本書は、通史であり概論でもある松尾正人の論考(3分の1ほど)と、トピック毎の6つの論考で構成される。全体的に平易で読みやすく、本文で直接参照されないものまで含めて図版が豊富なのが嬉しい(特に巻頭のカラー図版がよい)。通史・概論はやや簡略で、正直言えばもう少し分量があった方がよかったように感じたが、バランスを考えると端正な編集方針と言える。
本書が記載の対象とする時代は、明治維新後およそ10年間である(明治20年くらいまでが対象であるが中心は10年間)。シリーズ「日本の時代史」全体の構成を考えると、これは短い期間を詳述している方に属する。それだけ大きな変化が短期間に起こったということなのだろう。
巻頭の松尾正人「明治維新と文明開化」は、維新政府の成立から西南戦争までを政局を中心として述べる。本稿の特徴は、維新政府の動向もさることながら、その対抗勢力の方を丁寧に描いていることで、特に鳥羽・伏見の戦い〜戊辰戦争の展開は類書に比べ詳しい。彼らの抵抗はそれほどの成果を上げなかったが、維新政府の樹立にはそれなりの軍事行動を伴ったことは注意しなくてはならない。
新政府の制度設計で大きな役割を果たしたのが福岡孝弟(たかちか)であるというのが面白い。維新政府は当初の「政体書」の体制で既に革新を指向していたものの、五カ条誓文の翌日の「五榜の掲示」が示すように、「「万機公論」と「国威宣揚」を国家的目的に掲げながらも、一般に対する支配を封建体制のままに受け継いでいた(p.29)」。
維新政府に対決したのは、攘夷実行を求めるグループや守旧的な宮廷勢力(=「太政官ノ役人ヲ見ルコト仇讐ノ如キ」(p.35))であったが、それらと軋轢を抱えながらも東京遷都、一世一元制の実施など徐々に改革を行っていった。
廃藩置県の説明は、版籍奉還からの経過が詳しい。その中で明治2年4月の「官吏公選」が目を引いた。これは、輔相・議定・参与について、行政官の弁事と各官の判事および府判事、一等県の知事までの三等官以上によって選挙するものである。これは公論の重視というより政権の中枢から公家・諸侯を排除して三条・岩倉派を確立するものであった。一般的には廃藩置県によって公家勢力が政権から排除されると理解されるが、版籍奉還の前にこのような人事が行われていることが興味深い。また版籍奉還と同時に、公卿・諸侯の称が廃されて「華族」に統一されたことも軌を一にするものである。そして版籍奉還後は、知藩事の世襲が否定され一門以下平士までが「士族」となった。
また「藩制」では、各藩の財務が規定され、藩札の回収が命じられる。しかし財政的に限界を迎えていた諸藩では、これを実行するには多大な困難があった。廃藩置県の前に既に藩体制の解体が進んでいたのである。
廃藩置県後の太政官三院制では、政局を中心に事態が変転。その帰結が岩倉使節団だったと言える。 そして岩倉使節団は欧米の実態を見ることで、幕末の「攘夷」の思いが完全に一掃された。
岩倉使節団と前後して、戸籍法の施行など一連の開化政策が実施される。高等教育から初等教育の充実へと舵を切った「学制」、徴兵令、壬申地券(土地の売買自由化)と地租改正、鉄道敷設などである。日本は早足で近代国家建設を進めていった。
しかしそこに注目すべきことがある。幕末に開港した横浜では、既に慶応3年に横浜本町一丁目に洋風石造り2階の横浜運上所(日本初の洋風石造り建築)が建設されているのである。文明開化は何も維新政府の専売特許ではないということになる。明治2年には早くも姿見町の料理人が西洋割烹の店を開いた。さらに横浜で最初の新聞『ジャパン・ヘラルド』(週刊)は文久元年(1861)の創刊だ。そうしたことを考えると、文明開化は幕末に始まっていたと考えざるを得ない。
ところで新政府へと反発したといえば、やはり農民である。新政府は旧藩主を東京に集住させ(地元民との紐帯を断ち切り)、新税や徴兵など農民の負担を増やしたから一揆が頻発した。そして新政府はこれらを弾圧する。中でも地租改正反対の「伊勢騒動」(明治6年12月)は、絞首刑一人を含む5万人もの処分者を出した。翌年、政府は地租を地価の3%から2.5%へ減額することを余儀なくされているが、基本的には民衆の要求はあまり顧みなかったと言ってよい。
