2024年7月17日水曜日

『近世の仏教―華ひらく思想と文化』末木 文美士 著

近世の仏教の概説。

辻善之助の『日本仏教史』において、近世の仏教は堕落していたとされ、それが通説となってきた。近世の仏教界は檀家制度に安住し、僧侶は戒律を守らず肉食妻帯し、思想的な発展もなかったのだと。しかしそれは一面的な見方だと今では修正が必要になっている。転機になったのはヘルマン・オームスの『徳川イデオロギー』だ。歴史を振り返れば戒律を守っていない僧侶はいつでもいたし、近世に仏教の学問的発展がなかったわけでもない。そこで近世の仏教について改めて総合的に捉えたのが本書である。

中世末期は、非常に宗教の力が強かった。浄土真宗(一向一揆)が約1世紀の間、加賀国に宗教国家を実現させたのはその象徴である。日蓮門流が京都の自治権を獲得したものそうである。よって強大な宗教勢力を打破することが近世の統一政権樹立にあたって必要であり、そのために近世では強力な宗教統制が行われた。

江戸幕府では本末制度が定められて、本山から末端寺院までが上下関係で結ばれ、本山を幕府が抑えるという形ができあがった。またキリシタン対策のために、民衆は必ずどこかの寺の檀家になるという寺壇制度が整えられた(仏式以外の葬祭は禁止された)。幕府の政策に直接影響を与えたわけではないが、鈴木正三がこの理念を非常に近い形で提示している。それは寺院を世俗社会に役立てようとする企てであった。

さらに幕府は、家康を神格化した。それには家康・秀忠・家光三代の師として権勢を振るった天海の影響が大きい。彼の影響で家康を天台宗の山王一実神道(日光中心の新しい山王神道)の形式で日光東照宮に祀るようになり、また寛永寺が仏教界の中心となった。なお日光東照宮に色濃い現世主義の基盤には、中世の本覚思想の影響があるのではないかと著者はいう。

近世は儒教の時代だと言われることがある。藤原惺窩や林羅山は禅寺を出て儒者になっており、仏教から儒教への流れがあったことは間違いない。しかし儒者は僧侶のような独自の集団をつくれず、また日本社会は儒教を全面的に受容してもいなかった。林羅山と松永貞徳(不受不施派の日蓮宗の在家信者)による儒仏の優劣を争った論争で、来世の問題が取り上げられているのは興味深い。儒教では祖先祭祀を重視するが、なぜ祖先祭祀が必要なのかという理由を突き詰めれば、死後の観念に行きつかざるを得ないからである。羅山は天海の山王一実神道に対抗して理当心地神道を唱え、『本朝神社考』を著わすなど、神道を神仏習合から解放するとともに天皇に結び付けようとした。

キリスト教への対応はどうか。日本人は戦国時代末にはキリスト教に好意的で、ザビエルもまた日本人に好感を持った。しかし特に地獄や創造神をめぐる日本人の疑問は宣教師たちにも手ごわいものであった。そんな中ハビアンの『妙貞問答』で仏教とキリスト教が比較されキリスト教が選ばれているのが面白い。そこでは、「仏教の立場に立つ以上、極楽であっても本当の実在ではない(p.72)」から後生の願いはむなしい。キリスト教の方が死後の幸せを実現できる、といった論法がとられている。ところが、その後の禁教政策もあり、キリスト教批判の書が多くなり、ハビアンも棄教した。

江戸幕府の成立時は、中国では明と清の交代期にあたっていた。明末は仏教復興の機運があった時代で、この時代の仏教が日本に直接入って来た。その中心となったのが隠元隆琦である。隠元はたびたび日本側からの招請を受け来日。宇治に黄檗山万福寺を建立し、黄檗宗(臨済宗の一派)を伝えた。万福寺は純中国風の寺院で、13代までは中国僧が住持を勤めた。黄檗宗は社会活動を重視し、また教学の振興を図った。近世仏教の多様な側面を支えたのは黄檗宗である。隠元は分かりやすく理路整然と教えを説いた。「娑婆・極楽は只当人の心念浄染(しんねんじょうぜん)の間にあり(p.83)」とする唯心主義的な教説は注目される。

江戸時代には、日本で初めて大蔵経が開版された。まずは天台宗の宗存が着手し、それを天海が上野の寛永寺に経局を設けて完成させた。民間では、隠元に学んだ鉄眼道光が大規模な募金活動を展開して資金を集めて完成させた。初刷は後水尾天皇に献上されている。この普及に力を尽くしたのが同じく黄檗宗の了翁道覚。彼は欲望を断つために男根を断ち、左の小指を叩き砕いたが、その痛みを抑えるために調合した薬(錦袋円)がヒット商品となった。彼はこの売上で鉄眼版を各宗の寺院に寄進したのである。そして大蔵経は死蔵されたのではなく、学問に活用された。

この他にも、妙心寺の道忠は中国語の俗語に通じて、理解が困難だった禅籍を正確に読み込んだ。これは荻生徂徠の古文辞学と通じる成果だった。卍元師蛮は通宗派的な『本朝高僧伝』をまとめた。

このように、「近世前半の仏教界はきわめて活気に満ちて、全国規模で大きな事業が起され、成果を挙げ(p.101)」た。特に印刷物の流通は、写本による口伝の継承よりも、公開された合理的な解釈が力を持つようになった。それにより批判的な仏教解釈もなされるようになる。

霊空光謙は本覚思想を批判した。東照大権現には、中世天台の檀那流の「玄旨帰命壇」の本尊である摩多羅神が家康とともに祀られているが、霊空はこれを『闢邪編』で批判。本覚思想でありのままを肯定するのは、善を勧め、悪を止む仏の教えと相容れないというのである。本覚思想の批判は広がりをもち、そこから浄土とは何かという問題も引き出された。

近世には、各宗派で戒律の復興運動が行われた。その中でも大きな問題となったのは天台宗の安楽律運動である。これは霊空光謙らが、最澄以来の大乗戒だけでなく、中国で正統とされた四分律も必要だとして政治的に運動したものである。権力闘争の末、安楽律派が勝利したが、こうした運動が行われた根底には「釈尊への復帰」がある。徳門普寂は宗派の枠にはまらず、小乗を再評価した南山律宗への復帰を唱えた。彼の主著『顕揚正法復古集』では仏教を歴史的に把握し、小乗に回帰することを志向した。

慈雲飲光(おんこう)も、「正しい作法に則った仏法に復古することの必要を痛感(p.117)」して、戒律復興に取り組み、また『梵学津梁』一千巻を著してサンスクリットの研究をまとめた。彼の十善戒は著名である。また、神道の研究も行っており、「雲伝神道」と呼ばれる独自の神道説を完成させた。 

鳳潭僧濬(そうしゅん)は、「鉄眼、霊空という当代最新の仏教を学び、それをもとに先入観に捉われない独自の仏典解釈を展開した(p.120)」。それは中国華厳の系譜を検証し、第四、五祖を認めないというものだった。伝統的に認められた相承説を堂々と否定したのは画期的だ。なお、普寂は鳳潭の学問を受け継ぎつつも批判も加えている。

富永仲基は、教団外から仏教を研究して、各種の経典は釈尊が説いたものではなく、歴史的に形成されたものであるという画期的な説を提唱した(『出定後語』)。そして仲基は釈迦の教えの原形、つまり原始仏教を志向した。これは普寂と同様の考えであるが、普寂が大乗仏教も仏教と考えたのと違い、仲基は大乗仏教は仏教(釈迦が説いた教え)ではないという衝撃的な結論に至り、仏教の信仰の前提を壊した。

このような仏教の原点に帰ろうとする運動とは別に、世俗道徳を肯定する仏教も盛んになった。その先駆けになったのは鈴木正三で、彼は『万民徳用』で日常の暮らしがそのまま仏道修行であるとしている(「修行ノ為ニハ奉公ニ過タル事ナシ」)。近世中期には、盤珪永琢や白隠はわかりやすく庶民に禅の教えを説いた。彼らの教えは難しい仏教教理ではなく、世俗倫理や封建体制を前提とする善悪を基本とするものだった。真宗でも『妙好人伝』に代表される、模範となる篤信者が称揚された。仏教者から封建体制を乗り越える言説は現れなかった。

