2025年4月5日土曜日

『葬儀の歴史』芳賀 登 著

日本人の葬儀の歴史。

著者の芳賀登は、幕末の国学の研究者である。幕末において、国学者たちはあの世観・霊魂観に対して様々な新しい考えを提唱していた。それは仏教的な死後の観念に対する戦いであったと思う。私は、彼らが戦っていたものの具体的な姿に興味を持っており、本書にはそういう視点が盛り込まれているかもしれないと手に取った。

結論から先に言うと、本書は幕末におけるあの世観・霊魂観の攻防はそれほど書いていなかった。本書の中心は思想よりも事例である。

「はしがき」に引用された六人部是香の言葉は興味深い。「其精神は、神より賜りたる物にして、清浄なるものなれば、死するや否、忽、其地の産須那社に伺候して、其下知を守り居り、屍は、穢に属して、墓所に葬る習なり(『産須那社古伝抄』)(p.2)」。ここでは魂は清浄で神社へゆき、死体はケガレているから墓所に葬る、という神道と仏教の二元論がある。これがやがて神道のみでの葬祭に舵が切られていくのであるが、それにはそもそもなぜ墓をつくるのかという理由、つまり日本人のあの世観・霊魂観を改変する必要があったのである。

なお、墓に対する著者の見方は、やや否定的である。本書の冒頭では葬式無用論が俎上に挙げられるが、葬式無用の考えは早くも明治40年頃から出てきているとし、近世においても墓守がちゃんとされなければ(=寺院にとって収入が見込めないならば)無縁仏として処分されたという。はっきりとそう言っているわけではないが、著者は「墓ってそれほどありがたいものなの?」と懐疑的な感情を抱いているようだ。

第1章では古墳について、第2章では火葬の広がりについて考察している。ここでは葬制の移り変わりが中心となるが、その背景となる思想の移り変わりについてはあまり述べていない。例えば古墳の築造にはどんな思想・霊魂観があったのか。そしてそれがどう変わって古墳が造られなくなったのか、といったことは手薄である。一方、著者が力を入れているのは山中他界観である。ここで山中他界観を山岳信仰と直接結びつけていないのは著者の慎重な姿勢を感じさせる。山岳信仰が広がったのは近世だとし、山中他界は山岳信仰とは別に霊の行先として観念されたとしている。

第3章では、葬祭を仏教が担うようになった次第を、様々なトピックから述べている。著者は葬式仏教化に対して批判的である。ただし、遺骸・遺骨に意味を付与していたのは民間信仰の方であり、仏教側が葬式の重要さを喧伝したのではない。仏教は民間信仰を無視しえなかったため、ある宗派はそれを積極的に取り込んで経営に生かし、ある宗派は消極的に認めたのである。例えば浄土真宗では死者は速やかに浄土にゆくと考えられ追善や墓の造営に熱心ではなかったが、真宗の中心である大谷廟においては明らかに親鸞の遺骨を崇敬している。人々のあの世観・霊魂観は必ずしも仏教諸派の教義と整合的ではなかった。

第4章では、墓塔の造立について述べる。石塔墓の成立については本書以降に研究が進んでいるので改めるべき点もありそうだが、とりあえず本書によれば、
(1)五輪塔の最古は保安3年(1122)建立の法勝寺小塔院跡発見の軒丸瓦文様、文献上の最古は平信範の『兵範記』の仁安2年(1167)7月27日条。
(2)宝篋印塔の最古は宝治2年(1248)在銘の鎌倉市ヤグラ出土塔。(川勝政太郎)
(3)板碑は1230年代から存在する。
なとどしている。層塔、宝塔、無縫塔については取り上げられておらず、簡略な印象である。ただし鎌倉のヤグラが取り上げられているのは興味深い。ヤグラは鎌倉幕府内墳墓造営禁止によって成立したと簡単に書いているが、これについては追って調べてみたい。

第5章では、日本人の死霊観が分析される。日本人は祖先の霊が死んでしばらく(33年ないし50年間)は個別的性格を保持しつづけるが、その後は「トムライアゲ」によって死者の霊は神となって子孫を見守り続けると考えた(桜井徳太郎の説)。そしてその先祖の霊がゆくと考えられたのが山である。ここでいう山には里に近い山と、広い信仰圏をもつ霊山の場合があるが、ここで検討されるのは霊山である。具体例として恐山と巫女(イタコ)が取り上げられ、「いずれにせよ恐山信仰は、仏教とか神道の教理、信条に即応して成立した宗教でないことは確かである(p.114)」としている。霊山は日本各地にあるが、それらの霊山は「信者がそれぞれの地方より、まったく宗旨を無視して詣ってくる(p.117)」。また、山へ登ることがトムライアゲと関係している場合も多い。ただし霊山への参詣は近世には遊興化した。

