(前回からのつづき)
III 国民教化の思想と方法
「第7章 地方教化体制と仏教」では、教部省体制における具体的な教化活動として東北地方を担当した石丸八郎の例が述べられる。石丸八郎は教部省の官員として東北地方を巡回した。地方教化の中心となったのは、各地方の中教院だったが、本章では東北の中教院がどのような動きをし、どのような課題を抱えていたのかを詳細に明らかにしている。
教部省/大教院は神仏合同の国民教化運動を進めたが、国民への具体的な働きかけの中心となったのが中教院であった。そして重要なこととして、中教院では教導職試験が行われた。神官・僧侶どちらの場合でも、その試験結果が具申されて教導職が任命されていたのである。真宗はそれに反発し、単独での試験を企図したが、それが大教院体制からの真宗分離運動に繋がっていった。
なお、試験結果が芳しくなかったものには、学寮での一定期間の勉学が義務づけられた。しかしこの「学寮」の内実はなかなか整わなかった。何しろそこで教える人材が不足していたし、カリキュラムも確定していなかった。
また教化活動にかかる費用には国家補助は出なかった(教導職は無給の官吏)。教導職たる僧侶や神官たちは、手弁当で(あるいは各教団からの費用で)教導活動をしていたことになる。これでは教化活動が進むはずもない。そこで地方官(地方官庁)と連携した活動が重要になってきたが、秋田県で布教係の設置が見送られるなど、必ずしも連携はうまくいっていない。
岩手県では石丸の提案で区戸長が教導職を兼務する試みが行われるなど、中教院側は地方官と共同歩調を取りたかったが、地方官の方では大教院等に官員派遣のお願いをするなど、国民教化に人員を割くのは難しかった。
というのは当時、地方官は矢継ぎ早に出される新たな政策の対応に追われていた。とても宗教的な国民教化など取り組む余裕はなかった。それよりも新たな布告や布達類を解説し人民に徹底させることこそが「国民教化」に求めるものであった。彼らは「新しい政府の法令を遵守させ、諸改革を受容させていくような説教を「教導活法」と呼んだ(p.417)」が、大教院や中教院の思うような国民教化は地方の現場から全く求められていなかったのである。
「第8章 「敬神」と「愛国」の思想」では、明治初期における敬神愛国思想の成り立ちが回顧される。従来の研究では、「愛国」は外来の概念であり、教育勅語によって封建倫理や「敬神」と接続されたと見なされてきたきらいがあるが、実際には国民教化運動の中ですでに「愛国」は中心的なイデオロギーとなっていた。なにしろ、明治国家の建国過程は、「「万国の総帝国」たる神国の発展をめざすという壮大な国家意識(p.436)」が内包されていたのである。
国学者たちは、天皇の権威は天祖の血統に基づき、君臣の関係が不変であるがゆえに国民は天皇(国家)に従わなければならない、と考えていた。一方、明治初期の啓蒙的な人々は「権利と義務」に基づいて国民が国に尽くすべきという論理を主張した。
実際の国民教化運動は、教部省の「三条の教則」によって行われる。ここでは敬神愛国が神話・神学によって基礎付けられ、「皇恩への報謝」が強調されて、そのために国に尽くすべしと説明された。ところが国民の側には未だ客分的な意識があり、なぜ国を愛さなければならないのかピンと来なかった。当時の民衆感情から乖離していたのである。また「皇恩への報謝」というフィクションは、文明開化期の進取・自立の精神からも齟齬を来していた。そして愛国は、神話に基づくのではなく、富国強兵のための手段として説明されるようになる。教部省もこれを追認したのか、「三条の教則」を補足する「十七兼題」では宗教性を後退させた近代化政策としての愛国論に変容した。 しかしそれにより 「神道的な論理や儒教倫理と折衷されて、奇妙な権利・義務の解釈が展開されることになった(p.456)」
一方、三条教則の愛国を批判したのが島地黙雷など真宗の僧侶であった。彼らは愛国に敬神概念を持ち出す必要はなく(何しろ西洋諸国には神とは無関係に愛国的な国民がいたのだから)、国民意識こそ「真の愛国」であると主張した。
また、民権派もまた違った角度から愛国を叫んだ。民権派は、愛国公党・愛国社などの結社名や『愛国雑誌』など雑誌名が示すように、民権運動そのものが愛国運動でもあった。彼らは政府に厳しく議会設置を求めるなど一見国家に対立していたが、むしろ積極的に国政へ関与していこうとする意味では一種の国家主義であった。そして自由と権利を持つ個人が自発的に国に貢献しようとすることを理想とし、そのためには立憲制こそ全国民を愛国者へ育成する制度だと考えた。それには、かつて滅私奉公していた(=愛国的であった)士族の精神を継承するのだという士族のリバイバルの要素も入り込んでいた。