近世に排仏論も盛んになった。儒教の方で大きな問題になったのが、先述した来世の扱いで、新井白石は『鬼神論』で仏教の輪廻説を批判した。魂の輪廻では祖先崇拝、家の倫理は成り立たない。祖先の善悪が積み重なって子孫に及ぶ、と考えなければならないからだ。だが儒教ではどうしても死後の問題が曖昧であった。そこで平田篤胤は『鬼神新論』を著し、新たな霊魂観を提唱している。

一方、仏教側は排仏論に対抗し、神仏儒の調和を説いた。これは世俗倫理を前提とする反論である。また三教一致の典拠として『先代旧事本紀大成経』が用いられた。これは実は黄檗宗の潮音道海が神道家水野采女と制作した偽書であり、禁書となったにもかかわらず広く流布した。

ところで、こうした宗教界は外国人からどう見えていたか。エンゲルベルト・ケンペルはドイツ人の医師で、オランダ商館付の医師として長崎に5年間滞在した。その間の日本研究をまとめたのが大著『日本誌』である。この本の第三部には宗教についてまとめられているが、神道に関する記述が大部分を占め、仏教はあまり触れられていない。シーボルトの『日本』でも、やはり神道のほうが中心である。ただし、『日本』では土佐秀信の仏教図鑑『仏像図彙』のドイツ語訳が付録として収録されており、これは単なる翻訳を超えた学術的な成果である。これはシーボルトの助手ヨハン・ヨーゼフ・ホフマンの仕事である。外国人は、仏教を認知しつつも、神道をより重要な宗教として認識していた。

しかし仏教の信仰には、意外と広がりがあった。『近世畸人伝』では貧困の中に自由な生き方をした僧・出家者がたくさん登場する。仏道修行をする女性も多く、本書では大奥で仏法を説き心の在り方を重視し形式的な参禅を批判した祖心尼、柳沢吉保の側室で我が子を三人失うという過酷な経験から実践的に禅を深めた橘染子が取り上げられている。

そのほか、民衆の間ではご利益を求めて多様な神仏が信仰され、巡礼・遍路も盛んになった。仏教とは違うが、近世には妖怪の存在がクローズアップされてくるのも面白い現象である。また旧来の宗教に飽き足らず、如来教や天理教など新しい宗教が幕末に起こってくるのも注目される。しかもそこに世界創造の最高神が措定されているのは、仏教にない考えが求められていることを示唆する。

造形については、鉈彫りの円空や、素朴な木喰などが注目される。また白隠や仙厓の自由な禅画など、民衆的で従来の枠にはまらない表現がなされるのが近世の特徴である。

これまで述べたように、近世の仏教は、封建制肯定の側面はあったが、ずっと停滞していたわけではない。しかしながら、幕末には次第に活力を失っていった。その代わりに勃興したのが、国学であり、それは時代を逆行する観がある霊魂論や神話を伴っていた。

本書は、おそらくは近世仏教の初めての概説書であり、それだけで価値が高い。しかし200ページ余りの小著に抑えるため、各事項についてはかなり簡潔にまとめている印象である。もう少し詳しく書いてほしかった項目は多い。特に後半は駆け足であったような気がする。また、辻善之助以来の近世仏教研究では、制度面が割と大きく取り上げられてきた。本書ではおそらくそこを意識的に捨象し、これまで看過されがちだった教学の面を大きく取り扱っている。例えば門跡寺院とか、触頭寺院のようなものは本書では取り上げられないが、門跡寺院に残された華麗な文化については記述があってもよかったかもしれない。

とはいえ、本書は興味深いことが盛りだくさんで、特に前半はたいへん参考になった。

近世仏教の世界を平易に案内する試論。

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2024年7月12日金曜日

『中世芸能講義――「勧進」「天皇」「連歌」「禅」』松岡 心平 著

中世の芸能について、勧進・天皇・連歌・禅の視点から語る本。

本書の原著(『中世芸能を読む』)は、岩波セミナーで講義した速記録を加筆修正したもので、それを若干修正し4つのコラムを付け加えたのが本書である。

勧進

勧進は、近年様々な面で注目されている。中世、勧進聖は一種の企業体・商社のような集団を形成し、お金を集め、プロジェクトを行って、再配分していくような流れがあった。そのモデルになったのが重源の大仏再建である。意外だったのは重源が「南無阿弥陀仏」という名前を名乗っていることだ。阿弥号を持つハシリなのだ。

勧進の際、お金がちゃんとプロジェクトに投資されるという信頼がなければ金は集まらない。その信頼をつくったのは律僧だと著者はいう。戒律を厳粛に守るからお金にクリーンだったというのだ。一方、重源は律僧でなく、なぜ重源が信頼されたのか不明な面もあるという(やはり入宋三度が信用をつくっていたのかも)。

勧進の背景には、貨幣経済の進展もある。中国から大量の銭が入ってきたのだ。中世には徴税のシステムが脆弱で、小さな国家であったことも、勧進が重用される理由だった。融通大念仏会のような大規模な宗教イベントを勧進聖がプロデュースし、そこにはいろんな芸能者も集められた。金を集めるには人呼びが必要だからである。これが興行型勧進である。さらには勧進聖自身が芸能化していくことになった。なお、こうしたイベントでは、仏教的には正統ではない「亡者の供養のため」が目的として押し出されている。勧進の性質上、民衆の需要に沿った来世観になっているのが興味深い。

芸能化した勧進聖としては、まず「踊り念仏」の一遍と、踊る説教師の自然居士(じねんこじ)が注目される。彼らは身体的パフォーマンスを仏教に持ち込んだが、当然ながらこれは旧仏教(天台宗)から強く批判された(『天狗草紙』)。自然居士が、有髪だったというのは面白い。「ヒッピー的な禅者といっていい(p.48)」。

文保元年(1317)、勧進興行に猿楽が参加した最初の例が現れる(『嘉元記』)。そこでは法隆寺の神社(惣社)で法華八講(法華経を八座に分けて購読する法会)が行われ、合わせて猿楽の太夫が芸をしているのである。著者は、このように勧進興行に芸能が入っていって「宗教的な磁場からあぶり出され(p.52)」て成立したのが複式夢幻能だと考えている。勧進聖たちの話を踏まえた劇にすることで複式夢幻能が生まれたというのだ。また、その場はギャラもとてもよかったと考えられ、芸能の側はそれで活性化したと考えられる。

天皇

著者は能楽の成立を天皇制や国家との関係に注目して語っているが、あまり明快ではなく正直よくわからなかった。まず、触穢思想が取り上げられ、天皇を中心とする同心円状に穢れが排除されていたとする。天皇は清浄であらねばならなかったからである。では、能楽の元になった猿楽はどうであったか。著者は「芸能者としての猿楽もまた、穢れの側にいる存在と考えられていただろうと思います(p.84)」としているが、実ははっきりしない。

一応、天皇から遠ざけられていたと思われる猿楽が、どうして国家の芸能になり、能になっていったか。それを解く鍵は仮面にあると著者は考える。猿楽では仮面はなく、能になってから仮面劇となっている。この仮面は、修正会の追儺(ついな)から来ているのではないか。院政期には、法勝寺など大寺院が天皇によって建立され、そこで国家の行事として修正会が行われた。修正会は一週間ほど行われたが、その間には法会だけでなく様々なパフォーマンスがあったらしい。そこに芸能者が「呪師」として関与していたのである。最終日に行われる追儺は、悪鬼を追い払う儀式であるが、その悪鬼の役を務めたのがステータスの低かった猿楽であると推測される(詳細は「毘那夜迦考」)。

そして追儺は、法会の中で最も重要なパートであり、諒闇(天皇の喪中)でも行われていた。本来、穢れた賤民として天皇から最も遠ざけられるはずだった猿楽が、悪鬼を演じるために仮面をつけて国家の中枢に入り込んだことが、能の成立につながったというのである。ただし、同時代に朝鮮半島でも仮面戯が成立していることも視野に入れる必要がある。

連歌

中世は連歌の時代でもあった。上皇から庶民まで連歌に熱狂したのが中世である。連歌は5・7・5と7・7の句を繋いでいく芸能であるが、重要なのは場面の転換である。その基盤となったのは本歌取り。本歌の世界を単に踏まえるだけでなく、その意味をズラしたり読み替えたりして変換することで、新しい世界を構築するのが本歌取りであった。次々に場面を転換させていく面白さが連歌を成立させた。

