2023年8月19日土曜日

『上野寛永寺 将軍家の葬儀』浦井 正明 著

寛永寺の実態を述べる本。

東叡山寛永寺は、徳川将軍家の祈願寺であり、4代家綱からは菩提寺ともなった。将軍家は政策的に寛永寺の権威を高め、仏教界の頂点においた。

しかし、明治維新が起こると旧幕勢力(彰義隊)がここを本拠地とし(一山の関係者は所払い=追放されていて不在となり、戻ってきたのは明治2年2月26日)、新政府軍がこれを討伐すると上野は火に包まれ、ほとんどの建物は灰燼に帰した。その後、上野は明治政府の象徴的な施設建設用地として使われ、上野公園や動物園、博物館、美術館など「近代国家日本」をアピールする文化風致地区になっていったのはよく知られている通りである。

本書は、寛永寺の在り方と、将軍家および一品法親王の葬儀の実態を資料に即して述べるものである。

寛永寺の本坊落成は寛永2年(1625)。寛永寺は、家康没後、秀忠が天海に上野の台地を寄進し、将軍家の祈願寺として建立された。増上寺(浄土宗)が将軍家の菩提寺であり、祈願寺としては浅草寺があったが、寛永寺はこれらの寺院とは隔絶した壮大なプランをもっていた。

それは、比叡山延暦寺を江戸に模倣するというものであった。天海はその山号を東の比叡山の意で「東叡山」と名付け、延暦寺にならって創建時の年号「寛永」をつけるため、わざわざ勅許を受けている。また立地も、たまたま江戸城の鬼門に近く、山麓には湖(不忍池)があるなど、地取りも比叡山と類似していた。

さらには、つぎつぎに造営された堂塔伽藍は、そのほとんどが比叡山とその周辺のものに倣っていた。また寛永寺の山主は、初代は天海、そして第2代は天海の弟子の公海が継いだが、比叡山が天台座主という門跡を戴いていたように、寛永寺には皇族から法親王を迎え、宗教界の頂点に君臨させた。これが第3代山主の守澄法親王(後水尾天皇の第三皇子※)である。彼は輪王寺の勅号を受け、以後歴代の上野の宮様は輪王寺宮一品法親王と呼ばれるようになった。また東叡山・日光山の山主と、多くの場合は天台座主も兼ねるので三山管領宮(かんりょうのみや)とも呼ばれる。

一品親王(宮)は非常に位が高く、江戸城に登城する際は、通常は将軍と宮にしか許されていない網代の溜塗の駕籠を江戸城表玄関にじかに乗りつけ、法要儀式に関わるときは江戸城中では上段の間で将軍と対座の待遇をうけた。要するに宮は将軍とほぼ対等だったのである(法要儀式以外は徳川御三家と同格)。そして将軍と宮の交流は、対等であるだけにかなり密接であった。

では将軍と寛永寺はどのような関係にあったか。これがなかなか面白い。寛永寺と増上寺への御成を「両山御成」というが、これは歴代将軍霊廟(と位牌所)への参拝で、年回ごとの法要と毎年の祥月命日に行われた。しかし意外なことに、将軍は一切葬儀にはかかわらず参列もしなかった。また正室や将軍生母へも、原則的にはその霊廟に参詣することはなかった。

これは死の穢れが将軍につくことを避けるためだったようだ。ということは、将軍は普通の家督相続者が持っていた祭祀権を、そっくり一品親王に委託していたということになる。また、将軍御成の場合も、「どの将軍霊廟に参詣するときでも、決して山門を潜って正面の根本中堂の方には向かわない(p.77)」というのも面白い。これは上野の東照宮の横を通ることを遠慮したからではないかと考えられるというが、やはり穢れ思想との関連が気になった。

一方、老中や若年寄たちは足しげく寛永寺に通う必要があった。それは、祥月命日以外の毎月の命日(月忌)には老中が将軍名代として歴代将軍霊廟に参拝したからである。将軍の代が増えるにつれ、祥月命日だけの将軍参拝はもちろんのこと、月忌参拝しなくてはならない老中・若年寄の負担は大きかった。著者は偶然としているが、寛永寺関係の7人の将軍(慶喜を除く)の命日が、8日が3人、20日が2人なのは気になるところだ。

なお、本書には将軍御成の跡固(あとがため=御成後の警護)を命じられた島原藩松平家の場合の段取り、手配などを細かく記しているがここでは略す。

このように、寛永寺は将軍家にとって特別な寺院であった。寛永寺には将軍家から次々と寺領が寄進され、寺域30万1870坪、主要な堂塔伽藍32~35、子院36坊、寺領1万1790石といった規模へ成長した。だいたい、享保の頃にこうした規模になったようだ。「幕末期における実質的な東叡山の収入は、3万5000石をも上回ったのではないか(p.70)」ということだ。

本書では、次に将軍家の葬儀(家綱、綱吉の場合)と、一品親王の葬儀(公弁法親王)の次第を詳しく述べているが、将軍家の葬儀のみについて気になったポイントのみ記す。

家綱の場合は、近習37名のうち31名が落髪しているが、これは殉死が禁じられていたためだ、というのが面白い。また、死後、寛永寺と幕府はそれぞれ一日三回の法要を続けていたというのにびっくりする。もちろん幕閣もある程度これに参列したので、とても政務を見られる状況ではなかったという(幕末の家茂の場合なんかはどうだったのだろうか)。

一方で、七日七日の法要を日程通りには一切やっていないのは謎である。葬儀が済んでから、初七日逮夜(前日の法要)、初七日、二七夜逮夜、二七夜…と連日法要を営み、1か月くらいで百ケ日法要まで圧縮してやっているのである。死んでからの日数と全く対応していないのが奇異である。なお百ケ日が済んでから、ようやく新将軍綱吉と一門の人々が霊廟に参詣する(当然、それまでは諸大名も参詣できない)。親族が中心となる普通の葬儀とは全く違うのである。

将軍の葬儀は、天皇のそれに倣って夜儀(やぎ)だったというのも面白い。霊廟の板塀や本堂からの道筋には全て白布が張られ、また敷かれていたというのも天皇家に習っているが、これは仏教的にはどのような教義に基づくものだったのだろうか。

なお将軍の死はすぐには公表されず、全ての段取りが整ってから公表されており、だいたい死後1か月くらいかかったようだ。その間は、もちろん段取りする人たちは将軍の死を知ってはいたが公には将軍は生きているものとして扱われた。(これがあったから命日の操作ができたし、また七日七日の法要を日程通りやらない理由だったように思われる。)