道祖神や賽の河原についても経典には全く触れられていない。お盆については経典はあるものの、例えば山からの道の草を払う「道刈り」や迎え火を焚くことなども経典に基づかない。彼岸についてもそうである。このように、日本人の重要な祖先祭祀の行事は民間信仰に基づくものが多い。そして人間社会において重要な儀式である葬送は、元来はケガレを避けるため被差別民によって担われていた。仏教とも神道とも違う、周辺から葬送や祖先祭祀の習俗が生まれて来たのである。

第6章では、葬儀と菩提寺の発展が述べられる。近世の檀家制度により葬式仏教が発展し、それにともなって葬儀が形式化したり豪華になったりした。だが面白いのは「原則としては、葬儀は当主またはそれに準ずる人以外にはしなかったらしい。それが近世中期の宝暦ごろになると、次、三男も、早産で死んだ子供の戒名さえも(墓石に)のるようになっている(p.138)」ということだ。ただしこの記述の根拠は明らかでない。本式の葬儀はしなかったにしても、何らかの葬送が行われたと考える方が自然だ。

元禄3年の大坂では、葬式の華美化を戒める町触が出た。身分をわきまえない葬式が行われているからという。葬式の華美化は寺院側が主導したのではなく、民衆側が求めた結果である。葬式は檀家寺の僧侶だけが行ったのではなく、豪家では様々な寺の僧侶を呼んだらしい。ちなみに死後出家ではちゃんと髪を剃っていた模様である。

一方、大名の葬式や墓所は庶民とは比べものにならないほど豪華で、その思想が投影されていることも面白い。水戸光圀の墓所は儒教風である。

ここで著者は両墓制について紹介し、両墓制は死体を穢れと見る観念と死者の為に墓塔を建てる新しい観念が両立した地域に現れ、また火葬の場合にはこれが起こりづらという。また両墓制はそんなに古いものではなく、元禄から享保期に一般化したとみている。

第7章では、変わった葬儀の例を列挙している。織田信長(死体がなかったから沈香の木でつくった像を棺に納めていた)、徳川家康(墳墓のほかに中国風の御霊屋を作った。日本では稀)、古賀精里(儒葬。位牌に相当する神主は「顕考掌教官精里府君霊」。墳墓をつくり墓表を立てた)などである。

さらに一気に時代が飛んで、明治後の自葬禁止や神葬祭について述べるが、神葬祭でも等級付けを否定できなかったために、結局身分に応じた葬祭という江戸時代以来の観念が継続し「葬式仏教にかわる葬式神道として(p.185)」行われたにすぎなかったとしている。このあたりの筆致は鋭い。さらに平田派国学者の角田忠行の『葬事略記』の内容を詳しく紹介していてこれが面白い。そこでは「死体はいくら洗っても清浄ではない」としているのだが、同時に亡父を「父命(チチノミコト)」といっている。これは一見矛盾する。なぜなら、亡父は神になったのにその遺体は穢れているといっているからだ。神になったなら遺体も聖なるものであるべきだ。これは冒頭に述べた二元論の考え方である。さらに、死後50日は毎日墓参りせよといっているもの興味深い。これは明らかに仏教の49日に準じている。

第8章では、改めて江戸時代の墓と葬式が振り返られる。 まず墓塔の形態について整理した後、普通ではない死亡をした人の墓の例が提出される。殉死者の墓、不受不施の墓、処刑された人の墓(渡辺崋山の例は面白い。法諡は「一心院遠思花山居士」だったが後に「文忠院崋山伯登居士」と変えられた。最初の法諡は遠慮していたのだという)、南千住の刑場の墓(檀那寺ではなく刑場と提携した寺院に埋葬される。墓石はないが、これは「遠慮して建てなかった」とされる)、梅田雲浜の墓(獄中で死亡。「雲浜先生之墓」を後に建立し、文久になって建碑が許された)、藤田小四郎の墓、堺事件志士の墓などである。これらに共通していることは、罪人などは墓を作ることを許されない場合があり、墓石を建てる場合でも遠慮が見られることである。そして政情が変わった後に改めて顕彰の意味も含めて立派な墓石が建立されている。なお私には、権力者が罪人の墓を作らせなかったらしいのが不思議に感じる。現代の常識から考えれば、墓の建立を妨げる理由がわからないのだ。当時は、墓の建立自体に一種の顕彰の意味が込められていたと考えられる。

