2023年11月4日土曜日

『続・神々の体系―記紀神話の政治的背景』上山 春平 著

前著『神々の体系』を補完する本。

著者は『神々の体系』で、記紀―『古事記』『日本書紀』―が藤原氏専制体制の確立のための神話として編纂されたことを主張した。しかしそれはいわばアイデア段階のものとして提示され、論証はさほど丁寧ではなく、古代史家からの反論もあった。そこで本書では前著を補完し、改めてその政治的背景を考察している。

私自身、前著の記述はいまいち全体のつながりがよくわからないところがあった。特に著者が述べる神々の体系、

アメノミナカヌシ→
【高天の原】イザナギ→アマテラス→ニニギ
【根の国】イザナミ→スサノオ→オオクニヌシ
→イワレヒコ(神武天皇)

が、どのように藤原氏専制体制に結びつくのかが前著では不明確だと感じていたのである。本書では、この体系の中に藤原氏の奉ずる神がどう包摂されているのかがまず述べられる。

すなわち、藤原氏の祖先神であるアマノコヤネとタケミカヅチがニニギの天孫降臨で付き従った神として描かれ、しかも『日本書紀』では妙に大活躍していることが指摘される。藤原氏は元来は中臣氏で、藤原不比等の頃に”祭祀をつかさどる中臣氏”と”政治に携わる藤原氏”に改めて分かれた。この際、中臣氏=アマノコヤネ、藤原氏=タケミカヅチと祖先神が整理され、中臣氏と藤原氏の分業体制が確立したと著者は考える。

これは神祇官と太政官が並立することとも無関係ではないだろうという。さらには、『古事記』と『日本書紀』の二本立ては、記が古代豪族への配慮、紀が律令制原理の貫徹を意図するという目的を持ち、中臣氏と藤原氏の分業体制を反映して編纂されたものだというのである(これはやや強引な見方で、本書の後半で著者自身により少し修正されているが細かい話なので割愛する)。

次に、高天の原と根の国の対立と統合については、前著ではその意味があまり描かれていなかった(なお、本書では「タカマノハラ」「ネノクニ」とカタカナ表記になっている。表記を変えた理由は不明)。本書では、高天の原は律令制原理、根の国は氏姓制を象徴するものとし、根の国は「黄泉の国」がいつのまにかすり替えられて、社会的な死者の国に変貌したものであるとする。大王家に服属したものたちが根の国系、大王の仲間たちが高天の原系と整理されて、服属が天孫降臨によって正当化されたというのである。

さらに著者は、記紀編纂のリーダーが藤原不比等であったことや、記紀の編纂年代(6世紀か8世紀か。著者は8世紀説をとる)、天皇という称号の成立の意味についての論証をしているが、いずれも状況証拠の域を出ないものであると感じた。

ともかく、こうした考証を経て、著者は大化改新の際に「神祇革命」が起こったと主張する。その内容は、高い神格を持っていたオオナムチがオオクニヌシの別名とされて根の国に位置づけられる一方、三輪山の神が一豪族の神から国家最高神に生まれ変わって伊勢に祀られるなど、神体系の組み換えが行われたとするものである。

つまり伊勢神宮は、古代律令制の確立に伴って新しく創建されたものなのだ。しかるに伊勢神宮の神事を『皇大神宮儀式帳』(平安時代に書かれたもの)で見てみると、それは「唐文化の影響をもろにうけた天平文化のおもかげを鮮やかに伝えて(p.152)」おり、「伊勢の伝統的神事が、「国粋的」というよりはむしろ「国際的」な色彩を濃厚に帯びている(同)」。さらに著者は神宮の歴史を供犠や遷宮、宮司・祭主・禰宜などの制度の変遷を簡単に振り返り、そうしたものが藤原・中臣氏の影響があったことで整合的に理解できると主張している。

すなわち、律令国家の成立にあたって、国家の側は各地に残る神話や神々を国家的レベルで統合することを企図し、国家(と藤原氏)に都合の良いように体系化した。さらに三輪山の神を辺境の地である伊勢に祀って国家最高神とした。こうしたことが7世紀の後半に行われたというのである。

本書は全体として、状況証拠を積み重ねていく形で論考が進んでいくので、「そうかもしれないが、その確たる証拠はない」という主張が多い。特に記紀の編纂については、やや単純化して考察しているように感じた。例えば、それらが藤原不比等のリーダーシップでまとめられたにしても、なぜ記紀二本立てにされたのかということを、中臣・藤原分業体制に求めるのは少し強引な気がした。そこには定量的・言語学的な分析が何もないためである。

「神祇革命」についても、仮に著者が主張する神話・神統譜の組み換えがあったとしても、それを藤原不比等の作為と比定しうるだけの根拠はなく、単に「天皇家の支配を正当化するため」で十分に説明できるように思う。

一方、そうした欠点を挙げることはできるが、それまでにない視点で神話の構造を考究したという点では、本書は大きな価値を持っている。また「神祇革命」自体については、その眼目が藤原不比等の企みではなかったにせよ、かなり確からしい説であると思われ、面白く読んだ。伊勢神宮の歴史についてはさらに調べてみたいと思う。

記紀神話を新たな視点で読み解いた先駆的な著作。

【関連書籍の読書メモ】
『神々の体系—深層文化の試掘』上山 春平 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/10/blog-post_30.html
日本神話編集の背景を推測する本。藤原氏独占体制と日本神話との関係を探った重要な本。

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2023年10月30日月曜日

『神々の体系—深層文化の試掘』上山 春平 著

日本神話編集の背景を推測する本。

著者は、『古事記』と『日本書紀』の神話、特に『古事記』の神話に登場する神々が、整然とした体系を持っていることに気付いた。それは、

アメノミナカヌシ→
【高天の原】イザナギ→アマテラス→ニニギ
【根の国】イザナミ→スサノオ→オオクニヌシ
→イワレヒコ(神武天皇)

という、高天の原系と根の国系が対応し、イワレヒコで統合されるというものである。それは自然に成立したものというより、何らかのイデオロギーなり国家哲学があったのではないか、と著者は推測する。

では、その背景に何があったか。津田左右吉は大正時代に「記紀は天皇家の支配体制の正当化を神話によって表現したものだ」という説を唱え、それが無批判に受け入れられてきたが、著者の考えは、記紀の編纂は藤原不比等が中心になって行われたもので、記紀は藤原家支配の正当化のためになされた、というものだ。

周知のように藤原家は、大化改新で政権奪取の立役者となった中臣鎌足から政権の重臣となった新興家系である。その頃は「氏姓(うじかばね)制度」で、基本的に家格と役職が定められており、ある意味では江戸時代の身分制度に似ていた。だが藤原氏は新興家系であるため、氏姓制度での後ろ盾がない。そこで鎌足の子、藤原不比等は、平城京への遷都と律令制によって法治国家の体裁を整え、氏姓制度に風穴を開けたのだ……と著者は考える。

