2022年11月27日日曜日

『公家たちの幕末維新—ペリー来航から華族誕生へ』刑部 芳則 著

公家の視点で明治維新を語る本。

明治維新史における主役は幕府や雄藩(薩長土肥)と志士たちであり、公家は脇役として語られてきた。しかも公家の多くが世間知らずで無能であるとされ、実際に新政府が樹立されてからは、岩倉具視や三条実美など一部の例外を除いて政権の中枢から排除された。

しかし権力闘争として明治維新史を見れば、それは「誰が朝廷を我がものとするか」の戦いであったと言える。すなわち公家たちの動向がキーだったのである。本書はこうした視点で、孝明天皇践祚以降の幕末維新史を、公家の視点から描いたものである。

「序章」では、まず前提となる近世の朝廷の仕組みが概説され、これが非常に参考になる。堂上(とうしょう)と地下(じげ)、公家の家格(摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家)、門流などの解説は重要だ。朝廷の意志決定機構は「朝議」であるが、これに参加出来たのは関白と議奏・武家伝奏(これを「両役」という)。意外なことに左大臣・右大臣・内大臣は朝議に参加する資格がなかった

両役以外の公家には政治的発言権はなく、下級公家は近習・内番・外様という禁裏小番を勤めた。このうち、明治後の侍従にあたる近習は、身分は低いが天皇の側近であった。内番・外様は具体的な仕事はない名目的な役職(順番に禁裏に詰めるのみ)である。

「第1章 政治に関与する公家たち」では、外国船の来航に対する公家の動向が語られる。彼らは外国船を好ましく思わず、孝明天皇は七社・七寺に国家安寧を祈祷したが、日米和親条約には反対していない。当時内裏が炎上して再建の必要があったため、朝廷は幕府と融和的な姿勢だったことがその背景にある。しかし続く通商条約については孝明天皇は反対の姿勢だったものの廷臣に諮問しても思ったような反対意見が出てこなかったため、参議以上に意見をもとめた。このあたりが興味深いところで、本来は政治的発言権がない公家に意見をもとめるようになったのが時代の移り変わりを象徴している。

朝廷の意見をまとめると、関白九条尚忠は幕府に再考を促す、太閤鷹司政通は開国容認、廷臣(左右大臣など)は条件付きで容認、参議以上は概ね開国反対であった。朝廷の中枢は幕府と協調的で開国容認であったのに、下級公家は開国反対なのが対照をなしている。特に中山忠能(ただやす)の激しい攘夷論と、正親町三条実愛(おおぎまちさんじょう・さねなる)の冷静な開国容認論は注目される。関白九条は幕府の意向に沿う形で通商条約を容認する勅書を作成しようとしたが、それに黙っていなかったのが中山忠能らであり、幕府寄りの武家伝奏東坊城聡長への襲撃未遂事件も起こった。おとなしいイメージの公家も実力行使に出る時代になったのだ。

さらに岩倉具視・大原重徳が中心となり、堂上公家の「八十八人列参」が行われる。数の論理で勅書案の修正を求めたのである。これで勅書案は修正されることになった。朝廷内の下剋上とも言える事態であった。

ところが井伊直弼が大老に就任すると状況は一変。幕府は朝廷の勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印してしまった。孝明天皇は激怒。さらに攘夷派を弾圧する安政の大獄が開始された。この状況に抵抗するため、左右大臣・内大臣等の意見により水戸藩の徳川斉昭(井伊より慎を命じられていた)に幕政改革や外侮の防御を図らせる「戊午の密勅」を下した。なおこれとあわせて、関白九条尚忠が幕府寄りであることから天皇は排除しようとしたが、幕府(京都所司代酒井忠義)は関白罷免の差し止めに成功した。

さらに幕府は、安政の大獄の弾圧の対象を公家までに広げ、「戊午の密勅」関係者を次々処分した。関係者は処分をおそれ次々辞任したが、結局多くが処罰された。前関白鷹司政通・前左大臣近衛忠煕・前右大臣鷹司輔煕・前内大臣三条実万は落飾・慎、皇族の青蓮院宮尊融親王が慎・退隠・永蟄居など、政権の中枢が退場した。なお皇族の青蓮院宮の処分の名目は、一乗院主であったときに家来の娘に子どもを産ませたことだった。彼は青蓮院から相国寺塔頭の桂芳軒に移り「獅子王院宮」と称した。

「第2章 公武合体の季節」では、和宮降嫁の顚末が述べられる。皇女を将軍の妻に迎えるというアイデアは井伊直弼の片腕長野主膳(義言(よしとき))のものらしい。安政の大獄によって悪化した朝廷との関係を婚姻関係によって修復することを考えたのである。

孝明天皇の妹和宮には許嫁がいたことから朝廷は難色を示すが、年齢的に和宮以外の候補がいなかったこと、そしてこのことをどこからか聞きつけた岩倉具視が暗躍し、三度の降嫁願いを経て「公武合体」のために朝廷は嫌々ながら承諾した。この際、幕府は期限を定めて攘夷を約束したが、これが後で自分の首を絞めることになる。こうして和宮は京から江戸へと下向。その行列を共にしたのが権大納言中山忠能や左近衛少将千種有文、右近衛少将岩倉具視などである。

なお朝廷からは和宮の処遇については御所風にするという条件が出されたにもかかわらず、江戸についた和宮は武家風の部屋に通され、しかも13代将軍の正妻天璋院との対面では天璋院が上座であった。

「第3章 京都の政局」では、公武合体と尊皇攘夷のせめぎ合いの中での公家の動きが語られる。本章は1861〜62年の2年間を対象とする。この時期には長州と薩摩が目立った活動を展開する。長州の長井雅楽(うた)の積極的な開国論「航海遠略策」は朝廷に方針転換の兆しをもたらしたが、結局は攘夷の方針が維持された。一方、薩摩の島津久光は上京して天皇に謁見し、朝廷と共同して幕府に幕政改革(三事策)を突きつけることとなった。本書ではその勅使が大原重徳に決まり久光と共に出発するまでの経緯が述べられるが、煮え切らない朝廷に久光が痺れを切らす様子が興味深い。

この動きと同時期、朝廷では「国事御用書記」という役職がつくられ27人の公家が任命された。これは議奏を補佐するもので、国事書類の筆写を行うものである。彼らは筆写を通じて多くの情報に触れた。注目すべきことに、この役職は摂家を除く清華家・大臣家・羽林家・名家・半家からそれぞれ任命された。身分の高下にかかわらず公家が政治にかかわる窓口が出来たことになり、事実、後述する四奸二嬪排斥運動などを起こす公家たちがこれに重なっていた。

京都の政局が次第に強硬な攘夷のムードに傾いて行く中、和宮降嫁に協力した公家への家禄加増が発表される。関白九条尚忠に1000表、内大臣久我建通と宰相中将橋本実麗に300石、岩倉具視と千種有文に200石などである。攘夷ムードの中で公武合体派に行われたこの褒美はありがた迷惑なものだった。批判が高まることになったからである。

さらに長井雅楽の「航海遠略策」には、朝廷の衰微を認める部分があったためその言葉尻が問題になる(謗詞一件)。朝廷は「謗詞一件」を重大な問題とは見なさなかったものの、長州藩攘夷派はこの件が解決すれば長井が復活し公武合体路線になるとおそれて運動し、長井は切腹となった。公武合体派への弾圧の始まりだった。文久2年(1862)、久我建通に蟄居落飾、岩倉具視・千種有文・富小路敬直に蟄居を命じ(この4人が「四奸」)、今城重子と堀川紀子(二嬪)が辞職したのである(=四奸二嬪排斥運動)。これは志士の間から公武合体を進めた公家を非難する声があり、それを背景として行われたものだという。志士の声を受けて朝廷が処分したのは奇異な感じがするが、処分をしなければ天誅と称して暗殺される危険があったためだろう。なおこの処分を実行した関白近衛忠煕は天皇から信頼を失い、その結果彼自身も政治的意欲を失っていく。

しかし盛り上がる攘夷のムードをよそに、朝廷は幕府に即今攘夷を求めることは朝幕関係に水を差すだろうと及び腰になりはじめる。このような中、青蓮院宮が永蟄居を宥免されて復帰。そして正親町三条実愛と中山忠能、島津久光から後援を受けていた青蓮院宮らは、有力な公家たちを朝議に参加させようと、関白近衛に働きかけ「国事御用掛」を設置させた。これは摂家から名家までの公家(つまり半家はない)と皇族(青蓮院宮)の21名が任命された。ここでも身分の高下と役職が直接リンクしなくなっていることが重要だ。

「第4章 攘夷をめぐる激闘」では、攘夷の実施と長州藩処分をめぐっての権力闘争が描かれる。文久3年(1863年)には社会全体がさらに過激な攘夷のムードになり、穏健派の公家が後退。関白近衛忠煕が辞職して鷹司輔煕が継いだ。さらに国事御用掛から人材が「精選」されて「国事参政・国事寄人」が設置。尊攘派公家がこれに任命された。また学習院が政治の談議をする場として活用されるようになっていく。それまで政治からは排除されていた公家たちが政治に参画するようになり、多くの集会を開き、議論するようになったのである。

孝明天皇は攘夷を求めてはいたものの、幕府に対しては穏健な態度を取っていた。ところが期限を定めた攘夷実行を求める強行派の公家たちに押され、幕府にも強硬な態度を取らざるを得なくなる。朝廷の中枢にとって、国事御用掛・国事参政・国事寄人の意見は無視できなかった。このような状況の中、孝明天皇は212年ぶりとなる賀茂両社への行幸、石清水八幡宮への行幸で攘夷を祈願した。さらに朝廷は10万石以上の大名から人を出させて「御親兵」を設置した。防衛は武家の領域だったにもかかわらず、議奏三条実美が「京都御守衛御用掛」となった。

こうして下級公家たちの突き上げによって前例踏襲の公家の世界が変わっていったが、朝廷上層部と天皇はそうした過激で強引な言説を好ましく思わなかった。そして天皇は朝廷の正常化のために島津久光に期待するようになり、三条実美らを朝廷から排除する「八月十八日の政変」が薩摩藩・会津藩・淀藩によって起こされた。国事参政・国事寄人は廃止され、尊攘派の公家たちが処罰された。しかし三条実美や沢宣嘉、東久世通禧らは長州に脱出(七卿落ち)。公家が天皇の許可を得ずに京都を離れることは違反行為であったため、七卿は追って官位を剥奪された。

一方、鷹司輔煕は辞職し二条斉敬(なりゆき)が就任。廷臣の顔ぶれは幕府寄りで無理な攘夷を避けるものとなった。中山忠能は、息子たちが過激な攘夷派であったことの不都合や持病の痔が悪化して中枢から後退。他方、山階宮晃親王はその才覚を買われ、尊攘派公家を抑えることを期待して還俗させられ政治に参画するようになる。

そのような中、横浜・函館・長崎の鎖港(特に横浜鎖港)と長州藩処分などの意見の対立から公家と武家の人事が動き、一橋慶喜・桑名藩・会津藩の「一会桑」が成立した。だが一会桑の下でも過激な攘夷を主張する公家は引き続き活動した。一条実良は幕府に横浜鎖港の実行を督促する建白書を門流一同38人の連署で提出。また中山忠能は長州藩に寛大な処分を求め攘夷の実行を促す上書を58人の連署で提出した。攘夷と長州藩の処遇がリンクし焦点となったが、朝廷は長州藩追討の勅語を出す。

こうして会津藩・薩摩藩と長州藩との間の戦闘「禁門の変」が起こった。洛中は大火となり堂上公家の家も24家が焼失。御所へ向けて発砲した長州藩は「朝敵」となり、それに同情的な姿勢を示した多くの公家も処分の対象となった。