本書は全体として、儀礼・儀式のみならず、それを警護した武士や寛永寺を管理した武士などの様子も詳細に描いており、参考になる情報が満載である。また著者は寛永寺の執事長であるためそれらの情報は堅牢だ。しかし、葬儀を中心にしているため、寛永寺の全体像はわかりにくい。例えば、寛永寺は祈願寺でもあったが、どのような祈願が行われていたのか、といったことはもう少し知りたかった。

また、歴代将軍の墓所は、日光山(東照宮、輪王寺)、寛永寺、増上寺の3パターンがあるが、これはどのように使い分けられていたのかも興味がわいた。

江戸時代の宗教界の頂点であった寛永寺を葬儀を中心として描いた良書。

※第三皇子と本書にはあるが、調べてみると第六皇子のようだ。

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2023年8月18日金曜日

『武士の家計簿―「加賀藩御算用者」の幕末維新』磯田 道史 著

加賀藩の武士の家計簿・書簡を詳細に読み解く本。

近世の武士の懐具合はどんなものだったのだろうか。これが意外にわからない。武士は算盤を遠ざけていたようで、家計簿がほとんど全く残っていないからだ。

ところが著者は、古書店の目録にて「金沢藩士猪山家文書」を見つけ、これを即刻15万円で購入。これに、天保13年(1842)~明治12年(1879)の37年間の「武家の家計簿」が完全な形で残っていたのである。しかもそれはただの家計簿ではない。加賀藩の会計に携わった「御算用者」が作ったもの、つまり会計のプロが作った精巧な家計簿であったのである。

御算用者とは、今風にいえば財務担当者であるが、予算編成をしたり積算したりするだけでなく、複雑な計算が必要だった。それは当時の家禄には「知行取」(土地を領有)と「無足」(俸禄を支給)があり、特に「知行」は領地を分与されているという形態をとりつつ、実際には租税(年貢)徴収業務を藩士に一切やらせず藩庁が代行したためで、その面倒な業務を担当していたのが御算用者だったのである。

そして猪山家は、御算用者として前田家に仕えた家系であったが、これは世襲ではなかった。計算能力がなくては務められなかったからである。だから猪山家は教育熱心で、何代にもわたって算術で身を立てた。特に猪山直之は、江戸の大奥から前田家に迎えた溶姫の婚礼の財務担当となってその業務をつつがなくこなしたのがきっかけとなり、切米50俵(無足)から70石の知行取に取り立てられるのである。

ところがこれが猪山家の財政的な危機を招いた。直之は江戸詰めを命じられたため、生活に必要なお金が増大したからである。また70石はそのままの収入ではなく、70石の農地から徴収される年貢が収入となり、これは22.5石ほどとなったが、切米50俵は加賀藩の場合20石なので、収入はたいして増えていないのだ。こうして、猪山家は年収の2倍ほどの借金を抱えてしまったのである。

幕末の武士はたいてい借金を抱えていたので、これは特にひどい状況ではなかった。武士は親戚内や同僚から金を借りるのが常態化しており、その場合も年18%もの高利なのが普通だった。武士からは担保がとりづらかったことが高利の原因と考えられるという。

ともかく、猪山家が借金経営だったのは特異なことではなかったが、変わっていたのは、直之が断固とした意志をもって財政再建に取り組んだことだった。それがまさに、この家計簿が作成された理由なのだ。彼は家財道具のほとんどすべてを売り払い、借金の返済や有利な条件の借り換えに成功する。この時の家財目録が興味深く、女性(妻、母)にもちゃんと財産権があったことが明瞭である。しかもその財産は、全て衣類であったのも特徴的だ。

では、財政再建後の猪山家の懐事情はどうなったか。これがまた面白い。彼らは当然ながら非常に切り詰めた生活を送っていたのだが、米への出費と同じくらい、頼母子講にお金を出しているのである。銀行がない時代、頼母子講がいかに大きな存在だったかわかる。ちなみに借金返済と頼母子講だけで支出の約3分の1もある。

また、祝儀交際費や儀礼行事入用、寺社祭祀費は全く圧縮されていない。これは武士身分としての格式を保つための支出(これを著者は「身分費用」と呼ぶ)であったためだ。江戸後期には「家格」が次第にうるさくなってきて、家格に応じた祝儀などは必須であったのだ。つまり、武士は親戚づきあいにやたらと金がかかった。武家社会には「連座制」があり、親戚は運命共同体でもあったから親密にする必要もあった。

ただし、本書には収入の欄に「祝儀」がなく不思議だった。祝儀は当然もらう場合もあり、それは収入になったはずだ。つまりかなりの程度、祝儀は相殺されていたように見受けられる。その点は本書ではよくわからなかった。

また几帳面な家計簿には、儀礼行事入用、つまり年中行事に伴う出金が細大漏らさず記載されているがこれがまた興味深い。まず月に2回ほども年中行事があって忙しい。例えば5月は節句と鎮守祭礼、7月はすす払いと七夕、といった調子である。しかしこれらのうち、仏教的なのは盆くらいだったのが意外だった。彼岸とか降誕会といったものはなかったのだ。

ただ、菩提寺へのお布施は金額的に大きく、現在の感覚でいうと年に18万円もあった。脇差まで売りながら菩提寺にこんなにお布施をしていたのは驚きだ。武士にとって祖先祭祀は重要だった。一方、祖先祭祀に関係がない神社には淡白で、祈祷料なども微々たるものだった。

このほか、下男下女への給金もある。これも、雇わなくてはならない類のもので、身分費用の一つである。そういう支出は圧縮できないため、徹底して減らされたのが衣料費であるが、当主の直之の小遣いも信じられないほど少なかった。「家来の草履取りのほうが、むしろフトコロはゆたかであった(p.88)」。また女性へも小遣いは律儀に与えられており、そして女性へは実家からも援助があった。

この時代、女性の立場はかなり保障されており、離婚も多く、独自の財産権を有していた。ちなみに初産は必ず実家でするもので、2回目以降もその費用の半分は実家が出したということだ。女性と実家の結びつきは強く、一般に言われる「武家の女は嫁いだらその家の人間になる」は明確に間違いだ。

ともかく、このような節約生活の中で嫡男・成之(なるゆき、と読むんだろうか)が誕生する。成之の成長過程は、まさに儀礼の連続で、そうした儀礼を踏んでいくことが「武士」を作った。彼は頭がよく、就職試験の「筆算御撰」に合格し、なんと満11歳7か月から職歴をスタートさせた。そもそも就職試験があったところがおそらく御算用場の特色で、非常に興味深い。

