2022年9月13日火曜日

『明治維新と宗教』羽賀 祥二 著(その1)

明治政府が宗教をどう扱い、それがどう変わっていったかを述べる本。

本書はかなり浩瀚な本である。約650ページあり、全11章で展開される論考は明治政府の宗教政策を考える上でのほとんど全ての論点が提出されていると言っても過言ではない(ただし神仏分離・廃仏毀釈を除く。これは安丸良夫の研究に追加すべき点がなかったということだろう)。私は、この分野については比較的よく読書してきた方であるが、このような総合的な研究はもっと早い時期に読んでおきたかったと思ったくらいである。

そして本書の特色は、多くの章で先行研究の整理が丁寧になされることである。特に「序章」「I 明治神祇官制と国家祭祀」については、この分野での研究史の総括がなされている観がある。であるからして、当該分野にあまり詳しくない人が本書を読んだ場合、通読はかえって困難かもしれない。逆にある程度学んできた人が、その知見を深めるとともに、統合して体系化するのには非常に役立つだろう。

しかし私自身、今読書メモを書こうとしているその時にも、まだその全体像を咀嚼できていない。というのは、本書を構成する章は元は独立した論文であり(3つ書き下ろしの章がある)、全体として一つのことを論証しようというよりは、明治維新と宗教の関係を多角的に検証するものだからである。

とはいえそれらはバラバラなものではない。著者によれば、本書は(1)明治維新後の宗教制度の再編成の特徴、(2)国民教化に現れた思想と方法のあり方、(3)日本近代の国家と密着した宗教制度である「神道」の特質を解明すること、の3つを課題として編まれたという(序章)。以下、その観点を念頭に置いて内容をメモしていく。

「序章」では、上述の点も含め、本書の問題意識と内容が概観される。この中で、明治国家における宗教的な課題として、神殿と礼楽論を挙げているところが興味深い。この2つは、いかにして国家の功臣や神を祀るかという形式の問題であると言える。神殿については事実いろいろなすったもんだがあったのだが、礼楽論については議論が活発であったとはいえない。しかしこれは後に(新しい)神道儀礼として結実していくのである。また序章では国家神道研究の視座が反省され、研究史の総括がなされる。国家神道の研究の嚆矢となったのは村上重良であったが、村上の研究には戦中と明治期の国家神道を連続したものとして捉えたきらいがあった。それを修正しより精密に明らかにしたのが安丸良夫や宮地正人の研究だ。また森岡清美は戸籍と宗教の関係に注目し、身分制の解体と宗教の関係について問題提起した。著者は神官と僧侶の身分を解体したのは教導職制であったと位置づけている。

I 明治神祇官制と国家祭祀

「第1章 神祇官制の出発と神祇・皇霊の祭祀」では明治政府の当初の宗教政策が概観される。政府は神祇官を復興させたが、その際に中心的な役割を果たしたのは津和野藩の亀井茲監・福羽美静であり、公家では中山忠能であった。中山は王政復古後「法親王の還俗、坊官の廃止・その諸大夫への取り立て、社人の非蔵人兼勤の停止など」にまず着手すべきと意見しているが、これは興味深い。また職制にも復古を求めたのが中山である。五カ条誓文の成立にあたっても、中山の影響が大きかったと考えられる。

神祇官は当初は伝統的な神道家である白川家・吉田家を包摂するものであったし、神祇官の職務に「神道伝授」はなく、両家の領分を侵すものではなかった。しかし神祇官の推進する神祇道は、両家による神道支配を否定するものに進展していった。また神祇官の全国支配のため府藩県には神祇曹を設置する構想があったが、実現には至らなかった。

「王政復古大号令、五カ条誓文、神祇官再興、万機親祭の詔書、孝明三年祭、祈年祭再興、国是確立の奉告という(中略)諸政策の中に、復古神道家は神武創業・祭政一致の理念を反映させ、成立したばかりの維新政府に確実にその地位を固めて、維新政府を支えた(p.99)」。しかしながら現実としては、当時の祭政一致は、政治に神を祀ることが含まれているのであって、政治が神の権威を背景にして行われるというのではなかった(津田左右吉)。復古神道の思想は、神の権威よりもむしろ封建的な価値観に支えられ、祖先祭祀や敬神を「忠孝」と位置づけた。そして地方統治も律令格式に準拠して藩への強い規制を行う制度を構想した。しかしそれは廃藩置県を目指すよりは、既存の体制を維持することを念頭に置いていた。「敬神と不可分な形での儒教徳目の実践、および各自に即した朝廷への忠勤の意識構造が、何ら旧来の身分的階層序列を解体する方向に働かないことは明らかであろう(p.111)」。