「第5章 朝廷の内と外」では、孝明天皇が亡くなるまでの政治的混乱が述べられる。幕府と朝廷では長州問題や攘夷、開港の立場を巡る関係者の思惑が交錯し、朝幕入り乱れた対立の構図が生じた。そういう状況の中、慶応元年(1865)9月末に岩倉具視は「復古一新」を考えるようになる。この頃、岩倉具視は裏で薩摩藩と手を結んでいた。そして朝幕が長州問題を渋々寛大な処分でおさめようとしていた時、薩長同盟が結ばれる。よって長州は幕府の処分案に応じず、幕府と長州軍が一触即発の状態となった。

このような緊迫した時期、孝明天皇は乱心し日々三四度の酒宴を開き、鳥類などを庭で鑑賞したり雅楽を演奏させた。朝廷内も意見の相違から動揺。慶応2年(1866)、「二十二人の列参運動」が起こった。これは中御門・大原重徳など22人の公家が(1)朝廷主導で諸藩招集、(2)文久2・3年、元治元年(=1862〜64)に処分された公家の赦免、(3)朝廷改革、(4)長州解兵を求めたものである。しかしこれは天皇に受けが悪く、功を奏さなかった。天皇は公家たちから受ける突き上げに辟易していたのかもしれない。

一方、将軍家定は長州征伐中に病死。しかしそれを継ぐはずの一橋慶喜は将軍職を辞退して幕府には政治的空白が生じる。朝廷ではこの辞退を乗り切るべく諸藩を招集しようとしたがうまくいかず、二条斉敬と中川宮朝彦親王が辞意を表した。しかし孝明天皇としては、信頼する二人を失いたくはなく、二十二人の列参運動を起こした公家22人と彼らに協力した山階宮晃親王と正親町三条に処分が下った。四度目の廷臣処分である。これで合計して62人もの皇族や公家が朝廷から去ったのである。こうした中、慶喜への将軍宣下が行われた。その直後孝明天皇は体調を崩し病死。タイミングがよすぎる死去にかつては毒殺説も唱えられたが、現在では天然痘説が有力である。

「第6章 王政復古への道程」では、王政復古のクーデターに至る動向が述べられる。孝明天皇の死は、彼によって処罰され朝廷を去ったものたちの赦免の機会となった。それは順調に行われたのではないが、順次赦免が行われた。「四奸」の赦免も行われたものの完全な赦免ではなく、月に一度だけの入京が許可されただけであった。

こうした赦免によって多くの廷臣が復帰すると、朝廷に人事の変動が起こった。結果、朝廷・幕府・雄藩(特に薩摩藩)が朝廷の要職を巡って駆け引きを繰り返す。その間に立った二条斉敬は、幕府が難色を示していた正親町三条を雄藩らの意見に基づき議奏に就任させた。さらに朝廷は長州の寛大処分と兵庫開港を許可。二日間にわたり「幕府の言い分を致し方ないとする公家と開港反対と異議を唱える公家が舌戦を繰り広げた(p.223)」末の、二条の苦渋の決断であった。

ここで注目されるのは島津久光と朝廷の微妙な距離感である。朝廷は幕府に対抗するために久光の力を必要としたが、久光は公家たちと必ずしも協調していなかった。薩摩藩では幕府との協調を見限り、討幕の意志を固めていたからなのかもしれない(朝廷は倒幕など毛頭考えていない)。

慶応4年(1868)10月14日、徳川慶喜が大政奉還。そして同日、薩長に「討幕の密勅」が下された。連署したのは正親町三条・中御門経之・中山忠能。準備は岩倉具視で、文案は玉松操による。これは朝廷の正式な手続きを経ない、偽勅といってもよいものである。彼らは覚悟を決めたのだった。

大政奉還後には政権が極めて流動的になり、摂家中心の復古政体が構想されたり、一度は覚悟を決めたはずの正親町三条と中山が不安になって揺り戻されたりした。12月8日に朝議が開かれ、翌日まで議論がもつれたが長州藩の復権(藩主親子の官位復旧)、岩倉具視など「四奸」の還俗の許可、三条実美など五卿の復権が決定。これと並行して岩倉邸では政変の準備が進んでいた。そして朝議が終わったことを見計らい、王政復古のクーデターが行われたのである。

朝廷にとっての王政復古は、まずは官職の廃止であった。摂政・関白・内覧・勅問御人数・国事御用掛・議奏・武家伝奏・京都所司代が廃止された。これらが律令国家の百官に基づかない令外官だったからだ。また幕府寄りと見なされた二条斉敬はじめ多くの要職者たちは参朝停止となり、新政府の要職に就くことはできなかった。一方、それまで尊攘派と見なされた公家たちは大逆転して、総裁・議定・参与という新たに設けられた要職に就いた。

「第7章 維新の功労」では、公家たちが「華族」として再編成していく様が述べられる。一度は要職に就いた尊攘派公家たちも、その多くは新政権にお墨付きを与えるだけの存在であったので、一部の例外を除きわずか3年半の間に要職から遠ざけられた。なお版籍奉還(明治2年)の後に「公卿」と「諸侯」の名称を廃止して合わせて「華族」が生まれた。

明治9年(1876)に華族を統括する宮内庁部長局が設置。東京在住華族の「宮中侍侯」、京都在住の「桂宮侍侯」が置かれ、後にそれぞれ「宮中祗候」「桂宮淑子内親王家祗候」に改められた。無職の華族の生活保護のための名目的官職である。さらに明治17年には華族令が公布され、公・侯・伯・子・男爵の五爵が設けられた。幕末から明治維新時には公家の上下関係を破壊する動きがあり、「華族」として一緒くたにしたにもかかわらず、改めてそこに世襲の(!)上下関係を再編していったのは時代の変化を感じざるを得ない。

なおこの叙爵内規は公表されなかったため、公家たちはどのようにして上下関係が決められたのか知らなかった。 その原理は大雑把に言えば、公家の旧家格をもとに爵を設定し、「国家に偉勲ある者」の爵を上昇させたということである。しかし叙爵に納得しない公家も多かった。特に嵯峨実愛・中御門経之・大原重徳は過小評価されたことに不満を抱いた。逆に三条実美・岩倉具視・東久世通禧は他より偉勲が加味されている。

「終章 公家にとっての明治維新」では、維新後に公家がその歴史と伝統を保存しようとした動きを述べている。明治維新は、結果的には公家の世界を破壊することになった。その一部は華族として温存され存続したものの、伝統文化を継承する公家の世界はもはや存在しなかったのである。公家たちは「憲法や議会をもたらすために王政復古をしたのではなかった(p.282)」のに、結果的に自らを解体していた。

公家の世界が失われることを危惧した岩倉具視は、明治10年に中山・嵯峨・橋本実梁に「維新以前諸儀式取調」を依頼した。追って宮内省により正式に設置され、公家の多くがこれに参画することになった。そして明治24年に完成したのが「公事録」全29冊・附図1帖。こうして維新以前の儀礼が保存されたのである。

また公家たちにとって最後の大仕事とも言えるのが『孝明天皇記』の編纂。完成したのは明治38年。多くの公家たちが心血を注いだ果ての大作であった。明治維新は、それに参画した公家たちにとっても自らの思惑とは違うものになっていたから、彼らが夢見た本当の王政復古を、「公事録」や『孝明天皇記』に託したのかも知れない。

本書全体を振り返って幕末維新における公家の存在を考えてみると、その第1の画期となったのが安政5年(1858)の「八十八人の列参」である。これは公家たちの下剋上の先駆けとなったもので、公家が家格ではなく数を恃んで実力行使に出るきっかけになった。第2の画期が「国事御用書記」の設置である。これには家格や官位官職に関係なく多くの公家が任命され、公家の世界に「能力主義の人事」をもたらした。

元々、最高位の公家(摂家など)も大きな政治的発言権があったわけではないが、政権から排除されていた中下級の公家にとっては、家格によって自らが縛られていると感じるのはやむを得ないことだ。これを打破することが中下級の公家たちの希望であった。それを唯一叶えたといえるのが、中級の羽林家から最上位まで上り詰めた岩倉具視である。

しかし家格を否定し能力主義を導入することは、公家自体の存在意義を否定することでもあった。公家が公家でいられるのは、家柄以外ではあり得ないからだ。幕末維新を巡る公家たちは、結果的に自らを解体する作業を進めていたのである。それでも公家が完全に解体されずかなりの程度華族として温存されたのは、明治維新が朝廷の権威を借りて実現したものだったからである。

それにしても幕末維新の公家たちは実によく議論し、意見書をまとめ、建白し、しばしば実力行使に出ている。この時期、公家の世界が活性化したことだけは間違いない。一般の維新史では、彼らは有職故実に囚われ現実を知らない無力な存在と描かれがちで、今でも「お公家さん」と言えば俗に自分の意見を持たないお飾り的な存在を指す。しかし当時の公家たちは、武家と同じくらい新しい時代について考えていたのかもしれないと本書を読んで感じた。

それでも、本書の帯にあるように公家たちが幕末維新の「真の主役」であったとまでは言えないだろう。彼らの動向が幕末史を左右したことは事実でも、ついに公家からは新時代を創出する偉大な思想家は生まれなかったし、真の意味で歴史の主役と呼びうる活躍をしたのは、孝明天皇の他は落飾し洛中を追放されていた岩倉具視くらいしか見受けられないのである。

公家たちは歴史の変動の中で表舞台に躍り出、特に中下級の公家たちが活発に活動するようになった。しかしそれが同時に公家の解体を促したところが歴史の皮肉である。本書はこの皮肉な歴史を冷静な筆致で辿ったものである。

公家にとっての幕末維新を冷静な目で述べた良書。


2022年11月13日日曜日

『吉田松陰—「日本」を発見した思想家』桐原 健真 著

吉田松陰における「日本」の自己像に関する思想の変転を振り返る本。

吉田松陰は、その生涯においてほとんど何も出来なかった思想家である。徳富蘇峰は彼の一生を「蹉跌の歴史」「失敗の一代」と評した。しかし彼の思想は弟子を通じて影響を与え、明治維新を裏面から支えたのである。

吉田松陰は、数え年5歳で山鹿流兵学師範の吉田家に養子に出され、翌年養父が死亡、6歳にして家督を継ぐ。周防・長門の両国を擁する長州藩の防衛という重責が幼い松陰(矩方(のりかた))にのしかかった。

養叔父らは松陰に恐ろしく厳格な教育を施し、松陰はわずか10歳にして山鹿流兵学を藩校明倫館で教授し(!)、11歳で藩主・毛利敬親に山鹿素行の『武教全書』を進講した。とんでもない早熟の俊英であった。彼が受けた教育は激烈であったが、後年、彼自身は穏当な教育を行った。ところが晩年には言動が激化し弟子たちと次々に絶交することとなる。

彼は毛利敬親に絶対の忠誠を献げ、その意識は「長州」から遊離することはなかった。次々と異国船が訪れる幕末の動乱の中で、兵学者つまり国防のブレーンであった松陰は「長州」の国防について考えた。しかし彼は伝統兵学を信頼し、西洋の砲術を学ぶ価値はないとしている。彼は外国の兵学について無知ではなかったがいわば保守主義者なのだった。

21歳の時に長崎平戸に遊学。松陰はここで蘭船を実見して伝統兵学の無力さを悟る。また清国人の魏源が書いた『聖武記附録』にはアヘン戦争での清国の徹底的な敗北が描かれていたが、この書を読んで伝統兵学のみでは国防を担えないことが明らかになり、清国の二の轍を踏んではいけないとの思いを強くした。松陰は「西洋」という他者像を手に入れたのである。

平戸遊学の翌年、松陰は参勤する藩主に従って江戸に遊学する。彼は佐久間象山の塾に入るが、実際にはほとんど通っていない。それでも江戸での学問の分厚さに圧倒され、自らの家学の無効性を悟った。井の中の蛙であったことがわかったのだ。しかしながら、江戸の学者が大義のためでなく日々の糧を得る手段として学問をしていたことに失望し、江戸に「師とすべきの人なし」と、道を見失って錯乱し葛藤した。

