2022年10月7日金曜日

『回想の明治維新—一ロシア人革命家の手記』メーチニコフ 著、渡辺 雅司 訳

明治時代に日本に来たロシア人の回顧録。

本書の著者メーチニコフは、一口に言えば「お雇い外国人」ということになるのだろうが、通り一遍の「お雇い外国人」と彼は全然違う。なにしろ彼は、革命家として日本に来たのである。

彼は母国ロシアから亡命してヨーロッパに逃れた。ロシアでの革命を目指し、それが挫折した結果だった。しかしかれは生来語学の天才で、世界各地を流浪してヨーロッパ諸語だけでなくアラビア語、トルコ語、中国語までもマスターし、さらには各地の地理や民族を研究した学者でもあった。そんなメーチニコフは明治維新という「革命」を知り、日本に憧れを持つようになる。彼は明治維新を内発的な革命と見なし、それを高く評価した。そしてロシアでそのような革命を成し遂げるために日本への渡航を目論見、日本語を勉強するのである。

一方明治2年頃から、薩摩藩出身の大山巌はヨーロッパ(この時はフランス)に留学していた。しかしフランス語の勉強がなかなか進まず苦労する。そんなときに、大山は偶然メーチニコフに会う。日本語を学びたいメーチニコフと、フランス語を学びたい大山は、相互に語学を教え合うことになり、フランスで毎日のように親密に交流した。彼は大山巌の恩人といっていいのだという。

さらにメーチニコフは、洋行中の岩倉使節団とも会い、木戸は都合5時間もメーチニコフと会談した。彼らはペテルブルグを公式訪問した後だったが、ロシア政府を打倒しようとしていたメーチニコフとも親しく付き合ったのが面白い。ともかく岩倉使節団と邂逅したことでメーチニコフは要人との繋がりを得、日本に招聘されるのである。用件は、西郷隆盛が江戸につくる薩摩藩の学校で教えて欲しいということだった(この学校の詳細は不明。なお当時は廃藩置県後なので正確には薩摩藩自体がもう存在しない)。

ところがほとんど無一文になりながら日本に着いてみれば、西郷隆盛は明治六年政変(征韓論争)で政府にいなかった。しかし同じく薩摩藩出身の高崎正風の周旋によって、メーチニコフは文部省の役人になり、東京外語学校魯語科の教師となった。彼が日本で教鞭を執ったのは明治7年からたった1年半であったが、彼の影響で魯語科にはナロードニキ系亡命ロシア人が集まり、二葉亭四迷を始めとした人材が育っていくのである。また明治8年に東京外語学校長として中江兆民が赴任している。二人の交友は短い間だったがお互いに影響を与えたという(解説による)。

メーチニコフは、この短い日本滞在の間に、なぜ明治維新が成し遂げられたのかという秘密を探っていく。本書の半分強はその日本論である(なお1881年にメーチニコフはフランス語で『日本帝国』という大部の日本論を書き上げた)。彼は、日本の歴史を概観して、明治維新が外圧によって起こったのではなく、そのずっと以前に内発的な政治変革を来していたと見なし、むしろ日本の方からヨーロッパを目指すことになっていたと考える。

そしてその重要な基盤となっていたと彼が考えたのが、民衆の教養の高さであった。彼はどの町にも本屋が無数にあるのに驚いている。当時、小さな新聞などが大量に発行されていたし、召使いたちでさえ暇さえあれば小説をむさぼり読んでいたのだ。そういう小説は(彼にとって)真面目なものではなく、好色的要素があるようなものだったとしても、下層民までも読書の習慣があることに目を見張った。なおメーチニコフによれば1870年代の日本には年平均して1500点の新刊書が出ていたという。

民衆までも書物的知識と教養を持ち、作法やふるまいが文化的であることに日本の特質を見、「土着的な」革命として明治維新が成し遂げられたと彼は考えた。その見方が正鵠を射たものであるかは今となっては怪しい。しかし多くの国を巡り、多国語を操ったメーチニコフがそのように感じたということは注意すべき事実である。今の日本はどうだろうか。

明治7〜8年の日本を活写した一編。


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