ところで、近世の武家では葬儀にもたいへんお金がかかった。猪山家では家計簿の中に4回の葬儀が記録されているが、1回の葬儀で年間収入のほとんど4分の1を費やしている。さらに年忌もあり、百回忌・二百回忌といった法事までやることも珍しくなかったので、代が重なるたびに葬儀・年忌費用は嵩んだ。ただ、寺への回向料も高いが、それ以上に会食費が大きかったのは現在と同じで、「武士が百姓からあつめた年貢で潤っていたのは、金沢城下の料理屋と寺の僧侶であった(p.139)」。

さて、直之は非常にまじめに、正直に勤務に精励したようで、次々と昇進した。幕末には180石の知行取になっている。また、子の成之はいとこと結婚し家庭も持った。親子は順調に人生を歩んだのだった。幕末は非常に政治的な動きが盛んになった時期であるのに、親子には全くそういうそぶりもなかった。

が、成之はいきなり京都の兵站事務に抜擢された。慶応3年(1867)4月のことである。加賀藩は慶喜支持の方針で京都の守衛を担当したが、幕末の混乱のさなかにその難しい兵站の仕事を一手に担ったのが成之であった。そしてこれが認められて、成之は維新後に新政府の「軍務官会計方」にヘッド・ハンティングされる。大村益次郎の部下となったのだ。

新政府でも会計はあってないようなものだったので、成之は重用されて活躍した。ところが大村益次郎が暴漢に殺されてしまったため、軍の要職は薩長閥に抑えられて成之は小役人から出直すことになった。それでも成之は堅実に昇進を重ね海軍の会計に携わることとなった。

ここから先は、家計簿ではなく、成之が保存していた家族からの書簡を読み解くものである。成之は海軍の仕事をするため金沢から東京へ単身赴任していた。そのため金沢の家族(特に父の直之)からの手紙が多く、しかも成之は異常に几帳面でそれらの手紙を保存していたのである。

その手紙は、父の直之が明治維新をどう受け止めたかを生々しく物語っている。彼は、生活に窮した士族が相撲見物で雑役夫と打ち混じっている様子に「自分から庶民になり下がった」と感じ、「最早、我等如きは日雇稼も同段」と意気消沈した。そして華士族と平民との結婚も自由化され、猪山家の親戚も富裕商人と縁組した。直之はこれを止めるどころか歓迎している。

しかし猪山家は、成之が海軍で高給をもらっていたため(現在でいえば年俸3600万円)、直之自身は悠々自適の暮らしだった。没落した親戚を援助さえしていた。だからこそ士族たちは新政府にやとわれること(特に軍人となること)を熱望し、子どもたちの栄達を目指して教育熱心になっていった。なお学問が将来の飯のタネとしてのみ扱われたことは弊害も残した。

直之は家禄の廃止をも素直に受け止め、進んで家禄奉還して有利な条件で財産運用した。もと財務担当だからうまいのだ。しかし面白いのは、太陽暦の採用にはかなり不満そうなことだ。暦が改められてしまうと年中行事が混乱するからだった。

また、天皇は尊重はしているが、忠誠心は維新後も旧君・前田家にあった。にもかかわらず、成之の奏任官昇進と従六位の叙位には大喜びしている。官位をもらったのは旧幕時代は国家老クラスだけだったからである。だがそもそも旧幕時代も、叙位は天皇の名において行われていた。このあたりのねじれの関係が面白い。

本書は全体として、生の史料に基づいているだけに、めっぽう面白い。当時の日記は膨大に残っているが、家計簿は日記どころの生々しさではない。平易で読みやすいこともあって、すぐに読み終わってしまった。

武士の生活実態を平易に知れる労作。

【関連書籍の読書メモ】
『秩禄処分—明治維新と武家の解体』落合 弘樹 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/07/blog-post_9.html
秩禄処分がいかにして行われたかを述べた本。秩禄処分について知りたくなったらまず手に取るべき基本図書。

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2023年8月13日日曜日

『奈良の寺—世界遺産を歩く』奈良文化財研究所 編

奈良の寺の発掘調査の報告。

本書は、奈良文化財研究所が最新の(本書刊行2003年)発掘調査の結果を基に、奈良の代表的な宮跡・寺院・寺院跡について平易に紹介するものである。執筆は同研究所の研究者約50人が分担して行っているが、調子が整っているので論文集的ではなく、通読して全く違和感がない。優れた編集の力を感じる。

紹介されているのは、平城宮跡、法隆寺・斑鳩三塔、薬師寺、興福寺、春日社と春日山、元興寺、唐招提寺、東大寺、西大寺・西隆寺、法華寺、大安寺である。

これら全ての内容は手に余るので、特に面白かったもののみメモする。

まず元興寺の僧房の復原図。元興寺の僧房の建物は今はないが、僧房の部材が極楽坊に再利用されており、その加工跡の様子から元の僧房が復原できるわけだ。

一つの房は間口6.7メートル、奥行き12.9メートル(約50畳)で、これが3つや4つ連なっていた。この房に数人が共同生活をしていた。教授と学生が共同生活するようなものだそうだ。当時の仏教のリアルなあり方を感じさせる。

次に、東大寺戒壇院。戒壇院は、「授戒堂(戒壇堂)、講堂、僧房を備え、平安時代には中門、食堂(じきどう)もあり、独立寺院の体裁を整えて(p.149)」いたというのに驚いた。なぜ戒壇院は独立寺院として運営されなければならなかったのだろうか。

一番心に残ったのが西大寺。道教と称徳天皇が創立した巨大寺院である。この巨大さが異常なほどで、寺域は約50ヘクタール(当時の街割りで31町)。薬師寺などの官寺の3倍もあり、平城京全体71町の中で約40%も西大寺が占めていたのである。東大寺は50町あるが平城京外なので、平城京内でいえばぶっちぎりの巨大寺院なのである。

なぜこれほどまでに巨大な寺院を作ったのかといえば、聖武天皇の娘の称徳天皇は、父にライバル心を持っていて、”東”大寺と並ぶ”西”大寺を建立したのではないかと考えられるという。もちろん寺域が広大なだけでなく個々の建物も想像を絶する壮大さだった。

しかしながら、西大寺だけでなく、他の古代寺院の建築も、作りが異常なまでに巨大なのが心に残った。五重塔など象徴的な意味しかないのに、なぜあんなにも大きさを競ったのか。本書にも「大きさは関係なく、小さくとも塔としての機能は果たす」と述べているのに、実際には奈良人たちは巨大さに憧れていた。

寺院の巨大建築は、実のところ、なんのためだったのだろうか。それが国家や家門の威信を示すものだったからだろうか。そうだとしても、それだけでは説明ができないほどの作りの立派さを感じるのである。本書を読みながら一番感じたことがその点であった。