その状況を打開すべく、松陰は東北への遊学を志す。藩の許しも得ていたが、手続きの遅れから結果的に脱藩しての旅となった。そして彼は後期水戸学と出会う。特に日本を「皇国」としていた会沢正志斎の下には足繁く通った。こうして松陰にとって守るべき対象が「長州」ではなく「皇国」たる日本であると転換するのである。「後期水戸学は、三百諸藩からなる封建的分邦という部分を越えた全体としての「日本」という自己像を、幕末日本の知識人や志士たちに与えた(p.82)」のである。しかし当初、松陰は「天皇」にはあまり注目していない。

日本を「皇国」と見なした松陰は、日本が海外諸国を征服するべきだと考え(「北は満州の地を割き、南は台湾・呂宋の諸島を収め」『幽囚録』)、西洋兵学の導入を必要とした。後にこの「航海雄略」論は梁川星巌を通じて天皇のもとに届けられた。彼は西洋渡航を試み、ペリー艦隊に密航しようとした罪により投獄される。

投獄された松陰のもとには兄・杉梅太郎から多くの書籍が差し入れられ、彼は猛烈に勉強する。元々無類の読書好きであった松陰は記録魔でもあり、読書記録を綿密に作成した。そうした記録や手紙を使い、本書では「白旗書簡」と呼ばれる時事問題への松陰の見解を検討し、松陰の対外館と情勢分析能力を評価している。なお本筋とは関係ないが、嘉永元年(1848)の手紙で松陰が長崎奉行所を「崎陽鎮台」と呼んでいるのが気になった(p.123)。

やがて松陰の思索は、実際上の国防論よりも、西洋と対等(以上)の関係を樹立するための名分論に傾いていく。日本を「帝国」と位置づけたのは日米和親条約であったが、なぜ日本は当初から「帝国」であらねばならなかったか。それは日本では伝統的に帝国=中華帝国であり、日本が「王国」であるならばそれは中華帝国に包摂されるという認識があったからであった。つまり日本は西洋に対して独立を示すために中国とは別の「帝国」を為しているという必要があった。この立場が国家の主権についての考察を促し、松陰には「帝国」の元首(主権者)として天皇がクローズアップされてくる。

そして松陰は「天皇を真の「元首」たらしめることが、「帝国日本」のあるべきあり方であると主張するようになる(p.168)」。それまで松陰は兵学者として攘夷中心の尊皇攘夷を唱えていたが、勤皇僧・宇都宮黙霖とのやりとりの結果「コペルニクス的転回(源了圓)」を果たし、「尊王論としての純化」が起こったのだった。

黙霖は浄土真宗本願寺派の僧侶で、聴覚障害があり漢文による筆談でコミュニケーションしたという。彼は松陰とは対照的に、強固な反水戸学の立場を取った。それは水戸学が「幕藩体制を維持するために、天皇をイデオロギー的に利用する「尊皇敬幕」の教説(p.172)」であると見なしたからで、黙霖は国学や神道に共感していた。松陰と黙霖は尊王論のあり方をめぐって書簡論争し、遂に松陰は「降参」するに至る。

松陰は投獄中、驚くべき量の本を読み、それを『野山獄読書記』という記録にまとめた。『野山獄読書記』には3年間で1460冊もの本が記録されているが、その前半は水戸学・漢学系尊王論が多いのに、「降参」後の後期となると国学・神道系尊王論にそれが置き換わる。特に中島広足の『敏鎌(とがま)』には強い影響を受け、松陰は「天」や「道」といった普遍的な原理ではない「日本固有の語り」に確信を深めていく。

かつての松陰は「神州君臣の義は万国に卓越す(安政3年(1856))」と楽天的な尊王論を唱えていた。しかし現実には天皇と人々に「君臣の義」など存在せず、日本を治めているのは徳川幕府なのだ。それを自覚した松陰は、武家政権以後の600年を全否定するようになるのである。そして天皇こそが日本が日本であることの根源、すなわち「国体」であると考え、天皇の根拠である「天壌無窮の神勅」をよりどころにした。

しかし彼は神話を事実とは見なしていなかったフシがある。それでも松陰は、「日本固有の語り」以外に自らの依って立つ基盤を見出すことができなかった。それが「怪異」によるものだとは自覚しつつも、松陰は神勅を「信じる」ことを選択したのである。

なお松陰は獄中で『孟子』を講義し、その講義録を長州最高の学識である山県太華に送って講評を仰いだ。太華はその尊王攘夷論や国体論を全く認めなかったので松陰は愕然としたが、講義を続けるとともに太華に書面上で教えを乞い、結果まとまったのが『講孟余話』である。

本書では『講孟余話』と太華の返答である「講孟余話評語」を分析し、特にその対外関係論を抽出している。それによれば、太華は朱子学者らしく中華(文明の中心)による「普遍」を措定して、そこから諸国家が規定されると考えた。一方松陰は、日本が「日本固有の語り」を持っているように諸国家もそれぞれのアイデンティティを持ち、国家の相互関係から諸国家間の「普遍」が導き出されると考えた。松陰の尊王論は、確かに日本を神勅で基礎付ける狂信的な部分もあったが、それであるがゆえに国家を相対化し、彼我の「国体」を互いに承認し合う「国際関係」認識に至ったのだという。これは一面では「万国公法」的な立場の考えに近い。

ところが松陰は安政の大獄により死罪を申し渡される。「松陰が蟄居の身でありながら海防論を述べ、政策論を著したことは、幕府にとっては、明らかな罪であった(p.227)」。享年僅か30歳。

松陰の辿り着いた尊王攘夷論は、国学者たちが鼓吹し、彼自身もかつて唱えていた世界征服論などとは全く異質であった。松陰はそうした夢想を退け、「みずからの固有性としての「国体」を堅持しつつ、「五大洲公共の道」という普遍へと乗り出していく「航海雄略」を唱えた(p.230)」のであった。

本書を通じて感じたのは、松陰の異常なまでの読書力である。『野山獄読書記』の記録は凄まじい。例えば1856年の12月には、本居宣長の『古事記伝』の10〜15巻までの6冊を読んでいるが、『古事記伝』はこのようにサラっと読めてしまう本ではないのである。これは一例であり、いくら他にすることがない獄中の身とはいえ読書の質・量が半端ない。彼は読書によってその思想を形作っていったといえる。

そして、獄中の松陰を支えた兄・杉梅太郎にも興味が湧いた。なぜ梅太郎は松陰の求めるままに大量の本を差し入れることができたのか。彼はどうやってそれらの本を手に入れることができたのか。松陰の思想形成を担った隠れた重要人物である。

全体を通じ、本書は松陰の思想のみにフォーカスを当て、伝記的事実はごく簡略にしか述べられないのが憾みである。つまり本書は評伝ではなく松陰の思想的変転のみを説明するものだ。しかしその思想を解き明かすのには、伝記的事実は欠かせないもののように思う。特に投獄体験は松陰の思想に大きな影響を与えているように思われるので、もう少し詳細に述べてほしかった。

とはいえ、思想以外を捨象した結果、本書は極めてスマートにまとまっている。松陰の思想について概観するための良書。


 

2022年11月12日土曜日

『大江戸庶民いろいろ事情』石川 英輔 著

江戸の実態をさまざまに述べる本。

著者の石川英輔は、『大江戸神仙伝』という小説を書くために江戸の風俗を綿密に調べ始めた。小説に書くためには、当時の人にとっては当たり前のことを知っておかなくてはならない。しかし当たり前のことはあまり記録されない。だから苦労して調べつつ小説を書くのだが、『神仙伝』の姉妹編を何冊か書き江戸の実態がわかってくるようになると、江戸時代の風俗の専門家とみなされるようになってきた。そして本業(印刷業の技術者)の観点から『大江戸えねるぎー事情』などの江戸の社会を見直す本を書くようになった。

本書もこうした一連の本の一冊で、技術者的な観点から様々な江戸時代の文化風俗を見直したものである。

本書では、江戸の実態を推測するために多くの絵図を援用している。「当たり前のことはあまり記録されない」のは文章の中だけで、絵になると皆がよく知っていることは細部に至るまで正確に描かれることが多いため、記録として非常に価値が高い。江戸時代の木版画は恐ろしく高い技術によって作られているので、江戸時代の実態を知るには必須の史料である。

特に『江戸名所図会』は質と量ともに抜群で、「『江戸名所図会』がなければ、われわれの江戸に対する知識は一桁も二桁も少なくなるのではないか(p.67)」というほど重要で、「図会ものの最高峰(同)」である。著者は偶然にこの完全な美本を手に入れ、それを底本にして田中優子氏との共同監修で評論社から原寸復刻版を刊行している。

以下、本書の内容から興味を引いたものをいくつかメモする。

江戸時代の人がどんなものを食べていたか。具体的にはどんなおかずを食べていたかという料理の種類の話になるが、これが意外なことに、現代でもそれがどんなものかわかるほど馴染みのあるものなのである。食は保守的でなかなか変わらない。

江戸時代の庶民の遊びは豊富だった。余暇が多く識字率が高かったため(江戸時代の日本は世界的に見て出版大国だった)、遊芸が盛んになり、俳句や川柳、狂歌、連句などは高度な水準に達した。

「拳」については本書で初めて知った。これはジャンケンのような遊びであるが、ルールはもっと複雑で「本拳」とか「三竦み拳」といったいろいろな種類があった。ルールからは純粋な確率のゲームに見えて、実際は高度な心理戦でありその道の名人は相当に強かったらしい。「拳」はごく一部を除いて現代ではすっかり廃れた。

著者は江戸の武家地・寺社地・町屋(町人居住地)の分類に疑問を持ち、『復元 江戸情報地図』という資料によって種目別の土地の割合を計算した。結果は、農地が第1位で、続いて武家地、町屋、寺社地、河川の順となる。考えてみれば当たり前のことだが、江戸でも農地が多い。意外なのは河川が約4%を占めていたことで、江戸は水の都だったのだと再認識させられる。

そして江戸は上水道がかなり整備されており、「江戸の水道網は当時の世界では、給水人口、給水面積、給水量のいずれをとっても飛び抜けた規模だった(p.32)」そうだ。江戸の上水道には元来の神田上水と、後からつくった玉川上水の二系統があり、本書ではその成立について詳しく書いている。江戸が当時世界一の人口を擁したのは、玉川上水のおかげが大きいそうだ。庶民も武士もちゃんと上水道料金を払っていたというのが面白い(もちろんメーターなんかはないが)。

また著者は「木戸」について詳しく実態を調べている。 「木戸」とは街のあちこちにあった区切りであり、元々は防衛上・治安上の意味があったらしい。ところが太平の世が続く中で形骸化していった。著者は絵図から、木戸には戸がほとんど失われてしまったことを解明した。

ところで、本書ではちらっと書かれるだけだが、「庶民でも、旅行の時は、一尺八寸までの脇差しを帯びた(p.321)」とあった。これは何のためなのか(護身のためなのか?)気になった。

なお全篇にわたり、「現代社会は限界を迎えているので、江戸時代の持続可能な社会の在り方を見直すべきだ」「江戸時代は不当に低く評価されてきた」といった趣旨の主張があり、その通りだと思うものの、あまりにも頻繁に書かれるのでややくどい。これがなければ本書は専門書にも引けを取らない内容を持っていると感じる。

主に絵図を使い江戸時代の実態をいろいろに語る参考書。


2022年10月7日金曜日

『回想の明治維新—一ロシア人革命家の手記』メーチニコフ 著、渡辺 雅司 訳

明治時代に日本に来たロシア人の回顧録。

本書の著者メーチニコフは、一口に言えば「お雇い外国人」ということになるのだろうが、通り一遍の「お雇い外国人」と彼は全然違う。なにしろ彼は、革命家として日本に来たのである。