「第2章 神祇官制の展開」では、神祇官制が廃止されるまでの動向が述べられる。明治2年、官制改革により神祇官は太政官から特立した独立部局となった。この改革では門地主義が否定され、政権の中枢から公家が減少したが、以前には亀井・福羽の要望により排除されていた白川資訓が神祇大副に就任したのは注目される。なお神祇官は「宣教」と「諸陵」などを所掌していたが、諸陵については穢れの問題から追って分離され「諸陵寮」が置かれた。

神祇官は神殿を設け、「八神」(皇室が中世まで、近世では吉田家・白川家が祀った神々)と「天神地祇」「歴代皇霊」を祀った。 そして明治3年1月3日に初めて「神殿祭」が行われるとともに、同日「大教宣布の詔」が出されるのである。この神殿祭祀は皇室祭祀とは断絶して構想されたものである。仏教系・陰陽道系の日待・星祭・諸祈祷は廃止させられ、純粋な神道による祭祀が創始された。一方、皇室では「賢所(かしこどころ)」で私的に祭祀が営まれており、これは主に女官にゆだねられていた。国家の祭祀は二元的な様相を呈していたのである。

明治2年には神祇官は全国統一の神社調査を命じている。これは一向に進まなかったため、とりあえず「官幣神社」など大社から進められたが限定的なものだった。ところが明治3年8月、神祇大祐門脇重綾の提起により本格的な調査に乗り出す。「この神社調査は神祇官神殿のもとで、全神社を位階的に編成し、神殿祭祀の統一的な実現、神職身分の再編成を図ることを目的としていた(p.152)」。これも多くの府藩県では早急に調査を行うことはできなかったが、神仏分離を進める中で、国家祭祀を統一的に実施する政策が実行に移される。明治4年5月の布告では、神社は「国家の祭祀にて一人一家の私有すべきに非ず」とされて、根本的な制度的改正を受けたのである。それは、(1)神職への叙爵停止、(2)神職の統一戸籍への編成、地方貫属化、(3)社格の設定、(4)社格相応の神職職員の規定、(5)神職補任の規定、(6)神社財政の規定などであった。要するに、神社を府藩県の管理下におき、身分としての「神官」を廃止して、神職を官吏化するものである。 

こうした大きな改正が行われる一方で、中央集権国家体制の確立に向けた行政改革が行われる。政府官員の削減が行われ、神祇官は小祐以上の官員がほぼ半減している。この趨勢の中、反開化を掲げた平田派は神祇官から排除された。そして未だ神祇官制にこだわる勢力はあったが、そうした勢力に配慮しながらもその後の体制が江藤新平を中心に検討され、神祇省に格下げすることに落着した。しかし福羽は「かへりて斯道は盛になるべき(p.163)」と考えた。それは、神祇官制では、神祇官が祭において天皇を補弼するに過ぎなかったが、天皇が直接国家祭祀を行う体制(天皇親祭体制)の方が適切だと考えていたからである。

「第3章 成立期近代天皇制の国家祭祀」では、やや時間を遡って天皇親祭体制の創出過程を述べている。その画期となったのは明治4年7月の廃藩置県である。これにより維新官僚たちは天皇の権威を確立し、中央集権国家の建設へと舵を切った。当然、神祇政策もその影響を受けざるを得ない。しかも国学者・神道家の思想的狭隘さが祭祀への不信にも繋がっていた。しかし政府は天皇を文明開化的な啓蒙君主としてではなく、むしろ現人神的な存在としてしつらえていく。維新直後の人々にあった「公議論」を後退させたため、国家の求心力として「祭政一致」の権威を代わりに据えようとしたのだ。