奈良の古代寺院のリアルに気軽に触れられる本。

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2023年8月9日水曜日

『明治洋食事始め―とんかつの誕生』岡田 哲 著

明治時代の洋食文化の成立について述べた本。

明治維新は、料理維新でもあった。西洋料理に触発されて、日本では新しい料理文化が育った。「洋食」とは、西洋料理そのものではなく、日本の食文化に希薄だった油脂と獣肉という西洋の食材を用いて、パンではなくご飯に合う料理として新たに考案されたものなのだ。

中でもその到達点ともいえるのが、とんかつである。西洋料理にもカツレツはあったが、それは分厚い豚肉を使った揚げ物料理ではなく、薄い牛肉をフライパンで焼く料理であった。とんかつは、西洋料理を様々な工夫によりアレンジして、日本で生まれた料理なのである。本書は、とんかつに至るまでの歴史を、豊富な資料を駆使して描いている。

人間にとって食べものは、最も保守的なものの一つである。新しい料理と出会っても、それをすぐさま取り入れ、それが旧来のものに置き換わってしまうことは少ない。日本人の旅行者が海外にいって、いかに現地の食事が美味しくても、欲しくなるのはご飯と味噌汁、ラーメンなのだ。ではどのようにして西洋料理は日本に根を下ろしたか。

その第一は、明治政府によるキャンペーンであった。政府は、日本人が西洋人に比べ体格が劣っているのは肉を食べないからだとして、「滋養」の観点から食事の西洋化を図った。特に明治5年(1872)1月に天皇が西洋料理の晩餐を食したのは画期的である。この際、天皇が「肉食は養生のためよりも、外国人との交際に必要だから食べたのである(p.25)」と言ったのは興味深い。

元来、日本では獣肉は仏教的な禁忌、つまり「けがれ思想」から食べられていなかった。聖武天皇の「殺生肉食禁止の詔」が発布されたのは7世紀の後半。 1200年もの間、日本人は肉食を遠ざけていた。天皇が肉食した1ヶ月後、御嶽行者10人が皇居に乱入し4人が射殺されるが、彼らは「肉食ヲ致ス故、地位相穢レ(p.26)」と述べている。

しかしながら、元々の仏教には肉食のタブーはなく(中国仏教には肉食禁止はない)、肉食の禁止には野生動物は除外されていた。さらに「薬喰い」と称して、病気の人などが肉食する習慣はあった。江戸には、イノシシ・鹿・熊・兎などの肉を取り扱う「ももんじ屋」が数え切れないほどあった。ただし、その場合でも「けがれ」の観念はあったようで、「赤斑牛だけは食べても身がけがれない」などと都合の良い理屈を付けていたのは、裏を返せば禁忌意識の現れである。

また、明治5年の前にも、西洋料理屋はどんどん出現していた。外国人居留地では肉食が行われたのはもちろんで、文久元年(1860)には横浜の居酒屋が「牛肉煮込み」で評判となり、文久3年(1863)には長崎に初の西洋料理専門店「良林亭」が開店した。さらに慶応元年(1865)、横浜では牛肉の串焼き店が開店。慶応3年(1867)に実業家中川嘉兵衛により武蔵国荏原郡に牛肉処理場が開設(けがれに気を遣い、しめ縄を張って屠殺し、お経を上げて清めた)。その牛肉を利用し、明治元年(1868)、東京の露月町に最初の牛鍋屋が開店することになったのである。

すなわち、明治政府のキャンペーンによるもの以外に、外国人居留地を中心に民衆的な動きとして肉食は幕末から広まってきていた。特に「牛鍋」は牛肉を醤油と砂糖で味付けするという、スパイスを使う西洋料理とは全く違う発想で、牛肉を和食化した庶民が工夫して生まれた料理であった。牛鍋は大流行し、明治8年(1875)頃には東京で100軒、同10年には558軒にも激増。牛鍋は文明開化の象徴とまで見られた。さらに牛鍋は関西で「すき焼き」へと変化した。

また、福沢諭吉や仮名垣魯文は肉食を推奨した。明治4年(1971)の「牛鍋食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」で始まる『牛屋雑談 安愚楽鍋』(仮名垣魯文)は福沢の「肉食之説」に影響を受けているが、この本には「肉食をすりやア神仏へ手が合わされねへのヤレ穢れるのと、わからねへ野暮をいふのは究理学を弁へねえからのことでげス(p.60)」という言葉があって面白い。要するに「肉食をしないやつはバカ」なのだ。

さらに興味深いのは加藤祐一の『文明開化』(明治6年(1873))。「元来、獣肉魚肉都(すべ)て肉類を忌むは、仏法から移つた事で、我が神の道には其様なことはない(p.62)」としている。先ほどは「神仏」だったのが、ここでは明らかに仏教排斥・神道称揚の立場から肉食が奨励されている。

こうして政府と知識人によって肉食は奨励され、また戊辰戦争の時に負傷兵の治療食として用いられたり、西南戦争のときの兵食となったりして広まっていった。

もちろん、それに反対したものもいなかったわけではない。反対論は、(1)けがれや神仏の信仰、(2)米食で栄養は取れるのだから無用、(3)西洋かぶれは見苦しい、の3点に集約できるが、あまり大きな影響を与えなかった。森鷗外(軍医総監)の「日本兵食論大意」では、兵食には米食が適しているとしてその後大きな影響を与えたが、肉食を退転するものではなかった。

一方、本格的な西洋料理の方はどうだったか。外国人居留地にはホテルや西洋料理店が早くにできていたが(「築地ホテル」は明治元年)、明治5年には東京に「精養軒」ができ、また明治6年頃には本格的な西洋料理店の時代となり続々と開店した。明治5年には、仮名垣魯文『西洋料理通』、敬宇堂主人『西洋料理指南』が出ている。

こうした風潮が最高潮に達したのが明治16年(1883)の鹿鳴館の時代で、連日の大宴会は文明開化の一つのシンボルになった。しかし鹿鳴館は「西洋の猿真似」と批判されて外国からも不評で、わずか3年ほどで幕を下ろした。そしてこれと軌を一にして、本格的な西洋料理屋は次々と閉店。西洋料理は社会の上層部ではもてはやされたものの、庶民には受け入れられなかったのである。だが、西洋料理をアレンジした洋食は、どんどん生まれていく。