このようにして、明治10年代には「忠君愛国論」において敬神イデオロギーが後退した。そして「神道は宗教ではない」とされ、儒教倫理を中心とする新しい国教路線が敷かれる中、「徳」としての忠君愛国が主張されるようになった。神道が宗教でなくなった結果、造化三神以下の神々への敬神は宙に浮いた恰好になったが、皇祖神への敬神はそうではなかった。神々への敬神に代わって、皇祖神・天皇への敬神と愛国が結びつき、「敬神愛国思想」は明治20年代に教育勅語とともに新たな装いで登場することになったのである。
IV 近代天皇と「神道」
「第9章 神社と記念碑」(書き下ろし)では、国事に殉じたものの鎮魂と顕彰という新しい儀式について、米沢と金沢を事例に論じている。米沢と金沢は、旧藩主を神格化した神社(上杉神社と尾山神社)を創建し、それが後に別格官弊社に列格された。明治維新が否定したはずの旧藩主を祀って、それが国家にも認められたのはなぜか。
維新後の神仏分離政策では「社(やしろ)」が「神社」と改められたように、仏教だけでなく神社が大きな改変を受けた。 一村一社といった強権的な神社整理を行う一方で、仮に県社であっても氏子の寄附のみで運営させ公費を支出しないなど、国民に神社の維持を命じつつも神社のあり方には大きな制限を加えたのである。
しかし明治11年に社寺創建の許可が地方官に委任されると状況は一変する。神社の創建願いが急増したのである。これに応じて明治19年には創建に一定の制限が加えられ、明治23年(帝国憲法発布の年)には「民族国家の宗教理念に基づいた創建神社の時代は終わった(p.502)」。これらの神社創建は何に基づいていたか。この前提となったのが、明治10年代の墓碑・記念碑が建立される趨勢であった。それには暗殺された大久保利通らへの墓碑撰文が嚆矢となった。国家に殉じた者の顕彰のために立派な墓碑や記念碑が建立され、また中国の伝統になぞらえてそこに漢文の碑文が刻まれることがスタンダードになっていく。
特に西南戦争の死者の慰霊碑はその象徴である。例えば 滋賀県では、都市を見渡すことのできる場所に立派な慰霊碑が建立され、また大仕掛けの祭典が営まれた。そうした見晴らしのいい場所は鎮魂の場所として相応しいという観念も育っていく。なぜ西南戦争の慰霊碑がビッグイベントとして建立されたたのかといえば、新政府の政策によって動揺する人心を死者を持ち出すことによって鎮める意味があった。現在の太平は戦死者のおかげだと強調し、良民になるための「躾」を、死者を模範として行おうとした。
また神社は、廃藩置県後に立場的にも精神的にも不安定な立場になっていた士族たちを、精神的につなぎ止めておくためにも必要とされた。旧米沢藩では、廃藩置県直後に上杉謙信と鷹山の祭祀を神祭により行うこととし、社殿を旧本丸に修築することとした。これが上杉神社に繋がっていく。
追って、山形県令に赴任した三島通庸は鷹山の位階を進めるよう運動し実現した。彼は既存の権威を利用して自らの立場を固めようとしたのである。
一方、金沢でも西南戦争記念碑が建立された。またそれに先駆けて、明治5年には教部省官員と石川県参事により、前田利家を祀っていた卯辰八幡宮を旧主の別館に移転して郷社とすることで尾山神社が創建されていた。このように、「著しく功績を挙げた郷土の人物たちが、新しい秩序の構築に際して動員されていった(p.517)」。明治32年には前田利家の死後300年祭が大がかりに挙行される。地域の歴史を新しい国家の中に位置づけてその顕彰を行うことで、郷土意識と国家意識を接続しようとしたのである。
こうした動きの中で全国的に最大のものは、明治28年の平安遷都1100年祭である。そこでは桓武天皇を祀る平安神宮が創建された。「旧藩主、顕彰碑などの新しい施設とその祭典が「神道」を形成する推進軸となっていった(p.523)」。
「第10章 顕彰政策と「以心伝心」のシステム」では、功臣や立派な人物の顕彰によって「歴史」が政治的に再構成されていく次第を述べている。18世紀末以降に「民心一致」「民心収攬」などのスローガンがしきりに叫ばれ、「民心」が為政者に注目されていた。19世紀には欧米の心理学や教育学が知られるようになり、「民心」論は国民と国家の関係を考える上で重要なものとなった。