そのためには、天皇を束縛してきた仏教的な諸制度を廃止する必要もあった。天皇以上に仏教が権威を持っている、ということになると都合が悪かった。従来、神祇官は寺院・仏教を管轄外として皇室と仏教・寺院の伝統的関係に介入しない方向だったが、明治4年5月から10月にかけて皇室と仏教・寺院との分離作業が矢継ぎ早に行われた。主なものは以下の通りである。

5月 御黒戸の廃止
6月 門跡号、比丘尼御所の廃止、寺院執奏の廃止、撫物の廃止
7月 僧侶任官、僧職継承の献上物廃止
9月 歴代皇霊の宮中への遷座、太元帥法、後七日御修法の廃止、諸寺・諸山勅会の制の廃止
10月 由緒ある寺院への下賜金の廃止

中でも最大の改正は、明治4年9月に行われた「歴代皇霊の宮中への遷座」である。これは天皇親祭体制の実現のため、賢所と神祇官神殿で二元的に行われてきた祭祀を、賢所を中心として統合する方策の一つである。そして従来重視された「天神地祇」への祭祀の重要性が低下して、天皇の神性の基盤となる「歴代皇霊」が重視されるようになった結果でもあった。神祇官神殿に祭られていた歴代皇霊の賢所への遷座は、最大級の国家儀式として実施された。

またこれに伴い、神祇官神殿での祭祀は再構成することが必要となり、「四時祭典定則」が定められたが、神祇官→神祇省が担う役割は減少し、宮中が国家祭祀の中心となった。これには、廃藩置県に伴う改革で宮中から女官層が排除されたことも影響していた。

こうした動きと並行して、伊勢神宮の改革も国家の手によって進められる。特に神祇官(省)員が神宮の神職となることができるようにした制度により、多くの官員を神宮に送り込んだ。また元来神宮の御師だった浦田長民は国家の動きに呼応し、伊勢神宮改革を担っていく。

そして明治4年11月の大嘗会は、「神祇官の廃止、賢所改革、それに伴う国家祭祀の再編成、神宮改革、天皇と仏教・寺院との分離作業という、同一の理念に基づいた相互に関連を有する諸改革の総仕上げの意義をもつものであった(p.235)」。その理念とは、「天皇権力の絶対性・永続性を万世一系の皇統神話によって証明(p.237)」し、政治的君主としての天皇を国家に位置づけるものであったといえる。

II 日本近代の政治と宗教

「第4章 神道国教制の形成」では、神祇官におかれた「宣教使」についての思想闘争が描かれる。維新前の慶応3年に浦上キリシタンが名乗り出ると、幕府は元来は死罪に処する所だったのをフランスとの関係から処罰が緩和され、維新後、政府は彼らを諸藩に預けることとした。そしてキリスト教の棄教を迫る教化活動が行われるのである。そして西洋諸国との軋轢を怖れながらもキリスト教からの防衛を考えていた政府は、神祇官に「宣教使」をおいて国民教化に取り組んだ。

しかし、宣教使が何を教えるのか、ということが定まらなかった。政府の推進する「神道=大教=惟神の道」が未確定だったためである。そんな中でイニシアチブを取ったのが儒者の小野述信である。明治2年に小野が作成した「神教要旨」ではそれが敬神・明倫と儒教道徳に整理されるとともに産土神への信仰を求めつつ、天照大神に最高神格を付与した。

これに反対したのが平田派を中心とする復古神道派で、彼らは最高神格としては天御中主神を措定し、また死後の世界では大国主神の権威を強調した。しかしながら、敬神や明倫、儒教道徳といった内容にはほぼ異論がなかったと言ってよい。

こうした異論に配慮し、明治3年の「大教要旨」では、「惟神の道」が敬神・尊皇・儒教道徳のみの簡素な形へ一歩後退した。また、氏子改と神葬祭の実施が目指されてくる。しかし神社調査も行われていない段階で全国民の氏子帳を作ることは現実的ではなく、またそれは大蔵省が進めつつあった戸籍法の準備ともバッティングした。

一方、各藩に預けられていた浦上キリシタンへの教諭は、当然のことながらうまくいかなかった。禁制の中で保ち続けていた信仰を簡単に捨てるわけもなく、また今や西洋諸国が眼を光らせている中で暴力的に改宗を迫ることは各藩にも不可能だった。その上宣教使は有効に機能せず、実際には僧侶が教諭を担当しており、それはやがて追認されることになる。神仏分離令や廃仏毀釈によって被害を受けていた仏教各派は、キリスト教防禦を自ら担うことで存在意義を示し、宗門体制の維持に繋げようとしていた。