明治7年(1874)にはあんパンが登場。パン自体は日本に伝来したのは戦国時代で、幕末には江川坦庵が兵食として研究していたが、日本食には合わないため庶民に広まることはなかった。だがあんパンの登場を機にパンが普及する。あんパンを開発したのは木村安兵衛。彼は明治2年(1869)に東京に「文英堂」という洋風雑貨兼パン店を開店。これは東京のパン屋の始祖である。彼は西洋のパンを模すのではなく、新しいパン作りを志向していた。そして酒まんじゅうをモデルに、パン種の入手が容易でなかったのを米麹を使って克服して、6年の歳月を費やしあんパンを完成させた。西洋のパンと違い、パンをおやつとしてアレンジしたのが大きな発想の転換で、これによってパンが爆発的に広まった。その後、「ジャムパン」(木村屋1900)、「クリームパン」(中村屋1904)、「カレーパン」(名花堂(現在のカトレア洋菓子店)1927)が生み出され、日本の食生活において菓子パンは欠かせないものになっていった。

とんかつは、あんパンとは違って多くの人びとの工夫によって生まれた。まず明治28年(1895)に、東京銀座の「煉瓦亭」が刻み生キャベツをつけたとんかつの前身「豚肉のカツレツ」を売り出した。牛でも鶏でもなく豚肉を使い、たっぷりの油で揚げて(=ディープ・ファット・フライング)、生キャベツを付けたのが常識破りの工夫であった。この頃はデミグラスソースであったが、コロモにソースが絡まったのが米飯にぴったりなので庶民は歓迎。さらに明治30年代にウスターソースが登場してこれがポークカツレツの人気に拍車をかけた。

そして昭和4年(1929)に東京下谷の「ポンチ軒」が分厚い豚肉を揚げたとんかつを売り出した。これは大人気となり、「とんかつ時代」が到来。あまりにもとんかつが人気となり、「強気の料理人が多かったようで、とんかつを食わせてやるというツラガマエ(p.184)」だった、という話は、現代のラーメン屋にも通じるものがありそうだ。

他、親子丼(明治10年頃)、串カツ、ライスカレー、カツカレー(大正7年)、などが陸続と現れた。そしてこれらは、「和食の洋食化ではなく、西洋料理の和食化(p.213)」であったことが重要だ。それらは西洋料理の刺激を受けて生まれたものではあるが、独創的な工夫によって生み出された新しい和食だったのである。明治31年(1898)に著された『西洋料理法大全』(石井治兵衛)でも、洋食は立派な日本料理として評価されている。

また洋食文化を生んだのは、カフェーの力も大きかった。カフェーは最初はコーヒーを飲む店、次に軽食を出す店、次に美人が洋酒をついでくれる店、と変化するが、カフェーの軽食も洋食の普及に一役買った。大正末頃には、洋食が人気になったためにそば屋から客が減り始める。これに危機感を抱いたそば屋が、関東大震災後に洋食を出すようになって受け入れられた。「そば屋でカレー」はこの頃からのことだ。さらにデパートの大食堂は、洋食を集大成して提供した。洋食は「外食」として発展したのである。こうして「庶民の洋食が勢ぞろいし、「食のレベル」として頂点に達したときに、「とんかつの誕生」となった(p.234)」のである。

近代日本の「洋食」が、単に西洋料理の受容ではなく、独自の食文化の創出であったことを詳述した良書。

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2023年7月17日月曜日

『ユダヤ人とクラシック音楽』本間 ひろむ 著

ユダヤ人の作曲家・演奏家について述べた本。

クラシック音楽では、ユダヤ人の作曲家・演奏家はとても多く、特に現代の演奏家ではユダヤ人は非常に大きな存在感がある。本書は、クラシック音楽におけるユダヤ人の存在についてエッセイ風にまとめたものである。

ユダヤ人は元来音楽的な民ではなかった。というのは、彼らにとって非常に重要だったのは当然ユダヤ教であったのだが、シナゴーグ(ユダヤ教の教会)に楽器を持ち込むことが禁止されていたからだ。

よって、ユダヤ教の音楽は、全て器楽伴奏なしの歌であった。17世紀のシリアで生まれた「シラート・ハバカショート」はユダヤ教の伝統的な嘆詠歌唱であるが、これも中近東の旋律を使ったアカペラであり、ユダヤのエスニックなものとは言いがたい。

また、ヨーロッパに広がったユダヤ人たちは、それぞれの土地で教会以外の場所で音楽文化を育んでいた。特にスペインのユダヤ人たちが生んだ「セファラード音楽」(チターやウードを使う)や、東欧のユダヤ人たちが18〜19世紀に生んだ「クレズマー音楽」は(ヴァイオリン、チェロ、クラリネットなど)は、ユダヤ人たちの大衆音楽として重要である。しかし、これらはクラシック音楽には大きな影響を与えていない。

 本書では次に、著名なオペラにおけるユダヤ人・ユダヤ性について述べるが、結論としては「オペラの世界のメインストリームにユダヤ人音楽家はいない(p.54)」。

一方、オペラを「楽劇」にまでスケール・アップしたワーグナーは、周知の如く、ユダヤ人を徹底的に貶めた。彼はK・フライゲンダンクという名で書いた『音楽におけるユダヤ性』という著作の中で、ユダヤ人音楽家のメンデルスゾーンとマイアベーアを激しく非難し、ドイツ国民のユダヤ人嫌いの一因に芸術・音楽を求めて、ユダヤ人の救済は滅亡であると宣言している。また『宗教と芸術』ではユダヤ人解放政策を非難して「アーリア人」の純粋さを保つべしとした。ワーグナーは、筋金入りの反ユダヤ主義者だったのである(なぜ彼が反ユダヤ主義者になったのかの説明は、本書にはない)。

そしてワーグナーは、その音楽に「呪い」をかけたのだと著者は言う。「呪い」の内容は本書では明確に説明していないが、(ワーグナーは楽劇の中ではユダヤ人を登場させてはいないが)ユダヤ性への嫌悪、ないしは反ユダヤ的なものとしてのアイコン性とでも言えるだろう。つまり、ヒトラーがドイツのナショナリズムの高揚のために、ワーグナーの音楽を使ったことで「呪い」がかかったのではなく、「呪い」はワーグナーの音楽に内在していた、というのが著者の考えだ。

私なりにその「呪い」を解釈すれば、それは「音楽的ナショナリズム」であると思う。ユダヤ人は国を失ったために否応なくコスモポリタンになっていった。であるから、ドイツ・ナショナリズムの権化であるワーグナーの楽劇と、ユダヤ人音楽家たちのコスモポリタン的な音楽は、どこか相容れないものがあったのではないだろうか。

本書ではさらに、フルトヴェングラーの秘書、カラヤンの妻がユダヤ人であったことを取り上げ、ナチス政権下で彼らがどのように振る舞ったか述べている。フルトヴェングラーは信念も一貫性もないとか、カラヤンには自分自身の音楽がなかったとか、けっこう辛辣である。また、その他、様々なユダヤ人演奏家についてエピソード的に語っている。

