2021年1月14日木曜日

『黄表紙・洒落本の世界』水野 稔 著

黄表紙・洒落本の勃興と衰退を描く。

洒落本とは、遊里の世界を面白おかしく書くことを基調とする本の一群で、半紙四つ折りのサイズ、せいぜい30〜40丁(枚)のものを定型とする。

洒落本を特徴付ける概念は「(つう)」である。

遊里とは特殊な閉ざされた世界であった。そしてそこは、閉ざされ隔離されているだけに、がんじがらめになった現実から開放される自由な場所でもあった。現実の世界でその能力を活かす機会を持たなかった知識人は、遊里の世界に沈潜し、そこを機知によって彩ることで憂さを晴らした。

であるから、洒落本はふざけた訓読や遊戯的気分を持ちながらも、かなりの和漢の学識に裏付けられたものとして出発した。そしてその世界観が、「権威に対するひそやかな抵抗感や凡俗に対する優越感(p.6)」を伴って、一つの具体的表現として結晶化した概念が「通」である。

「通」とは、例えば遊里でしか通用しない言葉、つまりギョーカイ用語をひけらかしたり、ことさらに遊女との関係を仄めかしたり、要人たちとの人脈を強調したりする…といった「半可通」の対立概念である。つまり、そういう「通っぽい」俗物を超脱した立場が「通」なのだ。

もっと積極的に言えば、「充実したもののつつましやかな発現(p.105)」が「通」である。知識は十分にありながらも外部にひけらかすのを抑制し、その場に適した行動ができるスマートな行き方である。「半可通」を笑い飛ばしながら、洒落本作者たちは「通」とは何かを追求した。

洒落本の定番のスタイルは、「半可通」の主人公が若くてウブな脇役を連れて遊里に出かけ、「半可通」は道すがらいかに自分がその道に長けているかを大言壮語するが、実際には遊女に冷遇されて手痛い目にあう(のを読者は面白がる)、といったものである。そしてそういう場面が、会話中心の文体によって展開されていく。この文体は、戯曲的といってもよいものである。

当初の洒落本は機知を中心とした和漢の学識に基づくふざけが中心だったが、これだと教養がある人間にしかその面白さがわからない。それが会話中心の平明な表現を獲得することにより、人物の写実描写で醸し出される自然の笑いを描けるようになったのが「小説としての大きな飛躍(p.27)」であった。

なお、こうした洒落本の定型をつくったのが、田舎老人多田爺(いなかろうじんただのじじい)作の『遊子方言』(明和7年(1770))という作品である。筆名からして人を食っているのが洒落本だ。

このように、「通」によって発展した洒落本は、次第に「うがち」へ向かって行く。

「うがち」とは、遊里の人間関係、遊客遊女の手管魂胆といった人間心理を「うがつ」ということである。洒落本は「半可通」を軽く笑い飛ばすよりも、遊里の人間模様を心理的に描くことに重点が移っていった。

一方、黄表紙の方は、草双紙(くさぞうし)というジャンルの一種。1冊5丁(=10ページ)が二三冊でセットになった形態の本で、毎丁絵が大きく入っていて、絵の周り(余白)に平仮名を主とした文章があるという絵本の形をとっているものである。なお黄表紙は当時は「青本」と呼ばれていたが(←ややこしい)、安永4年(1775)を境として、それ以前の草双紙を「青本」、それ以後を「黄表紙」と呼ぶのが文学史のならわしである。

その画期となったのが、安永4年の恋川春町(こいかわ・はるまち)の『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』である。

元々、絵本の形態を取っていたことから分かるように、黄表紙(青本)は、子供向けの本であった。ところが恋川春町はこの形態を使って、大人向けの作品を作ったのである。内容は、いわゆる「胡蝶の夢」のストーリーを使いつつ、夢の中で「半可通」になった金々先生が遊里で遊び尽くし、身を持ち崩すというもの。これは洒落本を元にして構想されたものであり、絵本的な戯画ではなく写実的なイメージによっても草双紙を革新するものだった。

春町はさらに洒落本的世界から踏み出して、『高慢斉行脚日記(こうまんさいあんぎゃにっき)』で社会諷刺を行い、『参幅対紫曽我(さんぷくついむらさきそが)』では武家社会の裏側を暴露するような作品も書いた。彼は独創的な才能を以て、荒唐無稽な筋書きを持ちながらも、かえって現実に密着するという黄表紙の基本的発想を確立したのである。まさに黄表紙は大人のマンガであった。

といっても、そこには深刻な社会批判や世の中を変えていこうとする気概はなかった。黄表紙は、「教訓や諷刺というのではない、明るい戯笑に徹した、夢にひとしいむだの遊び(p.88)」であった。それが黄表紙のよさでもあったし、また限界でもあった。また、黄表紙は形だけは童蒙のためのもの、という姿勢は崩さなかった。実質的には大人が楽しむものであっても、「子供向け」という看板を掲げ続けることで、当局からの批判をかわそうとしたのである。

黄表紙の頂点の一つに位置するのが、山東京伝である。浮世絵師であった京伝は絵・文の両方を書いた。彼の代表作『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』(天明5年(1786))は、即物的な写実主義(何屋の誰それ、といったような現実の遊里をそのまま描く)を用いつつ、滑稽な主人公(艶二郎)が大まじめに色男ぶった行動によって読者を笑わせ、遊里で遊び尽くすという庶民の夢をむしろ笑殺するものだ。物にとりつかれてひたむきに走る自意識過剰の艶二郎的な性格・発想は、その後の黄表紙の笑いの類型を作った。

山東京伝は同時に洒落本にも進出する。マンガ家が小説家に転身したようなものである。彼の本格的な小説とみなせる最初の作品が『江戸生〜』の2年後の『通言総籬(つうげんそうまがき)』。ここではまた艶二郎が登場するが、滑稽味ではなく、通人の生息した特殊な社交世界の有様を描くことが狙いとなっている。そこで展開される会話は、言葉が即座に遊戯化されてゆくもので、洒落本中でもっとも練り上げられた知的なものである。それは、「思うこと、考えることが、そのまま十分に言えないことに慣らされていたこの時代の庶民が、遊里のようないわば安全地帯で、せめて言葉の遊びに憂さを晴らそうとした(p.134)」ことを反映していた。

一方、 そういう写実の行き過ぎ、「うがち」によって遊里の内幕を暴露することによって作者自身が半可通的になってゆく愚かしさを痛烈に批判したのが万象亭(まんぞうてい)の『田舎芝居』(天保5年(1734))であった。「うがち」よりも「笑いの回復」が彼の主張であった。

そのような主張はまだ駆け出しだった山東京伝に向けられたものではなかったが、京伝自身も心に期すところがあったのか、やがて彼も表面的な写実主義に飽き足らなくなり、何屋の誰それといったような特定個人の関心から次第に離れ、遊里の人間関係の様相を類型的にとらえて深く観察し、心理の内奥に立ち入っていく。そうして出来た作品が『傾城買四十八手(けいせいがいしじゅうはって)』(寛政2年(1790))である。