しかし連歌は、なんでも句を継いでいけばいいというのではなく、宗匠が司り、また煩わし規則があり、宗匠が認めなければ句が却下された。連歌は当初こそ貴顕の人々の遊びであったが、そういうルールがあったからこそ、人々は身分の上下に捉われず、優れた句を認めるようになったのだろう。連歌の一大行事が「花の下(もと)連歌」と呼ばれる、枝垂桜の木の下で行われるお花見兼大連歌会である。これは一般大衆にも開かれた場で(一般ギャラリーからも自由に句を出してよかった)、しかも採用された句には懸賞がかけられた。「かなりいいものがかけられたに違いない(p.134)」という。

花の下連歌は1240年頃から百年ほど盛んに行われた。その場として重要なのが法勝寺や毘沙門堂である。ここで、世俗の身分がある程度無効化される寺院という場が新しい文化の揺籃の地となっていることは注目される。

花の下連歌が寺院で行われたのには、「花鎮め」の要素もある。桜の花びらが散る頃に疫神がまき散らされるため、それを鎮めるというものだ。そこには枝垂桜の下には冥界があるという意識がある。花の下連歌は、この冥界の霊たちを鎮めるための花見であり、どんちゃん騒ぎであり、芸能なのである。連歌の一座を構成する宗匠や連衆は、主に念仏聖だったことも注目される。14世紀からは、連歌の中心は北野神社に移ったが、北野天神を本尊としてその前で連歌会を催したのも怨霊鎮魂の意味があるのだろう。「連歌自体の面白さが呪術力をも生む(p.164)」。

なお、一揆(新しい社会結合)も連歌とのかかわりが深い。誰でも参加できる連歌が、徐々に人々のサークル(連歌講)とつながっていくのが面白い。逆ではないのだ。

禅は、日本文化に大きな影響を与えた……とされているが、それは「考えられているようで、じつはあまりちゃんと考えられていないところでもある(p.171)」とし、著者はいわば試論として、禅と日本文化の関わりを述べている。

禅は、日本にとってかつてないインターナショナルなものだった。村井章介は、13世紀中頃からの約100年間を「渡来僧の世紀」と呼んでいるが、中国からエリート僧が来て、日本からも中国へ盛んに留学した。中国僧(例えば竺仙梵遷)も日本語を解し、また日本僧も中国語を話した。京都では従来の仏教の力が強く禅はストレートには入ってこなかったが、鎌倉へはかなり大量に入っていった。そして東国の武士たちはこれに強く影響されるのである。その一つの象徴が、禅宗風の遺偈を詠んで死ぬ人が多くなったことである。禅は日本人の新たな死のスタイルをさえもたらした。

禅と連歌にも関連がある…と著者はいうが、具体的にはっきりとはわからない。一瞬の勝負の連続という連歌の性質が禅と通じるところがある、ということのようだ。連歌は鎌倉でも流行した。

鎌倉で生まれた早歌(そうか)は、「日本の歌謡史上革命的な歌謡(p.214)」である。それまでの歌では母音を長く伸ばして詠唱していたのを、八拍子のリズムをとって一字一音で歌いこんでいくのが早歌である。これを演劇に取り込んでいったのが観阿弥であり世阿弥で、「早歌というベースがなければ能の謡も可能にならなかったというくらいの大きな革命(p.218)」である。ただし禅とのかかわりは不明である。

鎌倉では、闘犬と田楽が流行したのも注目される。田楽とはアクロバチックな身体芸である。また、闘犬については『太平記』では鎌倉の町に4、5千匹も犬がいたとされ、それは誇張としても、かなり多くの犬が飼われ、しかもそこには「錦を着たる奇犬」がいたというのだから面白い。この時代、早いスピードで行われる、派手な芸能が人気となっていったということだ。こういう趨勢がバサラ文化を生む。

禅といえば幽玄とか侘び寂びと思いがちだが、「禅は感覚的なレベルでも精神的なレベルでも、バサラのきらびやかでエキセントリックな、日本文化全体からすると異質な文化と思われている文化を支えていた可能性がある(p.225)」。

著者はこのように指摘するものの、禅と日本文化のかかわりについては、先述のように試論的であることを差し引いても、明快さに欠け、一面的であるように感じた。例えば茶については法華宗が大きな存在感があったし、芸能では阿弥衆のことは看過できない。禅が日本文化にインターナショナルな新しい要素をもたらしたことを強調するあまり、それ以外の要素が過度に捨象されているように感じた。

本書は全体として、講義の文字起こしであるため大変読みやすい。しかしそれだけに、記述はあまり論理的でない。、特に「天皇」と「禅」については話があっちにいったりこっちに行ったりしており、「結局どういうことだったんだろう」とわからなくなった。

ただ、そうはいってもいろいろ面白いことが述べられていて、特に芸能における法勝寺の重要性については蒙を啓かされた思いである。平安京遷都以降、国家仏教に懲りていたのか、天皇家は仏教と一定の距離を置いていたが、白河天皇はこの政策を転換し、巨大寺院を建立して六勝寺の先駆けとなった。これにより、天皇―寺院―一般民衆というクロスオーバーな場ができたのではというのが本書の面白い視点で、もしかしたら賤民が皇子を始祖として仰いだり、賤民的芸能民が朝廷とつながったりすることの淵源はこのあたりにあったのかもしれないと思った。

論理的一貫性はいまいちだが、読みやすく刺激的な講義録。

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2024年7月10日水曜日

『もう一つの中世像――比丘尼・御伽草子・来世』バーバラ・ルーシュ 著

女性や絵解きなど、看過されがちだったものに光を当てる論文集。

著者のバーバラ・ルーシュは、コロンビア大学の大学院生だった時、京都大学に在籍して中世の小説の研究をしていた。そして京都で偶然、浮世絵を扱う古物商らしきイギリス人と食堂で出会い、奈良絵本について語り合う。そしてそのイギリス人は「アイルランドのダブリンにある小さな図書館に、そういう作品がたくさんあったはずだ」と言った。この不確かな情報は、著者の心にひっかかる。そもそも、奈良絵本について知っている外国人がいるだけでびっくりなのだ。そして著者はアイルランドに行き、ほうぼうで訪ね歩いて、それがチェスタービーティ図書館であることを突き止め、たくさんの中世の絵巻物が無造作に所蔵されていることを発見するのである。

この劇的なエピソードは、中世の絵入り絵本について著者が本格的に研究するきっかけとなり、著者は後に第1回奈良絵本国際研究会議を発足させることになるのである。

こうした奇縁もあって、著者は、日本で顧みられていなかったものを、女性で外国人、という二重のマイノリティの目で発見していった。それをまとめたのが本書である。

本書で提起されるそれらのものの第1は、尼僧である。中世、実に多くの女性が剃髪した。しかし尼僧や尼寺の歴史はいまだ本格的に研究されていない。「中世社会で尼僧であるとはどういうことであったのか。尼寺というのはそもそもどういう制度であったのか。実はこれらについては誰にも正確なことはわかっていない(p.12)」。

本書ではケーススタディ的に無外如大が取り上げられる。彼女は無学祖元のもとで禅を学び、その後継者となり、京都に景愛寺を建てた(応仁の乱で焼失されたと伝えられる)。旧仏教では、「女性は罪深く悟りに達することはできない」とされていたが、鎌倉新仏教の諸派では「仏の慈悲は男女の別なく及ぶ」と説き、道元は徹底して男女平等の立場に立った。こういう趨勢の中で無外が現れた。彼女の生涯は、恵信尼、阿仏尼(『十六夜日記』や『うたたねの記』の作者)、『とはずがたり』を書いた二条殿とも重なっている。

阿仏尼や二条殿は、出家する前は貴族だったが、「二人が尼になったことの意味、尼僧としての生活といった面はまだ誰も十分な検討を加え(p.20)」ていない。しかし中世では、女性が出家すれば、母とか妻といった枠組みから離れ、自由で独立した、いわば社会規範から逸脱した生き方をすることが受け入れられていたのだとは言える。これは「一つの解放の道」「革命的な自由の道(p.24)」であった。