そして、記紀が完成したのが、どちらも不比等が権力の絶頂にあった頃であることを考えると、記紀の編集には不比等の意向が反映していたに違いないという。というのは、記紀は元明女帝の頃に完成しているが、元明を擁立したのは他ならぬ不比等である(と著者は考える)からだ。

元明は天智の子、天武の子(草壁)の妻であり、文武の母である。文武の妻(宮子)が不比等の子で、その子が聖武である。重要なことは、不比等にとって天皇家との縁戚関係開始がこの宮子と聖武にあったということだ。だから文武が僅か28歳で死去してしまった時、不比等としては是が非でも次期天皇は聖武(当時は首皇子。不比等の孫)に継がせたかった。そのためには中継ぎとして文武の母=元明を担ぎ出す必要があった。そして元明→聖武という祖母→孫へという権力継承を企図したのである。

これが、アマテラス→ニニギという祖母→孫継承の母型として表現されている、と著者は考える。また、神話の登場人物は当時の権力者になぞらえられているとされ、例えば不比等はタカミムスビに当たるという。さらに、皇統の父系相承の継承原理「不改常典(あらたむまじきつねののり)」は初めて元明の宣命によって出されており、聖武への継承を絶対のものにするために導入されたものだという。

では、これらの証拠はあるのだろうか。著者は2つの和歌を手がかりにする。第1が「ますらをの 鞆の音すなり もののふの(物部の) 大臣(おほまへつぎみ) 楯立つらしも」という元明天皇の歌。第2が著者が元明天皇の歌と比定する「飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ」という歌である。説明は省くが、これらは強引に即位させられ、平城京へ遷都させられた元明天皇のそこはかとない無力感が表現されているという。

しかしながら、著者は最初の神々の体系が、どう藤原氏独占体制に繋がっているのかをしっかりと説明していないように見受けられ、本書はアイデアの提示だけで終わっているような感じを受けた。実際、本書が発表されるや、多くの古代史家がこれに反応して批判した。

著者の専門は哲学で、日本古代史は専門ではなかったのだが、それまでの通説を違った角度から否定し、生き生きとした新説を提示したことで、本書はかなり大きなインパクトを与えることになった。この頃は学際的な雰囲気があって、梅原猛や梅棹忠夫らと共同して日本史や日本文化論を考察したことは、新たな「日本学」を作った。

とはいえ、本書は著者自身も認めるように不完全なものであり、『続・神々の体系』でそれが補完されることになる。

藤原氏独占体制と日本神話との関係を探った重要な本。

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2023年10月16日月曜日

『女帝と道鏡—天平末葉の政治と文化』北山 茂夫 著

孝謙/称徳天皇と道鏡について、天平末期の政治状況から述べる本。

女帝・称徳天皇は病気を治してくれた道鏡を重用し、遂には道鏡を天皇として即位させようとした。しかし、宇佐八幡宮からの神託は「天皇は皇緒をつけよ」という道鏡の即位を否定するものだったため、その野望は果たせなかった。天皇の地位を皇子でないものが狙った、日本史において唯一の事件である。

本書は、天平末期の政治状況からこの事件を位置づけようとするものであるが、私はどうも内容に没入することができなかった。

というのは第1に、本書には一次史料に基づかずに筆を走らせている部分が非常に多い。最も重要な女帝と道鏡の関係については「情事」をたびたび述べているが、当然ながら一次史料には女帝と道鏡が情事を持ったことは書かれていない。よって「情事があったのではないかと考えられる」とすべきである。他の点でも、著者は通説を批判することなく用いている箇所が散見される。

第2に、出典が明記されず、史料批判が一切行われていない。道鏡関係については、『続日本紀』と『八幡宇佐宮御託宣集』(に収録されている史料)が、主な典拠史料になるかと思うが、本書にはいちいち出典が明記されていないので、どの史料に基づいて記述しているのかわからない。そして、『続日本紀』にしろ『御託宣集』にしろ、そしてその他の史料にしても、史料は何らかの意図を持って作られており、使用に当たってはその意図を吟味することが求められる。本書はそうした作業を経ずに書かれている。

第3に、後半はやや舌足らずな部分があるように見受けられる。本書では宇佐八幡宮神託事件における和気清麻呂の行動はかなり簡略化して述べているが、その後の考察では前に述べていない事実に基づいているなど、書き忘れたのではないか? という箇所がたびたびあった。新書版あとがきによれば、本書は一月ほどで書いたものだそうなので、足りない記載がいくつかあったのかもしれない。

このように、本書は一言でいって脇が甘く、現在の歴史学の水準から見ると緻密さに欠けるように思う。

ただし、女帝と道鏡を天平末期の政治状況に位置づけるという目的は、ほぼ達成されている。また、彼らの政治は仏教政治といわれるが、実際の政策には仏教はそれほど影響を与えておらず、むしろ唐風の統治機構を取り入れるなど、唐風政治の側面が大きい、という著者の主張には蒙を啓かれた。

そして、女帝と道鏡の歴史的意味については、その蹉跌によって国家仏教が終わった、という点が強調されている。これは通説の範囲であろうが、改めて言われてみるとその通りだと思った。

通説を無批判に用いているため迫力はないが、称徳天皇・道鏡の時代について見通しよく述べる平明な本。

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2023年10月13日金曜日

『暗殺の幕末維新史—桜田門外の変から大久保利通暗殺まで』一坂 太郎 著

幕末明治における暗殺を述べる本。

幕末には実に多くの暗殺や暗殺未遂事件が横行した。その数は百件を超す。また維新後も、数は減ったものの暗殺は続いた。本書は、そうした事件をほぼ時系列的に列挙して幕末維新の歴史を述べる「闇の維新史」である。

そのように暗殺が頻発したのは、日本史の中でも幕末しかない。それには天皇の存在が関わっていた。自らの考える「正義」が天皇に仮託され、「叡慮」を覆う奸臣、宸襟を悩ませる逆徒を誅することが「尊王」であると信じ、殺人をなんとも思わなくなってしまったのだ。

攘夷を叫ぶ人々が最初の標的にしたのは外国人だった。攘夷家たちは外国人によって神国が「汚される」と考えたのである。外国人暗殺事件の第一号は、安政6年(1859年)に、ロシア艦隊の水夫と海軍少尉が殺害されたものである。犯人は水戸の天狗党のひとりである。ハリスの秘書兼通訳のヘンリー・ヒュースケンも暗殺された。しかも犯人は捕らえられていない。イギリスが公館をおいた東禅寺は二度も襲撃を受けた。

開国に踏み切った井伊直弼が白昼堂々殺害された際にも、斬奸状には「実に神州古来の武威を穢し、国体を辱しめ」と非難されている。東禅寺襲撃犯の一人も「夷狄の為に穢れ候を傍観致し候に忍びず」云々という書を持っていた。外国人への反感が、「神国を穢す夷狄」という図式で正当化されていた。