これは「黄表紙とは反対に内へ内へと狭く深く沈潜しようとした洒落本が、特殊な社会的環境における単なる事象の知識という表面的なうがちから進んで、人間の性情・心理の洞察に到り得た作品として、最高のものと評価(p.161)」される。こうしたものが順調に発展していけば、京伝はさらに新しい分野を開きえたかもしれない。

ところがこの動きは幕府の寛政の改革によって掣肘を加えられる。田沼意次の失脚とそれに続く寛政の改革は、黄表紙の世界でもそれとなく諷刺され、例えば朋誠堂喜三二の『文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくどおし)』(天明8年(1788))はこの事件を取材して波瀾を巻き起こした。ただしそこに幕府批判の意図はなく、単に現実を戯画化して笑い飛ばしただけであった。だがこの作品をきっかけに幕政を茶化した作品が大量に生みだされるのである。当然、当局がそれを見過ごすはずもなく、幕政を茶化した(とされた)作者は弾圧を加えられた。

山東京伝は、画工としての比較的軽い処分に留まったものの、小心な京伝はそれにショックを受け、『傾城買〜』以降、筆を折って謹慎しようとしたのを、版元の蔦屋がむりやりにまた引き出し、寛政3年に三部作の洒落本を出版した。

この三部作は、これまでの遊興的雰囲気とはうってかわって、遊里の世界の悲しい暗さをもしみじみと描き、冷徹な観察による本来の写実が進められた。しかし一方で登場人物の感情を一歩引いて眺める余裕はなくなり、「むしろ黄表紙・洒落本作者が通と洒落の意識から、ことさらに拒否してきたともいえる、世話浄瑠璃風の義理人情のモラルとそれに伴う感傷(p.194)」が強調された。ちなみに、この作品も諷刺を目的としてはいなかったもののやはり絶版を命じられ、遂に京伝は筆を折った。

こうして、黄表紙はかつてのそれとは全く違うものとなっていった。韜晦さは姿を消し、平明である代わりにもう意表をつく奇警な観察はなくなる。ユーモアよりも義理人情と封建道徳の教化が高らかに謳われる。かつて京伝は『復讐後祭祀(かたきうちあとのまつり)』できまじめな敵討ちを笑い飛ばしたが、今やそうした敵討ちこそが黄表紙で称揚されるようになった。不謹慎なギャグを飛ばした黄表紙には、たちまち作者や版元に抗議が殺到した。当局が規制した以上に、読者の方も黄表紙の楽しみ方をわからなくなっていた。

それは、寛政改革前後に従前の豪商たちが没落して「通」を支える地盤が失われたためでもあった。 知識的な「うがち」よりも「人情」、「通」に代わって「いき」が支配的になっていった。

新しく擡頭してきた江戸読本(よみほん)と提携することでこうした傾向はさらに進み、草双紙敵討ものの全盛を見る。もはやそれはストーリーを売り物にするため長編化していく。1冊5丁が十冊にも及ぶものとなり、やがて合冊した製本となって草双紙の「合巻(ごうかん)」と呼ばれるものに移行した。こうして黄表紙は名実ともに消え去ったのである。

洒落本も似たような運命を辿る。末期の洒落本は、抒情的な感傷に満たされた甘美な描写が喜ばれ、会話文を主体とした形はとっていても、かつての滑稽味は姿を消し、写実描写の鋭さはなくなり、ひたすら涙を誘う「泣本(なきほん)」と呼ばれる低俗なものとなっていく。そしてそれは堕落とみなさられるのではなく、むしろ人情をうつすのが小説の本道だという考えになっていった結果であった。

次の文学運動を担うのは、十返舎一九や式亭三馬である。彼らも黄表紙から出発して洒落本にも大きな存在感を示した。しかし彼らは「通」好みの作品を書くのではなく、いずれも「大衆を相手とする新しいジャンルに自己の本領を見出した(p.208)」 。人間の愛情を直接的に描く「人情本」が次の主役になるのである。

本書は小著ながら、黄表紙・洒落本が生まれ、滅んでいった様子をつぶさに述べたものであり、引用がやや不親切(現代の読者には馴染みのない言葉をそのまま引用している)であるが、全体的にはわかりやすい。

黄表紙と洒落本の話が割とまぜこぜになっているのでややこしかったが、この二つは相即不離に影響し合いながら発達していったためにこれはやむを得ないと思う。

ところで、黄表紙・洒落本が没落して人情本に移行したのは文学的には発展とはいえなかったのかもしれない。しかし黄表紙・洒落本の多くが舞台とし、自由を謳歌した遊里は、遊び人にとっては自由だったかもしれないが、そこで働く遊女たちにとっては自由どころではなかった。「うがち」によって遊里を精密に写実しようとするほど、却ってそこには不自由な女の哀しみを書かざるを得なかったのではないか。

山東京伝の最後の三部作は、そういう観察の行き着くところであったような気がする。黄表紙・洒落本を没落させたのは確かに寛政の改革であった。だがその衰退は、内在した矛盾——遊里の遊びを茶化せるのは客だけだという非対称性——があったのではないだろうか。

黄表紙・洒落本の歴史を通じて当時の社会や文学の在り方を考えさせる良書。

【関連書籍の読書メモ】
『江戸の本屋さん—近世文化史の側面』今田 洋三 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/03/blog-post.html
江戸時代の出版・流通事情をまとめた本。蔦屋重三郎(版元)が『文武二道万石通』を出版した意義についてはこちらを参照。書商という文化の裏方から見る江戸の文化史。

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2021年1月4日月曜日

『クレメンティ—生涯と音楽』レオン・プランティンガー 著、藤江 効子 訳

クレメンティの評伝。

クレメンティといえば、ピアノ学習者には「ソナチネアルバム」に入っている数曲の愛らしいソナタでおなじみだろう。

ところがそれ以外のクレメンティの作品に触れる人は少なく、またどのような作曲家であったかを知る人は少ない。クレメンティはモーツァルトと同世代であるが、存命中はモーツァルトよりも有名で、ハイドンとベートーヴェンを除けば、誰よりもヨーロッパ中に令名を轟かしていた。

またとかく旬の短かった音楽家の世界で、(演奏会からは遠ざかっていたとはいえ)80歳近くまで現役であり続け、60年に亘って第一線で活躍し続けたのも驚異的なことだった。さらにピアニストとして得た収入で事業を興し(正確には買収)、事業家としても成功した。音楽家としても事業家としても一流の仕事をしたのがクレメンティである。ところが、彼の音楽は今の時代にはさほど評価されているとはいえない。「後世の評価がこんなにも激しく下降を辿ったのは、ほんの僅かの作曲家——テレマンとマイヤベーアが思い起こされる——だけである(p.7)」(※)。