第2に取り上げられるのは、中世文学である。これは著者の専門であるだけに多面的に語られる。中世文学は、それが広く語られるものであったということが平安時代のサロン文学と著しい対照をなす。絵解法師や熊野比丘尼は絵解きし、琵琶法師や瞽女(ごぜ)は謡った。写本の流通よりも、それを「上演」する者の移動によって広まったのが中世文学である。そしでその上演に携わったものが、宗教的遊行芸人であったことは注意される。著者は中世文学(絵巻と絵冊子(奈良絵本))こそ「日本最初の国民文学」だという。

そしてそれらの物語は、特に神仏の加護がテーマになっていた。「一寸法師は住吉明神の申し子であり、物ぐさ太郎は善光寺の申し子(p.147)」なのだ。成功の秘訣は、神仏の加護にあり、しかもそれは求めて得られるというよりも、運命的なものなのだ。「中世文学の中心的な原動力は運命であり、野心ではなかった(p.148)」。そして、それらを読むことは、どうやら神聖な力を呼び起こすと考えられていたようだ。『物ぐさ太郎』では、その結語部で少なくとも日に一度音読するように勧めているが、これはそうすることで「所有者を護り、ご利益をもたらすお守りだった(p.167)」からに違いない。『物ぐさ太郎』だけでなく、熊野比丘尼たちが配布した小冊子にも魔術的宗教的性質があったし、「神仏の前で病いが治ることを願って能楽や連歌を奉納した例(p.170)」は多い。芸能は一種の呪術なのだ。

なお、これを上演する者が各地に移動することができたのは、古代よりもずっと移動が容易になっていたからだ。また中世人は新しい経済観念を持ち、起業家的な行動をするものが現れた。観音や大黒、恵比須、毘沙門天といった現世利益的な神が人気となったのも経済観念と関係があろう。

「こうして中世は、日本全土にはじめて共通の神々が生まれた時代だった。(中略)一つには巡礼、二つには労働を通じて、(中略)あらゆる土地の人々を、いわば全国的な信者のネットワークへと結びつけることになったのである(p.43)」。大げさにいえば、この共通の神が、一つの国としての日本をつくった。

第3には、女性芸能者が取り上げられる。あずさ巫女、傀儡子(くぐつ)、そして傀儡子から派生したとみられる白拍子など。「平安時代末期以後の歌謡や舞の分野では、少なくともその重要なジャンルはすべて、今様にしろ小歌にしろ(中略)あるいはややのちの、人形浄瑠璃、歌舞伎、そして三味線語りなど、みななんらかの形で女性の歌い手、踊り手の影響を帯びている形跡があるという事実(p.57)」がある。

第4に、平家物語を創作した明石覚一について。平家物語は誰でも知っているが、なぜかその作者覚一はあまり知られていない。覚一は書写山で仏道修行し、盲目になってからはそこで琵琶法師として修練を積んだ。そして平氏と源氏の戦いの歴史を、勧善懲悪的ではなく、仏教的な無常観で編集し、女性への救済を織り交ぜ、新しい神話といえる作品を作り上げた。著者はこれをバッハの作品に比している。これは初めての国民的叙事詩であった。「これほど広範な規模で厖大な人々に語りかけ、訴えかけた作品(p.77)」はかつてなかった。

このほか、顧みられていないものではないが、中世の来世観が取り上げられる。これは短いながら的確な指摘が多い。通説とは違い、日本人は輪廻転生を額面通りには受容せず、来世観は「みごとに非論理的で(p.252)」折衷的であったと著者はいう。そして「今日の学者に従えば当時の人々がひろく受け入れていたはずのパラダイムを、むしろ軽蔑しているように思われる場合すら少なくはない(p.216)」。『源氏物語』でも六道が言及されるのは1カ所であり、「宿業の結果」と述べられてもそれが惨めな境遇に生まれ変わることを意味してはいない。死んだ人の霊魂はいつまでも現世にとどまり続けるというのが普通の感じ方だったのだ。

そして、極楽という存在は、美徳に対する報奨としてではなく、「ごく普通の人間が、特別に徳が深くなくとも、親にも似た仏や菩薩の慈悲によって、恩恵として往生できる所(p.230)」とされることが多い。仏教の来世観の中で、人々を救済したのは極楽の観念であったと著者は考える。黄泉の国や常世の国よりも、死者が極楽で憩うと考えることは悲しみをやわらげただろう。

一方、地獄については、「地獄破り」という新しいテーマが注目される。地獄に赴いた武者が、地獄の連中を打ち負かすという話だ。『義経地獄破』や『朝比奈物語』がそれにあたる。そこに示されるのは、僧や宗派の力など借りなくても閻魔大王や鬼を打ち負かすことができるということで、つまり地獄が超越的でない存在だと認識されているのである。

中世は地獄や六道が絵画にたくさん描かれ、しばしば暗黒時代とされてきた。しかし多彩な明るい絵巻も同じくらいたくさんある。「庶民の姿は、なるほど見すぼらしい身なりではあるにしても活気があり、いかにも健康な雰囲気がある(p.250)」。

本書は全体として、中世の思想を通説とは別の面から述べるものとなっている。だがその主張は穏当で、非常に説得的である。私自身の興味としては、尼僧や尼寺について興味があり本書を手に取ったが、その重要性を主張しつつも「研究がまだ進んでいない」として具体論はほとんどなかった。本書の刊行は1991年。それから30年以上が経過しているが、現在でも尼についてはあまり研究が進展していない。ただし尼門跡の研究は次第に進んだ(著者も研究に取り組んだ)。

なお本書は翻訳ではなく、著者自身が日本語で執筆した。第1回南方熊楠賞・第7回青山なお賞受賞。本書を含め、尼門跡寺院の研究などが認められ、著者は第18回山片蟠桃賞を受賞している。

尼や奈良絵本の重要性について指摘した慧眼の書。

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2024年7月2日火曜日

『橙書店にて』田尻 久子 著

橙(だいだい)書店を訪れるお客さんを描いたエッセイ。

私自身は行ったことがないが、熊本の街中に、橙書店という本屋兼喫茶店がある。ここは、故渡辺京二さんが主筆(みたいな立場)だった『アルテリ』という雑誌の編集室であり、各種の文化的な催しが行われるなど、熊本の文化の拠点のような書店である。

【参考】橙書店
https://zakkacafe-orange.com/

橙書店は、個人経営の小さな書店である。それが、どうして熊本の文化の拠点になったのだろうか。私はそれが知りたくて本書を手に取った。

しかし、本書は橙書店そのもののことは意外と書いていない。店主であり著者である田尻さんのプライベートなことや、経営についての考えなどもほとんど全くと言っていいほど書いていない。というのは、本書(の原著である晶文社版)は、編集者から「お客さんのことを書いてください」と言われて制作されたものだからだ。お客さんの話題以外があまり書いていないのはしょうがない。

しかし、私は橙書店そのものに興味がある。というわけで、本書に書いていないことに注意して、橙書店がなぜ文化の拠点となりえたのか考えてみたい。だが予め断っておくと、書いていない内容について読み解くのは本の読み方としては邪道である。当然ながら、本は書いてあることを味わうのが一番だ。

第1に、本書にはお金の話がほとんど出てこない。自営業者がエッセイを書くと、別に書きたくなくてもお金の話が出てくるものだ。お客さんのことがテーマであるにしても。だが本書で唯一あった金の話は、移転前の橙書店の家賃はかなり高くて支払いに苦労した、ということのみだった。

第2に、本書には「本が売れない」という話が全く出てこない。全国的に、本屋の経営は厳しく、本が売れないという話題には事欠かない。にもかかわらず、本書では本が売れた話しか出てこないのだ。橙書店では本がドンドン売れているということだろうか。もしかしたらそうなのかもしれない。しかしそうではない可能性の方が高い。

第3に、本書には社会や政治や世の中の風潮に対する非難がましい言葉が全く出てこない。橙書店は弱者に寄り添った選書がされているらしい(お客さんの一人が言っている)。水俣病患者とか、震災被害者とか、戦災者といったものに着目した本が選ばれているんだとか。著者の政治的志向といったことは本書に全く述べられていないが、現今の日本政府に不満がないわけがない。また、文化事業に取り組んでいる人はみな、「文化関係の予算が少ない」とか、「メディアが権力者寄りすぎる」とか、「みんなスマホばかり見ている」といった社会全般に対する不満やボヤキを抱いている。しかし、本書にはそうした不満やボヤキは一切ないのだ。もしかしたら、こうした記述は削除する編集方針だったのかもしれない。だが私には、著者が意図的にこうした言説を避けているように思われた。

