなく、やらないことに価値がある、という無為の哲学である。そして、こんな争いばかりの世界になってしまった原因は、人々があらゆることに手を出してしまったからだ、欲望を実現してしまったからだ、とする今に通じる圧倒的なリアリズムに基づいている。

全ての人為的価値を顚倒させるリアリズムの書。

【関連書籍の読書メモ】
『世界古典文学全集 19 諸子百家』貝塚 茂樹 編 
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諸子百家の思想の概観。

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