彼は母国ロシアから亡命してヨーロッパに逃れた。ロシアでの革命を目指し、それが挫折した結果だった。しかしかれは生来語学の天才で、世界各地を流浪してヨーロッパ諸語だけでなくアラビア語、トルコ語、中国語までもマスターし、さらには各地の地理や民族を研究した学者でもあった。そんなメーチニコフは明治維新という「革命」を知り、日本に憧れを持つようになる。彼は明治維新を内発的な革命と見なし、それを高く評価した。そしてロシアでそのような革命を成し遂げるために日本への渡航を目論見、日本語を勉強するのである。

一方明治2年頃から、薩摩藩出身の大山巌はヨーロッパ(この時はフランス)に留学していた。しかしフランス語の勉強がなかなか進まず苦労する。そんなときに、大山は偶然メーチニコフに会う。日本語を学びたいメーチニコフと、フランス語を学びたい大山は、相互に語学を教え合うことになり、フランスで毎日のように親密に交流した。彼は大山巌の恩人といっていいのだという。

さらにメーチニコフは、洋行中の岩倉使節団とも会い、木戸は都合5時間もメーチニコフと会談した。彼らはペテルブルグを公式訪問した後だったが、ロシア政府を打倒しようとしていたメーチニコフとも親しく付き合ったのが面白い。ともかく岩倉使節団と邂逅したことでメーチニコフは要人との繋がりを得、日本に招聘されるのである。用件は、西郷隆盛が江戸につくる薩摩藩の学校で教えて欲しいということだった(この学校の詳細は不明。なお当時は廃藩置県後なので正確には薩摩藩自体がもう存在しない)。

ところがほとんど無一文になりながら日本に着いてみれば、西郷隆盛は明治六年政変(征韓論争)で政府にいなかった。しかし同じく薩摩藩出身の高崎正風の周旋によって、メーチニコフは文部省の役人になり、東京外語学校魯語科の教師となった。彼が日本で教鞭を執ったのは明治7年からたった1年半であったが、彼の影響で魯語科にはナロードニキ系亡命ロシア人が集まり、二葉亭四迷を始めとした人材が育っていくのである。また明治8年に東京外語学校長として中江兆民が赴任している。二人の交友は短い間だったがお互いに影響を与えたという(解説による)。

メーチニコフは、この短い日本滞在の間に、なぜ明治維新が成し遂げられたのかという秘密を探っていく。本書の半分強はその日本論である(なお1881年にメーチニコフはフランス語で『日本帝国』という大部の日本論を書き上げた)。彼は、日本の歴史を概観して、明治維新が外圧によって起こったのではなく、そのずっと以前に内発的な政治変革を来していたと見なし、むしろ日本の方からヨーロッパを目指すことになっていたと考える。

そしてその重要な基盤となっていたと彼が考えたのが、民衆の教養の高さであった。彼はどの町にも本屋が無数にあるのに驚いている。当時、小さな新聞などが大量に発行されていたし、召使いたちでさえ暇さえあれば小説をむさぼり読んでいたのだ。そういう小説は(彼にとって)真面目なものではなく、好色的要素があるようなものだったとしても、下層民までも読書の習慣があることに目を見張った。なおメーチニコフによれば1870年代の日本には年平均して1500点の新刊書が出ていたという。

民衆までも書物的知識と教養を持ち、作法やふるまいが文化的であることに日本の特質を見、「土着的な」革命として明治維新が成し遂げられたと彼は考えた。その見方が正鵠を射たものであるかは今となっては怪しい。しかし多くの国を巡り、多国語を操ったメーチニコフがそのように感じたということは注意すべき事実である。今の日本はどうだろうか。

明治7〜8年の日本を活写した一編。


2022年10月5日水曜日

『明治維新と文明開化(日本の時代史21)』松尾 正人 編

明治時代の初期を通史とトピックで述べる本。

本書は、通史であり概論でもある松尾正人の論考(3分の1ほど)と、トピック毎の6つの論考で構成される。全体的に平易で読みやすく、本文で直接参照されないものまで含めて図版が豊富なのが嬉しい(特に巻頭のカラー図版がよい)。通史・概論はやや簡略で、正直言えばもう少し分量があった方がよかったように感じたが、バランスを考えると端正な編集方針と言える。

本書が記載の対象とする時代は、明治維新後およそ10年間である(明治20年くらいまでが対象であるが中心は10年間)。シリーズ「日本の時代史」全体の構成を考えると、これは短い期間を詳述している方に属する。それだけ大きな変化が短期間に起こったということなのだろう。

巻頭の松尾正人「明治維新と文明開化」は、維新政府の成立から西南戦争までを政局を中心として述べる。本稿の特徴は、維新政府の動向もさることながら、その対抗勢力の方を丁寧に描いていることで、特に鳥羽・伏見の戦い〜戊辰戦争の展開は類書に比べ詳しい。彼らの抵抗はそれほどの成果を上げなかったが、維新政府の樹立にはそれなりの軍事行動を伴ったことは注意しなくてはならない。

新政府の制度設計で大きな役割を果たしたのが福岡孝弟(たかちか)であるというのが面白い。維新政府は当初の「政体書」の体制で既に革新を指向していたものの、五カ条誓文の翌日の「五榜の掲示」が示すように、「「万機公論」と「国威宣揚」を国家的目的に掲げながらも、一般に対する支配を封建体制のままに受け継いでいた(p.29)」。

維新政府に対決したのは、攘夷実行を求めるグループや守旧的な宮廷勢力(=「太政官ノ役人ヲ見ルコト仇讐ノ如キ」(p.35))であったが、それらと軋轢を抱えながらも東京遷都、一世一元制の実施など徐々に改革を行っていった。

廃藩置県の説明は、版籍奉還からの経過が詳しい。その中で明治2年4月の「官吏公選」が目を引いた。これは、輔相・議定・参与について、行政官の弁事と各官の判事および府判事、一等県の知事までの三等官以上によって選挙するものである。これは公論の重視というより政権の中枢から公家・諸侯を排除して三条・岩倉派を確立するものであった。一般的には廃藩置県によって公家勢力が政権から排除されると理解されるが、版籍奉還の前にこのような人事が行われていることが興味深い。また版籍奉還と同時に、公卿・諸侯の称が廃されて「華族」に統一されたことも軌を一にするものである。そして版籍奉還後は、知藩事の世襲が否定され一門以下平士までが「士族」となった。

また「藩制」では、各藩の財務が規定され、藩札の回収が命じられる。しかし財政的に限界を迎えていた諸藩では、これを実行するには多大な困難があった。廃藩置県の前に既に藩体制の解体が進んでいたのである。

廃藩置県後の太政官三院制では、政局を中心に事態が変転。その帰結が岩倉使節団だったと言える。 そして岩倉使節団は欧米の実態を見ることで、幕末の「攘夷」の思いが完全に一掃された。

岩倉使節団と前後して、戸籍法の施行など一連の開化政策が実施される。高等教育から初等教育の充実へと舵を切った「学制」、徴兵令、壬申地券(土地の売買自由化)と地租改正、鉄道敷設などである。日本は早足で近代国家建設を進めていった。

しかしそこに注目すべきことがある。幕末に開港した横浜では、既に慶応3年に横浜本町一丁目に洋風石造り2階の横浜運上所(日本初の洋風石造り建築)が建設されているのである。文明開化は何も維新政府の専売特許ではないということになる。明治2年には早くも姿見町の料理人が西洋割烹の店を開いた。さらに横浜で最初の新聞『ジャパン・ヘラルド』(週刊)は文久元年(1861)の創刊だ。そうしたことを考えると、文明開化は幕末に始まっていたと考えざるを得ない。

ところで新政府へと反発したといえば、やはり農民である。新政府は旧藩主を東京に集住させ(地元民との紐帯を断ち切り)、新税や徴兵など農民の負担を増やしたから一揆が頻発した。そして新政府はこれらを弾圧する。中でも地租改正反対の「伊勢騒動」(明治6年12月)は、絞首刑一人を含む5万人もの処分者を出した。翌年、政府は地租を地価の3%から2.5%へ減額することを余儀なくされているが、基本的には民衆の要求はあまり顧みなかったと言ってよい。

その後に起こってくるのが征韓論を巡る政変であるが、これについては随分記載が簡略である。その代わりに台湾出兵が割と詳しく述べられており参考になった。そして征韓論政変で下野した板垣退助・後藤象二郎らが民撰議院設立建白書を出し、これから民撰議院論争が起こってくる。最後に、秩禄処分と士族反乱について簡潔に述べて稿を終えている。

「Ⅰ 明治維新の光と影」(松尾正人)では、戊辰戦争のさきがけとなった高松隊について詳しく述べている。高松隊とは、公家の高松実村(さねむら)を盟主とした草莽隊(自主的に編成された民間の軍)である。隊を組織したのは小沢一仙という宮大工の長男に生まれた者である。しかし民間とはいえ、この隊には参謀に岡谷繁実(館林藩の家老格の家柄)がおり、低い身分の者が一旗揚げるために集まっただけではなかった。彼らは戊辰戦争の勃発にあたり挙兵しようとするが、岩倉具視に止められる。しかしそれを振り切って京都を脱走して挙兵。

公家が旗印になっていたこともあり、ほとんど戦闘を経ずに、しかも周囲から軍用金がどんどん寄附されて甲府までも進軍した。ところが高松隊が甲府に入城した日、東海道先鋒総督兼鎮撫使の総督橋本実梁(さねやな)が甲府に到着し、甲府城を同軍に引き渡すよう求めた。高松隊は京都を脱走して進軍しており、綸旨も持っていない勝手な行動である。近代の軍制に即して考えれば軍法会議で処罰される重罪だ。昨日までの意気軒昂は消え失せ、また周囲からは悪口雑言が浴びせられた。そして小沢は甲州で布告したとされる偽の勅条目の責任を問われ打ち首になった。彼は勤皇に恩賞を与えるといい、年貢半減など民衆の負担軽減を勝手に約束していたのである。

しかも岡谷繁実は、横浜を攻撃するとの書状を携えていた。新政府にとって横浜の外国人を襲撃することは外交問題になることで厳禁である。京都の高村保実(実村の父)は高松隊の処分を軽減するよう必死に運動し、実村は謹慎処分へと落ちついた。しかし岩倉具視の制止を振り切って脱走したことは大きく響き、赦免が遅れたのみならず、結局その後も活躍の機会がなく任官も思うようにいかなかった。一方で参謀の岡谷繁実はコネがあったのか赦免も早く、要職に起用され、新政府で活躍した。高松実村と岡谷繁実は、僅かな条件の違いでその後の人生の明暗が分かれたのであった。

「Ⅱ 巡幸と祝祭日—明治初年の天皇と民衆」(牧原憲夫)では、天皇という存在が開化をどうリードしていったかが述べられる。明治政府は「復古」を旗印としたが、それは一見「開化」と矛盾する。しかし奇妙なことに、「復古」のためには「開化」=西洋化が必要だと大久保らは考えていた。天皇を西洋風の君主にしつらえることが「復古」なのだ…と彼らが本気で信じていたのかはわからないが、「開化=復古」の論理は「明治政府の”転向”を糊塗し、神道家や国学者の原理主的非難を封じる妙手だった(p.155)」。

西洋風の君主として、国全体で天皇誕生日を祝うこととされ(というのは、誕生日を祝う風習は日本にはなかったからだ)、これまで御簾の奥に引きこもっていた皇后は外交の場に出てきた。急進的な政策を次々と実施する新政府への理解を得るため、天皇は「仁君」として国民に姿を現した。天皇が初めて大衆に身をさらしたのは1870年4月。意図的に君主を「見せる」演出であった。そして天皇はことあるごとに仁君として下賜金を振る舞ったのである。一方で、皇居は聖域化し、人がみだりに立ち入ることができない領域へと変貌していった。にもかかわらず、政府は天皇の「生き神様」化には警戒していた。そうした「迷信」が政府の手に負えなくなることを心配していたのだ。