第4に、本書にはお客さんへの感謝の言葉がない。これは一番意外だった。普通、店主がこういうエッセイを書くと、ことあるごとに「当店はお客様に恵まれて」とか「続けられたのもお客様のおかげ」といった文章を書いてしまう。ところが本書には一切これがない。上記1~3については、テーマがお客さんだから書かれていないのだろう、とも受け取れるが、これについては明らかに著者の人となりに基づいている。

では、著者はお客さんに感謝していないのか。これは本書を読むと明らかだが、著者は「店主」と「客」という枠組を全く意識していない(あるいは意識的に排除している)。要するに、「客」を「客」として見ていない。「店主は不愛想だ」といって憚らないのも、営業スマイルをしないからだと受け取れる。店主は、お客をあくまでも固有の名前(多くの場合それはあだ名)を持つ人として認識し、初対面でこそ「客」かもしれないが、すぐに それは「仲間」に変わってしまう。本書は「お客さんのことを書いてください」と言われて執筆されたものだが、実際には「客」ではなく「仲間」のことを書いている。だからわざわざ感謝の言葉など出てこないのである。

それが傍証されるのが、店主は年間300日は差し入れをもらう、という記述である。確かに店をしていると、意外なほど差し入れをもらう。しかし年間300日は異常だ。これは、お客さんの方も店主を「店主」としてではなく、「仲間」として認識している証である。

つまり、橙書店では「店主」と「客」ではない、「仲間」同士のサークルが形成されている。文化的な活動に不可欠なのが、この「サークル」なのだ。いかに見識の高い「文化人」が一人いたところで、文化は生まれない。文化の成長に必要なのは、日常に飽き足らない想いを抱いている人たちで構成されたサークルだ。橙書店には、それがある。

では、どうして橙書店にはそういうサークルが形成されたのだろうか。一番知りたい、この部分が本書ではわからない。店主田尻さんの人柄によるのはもちろんで、その分け隔てなさや面倒見の良さが効いていることは想像に難くないが、それだけでは説明が困難だ。

というわけで、ここからは完全に邪推の領域になるが、ちょっと思ったことを書いてみたい。

さて、先述の通り、本書には、いかにも書いてありそうなことが書いていないという不思議な特徴がある。だいたい、こういう書店の店主というのは変わり者であるのが定番なのに、変わり者を彷彿とさせる記述がほとんどないのも考えてみれば不思議だ。唯一それを感じたのは、喫茶店兼雑貨屋をやっていて、隣の空き物件で本屋をやったら面白いと考え、衝動的に物件を借りるところくらいである(その後、移転して現在の店舗になる)。スタッフにも一言も相談がなかったそうだから、これはなかなか変わっている。だがそれくらいなのだ。著者の変わり者エピソードは。

これらから示唆されるものは何か? それは、本書が極めて抑制的に書かれたということではないだろうか。つまり、自然体で書いたのではなく、何を書くべきで何を書くべきでないのか、著者は注意深く取捨選択しているのである。であれば、著者が「世間」というものに全幅の信頼を置かず、「確実に理解されるものだけ書いておこう」という慎重な姿勢で本書を執筆したということになる。

仮にそうだとして、「仲間」たちとの間でもそのような態度であるかはわからない。たぶん違うのだろう。だが本書から受ける印象では、著者は「仲間」たちとの間でさえ、いわば「名物店主」として自由気ままに放談している印象はない。大勢の「仲間」に囲まれ、刺激的な企画の渦中にありながらも、著者の心の奥底には「本当の私をわかってくれる人はいない」というような、そこはかとない孤独感があるように感じられる。

まさにその、そこはかとない孤独感こそが、人を引き付ける魅力になっている、ということなのかもしれない。なにしろ、文化の成長に必要なのはサークルであるが、そこに内心の孤独感がなければ、ただ騒いで終わりなだけの集まりになってしまうからである。

著者に物を書くのを勧めたのは渡辺京二さんだという。思ったことを何でもペラペラしゃべってしまう人に、渡辺京二さんが物を書くように勧めるとは思えない。そして、物を書くことは孤独を癒す。世界のどこかに、自分をわかってくれる人がいるかもしれないのだから。

読書メモなのに、内容を離れてずいぶん勝手な妄想を繰り広げてしまった。実際には全然違っていたらすみません。

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2024年6月30日日曜日

『底にタッチするまでが私の時間—よりぬきベルク通信1号から150号まで』木村 衣有子 編

新宿のカフェのフリーペーパーの選り抜き本。

新宿駅の地下に「BEER & CAFE BERG(ベルク)」というカフェ・バーがある。すごい人通りの中に、まるで岩礁のように存在している店である。このカフェには、『BERG通信』という一枚ものの毎月発行されるフリーペーパーがあるのだが、本書はこれの1号〜150号までの記事を編者が選り抜いたものである。

そこに掲載されているのは、ホンの一言の名言風なものから、見開きに改行のない文章がビッチリ詰まった記事までいろいろだが、だいたいはビッチリな記事である。

内容は、本書の前半は告知が多く、後半はエッセイ風なものが多い。どっちが面白いかというと、断然「告知」の方だ。何を告知しているかというと、例えば「ホットドッグのパンが変わりました」というようなものだ。

なんでそんなことをわざわざ告知しているのか。それは、ベルクが、味にこだわりがある店だからだ。そのパンは、東京中を探し回ってようやく見つけたものなのだ(美味しいパン屋は数あれど、卸してくれる店は少ない)。といっても、ベルクのコーヒーは一杯200円(+税)。ホットドッグは300〜400円くらい。ドトールといい勝負だ。それでも、ベルクは、提供する側が納得するものしか出したくないタイプの店なのだ。とはいえ、ベルクは一日に1200人もお客さんが来る、しかも狭っ苦しい店。だから、店側が「これこれこういう事情でパンを変えたんですよ」なんてことを、いちいちお客と話すような店ではない。だから、「BERG通信」に告知文が掲載されるのである。

これが、ただのお知らせといえばお知らせなのだが、なんというか、痛快なのだ。大企業のコマーシャルが、ただ印象を伝えるだけの空疎なものであるのとは違って、そこには、なぜこれを提供したいのか、という明確な意志と理由が書かれている。そして、今のSNSに溢れているような、キラキラ、前向き、耳障りのよいコトバとは全然違う、等身大の言葉で書かれている。それは、いわば「分かってくれる人にだけ分かればいい」というタイプの自分語り風なものとも違って、「ちゃんと伝えたい」という雰囲気が濃厚なのだ。それなのに真面目一辺倒ではなく、「遊び」がたっぷりなのだ。こんな健全な文章は、今の時代、なかなかお目にかかれるものではない。

その健全さを支えているのは、おそらくは、ベルクが完全に資本主義の中にいるからだ、と私は思う。

生き馬の目を抜く都会の競争の中で、ベルクは生き残っている店だ。それは、結局はBERGが資本主義のルールに則って勝負しているからだ。コーヒー一杯200円で、美味しいホットドッグを格安で提供できるのは、お客さんが1日に1200人来るからで、それを支えるサプライチェーンと店員のシフト体制と、経営があるからだ。その上で、お客さんに伝えたいことを書いているから、『BERG通信』には切実さがあるのだ。

世の中で話題になる多くの(小さな)店が、資本主義を懐疑的に見て、「大手とは違った枠組みで価値を提供したい」と思っている(時には、資本主義的な成功を見下している)のに対し、ベルクは大手と同じ土俵で勝負しようとしている。『BERG通信』の記事が単なる「店員のたわごと」にならない健全さがあるのは、たぶんそのおかげだ。

特に印象深かったのは「(お店は)お客様と業者さんとスタッフの共同創作みたいな所もある」という一節だ。ベルクの客は多く回転も速い。常連さんも多いが、店主と長々と話すような店ではない。それでも、価値を分かってくれるお客さんのことは、店はちゃんと分かっている。だからこういう言葉が出るのだろう。そして、そのお客さんに対して説明したいから、『BERG通信』が書かれている。店が客・業者・スタッフの共同創作なら、その紐帯を為しているのがこの『BERG通信』だといわねばならない。

