2021年4月30日金曜日

『ハイドン 新版(大作曲家・人と作品)』大宮 真琴 著

ハイドンの伝記。

ハイドンは古典派音楽の黎明を担った人物であり、音楽史上に重要な位置を占めている。しかし日本では評伝に恵まれておらず、本書は1962年に出版された時点で日本語での最初のハイドン伝であった。この頃、ハイドン研究は日進月歩で進んでおり、特に著者とも交友があったロビンス・ランドンは1978年に全5巻の『ハイドン』を完成させてハイドン研究に画期をもたらした。本書は、ランドンの『ハイドン』によって旧版を改訂した新版である(1981年出版)。

ヨーゼフ・ハイドンはオーストリアのローラウという村に生まれた。ハイドンの生家は特別に音楽の教育を施せるほどではなかったが、ハイドンは早くから音楽的才能を示し、特に歌がうまかったので、8歳でウィーンのステファン寺院の合唱童児として引き取られる。

ステファン寺院にいた10年間、ハイドンは体系的な音楽教育を受けることはできなかったものの、ヴァイオリンなどの楽器の習練を行い、またその音楽的雰囲気によって生きた音楽の訓練を積んだ。しかし変声期を迎えて使いものにならなくなるとすげなく解雇され、17歳のハイドンは金も希望もない状態でウィーンの街に投げ出された。

宿無しのハイドンはある親切なテノール歌手の家の屋根裏に身を寄せ、半年後、暖炉もなければ窓もない惨めな屋根裏に居を構えた(ミヒャエラーハウス)。しかしハイドン自身はとにもかくにも独立した部屋を持ち、虫食いのクラヴサンを所有していることに満足していた。そしてこの頃、ハイドンは作曲を独学した。フックスの『グラドゥス・アド・パルナッスム』、マテゾンの『完全なる楽長』、ケルナーの『ゲネラルバス教程』の3冊で作曲理論を学んだらしい。またこの頃、エマヌエル・バッハ(J.S.バッハの子)のソナタと出会って熱心に研究した。 

やがてハイドンに運が向き始める。19歳の時には最初の劇音楽「せむしの悪魔」を作曲、成功させた。そして様々な幸運に導かれ、音楽好きな貴族フュールンベルク男爵に雇われる。ハイドンは男爵の自邸での音楽会を担った。この時期、ハイドンは最初期の弦楽四重奏曲を書いた。またハイドンのもとには様々な仕事が舞い込み、不安定だが多忙で自由な生活を送った。

ハイドンは27歳の時、フュールンベルク男爵の推挙によってボヘミアのモルツィン伯爵に楽長兼作曲家として仕えることになった。12〜16名のオーケストラを率いる立場だった。この時期、ハイドンは生涯最大の過ちを犯す。それはマリア・アンナ・アロイジアという女性と結婚したことだ。彼女は喧嘩好きで嫉妬深く、偏屈で浪費家だった。結局彼女との間には子どもを授かることもなく、暖かい家庭を築くことはなかった。ハイドンは家庭で孤独だった。そしてそのために、「いっそう彼は、芸術の世界に沈潜して(p.53)」 いった。

そして1761年、29歳のハイドンはオーストリアとハンガリーの境界あたりにあるアイゼンシュタットの町に赴任する。ハンガリーの大貴族、エステルハージ家の副楽長として仕えるためだった。当主パウル・アントン侯は大変な音楽愛好家で楽団を増強したが、その一環としてのハイドンの起用だったようだ。だがハイドンが雇用されて1年もたたないうちにパウル・アントン侯は死去し、弟のニコラウス・ヨーゼフが後を継いだ。ハイドンが30年にわたって仕え、親密な主従関係を結んだのはこのニコラウス侯である。

ハイドン赴任の当時のエステルハージ家の楽団は16人で、楽長は名目的なものだったので副学長だったハイドンが事実上楽長としての職務を果たした。 ハイドンは演奏に関しては厳格で細かい指示を与えたが、人柄は穏和で、何事につけても争うことがなく、楽団員を温かく保護した。そしてオーケストラを自由に使えるという、作曲家としてはこの上ない環境で、ハイドンは交響曲や室内楽曲を精力的に作曲していった。

ニコラウス侯は、エステルハージ家の「ヴェルサイユ宮」を作ることを思い立ち、避暑地としてノイジートラー湖畔に「エステルハーザ」と名付けた新しい宮殿を造営した(1784年完成)。ここは見渡す限り泥土に覆われた田舎の寂しいところだったが、ニコラウス侯はここが気に入って一年の大半を過ごすようになり、またここを芸術のセンターにしようとした。エステルハーザでは週に2回もオペラが上演され、他に人形芝居(マリオネット:音楽付き人形喜劇)も頻繁に演じられた。ハイドンは楽長に昇進し、交響曲、オペラ、マリオネット、そしてニコラウス侯が演奏するバリトン(チェロとギターを足したような楽器)の曲など、侯の要望に応じて厖大な作品を生みだした。

1781年、ハイドンは「ロシア四重奏曲」と呼ばれる弦楽四重奏曲のセットを出版する。これはソナタ形式の完成を告げるものだった。この頃、ハイドンの全ヨーロッパ的な名声が確立し、外部からの作曲の依頼が多数舞い込むようになった。1785年にはスペインのカディスの司教座聖堂参事会からの依頼で『十字架上のキリストの七語』が作曲され、同じ頃、パリの民間のオーケストラ、コンセール・ド・ラ・オランピックからの依頼で「パリ交響曲」と呼ばれる交響曲群(82番〜87番)が生みだされた。

また1780年代には、ハイドンはウィーンでモーツァルトと会うようになった。「ロシア四重奏曲」はモーツァルトに影響を与え、モーツァルトは6つの弦楽四重奏曲を作曲してハイドンに献呈した(ハイドン・セット)。二人は様々な点で正反対だったが、互いに天才として認め合っていた。ハイドンはモーツァルトが不遇だった時期に、彼を「最も偉大な作曲家」「100年に一度の天才」と言って憚らなかった。

ところで、ハイドンの音楽が最も人気を博したのはイギリスだった。折しも1790年、ニコラウス侯が亡くなり、後を継いだアントン侯は音楽好きではなかったので、ハイドンは名誉楽長となって暇になった。そこでハイドンはエステルハーザを離れてイギリスに行くことにした。ロンドンではヨハン・ペーター・ザロモンというヴァイオリニストが演奏会を企画し(ザロモン演奏会)、ハイドンの交響曲は喝采を浴びた。社交界からもハイドンは大歓待を受けた。