帝国憲法発布の前年明治22年、西郷隆盛へ正三位、藤田東湖・佐久間象山・吉田松陰へ正四位の位階が贈られた。明治24年にはこうした顕彰の叙位がいっせいに実施されている。対象となったのは各藩の尊攘派の志士。彼らはこの時に初めて国家から「志士」として認定され、功績を挙げたものとして序列化され歴史に組み込まれたのである。
この頃、たえず顕彰されるべき人物が発掘され、位階が贈位された。それは「歴史の土壌に国家の根を張りめぐらそう(p.541)」とする取り組みであった。草莽市井の無名の人々に勤皇の精神があり、それが発露されて明治維新に結実したという歴史観を醸成していったのである。
しかし、そうして顕彰された人々は、必ずしも個人として讃えられたのではなかった。そこでは個人の功績は誇ってはならず、功績は皇恩に対する恩返しであるから、君主・祖先・父母に献げなくてはならないのだと迫っていた。つまりそうした顕彰は、個人の功績を国家が回収していく装置として働いたのである。
そうした顕彰システムの原型は、早くも明治10年に宮内省が作成した『明治孝節録』に現れている。これは孝子とされる人物を紹介した修身書であるが、そこでは父母に尽くし、家業に精励し、家を維持した人々が立派であると称揚されている。それは、個人が活躍するのではなく、自らを犠牲にしてまで社会に従属する存在として生きることが立派だとする価値観が提示されていた。本書には記載がないが、これは幕末に『靖献遺言』に触発されて破滅的なまでに尊皇な行動をとった志士たちとの鋭い対照となっている。
このように国家は、自らにとって都合の良い人物や歴史を、戦死者記念碑・忠魂碑・贈位などによって顕彰する制度を整備していった。その対象の選定には国家の微妙な価値判断があったのは当然である。そして、こうした動きの一環として歴史的遺物の保存が注目されてくる。
そのきっかけとなったのが天皇の行幸である。行幸では地域の名所旧跡を巡ったり宿泊・休憩した。風光明媚な土地のみならず、大小の神社や名士の墓を巡る中で、そうした場所の歴史の調査が命じられ、それを天皇が認めることで地域の景観・歴史が国家にとって価値あるものとして再定義されていく。こうして「近代日本国家の形成過程において、社会と政治の領域に「歴史」の価値が徐々に浸透していった(p.561)」。
教育勅語の草案(の一つ)を書いた中村正直は、忠孝の「元ハ天ニ出ツ」としており、個人は「天」との関係において独立していた。しかし教育勅語が完成していくなかでこの「天」が否定され、それは「「歴史」におきかえられたのであった(p.563)」
「第11章 宗教・歴史・「神道」」(書き下ろし)は、近代日本の宗教政策が日本人にもたらしたものを俯瞰して述べるもので、大著の結びに相応しい論考である。
明治前期の宗教政策では、宗教は政治の支配下に置かれた。しかし明治7年の真宗問題(真宗が大教院体制から離脱)を契機として、政治と宗教を分離すべきだと傾斜していく。当初、国家はキリシタン禁制を敷いていたがこれも信教自由によって緩和された。
こうした政策の直後の宗教論の代表として、明治16年の福地源一郎『宗教論』が紹介される。そこでは既に宗教が歴史的なものとして把握されていた。明治20年代になると、進歩した社会では宗教は哲学に進化するのだという考えが進歩的な人々によって主張された。政府の政教分離・信教自由政策と、宗教を前時代の遺物と見なすような風潮が、次第に宗教から歴史を分離していく作業を促していった。
そこには皮肉なことに、古社寺の保存も一役買っていた。政府として古社寺の保存が課題になった最初は、明治9年の天皇の東北旅行に同行した木戸孝允が、日光の荒廃を目にしたことだという。明治12年には大隈重信が意見書を出し、それに従って内務省社寺局長の桜井能監は太政官伺を作成した。そこでは「勝区旧跡古代之建物ヲ保存スルハ国光ヲ保有スル(p.595)」から重要だと述べられていた。
古社寺の保存は、宗教的価値はもちろん、美的な価値によってなされたものでもない。「国光」のためなのだ。 明治17年成立の管長制でも、寺院は歴史的な由緒に関わりなく一律に国家との関係が規定されていた。古社寺を保存していこうとする動きは、国家が失われゆく古き良き宗教の遺風に気付いたのではなく、むしろ信仰とは区別された社寺の公的な価値に着目した結果であった。
それは既に述べたように、「天皇を含めて歴史的な人物や遺跡に対する保護と敬礼のあり方が重要な課題となって、宗教とは区別される歴史的な存在への配慮の問題が浮上してきた(p.589)」ことと軌を一にしていた。国家は、歴史を通じて不変の国民的精神を再定義しようとしていた。日本人の優れた固有性—忠孝・廉恥・清潔・貞節といった封建道徳は、宗教の力によるものではなく、歴史を通じて自然発生的に培われてきたものだと見なしたのである。