東京には、グルメが山ほどいる。世界一いるのではないだろうか。だから、美味いものを提供しさえすれば、それを分かる客はいるだろう。だが、ベルクは「分かるやつだけ分かればいい」という斜に構えた態度はとらない。ベルクは、店の努力をちゃんとわかってもらいたいと思っている。ある意味、泥臭いのが『BERG通信』の魅力である。

これは、東京の一角の小さな店のフリーペーパーに掲載された、いわばチラシの文章を集めたものだが、小さな商売をやっている人間にはものすごく面白い(私も、田舎で小さなブックカフェを経営している)。 商売をしている以上、資本主義の仕組みからは逃れられないからだ。真っ向から資本主義に対決を挑み、大手とは違った戦い方をしているベルクという店は、応援せずにはいられない。

なお私は、大学進学で1990年代に上京しており、実はベルクにも数回行ったことがある。そこで食べたレバーペーストの美味しさは忘れられない。本書に掲載されている記事は、ちょうど私が東京にいた時代ものだったから、なおのこと面白く感じた。

ちなみに、本書はいわゆるインディー出版社から発行されているもので、ISBN番号もない。Amazonでも売っていないようだ。こういう本も、また侮れないものである。

★ベルクのオフィシャルショップで売っています。
https://berg.official.ec/items/54687433

2024年6月17日月曜日

『応仁の乱−戦国時代を生んだ大乱』呉座 勇一 著

応仁の乱を詳述する本。

始めに告白すると、私は本書を5%も理解していない。私は室町から戦国期は詳しくなく、本書の理解に必要な知識があまりなかったというのが最大の原因だ。

しかしながら、私でなくても本書の理解は骨が折れると思う。というのは、本書の登場人物はおびだたしく、またアレがあってコレがあって、その背景にはコレがあって…という事件や事情、付随する情報も大量に盛り込まれている。本書の価値はまさにそこにあって、通史では概説で済まされる応仁の乱を、一つひとつ丁寧に繙いて(しかも大量の史料を動員して!)いったことが玄人には評価されたのだろう。ところが私のような素人の場合、そのためにこそ本書は理解しがたい。本書は40万部を超えるヒットとなったそうだが、これほど難解な本がたくさんの人に読まれたというのは驚きである。

私が本書を手に取った理由は、応仁の乱の頃の興福寺に興味があったためである。本書は、マメな日記を書いていた興福寺の僧二人の視点で応仁の乱を語るものだからだ。

その二人とは、 『経覚私要抄』を書いた経覚と、『大乗院寺社雑事記』を書いた尋尊。彼らは当然ながら奈良にいた。応仁の乱は京を舞台にした乱なので奈良は少し遠いが、奈良(大和国)の動向も応仁の乱には関係しており、火種の一つでもあった。

興福寺の二大門跡寺院である一乗院と大乗院の下には多くの僧侶がいたが、そのうち下級の僧侶を「衆徒」という。そしてその上方が「六方」、下方が「官符衆徒(かんぷのしゅと)」といい、特に「官符衆徒」たちは、興福寺の膨大な荘園の荘官として実務に携わっていた。彼らは頭を丸めているだけで、実質は武士と変わりなかった。 また、春日神社の神人の「国民(こくみん)」も、実質的には武士(他国の「国人」)と同じだった。びっくりすることに興福寺は事実上の大和国の守護として扱われていた。

そして一乗院と大乗院はライバル関係にあり、激しい抗争を繰り広げていた。両門跡は武力を持つ衆徒や国民を味方に付けようと、競って恩賞(=土地)を与えた。結果、興福寺の荘園が衆徒・国民の手中に落ち、門跡による荘園支配が形骸化した。

そして衆徒・国民も、いくつかの派閥に分かれた。そして大和国では、親幕府的な一乗院方の筒井氏と反幕府的な大乗院方の越智氏との対立が軸となって紛争が起こっていた。なお大和といえば南朝・後南朝であるが、基本的に興福寺は幕府よりの立場である。

大和の紛争は、いわば興福寺の内輪もめなので、幕府にとっては介入したいものではなかった。だが、山城国守護の畠山満家は利害を有していたから、紛争に介入することを勧めた。これに応じた将軍足利義教は、一転して強硬な軍事介入を決定した。

しかしこの軍事介入は火に油を注ぐことになり、むしろ紛争が激化。なお、この戦いの中で筒井氏の僧侶(六方)である成身院光宣は幕府から筒井氏の総領と認められた。一方、興福寺の門主だった経覚は義教と不和になり罷免された。

しかし義教が暗殺されると、義教に冷や飯を食わされていた者たちが次々に復権し(特に畠山持国)、その勢いに乗って経覚は越智氏の力を借りて無理矢理門主に返り咲いた。 これにより、経覚は親越智、反筒井になった。こうなると、経覚と成身院光宣は対立せざるを得ない。そして幕府も越智氏寄りになり、光宣は幕府から討伐される側になった。こうして経覚(越智氏)と光宣(筒井氏)との一進一退の軍事行動が続いたが、持国に代わって細川勝元が管領に就任すると幕府の筒井氏討伐の意欲は減退した。この中で、興福寺の門主は尋尊へと移った。だがこれは平和的な委譲ではなく、軍事的な駆け引きの結果であったので、尋尊は門主として必要な引継を経覚から受けていなかった。

こんな中で畠山氏に後継者争いが起こる。新たに将軍になった足利義政は、優柔不断で状況に流されやすく、混乱に拍車がかかった。畠山氏は畠山義就(よしひろ)と政長に分裂。政長が管領になった。そして筒井氏と政長、越智氏と義就がそれぞれ結びついて抗争を誘発した。

さらに、実子のいなかった義政が弟(義視)を後継者に決めた後に、実子(のちの義尚)が誕生して、将軍権力を巡る事態も複雑化した。この頃の幕府には3つの政治勢力があり、それは(1)伊勢貞親を中心とする義政側近、(2)山名宗全をリーダーとする集団、(3)細川勝元をリーダーとする集団、であったが、この3つがせめぎ合うことで事態は二転三転し、どんどん混乱していった。

この状況で、山名宗全は畠山義就を利用した政権奪取を構想する。こうして文正元年(1466)、畠山義就は軍勢を率いて上洛し、千本釈迦堂に陣を構えた。その背後には山名宗全・斯波義廉がいた。対峙するのは管領の畠山政長。これを後援するのが細川勝元・京極持清である。このクーデターは短期的には成功し、畠山義就は政長に勝利した。ここで山名宗全は義就の勝利を確実にするために加勢したのだが、それが細川勝元を刺激。細川(東軍)・山名(西軍)の全面抗争に突入する。大和の内輪もめが雪だるま式に大きくなっていき、京都を舞台にした応仁の乱になったのだ。特に成身院光宣が政長を一貫して支援し、義就へ徹底抗戦したことは大きかった。「光宣が応仁の乱のキーマン(p.161)」である。

両軍の兵力は、東軍が16万騎、西軍が11万騎だという。西軍はクーデター勢力であり、幕府は当然ながら東軍寄りの立場である。義政は全面戦争を望んでいなかったが、一方の義視はめざましい軍功を立てようと張り切っていた。戦で名を上げて政権の基盤を作りたかったのだ。そのために停戦の努力は実を結ばなかった。そんな中で、大内政弘が3万人の大軍を引き連れて上洛。義政は両畠山を和睦させようとしていたが、もはや話は畠山の内紛では収まらない規模になっていた。

このような状況で、分が悪くなった足利義視は、あろうことか西軍に身を投じ、事実上、二人の将軍が併存することになった。西軍は幕府を模倣した政治機構を整えたので、これを「西幕府」という。これまで和睦の道を探ってきた義政も態度を一変させ、義視は「朝敵」となった。

応仁の乱は市街戦であった。陣は城砦化し、騎兵ではなく歩兵(足軽)が活躍するようになった。ゲリラ戦である。その背景には、都市の下層民が足軽となっていったという都市問題もある。