ハイドンは人気者としてチヤホヤされる騒々しい生活はあまり好きではなかったらしい。しかしロンドンにおける日々はハイドンの生涯で最も幸福な時期でもあった。しかも演奏会からは莫大な収益があった。ハイドンは2度ロンドンに渡り、一度はロンドンに永住する気にもなったほどだ。

2度目のロンドン旅行から帰ってきたハイドンは、アントン侯を継いだ新しいエステルハージ家当主ニコラウス2世から再び楽長に任じられた。ニコラウス2世は、かつてのエステルハージ家の楽団を再建しようとし、また今や全ヨーロッパ的名声を持つハイドンを抱えるという誘惑に勝てなかったのである。

しかしニコラウス2世の音楽の趣味はかなり偏っていた。彼は伝統的な宗教音楽を好み、新しい時代の音楽を切り拓いてきたハイドンの音楽はあまり好きでなかった。それでもハイドンは古くからの恩があるエステルハージ家から離れようとはせず、むしろ新しい主人の好みに合わせて宗教音楽の作品を作るようになった。ハイドンの晩年を飾る一連のミサ曲がエステルハージ家のために生みだされた。

そしてロンドン旅行の際、オラトリオ『メサイア』などヘンデルの偉大な作品に触れ刺激を受けていたハイドンは、全ての力を傾注してオラトリオ『天地創造』を作曲した。『天地創造』はロンドンで手に入れた台本をスヴィーテン男爵が翻訳し、また男爵が音楽愛好家の貴族から作曲の費用を集めるなど、男爵との協力のもとで作られたものである。これは各地で異常な成功を収めた。また男爵は『天地創造』の成功を受けて、「四季」の台本を作成してハイドンにオラトリオを作曲させた。「四季」の台本はあまり詩的ではなく、ハイドンは乗り気でなかったがこれも傑作となった。『天地創造』『四季』はハイドンの全声楽作品の中で燦然と輝く作品である。

ハイドンの晩年は様々な栄誉に彩られていた。ハイドンほどの名声を手中にした音楽家は、西洋音楽史でも初めてだったかもしれない。1809年、77歳でハイドンは死んだ。ちょうどナポレオン軍がオーストリアに侵攻してきた時で、ウィーンは占領下だったので死去時にはほとんど知られなかったが、葬式の後日、ウィーン中の名士が集まって追悼式が行われた。そこでウィーンの音楽家たちが歌った曲は、親友モーツァルトの『レクイエム』だった。

ハイドンの人生で特徴的なことは、キャリアの中心がエステルハージ家の楽長という地味で地方的なポジションだったことだ。エステルハーザ宮はヨーロッパの端っこで、周りには何もない田舎だった。ハイドン自身、田舎に勤務することの不利を感じていた。しかしこのヨーロッパの音楽シーンの中心とは離れた浮世離れした環境で新しい時代の音楽が生まれ、しかもそれが認められることになったのが不思議である。このあたりの事情は本書には詳らかではない。

ハイドンはロンドン旅行の前には、ウィーンとエステルハーザを往復する以外には大旅行をしたことがなかった。この時代の音楽家は各地の宮廷を渡り歩くのが成功の常道であったにもかかわらずだ。ハイドンの成功は、当時のセオリーとは違った形であったのは間違いないようだ。エステルハーザでの職務は多忙だったが、孤独で喧騒のない環境は却って芸術が醸すのによかったのかもしれない。

本書は、伝記が約半分で、4分の1が作品の簡単な解説、その他に作品リストと年表、交友リストなどとなっている。本書は、ハイドンの生涯を知ることの出来る良書であるが、一つ物足りない点がある。それは、記述のスタンスとして、音楽の内容には極力踏み込まないようにしていることである。主役はあくまでもハイドンの人生であるということだ。

音楽についての記載は簡略だが、正確かつ抑制された筆によるハイドンの伝記。


2021年4月18日日曜日

『女犯—聖の性』石田 瑞麿 著

女犯(にょぼん)を中心に、日本仏教における破戒の歴史を述べる。

東アジアの仏教圏においては、日本の僧侶は戒律を守らないことで有名だ。妻帯や肉食は普通で、しかも信者からそれが問題であるとも見なされない。では歴史的にはどうだったか。殺人や盗みといった破戒ももちろんあったのであるが、事例として圧倒的に多いのは女犯——つまり姦淫——であった。そこで本書は、古代・中世・近世における女犯の歴史を繙く。

といっても、かつてどれくらい僧侶の女犯が行われたか、統計資料があるわけでもない。そこで著者は、女犯の事例を様々な資料から博引旁証する。寺院の記録、随筆、裁判記録、そして時には物語(フィクション)の力も借りて、女犯の歴史を語ったのが本書である。

本書ではあまり述べられていないが、本題に入る前に、そもそも戒律とは何だろうか? 戒律とは、元来は世俗社会から離脱して僧尼のコミュニティに入る際に制約した規約である。インドで誕生した仏教は、僧尼が集団生活(サンガ)を営んだ。そこにコミュニティを破壊するような「異分子」が入ってくると大変な問題になる。現代でも、友だちグループの中に新しいメンバーが入ってきてグループが瓦解するようなことはよくあるが、そういうことを避けるために、仲間に入れるかどうか全員で討議したのが元々の「受戒」であった。

しかし僧尼が巨大な集団になってくると、グループ全員で討議するのは現実的でない。そこで、新参者の加入の際、規約(戒律)を誓約させるにあたってグループの代表者10人でその吟味を行った。それが「十師」(三師七証)である。やがて討議の機能は失われて、十師は受戒の証人というような位置づけに変わっていった。要するに、受戒とは「戒律」とその「証人」の両方を必要とする行為なのだ。

一方で、日本における仏教集団は国家が「僧尼令」で作ったものだが、受戒に必要となる最初の10人はどうするかという問題があった。最初の仏教集団は誰も証人立ち会いの下で戒律を授けられていなかったので、いわば古代の僧尼全員が無戒律の状態にあったのである。こうして、そもそも出家という方法が仏法に適っているのかという疑問が出てきた。その疑問を抱き続けたのが元興寺の隆尊である。彼は時の政権に働きかけ、結果として中国から道璿(どうせん)が来日した。

さらに鑑真らの来日によって十師が揃い、ここでようやく日本でも如法の十師受戒を行うことができるようになったのである。ところが、こうして苦労して十師を揃えたのにもかかわらず、肝心の戒律護持については日本の僧侶はほとんど関心を持たなかったように見える。受戒を形式的に成立させることには熱意をそそいだのに、それを実行することには無関心だったというのが日本の戒律の出発であった。