そして政教分離体制の中で、「神社神道と仏教から歴史的な要素を抽出し、それを民族の歴史と風景を象徴するものとして保護していく作業が実行された(p.600)」。寺社にあった貴重なものが博物館で展示されるようになった。そして古社は、信仰ではなく歴史が重要なのであり、景勝地の保存は美的な観点よりも国光の保持のためになされた。そして全国に顕彰碑や保存物を配置することで、「全国に同じような場所があり、くりかえし同じような史蹟をめぐり、その由緒の説明を聞く(中略)歴史の共有化のプロセスが日本社会に「神道」を定着させていくことになった(p.604)」。
神道はなによりも「国家功労者の祭祀」の体系であった。戦死者の招魂・慰霊の儀式といったものが近代日本の国家的な宗教体制を支えた。招魂社や靖国神社は普通の神社とは全く異質であった。それは、神ではなく個人の霊が祀られていた。抽象的な戦没者慰霊ではなく、戦没者一人ひとりの名前が刻まれ、平等に丁重な葬祭が営まれたということは、国家による慰霊のあり方として画期的であった。国家は、生きている国民には圧政を課したが、死んだ国民には平等で温かかった。
神道は明らかに宗教であったが、「神道を国民礼典であると見なすことで、それは宗教ではなく、「礼」の民族的な表現(p.616)」だと捉えられた。そして「神道は、功労者の”霊”を媒介とした心的な交流(p.622)」であった。何をどう祀るべきかを神道が教えた。
靖国神社、学校での儀式、遺跡碑への敬礼といったように、神道は敬礼すべき対象を国民に事細かに指示した。「全体としてこれらは日本の固有の歴史への敬礼、すなわち国礼であるといってよい(p.624)」。こうした「敬礼の体系」に全国民が搦め捕られる中で、近代の「日本人」が創り出されたのである。
最後に、本書全体を通じて感じたことをここに述べたいと思う。明治維新当初の宗教政策は、国家の権威を「神話」に置いていた。だからこそ神道を国教化しようとし、それはある程度成功したが政教分離・信教自由によって挫折した。それと並行して、国家の権威は「天」(あるいは「天理」)に基づくと考えていた儒教的な人々もいた。西郷隆盛が「敬天愛人」を頻繁に揮毫したのはよく知られている。儒教的な「天」は、宗教的なものというよりは社会の道理を示す一つのアイコンであった。
しかしこの「天」が明治後半にかけて徐々に退けられていく。本書にはこのことはごく簡単に述べられるに過ぎないが、ここが非常に気になるところである。江藤新平は斬首される際に「唯皇天后土のわが心知るあるのみ」と3度叫んだと言われるが、この「皇天后土」は天皇ではなく「天神地祇」のことである。「天と地の神だけが俺の心を知っている」ということだ。田中正造は足尾銅山の鉱毒事件は「天」が裁くと信じた。どうやら、明治の人々にとって「天」は、人間がつくった政府よりも上位の、普遍的な理法として理解されていたように思う。だからこそ明治政府は、「天」を至上のものとするのに二の足を踏んだのではないか(c.f. 教育勅語)。
そして普遍的な理法の代わりに持ち出されたのが、神話から続く「歴史」であった。それは国家の歴史だけでなく、巨大な顕彰碑が各地に建立されることで、地域の歴史が国家のそれに位置づけられ、万邦無比の輝かしい歴史、勤皇の歴史が再構成されることとなった。そしてそこから導き出されたのが、不変の君臣関係と国民精神である。だがその内実を見てみれば、それは忠孝や貞節のような儒教道徳・封建倫理に他ならない。このような全く中国風の倫理を日本固有の国民精神であると鼓吹したのには奇異な感じが否めないが、まさに日本は自らを「中華」(世界の中心)として位置づけたのである。
本書の記述の対象外になるが、明治後期に国家の権威の源泉として「歴史」がクローズアップされた後、太平洋戦争の頃には再び「神話」がリバイバルし、昭和15年には神祇官の復活として「神祇院」が設置される。しかし結局、「天」がリバイバルすることはなかったということに、日本近代史の特質を見ることができるように思う。敗戦で「神話」が否定された後、それに代わる国家の権威となったのは、GHQであり米国だったのかもしれない。
明治時代からの宗教のあり方を考える上での基本図書。
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