こうして京都が闘いの舞台となってしまったため、公家たちは各地に疎開した。特に奈良は興福寺の権威のおかげか戦場にならなかったため、尋尊の父・一条兼良らが疎開してきた。こうして興福寺の僧侶たちと摂関家の人々が交流したことは、文化的に意義があった。応仁の乱は11年も続いた大乱であるが、その間にも貴顕の人々は意外と豪遊している。

ここからの闘いの経過を記すのはやめておこう。というより私はあまり理解していない。重要な出来事のみ記す。(1)西軍の斯波義廉の下にいた朝倉孝景が東軍に寝返り、越前を平定した。これで京都への重要な補給路を東軍が押さえることになった。(2)南朝後胤の兄弟が蜂起し、西軍はそれを「南帝」として擁立した。彼らの素性は怪しく、西軍の中でも問題視されていた。(3)長引く戦いの中で、荘園からの年貢を確実に集めることが困難となり、荘園が有名無実化していった。(4)飢饉と軍事徴発による食糧不足の中、文明3年(1471)、京都では疱瘡が流行し、厭戦気分が高まった。

長引く戦いに士気は低下し、山名宗全と細川勝元はそれぞれ戦いの責任を取る形で隠居した。ここで、ちゃんとした終戦交渉が行われていればよかったものの、彼らは「政権を投げ出す形で辞任(p.187)」したため、「諸将は思い思いに戦闘を続け、大乱はだらだらと続いた(同)」。幕府の方では、義政が将軍職を義尚に譲ったこともあり、講和交渉を担ったのは義政の正室日野富子だった。

結果だけ述べれば、まず山名・細川の単独講和が実現。追って畠山義就、大内政弘らも次々に講和して陣を引き払った。義視(とその子義材(よしき))は同情的だった斎藤妙椿が引き取った。西軍はなし崩し的に解散。「11年にもわたる大乱は京都を焼け野原にしたただけで、一人の勝者も生まなかった(p.199)」。形式的には東軍が勝者ではあるが、その大将は隠居し、戦勝の成果もなかったのである。

なお、畠山義就の軍勢は河内に移動して、そこで大暴れした。大乱の続きである。ここで義政が朝廷に対し畠山義就治罰の綸旨を発給してもらっているが、この発給先が興味深い。東大寺・興福寺・金峯山・多武峰・高野山・根来寺・粉河寺の衆徒と伊勢国司北畠政郷(まささと)へ綸旨が出ているのである。これは、東軍がまだ京都に駐留しているため動かせず、朝廷の影響下にある寺社勢力と公家大名の軍事力を活用しようとしたのだという。

結局、畠山義就は河内を平定し「河内王国」を築いた。さらに義就の矛先は大和に向かった。その頃、筒井氏は越智氏・古市氏との抗争に敗れ没落していた。

乱後の室町幕府では、寺社本領返還政策が取られた。武家勢力が寺社から奪った領地を返還させるものであるが、これは結果的に幕府の勢力下の領地を増やすものであった。そして幕府の懸案「河内王国」であるが、これを討伐しようとした畠山政長は義就に押されていた。この局面を打開したのは、意外なことに武将ではなく、南山城の国人(地元武士)であった。彼らは「国一揆」を結成し、両畠山軍に撤退要求を突きつけ成功させた(「山城国一揆」)。 山城国の国人たちは自治を行い、その自治機関は「惣国」と呼ばれた。こうして義就は南山城を撤退し、それによって赦免された。ここに応仁の乱の戦後処理は終了した。

幕府の方では、義政が政権を投げ出す形で義尚に権力が集中し、幕府権力は一応は一本化した。しかし義尚は25歳にして死去してしまった。酒の飲み過ぎかもしれないという。そのため、次の将軍として足利義材に白羽の矢が立った。日野富子も義材を支持。富子の妹の子だったからである。義材の将軍就任は時間の問題となり、父である義視が幕府の実権を握った。応仁の乱は何だったのか、という展開だ。

ところが、日野富子と義視・義材親子は「小川殿の相続問題」を巡って急速に悪化。これは、元々細川勝元が所有していた邸宅「小川殿」が、義政の隠居所となって活用されていたのを、義政・義尚の死去に伴って細川政元に返還しようとしたところ辞退されたため、清晃(義政の兄の息子)に譲ったという問題である。一見、何の問題もないが、「小川殿」は今や「将軍御所」と認識されていた。これを将軍になってもおかしくない清晃に譲ることの意味は小さくない。この事件がきっかけで日野富子と義視・義材は敵対関係になったが、追って義材は将軍に就任した。

そして明応2年(1493)、足利義材は権力基盤の確立もあり、河内国へ畠山基家を平定しに出陣したところ、驚天動地の事態が起こった。「京都に残留していた細川政元が日野富子・伊勢定宗と示し合わせて挙兵し、清晃を将軍に擁立したのである(p.243)」。これを「明応の政変」という。これに多くの大名は靡き、義材は捉えられたものの逃亡。「二人の将軍」が並び立つ事態になり、これが一代では解決せず、常態化していくのである。

かつては応仁の乱が戦国時代の幕開けとなったと見なされてきたが、最近では明応の政変こそがその転換点になったというのが定説である。応仁の乱は政治的にも無意味な争いなのだ。

だが応仁の乱に歴史的な意味がなかったわけではない。応仁の乱がもたらしたのは、守護在京制の崩壊である。応仁の乱まで、守護は京都に居住していた。ところが応仁の乱で支配体制が弛緩することで、京都に居住していては年貢が進貢されなくなった。領国を実力で支配する必要が生じたのである。明応の政変で守護在京制は完全に崩壊。「京都中心の政治秩序は大きな転換を迫られ、地方の時代が始まるのである(p.261)」。

そして守護たちが領国に下ったことは、貴族たちも下向していくことを後押しした。貴族たちは京都で困窮したため、知己である守護たちを頼って地方へ向かったのである。これにより京都の文化が地方へ伝えられ、多様な文化が花開くことになった。

なお興福寺の領地大和国では混乱が続いたが、大永2年(1521)に筒井氏・越智氏ら四氏の盟約が結ばれようやく安定した。彼らが最初から抗争していなかったら、応仁の乱は全く違うものになっていただろう。いや、もしかしたら起こらなかったかもしれないのだ。

素人には通読が困難だが、応仁の乱を描き尽くした労作。

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2024年6月16日日曜日

『中世の神と仏(日本史リブレット32)』末木 文美士 著

中世の神仏の在り方を概説した本。

「長いあいだ、中世は仏教の時代だと考えられてきた(p.1)」 。そして神仏習合は、不純なものと見なされてきたのだという。しかし中世の神仏習合に、日本の宗教の原像を解明する鍵が潜んでいると著者は考える。本書は、「主として中世神道論の形成・展開という観点から、この問題に概括的な見通しをあたえることをめざして(p.2)」書かれたものである。

始めに、神仏習合論が簡単に振り返られる。本書は、2003年の出版であるが、神仏習合に関する基礎的な研究が出揃った段階で書かれており、非常にスマートなまとめである。著者は神仏は相互の補完関係にあったとして「神仏補完」の用語を与える。それは一種の緊張関係でもあり、神仏習合は神仏隔離と表裏一体だったとする。

次に「神道」の用語の初出を検証し、ドイツの研究者ネリー=ナウマンによる、神道は「中国的な帝政の観念を克服したうえで、きわめて政治的に形成された神帝政を意味する(p.10)」との学説を紹介している。平たく言うと、天皇の支配を正当化するために整備された神々や儀礼の大系が神道なのだ。それがいつ確立したかは、黒田俊雄による近世・近代説を斥け、中世の吉田兼倶あたりに措定している。

著者は「神道」の成立を2段階に分け、第1段階を7世紀後半から平安時代=神話と祭祀体系が形成された時代、第2段階を鎌倉・室町期=教義的な大系が形成され「神道」が自覚された時代、とする。そして著者は、この第2段階の形成が神仏習合をとおして行われたと考え、神仏習合理論を取り上げるのである。

第1に、山王をめぐる神道説が取り上げられる。「神仏習合をもっとも理論的に追求した(p.26)」のが山王神道および両部神道である。そして両部神道は未だ解明が遅れているとし、ここでは山王神道の思想が検討される。山王の神=比叡の神は最澄以前から祀られていたようだが、これが中世に神仏習合の枠組みに取り入れられる。