また最澄は、十師受戒は必要ないと考えて、従来は副次的なものだった「梵網戒」のみにより受戒が可能とした。それは死後国家にも認められ、天台宗は独自の戒壇を持つことになった。これは日本独自の受戒制度であった。なお比丘尼の場合は、中国から比丘尼の十師が来日することはなかったので十師受戒はいつまでもできなかった。そこで天台宗は、万寿4年(1027)山下の法成寺に「比丘尼戒壇」を建立。ここに比丘尼が受戒できる体制がようやく整った。しかし約30年後、法成寺は消失する。以後、比丘尼戒壇は再建を見ることはなかった。

【古代】

先述の通り、古代においては受戒は大きな問題であったが、肝心の中身についてはすぐに閑却された。多くの僧尼は、戒律の内容がなんであったのかさえ分かっていないと考えられるという。十師受戒の内容は「二百五十戒」と呼ばれる250条の規約であったが、少なくともこれが全ての僧に認知されていた様子はない(尼の場合は348条)。

そして妻帯が横行することになり、沙弥(まだ受戒していない見習い僧)の場合は即妻帯者と考えられるほど一般化した。比丘(受戒後の僧侶)の場合も寺にいながら妻帯する場合が多く見られた。古代の場合、出家は国家に管理された行為である。受戒し僧尼になれば、国家が課していた義務から解放されたのである。にも関わらず、その行為が俗人と変わらないとなれば何のための出家かということになる。そこで延暦23年(804)、仏教界の腐敗・戒律の無視を批判する勅が出されたが、破戒を取り締まる側の僧綱・指導的立場にある諸寺が積極的に動いた形跡はない。眼に余る破戒僧は「僧尼令」によって処罰されたものの、それも見せしめ的なものに留まった。

平安時代に入ると、妻を持つ僧侶は普通のこととなり、しかもそれが悪いことだという認識もなくなったようだ。僧と尼のカップルも散見される。説話文学などでも、僧が懸想した相手と結ばれたことを「めでたし、めでたし」という調子で語っているものがある。そこには男女の間の結びつきを自然なものと考える態度があり、戒律は護持しなければならないという意識自体がない。

一方、宇多法皇は出家後に子供をもうけているが、世間体を気にして醍醐天皇の子ということにしている。高僧なども含め、社会の上層には一応破戒という意識はあったようである。ところが一般僧の場合は女犯は一般的だったようであまり悪びれた様子がなく、問題にもされていない。密通の事実が明らかになっても何の処罰も行われなかったケースもある。

また、男色については女犯以上に多かったようである。

さらに日本仏教に特異な風習として成立したのが「父子相伝」である。自分の子を弟子にしたのを「真弟(しんてい)」といい、寺を相続させるのだ。要は寺院の実子相続であり、破戒を前提とした制度である。天台口伝法門ではこの世襲制が重視された。

【中世】

授戒が全く形式的・儀式的なものになってしまって、内実が伴わないことへの反省が律学の徒から起こってきた。そもそも破戒僧ばかりを10人集めても十師にはならないので、形式的にも授戒を行うことはできない。そこで天台・真言の両宗を学んだ俊芿(しゅんじょう)は宋に渡り、律を極めて帰国した。俊芿は(十師を招聘することができなかったので)授戒の面では現状を打開することはできなかったが、律学の新たな局面を切り拓いた。

一方、興福寺の貞慶の弟子、戒如の門下から、覚盛(かくじょう)、叡尊、有厳(うごん)、円晴という律宗復興を果たす「自誓の四哲」が輩出された。「自誓」とは、自らの内面によって得戒できるという考えで、彼らは受戒の形式的な要件ではなく戒律護持の内面をこそ重視した。覚盛・叡尊によってこの新しい受戒が進められ、覚盛に教えを受けた円照によって東大寺の戒壇院も再興された。

西大寺の叡尊は新しい戒律の考えによって多くの人に授戒を行い、貴賤の人が一千人単位で受戒していった。また門下では忍性(にんしょう)が傑出し叡尊の後を継いだ。しかし、多くの人が受戒に殺到したのは、心から戒律護持を決意したためではなかった。叡尊らの内面重視の考え方とは逆に、受戒によって戒体(止悪作善の力を持つなにか)を得られ、それがある限りは戒を犯しても大丈夫だという「受戒による功徳」を人々は期待していたのである。例えば病気平癒を祈って受戒する、といったようなことがあった。やはり戒律は形無しになっていったのである。

しかも叡尊自身、たとえ相手が婬女(売春婦)であっても授戒したし、亀山上皇から授戒を求められた際は婬戒を外しておいて(!)、上皇がその後も女性と性的関係を結べるようにするなど(戒の全部ではなく一部のみ授戒する=少分戒)、厳格な戒律護持を念頭に置いていなかったことは明らかである。

一方、『貞永式目』の追加法(1235)で破戒僧を鎌倉から追放することが定められ、『公家新制』(朝廷が定めた法規)でも戒律護持を求めるなど、戒律は法規的に位置づけられるようになった。ところがその禁制は厳格なものでなく、常態化していた僧侶の妻帯・女犯を半ば黙認していた雰囲気がある。

なお諸寺においても禁制が作られたが、そこで「尼は常住できない」といった規制を設けていることが注目される(例:摂津の勝尾寺)。つまり寺に尼が住んでいたからこういう規制ができたということだ。古代寺院では僧尼は別住していたが、中世ではその規範が崩れていたのである。僧の妻帯は、寺に僧の(母や姉などの女性を含む)家族が同居していることを意味し、さらに家族以外の尼も常住していたのである。

さらに中世には念仏者の破戒が問題になってくる。念仏のみによって往生できるならば戒律は不要だとの(法然によれば間違った)認識が広まってきたからだ。そうした専修念仏者の破戒行為は他宗派の僧侶(特に興福寺)から批判が出たが、実際の行状は五十歩百歩であったらしい。

そんな中、本書に挙げられた宗性(東大寺別当に任じられた学識高い僧)の例は衝撃的である。彼は34歳の時、節制の誓いを立てたのであるがその内容は、

  • 笠置寺にいるうちは節制する。ただし休暇の際に山を下りた時は酒を飲み淫事を行い勝負ごともする。
  • 酒宴を禁断する。ただし良薬として用いることを除き、飲む際は一日3合までにする。

といったことで、ここまで緩い節制なのにそれを自分では「善心」と評価している。さらに36歳の時は禁欲の誓いを立てたが、その内容は、

  • これまで95人の男と関係を持ったが100人で止めにしよう。
  • 特に41歳で笠置寺に籠居したら、亀王丸の他は関係を持たない。
  • 自房の中には上童を置かない。(自房の中じゃなかったらいいのか?)