その後に起こってくるのが征韓論を巡る政変であるが、これについては随分記載が簡略である。その代わりに台湾出兵が割と詳しく述べられており参考になった。そして征韓論政変で下野した板垣退助・後藤象二郎らが民撰議院設立建白書を出し、これから民撰議院論争が起こってくる。最後に、秩禄処分と士族反乱について簡潔に述べて稿を終えている。
「Ⅰ 明治維新の光と影」(松尾正人)では、戊辰戦争のさきがけとなった高松隊について詳しく述べている。高松隊とは、公家の高松実村(さねむら)を盟主とした草莽隊(自主的に編成された民間の軍)である。隊を組織したのは小沢一仙という宮大工の長男に生まれた者である。しかし民間とはいえ、この隊には参謀に岡谷繁実(館林藩の家老格の家柄)がおり、低い身分の者が一旗揚げるために集まっただけではなかった。彼らは戊辰戦争の勃発にあたり挙兵しようとするが、岩倉具視に止められる。しかしそれを振り切って京都を脱走して挙兵。
公家が旗印になっていたこともあり、ほとんど戦闘を経ずに、しかも周囲から軍用金がどんどん寄附されて甲府までも進軍した。ところが高松隊が甲府に入城した日、東海道先鋒総督兼鎮撫使の総督橋本実梁(さねやな)が甲府に到着し、甲府城を同軍に引き渡すよう求めた。高松隊は京都を脱走して進軍しており、綸旨も持っていない勝手な行動である。近代の軍制に即して考えれば軍法会議で処罰される重罪だ。昨日までの意気軒昂は消え失せ、また周囲からは悪口雑言が浴びせられた。そして小沢は甲州で布告したとされる偽の勅条目の責任を問われ打ち首になった。彼は勤皇に恩賞を与えるといい、年貢半減など民衆の負担軽減を勝手に約束していたのである。
しかも岡谷繁実は、横浜を攻撃するとの書状を携えていた。新政府にとって横浜の外国人を襲撃することは外交問題になることで厳禁である。京都の高村保実(実村の父)は高松隊の処分を軽減するよう必死に運動し、実村は謹慎処分へと落ちついた。しかし岩倉具視の制止を振り切って脱走したことは大きく響き、赦免が遅れたのみならず、結局その後も活躍の機会がなく任官も思うようにいかなかった。一方で参謀の岡谷繁実はコネがあったのか赦免も早く、要職に起用され、新政府で活躍した。高松実村と岡谷繁実は、僅かな条件の違いでその後の人生の明暗が分かれたのであった。
「Ⅱ 巡幸と祝祭日—明治初年の天皇と民衆」(牧原憲夫)では、天皇という存在が開化をどうリードしていったかが述べられる。明治政府は「復古」を旗印としたが、それは一見「開化」と矛盾する。しかし奇妙なことに、「復古」のためには「開化」=西洋化が必要だと大久保らは考えていた。天皇を西洋風の君主にしつらえることが「復古」なのだ…と彼らが本気で信じていたのかはわからないが、「開化=復古」の論理は「明治政府の”転向”を糊塗し、神道家や国学者の原理主的非難を封じる妙手だった(p.155)」。
西洋風の君主として、国全体で天皇誕生日を祝うこととされ(というのは、誕生日を祝う風習は日本にはなかったからだ)、これまで御簾の奥に引きこもっていた皇后は外交の場に出てきた。急進的な政策を次々と実施する新政府への理解を得るため、天皇は「仁君」として国民に姿を現した。天皇が初めて大衆に身をさらしたのは1870年4月。意図的に君主を「見せる」演出であった。そして天皇はことあるごとに仁君として下賜金を振る舞ったのである。一方で、皇居は聖域化し、人がみだりに立ち入ることができない領域へと変貌していった。にもかかわらず、政府は天皇の「生き神様」化には警戒していた。そうした「迷信」が政府の手に負えなくなることを心配していたのだ。
本稿ではこうしたことのケーススタディとして、1872年、1876年の巡幸が詳しく述べられる。巡幸の対応を通じて、天皇と国民の関係性が確立していった。国民は天皇と皇后の一挙手一投足に注目し、その行動を「見ること」を通じて「国家」の一員になっていったのである。