次に、特殊な葬儀を行った人の例が提出される。本居宣長の葬儀と墓の遺言は詳しく記述されるがこれが面白い。宣長は妙楽寺に埋葬させる一方、樹敬寺に葬儀をさせ墓塔を建立させた。妙楽寺では埋葬地の塚に桜の木を植えさせるという神道?式のやり方をし、樹敬寺では通常の仏式の葬送を行ったのである。もちろん宣長は仏教を軽んじていたのだが、面白いのは樹敬寺でも月忌に墓参するよう指示していることだ。なお神号は「秋津彦美豆桜根大人(アキツヒコミヅサクラネノウシ)」。実際の葬儀では妙楽寺でも念仏を伴った仏式だったのは宣長の本意に適うものだったのかどうか。

頼山陽は、檀那寺は光林寺だったのに、墓地が気に入らないといって長楽寺に葬られた。なお光林寺にあった亡児の墓塔の石名に戒名「山紫水明居士」を刻ませている(亡児の戒名ではなく頼山陽の戒名を亡児の墓塔に刻むのはどういうわけなのか?)。一方、長楽寺の墓には戒名はなく「山陽頼先生之墓」と書かれている。戒名に対するこの微妙なスタンスも不思議である(戒名を全く使わないなら分かるが、自分の墓塔には書かないというのが謎だ)。この他、漢詩人大窪詩仏、国学者の権田直助などの例が述べられる。

さらに、坂本龍馬、滝沢馬琴などの墓の例を踏まえ、江戸時代には山中他界観が薄れてきたとし、次いで遊女の墓、長崎の寺と異人の墓、水難供養の千人塚、楠木正成の墓(顕彰碑)、独特なデザインの「たのしい墓」などを述べている。中でも一番独特だったのが、沢庵の墓である。彼は遺詔により「只土を掩うて去れ、経を読むことなかれ、斎を設くることなかれ…(中略)…塔を建て、像を安置する事なかれ。碑を立つる事なかれ、諡号を求むる事なかれ、(後略)」といっているのである。この極端な薄葬思想は、どこから来たのだろう。だが門人たちは何もやらないことに耐えられなかったのか、埋葬地に松の木を一本植えている。

第9章では、著者の葬儀・墓制に対する考え方が述べられる。まず明治維新後から戦後までの墓地の変遷について述べた後、再び時代を溯って江戸時代の葬送が華美化したことに触れ、また神葬祭について改めて批判するなど、錯雑とした印象の記述が続く。 その中で大正期に出来た滋賀県のある村の隣保会準則には、分不相応なことをしないとか、分限に応じて酒食を出すとか、江戸時代以来の観念が明確に表現されていることが目を引いた。最後に、靖国神社や忠霊塔、近代墓地の建設、墓地整理など現代的な問題に触れて擱筆されている。

本書は全体として、話が全く編年的でないので読みづらい。概ね中世以前については前半にまとまっているのでいいとして、問題は近世・近代・現代の事例である。これが著者の考察に振り回されて入り乱れているのである。これは編年的に書いてもらった方がよほど分かりやすかった。その著者の考察の要点を言えば、
(1)近世以前は山中他界観に基づいて墓が作られていたが、近世中期からそれが薄れて都市に墓がもうけられるようになった。
(2)近世には葬儀や墓は家格誇示や顕彰の意味が大きくなり、幕藩権力はこれを規制した。
(3)国学者や儒学者は普通の葬儀・墓塔ではない、特殊なものを実行・建立した。国学者や儒学者でなくても、変わった墓を建てている人は思いのほか多い。
(4)明治以降の神葬祭は、仏式の葬祭にあった問題点を解決するのではなく、神道を仏教の立場に横滑りさせるものであったので上手くいかなかった。
(5)伝統的とされた墓の在り方は家制度に支えられていたため、家制度が崩壊したことにより維持されづらくなっている。
というところである。

ただし、本書は変わった葬儀や墓の事例は次々と紹介されるが、平凡な人の墓はほぼ全くといっていいほど扱われない。その時代の思潮を分析しようと思ったら、平凡な人について調べることが重要だと私は思うのだが、著者はむしろ変わった人について好んで取り上げている。著者のやり方はやや偏っているように感じられ、試論という雰囲気を強く感じた。

変わった葬儀や墓の例を中心にして、その移り変わりを述べた葬儀史の試論。

【関連書籍の読書メモ】
『葬式仏教』圭室 諦成 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/11/blog-post_30.html
仏教が葬式を担うようになった次第を述べる本。葬式仏教論の嚆矢である名著。本書でも大きく援用されている。

『葬式と檀家』圭室 文雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/03/blog-post_21.html
檀家制度がいかにして生まれ、それが何をもたらしたか述べる本。近世の檀家制度成立をわかりやすくまとめた良書。

『日本葬制史』勝田 至 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/02/blog-post.html
日本の葬制史の概説。葬送史をまとめることで、死への考え方の変遷まで垣間見える労作。

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