信頼できる文献として溯れるのが13世紀前半の『耀天記』。その原型に含まれず、のちに加えられた部分に「山王事」という記事があり、そこに教理的な面から本地垂迹説が記載されている。そこに『悲華経』が引かれ、また老子・孔子・顔回の元が菩薩だったという説が紹介されているのが興味深い。

中世の天台神道理論を担ったのは「記家」という比叡山の僧のグループ。彼らは記録の専門家であった。『山家要略記』と『渓嵐拾葉集』は記家の知の集大成ともいうべきものだ。記家で扱う記録には顕・密・戒・記の4種があり、百科全書的な性格があった。記録こそが究極の言説であると『渓嵐集』に明記されている。「記録成仏」という言葉もあるそうだ。

『渓嵐集』は14世紀の初め頃成立。『渓嵐集』の記録部では、叡山の歴史や地理が詳述される。仏教の理論とは別に、この種の記録を重視したのは、「普遍的な理論よりも個別的な事実を重視する発想法がある(p.39)」のだという。そして記録の重視は、偽書の横行さえも生み出した(最澄『三宝住持集』、円仁『三宝輔行記』等)。

『渓嵐集』では、山王の根源性が主張されており、「天台教学の根本概念が全て山王と結びつけられている(p.47)」。山王神道は本覚思想と密接に関係しているらしい。

『要略記』は断片的な記録を編集したもので、その中心は「厳神霊応章」。ここでは『耀天記』と違い、山王の七社を等しく重視しつつ、三という数字をキーナンバーにして山王の神々を位置づけている。身近なものに深い意味を与えるのは中世の典型的な思考である。

また、山王神を「月氏の霊山の地主明神」であるとか、金毘羅神であるとか、天台の鎮守明神であるといったように重層的な性格を与え、さらに小比叡(二宮)は国常立尊と一体化される。その法号は華台菩薩。こうして日吉の神を天地創造神話と結びつけた。さらに八王子が天照大神の8人の王子と同一視された。このように神々を結びつけて同一視することで、神々のネットワークを緊密化していった。

第2に、伊勢をめぐる神道説が取り上げられる。伊勢は仏教を排除したと思われているが、鎌倉初期の重源、後期の叡尊などは伊勢信仰を広めている。仏教と伊勢信仰、神道理論の形成には密接な関係がある。伊勢をめぐる神道理論には、両部神道と伊勢神道があるが、これも密接に関連して形成された。

伊勢神道は鎌倉時代後期に大きく発展し、特に「神道五部書」と言われる偽書(奈良時代にさかのぼるという触れ込みだが、実際には鎌倉時代にできた)の成立が画期となった。なお五部書が一括されるのは江戸時代になってからである。これらは外宮の立場を向上させる目的があり、「皇字論争」(「豊受皇太神宮」と名乗った問題)はその象徴だ。

両部神道は、密教の両部曼荼羅の発想に基づいて伊勢の内宮と外宮を説明しようとするもので、本地垂迹説が天台の教学に基づいているのに対して、両部神道は密教を基礎としている。ただ、山王神道=天台宗、両部神道=真言宗とはっきりと分けられるものではなく、伊勢神道とも密接に関連している。「従来両部神道といわれてきたものは非常に曖昧であり、山王神道のように性格がはっきりしていない(p.51)」。

そして、両部神道の文献はどういう人たちがつくったのか、実はよくわかっていない。近年は神宮の御厨にあった仙宮院が一つの拠点になっていたのではという学説がある。また修験者のグループが関与していたとも考えられており、仙宮院も天台宗寺門派の修験と深い関係があったようだ。修験者の関わりとの傍証は『大和葛城宝山記』に見られる。

これは、葛城山の縁起という形ではあるが伊勢との結びつきが強く、興味深いことに仏典にあるヒンドゥー教の世界創造神話が取り入れられている(『雑譬喩経』)。「仏教の理論では外的世界の形成に関する説が弱い(p.66)」ことがその背景にあると思われる。

中世神話では、個別の縁起のみならず、宇宙開闢など世界の根源に対する興味が強い。例えば第六天魔王もその一つであり、外宮の豊受大神を天御中主神と同一視したのも、単なる外宮地位向上ではなく、「そこから始まる神統譜の形成へ関心をうながし、(中略)根源神へと向かう志向(p.72)」がある。そして神に関する思弁は仏教の理論を借りながら展開した。

もう一つ注目されるのは、「心は乃ち神明の主たり」などという、心を重視する思想があることだ(『宝基本記』)。「心の問題は中世の本覚思想の中核に位置するものである(p.74)」。

第3に、神道理論の体系化について述べている。「中世の神道説は、鎌倉後期から南北朝期にかけて一気に体系化され(p.76)」た。この時代に山王神道では先述の『山家要略記』と『渓嵐拾葉集』、両部神道では『麗気記』がまとめられた。『麗気記』には関連する著作が付随しており、その中の 『天地麗気記府録』では、世界開闢から天地の成立へと体系的に述べられている。つまり神道が世界理論に成長していったのである。

なお、偽書ではあるが聖徳太子撰とされた『先代旧事本紀』(実際は平安時代成立)も仏教的な神典として重んぜられ、ここで述べられた天神七代・地神五代の説が定着した。

伊勢神道でも、度会家行により『類聚神祇本源』がまとめられた。これは15編におよぶ総合的な著述で、仏教書・中国古典・日本の史書等を抜粋・総合したもの。家行自身の説は最後の「神道玄義編」に述べられている。そこでは「機前を以て法と為し、行う所は清浄を以て先と為す」という注目すべき記載がある。天地開闢以前の根源を「機前(きぜん)」と名付けて重視したことは新しい考えである。そして、「その機前をいかす実践として清浄が重ん(p.82)」ぜられたのである。

一方、南北朝期には天皇の問題がクローズアップされ、北畠親房は家行の業績を受け、さらに国家論・政治論を含めたスケールの大きな理論を構築した。神道書としての主著である『元元集』では、家行の伊勢神道に天皇の系譜を繋いでいるところが重要だ。そしてそれが、神話と歴史が継続している神国、という日本の優越論に至ったのである。

親房ほど知られていないのが慈遍である。慈遍は、伊勢神道をもとにして、神道理論の枠組みの中で仏教を乗り越えるものとして神道を位置づけ、また天皇論に結びつけた。慈遍は卜部(吉田)家の出で、吉田兼好の弟。比叡山で天台教学を修め、後醍醐天皇に従って南朝につくしたとされる。著作としては、『旧事本紀玄義』(一部のみ現存)、『豊葦原神風和記』、『天地神祇審鎮要記』などがある。これらでも、神の方が世界の根源であるとし、『旧事本紀玄義』では根葉果実説(元は神国=日本、唐は枝葉、インドは果実だとする説)が見られ、また仏の方を神の垂迹とみる反本地垂迹説まで展開した。

こうした神道論を集大成したのが吉田兼倶である。彼は京都の吉田山に大元宮斎場所を建立、自らの神道を『唯一神道名法要集』にまとめて理論の確立をはかった。ここでは神道が本縁起神道・両部習合神道・元本宗源神道の3つに分類されて、より純粋なものとして自らの元本宗源神道を称揚した。さらに神々の系譜で天児屋命から卜部家に伝わっていくことを重視している一方、天皇論は影を潜めている。「親房・慈遍のあとでも、天皇論は必ずしも神道に必然的に結びついたものではなかった(p.93)」。

「こうして中世神道は兼俱によって、その自由な展開に終止符が打たれ、さまざまな問題は近世神道に引き継がれていくことに(p.94)」なった。

本書は全体として、大変緊密である。先述のように、本書には神仏習合に関する学説が大変コンパクトにまとめられており、さらに研究が俟たれる点が的確に示されている。その上で、神道説の展開を見通しよく述べ、これ以上ないほどの概説書だと言える。本書の後には、伊藤聡がより詳細な中世神道の研究をまとめるが、本書においても伊藤聡らの『神道(日本史小百科)』(従来の神道像を一変させた画期的な事典)を参照しているため、その研究は本書に大きく修正を迫るものではない。

なお、本書は「神と仏」をタイトルとしているが、専ら神道の側からの視点で著述されており、仏教の側については記載が手薄である。

神仏習合から神道理論が育っていたことを簡潔に示す、これ以上ないほどの概説書。 

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