本稿ではこうしたことのケーススタディとして、1872年、1876年の巡幸が詳しく述べられる。巡幸の対応を通じて、天皇と国民の関係性が確立していった。国民は天皇と皇后の一挙手一投足に注目し、その行動を「見ること」を通じて「国家」の一員になっていったのである。

「Ⅲ 岩倉使節団と信仰の自由」(山崎渾子)では、岩倉使節団における宗教の対応を通じて日本の信教自由の成立過程が述べられる。日本の鎖国政策はキリスト教禁止が大きな特徴であった。幕末に開国はされたが、キリスト教は引き続き禁じられていたから、必然的にそこに矛盾が生じた。当然、欧米列強は日本にキリスト教解禁を求め、それが条約改正の前提条件となっていた。条約改正の準備もその目的にあった岩倉使節団は、この件が各国から指摘されると予想し、「近いうちにキリスト教解禁にするつもりだが、これは日本国内では影響が大きいので秘密にしておいて欲しい」との密約で各国との交渉をやり過ごそうとした。

外国人へはキリスト教の公認を仄めかしつつ、実際には禁制を続けたのは、初代外務卿の沢宣嘉(のぶよし)と外務大輔の寺島宗則の神道主義のキリシタン政策の頃からのことだった。

しかし現実には日本国内でキリスト教徒が迫害されていたから、これは各国で問題視され、特にアメリカではこの密約の効果はなかった。一行は委任状がないという形式面での不備を指摘され大久保らが一時帰国するが、その全権委任状の下付願いでも第1条にキリシタン解禁の条項があった。また一行は欧米諸国の様子を視察する中で、「文明国」の多くでは信教の自由政策をとっており、キリスト教は特に大事にされていることを確認してゆく。

だが彼らは、不思議なことに信教の自由やキリスト教解禁が必要だとはみなしていない。彼らはあくまでも外交問題として「信教の自由」を捉えていた。当時の日本ではキリスト教に邪教のイメージがあったのだが、彼らは欧米諸国でキリスト教の実態に触れたはずである。アメリカでは教会にも行っている。何の問題もなくキリスト教徒が暮らしているのを見ながら、日本でキリスト教が広まるのを懸念しているのはなぜなのだろうか。彼らはキリスト教の何を懼れていたのだろうか。本稿にはそれは書かれていないがそこが気になった。

それはともかく、岩倉使節団がまだ外遊中の明治6年2月、キリスト教禁止令を含む五榜の掲示が撤回された。しかしそれは高札を取り外したのみで伝達方法を変更したに過ぎず禁教は続いた。各国は密約が裏切られたこの処置に失望し、国内でもむしろキリスト教徒への弾圧が激しくなってしまった。

岩倉使節団帰国後も、日本は神道主義と西洋化という矛盾した目標を追い求める。文部卿の森有礼や外務卿の寺島宗則は、日本も信教自由にすべきだと建白しているがこれは例外的であった。寺島の後継、外務卿の井上馨は漸進主義を取り、徐々にキリスト教黙許の立場へと進み、明治22年の帝国憲法によって条件付きとはいえ信教の自由が公言された。日本における信教の自由は、人間と宗教、国家と宗教、人権といった観点から実現したのではなく、対外的な都合、外交問題から規定された面が大きかった。

「Ⅳ 文明開化の時代」(中野目徹)では、文明開化とは何だったのかが再考される。福沢諭吉は明治8年(『文明論之概略』)には熱烈な文明開化論者であったが、その3年後には「文明国の中に文明を見出すことができない」とぼやいた。彼は僅か20年の間に、最初の家を純洋風に、次の家を応接間等のみ洋風に、そして最後の家は純和風につくった。あの福沢にとってすら文明開化は変容していったのである。

文明開化の旗手だった明六社・『明六雑誌』は、大新聞(おおしんぶん)に文明開化を鼓吹する論説を発表したが、大新聞の雑誌欄や小新聞(こしんぶん)では早速それが揶揄された。例えば「ホラヲフクサハ(福沢) 馬鹿ヲイフキチ(諭吉)」といったように。文明開化の絶頂期ですら、西洋そのものでない西洋の物真似が嘲笑されていたのだ。福沢が明治4年に慶應義塾出版局の中に「衣服仕立局」を開業したのは、「物真似」から西洋に近づいていこうとした当初の文明開化を象徴しているかもしれない。

洋装は、幕府時代は「異形」であり「見掛次第召捕」の罪であった。であるから洋装そのものにも変革のムードは確かにあったのだ。だがそれが見た目先行であったこと、「西洋」をごった煮にした鵺(ぬえ)的なものであったことは、はやり文明開化の限界を表していた。

しかし明治8年には讒謗律・新聞紙条例が定められ、無秩序で自由で活気のある状態は終わりを告げ、「言路閉塞」になっていく。明六社は実質的に活動を終了。福沢はじめそのメンバーは「東京学士会院」に横滑りしたが、これは御用組織であり明六社とは根本的に違う存在だった。そして福沢自身、ナショナリズムに傾斜し、西洋ではなくアジアを異質なものと見なす『脱亜論』(明治18年)へ進んでいった。

「Ⅴ 博覧会時代の開幕」(國 雄行)では、文明開化に対し博覧会が果たした役割が概説される。19世紀の後半の半世紀は、ヨーロッパでは博覧会の時代とも言えるほど盛んに博覧会が行われた。日本も幕末からこれに参加することによって国際社会に歴史や実態を伝え、工芸品などを売り込んでいった。

博覧会は日本国内でも、各地域の産物を調査し産業奨励を行う目的で開催された。それが明治10年、大久保利通が殖産興業政策の一環として建議して開催された内国勧業博覧会である。それは自主的な出品というより、官側が物品を中央に集めるという性格が強く、府県別で対抗心を煽る工夫があった。それでも内国博は「文明の利器」を具体的に見せる啓蒙的な場として機能した。ただし第1回内国博で展示され最も普及したのは欧米製の機械ではなく、臥雲辰致(がうんたっち)の棉紡機「ガラ紡」だったというのは面白い。

なお、内国博には全国の府県が参加したが、西南戦争の影響で鹿児島県だけは参加しなかった。西南戦争が勃発しながら、大久保内務卿は博覧会強行を主張し、それどころか西郷軍壊滅の後、博覧会場で総督有栖川宮の凱旋祝賀を実施したのである。

「Ⅵ 士族反乱と西郷伝説」(猪飼隆明)では、士族反乱の論理が述べられる。士族反乱は、武士の特権が奪われたことへの不満によっておこったのではなく、権力闘争であったと著者は見る。それは、天皇への上奏ルートが一本化されて「有司専制体制」が生みだされ、このルートから排除された官吏や勢力の権力奪還や反抗の試みが征韓論や自由民権運動であり、その一つが士族反乱なのだという(私自身は、腑に落ちないが…)。

西郷隆盛も、武士階級の解体には一切阻止的な役割は果たしていない。とはいえ「参議の地位にありながら、目の前の政治の現実にしっくりいかないもの、居心地の悪さを感じていたことは確か(p.283)」という。

佐賀の乱では挙兵の理由として「奸臣専横」が挙げられており、神風連の乱でも「政府文武官吏」が問題だとしている。秋月の乱でも「奸人政権」の専横、萩の乱でも「小人在位、以擅国権(以て国権を擅(ほしいまま)にす)」が問題だとされた。彼らの多くは尊皇攘夷を続けてもいたのだが、開国・開化政策が貫徹され、また天皇権力に一元化してゆけば武士階級は解体せざるをえない。よって政権担当者を「奸臣」だとして非難したのだろう。

しかし西南戦争の場合は西郷隆盛も出兵の目的を一切語っていない。そのため西郷軍には不平士族だけでなくその真逆の民権派も参加しており、そこに「西郷伝説」が生まれていく素地があった。

本書全体を通じて感じたのは、文明開化は幕末に始まっており、明治政府はそれをある程度継続させたがむしろそれに掣肘を加えたということだ。江戸幕府もヨーロッパに使節を派遣したし、万国博覧会に出品した。福沢諭吉が『西洋事情』初編3冊を出版するのは慶応2年である。文明開化というと明治維新と結びつけてしまいがちだが、むしろ幕末からの連続性の方が大きいのではないかと思った。しかし明治維新後の文明開化は、幕末のそれとは著しく異なる点がある。それは明治10年頃から天皇中心の価値観で「文明」が取捨選択され再構成されていったということである。西洋中心から天皇中心へと転回していったのが明治の「文明開化」であった。

文明開化を様々な角度から検証する参考書。


2022年9月17日土曜日

『明治維新と宗教』羽賀 祥二 著(その2)

 (前回からのつづき)

 III 国民教化の思想と方法

「第7章 地方教化体制と仏教」では、教部省体制における具体的な教化活動として東北地方を担当した石丸八郎の例が述べられる。石丸八郎は教部省の官員として東北地方を巡回した。地方教化の中心となったのは、各地方の中教院だったが、本章では東北の中教院がどのような動きをし、どのような課題を抱えていたのかを詳細に明らかにしている。

教部省/大教院は神仏合同の国民教化運動を進めたが、国民への具体的な働きかけの中心となったのが中教院であった。そして重要なこととして、中教院では教導職試験が行われた。神官・僧侶どちらの場合でも、その試験結果が具申されて教導職が任命されていたのである。真宗はそれに反発し、単独での試験を企図したが、それが大教院体制からの真宗分離運動に繋がっていった。

なお、試験結果が芳しくなかったものには、学寮での一定期間の勉学が義務づけられた。しかしこの「学寮」の内実はなかなか整わなかった。何しろそこで教える人材が不足していたし、カリキュラムも確定していなかった。 

また教化活動にかかる費用には国家補助は出なかった(教導職は無給の官吏)。教導職たる僧侶や神官たちは、手弁当で(あるいは各教団からの費用で)教導活動をしていたことになる。これでは教化活動が進むはずもない。そこで地方官(地方官庁)と連携した活動が重要になってきたが、秋田県で布教係の設置が見送られるなど、必ずしも連携はうまくいっていない。

岩手県では石丸の提案で区戸長が教導職を兼務する試みが行われるなど、中教院側は地方官と共同歩調を取りたかったが、地方官の方では大教院等に官員派遣のお願いをするなど、国民教化に人員を割くのは難しかった。

というのは当時、地方官は矢継ぎ早に出される新たな政策の対応に追われていた。とても宗教的な国民教化など取り組む余裕はなかった。それよりも新たな布告や布達類を解説し人民に徹底させることこそが「国民教化」に求めるものであった。彼らは「新しい政府の法令を遵守させ、諸改革を受容させていくような説教を「教導活法」と呼んだ(p.417)」が、大教院や中教院の思うような国民教化は地方の現場から全く求められていなかったのである。

「第8章 「敬神」と「愛国」の思想」では、明治初期における敬神愛国思想の成り立ちが回顧される。従来の研究では、「愛国」は外来の概念であり、教育勅語によって封建倫理や「敬神」と接続されたと見なされてきたきらいがあるが、実際には国民教化運動の中ですでに「愛国」は中心的なイデオロギーとなっていた。なにしろ、明治国家の建国過程は、「「万国の総帝国」たる神国の発展をめざすという壮大な国家意識(p.436)」が内包されていたのである。

国学者たちは、天皇の権威は天祖の血統に基づき、君臣の関係が不変であるがゆえに国民は天皇(国家)に従わなければならない、と考えていた。一方、明治初期の啓蒙的な人々は「権利と義務」に基づいて国民が国に尽くすべきという論理を主張した。