さらに、現代音楽の成立にもユダヤ人が大きく関わっていたとして、十二音技法をつくったシェーンベルク(両親ともユダヤ人だがキリスト教徒として育てられ、ユダヤ教に改宗した)、リゲティ、スティーヴ・ライヒについて簡単に述べて本書を終えている。また巻末にはユダヤ人音楽家のリスト(簡単な紹介つき)がある。

本書は、全体として何かを論証するとか、クラシック音楽の歴史をユダヤ人から見る…というような大上段のテーマがある本ではなくて、いわばつまみ食い的にユダヤ人音楽家のエピソードをちりばめたものである。それでも、「この音楽家もユダヤ人、この人もそう」という事例が列挙されるだけで、けっこう面白い。

ユダヤ人にからめてクラシック音楽を語る気軽な本。

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2023年7月10日月曜日

『博徒の幕末維新』高橋 敏 著

幕末維新期における博徒の動向を追った本。

本書はなかなか変わった本である。幕末を生きた博徒、竹居安五郎、黒駒勝蔵、勢力富五郎、水野弥三郎といったほぼ無名の人物の動向をひたすらに追いつつ、まるで講談や任侠物のような調子で彼らを描いている。しかも、筆致は学術的であるにもかかわらず明確な学術的主張は見当たらない。著者は博徒の生き方に魅せられて、それを再現するために本書を書いたのかもしれない。

私自身は、幕末の治安と博徒の取り締まりに興味があって本書を手に取った。幕末は非常に治安が悪くなった時期であるとともに、人の移動が激しくなった時期でもある。それまでは関所で通行手形を確認していたのが、幕末はその枠組みがあまり働いていない形跡がある。博徒はいろんなところに移動していたのだが、どういった取り締まりを受けていたのか知りたくなったのである。

本書には「無宿」がたくさん出てくる。竹居安五郎も無宿だ(=竹居村無宿安五郎)。無宿とは人別帳から除外された人のことで、今風に言えば無戸籍者ということになるが、人別帳から除外といっても「無宿」として登載されるので完全に無戸籍というわけでもない。彼らは何らかの罪を犯した罰として人別帳から除外された。

人別帳から除外されると、町人とか百姓とかの枠組みから外れ、まともな仕事に就くことができなくなる。そこで彼らは博徒(=今風に言えばヤクザ)となり、裏社会で生きることになったのである。江戸時代の法制はあまり更正のことを考えていなかったので、こういう仕組みで博徒が次々と生みだされることになった。特に19世紀に入ってからは無宿が多く生みだされ、流人になったものも増大した。

安五郎も、最初から無宿だったのではなく、竹居村の名門中村家の出であったが、新島(伊豆大島の南)に流された一人であった。「19世紀の世情、特に関東の世相は無宿者なくして語れな(p.127)」い。

ところで博徒は、どうやって生活の糧を稼いだのだろうか。それは当然博奕なのだが、博奕は巻き上げる対象がなくては仲間内で金が回るだけである。ではどこからお金が流れてきたのか。本書にはそういう体系的考察はないが、それを窺わせるのが韮山代官江川英龍の台場建設である。

黒船が来航すると、幕府は海防のための台場を沿岸に築造し、そこに据え付ける大砲を鋳造するための反射炉を建設することとした。これの責任者に抜擢されたのが、韮山代官の江川英龍である。この工事の実態が興味深い。台場築造では工事請負人が入札されているのだ。かつての幕府であれば、こうした大規模普請は諸藩にやらせるところである。ところが台場築造は、幕府直轄事業として、多額の予算を割いて実行したのである。

この工事には5000人ともいわれる多くの労働力が必要になったが、それをどうやって調達したか。実は、この人足の調達・動員に博徒が関わっていた。幕府・代官としても、納期内に工事を終わらせることが先決で、人足の出自などにこだわっている場合ではなかった。この工事に関わった博徒・間宮久八は莫大な金を稼いだという。

つまり博徒たちは、現代のヤクザがそうであるように、大規模開発工事にともなう浮動労働力の差配によって金をもうけていたのである。こうした工事は終わってしまえば労働力はお払い箱になるから、長期雇用はできない。その場限りの仕事に動員をかけるのが、博徒の「本業」のひとつであった。

であるから、博徒の親分、例えば竹居安五郎は、ただの荒くれものではなく、強力なリーダーシップを持つ切れ者であった。彼の実兄中村甚五郎も、争論の絶えない村をまとめる実力者(名主)であり、無宿者の増加によって治安が悪くなってきた村で「郡中取締役」に任命されて治安警察権を代行してさえいた。しかしその裏の顔は博徒の巨魁であり、大親分として君臨していた。今でいえば警察とヤクザが裏で癒着していたようなものである。

ところで、幕末には水滸伝が流行する。それも中国の水滸伝をモデルにつくられた日本版の水滸伝である。その背景には、無宿者、博徒、侠客の躍動があった。本書には、関東を荒らしまわった博徒の親方・勢力富五郎を関東取締役が捕らえるための大規模な捜索と抗争が描かれているが、これを「嘉永水滸伝」と呼ぶ。彼らは関東一円を移動しているが、関所などはどのようにしていたのだろうか。むしろ、「支配」によって管轄が分断された体制こそが、彼らが活躍する土台であったのかもしれない。

もちろん、ヤクザと同じく博徒同士も抗争した。「嘉永水滸伝」の第二幕は、博徒間の大喧嘩である。台場築造に活躍した間宮久八は、この抗争の主役の一人であった。彼の敵対勢力である無宿幸次郎らは幕府に処分され処刑されたが、なぜか久八はおとがめなしで後に台場に関わるのである。彼らは、殺す、奪う、盗む、脅かすは当たり前の犯罪まみれの集団であったのに、おとがめなしで幕府の工事に携わったのはどういうわけか。やはり、裏では幕府とアウトローとの共存関係があったと考えざるを得ないのである。

幕末が差し迫ってくると、博徒たちは尊攘運動にも関わるようになる。竹居安五郎の弟分だったのが黒駒勝蔵で、彼は安五郎亡き後に博徒たちのリーダーになった。彼も生家は名主を勤める小池家の次男であり、いわば中間層の出身。彼は尊攘運動にかかわるようになり、指名手配されていたにもかかわらず、2年も経たないうちに官軍先鋒の赤報隊に参加していた(正式な隊員ではない)。