「Ⅲ 岩倉使節団と信仰の自由」(山崎渾子)では、岩倉使節団における宗教の対応を通じて日本の信教自由の成立過程が述べられる。日本の鎖国政策はキリスト教禁止が大きな特徴であった。幕末に開国はされたが、キリスト教は引き続き禁じられていたから、必然的にそこに矛盾が生じた。当然、欧米列強は日本にキリスト教解禁を求め、それが条約改正の前提条件となっていた。条約改正の準備もその目的にあった岩倉使節団は、この件が各国から指摘されると予想し、「近いうちにキリスト教解禁にするつもりだが、これは日本国内では影響が大きいので秘密にしておいて欲しい」との密約で各国との交渉をやり過ごそうとした。
外国人へはキリスト教の公認を仄めかしつつ、実際には禁制を続けたのは、初代外務卿の沢宣嘉(のぶよし)と外務大輔の寺島宗則の神道主義のキリシタン政策の頃からのことだった。
しかし現実には日本国内でキリスト教徒が迫害されていたから、これは各国で問題視され、特にアメリカではこの密約の効果はなかった。一行は委任状がないという形式面での不備を指摘され大久保らが一時帰国するが、その全権委任状の下付願いでも第1条にキリシタン解禁の条項があった。また一行は欧米諸国の様子を視察する中で、「文明国」の多くでは信教の自由政策をとっており、キリスト教は特に大事にされていることを確認してゆく。
だが彼らは、不思議なことに信教の自由やキリスト教解禁が必要だとはみなしていない。彼らはあくまでも外交問題として「信教の自由」を捉えていた。当時の日本ではキリスト教に邪教のイメージがあったのだが、彼らは欧米諸国でキリスト教の実態に触れたはずである。アメリカでは教会にも行っている。何の問題もなくキリスト教徒が暮らしているのを見ながら、日本でキリスト教が広まるのを懸念しているのはなぜなのだろうか。彼らはキリスト教の何を懼れていたのだろうか。本稿にはそれは書かれていないがそこが気になった。
それはともかく、岩倉使節団がまだ外遊中の明治6年2月、キリスト教禁止令を含む五榜の掲示が撤回された。しかしそれは高札を取り外したのみで伝達方法を変更したに過ぎず禁教は続いた。各国は密約が裏切られたこの処置に失望し、国内でもむしろキリスト教徒への弾圧が激しくなってしまった。
岩倉使節団帰国後も、日本は神道主義と西洋化という矛盾した目標を追い求める。文部卿の森有礼や外務卿の寺島宗則は、日本も信教自由にすべきだと建白しているがこれは例外的であった。寺島の後継、外務卿の井上馨は漸進主義を取り、徐々にキリスト教黙許の立場へと進み、明治22年の帝国憲法によって条件付きとはいえ信教の自由が公言された。日本における信教の自由は、人間と宗教、国家と宗教、人権といった観点から実現したのではなく、対外的な都合、外交問題から規定された面が大きかった。
「Ⅳ 文明開化の時代」(中野目徹)では、文明開化とは何だったのかが再考される。福沢諭吉は明治8年(『文明論之概略』)には熱烈な文明開化論者であったが、その3年後には「文明国の中に文明を見出すことができない」とぼやいた。彼は僅か20年の間に、最初の家を純洋風に、次の家を応接間等のみ洋風に、そして最後の家は純和風につくった。あの福沢にとってすら文明開化は変容していったのである。
文明開化の旗手だった明六社・『明六雑誌』は、大新聞(おおしんぶん)に文明開化を鼓吹する論説を発表したが、大新聞の雑誌欄や小新聞(こしんぶん)では早速それが揶揄された。例えば「ホラヲフクサハ(福沢) 馬鹿ヲイフキチ(諭吉)」といったように。文明開化の絶頂期ですら、西洋そのものでない西洋の物真似が嘲笑されていたのだ。福沢が明治4年に慶應義塾出版局の中に「衣服仕立局」を開業したのは、「物真似」から西洋に近づいていこうとした当初の文明開化を象徴しているかもしれない。