などだ。男との関係は100人で止める、ということなどは、禁欲というより「百人斬り」の誓いのようなもので、しかも100人で止めると言っておきながらお気に入りの亀王丸との関係は続ける気満々である(ちなみに戒律では男色も禁じられている)。本人はこれが「禁欲」だと大まじめに信じており、当時の僧は現代の普通の人よりも性的に放縦であったように思われる。

この他、各宗における女犯の事例やその受容など詳しく述べられているが、総じて言えば、戒律護持が叫ばれることはあっても現実に横行する破戒行為が多すぎていかんともしがたく、消極的にであれ破戒は容認され、しかも一般の社会からも問題視されることは少なかった、とまとめることができる。

【近世】

近世に至って破戒への政権の対応は一変する。江戸幕府は諸宗に対して強い規制を以て臨み、『公事方御定書』では、女犯の僧は遠島、密夫の僧の場合は獄門、などと破戒に対して極めて厳しい刑罰を加えたのである。

しかしそれでも、僧侶の女犯(特に遊郭通いと妻帯)はかなり多かった。また寺に女性を住まわせる場合も多かったようである。寺で遊女を囲っていた事例も紹介されている。またそうした女性関係は犯罪も誘発した。そこで『御定書百箇条』では僧の女犯は磔(はりつけ)となって極刑となった。これは主人・親・師匠などの殺人に適用されたのと同じ量刑であった。

遊郭帰りを一挙に検挙された事例では70人もの僧が召し捕らえられたこともあり、取り締まる側では、破戒を減らそうとしたようである。しかし女犯が顕著に減少したということはないようだ。僧は「梵妻」などといって寺に半ば公然と妻を置いていた。当局が検挙キャンペーンを行うと多くの寺がお咎めを受けたが、また暫くすると元に戻ってしまった。

こうした仏教の腐敗堕落に対して、社会の方から批判が起こってきたのが中世とは異なった点だった。例えば熊沢蕃山、中山竹山、上田秋成は、破戒の寺は破却されて当然だというようなことを述べている。中世の頃は、いくら破戒でも僧は有り難いものだという観念があったのに対し、江戸時代では破戒僧などいないほうがましだ、というような態度になっている。

このようにすっかり堕落した状態で仏教界は明治維新を迎え、政府による「妻帯肉食自由」の太政官布達によって国家の規制の箍が外れると、自然消滅的に戒律は空文化していった。

全体を通じ、本書は非常に多くの事例が引かれており、資料的価値が高い。僧の女犯について語る際には必ず参照すべき基本図書と言える。一方で、尼の破戒については記載が少ない。比丘尼寺もたくさんあったわけだが、そこでの戒律護持はどうだったのだろうか。例えば臨済宗の尼五山ではどうだったのか? そのあたりはさらに知りたくなったところである。

また、本書は事例列挙の面が強くそれを横断的に分析することはしないが、僧+俗人の妻、僧+尼、俗人の夫+尼、といった破戒のいろいろなケースについて分析してみたら面白いと思った。本書の研究を基盤にしてさらなる破戒の研究がなされることを期待したい。

大量の資料から根気よく僧の女犯の事例を探し出した大変な労作。初めてまとめられた破戒の日本史。


2021年4月16日金曜日

『星の古記録』斉藤 国治 著

歴史に記された天文現象。

著者は「古天文学」の第一人者(というより他にいるのか?)である。古天文学とは、古い歴史書や日記などに記された天文現象を現代の科学を用いて検証し、史料の記録の真否を判断したり、史料の誤りや錯簡・判読不能字などを読み解いたりする学問である。

例えば、『日本書紀』『続日本紀』には日食の記事がたくさん記載されているが、検証してみるとそれらの記録のうちの多くが実際にはその時には日食が起こっていなかったことが明らかになった。

その頃は日食(が起こる可能性のある日)の予測計算が行われており、それを機械的に当て嵌めたことで大量の日食予測がなされたようである。『日本書紀』等はその予測を記録に留めたものと考えられる。この頃、天文観測を担った陰陽寮は多めに予測を出した。というのは、日食は凶兆とされたので、日食の予測が出たら日食を避ける仏道祈祷が行われたのである。つまりその予測が外れたら(日食を追い払ったことになって)手柄となったために予測を乱発した可能性がある。

しかしながら、古代の中国や日本では概ね正確な天文観測が行われていた。特に古代中国の天文観測は正確無比だそうで、記録としても正史に「天文志」という天文観測専門の史書を作った。なぜなら、天体現象を「天意」の現れと見たので政治的に重要だったからだ。日本でも陰陽寮が設けられて毎日夜空を観測していた。

古代においては現在と違ってどのような天体現象が起こるかは事前に予測ができなかったので、毎晩じっと夜空を見上げて「天変」がないか確認していた。しかも天文官らは見たところを他言することを許されず、陰陽寮の上級官吏は天子との間に密奏という直通のパイプで結ばれていた。天変を明らかにすることは失政を暴露する行為だったからである。

本書には記載がないが、月を詠んだ和歌は大量にあるのに星を詠んだ和歌はごく僅かしかない、ということはよく指摘される。本書を読んで、その背景には天体現象が国家機密であったために、みだりに(!)星を観ることの自主規制があったのかもしれないと思った。

さて、日食や月食はやがて正確に予測できるようになって、天変とはいわなくなっていく。特に中国では、日・月食の予測が文字通り命がけ(予測が外れたら死刑とか)だったので科学的な観測が行われたからだ。そして天変とは、彗星の出現、月による星食犯(月が星を隠す)、惑星同士の合犯(重なり、近づき)などを示すようになった。

本書では、古天文学のケーススタディとして、日食、惑星の合犯、『明月記』に記録された超新星爆発、流星と隕石、ハレー彗星、カノープス(南極老人星)(北半球からはほとんど見えない星なので観測できたらめでたいこととされてお祝いをした)、ガリレオ衛星の観測などが取り上げられている。

最後に、明治時代に行われた金星過日(金星が太陽の中を通過する現象)の模様と、皆既日食(のコロナ)の観測が述べられている。この部分は「古天文学」ではなく、日本がどのように現代の科学を受容したのかということがテーマである。明治7年の金星過日については、数カ国の観測隊が日本を訪れて観測を行ったが、これは科学における「黒船」であったと同時に、日本初の国際科学交流の機会でもあった。

明治20年の皆既日食については、政府がこの観測を国民に勧奨し、官庁・学校については当日午後1時以降を臨時休業とした。時の政府は日蝕の観測を科学振興の契機としたのである。