実際の国民教化運動は、教部省の「三条の教則」によって行われる。ここでは敬神愛国が神話・神学によって基礎付けられ、「皇恩への報謝」が強調されて、そのために国に尽くすべしと説明された。ところが国民の側には未だ客分的な意識があり、なぜ国を愛さなければならないのかピンと来なかった。当時の民衆感情から乖離していたのである。また「皇恩への報謝」というフィクションは、文明開化期の進取・自立の精神からも齟齬を来していた。そして愛国は、神話に基づくのではなく、富国強兵のための手段として説明されるようになる。教部省もこれを追認したのか、「三条の教則」を補足する「十七兼題」では宗教性を後退させた近代化政策としての愛国論に変容した。 しかしそれにより 「神道的な論理や儒教倫理と折衷されて、奇妙な権利・義務の解釈が展開されることになった(p.456)」 

一方、三条教則の愛国を批判したのが島地黙雷など真宗の僧侶であった。彼らは愛国に敬神概念を持ち出す必要はなく(何しろ西洋諸国には神とは無関係に愛国的な国民がいたのだから)、国民意識こそ「真の愛国」であると主張した。

また、民権派もまた違った角度から愛国を叫んだ。民権派は、愛国公党・愛国社などの結社名や『愛国雑誌』など雑誌名が示すように、民権運動そのものが愛国運動でもあった。彼らは政府に厳しく議会設置を求めるなど一見国家に対立していたが、むしろ積極的に国政へ関与していこうとする意味では一種の国家主義であった。そして自由と権利を持つ個人が自発的に国に貢献しようとすることを理想とし、そのためには立憲制こそ全国民を愛国者へ育成する制度だと考えた。それには、かつて滅私奉公していた(=愛国的であった)士族の精神を継承するのだという士族のリバイバルの要素も入り込んでいた。

このようにして、明治10年代には「忠君愛国論」において敬神イデオロギーが後退した。そして「神道は宗教ではない」とされ、儒教倫理を中心とする新しい国教路線が敷かれる中、「徳」としての忠君愛国が主張されるようになった。神道が宗教でなくなった結果、造化三神以下の神々への敬神は宙に浮いた恰好になったが、皇祖神への敬神はそうではなかった。神々への敬神に代わって、皇祖神・天皇への敬神と愛国が結びつき、「敬神愛国思想」は明治20年代に教育勅語とともに新たな装いで登場することになったのである。

IV 近代天皇と「神道」

「第9章 神社と記念碑」(書き下ろし)では、国事に殉じたものの鎮魂と顕彰という新しい儀式について、米沢と金沢を事例に論じている。米沢と金沢は、旧藩主を神格化した神社(上杉神社と尾山神社)を創建し、それが後に別格官弊社に列格された。明治維新が否定したはずの旧藩主を祀って、それが国家にも認められたのはなぜか。

維新後の神仏分離政策では「社(やしろ)」が「神社」と改められたように、仏教だけでなく神社が大きな改変を受けた。 一村一社といった強権的な神社整理を行う一方で、仮に県社であっても氏子の寄附のみで運営させ公費を支出しないなど、国民に神社の維持を命じつつも神社のあり方には大きな制限を加えたのである。

しかし明治11年に社寺創建の許可が地方官に委任されると状況は一変する。神社の創建願いが急増したのである。これに応じて明治19年には創建に一定の制限が加えられ、明治23年(帝国憲法発布の年)には「民族国家の宗教理念に基づいた創建神社の時代は終わった(p.502)」。これらの神社創建は何に基づいていたか。

この前提となったのが、明治10年代の墓碑・記念碑が建立される趨勢であった。それには暗殺された大久保利通らへの墓碑撰文が嚆矢となった。国家に殉じた者の顕彰のために立派な墓碑や記念碑が建立され、また中国の伝統になぞらえてそこに漢文の碑文が刻まれることがスタンダードになっていく。

特に西南戦争の死者の慰霊碑はその象徴である。例えば 滋賀県では、都市を見渡すことのできる場所に立派な慰霊碑が建立され、また大仕掛けの祭典が営まれた。そうした見晴らしのいい場所は鎮魂の場所として相応しいという観念も育っていく。なぜ西南戦争の慰霊碑がビッグイベントとして建立されたたのかといえば、新政府の政策によって動揺する人心を死者を持ち出すことによって鎮める意味があった。現在の太平は戦死者のおかげだと強調し、良民になるための「躾」を、死者を模範として行おうとした。

また神社は、廃藩置県後に立場的にも精神的にも不安定な立場になっていた士族たちを、精神的につなぎ止めておくためにも必要とされた。旧米沢藩では、廃藩置県直後に上杉謙信と鷹山の祭祀を神祭により行うこととし、社殿を旧本丸に修築することとした。これが上杉神社に繋がっていく。 

追って、山形県令に赴任した三島通庸は鷹山の位階を進めるよう運動し実現した。彼は既存の権威を利用して自らの立場を固めようとしたのである。

一方、金沢でも西南戦争記念碑が建立された。またそれに先駆けて、明治5年には教部省官員と石川県参事により、前田利家を祀っていた卯辰八幡宮を旧主の別館に移転して郷社とすることで尾山神社が創建されていた。このように、「著しく功績を挙げた郷土の人物たちが、新しい秩序の構築に際して動員されていった(p.517)」。明治32年には前田利家の死後300年祭が大がかりに挙行される。地域の歴史を新しい国家の中に位置づけてその顕彰を行うことで、郷土意識と国家意識を接続しようとしたのである。

こうした動きの中で全国的に最大のものは、明治28年の平安遷都1100年祭である。そこでは桓武天皇を祀る平安神宮が創建された。「旧藩主、顕彰碑などの新しい施設とその祭典が「神道」を形成する推進軸となっていった(p.523)」。

「第10章 顕彰政策と「以心伝心」のシステム」では、功臣や立派な人物の顕彰によって「歴史」が政治的に再構成されていく次第を述べている。18世紀末以降に「民心一致」「民心収攬」などのスローガンがしきりに叫ばれ、「民心」が為政者に注目されていた。19世紀には欧米の心理学や教育学が知られるようになり、「民心」論は国民と国家の関係を考える上で重要なものとなった。

帝国憲法発布の前年明治22年、西郷隆盛へ正三位、藤田東湖・佐久間象山・吉田松陰へ正四位の位階が贈られた。明治24年にはこうした顕彰の叙位がいっせいに実施されている。対象となったのは各藩の尊攘派の志士。彼らはこの時に初めて国家から「志士」として認定され、功績を挙げたものとして序列化され歴史に組み込まれたのである。

この頃、たえず顕彰されるべき人物が発掘され、位階が贈位された。それは「歴史の土壌に国家の根を張りめぐらそう(p.541)」とする取り組みであった。草莽市井の無名の人々に勤皇の精神があり、それが発露されて明治維新に結実したという歴史観を醸成していったのである。

しかし、そうして顕彰された人々は、必ずしも個人として讃えられたのではなかった。そこでは個人の功績は誇ってはならず、功績は皇恩に対する恩返しであるから、君主・祖先・父母に献げなくてはならないのだと迫っていた。つまりそうした顕彰は、個人の功績を国家が回収していく装置として働いたのである。

そうした顕彰システムの原型は、早くも明治10年に宮内省が作成した『明治孝節録』に現れている。これは孝子とされる人物を紹介した修身書であるが、そこでは父母に尽くし、家業に精励し、家を維持した人々が立派であると称揚されている。それは、個人が活躍するのではなく、自らを犠牲にしてまで社会に従属する存在として生きることが立派だとする価値観が提示されていた。本書には記載がないが、これは幕末に『靖献遺言』に触発されて破滅的なまでに尊皇な行動をとった志士たちとの鋭い対照となっている。

このように国家は、自らにとって都合の良い人物や歴史を、戦死者記念碑・忠魂碑・贈位などによって顕彰する制度を整備していった。その対象の選定には国家の微妙な価値判断があったのは当然である。そして、こうした動きの一環として歴史的遺物の保存が注目されてくる。

そのきっかけとなったのが天皇の行幸である。行幸では地域の名所旧跡を巡ったり宿泊・休憩した。風光明媚な土地のみならず、大小の神社や名士の墓を巡る中で、そうした場所の歴史の調査が命じられ、それを天皇が認めることで地域の景観・歴史が国家にとって価値あるものとして再定義されていく。こうして「近代日本国家の形成過程において、社会と政治の領域に「歴史」の価値が徐々に浸透していった(p.561)」。

教育勅語の草案(の一つ)を書いた中村正直は、忠孝の「元ハ天ニ出ツ」としており、個人は「天」との関係において独立していた。しかし教育勅語が完成していくなかでこの「天」が否定され、それは「「歴史」におきかえられたのであった(p.563)」

「第11章 宗教・歴史・「神道」」(書き下ろし)は、近代日本の宗教政策が日本人にもたらしたものを俯瞰して述べるもので、大著の結びに相応しい論考である。

明治前期の宗教政策では、宗教は政治の支配下に置かれた。しかし明治7年の真宗問題(真宗が大教院体制から離脱)を契機として、政治と宗教を分離すべきだと傾斜していく。当初、国家はキリシタン禁制を敷いていたがこれも信教自由によって緩和された。

こうした政策の直後の宗教論の代表として、明治16年の福地源一郎『宗教論』が紹介される。そこでは既に宗教が歴史的なものとして把握されていた。明治20年代になると、進歩した社会では宗教は哲学に進化するのだという考えが進歩的な人々によって主張された。政府の政教分離・信教自由政策と、宗教を前時代の遺物と見なすような風潮が、次第に宗教から歴史を分離していく作業を促していった。

そこには皮肉なことに、古社寺の保存も一役買っていた。政府として古社寺の保存が課題になった最初は、明治9年の天皇の東北旅行に同行した木戸孝允が、日光の荒廃を目にしたことだという。明治12年には大隈重信が意見書を出し、それに従って内務省社寺局長の桜井能監は太政官伺を作成した。そこでは「勝区旧跡古代之建物ヲ保存スルハ国光ヲ保有スル(p.595)」から重要だと述べられていた。

古社寺の保存は、宗教的価値はもちろん、美的な価値によってなされたものでもない。「国光」のためなのだ。 明治17年成立の管長制でも、寺院は歴史的な由緒に関わりなく一律に国家との関係が規定されていた。古社寺を保存していこうとする動きは、国家が失われゆく古き良き宗教の遺風に気付いたのではなく、むしろ信仰とは区別された社寺の公的な価値に着目した結果であった。

それは既に述べたように、「天皇を含めて歴史的な人物や遺跡に対する保護と敬礼のあり方が重要な課題となって、宗教とは区別される歴史的な存在への配慮の問題が浮上してきた(p.589)」ことと軌を一にしていた。国家は、歴史を通じて不変の国民的精神を再定義しようとしていた。日本人の優れた固有性—忠孝・廉恥・清潔・貞節といった封建道徳は、宗教の力によるものではなく、歴史を通じて自然発生的に培われてきたものだと見なしたのである。

 そして政教分離体制の中で、「神社神道と仏教から歴史的な要素を抽出し、それを民族の歴史と風景を象徴するものとして保護していく作業が実行された(p.600)」。寺社にあった貴重なものが博物館で展示されるようになった。そして古社は、信仰ではなく歴史が重要なのであり、景勝地の保存は美的な観点よりも国光の保持のためになされた。そして全国に顕彰碑や保存物を配置することで、「全国に同じような場所があり、くりかえし同じような史蹟をめぐり、その由緒の説明を聞く(中略)歴史の共有化のプロセスが日本社会に「神道」を定着させていくことになった(p.604)」。

神道はなによりも「国家功労者の祭祀」の体系であった。戦死者の招魂・慰霊の儀式といったものが近代日本の国家的な宗教体制を支えた。招魂社や靖国神社は普通の神社とは全く異質であった。それは、神ではなく個人の霊が祀られていた。抽象的な戦没者慰霊ではなく、戦没者一人ひとりの名前が刻まれ、平等に丁重な葬祭が営まれたということは、国家による慰霊のあり方として画期的であった。国家は、生きている国民には圧政を課したが、死んだ国民には平等で温かかった