ムツィオ・クレメンティは、1752年、ローマで生まれた。幼い頃から音楽教育を受け、12歳でオラトリオを作曲し、14歳で教会の常任オルガニストの地位を得るほどオルガンに熟達した。しかしイタリアでの音楽教育は対位法を中心としたもので、よく言えば伝統的、悪く言えば時代遅れであったようだ。そしてイタリアを旅行中のイギリスの貴族、ピーター・ベックフォードに彼は買われる。

ベックフォードは、ドーセットでの彼の邸宅で音楽会が催せるように、クレメンティ少年を7年契約で連れて行ったのだ。こうしてクレメンティは、僅か14歳で故郷を離れ、指導もされず、ほとんど手助けもなしに自分の進路を切り開かねばならなかった。しかし彼は、驚異的なまでの厳格さで自己管理を行い、ローマで学んだ音楽理論を上書きするように、最新の音楽を「独学」していった。クレメンティの音楽は、貴族の邸宅での音楽的従僕という屈辱的な立場で、ハープシコードに向かう長い孤独な時間によって形作られた。

ただ、ベックフォードは一廉の音楽愛好家で、その邸宅にはJ.S.バッハの『平均律クラヴィーア曲集』の「ロンドン自筆譜」が所有されていたらしい。当時まだ出版されておらず人口に膾炙していなかったバッハの音楽を研究できたことはクレメンティにとって僥倖だった。

また、この時期にクレメンティがイタリアを離れ、イギリスで自己を磨いたことは、結果的には彼の人生に有利に働いた。イギリスは一足先に産業革命を迎えておりヨーロッパの中での先進国であり、イギリス人は大陸から美術品を輸入しまくっていた。あらゆるものが「古典的」な美風を備えるべきとされ、「古楽コンサート」(J.C.バッハ=アーベル)が盛況となり、世紀の終わり頃には「廃墟」が恭しく新造されるほどであった。イギリス人は音楽家もたくさん「輸入」し、「18世紀後半のイタリア器楽の中心はイギリスの首都だった、といっても過言ではない(p.35)」。紛れもなく、イギリスは音楽の中心地だったのである。

ドーセットでの7年の奉公契約を終えたクレメンティはロンドンに出る。何の後ろ盾もなかったクレメンティは当初はパッとしなかったが、1770年代後半に王立劇場の指揮者の職を得て人生が好転し始める。そして1779年の春にOp.2のピアノソナタ(6曲)が出版されて、彼の名声が確立した。

ところでクレメンティが大陸旅行を行った際、ヨーゼフ2世の下でモーツァルトとの弾き比べが行われたのは割と有名なエピソードである。この頃のクレメンティは名人芸的(曲芸的)な技術はあったが、聴く人によってはいくぶん粗野に感じられるものだった。また彼のこの頃のピアノ技法は前時代に属するものだったようである。なお、モーツァルトの『魔笛』序曲はクレメンティの作品を下敷きにした形跡がある。

クレメンティは倦まず弛まず努力するタイプの人間であった。彼の最初期の作品の多くは、必ずしも素晴らしい才能を予見させるものではないが(また、名声をなしてからも駄作がある)、持ち前の学究的な態度でその精度を向上させていった。特に1780年頃に早くもバロック時代の(特にバッハの)フーガを研究し、自ら複雑な後期バロック様式のフーガを作曲していたことは特筆に値しよう。

彼は次第に、名人芸の誇示を辞め、メロディー豊かで高貴な演奏様式を好むようになり、18世紀の終わり頃にはロンドンでの作曲家・演奏家としての絶頂に達した。そして1790年、38歳で公的なピアニストとしての活動を終了する。この頃、ピアニストと言えば十代の若手が普通であって、クレメンティはかなり年上であったことも引退の理由であった。だがそれよりももっと大きかったと推測されるのは、いかに広く世間に認められていたにしても、ヴィルトゥオーゾ(名人)であるだけでは、社会的地位が低かったということである。クレメンティは若い頃の孤独で屈辱的な経験があるだけに「名声」や社会的地位には強くこだわった。

クレメンティは、ある時期は交響曲の作曲家として名をなそうと努力した事もあったが、結局ハイドンの交響曲には太刀打ち出来なかった。クレメンティの音楽は一流ではあっても超一流ではなかったのである。一方、ピアノ教師としては、多くの有望な弟子を育て成功した。特に有名な弟子は、クラマー、ベルティーニ、ジョン・フィールドである。彼は特別高額な謝礼は設定していなかったものの、かなり大勢の弟子を教えていたらしい。

クレメンティは音楽によって財をなし、それを事業に投資して自身で会社を経営した。事業内容は、楽譜の出版・販売、ピアノの製造・販売である。世紀の変わり目頃に、クレメンティは芸術から事業へと足場を移した。イギリスでは、事業家になることは「尊敬さるべき地位への一歩と見られた(p.144)」。彼は度を超した極端な倹約家で、疑り深く、金銭にガメつく、自らの楽譜出版の収入のために駄作を量産した時期もあった。「クレメンティほどの能力ある人物が、明らかに収入の増大と、Opus番号を増やすだけの目的で、このような手段に頼ったことを知るのは悲しいことである(p.148)」。

それであっても、彼の最良の作品(例えばOp.34 no.2のピアノソナタ)は、彼が第一級の音楽性の持ち主であったことを如実に示している。

1802年から、50歳となったクレメンティは8年にも及ぶ大陸旅行を行う。これは旅行というより出張と言った方がよいもので、目的は自社のピアノ販売・販路拡張と、楽譜の出版のための出版社や作曲家との交渉のためであった。この出張によって、クレメンティはベートーヴェンのいくつかの曲の楽譜出版の権利を得、イギリスにおけるベートーヴェンの主要な出版社となることができた。

またこの旅行中、彼は弟子を大陸の主要な都市に配置し、ピアノ販売の代理人として活用した。なおアレクサンダー・クレンゲルはこの旅行の中でクレメンティの一門に入り、ペテルブルクに残って(駐在させられて)いる。

この時期、クレメンティは自身の作品の出版をほとんど行っていない。それは、事業に軸足が移ったためでもあるが、それ以上に「自作を手当たり次第に出版するという悪習から脱却した(p.197)」ためでもある。彼は完全に納得ゆくまで自作を公表しなくなっていた。作曲家としては、内省の時期であった。

1810年代、クレメンティの会社はベートーヴェンの作品の出版によって輝かしい業績を挙げ、また1813年にはクレメンティらロンドンの最高の音楽家たちは共同してフィルハーモニー協会を設立し、クレメンティはその常任指揮者に就任した。また同年、クレメンティはスウェーデンの王立音楽アカデミー会員ともなった。60代のクレメンティは今や十分な社会的地位にいて、多くの弟子に囲まれ、名実共に大家として遇された。孤独で疑り深かったクレメンティはすっかり自分を変えることが出来た。