しかし「文久2年(1862)以降は神国思想による狂信的なテロは少なくなり、政治的なパフォーマンスとしてのテロが主流になる(p.45)」。しかも確固たる理由があったのではなく、噂を真に受けて簡単に人を殺している場合が多い。国学者の鈴木重胤が暗殺されたのは廃帝の調査をしているという噂のためだった。暗殺者たちは、要路にある人物を殺害することで卑賤の身にすぎぬ者が政策決定に影響を与えるという誘惑に勝てなかったのである。

そういう殺害はやがて「天誅」と呼ばれるようになる。天誅第一号とみなせるのは、関白九条久忠の家士島田左近(文久2年)の殺害。犯人は薩摩藩の田中新兵衛であるが、裏には藤井良節らがいた。薩摩藩は過激な攘夷派を粛清した寺田屋によって評判を落としており、その人気を取り戻すためという側面もあったようだ。島田の首は青竹に突き刺されて鴨川の河原にさらされ、斬奸状には井伊直弼のブレーンだった長野主膳を批判しつつ、それと同調した島田を「天地に容れざるべき大奸賊也。これにより誅戮を加へ梟首せしむ者也」と述べてあった。グロテスクな見世物は大評判になり、人心を無視しえなかった彦根藩は長野主膳を斬罪に処している。天に代わって人を討つとは随分不遜な殺人があったものだ。

なお、田中新兵衛は後に土佐の武市半平太と意気投合。武市は「派手な暗殺で土佐の存在を京都じゅうにアピールしようとし(p.65)」ており、二人は京都に血の雨を降らせた。同じく土佐の岡田以蔵は、多くの大衆作品で描かれ人気があるが、彼は「殺人をゲーム感覚で楽しんでいた(p.71)」。桜田門外や坂下門外の浪士たちとは違い、岡田たちは「天誅」を大義に、「抵抗できない者をなぶり殺しにするサディスティックな快感に酔いしれながら、それを正義と信じていた(p.72)」。

治安を守るべき幕府の役人も標的になり、4人の首が処刑場にさらされた。これには薩長土と久留米藩の「志士」が関わっているという。町奉行所は報復を恐れて及び腰で、大抵の暗殺犯は捕らえられずに済んだ。治安が崩壊していたのである。

このように、文久2年は暗殺の年ともいうべき年であった。しかし高官を直撃するのはテロリストとしてもリスクが大きい。脅して黙らせるのが目的なら高官自身を狙う必要はなく、周囲の人物で十分だ。

文久3年(1863)、儒者の池内大学が殺され、その耳が三条実愛と中山忠能の屋敷に投げ込まれた。震え上がった二人は直ちに議奏を辞職した。岩倉具視や千種(ちぐさ)家も標的になった。先ほどの島田左近もそうだが、幕府側だけでなく朝廷側もかなり暗殺の被害を被っている。ちなみに公家自身が暗殺された最初は、攘夷公卿として知られた姉小路公知。過激な攘夷から態度を軟化させつつあった矢先の出来事であった。攘夷派は、国論が開国でまとまろうとするたびに暗殺でそれを妨害した。

こうした状況を受けて、会津藩主の松平容保(かたもり)は、暗殺が繰り返されるのは上下の事情が隔たり過ぎているからだとして、「言路洞開」が必要だとした。「言路洞開」はこの頃盛んに言われるようになっていた。容保はテロを取り締まるのではなく(というより町奉行所の取り締まりが期待できないので)、浪士たちを組織化して統率しようとし、その構想は後に「新撰組」として実現。奉行所と違って断固として治安維持を行ったので市民からの信頼を得た。

なお暗殺をしたのは浪士ばかりではない。例えば攘夷派の清河八郎は、新選組の母体の浪士組(芹沢鴨と近藤勇をそれぞれ中心とした2グループ)と朝廷を結び付けようとしたため、危険を感じた幕府によって暗殺された。また会津藩も、有栖川家に近づき宮家の警護を申し出た芹沢鴨を近藤グループに暗殺させている。

長州藩では、旗本の幕府からの親書を持ってきた中根市之丞が暗殺された。奇兵隊は中根が乗ってきた重陽丸を奪った上、藩がその返還を命じたのに返さず、ついには暗殺したのである。長州藩自身が奇兵隊に振り回されていた。この幕使暗殺という暴挙は、後に長州征討の理由にもなった。

孝明天皇が開国を勅許すると、「叡慮は攘夷にあり」と息巻いていた暗殺者たちは大義名分を失う。暗殺者たちは天皇の意を体しているつもりでいたが、孝明天皇は暗殺のような手段を憎んでおり、暗殺の横行は意に沿わぬものであったことは言うまでもない。

しかしその後も暗殺は続き、佐久間象山(開国を説いた)、中山忠光(攘夷公卿で長州藩に逃れたが、長州藩にとってはやっかいな存在)、イギリス陸軍の少佐と中尉、真木和泉の四男菊四郎、原市之進(徳川慶喜側近)、赤松小三郎(洋学者、薩摩藩に門人が多かった)、坂本龍馬、中岡慎太郎、伊藤甲子太郎(元新選組幹部、新選組に殺された)など、いろいろな立場の人物が次々と凶刃に斃れている。

幕末後期にあっては、暗殺はもはや異常なものではなくなり、各陣営にとっていともたやすく実行されるものになっていたといえる。攘夷・開国・幕府・藩・浪士など、主義主張や立場を異にする者たちが暗殺を使っていた。だが意外なのは、この時の最高権力者(天皇・将軍)が暗殺を用いた形跡がないことだ。下々の者は暗殺に狂っていたが、最高権力者の方は冷静だったのだろうか。

明治維新が起きると、明治元年(1868)1月に早速政府は暗殺を禁止した(暗殺禁止令)。そして暗殺が横行したのは「言路洞開」のルールがなかったからだとして、形の上では公然と意見を言えるようにした。それでも暗殺事件は絶えなかった。ここで本書では、明治11年までの代表的な暗殺事件について述べてその背景を探っている。

それを大雑把に述べれば、明治の暗殺者たちは「維新に乗り遅れたものたち」で、開国にかじを切った新政府を憎んで開化政策に反対していた。彼らは「維新」に裏切られたと思っていた。しかし幕末と違ったのは、そうした事件を起こした者たちが政府によってちゃんと裁かれたということだ。結局は、幕末に暗殺が横行したのは幕府の治安維持体制の弛緩による部分が大きい。