そんな中、明治4年7月には「大教」の説明として「大教旨要」が太政官達として布達された。これは、それまでの「神教要旨」「大教要旨」を踏まえてより平易かつ具体的に述べたもので、敬神、明倫、儒教道徳、産土神などは小野神学を継承しつつも、天照大神や大国主神といった神格の問題には触れずに、天皇への忠誠を求めるものである。これは宗教の相違を超える包括的なイデオロギーとして構想されたものであるが、それは神道派の国家宗教の構想が破産したことを示していた。

またこれと同時に「郷社定則」「氏子改取調規則」「氏子札差出方心得」が定められるとともに、戸籍法に吸収された形で氏子改が制度化された

本章に描かれる小野神学と平田神学のつばぜり合いは、傍目には細かい部分の議論で、その意義がよくわからない部分がある。彼らは、敬神はもちろん儒教道徳の勧奨すらも共通していた。問題だったのは神道のより宗教的な部分であり、そういう神学論争が神祇官の足を引っ張り、遂には神祇官廃止の一因となった。

「第5章 教導職制と政教関係」では、教導職制によって僧侶の身分が解体されていったことを詳細に述べている。私が本書を手に取ったのは本章を読むためといっても過言ではない。廃藩置県の直前、明治4年5〜6月に「近代戸籍法の成立と密接に結びついて宗教制度の根本的な再編成が実施された(p.298)」。具体的には、6月に門跡寺院の廃止、寺院・僧侶の地方官管轄、僧尼志願者への免許付与(明治8年に取り消される)などが実施された。この段階では「寺院・僧侶の地方官管轄」といっても所掌が定められた程度であったと思われるが、追って寺格にかかわりなく地方官が住職任免権を掌握する。寺院は地方官の支配に置かれた。

さらに明治5年3月、神仏合同で国民教化を担う教部省が設置され、4月には大教正以下14級の職制で「教導職」が出発した。これは国民教化を担う無給の国家官吏であり、「神官・僧侶から選出される新しい国家公認の宗教者(p.302)」だった。教導職は、既存の教団(宗派)から選出されていたから、これを統括するために「教導職管長制」が設けられた。国家が公認した宗派(神道東西部、仏教七宗)に「管長」を置き、教導職を管理させたのである。これは「明治17年の各宗派管長制の出発点となった(同)」。

また、教導職設置と同時に、僧侶の肉食妻帯畜髪が許可される。これは僧侶身分の解体が行われることを示した。さらに「得度」が否定され「宗門ノ私称」となった。「得度」とは、族籍から僧籍に身を移すことであり、古代から続いてきた慣習であったがこれが否定された。明治7年1月には、僧侶も本籍を定めることが命じられた。これは新たに得度を行うことが否定されただけでなく、既に得度した(僧籍にある)者も、俗籍に編入することを命じたのである。

これだけではない。各宗の住職になるには教部省(本山)・地方官(一般寺院)から辞令書交付を受けることが必要となり、しかも住職になるには教導職試補以上であることが義務づけられた。本山の住職決定権・任命権の大きな制約であり、これは本末制度の解体を促すことになった。本章ではこのケーススタディとして西本願寺中本寺の興正寺の別派問題が取り上げられている。

さらに、明治9年12月には「僧侶ト公認スル者ハ諸宗教導職試補以上ニ限(p.314)」る、とされた。住職のみならず一般僧侶でも教導職であることが必須となったのである。この規制をクリアするため多くの僧侶たちが教導職へ任命され、管長制が本山制を実態的に吸収して一体化した。これらは宗教身分が教導職制に吸収される形で廃止されたことを意味した。明治10年には教部省が廃止されて、神社・寺院行政は内務省社寺局の担当となる。