それでも、クレメンティは向上することをやめなかった。一つは、彼のピアノ芸術の集大成である『グラドゥス・アド・パルナッスム』の作曲である。これは、約55年に及ぶ作曲・改訂・編集の産物であり、全てが新作ではないが、「クレメンティ自身の鍵盤音楽技法の要約的記録、最終的総括」であり、プレリュード、フーガ、カノン、スケルツォ、ソナタなどの多様な曲の100曲もの集成である。彼は既に時代遅れのように思われていたフーガを数多くこの曲集に収録した。この曲集は、練習曲の体裁は取っていたが、「これらの曲のかなりの部分は(中略)一般的練習曲とは異なっていた。すなわち、それらは純粋に多声的なのであった(p.239)」。

『クラドゥス』1巻は1817年、3巻が完結したのが1826年。その曲集は、技術的な目的から音楽的な目的へと次第に高まっていき、遂に「堂々たる一種の遺書、遺言状」であり、彼の鍵盤音楽技法の総決算となった。70代の音楽家が、このような一大作品集を作り得たということが驚異的である。

もう一つは、晩年までも交響曲の作曲を辞めなかったことである。クレメンティにとって、最後に追い求めた名声が交響曲の作曲家として認められることであった。しかし、ベートーヴェンが現れて別格の交響曲を作曲し、それ以上の作品が誰にとっても不可能になってしまったため、クレメンティは敗退を余儀なくされた。だが、70代の作曲家が交響曲にトライし続けたのは、大変なエネルギーであったはずである。

クレメンティは、1832年、80歳で亡くなった。葬儀には、数多くの民衆が訪れたという。遺体は、ウエストミンスター大聖堂の修道院に葬られた。床にはこう刻まれている

ピアノフォルテの父と呼ばれた
ムツィオ・クレメンティ
音楽家として
また作曲家としての
ヨーロッパ中に認められた彼の名声は
この修道院に
埋葬されるという
栄誉を彼に与えた

クレメンティの音楽家としての人生は、輝かしい成功を収めた。こんなにも長い期間、演奏家・作曲家・教育者として活躍した人は同時代にいなかった。クレメンティの人生が、そのまま、ピアノという楽器の成立時期にもあたっていたので、彼は「ピアノフォルテの父」と呼ばれるに相応しい業績を残した。

しかし、その内容を詳細に見てみれば、そこには一抹の哀しみがあるように思う。まず、クレメンティが偏愛した対位法的な作品は、成功しなかったということだ。クレメンティはカノンやフーガといった後期バロックの込み入った作品を理想としていたが、そのような様式ではクレメンティは遂に第一級の作品を書くことができなかった。15歳からの7年間という大事な時期、正規の音楽教育を受けられなかったことは、クレメンティの生涯に長く悪影響を及ぼした。

次に、彼は優れた音楽性を持っていたにも関わらず、余りにも事業に熱心であったために、本当なら到達してもおかしくなかった音楽的高みに辿り着くことができなかったように見える、ということだ。少年の頃の長く辛い孤独な境遇を克服して、自由闊達な境地に辿り着くのに、彼は半世紀ほどもかけなければならなかった。

クレメンティは、学究肌で、語学に堪能であり(ヨーロッパ諸語のほとんどをしゃべれた)、「特にラテン文学に素養があり、数学と天文学の熱心な研究者(p.71)」でもあった。いわば彼は、天才なのだった。少年の頃のやや時代遅れな教育を別とすれば、彼はほとんど独学によってヨーロッパのピアノ界の頂点まで上り詰めたのである。しかしそれが、彼の限界をも定めてしまったという面が否めない。

なお、本書は音楽について論評する際には必ず楽譜を掲示し、かなり専門的な部分(楽典的なところ)まで考証する。正直言うと、私はそういう部分は読み飛ばした。音大の学部レベルの本である。しかしそこを読み飛ばしたにしても、クレメンティの人生は面白く、楽譜が読めない人にも十分楽しめる本だと思う。

独学の「ピアノフォルテの父」の実像に迫った快作。

※原著出版1977年。その後、テレマンについては再評価されており、「激しく下降」は現代では当たらない。


2021年1月2日土曜日

『日待・月待・庚申待』飯田 道夫 著

日待・月待の考察。

今では失われてしまった習俗に日待(ひまち)・月待(つきまち)がある。今でも寺院の隅などに「二十三夜塔」と刻まれた石塔が立っていることがあるが、これは「月待塔」と総称される石塔で、この習俗の名残だ。

日待・月待とは、特定の月(普通は1月、5月、9月)の特定の日(例えば「二十三夜待」であれば、23日)に、余興などをしながら眠らずに過ごすという行事である(日待・月待の行事内容にはほとんど差がない)。

では、これは一体何のために行われたものか。日待・月待は広く行われた一般的な習俗であったにもかかわらず、これがわからない。すでに江戸時代の文化人たちが、「日待は○○のためにするものであろう」といった調子で推測を交えて語っている。この行事をやっていた江戸時代の人々も、余興をして徹夜するという遊興の方に重点があったせいで、行事の本質を忘れてしまい、役者を呼んで騒いだり、遊郭で遊び呆ける日としか認識していなかったようである。

現代の民俗学では、日待・月待をそれぞれ五穀豊穣を祈った太陽信仰・月信仰と見る。寝ずに夜を過ごし、太陽が出てくる様子を拝むのが日待だというのだ。例えば「二十三夜待」も、二十三夜の月(当時は太陰暦だったので、日付と月齢は一致する)を拝する信仰であると。

確かに、農村に残る日待・月待を観察してみればそういう結論になる。農村では何かにつけ五穀豊穣を祈るものだし、太陽や月も豊作を司るものとして敬われたのは事実である。しかし、日待で太陽をそのまま拝むとは妙に原始的であるし、別に徹夜せずとも早起きして朝日を拝めばよいはずなのに、なぜ夜中起きている必要があるか。どうも民俗学の説明では行事の本質が見えてこないのである。

そこで著者は、随筆や文芸作品といった近世の文献に日待・月待がどのように描かれているかを渉猟し、日待・月待とは一体なんであったのか推測する。その過程を省いて結論だけ書けば次のようになる。

まず、三長斎月(正五九月)の一定期間(元来は一ヶ月間)、精進潔斎して仏事を修する行事があった。これは、この期間、帝釈天が人々の行いを宝鏡に映し出して監視すると考えられたために行われたもの。この期間だけでも行いを正しくするため悔過(けか)の法が行われることもあった。また、満月がこの宝鏡と同一視され、満月に行いを見せる行事へと変質していったと思われる。さらに、鏡餅も、この宝鏡とみなされたアイテムではなかったかと著者は言う。

それはともかく、元来は精進潔斎して一月を過ごす仏事であったらしいが、一ヶ月間も精進潔斎するのは日常生活に差し障りがあるので、それが短縮されやがて1日となった。また月に自らの正しい行いを見せるという趣旨に変わっていき、結果として徹夜して過ごすことになったと考えられる。また神は賑やかなことが好きであるという考えで、精進潔斎というより楽しく騒いで夜を明かすというように変わっていった。これが日待である。ところが「日待」は単に「徹夜する」というだけの意味の言葉となり、広く使われるようになったため用語が混乱した。