本書は最後に、暗殺されたもの・暗殺したものに対する顕彰運動について述べている。例えば明治40年、旧彦根藩の旧臣たちは井伊直弼の顕彰(銅像の建設)に乗り出した。ところが政府の元老たちは「井伊直弼は志士を弾圧した本人。顕彰などけしからぬ」と横槍を入れ、彼らに対抗して井伊を暗殺した浪士たちを「烈士」として礼讃。「桜田烈士五十年祭」を靖国神社で挙行した(主催はやまと新聞)。誰を顕彰し、誰を顕彰しないか、それは社会や政府の様々な思惑が働いていた。反幕側では、暗殺者は靖国神社に祀られ、官位の追贈を受けたものが多い。しかし全くそういう顕彰がなされなかったものもいる(例えば岡田以蔵)。

本書は、暗殺というテロ行為を主役にして幕末維新史を述べるものであるが、一言でいって、幕末の志士たち、少なくともその一部は狂っていた。天下国家を論じる大言壮語に気焔を上げながら、同時に人を殺すことをなんとも思っていなかった。それどころか、暗殺によって名を上げるために殺害に適当な人物がいないか探していた。武市半平太の門人の田中光顕は、京に上がって「さて誰を殺そう」と考えたというが、これなどはテロリストであるよりも、むしろ単なる殺人者であった。彼らは、芸者を侍らせ、一廉の人物として怖れられることを望んでいただけのならず者であった。

伊藤博文も噂話で人の命を簡単に奪い、しかもそれを終生反省していなかったらしい。正義が自分の側にあると信じて疑わなかったからだろうか。それとも、維新の過程は一種の「戦争」だったからだろうか。最近はあまり言われないが、明治維新は「無血革命」であったとされることがある。しかし多くの血が流されたことは間違いない。

明治維新の血塗られた側面を平易に語る良書。

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2023年10月7日土曜日

『江戸の幽明―東京境界めぐり』荒俣 宏 著

荒俣宏が語る江戸の田舎めぐりの本。

本書は、「朱引のうちそと」を荒俣宏が歩き、江戸時代そこはどういうところだったか、どのような変遷があったか、見どころはどこかなどを自分史に絡めて語る本である。

では「朱引のうちそと」とは何か。江戸時代には、江戸は府内と郡部(郊外)が分かれていた。その境界は時代により変わって一定しておらず、しかも明快さを欠いていたが、江戸時代後期になってようやく境界が定められた。その地図を「朱引図」といい、府内が朱線で囲まれていた。だいたい四里四方の範囲であり、これは旗本が外出届不要で江戸郊外へ外出できる範囲でもあった。この範囲内がいわゆる「江戸」であり、大江戸八百八町などという「町」はこの内側にある。最も多い時で1700もの町があり、人口100万人を超える当時世界最大の都市であった。

では府内と郡部は何が違うか。要は、郡部は各地の代官が支配していた、ということが一番大きな違いのようだ。では府内は全て町奉行の管轄だったかというとそうでもなく、寺社奉行の管轄する場所(寺社地)や勘定奉行の管轄する場所もあった。そして町奉行が独占的に支配している地域が朱引の中にあり、これは黒線で表したため「墨引」の名がある。

ところが朱引の外に墨引がはみ出した地域がある。これは、江戸府内ではないが町奉行が管轄した地域で、具体的には目黒にあたる。目黒は森と山ばかりの地域であったが目黒不動周辺は門前町として栄え(他にも名刹が10以上あった)、そこに不法滞在する人が多かったので町奉行の管理を要したためと考えられる。

つまり江戸は、都市計画的に作られた境界のある都市ではなかった。徐々に町が拡大し、郊外との間に「朱引のうちそと」がまじりあう領域を持った膨張する都市だったのである。本書は、そうした境界部をめぐることで、江戸の周辺的話題を盛り込んだ本なのである。

しかしながら、江戸に都市計画がなかったわけではもちろんない。特に上水と水路(運河)については入念に整備されており、中心から放射状に延びる陸路と、環状または同心円状に造られた水路という二重構造が江戸をダイナミックに発展させた。

本書は約500ページあり、本書に描かれた江戸=東京は多様であるが、心に残った項目だけをメモしておく。郊外都市を人工的に生み出した田園調布、明治神宮のS字型に曲げられた参道、井上円了がつくった中野の「哲学堂」、明治の末まで「文化果てる地」だった田端文士村(芥川龍之介の居宅があった)、深川の八幡祭りの巨大かつ豪華な神輿(重量4.5トン、佐川急便の社主佐川清の奉納。鳳凰の胸には7カラットのダイヤモンド! 大きすぎて使えない)、馬込文士村(尾崎士郎、川端康成など)、銀座大火をきっかけにして築地から銀座へと繁華街は移ったこと、など。

ちなみに、著者が「本書は、私が刊行した書物のうちで、もっとも私的な要素を盛り込んだ本になったのではないだろうか(p.503 )」という通り、個人的な回想や私的な関連事項の記載が多く、これはこれで面白い。特に著者が力を入れて書いているのは著者の文学上の師匠である平井呈一についてで、平井が永井荷風から絶縁されて後のことなど、本書の主題からは逸れるのだが興味深く読んだ。

また、上述の田端文士村や馬込文士村だけでなく、文学とのかかわりがたくさん書かれているのも本書の特徴である。それで感じたのは、近代文学は文士たちの「お隣さん意識」に支えられて勃興したということだ。彼らはバラバラな個人だったのではなく、しばしば近所に住み、文学的な議論はもちろんのこと、奥さん同士が助け合ったり、困ったときに金を貸しあったりしながら作品を書いていた。新しい芸術を生み出すには、そういう「密度」が必要だとつくづく思った。

江戸の残照を感じつつ、いろんな話題を気軽に読める肩の凝らない本。

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2023年9月30日土曜日

『近世の解体(日本史講座 第7巻)』歴史学研究会・日本史研究会 編

歴史学研究会・日本史研究会の第4次の講座の第7巻。近代の国民国家の形成過程を述べる論文集。

「近世の解体」というタイトルからは明治維新後を思い浮かべる人も多いだろうが、本書に収録された論文のほとんどは近世は内部から解体していったという立場に立ち、その解体過程を述べている。

1 18-19世紀転換期の日本と世界」(横川 伊徳)では、幕府の置かれた対外的状況が概観される。従来、幕府では貿易統制を行ってきたが、外国船が来港して直接の通商を求められるようになり貿易統制政策が変化。貿易の緩和を志向した。そして自然発生的に発展してきた蘭学を体制内に取り込む(文化8年、蕃書和解御用の設置)とともに、軍備が強化された。