本書に述べられる古天文学の事例は、どれも興味深いものばかりで楽しく読んだ。これまで古代の日本人は星空に無関心だったのかと思っていたが、そうではなかったのである。例えば星の観測記録については、日本は世界的に見て豊富であり、特に獅子座流星群については日本の記録が圧倒的に多い。にもかかわらず不思議なことに、日本では獅子座流星群の出現周期を発見することもなかった。少し注意すれば周期を割り出すことはたやすかったのに、そういう理論化をしなかったのである。日本では星の観測で「科学」が育つことはなかった、ということは哀しい真実のようである。

「古天文学」の楽しい入門書。

【関連書籍の読書メモ】
『密教占星術—宿曜道とインド占星術』矢野 道雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/11/blog-post.html
密教占星術「宿曜道」の理論を解明する本。宿曜道を理解する上での必読書。


2021年4月6日火曜日

『クララ・シューマン』萩谷 由喜子 著

クララ・シューマンの伝記。

クララ・シューマンと言えば、クラシック音楽に詳しい人ならば作曲家ロベルト・シューマンの妻だったピアニストとして知っているだろう。しかし、当時においてはクララの方がずっと有名で、むしろロベルトの方が 「クララの夫」として認識されていた。

クララの父は音楽教育家のフリードリヒ・ヴィーク。ライプツィヒで音楽教室を営み、また音楽サロンを主催して町の音楽界の要人を気取っていた。

母(マリアンネ)はヴィークの弟子でピアノを学び、また声楽もこなした人だったが、ヴィークの亭主関白ぶりと、妊娠中だろうが産後間もない時期だろうがかまわずステージに立たせる人権無視の家内労働に辟易して離婚する。マリアンネのステージはヴィークの音楽教室の最高の広告塔だったのだ。こうしてクララは母の愛情に飢えた少女時代を過ごすことになる。

そしてヴィークは、母の代わりにクララをピアニストにすべく、クララのピアノ鍛錬を生活の中心に据え、徹底的な指導を行った。といっても、彼は優れたピアノ教師だったので、闇雲にピアノに向かわせたのではなく、むしろピアノのレッスンの時間は意外に短く、音楽の総合的な勉強に長い時間を宛てていた。またクララには音楽的才能があったため嫌々ピアノをやっているというわけではなかったようだ。

ところがヴィークの気味の悪いところは、クララの全人格を管理してピアノに集中させようとしたところで、なんとヴィークはクララの日記を一人称「わたし」を使って代わりに書いている。「父は急行馬車で夕方七時に到着した。わたしは、父の腕に飛び込んだ」…といった文章を父ヴィークが書いているのである! 人格すらも手中にする手段だったのだろうか。ある意味洗脳のようなところがある方法である。この「日記」は7歳から17、18歳までヴィークの手で書かれクララ自身に引き継がれた。

クララは8歳の誕生日を前にしてモーツァルトのピアノ協奏曲でピアニストとしてデビュー。もちろんこれはヴィークがお膳立てしたお仕着せのコンサートであったが、次第に彼女自身もコンサートピアニストとして身を立てるべく闘志を燃やすようになる。

そんなヴィーク家にピアノの生徒としてやってきたのが、クララの9歳年上のロベルト・シューマンだった。 二人はまさに対照的だった。幼い頃からピアノ一筋の教育を受け、厳しい暮らしの中で愛情に飢えていたクララと、何不自由ない豊かな暮らしの中で、暖かい愛情を受けて「自分探し」をしていたロベルトは。

ロベルトは、すぐにヴィーク家の「お兄ちゃん」としてクララたちきょうだいを楽しませるようになった。ヴィーク家に足りていなかった暖かな愛情や冗談をロベルトは自然に持っていた。子どもたちと一緒に泣いたり笑ったり怒ったり。きょうだいみんながロベルトを大好きになった。

一方クララは、11歳にしてプロのピアニストとなった。ヴィークの力が大きかったのは言うまでもないが、彼女自身が幼くして高いプロ意識を持ち、やりきる意志と体力、そして技術を持っていた。クララはゲーテにも認められ、多くのピアニストが犇めく当時のヨーロッパにおいて頭角を現していった。しかも彼女は少女らしく愛らしい曲ではなく、当時ほとんど演奏されていなかったバッハのフーガや、ベートーヴェンの熱情ソナタといった本格派の曲目で勝負していた。

クララが15〜16歳の頃、ロベルトとクララは恋に落ちる。しかしヴィークは交際を一切認めず、二人の手紙のやりとりすら禁止した。クララはヴィークの「作品」であり、これから花開こうという時にふわふわした頼りない男ロベルトに取られるわけにはいかなかった。クララ18歳の時、ロベルトが求婚。ヴィークは、ロベルトが到底不可能な年収を条件にあげて諦めさせようとしたが、二人は裁判所に父が不当に結婚を妨害していると訴え、結局ヴィークは敗訴する。

こうして二人はライプツィヒで新婚生活を始めた。二人は幸せだったが、クララのキャリアには結婚はマイナスだった。作曲家として名を上げつつあったロベルトは作曲に没頭。その間にはクララはピアノに触れることができず、また家事の負担もあり、自分の時間を持てなくなっていた。

ロベルトは、クララがコンサートピアニストとして働くことを理解し応援していた。だがこの時代のピアニストは旅から旅にコンサートを渡り歩いていくことが必要で、コンサートピアニストであることは、家庭を長い間不在にすることを意味していた。ロベルトはロシア旅行には同行したが、体が弱いロベルトに当時の旅は苛酷すぎて体調を崩した。お互いの才能を認め合っていた二人だからこそ、二人で生きていくことには葛藤があった。

ところで、シューマン夫妻を理解し後援してきたのが、メンデルスゾーンだった。ロベルトは一歳年上のメンデルスゾーンをとても尊敬していた。そのメンデルスゾーンが38歳で急死。ロベルトは衝撃を受け、元々崩していた精神状態がさらに悪化。作曲家としての名声が確立していく一方で衰弱していった。そして1854年、クララが35歳の時にロベルトはライン川に投身自殺を図る。その時は救助されたものの、ロベルトは自発的に精神病院に入った。

この混乱した時期に夫妻を支えたのが、クララの14歳年下のヨハネス・ブラームスである。ロベルトはブラームスの才能をいち早く見抜き、強力に支援した。ロベルトが衰弱死するまでの2年間、ブラームスはロベルトに面会して夫妻の間のメッセンジャーを務め、シューマン家の幼い子どもたちの世話をした。そしてその中で、ブラームスは次第にクララに対して愛情を感じるようになっていった。ロベルト死後、おそらくブラームスはクララに求婚したに違いない。しかしその間の事情は全く歴史に記録されていない。二人は、友人として生きる選択をし、事実生涯にわたっての親友となった。