よって、日待に太陽信仰は関係なく、朝日を拝むという行為自体が行われていなかったと考えられる。江戸時代の識者が「日待」=「日祭り」と考え考証したことが裏目となり、太陽信仰であるという誤解が生まれたのだという。また、用語としては”日”待であるが、行事の趣旨からは”月”に自分の行為を見せるというところに重点があったことにも注意しなくてはならない。

では月待の方はどうか。大雑把にいうと「月待」というもの自体がなかったというのが著者の考えである。というのは、「二十三夜待」などというものはあったが、これは別に月とは関係なかったというのである。もちろん「十三夜夜待」「十九夜待」「二十六夜待」といったいわゆる月待は、月に行いを見せるということがあったり、月を拝んだりと、全く月と関係ないわけではないが、本質的にはそれぞれその仏の縁日(縁が深い日)に仏事を修することであり、月はオマケであった。例えば「二十三夜待」の場合、勢至菩薩を祀ることが行事の中心であって、月には象徴的な意味しかないというのである。

なお、庚申待については、江戸時代は「日待・月待・庚申待」とセットで認識されていたので本書でも一緒に扱われているが、著者は前著(『庚申信仰』等)によってこれを詳細に考察しているため、本書では簡単な説明である。

著者は、英文科卒で航空会社に勤務した人で、日本の文化は専門ではない。海外に出た時に日本文化への無知を感じて古典文芸を紐解いたことをきっかけにこういった研究をするようになったのだという。よって、本書は必ずしも専門的な考証を経たものではないが、民俗学や宗教学の立場で研究するよりもかえって自由に検討ができているように感じ好感を持った。

ただ、上述の結論については、私自身はスッキリと納得したとはいえない。日待・月待という行事が多様であるため、都合のいいところで切り取ればどうとでも言える部分があるし、特に月待については、著者の説明では徹夜しなくてはならない理由が薄弱に思える。著者自身も一つの考えであるという立場で、決定的なものとは見なしていない。さらなる考究が行われることを期待したい。

とはいえ、日待・月待のような地味な研究は今の世の中では人気がなく、「さらなる考察」は当面出そうにないのが現実である。そんなわけで本書は、日待・月待について、現段階では最もよくまとまった考察の書である。

自由な立場で日待・月待を論じた価値のある本。


2021年1月1日金曜日

『19世紀のピアニストたち』千蔵 八郎 著

19世紀前半のピアニストたちの多様な生き様。

18世紀の終盤から19世紀前半は、まさにピアノの時代であった。ちょうどその頃、ピアノという楽器が長足の進歩を遂げてどんどん表現の幅が広がり、また上層中産階級の家庭に普及した。そしてたくさんのピアニストがデビューし、持てはやされた時代でもあった。

本書は、そうしたピアニストたちの人生を紹介し、生き生きとしたピアノの時代の雰囲気を描くものである。

主に取り上げられているのは、フンメル、クレメンティ、フィールド、ベートーヴェン、カルクブレンナー、モシェレス、アルカン、リスト、ショパン、チェルニー…といったところである。この他、女性の音楽家も数多く登場する。

当時のピアニストの在り方は、今のクラシックのピアニストよりも、ポップスやロックのバンドマンたちに近い。というのは、演奏会を企画開催する団体がほとんどなかったからで、彼らは自身の手でその披露の場を作らなくてはならなかった。

まず演奏会は、人口の多い都市に乗合馬車で向かうところから始まる。当時はまだ鉄道がなく、悪路をゆく乗合馬車を何十時間も乗り継いでヨーロッパ中を巡る必要があった。一つの町で継続的に演奏会に人を呼ぶのは、人口のずっと多い現代でも難しいからだ。それに、録音もジャーナリズムもなかった時代、音楽家として名を上げようと思えば、どうしても自分が出向いて演奏する必要がある。だから、まずピアニストは長時間の移動に耐える体力が必要だった。

目的の都市についたら地域の顔役に挨拶し、演奏会の開催の許可やその協力を取り付ける。ここで重要なのは共演者の確保である。というのは、ヨーロッパ中に名声が轟いているようなピアニストでない限り、たくさんのチケットがいきなり売れるわけはない。そこで、「歌がうまい誰々さんの娘」というような、地元の音楽愛好家に共演してもらうのである。そうすることで、知り合い票によってチケットを売りさばくことができる。そして関係者は多い方がいい。だからこの時代は、ピアニストが単独でリサイタルするということはなく、いろいろな人が演奏したり出し物をするような、今でいう演芸大会のような形のコンサートが行われていた。

もちろん、そこで出演してもらう共演者には主催者であるピアニストが出演料を出す必要がある。チケット収入から、会場費、出演料などを引いた残りが本人の収入となるが、いつの時代も興行とは難しいもので、儲かる時もあれば損する時もあった。この時代のピアニストは、芸術家というよりは「興行主」であり、むちゃくちゃな人生を歩んだ異色の人物が多かったのである。一言でいえば、当時のピアニストはヤクザっぽかった。

しかし、実は彼らの本当の目的は興行収入ではなかった。演奏会で評判がよければ、良家の子女や音楽家志望の若者がレッスンを申し込んでくる。このレッスン料が継続的な収入となったのである。そもそも、移動を含めて演奏会には多大な労力がかかる上、この時代のピアノ技法はどんどん進歩し、一人のピアニストが長い期間に演奏活動を続けることはなかった。だから、いわばイキがいいうちに指導者として認められるか、興行で得たお金で事業を興すなど、次のステップに移っていく必要があったのである。

とはいえ、この時代は「いまのように、名声をあげるすべがたった一つのルートしかないというのに比べれば、はるかに幸福だった(p.64)」といえる。コンクールはまだ存在せず、音楽院はあったがそこでの成績や学閥は、成功にはあまり関係なかった。この点も、バンドマンの世界と似ている部分である。

ちなみに、当時の演奏会は、これまでの説明でもわかるように今のクラシックのコンサートとは全く違うもので、観客は演奏会を社交の場と捉えておしゃべりしたり、時には一緒に歌ったりするような場であったらしい。今のような2時間程度の独演会を初めて開催したのはリストだと言われている。19世紀半ばに、今風の「リサイタル」が確立した。

また、本書の全体を通じて述べられているのが、19世紀前半はピアノの古い奏法と新しい奏法が共存し、競争した時期であったということである。「古い奏法」とは、チェンバロ由来のもので、腕(と掌)を動かさずに指だけを動かして弾くやり方である。この訓練のため、手の甲にコインを置いて、それが落ちないようにピアノを弾くようなことも行われていた。一方、新しい奏法は、腕全体を使って弾く今のやり方である(ベートーヴェンは前世代に属するが、どうやらこっちの弾き方をしていたようだ)。 クレメンティのように、古い奏法で頭角を現しながら、新しい奏法の利点を認めて鞍替えした人もいた。新しい奏法を使って華麗に演奏したリストによって、この共存には終止符が打たれることになった。