神道は明らかに宗教であったが、「神道を国民礼典であると見なすことで、それは宗教ではなく、「礼」の民族的な表現(p.616)」だと捉えられた。そして「神道は、功労者の”霊”を媒介とした心的な交流(p.622)」であった。何をどう祀るべきかを神道が教えた。

靖国神社、学校での儀式、遺跡碑への敬礼といったように、神道は敬礼すべき対象を国民に事細かに指示した。「全体としてこれらは日本の固有の歴史への敬礼、すなわち国礼であるといってよい(p.624)」。こうした「敬礼の体系」に全国民が搦め捕られる中で、近代の「日本人」が創り出されたのである。

 

最後に、本書全体を通じて感じたことをここに述べたいと思う。明治維新当初の宗教政策は、国家の権威を「神話」に置いていた。だからこそ神道を国教化しようとし、それはある程度成功したが政教分離・信教自由によって挫折した。それと並行して、国家の権威は「天」(あるいは「天理」)に基づくと考えていた儒教的な人々もいた。西郷隆盛が「敬天愛人」を頻繁に揮毫したのはよく知られている。儒教的な「天」は、宗教的なものというよりは社会の道理を示す一つのアイコンであった。

しかしこの「天」が明治後半にかけて徐々に退けられていく。本書にはこのことはごく簡単に述べられるに過ぎないが、ここが非常に気になるところである。江藤新平は斬首される際に「唯皇天后土のわが心知るあるのみ」と3度叫んだと言われるが、この「皇天后土」は天皇ではなく「天神地祇」のことである。「天と地の神だけが俺の心を知っている」ということだ。田中正造は足尾銅山の鉱毒事件は「天」が裁くと信じた。どうやら、明治の人々にとって「天」は、人間がつくった政府よりも上位の、普遍的な理法として理解されていたように思う。だからこそ明治政府は、「天」を至上のものとするのに二の足を踏んだのではないか(c.f.  教育勅語)。

そして普遍的な理法の代わりに持ち出されたのが、神話から続く「歴史」であった。それは国家の歴史だけでなく、巨大な顕彰碑が各地に建立されることで、地域の歴史が国家のそれに位置づけられ、万邦無比の輝かしい歴史、勤皇の歴史が再構成されることとなった。そしてそこから導き出されたのが、不変の君臣関係と国民精神である。だがその内実を見てみれば、それは忠孝や貞節のような儒教道徳・封建倫理に他ならない。このような全く中国風の倫理を日本固有の国民精神であると鼓吹したのには奇異な感じが否めないが、まさに日本は自らを「中華」(世界の中心)として位置づけたのである。

本書の記述の対象外になるが、明治後期に国家の権威の源泉として「歴史」がクローズアップされた後、太平洋戦争の頃には再び「神話」がリバイバルし、昭和15年には神祇官の復活として「神祇院」が設置される。しかし結局、「天」がリバイバルすることはなかったということに、日本近代史の特質を見ることができるように思う。敗戦で「神話」が否定された後、それに代わる国家の権威となったのは、GHQであり米国だったのかもしれない。

明治時代からの宗教のあり方を考える上での基本図書。

 

2022年9月13日火曜日

『明治維新と宗教』羽賀 祥二 著(その1)

明治政府が宗教をどう扱い、それがどう変わっていったかを述べる本。

本書はかなり浩瀚な本である。約650ページあり、全11章で展開される論考は明治政府の宗教政策を考える上でのほとんど全ての論点が提出されていると言っても過言ではない(ただし神仏分離・廃仏毀釈を除く。これは安丸良夫の研究に追加すべき点がなかったということだろう)。私は、この分野については比較的よく読書してきた方であるが、このような総合的な研究はもっと早い時期に読んでおきたかったと思ったくらいである。

そして本書の特色は、多くの章で先行研究の整理が丁寧になされることである。特に「序章」「I 明治神祇官制と国家祭祀」については、この分野での研究史の総括がなされている観がある。であるからして、当該分野にあまり詳しくない人が本書を読んだ場合、通読はかえって困難かもしれない。逆にある程度学んできた人が、その知見を深めるとともに、統合して体系化するのには非常に役立つだろう。

しかし私自身、今読書メモを書こうとしているその時にも、まだその全体像を咀嚼できていない。というのは、本書を構成する章は元は独立した論文であり(3つ書き下ろしの章がある)、全体として一つのことを論証しようというよりは、明治維新と宗教の関係を多角的に検証するものだからである。

とはいえそれらはバラバラなものではない。著者によれば、本書は(1)明治維新後の宗教制度の再編成の特徴、(2)国民教化に現れた思想と方法のあり方、(3)日本近代の国家と密着した宗教制度である「神道」の特質を解明すること、の3つを課題として編まれたという(序章)。以下、その観点を念頭に置いて内容をメモしていく。

「序章」では、上述の点も含め、本書の問題意識と内容が概観される。この中で、明治国家における宗教的な課題として、神殿と礼楽論を挙げているところが興味深い。この2つは、いかにして国家の功臣や神を祀るかという形式の問題であると言える。神殿については事実いろいろなすったもんだがあったのだが、礼楽論については議論が活発であったとはいえない。しかしこれは後に(新しい)神道儀礼として結実していくのである。また序章では国家神道研究の視座が反省され、研究史の総括がなされる。国家神道の研究の嚆矢となったのは村上重良であったが、村上の研究には戦中と明治期の国家神道を連続したものとして捉えたきらいがあった。それを修正しより精密に明らかにしたのが安丸良夫や宮地正人の研究だ。また森岡清美は戸籍と宗教の関係に注目し、身分制の解体と宗教の関係について問題提起した。著者は神官と僧侶の身分を解体したのは教導職制であったと位置づけている。

I 明治神祇官制と国家祭祀

「第1章 神祇官制の出発と神祇・皇霊の祭祀」では明治政府の当初の宗教政策が概観される。政府は神祇官を復興させたが、その際に中心的な役割を果たしたのは津和野藩の亀井茲監・福羽美静であり、公家では中山忠能であった。中山は王政復古後「法親王の還俗、坊官の廃止・その諸大夫への取り立て、社人の非蔵人兼勤の停止など」にまず着手すべきと意見しているが、これは興味深い。また職制にも復古を求めたのが中山である。五カ条誓文の成立にあたっても、中山の影響が大きかったと考えられる。

神祇官は当初は伝統的な神道家である白川家・吉田家を包摂するものであったし、神祇官の職務に「神道伝授」はなく、両家の領分を侵すものではなかった。しかし神祇官の推進する神祇道は、両家による神道支配を否定するものに進展していった。また神祇官の全国支配のため府藩県には神祇曹を設置する構想があったが、実現には至らなかった。

「王政復古大号令、五カ条誓文、神祇官再興、万機親祭の詔書、孝明三年祭、祈年祭再興、国是確立の奉告という(中略)諸政策の中に、復古神道家は神武創業・祭政一致の理念を反映させ、成立したばかりの維新政府に確実にその地位を固めて、維新政府を支えた(p.99)」。しかしながら現実としては、当時の祭政一致は、政治に神を祀ることが含まれているのであって、政治が神の権威を背景にして行われるというのではなかった(津田左右吉)。復古神道の思想は、神の権威よりもむしろ封建的な価値観に支えられ、祖先祭祀や敬神を「忠孝」と位置づけた。そして地方統治も律令格式に準拠して藩への強い規制を行う制度を構想した。しかしそれは廃藩置県を目指すよりは、既存の体制を維持することを念頭に置いていた。「敬神と不可分な形での儒教徳目の実践、および各自に即した朝廷への忠勤の意識構造が、何ら旧来の身分的階層序列を解体する方向に働かないことは明らかであろう(p.111)」。

「第2章 神祇官制の展開」では、神祇官制が廃止されるまでの動向が述べられる。明治2年、官制改革により神祇官は太政官から特立した独立部局となった。この改革では門地主義が否定され、政権の中枢から公家が減少したが、以前には亀井・福羽の要望により排除されていた白川資訓が神祇大副に就任したのは注目される。なお神祇官は「宣教」と「諸陵」などを所掌していたが、諸陵については穢れの問題から追って分離され「諸陵寮」が置かれた。

神祇官は神殿を設け、「八神」(皇室が中世まで、近世では吉田家・白川家が祀った神々)と「天神地祇」「歴代皇霊」を祀った。 そして明治3年1月3日に初めて「神殿祭」が行われるとともに、同日「大教宣布の詔」が出されるのである。この神殿祭祀は皇室祭祀とは断絶して構想されたものである。仏教系・陰陽道系の日待・星祭・諸祈祷は廃止させられ、純粋な神道による祭祀が創始された。一方、皇室では「賢所(かしこどころ)」で私的に祭祀が営まれており、これは主に女官にゆだねられていた。国家の祭祀は二元的な様相を呈していたのである。

明治2年には神祇官は全国統一の神社調査を命じている。これは一向に進まなかったため、とりあえず「官幣神社」など大社から進められたが限定的なものだった。ところが明治3年8月、神祇大祐門脇重綾の提起により本格的な調査に乗り出す。「この神社調査は神祇官神殿のもとで、全神社を位階的に編成し、神殿祭祀の統一的な実現、神職身分の再編成を図ることを目的としていた(p.152)」。これも多くの府藩県では早急に調査を行うことはできなかったが、神仏分離を進める中で、国家祭祀を統一的に実施する政策が実行に移される。明治4年5月の布告では、神社は「国家の祭祀にて一人一家の私有すべきに非ず」とされて、根本的な制度的改正を受けたのである。それは、(1)神職への叙爵停止、(2)神職の統一戸籍への編成、地方貫属化、(3)社格の設定、(4)社格相応の神職職員の規定、(5)神職補任の規定、(6)神社財政の規定などであった。要するに、神社を府藩県の管理下におき、身分としての「神官」を廃止して、神職を官吏化するものである。 

こうした大きな改正が行われる一方で、中央集権国家体制の確立に向けた行政改革が行われる。政府官員の削減が行われ、神祇官は小祐以上の官員がほぼ半減している。この趨勢の中、反開化を掲げた平田派は神祇官から排除された。そして未だ神祇官制にこだわる勢力はあったが、そうした勢力に配慮しながらもその後の体制が江藤新平を中心に検討され、神祇省に格下げすることに落着した。しかし福羽は「かへりて斯道は盛になるべき(p.163)」と考えた。それは、神祇官制では、神祇官が祭において天皇を補弼するに過ぎなかったが、天皇が直接国家祭祀を行う体制(天皇親祭体制)の方が適切だと考えていたからである。

「第3章 成立期近代天皇制の国家祭祀」では、やや時間を遡って天皇親祭体制の創出過程を述べている。その画期となったのは明治4年7月の廃藩置県である。これにより維新官僚たちは天皇の権威を確立し、中央集権国家の建設へと舵を切った。当然、神祇政策もその影響を受けざるを得ない。しかも国学者・神道家の思想的狭隘さが祭祀への不信にも繋がっていた。しかし政府は天皇を文明開化的な啓蒙君主としてではなく、むしろ現人神的な存在としてしつらえていく。維新直後の人々にあった「公議論」を後退させたため、国家の求心力として「祭政一致」の権威を代わりに据えようとしたのだ。

そのためには、天皇を束縛してきた仏教的な諸制度を廃止する必要もあった。天皇以上に仏教が権威を持っている、ということになると都合が悪かった。従来、神祇官は寺院・仏教を管轄外として皇室と仏教・寺院の伝統的関係に介入しない方向だったが、明治4年5月から10月にかけて皇室と仏教・寺院との分離作業が矢継ぎ早に行われた。主なものは以下の通りである。

5月 御黒戸の廃止
6月 門跡号、比丘尼御所の廃止、寺院執奏の廃止、撫物の廃止
7月 僧侶任官、僧職継承の献上物廃止
9月 歴代皇霊の宮中への遷座、太元帥法、後七日御修法の廃止、諸寺・諸山勅会の制の廃止
10月 由緒ある寺院への下賜金の廃止