2 伝統都市の終焉」(吉田 伸之)では、江戸時代後期の幕府の商業政策を述べる。元禄7年(1694)、江戸では「十仲間」が結成された。これは江戸の代表的な商人の組合である。享保6年(1721)、幕府は商売人の組織化を目論見、多業種で組合を作らせた。幕府はこの組合を通じて、相場を報告させたり、販売数量を把握したりした(十仲間・十二品問屋体制)。文化度になるとこうした組合はあらゆる業種に拡大し、総額1万200両の冥加金の上納を対価に〆株として株仲間数を限定し、いわば公認カルテルのような体制を構築した。ところが天保12年(1841)、幕府は逆にこれら株仲間の解散を命じる。株仲間体制が物価の高騰を招いているとして、カルテル体制を厳禁して自由競争に転換したのである。ところが市場は混乱し、自由競争にしても物価は下がらなかった。そこで約10年後の嘉永4年、諸問屋が「古復」されて組合を以前のように再興させた。ただし冥加金はなく株札を幕府から交付もしなかった。本章は、近世の解体というよりは、幕府の商業政策の混乱・迷走を描いている。

「3 地域社会の成立と展開」(奥村 弘)では、身分制の解体について研究史を振り返りながら述べている。近世身分制の解体に新しい視座をもたらしたのが朝尾直弘の「身分的中間層論」である(庶民の上層が領主の御用を請けることで地域財政システムの一部を担い、中間層として成立していくこと)。一方、かわたもの(穢多)がその職能を物権化させ、また職能化していったことによる身分上昇も見逃せない。この二つはその力学は違っていたが、それまでの身分・職能・格式が一体化したあり方を崩すものとして共通していた。しかし幕府はそうした動きと同時に身分制の強化も図った。それにより、身分が曖昧になっていくのではなく、一見「新たな身分」が作り出されていくような形となった。明治維新が起こると、明治政府は職能と身分の分離を図り、身分を解体する方向となった。さらに廃藩前(明治3年〜)には、統治身分としての武士を解体していく。この頃は、賤民解放令に代表されるように、身分を解体するのではなくて、「身分的なものを認めない」という形に変わった。現実を認めてそれを変えようとするのではなく、非身分的な社会の仕組みを規定して、そこから逸脱したものを取り締まっていくというやり方に変わったのである。

「4 近世的物流構造の解体」(斎藤 善之)では、近世後期に発達した新興海運勢力について述べる。近世初期には、近江商人など幕藩権力や領主に保護された存在が海運を担ったが、天明の飢饉を契機として、農民的商品経済を担う新しい海運勢力が勃興した。北前船、奥州廻船、尾州廻船がその代表であり、この3つで全国の海岸をきれいに三分割してカバーした。これらの新興海運勢力の特徴としては、運賃積ではなく買積であり、市場競争原理が優越していたこと、魚肥など農民向けの商品を積んだことである。彼らの活動によって幕藩制流通機構が解体させられ、近代国民市場が内側から形成された。

5 明治維新と近世身分制の解体」(横山 百合子)では、近世後期と明治維新後における身分制の解体を述べる。なお、私はもともとこの論文を読みたくて本書を手に取った。なのでやや詳細にメモする。最初に、朝尾直弘の「身分的中間層論」と塚田 孝の「身分的周縁論」による諸身分の形成という2つの学説が批判的に紹介される。朝尾は武士と農民・町人の身分の流動化により中間層が生まれて身分制が解体したという見地で、大雑把にいえば身分が曖昧化していったという見方である。一方塚田は、社会的分業の進展によって諸集団が生まれ、その諸集団が公的認知を得て身分を形成し、新しい身分が複雑大量に存在したことで収拾がつかなくなって身分が形無しになっていったという見方。本章はこの2つの見方を接続するような形で身分制の解体を述べている。

まず、近世には身分と御用(職能・職分)が次第に分離していった。これは、御用を申し付ける集団が身分上昇を求めた結果、名字帯刀などの権利を得ることで、幕府としても身分と職能・職分は別物だという整理にならざるをえなかったからである。そして、身分と分離されたことで、こんどは職分が身分化するようになってくる。

例えば、ある種の職分にある者たち(例として下金買・屑金吹が挙げられている)は、支配系列を町人ではなく金座附にするよう求め認められた。「支配」とは、(本章には述べられないが)町奉行とか寺社奉行とか、私領主といった、要するに領域的支配権を持った者たちであるが、彼らは職分を盾に町奉行の支配を離れて、金座―勘定所支配系列に入ったのである。こういうことは多くの職分で発生した。だがこれは、町が身分的共同体であることをやめたわけではなく、むしろ町が身分的共同体であるという前提があったからこそ、その支配から脱したのである。

職分と身分が分離していったことは、当然、同じ業種に身分の異なる者(例えば町人と武士)が従事するということも多くなってくる。そして職分が身分化したということは、従前の身分が無意味化していったということでもある。このあたりが非常にややこしい。そもそも身分とは何なのか。身分は職分と結びついて成立した概念であったが、身分が職分と分離した結果、身分集団の固有の政治的性格が弱まり、身分が階梯序列という意味合いになっていくのである。

職分と身分の分離を象徴するのが、慶応4年、エタ・非人を統括する弾左衛門に対して縦隊取建の功を賞して「身分平人」としたことだ。弾座衛門はエタ・非人だからこそ、その身分集団を統括していたはずなのだが、身分集団を統括する、という職分に対して「平人」とする処置がとられた。このように、幕末における身分をめぐる状況はななり複雑なものになっていた。

明治維新後、政府はむしろ身分政策については揺り戻しの方向になる。明治元年に百姓地・町人地の所持は百姓・町人に限るという措置を行い、また東京では武士地・町人地を峻別するなど土地の身分的性格を再び明確にした。そして同年11月には京都府士籍法・卒籍法・社寺籍法の全国適用によって身分の確定と再編を進めた。しかしながら、武士身分を戸籍によって把握することは非常に難しかった。町人地に混在していた脱藩士や無籍者もいたし、支配の系列がいろいろだったからだ。そこで政府は武士地・町人地・社寺地の区別なく府下を取締六大区四七小区に区分して(元来は府兵制の区)、明治2年11月、この区を基に士族籍・卒籍を編成することにした。支配ごとではなくて、属地的に再編成するための「新しい身分」が士族・卒であったということになる。

また明治2年8月公布の東京府戸籍編成法は、弾左衛門傘下のエタ・非人以外の多様な周縁的身分(梓神子、町医師、検校、勾当、角力など)を市籍に統合し、結果としてエタ・非人(賤民)が峻別されることになった。市籍は、多様な人々を属地的かつ戸主を基準にして編成するものであり、従来の擬制的な「家」「店」を単位とする把握とは違った原理に基づいていた。そしてその形式主義が貫徹された結果、男性尊属中心主義が確立していった。

さらに明治4年には戸籍法が公布。これは住居地編成主義によって、全ての人を属地主義によって把握するもので、戸籍編成原理としては従前の身分はなくなった。住居地編成主義は治安維持を目的として採用されたものであることは疑いがない。つまり身分を否定する目的はなく、むしろ行政は身分制(少なくともそれまでの社会の仕組み)の存続を前提としていた。しかし「属地主義による住民把握」と「身分組織に依存する行政」は非効率的で、「一ツノ人民ニ二ツノ触頭」という状態に陥り、東京府は士卒・寺社触頭廃止を弁官に上申した。明治4年12月、「政府と東京府は、武士地・町地・寺社地の区別を撤廃して空間の身分的性格を否定し(p.160)」身分制が解体していったのである。身分制の解体の主眼は国民国家創出のために四民平等を進めた、というような話ではないのである。