本書は、雑誌『ムジカノーヴァ』に連載された記事をまとめたものであり、気軽にスラスラと読める。エピソードによって当時を語るものであるため、ちょっと物足りないところもあるが、普通の音楽史があまり扱わないピアニストのヤクザ的な面が描かれており面白い本である。

【関連書籍の読書メモ】
『カルル・チェルニー—ピアノに囚われた音楽家』グレーテ・ヴェーマイヤー 著、岡 美知子 訳
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/12/blog-post_31.html
チェルニーの人生を辿り、19世紀前半の音楽シーンを描く。時代に適合しすぎた音楽家チェルニーを描いた力作。


2020年12月31日木曜日

『カルル・チェルニー—ピアノに囚われた音楽家』グレーテ・ヴェーマイヤー 著、岡 美知子 訳

チェルニーの人生を辿り、19世紀前半の音楽シーンを描く。

チェルニーといえば、ピアノ学習者にはおなじみで、『チェルニー30番』とか『同40番』などの練習曲に苦労した記憶は誰にでもある。だが、チェルニーという音楽家がどのような人物であったのかは知らない人が多い。本書は、チェルニーという知られざる音楽家の全貌を紹介するとともに、それを通じて19世紀ヨーロッパにおける音楽事情を活写するものである。

チェルニーは、850曲以上を出版した作曲家であった。彼はベートーヴェンの弟子であるが、ベートーヴェンが作品番号を与えたのが150曲に満たなかったのを考えると非常なる多作家である。ではその内容はどのようなものであるか。今では練習曲が高名であるがそれは作品全体のごく一部であり、全体の半分を占めるのは当時流行したオペラや歌曲のパラフレーズ(編曲やアレンジ)である。

なにしろ、当時は録音ができないため、音楽を楽しみたい市民は、劇場に行くか、あるいは自分たちで演奏する以外にはなかった。だから、今の人が流行の曲をカラオケで歌うのと同じように、当時の市民は自宅のピアノ(やその他の簡単な伴奏楽器)でオペラや歌曲を演奏したのである。そのため、誰でもさほど練習せずとも弾ける簡単なパラフレーズは非常に需要が大きかった。ウィーンでこういう仕事を一手に引き受けていたのがチェルニーである、といっても過言ではない。

我々は、チェルニーがどのようなパレフレーズを作曲したかを辿ることで、今では失われた当時のウィーンの音楽シーンを再構成することができる。それは、必ずしも古き良き時代の記憶を呼び起こすことではない。むしろ、苦々しい音楽シーンの記録でありさえする。

19世紀初頭のウィーンは、政治的な混乱のまっただ中にあった。1848年、ヨーロッパの他の都市より遅れてウィーンにも革命が起こるが、この革命の年まで、ウィーンの貴族や市民たちは先の見えない政治情勢に右往左往した。この、一見するとナポレオン戦争後の平和な時代、社会の不平等や格差は大きく広がり、どうしようもない矛盾が世の中に横たわっていた。それゆえに人びとは自分が政治的に無力であると諦観し、混乱した政治を視て見ぬ振りしながら、「政治から芸術にへ、社会から個人へ、現実から夢へと逃避した(p.48)」。

そして人びとは音楽に熱狂した。だがそこで好まれたのは真の芸術ではなかった。理想に燃えた高尚な芸術ではなく、その場しのぎの、簡単に盛り上がるがすぐに忘れられる音楽が好まれた。そもそも、音楽は政治に従属していた。オペラの台本は検閲され、問題のある箇所は削除され書き換えられた。そういう中で、音楽は当たり障りのないものへと堕落していった。チェルニーが厖大にパラフレーズした作品は、そういう、閉ざされた時代の産物であった。彼は高尚な芸術を作るよりは、市民の需要に応えた、まるで手工業製品のような作品—ビーダーマイヤー(小市民)様式の曲—を生みだした。

また、19世紀前半は、空前の「名人芸(ヴィルトゥオジテート)」の時代でもあった。産業の発展とともに市民階級が音楽を楽しむようになると、誰にでも分かるすごい音楽、として「名人芸」がもてはやされた。つまり、人間業でないスピード、跳躍、和音の連打といったものである。折しも、ウィーンの音楽シーンにヴァイオリンの悪魔、ニコロ・パガニーニが出現して人びとは熱狂した。1830〜1848年に活躍した名人芸的ピアニストといえば、フンメル、カルクブレンナー、リスト、タールベルグといった絢爛たるヴィルトゥオーゾが挙げられる。

そして、こうした綺羅星に憧れて、いやその収入に憧れて、多くの親たちは子供に音楽教育を施すのである。14歳以下の少年少女たちが機械的に訓練させられたピアノの技を披露し、市民が喝采した。子供が難しい曲を弾けば喝采するのは当然である。そして演奏会での収入は、思うように出世できない中産階級の親たちには魅力的だった。こうしてウィーンでは空前の音楽教育ブームが到来する。

ウィーンに医者が500人もいなかかった時代に、「心もとない知識でレッスンをしている人も勘定に入れれば、実際に1,600人のピアノ教師が稼働していたという(p.165)」。 このような莫大なピアノレッスンの需要に応え、優れた音楽教師として多くの俊英を育てたのがチェルニーであった。

ピアノの神童であったチェルニーは、ベートーヴェンの弟子となりピアノや作曲を学んでいた。チェルニーがベートーヴェンのような芸術家になる理想を持っていたことは疑いない。 だが、彼の両親は演奏旅行を行うには歳を取りすぎており、また裕福でもなかった。チェルニーは15歳の頃から、毎日20人もの生徒のレッスンを朝から夕方まで行った。それは、おそらく少年にとって耐え難い日々であったに違いない。

チェルニーは非常に規則正しく生活し、毎日のレッスンを終えると、夜には毎晩作曲を行った。 残された大量の作品は、おそらくは日中のつまらない仕事を埋め合わせようとする試みであり、皮肉なことに夢破れた結果でもあった。

だがチェルニーがいやいやながらピアノレッスンを行っていたとしても、その手法は時代に先んじていた。彼は無味乾燥で機械的な指の訓練を誡め、音楽的に優れた演奏を行うことを目的にしている。今のピアノ学習者は『チェルニー40番』の無味乾燥さに嫌気が差しているだろうが、当時としてはチェルニーの指導は大変優れていた。とはいってもチェルニーが自身の練習曲を弾かせて生徒をうんざりさせたことも間違いはない。進展する産業化社会の中で、音楽の世界のみならず「勤勉」で「禁欲的」なピューリタン的なやり方が求められるようになっていた。チェルニーは、ピアニストの卵たちに「労働」を指示したのである。チェルニーの、いわば「公文式」のような指導は、時代の子であったともいうことができる。