洋装は、幕府時代は「異形」であり「見掛次第召捕」の罪であった。であるから洋装そのものにも変革のムードは確かにあったのだ。だがそれが見た目先行であったこと、「西洋」をごった煮にした鵺(ぬえ)的なものであったことは、はやり文明開化の限界を表していた。
しかし明治8年には讒謗律・新聞紙条例が定められ、無秩序で自由で活気のある状態は終わりを告げ、「言路閉塞」になっていく。明六社は実質的に活動を終了。福沢はじめそのメンバーは「東京学士会院」に横滑りしたが、これは御用組織であり明六社とは根本的に違う存在だった。そして福沢自身、ナショナリズムに傾斜し、西洋ではなくアジアを異質なものと見なす『脱亜論』(明治18年)へ進んでいった。
「Ⅴ 博覧会時代の開幕」(國 雄行)では、文明開化に対し博覧会が果たした役割が概説される。19世紀の後半の半世紀は、ヨーロッパでは博覧会の時代とも言えるほど盛んに博覧会が行われた。日本も幕末からこれに参加することによって国際社会に歴史や実態を伝え、工芸品などを売り込んでいった。
博覧会は日本国内でも、各地域の産物を調査し産業奨励を行う目的で開催された。それが明治10年、大久保利通が殖産興業政策の一環として建議して開催された内国勧業博覧会である。それは自主的な出品というより、官側が物品を中央に集めるという性格が強く、府県別で対抗心を煽る工夫があった。それでも内国博は「文明の利器」を具体的に見せる啓蒙的な場として機能した。ただし第1回内国博で展示され最も普及したのは欧米製の機械ではなく、臥雲辰致(がうんたっち)の棉紡機「ガラ紡」だったというのは面白い。
なお、内国博には全国の府県が参加したが、西南戦争の影響で鹿児島県だけは参加しなかった。西南戦争が勃発しながら、大久保内務卿は博覧会強行を主張し、それどころか西郷軍壊滅の後、博覧会場で総督有栖川宮の凱旋祝賀を実施したのである。
「Ⅵ 士族反乱と西郷伝説」(猪飼隆明)では、士族反乱の論理が述べられる。士族反乱は、武士の特権が奪われたことへの不満によっておこったのではなく、権力闘争であったと著者は見る。それは、天皇への上奏ルートが一本化されて「有司専制体制」が生みだされ、このルートから排除された官吏や勢力の権力奪還や反抗の試みが征韓論や自由民権運動であり、その一つが士族反乱なのだという(私自身は、腑に落ちないが…)。
西郷隆盛も、武士階級の解体には一切阻止的な役割は果たしていない。とはいえ「参議の地位にありながら、目の前の政治の現実にしっくりいかないもの、居心地の悪さを感じていたことは確か(p.283)」という。
佐賀の乱では挙兵の理由として「奸臣専横」が挙げられており、神風連の乱でも「政府文武官吏」が問題だとしている。秋月の乱でも「奸人政権」の専横、萩の乱でも「小人在位、以擅国権(以て国権を擅(ほしいまま)にす)」が問題だとされた。彼らの多くは尊皇攘夷を続けてもいたのだが、開国・開化政策が貫徹され、また天皇権力に一元化してゆけば武士階級は解体せざるをえない。よって政権担当者を「奸臣」だとして非難したのだろう。
しかし西南戦争の場合は西郷隆盛も出兵の目的を一切語っていない。そのため西郷軍には不平士族だけでなくその真逆の民権派も参加しており、そこに「西郷伝説」が生まれていく素地があった。
本書全体を通じて感じたのは、文明開化は幕末に始まっており、明治政府はそれをある程度継続させたがむしろそれに掣肘を加えたということだ。江戸幕府もヨーロッパに使節を派遣したし、万国博覧会に出品した。福沢諭吉が『西洋事情』初編3冊を出版するのは慶応2年である。文明開化というと明治維新と結びつけてしまいがちだが、むしろ幕末からの連続性の方が大きいのではないかと思った。しかし明治維新後の文明開化は、幕末のそれとは著しく異なる点がある。それは明治10年頃から天皇中心の価値観で「文明」が取捨選択され再構成されていったということである。西洋中心から天皇中心へと転回していったのが明治の「文明開化」であった。
文明開化を様々な角度から検証する参考書。
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