6 移行期の民衆運動」(久留島 浩)では、百姓一揆の変質を述べる。百姓一揆は無秩序な暴動ではなく、村役人によって組織され一定の決まりに則った民衆運動である。また広域における合法的嘆願運動である国訴は近世の民間社会の到達点である。こうしたものが天保期から変質し、一揆の作法からの逸脱行為が目立つようになってくる。村はそうした逸脱行為を懸念し、それまでの一揆の作法を改めて自覚するようになるとともに、逸脱層である青年たちを村に改めて取り込もうとした。地誌の編纂は村の自覚を促すものとして機能したという。維新後は、国家に対決しつつも下からの国民形成に寄与した自由民権運動によって民主主義的思想は回収されていった。

7 文化の大衆化」(神田 由築)は、近世の大衆芸能の変質について述べる。特に家元制をとらなかった浄瑠璃を題材として、興行を成立させる「場」と浄瑠璃の業界団体(因(ちなみ)講)、素人とプロ、侠客との関係など、様々な面から検証している。しかし私は芸能については疎いため、あまり理解できなかった。ただし、芸能関係では親子ではなく師匠―弟子という文脈が重要だったことや(身分制と違う点)、近世的な芸能は素人も参画したものであったが、近代には文化の「消費者」としての大衆が現れてきたという指摘にはハッとさせられた。

8 産業の伝統と革新」(谷本 雅之)は、産業の近代化について述べる。産業の近代化というと、工業制手工業の発達、すなわち資本と労働の集積が想起されるが、日本の近世では、生産設備の大規模化や高度化を伴わない産業の近代化があった。本章では綿織物産業を例にとり、様々な面の展開を述べている。それを約すれば、農家の副業を主体とした労働を問屋制が統合し、流通面での組織化が図られたこと、決済手段が現金取引から信用決済に移行し、金融の発達を催したこと、また輸入綿糸が活用されたことにより、問屋制家内工業が成立したのだという(これを「在来型経済発展」といっている)。器械製糸工場によってアメリカ向け輸出品が作られた工場制工業化の流れもあった(長野県諏訪郡の例)が、維新後も「在来型経済発展」は、民間経済の枢要な部分を占め続けた。

9 蝦夷地・琉球の「近代」」(岩崎 奈緒子)は、近世においては体制外にあった蝦夷地・琉球が国内に取り込まれた過程を述べている。蝦夷地の場合は、それが取り込まれたのは明らかにロシアの脅威への対抗措置であった。蝦夷地警衛が実現するのが寛政11年である。これから松前藩への復領(警備費用の負担が大きかったため)、そして幕末の再直轄へと変化する。そして再直轄後には、明確に開拓の方向性が打ち出された。一方、琉球の場合は清との関係があってより複雑だ。幕府や薩摩藩は琉球へも外圧が来ていることに危機感を抱いたが、表向きには琉球は清に服属していたために現状を積極的に変更することはなかった。ところがアヘン戦争などで清の国力に対する疑義が生まれると、琉球は日本に従属しているとする立場へと転換し、維新後、台湾出兵を契機に日本の琉球支配を認めさせた。

10 明治維新論」(羽賀 祥二)では、明治維新の経過を理念的に捉えなおしている。特に「大政奉還、版籍奉還、藩政奉還(武器・兵員・城郭の奉還)、家禄奉還と続く、奉還運動を通じて天皇を元首とする主権国家は創出されていった(p.325)」ことを述べている。本論はいわゆる大所高所からの議論、といったものでここに要約することができないが、私が注目していた2つの史料が取り上げられていたのでメモしておく。一つは幕末に陸軍総裁の松平乗謨(のりかた)の「病夫譫語」(版籍奉還と酷似した主張)、もう一つは民部省の杉浦譲が立案した「戸籍法原稿」で、戸籍法の理念が復古思想によって基づいて主張されているものである。

本書は全体として、専門的に勉強した人に向けて書かれており、初学者には向かない。上述したように私は芸能に疎いため、「7 文化の大衆化」については結局どういうことだったのかよくわからなかった。他の項目も理解には粗密があり、正直なところ精読していない論文もある。しかしながら、要するに本書は「明治維新での急進的な改革がそれほどの軋轢を生まずに遂行できたのは何故なのか」を近世に溯って示したものなのである。

それは、既に近世には社会の様々な面で地殻変動ともいうべき変化が起こっていたからなのである。それは概ね天保期を境にしていた。近世幕藩体制の基礎となるシステム、身分、流通、商業、対外関係などが、各主体によるそれなりに合理的な判断によって徐々に変容させられ、結果として社会がそれまで通りには動かないようなものに変化してしまった。だからこそ人々は明治維新後の急展開の改革に対応することができたのである。その意味で、近代は近世に始まっている、とはっきりということができる。

近世後期から維新期の近代化を社会基盤から説明する専門書。

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2023年9月26日火曜日

『神と仏—民俗宗教の諸相—(日本民俗文化体系4)』宮田 登 編

神と仏をめぐる民俗文化の考察。

日本人の宗教観は、神(神祇信仰)と仏(仏教)の間で揺れ動いてきた。そしてその背景には、土着の民俗信仰があった。本書は神と仏を軸にして日本人の宗教観を考察する論考集である。

序章 神と仏―民俗宗教の基本的理解」(宮田 登)では、仏教受容の歴史を概観し、神仏習合を「神と仏の緊張関係」としている。そして民俗信仰や習俗に仏事が接近し、それを理論づけたりしてきた一方で、神祇信仰の方は民俗的なものに対して冷淡だった、と指摘している。もちろん神事は仏事も遠ざけており、12世紀に普及した呪法「神事札」は神事に僧尼を遠ざける呪法であったが、日ごろ召し使っている尼や入道はこれを憚らないなどという都合の良い注釈があったのが面白い。神と仏の間には、曖昧な領域が横たわっていた。

さらに、高取正男の「神仏隔離」を援用しつつ、死穢を忌んだのは国家の側で民衆は気にしていなかったことに触れ、一方で穢気の解除(祓え)の方法については、陰陽道との習合の結果、複雑化・多様化していったとする。「神道的な禊ぎをうまく用いつつ、形代や撫物の祓えの具を合理的に組み合わせた方法を陰陽師たちが導入(p.46)」したのである。陰陽道は神祇信仰にかなり大きな影響を与えているようだ。しかもそれは、自然発生的というよりは、支配者層の強烈な作為によるものであり、それがイデオロギーとしての神道を形成した。一方、民衆のカミガミは「淫祠」とされ、正統なものではないと位置づけられつつも存続していくことになる。