だが、当時は(今でも?)頭ごなしに子供を押さえつけ、泣き叫んでも無理矢理弾かせるような苦行のような「指導」が横行していたことを考えると、チェルニーの元に引きも切らさず入門希望者が訪れたのは不思議ではない。チェルニーの指導はとても穏やかで、人間味に溢れていたという。

ベートーヴェンの弟子としての名声も彼の成功に一役買っていたには違いないが、ピアノ教師として優秀であったことは確実だ。しかもチェルニーは、リストのような天才少年が現れると無料でレッスンを行った。貧しかったリストはチェルニーの家で住み込みで教わっている。

1840年代になると、名人芸の時代は下火になる。そこに音楽的な感動はなく、いわば一発屋的なものだったからだ。例えばリストは、もはや名人芸の演奏会を開くのではなく、作曲に重点を置いていった。一方チェルニーは、1827年に母親を、1832年に父親を亡くして天涯孤独となった。それまでのチェルニーは、年老いた両親を支えなくてはならないという責任感が大きかったようにみえる。そして自由な立場になった1836年、彼は36年に及んだピアノ教師業を一切辞める決心をした。時にチェルニー45歳であった。

チェルニーは、それまでの需要に応えた音楽活動を、後悔し始めていた。自分の音楽的才能を無駄遣いしてしまったのではないかと。そして間違った作品を大量に生みだしていた無意味さを思うのだった。そして後半生を懸けて、本当に自分が作りたかった芸術の道へと入っていくのである。彼は大量のパラフレーズを作るのを辞め、「古典様式」—つまりハイドンやベートーヴェンの到達した音楽様式—の曲を作るようになった。しかもそれらは気軽に演奏出来るものではなく、本格的な芸術を志向していた。

また、チェルニーは1837年にJ.S.バッハのクラヴィーア作品(『平均律クラヴィーア曲集』)の校訂版、1839年にはスカルラッティの校訂版を出版する。このスカルラッティ校訂版は、先駆的な掘り起こしであった。またチェルニーは自身では作曲の教本は書かなかったが、アントニン・ライヒャの『作曲法講義』(仏語)を独訳して注釈をつけて出版した。彼はピアノ教師から引退した後も、変わらぬ勤勉さで幅の広い仕事を行っている。なおチェルニー版の『平均律』は、時代に先んじたものではなく、また19世紀の過剰なアーティキュレーション(表情付け)によって味付けされたものであるが、これはベートーヴェンが弾いていたバッハを再現したものと言われており、その意味で価値のあるものである。

それに、チェルニーは廃れゆくポリフォニー(多声)音楽の擁護者でもあった。名人芸への賛美の裏で、ポリフォニー音楽は演奏会で人気がなく、地味で衒学的、時代遅れなものと見なされていたのがこの時代であった。チェルニーは『フーガ演奏教本』Op.400を作曲し、また最晩年には『クラシック・スタイルにおけるピアニスト』(24の全調性による前奏曲とフーガ)を作曲している。

さらにチェルニーは、『完全なる音楽史の概要(Umriss der ganzen Musik-Geschifgt)』を1851年に出版する。これは音楽事典であり、トロイア戦争の時代から1800年に至るまでの音楽年表であった。チェルニーは完全主義者であったから、どんな仕事でも高い完成度を持っていなければ満足しなかった。「あらゆる時代を網羅して著名な音楽家の一覧を挙げ、年齢に従って作品を列挙し、それを年代順に並べた。また国別、時代別に区切って、同時代の歴史的事件を並列し、アルファベット順の人名索引を備えた(p.297)」この音楽史の巻末には1477名の音楽家が索引に挙げられた。

こうした労作を準備しながら、50年代のはじめ頃のチェルニーは非常に多作だったというのが驚きを禁じ得ない。チェルニーは、若い頃、糊口を凌ぐために作らなければならなかったくだらない音楽を上書きするかのように、弦楽四重奏曲や交響曲などの本格的な作品をどんどん生みだし、「死を目前にしてもなお人生の階段をもう一段昇ることを考えていた(p.120)」。

1857年、ある出版人に向けてチェルニーは書いている。「あんなもの(注:チェルニーを有名にした練習曲群)は私の芸術家という職には何のプラスにもならないのです。もし神が私の人生に今少しの猶予をくださるのなら、私はこの何年来とり組んでいる『四重奏、交響曲、教会音楽など』の芸術作品によって、ひとえに出版業の方々に対する好意から犯してきたあやまちを正したいと思っています(p.121)」と。そしてこの手紙を出したたった10日後、チェルニーは10万フロリーンという多額の遺産を残して死んだ。

チェルニーの人生は、良くも悪くも小市民的であった。彼は芸術に殉じて破滅的な人生を歩むタイプではなかった。芸術家として生きる夢がありながら、現実と妥協してより堅実なピアノ教師となり、社会の求めるままに流行の曲のパラフレーズを書きまくった。その仕事は規則正しく、また穏当で優れたものであったが、本当にやりたいことではなかった。彼が本来の自分に目覚めたのは45歳の時で、それはやや遅すぎたのである。

だが、チェルニーは優れたピアノ演奏家を育て、それは次の音楽の主流を作っていった。フランツ・リスト、ハンス・フォン・ビューローなどといった「チェルニーの門下生を数えあげれば、二十世紀にいたるまでピアノ音楽界は彼の流れをくむ人々で占められていたといわざるをえない(p.166)」。その意味では、彼を大音楽家と言って差し支えないと思うのである。そして、最晩年に作曲した『クラシック・スタイルにおけるピアニスト』は、まさにチェルニーがベートーヴェンの弟子であり、対位法を使いこなした優れた作曲家であったことを如実に物語る傑作である。チェルニーの本当の姿は、もっと知られるべき価値がある。

本書は、当時の史料を縦横に駆使しており、またチェルニーの人生を時代的に辿るというよりトピック的に巡っているので、やや難解である。ただ、この本を手に取る人はある程度音楽史や音楽に詳しい(少なくとも楽譜は読める)人だと思う。そういう人にとってはかなりエキサイティングで、滅法面白い本である。

また、本書には上にまとめたこと以外にも興味深い事項(例えば暗譜演奏、即興演奏の扱いについてなど)が盛り込まれている。チェルニーにあまり興味がない人にも音楽ファンに広くお勧めできる本である。

時代に適合しすぎた音楽家チェルニーを描いた力作。

 

2020年12月30日水曜日

『音楽と音楽家』シューマン 著、吉田 秀和 訳

シューマンによる音楽時評。

シューマンは、若い頃に文学の道に進むか迷ったほど文筆にも秀でていた。結局彼は音楽の道に進んだが、1833年のライプツィヒで、仲間たちと音楽の行く末を論じているうちに、「進んで事態を改善し、芸術のポエジーの栄誉をもう一度取り戻そうではないか」と新しい雑誌を創刊することになった。

それが「音楽新報」という雑誌であった。シューマンはいろいろな事情から、やがてこの雑誌の編集長的な立場として筆を振るうことになる。本書は、「音楽新報」が活動していた約10年間の、シューマンが執筆した諸編の抄訳である。