勝蔵の盟友で、やはり博徒の巨魁だったのが水野弥三郎。彼も医師の子に生まれた中間層で、博徒となって大親分にのし上がった。彼は新選組の裏方を務め、赤報隊にもかかわった。彼は博徒ではなく、草莽の勤王のつもりであった。しかし赤報隊は「偽官軍」扱いされ、弥三郎が村々をめぐって請書までとった「年貢半減令」は新政府にとって迷惑な存在になってしまう。弥三郎は「勤王の志これある趣相聞き」と、まるで褒美でもくれるような調子で東山道鎮撫惣督府執事から呼び出され、不意打ちで斬罪梟首の判決を受けた。彼は、新政府のために走り回った自分をだまし討ちする処罰に絶望して自死した。

また黒駒勝蔵も明治4年に、微罪(赤報隊からの脱退)を問われて捕らえられ斬罪に処された。博徒たちを裏で動員していたことが新政府にとって都合が悪く、彼らは歴史から消されたのかもしれない。

幕末のアウトローを始めて学術的に取り上げた労作。

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2023年7月9日日曜日

『秩禄処分—明治維新と武家の解体』落合 弘樹 著

秩禄処分がいかにして行われたかを述べた本。

秩禄処分とは、武士の俸禄・知行を金禄公債と引き換えに廃止した行政処分であり、著者の譬えでは「公務員をいったん全員解雇して退職金も国債での支給とし、そのうえで必要最低限の人員で公職を再編するというような措置(p.4)」である。驚くべきことに、この荒療治はほとんど抵抗なく実施されたのであるが、それはどうしてだったか。本書はその過程を丁寧に追うことでその疑問に答えている。

「第1章 江戸時代の武士」では、そもそもの前提となる、武士の俸禄制度と身分について概説される。

武士は、軍役の義務と引き換えに幕府や大名から知行・俸禄を受けていた。知行には蔵米知行と地方(じかた)知行があり、また俸禄には米百俵などの実高が表示される切米の制度、下級武士の場合は一人当たり五合の計算で米を与える扶持米の制度があり、「十石二人扶持」のようにこれらが併用される場合もあった。なお知行100石といっても、実収入はその税分である現米40石であることにも注意が必要である。

そして、家格・禄高・役職はほぼ一体の関係を持っていた。 つまりある人物をある役職に昇進させる場合、家格が釣り合っていなければ禄高を引き上げて家格をも上げてバランスをとった。「禄」は「家」が負った義務に対する給与であったが、太平の世に軍役があるわけでもなく、次第に無役の家も増えていき、また石高の加増は財政負担も重かった。そこで吉宗は役職手当である「役高」を導入し、禄と役職の分離を図った。

幕末においては、幕府および諸藩で人材登用が行われ、家格主義は見直されて能力主義が採用されていった。特に近代軍制整備する場合は、兵士は画一的に命令系統に並べられることになったから、家格と旧来の軍制での位置づけは邪魔なものになった。しかし家格主義がなくなることはなかった。また言論においても、盛んに公論衆議が叫ばれ、家格にとらわれない建白などが行われた。こうした動向は武士身分の解体の前提となった。

「第2章 維新期の禄制改革」では、維新政府による廃藩置県までの禄制改革が述べられる。

明治2年に版籍奉還が行われる。藩は朝廷に奉還され、旧藩主が藩知事に任命された。これは形式的には将軍の代替わりごとの本領安堵と同じだったが、内実では旧藩主の私有が否定されていた。また藩ごとに様々だった統治機構が統一させられるとともに、様々な家格があった複雑な武士の身分は「士族」へと一本化された。

旧幕臣の場合は、駿河への移住(無禄覚悟)、朝臣化(新政府から禄を受ける)、帰農商の3つの選択肢があった。彼らを雇っていた幕府がなくなったのだから、路頭に迷ってもしょうがないのだが、新政府への帰順という選択肢があったところが面白い。 しかしその場合も、石高が削減されて最大1割にまで縮小した草高を設定し、さらにその二割五分を支給したから、かなり厳しい条件だった。特に石高が大きい場合に削減率が高く、微禄の場合はそれほどでもなかった。またこの削減率は、後に諸藩が行う禄制改革の目安となった。旧来の知行1000石は、明治2年12月の禄制では現石28石が家禄となっており、実収はわずか8%だった。よって、幕臣は駿河へ移住したり、商売を始めたりしたが、それらはことごとく失敗したという。 

一方、公家に対する禄制改革は明治3年12月に行われ、多少は優遇されていたがやはり禄は削減された。家禄の支給が、新政府の大きな負担になっていたからである。また、明治2年8月の官制改革で従来の百官(形式的なポスト)が廃止されていたため、公家の多くが失職状態ともなっていた。公家が夢見た王朝時代の再来は、あえなく露と消えた。

多くの諸藩は財政的に行き詰まりを迎えていたため、こうした改革をむしろ歓迎した。従前のように家臣団を維持していくことはできなかった。よって武士を帰農させたり(苗木藩は士族卒全体を帰農させた!)、家禄を禄券で支給させたりした。高知藩では家禄を家産化し、士族の身分制解体を併せて進めた。

「廃藩の時点までに諸藩の家禄支給高は全体で維新前より38%削減された。士族卒に限れば44%の削減率を示すが、これは廃藩置県後に政府が削減した分を上回る(p.90)」。こうした中で明治4年には廃藩置県が行われた。財政破綻寸前だった藩においては、むしろ廃藩後の方が家禄を受け取れた士族もいて、現場レベルでは廃藩は歓迎された。また藩においても、藩債と藩札の負担を逃れられたことは幸いだった。藩債は新政府が引き継いだが、債権者にとっては悪条件で償還され、藩債全体の8割が切り捨てられたという。なお旧幕府家臣団の債務は私債とみなされたため、江戸の金融を支えてきた札差たちは破産した。

「第3章 留守政府の禄制処分計画」では、岩倉使節団が外遊している中での、秩禄処分の計画とその挫折が述べられる。

廃藩置県では、士族を雇用していた藩がなくなったのだから、士族は無職になったのであり、理屈の上ではその時点で家禄の支給を停止することもできた。しかし新政府は士族の動揺を防止するためや調査の準備期間が必要だったためもあり、削減した上ではあったが家禄の支給を続けていた。 明治4年の段階で、華士族の家禄・賞典禄と社寺禄は歳出の37%に上っていたのである。今だ財源の確立していなかった新政府にとって、これをさらに削減することは喫緊の課題だった。

また、新政府にとってもう一つの課題は(いや、課題ばかりが山積していたのではあるが)、士族による軍事義務の独占の解消であった。近代的軍隊を編成するためには均一的な兵士が必要で、国民皆兵による徴兵軍の創設には士族は解体せざるを得なかった。そして当然、家禄の至急は軍事義務の見返りの意味が大きかったので、士族の解体と家禄の解消(禄券での置き換え=秩禄処分)がセットになって推進された。