寡婦となったクララは、子どもたちを養うため、また追って成人した子供の家庭をも養うため(三男はモルヒネ中毒になって働けなくなった)、コンサートピアニストとしてそれまで以上にバリバリ働くことになる。旅から旅の暮らしでは子どもたちの面倒を見ることはできないから、乳母や家政婦に子どもたちの世話を任せ、また長じては寄宿学校に入れた。59歳の時にはフランクフルト・アムマインの音楽院教授にも就任。ピアニストとしてだけではなく作曲家としても評価され、なんと72歳まで演奏会を行った。

クララのピアニストとしての功績は次のように要約できる。(1)バッハのフーガを積極的に取り上げ聴衆に受け入れられた、(2)ベートーヴェンの難解なソナタ(「ハンマークラヴィーア」等)を広めた、(3)ショパンの作品をドイツに紹介した、(4)ロベルト・シューマンの作品を積極的に演奏して評価を高めた。そしてそれらを知的な解釈で豊かに表現した。つまり、クララは稀有な女性コンサートピアニストだっただけでなく、19世紀のピアノのレパートリーの開拓者でもあった。

クララ・シューマンは76歳で亡くなった。ブラームスとは晩年には互いに頑固なところが災いして諍いもあったが、44年に渉る交友は概して温かなものだった。そしてクララの死後、魂の抜け殻となったブラームスは、わずかその10ヶ月後、後を追うように肝臓癌で急死するのである。

本書は、子供向けに書かれたものであるため大変読みやすい。だが子供向けとはいえ変な省略はなく、参考文献もしっかり載っていて信頼できる。クララの生涯はドラマチックで、つい引き込まれてしまった。ただ、ライフストーリーが中心であるため、音楽面の解説は簡略に感じた。特にクララの作曲活動についてはごく簡単に述べられるに過ぎない。そこだけ少し物足りなかった。

世界で初めて、妻・母としてコンサートピアニストの人生を全うした一人の女性の生涯。

 

【関連書籍の読書メモ】
『音楽と音楽家』シューマン 著、吉田 秀和 訳
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/12/blog-post_33.html
ロマン派の歴史を、音楽作品でだけでなく文筆によっても作ったシューマンの評論。


2021年3月24日水曜日

『バッハ復活―19世紀市民社会の音楽運動』小林 義武 著

19世紀にバッハが再発見されていく様子を述べる本。

バッハは、死後急速に忘れられた。もともと存命中にも第一級の作曲家として認められていたわけではなく、鍵盤楽器(特にオルガン)の演奏家として知られていただけだったから、早くに忘れられたとしても不思議ではない。しかし19世紀になって、バッハは次第に再発見され、西洋音楽史上でも最も重要な作曲家とみなされるようになる。クラシックの作曲家の中で、このように「復活」したのはバッハだけである。

とはいっても、バッハは完全に忘却されていたのではない。鍵盤楽器の作曲家としては、一部のマニアの間で筆者譜がやりとりされ、知る人ぞ知る音楽家であった。19世紀に再発見されたのは、声楽・宗教音楽の作曲家としてのバッハであった。

本書ではこの再発見の様子について、演奏などの「実践的活動」、理論や音楽史など「著述活動」、「筆写譜蒐集活動」、「音楽出版」の4つの活動分野で述べている。

【実践的活動】
メンデルスゾーンは、豊かで文化的な家庭に育ち、早くからその才能を開花させた。また特に母方の家系はバッハとの関係が深く、14歳のメンデルスゾーンが誕生日プレゼントとして『マタイ受難曲』の筆写譜を母方の祖母からもらったほどだった。そしてこの筆写譜を利用して、1829年3月10日、歴史的な『マタイ受難曲』が若干20歳のメンデルスゾーンの指揮によって蘇演されるのである。これは、メンデルスゾーンの指揮者としてのデビューでもあった。

『マタイ受難曲』の演奏は音楽家のみならずドイツ中の文化人にも衝撃を与えた。バッハはドイツの民族的ロマン主義によってゴティック様式の作曲家とみなされて称揚され、ドイツの誇りとして高い評価を与えられるようになった。

ただし、この時の演奏はバッハの曲そのものではなく、当時の人々が受け入れやすいようにメンデルスゾーンがアレンジしたものだった。とはいっても、当時、バッハの難解複雑な音楽を「改善」しようとする僭越な風潮があった中で、メンデルスゾーンはできるだけ原典を尊重していた。

【著述活動】
1802年に出版されたフォルケルの『バッハ伝』では、ドイツ国民主義を背景に「バッハの芸術は、ドイツ国民の遺産であり、その作品の保存に努めることは、ドイツ国民の義務である」としている。バッハは、単に偉大な音楽家として再発見されたのではなく、いわば愛国者によって利用された。

1850年、バッハの死後100年たって、バッハ協会がライプツィヒに設立された。これはシューマンやイグナーツ・モシェレスなど多くのバッハ崇拝者たちの献身的な努力の結果であり、バッハ運動の実りであった。1865年にはカール・ヘルマン・ビッターの『バッハ伝』、1873年にはフィリップ・シュピッタの『ヨハン・セバスチャン・バッハ』が出て、バッハ研究を飛躍的に進歩させた。

【蒐集活動】
バッハの作品はほとんど刊行されず、また刊行された少数の作品の発行部数も極めて僅かだったため、その作品の流布には筆写譜が大きな役割を果たした。それらを蒐集し保存した人々はバッハ運動の影の担い手であった。特にベルリンにはバッハの弟子が多く、自然と筆写譜も集まり19世紀のバッハ運動の本拠地となった。バッハの弟子ヨハン・フィリップ・キルンベルガーは音楽図書館を設立し、バッハを中心として音楽史上重要な作品を蒐集した。また同じくバッハの弟子ヨハン・フリードリヒ・アグリコラ、クリストフ・ニッヒェルマンも筆写譜を蒐集した。

ベルリンと並んで、バッハが後半生を過ごした街ライプツィヒもバッハ伝承には非常に大きな役割を果たした。ライプツィヒでは、ドイツの他の地方で全くバッハが忘れられていた頃にもバッハの音楽が奏でられていた。特にクリスチャン・フリードリヒ・ペンツェルは少年の頃から多くのバッハの作品を筆写し、後世に重要な資料を伝えた。

また当時は、出版社も印刷譜ではなく筆写譜を販売していたが、特にブライトコップフ社はバッハの死後11年目に最初の筆写譜目録を印刷して大量の曲を掲載しており、重要な筆写譜を遺した。