第1章 シャーマンの世界」(佐々木宏幹・山下欣一)では、まず世界のシャーマニズムを概観し、そのうえで日本のシャーマニズムの特色を述べている。シャーマニズムとはトランスや神がかりを伴うものだけでなくいろいろなグラデーションがある。日本の民俗信仰はそのような多様なシャーマニズムを内包しており、8~9世紀初頭には「託(くる)い」を役割とする卜者が重要な位置を占めていたという。この頃、神からの「託宣」が頻繁に出たことはその証左である。しかしながら、民俗的なシャーマニズムは神にも仏にも取り込まれていない領域が大きい。もちろん修験道を中心に、激しい修行によって神仏を感得するというような思想はあったが、それは神道でも仏教でも中心的なものではなかった。

さらに本章では、女性が中心になっている南島のシャーマン(ユタ、ノロなど)について述べている。それらは血縁や本人の生まれながらの資質が重要視されていることが興味深い。

第2章 女性司祭の伝統」(上井久義)では、古代の神事には女性の役割が大きかったことを述べる。例えば神の託宣をするのは女性であり、巫女は神事の中心的な存在であった。これは卑弥呼までさかのぼれる伝統なのかもしれない。

ところで、巫女が未婚の、あるいは婚姻を禁止された女性であったということは興味深い。しかしながら巫女が婚姻を貫くことはその継承に問題をはらむ。その点で斎王(いつきのひめみこ)は伊勢神宮で物忌みし祀りを担当した未婚の皇女であるが、これは未婚の期間を利用した幾分か合理的な方法である。

古代社会において高い地位を誇った女性司祭であるが、国家は男性司祭を正統として、女性はその補佐役として位置付けて行った。これは、託宣の重要性が低下していったことが背景にあるのかもしれない。しかし各地の民俗には、女性が受け持つ様々な神事が残されている。

第3章 仏教の民間受容」(伊藤唯真)では、仏教が受容される歴史を振り返り、どういう点が人々に訴えたのか述べている。神と仏は似ているが、様々な対照的な性格を持っていた。仏教は「他国神」「異国神」として受け取られたが、それは地域を超えた普遍神であったという指摘が面白い。また、神は遊幸し、仏は常在する、などというのもそういう違いの一つである。

第4章 神社と神道」(中牧弘允)では、神道の形成が批判的に検討される。日本人は神と仏をごちゃまぜにしているように見えて、実は両者を峻別してきた。そして仏教に対して意識的に神道は構成されたが、その思想的内実はなんだったか。それを著者は宗教的土着主義だという。そして神道が構成されるにあたり、「官の神」(延喜式神名帳にある国家に祀られる神)「野の神」(自然発生的な信仰や情念に導かれて祀られた神)の対立もそこには孕んでいた。

国家は、神祇官の設置や国家祭祀によって神々を再編成し、その頂点にある天皇の権威を高めた一方で、「野の神」は抑制した。有名な「常世の虫」の禁止や「夜刀の神」の殺害は、祀るべき神と祀るべからざる神を国家の方が決めていたことを示唆する。

やがて神祇祭祀は、道教や陰陽道の影響、禁忌意識や吉凶の理論が付加され、やがて神仏習合が進んでいった。ただし伊勢神宮は神仏習合の流れに逆らい、仏教を穢れたものとして扱った(仏教を表す言葉を忌詞(いみことば)にするなど)。また称徳朝の頃に出来た伊勢神宮寺は、徐々に遠ざけられ廃絶した。

鎌倉時代になると伊勢神道の「神道五部書」など、神道は仏教と思想的に対決するようになった。それらは道家や儒家の思想、特に陰陽五行説に拠って仏教と対抗したが、やはり神道の思想は多くが借り物であった。しかしながら意外なことに、著者は先述の通りその思想内容を土着主義だという。つまり、理論的には借り物だったが、内容は「しきたりの重視」とか「歴史」を尊ぶものだったということかもしれない(本章には詳らかでない)。ともかく、「「蕃神」「官の神」「野の神」、もしくは外来宗教、民族宗教、民俗宗教の鼎立こそ、普遍主義の蹂躙やシンクレティズムの進行を阻止してきた三極構造なのである(p.274)」。

第5章 民衆の宗教」(西垣晴次)では、記録に明らかでない民衆宗教の実態を、様々な傍証から推測している。例えば、神社を表す「社」には「ヤシロ」と「モリ」の2つの訓があるが、これは「モリ」から、建物を前提とした「ヤシロ(屋代)」への過程を物語るものであろう。また「モリ」は、森全体を神聖視していたのが、そのうちの一本を選ぶことで神木の信仰になっていったに違いない。この際注意すべき事は、それが「この木を切ると祟る」という、恐ろしい力から始まっていることである。

また、古くは水田よりも雑穀の方が民衆の主食だったと思われるのに、神事が米に関わることばかりで、雑穀にかかわる儀礼があまり見られないのは謎である。

民間には巫覡が多く活動し、権力の方もそれを無視できないほどであった。国家の側は民間の巫覡を詐巫(さふ)として批判したが、それは律令国家の側に取り込んだ真の巫覡がいたことを示している。どうやら詐巫の方は病気を治したり口寄せをする巫覡で、真の巫覡は神社に所属して託宣を得るタイプの巫覡であるようだ。国家は律令制の下で地方官社への奉幣制度を通じて地方官社の祭祀を中央のそれに組み込み、ひいてはその巫覡たちを国家に従属するものとして取り扱った節がある。

御霊会も初めは民間で行われたもので、それを国家が取り入れたのは民衆の宗教を体制のうちに取り込もうとする意図があった。しかしなんでも国家が取り込んだのではなく、御霊会に附属して行われた神の意志をうかがうための馳射(ちしゃ)、相撲(すまい)、騎射、競馬といったものは公の方には取り入れられなかった。

やがて律令国家の弛緩とともに国家祭祀の体系が解体されて、一宮、二宮制という国ごとの祭祀へと再編成される趨勢の中、民間では小祠を辻に建てることが流行。これを国家は「淫祠」として禁圧した。何を祀るべきか、祀らざるべきかを決めていたのはあくまでも国家であった。

第6章 魔と妖怪」(小松和彦)では、柳田国男以来の妖怪の概念を再検討し、「魔」と「妖怪」について述べている。本編は本書中の白眉である。柳田は神の零落したものが妖怪だとしたが、著者は「祀られていない超自然的存在」とみる。そして妖怪となることで祀られ、神となることを求めているのだという。これを宮田登は「祀り上げ祀り棄ての構造」と表現している。神→妖怪→神→妖怪、というこの可変性が「妖怪」を把握する重要なポイントだそうだ。