中でも最大の改正は、明治4年9月に行われた「歴代皇霊の宮中への遷座」である。これは天皇親祭体制の実現のため、賢所と神祇官神殿で二元的に行われてきた祭祀を、賢所を中心として統合する方策の一つである。そして従来重視された「天神地祇」への祭祀の重要性が低下して、天皇の神性の基盤となる「歴代皇霊」が重視されるようになった結果でもあった。神祇官神殿に祭られていた歴代皇霊の賢所への遷座は、最大級の国家儀式として実施された。

またこれに伴い、神祇官神殿での祭祀は再構成することが必要となり、「四時祭典定則」が定められたが、神祇官→神祇省が担う役割は減少し、宮中が国家祭祀の中心となった。これには、廃藩置県に伴う改革で宮中から女官層が排除されたことも影響していた。

こうした動きと並行して、伊勢神宮の改革も国家の手によって進められる。特に神祇官(省)員が神宮の神職となることができるようにした制度により、多くの官員を神宮に送り込んだ。また元来神宮の御師だった浦田長民は国家の動きに呼応し、伊勢神宮改革を担っていく。

そして明治4年11月の大嘗会は、「神祇官の廃止、賢所改革、それに伴う国家祭祀の再編成、神宮改革、天皇と仏教・寺院との分離作業という、同一の理念に基づいた相互に関連を有する諸改革の総仕上げの意義をもつものであった(p.235)」。その理念とは、「天皇権力の絶対性・永続性を万世一系の皇統神話によって証明(p.237)」し、政治的君主としての天皇を国家に位置づけるものであったといえる。

II 日本近代の政治と宗教

「第4章 神道国教制の形成」では、神祇官におかれた「宣教使」についての思想闘争が描かれる。維新前の慶応3年に浦上キリシタンが名乗り出ると、幕府は元来は死罪に処する所だったのをフランスとの関係から処罰が緩和され、維新後、政府は彼らを諸藩に預けることとした。そしてキリスト教の棄教を迫る教化活動が行われるのである。そして西洋諸国との軋轢を怖れながらもキリスト教からの防衛を考えていた政府は、神祇官に「宣教使」をおいて国民教化に取り組んだ。

しかし、宣教使が何を教えるのか、ということが定まらなかった。政府の推進する「神道=大教=惟神の道」が未確定だったためである。そんな中でイニシアチブを取ったのが儒者の小野述信である。明治2年に小野が作成した「神教要旨」ではそれが敬神・明倫と儒教道徳に整理されるとともに産土神への信仰を求めつつ、天照大神に最高神格を付与した。

これに反対したのが平田派を中心とする復古神道派で、彼らは最高神格としては天御中主神を措定し、また死後の世界では大国主神の権威を強調した。しかしながら、敬神や明倫、儒教道徳といった内容にはほぼ異論がなかったと言ってよい。

こうした異論に配慮し、明治3年の「大教要旨」では、「惟神の道」が敬神・尊皇・儒教道徳のみの簡素な形へ一歩後退した。また、氏子改と神葬祭の実施が目指されてくる。しかし神社調査も行われていない段階で全国民の氏子帳を作ることは現実的ではなく、またそれは大蔵省が進めつつあった戸籍法の準備ともバッティングした。

一方、各藩に預けられていた浦上キリシタンへの教諭は、当然のことながらうまくいかなかった。禁制の中で保ち続けていた信仰を簡単に捨てるわけもなく、また今や西洋諸国が眼を光らせている中で暴力的に改宗を迫ることは各藩にも不可能だった。その上宣教使は有効に機能せず、実際には僧侶が教諭を担当しており、それはやがて追認されることになる。神仏分離令や廃仏毀釈によって被害を受けていた仏教各派は、キリスト教防禦を自ら担うことで存在意義を示し、宗門体制の維持に繋げようとしていた。

そんな中、明治4年7月には「大教」の説明として「大教旨要」が太政官達として布達された。これは、それまでの「神教要旨」「大教要旨」を踏まえてより平易かつ具体的に述べたもので、敬神、明倫、儒教道徳、産土神などは小野神学を継承しつつも、天照大神や大国主神といった神格の問題には触れずに、天皇への忠誠を求めるものである。これは宗教の相違を超える包括的なイデオロギーとして構想されたものであるが、それは神道派の国家宗教の構想が破産したことを示していた。

またこれと同時に「郷社定則」「氏子改取調規則」「氏子札差出方心得」が定められるとともに、戸籍法に吸収された形で氏子改が制度化された

本章に描かれる小野神学と平田神学のつばぜり合いは、傍目には細かい部分の議論で、その意義がよくわからない部分がある。彼らは、敬神はもちろん儒教道徳の勧奨すらも共通していた。問題だったのは神道のより宗教的な部分であり、そういう神学論争が神祇官の足を引っ張り、遂には神祇官廃止の一因となった。

「第5章 教導職制と政教関係」では、教導職制によって僧侶の身分が解体されていったことを詳細に述べている。私が本書を手に取ったのは本章を読むためといっても過言ではない。廃藩置県の直前、明治4年5〜6月に「近代戸籍法の成立と密接に結びついて宗教制度の根本的な再編成が実施された(p.298)」。具体的には、6月に門跡寺院の廃止、寺院・僧侶の地方官管轄、僧尼志願者への免許付与(明治8年に取り消される)などが実施された。この段階では「寺院・僧侶の地方官管轄」といっても所掌が定められた程度であったと思われるが、追って寺格にかかわりなく地方官が住職任免権を掌握する。寺院は地方官の支配に置かれた。

さらに明治5年3月、神仏合同で国民教化を担う教部省が設置され、4月には大教正以下14級の職制で「教導職」が出発した。これは国民教化を担う無給の国家官吏であり、「神官・僧侶から選出される新しい国家公認の宗教者(p.302)」だった。教導職は、既存の教団(宗派)から選出されていたから、これを統括するために「教導職管長制」が設けられた。国家が公認した宗派(神道東西部、仏教七宗)に「管長」を置き、教導職を管理させたのである。これは「明治17年の各宗派管長制の出発点となった(同)」。

また、教導職設置と同時に、僧侶の肉食妻帯畜髪が許可される。これは僧侶身分の解体が行われることを示した。さらに「得度」が否定され「宗門ノ私称」となった。「得度」とは、族籍から僧籍に身を移すことであり、古代から続いてきた慣習であったがこれが否定された。明治7年1月には、僧侶も本籍を定めることが命じられた。これは新たに得度を行うことが否定されただけでなく、既に得度した(僧籍にある)者も、俗籍に編入することを命じたのである。

これだけではない。各宗の住職になるには教部省(本山)・地方官(一般寺院)から辞令書交付を受けることが必要となり、しかも住職になるには教導職試補以上であることが義務づけられた。本山の住職決定権・任命権の大きな制約であり、これは本末制度の解体を促すことになった。本章ではこのケーススタディとして西本願寺中本寺の興正寺の別派問題が取り上げられている。

さらに、明治9年12月には「僧侶ト公認スル者ハ諸宗教導職試補以上ニ限(p.314)」る、とされた。住職のみならず一般僧侶でも教導職であることが必須となったのである。この規制をクリアするため多くの僧侶たちが教導職へ任命され、管長制が本山制を実態的に吸収して一体化した。これらは宗教身分が教導職制に吸収される形で廃止されたことを意味した。明治10年には教部省が廃止されて、神社・寺院行政は内務省社寺局の担当となる。

内務省時代には、社寺の法的性格が明確化される。明治11年、社寺創建・移転・廃合に関する手続きが規定され、翌明治12年には社寺の厳密な調査を府県に命じ、寺院・仏堂・神社・神祠が「公許公有」のものであることが明確になった。ここで注意すべきことは、神官の身分の取り扱いも一般寺院住職と同一であったということだ。また氏神は宗教ではないとされ、戸籍にも信仰に拘わらず居住地の氏神を記載すべきと指導された。宗教の領域と「国家の祭祀」の領域の切り分けが再検討されていたと思われる。

なお、このような政策により寺院「共有物」論=寺院は公共の存在だとする考えが生まれた。であれば、本山の管長・役員などは公選すべきであるという、公議公論的な主張も生まれてくる。本来私的な領域であるはずの宗教に、公的な性格を与えて内務省がその統治下に置くという政策にはやや無理があったものと思われる。

そうしたことからか、内務卿山県有朋は井上毅に宗教政策の見直しを命じ、明治17年太政官布達19号が出された。これにより教導職が廃止され、寺院住職の任免権を管長に委任した。国家が宗教者を「教導職」という役職で官吏化していたことを廃止し、人事も各宗派に委ねたのである。これは別の面から見れば、管長の権限が強化されたことも意味した。こうして「管長制」が確立する。

明治18年には、明治4年に廃止されていた門跡号が私称として復活。また既に明治16年に戸籍への社寺名記載は簡素化されていたが、戸籍への宗旨記載自体が不必要となった。これらは、神道・仏教の私的性格が確認され、事実上、国家が臣民の宗教を管理しなくなったことを示す。さらに明治20年には宗祖・派祖への師号宣下が廃止される。仏教に公的性格がなくなった以上、自然の処置であると言えよう。

しかしこうした政策は当然に、明治20年代、神道家たちの間に神道を再び国教の地位へ引き上げようとする運動を生みだした。神祇官(神祇院)再興論である。一方で仏教勢力には、古社寺を復興させ国家の歴史として保護していくべきとする議論が起こり、これは明治30年の古社寺保存法で結実する。 

「第6章 明治20年代の宗教行政と教団「自治」」(書き下ろし)では、仏教教団を中心にした「自治」の揺らぎを述べる。「管長制」は、教団の運営を管長に委任する「放任主義」の政策であった。つまり教団はここに至り「自治」の必要に迫られた。それまでは国家に対立しつつも、神仏分離以降の痛手から教団の存続を目的とした取り組みがなされていたが、ここに至り教団が分裂していく傾向となる。それは管長制と歴史的に残存する本山制の対立であった。

本章ではそのケーススタディとして、曹洞宗の総持寺派・永平寺派の争いや浄土宗の五本山の対立が述べられている。浄土宗の場合は、内務省は、人事等は本来は国家が持っている権限として五本山の住職と執事を辞職させたが、これは一般的な姿勢ではなかった。究極的にはこうした措置がありえるとしても、曹洞宗のゴタゴタはやまなかった。

ただし、このあたりの事情は実際の人事が述べられておらずよくわからない。当時の管長が誰で、それがどのように選出され任命されたのか、という具体的な部分が書かれておらず、あくまで一般論としての管長対本山住職として記述されている。ここは少し物足りなく感じた。

こうした教団分裂の危機に対しては、自治の向上ではなく宗教的な祖先の権威の強調によって乗り切ろうとする機運が生じた。それを表すのが明治26年の寺格僧爵制度の提案であった。高位の僧侶に国家から叙爵することにより、上下関係を明確化して教団の秩序を維持しようというのである。しかしこれは、高位の僧侶を国家が認定する、時代に逆行する制度であるため決定されなかった。

そのような中、国家と各宗の新しい関係が意外なところから規定された。明治28年、神道各教派・仏教各宗派に対して内務訓令が出された。そこでは宗派の教師を検定試験によって選出するように求めていた。教団の混乱が学のない僧侶によって起こされたと見なし、試験によって人事を行うよう求めたのである。なお神職については内務省及び地方庁で試験を行った。これは試験を通じて国家が間接的に宗教を管理する体制であった。そうではあるが、同時にそれは教団は国家からの直接的な保護は受けられないことを示してもいた。国家から保護を受けられたのは、皇室と関係ある神社・寺院だけだったのである。こうして、古社寺は歴史的な天皇との繋がりを強調するようになっていく。

(つづく)