しかしなんといっても、バッハ筆写譜の蒐集保存活動で重要なのはフランツ・ハウザーである。ハウザーは、バッハの作品を消失から救うため自筆譜・筆写譜の体系的蒐集を始め、当時のバッハコレクションとしては最も完全なものを築き上げた。特にハウザーが一生をかけて作成したバッハの作品目録は、堅実かつ綿密な研究によって「旧バッハ全集」の先蹤となった。

【出版活動】
バッハ没後の出版で大きな意味を持ったのが、1765年から刊行された『バッハ四声コラール選集』(4巻)。バッハ四声コラールはロマン派の和声法を準備した。多くの作曲家がこれを和声法習得の手本として学んでいる。

19世紀には、チューリヒのハンス・ゲオルグ・ネゲリが「バッハ及び他の巨匠の、厳格なる様式の音楽芸術作品」という標題で、バッハ、フレスコバルディ、フローベルガー、ヘンデル等の対位法の大家の作品選集を企画した。この企画の第1巻がバッハの『平均律』であり、1801年頃の出版であった。これが『平均律』の最も古い印刷譜の一つである。

バッハ協会(先述)の設立を契機としてバッハ全集をまとめることとなり、厳密な資料批判によって『旧バッハ全集』が19世紀後半に順次出版され(1851年〜1899年)、全集の完成を以てバッハ協会は解散した(旧バッハ協会)。しかし当時の技術的限界(写真を利用出来なかったことなど)や必ずしも体系的な構成でなかったことなどの反省から、より完全な『新バッハ全集』が企画され、またバッハ運動の実践的活動を促進する目的で新バッハ協会が創立された。

全体を通じて本書は、バッハ復活の道程をわかりやすく述べており大変参考になる。ただし、ドイツ以外のバッハ運動については簡略な記述である。例えば、イギリスやオーストリア(特にウィーン)でもバッハの再評価・再発見はいろいろな動きがあったはずだが、そういうものはほとんど述べられていない。また演奏史の方では、『マタイ受難曲』を詳しく取り上げる一方で、鍵盤作品についてはほとんど述べていないのは少し物足りない。

また、バッハの作品が「愛国者」によってドイツの民族意識の高揚に使われたということについては、その背景の社会情勢の説明がもうちょっとあったらよかったと思う。特に巻末に年表があったら理解が早かったと思った。

しかし本書は、小著でありながら情報量が豊富であり、読みやすく、類書も見当たらないので大変価値の高い本である。

 

2021年3月20日土曜日

『三宅観瀾・新井白石(叢書・日本の思想家14)』新藤 英幸 著(その2)

【新井白石】
実を言うと、本書のうち新井白石の方は、読むつもりがなかった。しかしちょっと読み始めたら面白くてつい全部読んでしまった。

新井白石の祖父・父は、古武士のような面持ちがある人物で、剛毅な性格のため仕官と浪人を繰り返した。将来の白石の浮沈を予感させるようで、導入から引き込まれる。

白石が生まれた頃、父は上総国の久留里藩主・土屋利直に仕えていた。利直は自分の子供よりも、家臣の子である白石を殊の外かわいがったという。白石が、産まれながらに人並み外れて聡明であったためだろう。白石は特定の師を持たなかったが、独学で四書五経を読みとき、さらに全て暗誦したとされる。彼は天性聡明であった上に、貫徹させずにはおれない非常な努力家でもあり、利直の期待に応えて自らを鍛えていた。

しかし白石が19歳の時、利直が死去し、お家騒動が勃発。そのために白石は父の跡を継ぐことが出来ず土屋家を放逐され、浪人となって十数年間も貧困の極みを味わうのである。

その後、古河藩の堀田家に仕えたが藩主の死去に伴い再び浪人化。白石は私塾を開いて日を送っていた。こうした浮沈の日々を送る中で、白石は木下順庵の門人となった。この頃の儒家の正統は言うまでもなく林家であって、順庵は将軍家の侍講までつとめながらも儒家としては傍系である。白石は貧乏なため正式に月謝を払ったこともなかったが、才能が認められて別格の扱いだったという。

そして甲府藩から順庵に門人のリクルートが来たとき、その筆頭になったのが白石だった。こうして白石は甲府藩主・徳川綱豊の儒臣として仕えるようになった。綱豊は稀に見るほどの学問好きな藩主であり、白石は四書五経を継続的に進講した。例えばある年は『詩経』を162回、『大学』を3回、『論語』を7回といった調子である。『春秋』の講義などは、合計6年かかって157回行っている。綱豊が将軍になってからもこの講義は続き、19年の間、合計1299日間も白石が進講した。そして自然と、白石と綱豊にには強い信頼関係が生まれたのだった。

なお講義の合間に、白石は337家の歴史を記述した主著『藩幹譜』を著した。 

徳川綱吉が死去すると、綱豊が徳川家宣として将軍職を継いだ。こうして白石は一躍幕政に参与することになった。白石53歳の時であった。白石は、甲府藩時代からの家宣(綱豊)の重臣・間部詮房(あきふさ)と共に幕政を支えた。白石はただの政治顧問ではなく、長年に亘って家宣の侍講をつとめてきた間柄であったから、その意見は概ね受け入れられて文治主義が推進された。

家宣の治世は、悪貨の流通や「生類憐れみの令」といった綱吉の無理な政策の修正が課題であった。家宣は綱吉の遺訓であった「生類憐れみの令」を理由をつけて停止させ、そのために罰せられていた人々を総計8831人も恩赦した。徳川家始まって以来の大赦であった。こうした政策は、白石の考えがかなりの程度反映されていた。長崎での貿易の制限(海舶互市新例)も白石の建言によるものである。

しかし家宣は病弱で、将軍就任後たった3年余りで死去してしまった。幼い徳川家継が跡を継ぐと、白石と間部詮房が引き続き政権を支えたが、それは前時代からの惰性的な政権であったというべきで、強力な後ろ盾だった家宣亡き今、白石自身も自らの時代が終わったことを自覚していた。

そして家継も幼くして死去し、跡を継いだ徳川吉宗は白石を免職した。失脚した白石からは潮が引くように人が遠ざかり、旧友や門人も離れ去っていった。白石の晩年はまことに孤独で失意に満ちたものだった。木下順庵門下で最も白石と親しく、白石を尊敬していた室鳩巣(むろ・きゅうそう)も、吉宗に取り立てられてからはその交友が急激に冷たくなっていった。

こうした時期に、白石は自らの学問に回帰する。 『方策合編』『東音譜』『東雅』『南島志』『蝦夷志』『経邦典例』『経世典例』『孫武兵法択』『史疑』(日本古代史の精密な論析、失われた)など、青年時代からの研究が矢継ぎ早にまとめられたのである。