またしばしば妖怪は退治されるが、その後祀り上げられることも多い。退治するだけでは十分ではなく、その後に祀られるのが日本人の霊に対する観念を表しているようだ。

近世には「幽霊」が急激に変質する。それまでの幽霊は、メッセージを伝えるために生前の姿で出現していた。しかし近世には『東海道四谷怪談』のような幽霊芝居や絵画の影響で、幽霊は棺に納めた死人の姿で出現するようになり、また足がなかったり顔や体が異様に描かれるようになった。さらに恨みと幽霊が深く結合(恨みをもって死んだものが幽霊化する)した。

人が「魔」や「妖怪」または「幽霊」になる場合、西洋の場合は悪魔に魅入られるといった要因によるが、日本の場合は、自分自身の内面に生じた邪悪な感情(嫉妬、恨み、憎しみ)が度を超したときに自ずから変化するというのが著しい特徴である。

そして、そういう場合に行われるのが呪詛である。平安時代には貴賤を問わず禁呪道系・道教系の呪術・邪術、「厭魅」とか「蠱毒」といったものに魅了された。しかし度重なる弾圧によりそうしたものは姿を消し、呪禁師たちは姿を消したものの、陰陽道がそうした呪術の代わりを担うようになった。また修験者もそうしたものの一部を担ったし、民間では「憑きもの筋」の家は動物霊を使って不思議なわざを行った。民俗宗教の世界では、超自然に働きかける方法が多種多様に考案された。

ところが意外なことに、沖縄を例外として、「異界について想像力を働かせておらず、異界描写はきわめて乏しい(p.404)」。近世には妖怪が厖大に作り出され、描かれたが、彼らは日常の中の異界(つまり便所とか橋とか)におり、いわゆる「異界」にはいなかった。妖怪が流行したのは絵師たちに拠る部分もあったが、にしてもなぜ妖怪がクローズアップされたのか考えなくてはならない。「真に問題になるのは、「魔」や「妖怪」を必要としている「我々」のほうなのではないだろうか(p.412)」。

第7章 自然と呪術」(宮田 登・小野重朗)では、超自然に対する働きかけの全体像を述べている。呪(まじな)いと神仏への祈願はどういう関係だろうか。弘法大師が悪魔(磐梯山の神)を調伏したのは本当に仏教の領域のことなのか。民間には厖大な呪いがあり、それは神祇信仰や仏教、陰陽道の影響を受けているが、特に陰陽道の影響は大きく、「民俗としてある各地の唱えごとや呪文は、いずれも陰陽道に淵源を持つ(p.427)」。だが未だに陰陽道と日本の呪いとの関係の考察は十分でない。(以上、宮田。以下は小野による)

呪術は神の信仰を母体としていない。むしろ現実的合理的な知識から発した生活技術に基づいたものだと考えられる。例えば、奄美大島ではカネサル(庚申)の日にシマガタメ牛を殺し、その肉を食べるとともに牛の足を木に吊り下げた。これは何の意味があるか。この日は山の神が降りてくる日とされており、その日に栄養のあるものを食べて、しかも食べたことをわかるようにして、山の神の侵入を断念させたものと考えられる。ところがこの合理的な考えが忘れられ、「牛の骨の臭気でカネサルの神を追っ払う」というようになると、呪術らしい気配をまとっていった。「呪術本来の古い形は科学的な生活の技術であった(p.436)」が「それが非科学的、俗信的な方向に変遷する傾向を持っている(同)」のである。

川の神とか水の精霊の祭が、12月1日とか6月1日であるのも、鮮明で忘れない日を決めておいたことがあるのだろう。本章では水の神への畏れの習俗・敵対の呪術が、太鼓踊りという歓待の呪術へと転換した例を取り上げている。さらに虫送り、疱瘡勧進(病気送り)などが悪神への歓待の例として触れられる。ここで我が大浦町の疱瘡踊りが比較的詳細に記述されているのは面白い。疱瘡は言うまでもなく天然痘だが、疱瘡踊りでは疱瘡団子という団子を食べる。疱瘡対策のために栄養のある団子を食べるという知恵が、疱瘡神をもてなして早く次の村へ行ってほしいという踊りに発展し、そのために伊勢神を勧請する…というように、合理的思考から呪術へ、さらに信仰へ、という展開が見られる。

一方、竜神信仰を母体にしていると考えられる綱引き(十五夜綱の引き回し)が、やがて信仰が欠落し、綱の物理的な力で厄災をさえぎる「道切り」という呪術になった例もある。こちらは信仰から呪術へ、である。知恵、呪術、信仰は一方方向ではなく、様々に転換するようだ。さらに、呪術は「複雑な心意を伴う呪術から、簡単な呪術へ、さらに卜占へ、という変遷(p.460)」もあった。

本書は全体として、大変エキサイティングである。各編に論旨の重複がやや多いところがあるが、様々な角度から神と仏を見直しており、類書にない深みがあるように感じた。最も蒙を啓かれたことは、日本には、神と仏ではなく、それに民俗宗教を加えた三極構造があったということだ。

ただ、「民俗宗教」の用語は少し違和感がある。例えば、疱瘡踊りは概念的には「民俗宗教」の一部なのかもしれない。しかし「宗教」行事として行われていたわけではない。疱瘡を避けるための実用的な技術として行われていたのだ。「虫送り」(田んぼの除虫をするための習俗)も、田んぼから虫を取り除きたいという切実な必要に駆られて行われたもので、宗教的な意味を感じて行われていたのではない。同様に、本書に引かれる厖大な民俗的行事・習俗などは、全てが民衆の具体的な必要に応じて行われた「生活の技術」の一部であった。

ただし、「生活の技術」としての本来の意味が失われ、見せかけだけの合理的な説明が付加される(山の神を牛の骨の臭気で追っ払う、など)ことで、呪いに変化していくことは多かった、ということは言える。とはいえ、それが宗教・信仰であったかというとそうとはいえない。十五夜行事は呪い的な意味が大きいが、そのものは宗教とか信仰の一環とは見なせないだろう(現代においても行われているのだから)。このように、「民俗宗教」の中には普通の意味で「宗教」とされるものとは異質な要素がたくさん含まれている。そして逆に、「宗教」に必要な要素(例えば教義)は必ずしも備えていない。少なくとも、それは精神世界の理論だったのではなく、物質世界の課題を解決するためのものだった。

であるから、「民俗宗教」というより「生活の技術」あるいは「民間科学」といった用語が適当であろう。そして、神道や仏教も、そうした技術なり科学なりの一つとして受容されたと思われる。もっと正確に言えば、民衆の「生活の技術」「民間科学」は神道や仏教により潤色され、より洗練されたり、より呪術的になったり、より普遍的な基盤を与えられたりした。鹿児島では虚空蔵菩薩が疱瘡除けに効果があるとされたのもその一例である。

戦後、多くの民俗行事などが消えていったが、それは宗教的な意味よりも、例えば疱瘡(天然痘)の効果的な予防法が確立したこととより深く関連しているのだろう。

神と仏をより広い視野から捉えた名著。

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