内務省時代には、社寺の法的性格が明確化される。明治11年、社寺創建・移転・廃合に関する手続きが規定され、翌明治12年には社寺の厳密な調査を府県に命じ、寺院・仏堂・神社・神祠が「公許公有」のものであることが明確になった。ここで注意すべきことは、神官の身分の取り扱いも一般寺院住職と同一であったということだ。また氏神は宗教ではないとされ、戸籍にも信仰に拘わらず居住地の氏神を記載すべきと指導された。宗教の領域と「国家の祭祀」の領域の切り分けが再検討されていたと思われる。

なお、このような政策により寺院「共有物」論=寺院は公共の存在だとする考えが生まれた。であれば、本山の管長・役員などは公選すべきであるという、公議公論的な主張も生まれてくる。本来私的な領域であるはずの宗教に、公的な性格を与えて内務省がその統治下に置くという政策にはやや無理があったものと思われる。

そうしたことからか、内務卿山県有朋は井上毅に宗教政策の見直しを命じ、明治17年太政官布達19号が出された。これにより教導職が廃止され、寺院住職の任免権を管長に委任した。国家が宗教者を「教導職」という役職で官吏化していたことを廃止し、人事も各宗派に委ねたのである。これは別の面から見れば、管長の権限が強化されたことも意味した。こうして「管長制」が確立する。

明治18年には、明治4年に廃止されていた門跡号が私称として復活。また既に明治16年に戸籍への社寺名記載は簡素化されていたが、戸籍への宗旨記載自体が不必要となった。これらは、神道・仏教の私的性格が確認され、事実上、国家が臣民の宗教を管理しなくなったことを示す。さらに明治20年には宗祖・派祖への師号宣下が廃止される。仏教に公的性格がなくなった以上、自然の処置であると言えよう。

しかしこうした政策は当然に、明治20年代、神道家たちの間に神道を再び国教の地位へ引き上げようとする運動を生みだした。神祇官(神祇院)再興論である。一方で仏教勢力には、古社寺を復興させ国家の歴史として保護していくべきとする議論が起こり、これは明治30年の古社寺保存法で結実する。 

「第6章 明治20年代の宗教行政と教団「自治」」(書き下ろし)では、仏教教団を中心にした「自治」の揺らぎを述べる。「管長制」は、教団の運営を管長に委任する「放任主義」の政策であった。つまり教団はここに至り「自治」の必要に迫られた。それまでは国家に対立しつつも、神仏分離以降の痛手から教団の存続を目的とした取り組みがなされていたが、ここに至り教団が分裂していく傾向となる。それは管長制と歴史的に残存する本山制の対立であった。

本章ではそのケーススタディとして、曹洞宗の総持寺派・永平寺派の争いや浄土宗の五本山の対立が述べられている。浄土宗の場合は、内務省は、人事等は本来は国家が持っている権限として五本山の住職と執事を辞職させたが、これは一般的な姿勢ではなかった。究極的にはこうした措置がありえるとしても、曹洞宗のゴタゴタはやまなかった。

ただし、このあたりの事情は実際の人事が述べられておらずよくわからない。当時の管長が誰で、それがどのように選出され任命されたのか、という具体的な部分が書かれておらず、あくまで一般論としての管長対本山住職として記述されている。ここは少し物足りなく感じた。

こうした教団分裂の危機に対しては、自治の向上ではなく宗教的な祖先の権威の強調によって乗り切ろうとする機運が生じた。それを表すのが明治26年の寺格僧爵制度の提案であった。高位の僧侶に国家から叙爵することにより、上下関係を明確化して教団の秩序を維持しようというのである。しかしこれは、高位の僧侶を国家が認定する、時代に逆行する制度であるため決定されなかった。

そのような中、国家と各宗の新しい関係が意外なところから規定された。明治28年、神道各教派・仏教各宗派に対して内務訓令が出された。そこでは宗派の教師を検定試験によって選出するように求めていた。教団の混乱が学のない僧侶によって起こされたと見なし、試験によって人事を行うよう求めたのである。なお神職については内務省及び地方庁で試験を行った。これは試験を通じて国家が間接的に宗教を管理する体制であった。そうではあるが、同時にそれは教団は国家からの直接的な保護は受けられないことを示してもいた。国家から保護を受けられたのは、皇室と関係ある神社・寺院だけだったのである。こうして、古社寺は歴史的な天皇との繋がりを強調するようになっていく。

(つづく)


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