当時、「ロマン派」と呼ばれる新しい音楽が続々と発表されていたが、その音楽の真価は十分に理解されていなかった。シューマンらは、それらに対する時に攻撃的なまでの擁護を雑誌上で行った。

「音楽新報」の言論の価値は、次のようにまとめられる。

  • ベートーヴェン崇拝を確立したこと。
  • シューベルトの世界を再発見したこと。
  • ショパンを天才と認めて多くの作品を取り上げたこと。
  • ベルリオーズを強力に擁護し、ドイツ楽壇に紹介したこと。
  • メンデルスゾーンの新古典主義的な作曲を積極的に評価したこと。
  • J.S.バッハ(特に『平均律』)の価値を最大限に喧伝したこと。
  • ブラームスを歓迎したこと。

これらは全て、現在の音楽史では完全に正統的な評価である。というよりも、シューマンの価値判断が、間違いなく「定評」を作ったのである。

第一級の音楽家であったシューマンが、当時の第一級の音楽家のことを理解できたのは当然として、実はその文章の方もロマン派まっただ中の時代の雰囲気を感じてなかなか面白い。シューマンはジャン・パウルに傾倒していたそうで、ところどころにその言及もある(とはいえ、ジャン・パウルに比べると文章は断然まとまっている(笑))。

また、中期以降は硬派な評論になっていくが、初期の方は架空のキャラ=フロレスタンとオイゼビウス、ラロー先生の語りになっており、音楽評論としてはやや冗長であるが青年の遊び心(なのか、双極性障害のような人格分裂なのか?)が読んでいて楽しい。ただし、このやり方は結局何が言いたいのか煙に巻かれているような部分もある。やはり署名記事の方が価値は高い。

ところで、本書は音楽評論家として著名な吉田秀和の初めての本である。吉田は、この本を訳している時は内務省地方局庶務係に勤務していて、勤務時間中に堂々と本を広げて翻訳をしたらしい。戦争中の昭和16年にそんなフマジメが許されたというのが不思議である。今だったら懲戒解雇ものだろう。

ロマン派の歴史を、音楽作品でだけでなく文筆によっても作ったシューマンの評論。


『殉教と民衆—隠れ念仏考』米村 竜次 著

相良藩(人吉藩)を中心として真宗禁制の実態を描く本。

相良藩では、薩摩藩と同じく江戸時代に真宗(一向宗)が禁止されていた。しかしその実態は、史料がほとんど残っていないため謎に包まれている。本書は、相良藩を中心として近世南九州における真宗禁制を、いくつかのトピックをキーにして読み解くものである。

第1のトピックは、貞享4年(1687)、相良藩で14人もの集団入水自殺が行われたもの。その身分は種々雑多であり、その集団を結びつけていたものが何かがわからず、しかも彼らは自殺の理由について何の手がかりも残さなかった。しかしそれは、幕府が切支丹禁制の弾圧を布達した直後のことであり、著者は14人を隠れ切支丹か、隠れ念仏の徒であったかもしれないと推測している。

第2は、隠れ念仏の「毛坊主」や講を組織した人びとについての考察である。毛坊主とは、俗人の僧侶(のような働きをした者)である。彼らは普段は農業などに従事するが、裏の世界では隠れ信徒を束ねる指導者の役割を果たした。本書では「伝助」や「高沢徳右衛門」という毛坊主の動向をかなり詳しく追っている。伝助は、累代にわたって襲名された毛坊主の名前であり、5代連続で殉教した。高沢徳右衛門は、藩の家老までも隠れ念仏の信徒に引き込むという大胆な組織者だった。(高沢に関して、「ナバ山騒動」という農民一揆の事が語られている。これは隠れ念仏との直接の関連はないが面白い一節である。」)

第3は、転びもの、つまり転向者について。隠れ念仏の信徒であることが露見すれば、厳しい拷問が行われた。当然、転向するものも出てくる。そして彼らは取り締まり組織の一員(一向宗訴人)となり、今度は摘発側に回らざるをえないのである。それが転向の証明となった。

ところで、鹿児島県出水地方の隠れ念仏の信徒は、夜中に肥後水俣の源光寺へやってきて念仏を行った。このような基盤があった出水では、一気に1700人もの人が隠れ念仏の信徒であると申し出てきたことがある(=元文5年頃)ほど真宗が盛んだった。この出水地方に、まさに隠れ念仏の取り締まりをしていた税所家の文書が残っていて、隠れ念仏研究には必須の史料である。著者はこれを頼りにして、弾圧と転向のリアルを探っている。

藩では、通常は隠れ念仏を泳がせていたと著者は見る。その動向を把握して、いつでも摘発ができるようにしておいたのだ。そして飢饉など藩の財政状況が厳しくなってきたとき、一気に弾圧を加え、厳しい拷問によって組織を潰滅させた。それは、真宗の信仰には上納金を必要とするため、藩財政を圧迫するものとみて問題視したのだという。

第4は、三業惑乱について。隠れ念仏の講の内部では、教義上の解釈と信仰のあり方に関して紛争が絶えなかったという。系統的な指導がなかったのだから当然である。幕末、真宗本願寺派(西本願寺)の本山でも、三業惑乱という教義上の争いがあった。

三業惑乱の詳細は本書に詳しいが、隠れ念仏との直接の関係はない。ただ、この争いで異端とされた願生帰命主義派(欲生派)は、地下に潜伏して隠れ念仏への布教に活路を見いだすのである。その一人が追放判決を受けて熊本・鹿児島に逃げてきた大魯(岡大道)という人物。彼は天草、甑島、永吉(吹上)を回って、「細布講」や「煙草講」という講を組織した。

彼は自身の教えこそが正しいと民衆に教え、その当てつけのように厖大な上納懇志を本山に毎年送りつけた。大魯によって鹿児島西部一帯は念仏の興隆を見せたが、同時に三業惑乱の抗争が隠れ念仏にも持ち込まれた。なお大魯が身を隠していた洞穴が永吉に残っており、大魯の墓は光専寺にあるという。

第5に、隠れ念仏の民俗学的な視点からの考察である。この部分は事例の列挙的である。特に隠し部屋の造作などは興味を惹かれる。本書の著者は真宗の住職であるが、本山には批判的であるものの、かといって隠れ念仏を称揚するでもなく、フラットな視点で隠れ念仏を語る。隠れ念仏は、隠す必要があるために呪術化していった。それは、本来の真宗から離れていくことでもあった。そして、そのように土着化したからこそ隠れ念仏が盛行したのかもしれない。「隠すこと、擬装することが嗜好的と言ってもいいほどに逆に信徒をむしばんでしまうこともあるのである。祈祷を許さない真宗の教典のゆえに、逆に秘事化、呪文化することによって有難みと娯しみを見出す(p.275)」のだった。

構成がスッキリしていないため全体的にはわかりにくいが、ちゃんと現地に取材してまとめられた隠れ念仏考察の本。