士族の解体については、「徴兵告諭」(明治5年11月)と「徴兵令」(明治6年1月)によって、武士が軍事を独占的に担う体制が明確に否定された。 

一方、家禄の解消の実務を担当したのが、大蔵大輔の井上馨である。そして秩禄処分に必要な財源は外国公債によってまかなうこととし、その募集を担ったのが大蔵少輔の吉田清成(薩摩スチューデントの一人)であった。ところが吉田が岩倉使節団と合流すると、森有礼と衝突する。森は、外債の募集を自分の仕事と考え、秩禄処分にも反対だったのである。森は、家禄は世襲の家産(私有財産)だと見なし、秩禄処分はその所有権を政府が侵害するものだと訴えた。森はアメリカの新聞にまで反対論を掲載してあからさまに吉田の仕事を妨害した。結局、明治6年、吉田はアメリカではなく、ロンドンで外公債の募集に成功し約1000万円を調達した。しかしながら、急速な秩禄処分は士族に動揺をもたらす可能性があったために、棚上げにされて井上馨は渋沢栄一とともに政府を去ることになった。

なお、諸藩での禄制改革の結果、全国で禄制が画一化され、それにともなって不利益を蒙ったものたちから苦情が殺到していた。「結果的には秩禄処分に対する士族の不満は禄制廃止そのものより、その前段階の処置に集中(p.130)」した。

「第4章 大久保政権の秩禄処分」では、明治6〜8年頃の秩禄処分に向けた動向が述べられる。

明治6年にいわゆる「征韓論政変」が起こると、大久保利通が中心となった政権が確立した。家禄処分については大久保は積極的で、木戸孝允は難色を示していた。そこで、とりあえず家禄に課税することが決まった。これは家禄を私有財産と認めたことになる。続いて、家禄奉還制が設けられた。これは家禄を奉還すれば家禄の6年分を産業資金(現金および8分利子付き秩禄公債が半額ずつ)が下付されるというもので、割と恵まれた条件であった。ただし地方官(現場)の対応は様々で、多くの士族がこれに応じた県もあれば、鹿児島のように皆無の地方もあった。

なお、家禄を奉還して帰農や商売をしたものの多くは失敗したため、奉還制度は明治8年7月に中止された。

追って、家禄の支給を現米から現金へ変更するという改革が行われた。全国的にも、既に現金(金禄)で渡している地方はあったが、米価の騰貴があって士族には不評だった。しかし明治8年9月、政府は画一的にこれを金禄化し、過去3カ年の貢納石代相場を平均した額で家禄賞典禄を支給することとした。

しかしながらこの時点で、家禄支給の名目はほぼ失われていた。士族の多くは無職で、なんら国家への義務が課されていないのに、給料だけはもらっていたのだから、「無為徒食」との批判が出るのも当然だった。家禄は私有財産であると言う理屈が、家禄支給の最後の砦であった。

「第5章 禄制の廃止」では、いよいよ秩禄処分の実施が述べられる。

明治9年には、朝鮮との間の外交問題が日朝修好条規の調印によって解決され、また政府内の権力闘争も一段落していた。内外の危機が去って改革に手をつけられるようになった政府は、明治9年3月にいわゆる「廃刀令」によって武士の特権を奪った。

その布告の翌日、大隈重信は禄制の最終処分を行うよう政府に提議した。ここでは、家禄には既得権は一切ないとして、廃止するのが当然、という立場が表明されている。政府内には、士族を国の中核として成長させていく考えの井上毅のような人もおり、木戸孝允も士族保護の方策がないなかで家禄を廃止することを憂慮したが、さしたる反対なく秩禄処分は明治9年8月に可決された。

その内容は、(1)6〜14カ年分(元の家禄の条件や金額で異なる)の家禄を公債で下付、(2)元金の払い戻しに30年かける(5年間の据え置き期間+25年間)、 (3)利子は5〜7分とする、といったものである。

これが実施されると、家禄の算定に不満があった人びとからの訂正要求が頻発し、それに応じた訂正作業は昭和期に至るまで続けられることになったが、意外と秩禄処分自体への批判は少なかった。この時期に頻発した不平士族の乱でも、その決起趣意書などに秩禄処分を攻撃する文言は見当たらない。士族たちは、概ねこれを受け入れたのだった。

「第6章 士族のゆくえ」では、 秩禄処分によって士族がどうなっていったかが概略的に語られる。

士族は、一応収入の柱であった家禄がなくなり、30年後には公債による収入もなくなることが既定路線となったわけで、自活する道を探る必要があった。政府は、士族の授産(産業に従事させる)には気を使い、東北の荒蕪地の開墾に振り向けようとしたり、また銀行を通じ士族授産事業への資金貸与を行ったりしたが、それらはやはり成功しなかったものが多かった。貸付金もほとんど回収されなかったという。士族授産事業への資金貸与は、当初は厳密に審査したが末期はある種のばらまきであったようだ。

しかしながら、そもそも大多数の士族は金利だけで生活できるわけもなかったうえ、インフレによって米価が明治13年には明治9年の倍になったので、公債を手放すものも多かった。ただし、確かに士族は全体として没落したが、地道に生活したものもおり、「士族の没落」はイメージ先行の面も大きい。例えば士族は教育への志向が強く、高度な教育を受けたのは士族が多かったので、結果的に要職の多くを士族が占めることになったのである。「結局、明治期を通じて日本の社会は階層間や身分間の大規模な逆転劇はなかった(p.234)」。

私は本書を、明治政府は武士が中心となってできたのに、武士の方では大きな反抗なく秩禄処分を受け入れたのかのはなぜか、という疑問から手に取った。また、社寺禄の扱いはどうだったのかも知りたかった。

その疑問は、前者についてはかなり明解な回答が与えられている。その要点は、武士の特権解体と秩禄処分は、表裏一体ではあったが、実際には別個の論理で行われたということだ。それは、徴兵令や廃藩置県によって武士が(形式的にではあれ)「解雇」された後も、家禄が支給されていたことから明らかである。しかし「解雇」されていた以上、武士にとっても家禄を受給する正当性はなくなったと感じられており、国家の役に立つ存在として自己を規定し直すことが求められていた。

後者の社寺禄については、残念ながら本書ではほとんど扱われていなかった。

全体として、本書は史料からの声とその分析・解説がバランス良く配置され、非常に明解かつ平明である。金禄公債の実態(個別具体の事例など)が書いていないのがちょっとわかりづらい部分があったが、秩禄処分の概要を述べる本としては申し分ないと思う。

秩禄処分について知りたくなったらまず手に取るべき基本図書。

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