しかし白石は再び世に出ることはなかった。白石自身、最晩年には「今は、どうにかして何も知らない老人と見られたいと心がけております(p.199)」と知人に述べている。こうして白石は孤独に死んだ。

白石の激動の人生から目が離せない簡略な伝記。

 

2021年3月17日水曜日

『三宅観瀾・新井白石(叢書・日本の思想家14)』新藤 英幸 著(その1)

三宅観瀾と新井白石の伝記。

【三宅観瀾】
乃木希典は明治天皇に殉死する直前、東宮御所(皇太子)に赴いて自ら筆写したある本を献じた。それこそが三宅観瀾の主著『中興鑑言』である。では本書の内容、そしてそれを書いた三宅観瀾とは何者か。

三宅観瀾は、京都あるいは滋賀の下級侍(父の生業は医者であったとも学者であったとも言われるが明らかでない)の家に生まれた。しかし父は彼が14歳の時に他界し生活は困窮する。観瀾には歳が10ほど上の兄(三宅石庵)がいたが、この兄弟は生来頭が良く、近所の子どもたちに読み書きを教えながら、赤貧洗うが如き生活の中で勉学に励んだ。しかしどうしても生活が立ちゆかなくなり、家財道具を売って京都の街に出て行った。

京都でもちゃんとした職に就くことはできず、生活は楽にならなかったが、彼は山崎闇斎の学問を知り、20歳くらいの時に闇斎の弟子の浅見絅斎の門人となった。ただし入門した時に既に観瀾の学問はかなり完成していたから、絅斎は観瀾を同士として遇したのではないかという。また絅斎の下で学んだのは6年程度であるから、絅斎の学問をそっくり継承したというような門人ではなかった。

そんな観瀾は、窮乏に耐えかねて元禄11年に江戸にやってきた。そして江戸で急に風向きが好転しはじめる。わずか半年で水戸光圀の目に留まり、『大日本史』の編纂のために水戸藩に招かれたのである。この時、光圀72歳。観瀾は26歳であった。1年半後に光圀は死去するが、人生の残り時間が少ないことを自覚していた光圀は、『大日本史』の完成を焦り、俊英を捜していたのである。

観瀾は、やがて『大日本史』編纂の主筆(正確には彰考館総裁)となる。その主な功績の一つは、将軍伝、将軍家族伝、将軍家臣伝を立てたことである。『大日本史』は中国の史書に範を取っていたから、中国には存在しない「将軍」をどう扱うかは大きな問題だった。だが現実に日本の歴史には将軍が存在して大きな役割を果たしたのだから、それを項目立てるのは今から見ればごく自然なことで、功績でもなんでもないように見える。しかしこういう、現代的な常識というか、現実に立脚した素直な視点を持っていたのが観瀾の独自性であったといえる。

そして『大日本史』編集の過程において、観瀾は彰考館の先輩であり親友でもあった栗山潜鋒と三種の神器の扱いについて論争するが、これも一つの功績だろう。彼らの議論は、ほとんどの点で一致しており、水掛け論的ではなかったものの、遂に両者は見解を一致させることがなかった。その論争の要点は、天皇の正統と三種の神器の関係をどう考えるかだった。

南北朝期において、南朝と北朝のどちらを正統と見なすか。潜鋒は、あくまで神器の所在が正統性を示すと考えたのに対し、観瀾は、神器は正統性の象徴にすぎないから、君主の義(すなわち優れた治世)が正統性を保証すると考えた。極端にいえば、悪政を行った天皇は神器を持っていても放逐されてもしょうがないというのである。

一方、時代の趨勢は潜鋒の方にあって、世の人は神器を絶対視する学説を盛んに述べていたようである。しかしそうすると、神器が君主を選んでいるという話になり、結局は天皇の正統性の根源は神勅(天照大神から与えられた、日本を統べるべしという命令)にあるという神懸かり理論になっていく。そういう空想的な理論を廃し、神器を単なる象徴とだけ考えたところは観瀾の極めて現代的なところである。

こうした正統論は主著の『中興鑑言』でも詳細に展開されている。『中興鑑言』とは、後醍醐天皇の「建武の新政」の失敗を徹底的に批判したもので、要するに「建武の新政が失敗したのは、後醍醐天皇の失策と失徳が原因であった」という天皇批判の書である。

この中で特異なことは、土木(宮殿の造営などの節約)、聚斂(政権の維持には税金の徴集が絶対に必要になるので、政権担当者が清廉でなくてはならない。また貨幣論や資源の節約を述べる)といった経済政策を述べていることである。観瀾は、観念的・形式的な論理ではなく、現実の生活に立脚して経済面を強調したのである。

また、後醍醐天皇の失政を批判する中で、修身など帝王の学が強調され、「何よりも神器を持つ者が、衆心を掌握して帰服させるほどの徳をそなえた人物でなければならず、そうでないと、せっかくの神器も意味のない虚器にひとしくなってしまう(p.65)」と警告している。

つまり、乃木希典が後の大正天皇にこの書を献じたのは、人々の暮らしを第一に考える有徳な君主となってほしいというメッセージであったのだろう。

観瀾は38歳の頃、新井白石の推挙によって幕府に召し抱えられ、駿河台の屋敷に安住できるようになった。幕臣の儒者という安定した地位を得た観瀾は、次第に文人的になっていった。師の絅斎は現実との一切の妥協を許さず、困窮の中でも独立独歩を貫き通したのに比べ、いわば常識人であった観瀾は、悪く言えば「世渡り」がうまかったのである。それを示唆するのが、新井白石の失脚後、連座をおそれて白石との交友を意図的に消去したらしき痕跡があることである。

とはいえ、観瀾の儒者としての価値は、論理一徹ではない「常識派」のところにあった。だから、その議論は今から見ても十分に理解できるものだ。山本七平は、観瀾を「「神懸かり」化しない最後の人の一人」と述べたが、観瀾の筋が日本の儒学の主流になっていたら、明治国家の在り方も随分変わっていたかもしれない。

しかしながら本書を読むと、観瀾が今ではほとんど忘れ去られた理由も理解でき る。彼は、常識人であったために、論理の力によって新しい世界を創造するといった力はなく、絅斎のように己の道を絶対化することもなかったので、人々を鼓舞するような言論を生みだすこともなかったのである。

(つづく)

【関連書籍の読書メモ】
『現人神の創作者たち』山本 七平 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/03/blog-post.html
現代日本まで生きる「朱子教」の呪縛を解きほぐした力作。日本朱子学の流れにおける観瀾の位置づけは本書が参考になる。