2021年1月4日月曜日

『クレメンティ—生涯と音楽』レオン・プランティンガー 著、藤江 効子 訳

クレメンティの評伝。

クレメンティといえば、ピアノ学習者には「ソナチネアルバム」に入っている数曲の愛らしいソナタでおなじみだろう。

ところがそれ以外のクレメンティの作品に触れる人は少なく、またどのような作曲家であったかを知る人は少ない。クレメンティはモーツァルトと同世代であるが、存命中はモーツァルトよりも有名で、ハイドンとベートーヴェンを除けば、誰よりもヨーロッパ中に令名を轟かしていた。

またとかく旬の短かった音楽家の世界で、(演奏会からは遠ざかっていたとはいえ)80歳近くまで現役であり続け、60年に亘って第一線で活躍し続けたのも驚異的なことだった。さらにピアニストとして得た収入で事業を興し(正確には買収)、事業家としても成功した。音楽家としても事業家としても一流の仕事をしたのがクレメンティである。ところが、彼の音楽は今の時代にはさほど評価されているとはいえない。「後世の評価がこんなにも激しく下降を辿ったのは、ほんの僅かの作曲家——テレマンとマイヤベーアが思い起こされる——だけである(p.7)」(※)。

ムツィオ・クレメンティは、1752年、ローマで生まれた。幼い頃から音楽教育を受け、12歳でオラトリオを作曲し、14歳で教会の常任オルガニストの地位を得るほどオルガンに熟達した。しかしイタリアでの音楽教育は対位法を中心としたもので、よく言えば伝統的、悪く言えば時代遅れであったようだ。そしてイタリアを旅行中のイギリスの貴族、ピーター・ベックフォードに彼は買われる。

ベックフォードは、ドーセットでの彼の邸宅で音楽会が催せるように、クレメンティ少年を7年契約で連れて行ったのだ。こうしてクレメンティは、僅か14歳で故郷を離れ、指導もされず、ほとんど手助けもなしに自分の進路を切り開かねばならなかった。しかし彼は、驚異的なまでの厳格さで自己管理を行い、ローマで学んだ音楽理論を上書きするように、最新の音楽を「独学」していった。クレメンティの音楽は、貴族の邸宅での音楽的従僕という屈辱的な立場で、ハープシコードに向かう長い孤独な時間によって形作られた。

ただ、ベックフォードは一廉の音楽愛好家で、その邸宅にはJ.S.バッハの『平均律クラヴィーア曲集』の「ロンドン自筆譜」が所有されていたらしい。当時まだ出版されておらず人口に膾炙していなかったバッハの音楽を研究できたことはクレメンティにとって僥倖だった。

また、この時期にクレメンティがイタリアを離れ、イギリスで自己を磨いたことは、結果的には彼の人生に有利に働いた。イギリスは一足先に産業革命を迎えておりヨーロッパの中での先進国であり、イギリス人は大陸から美術品を輸入しまくっていた。あらゆるものが「古典的」な美風を備えるべきとされ、「古楽コンサート」(J.C.バッハ=アーベル)が盛況となり、世紀の終わり頃には「廃墟」が恭しく新造されるほどであった。イギリス人は音楽家もたくさん「輸入」し、「18世紀後半のイタリア器楽の中心はイギリスの首都だった、といっても過言ではない(p.35)」。紛れもなく、イギリスは音楽の中心地だったのである。

ドーセットでの7年の奉公契約を終えたクレメンティはロンドンに出る。何の後ろ盾もなかったクレメンティは当初はパッとしなかったが、1770年代後半に王立劇場の指揮者の職を得て人生が好転し始める。そして1779年の春にOp.2のピアノソナタ(6曲)が出版されて、彼の名声が確立した。

ところでクレメンティが大陸旅行を行った際、ヨーゼフ2世の下でモーツァルトとの弾き比べが行われたのは割と有名なエピソードである。この頃のクレメンティは名人芸的(曲芸的)な技術はあったが、聴く人によってはいくぶん粗野に感じられるものだった。また彼のこの頃のピアノ技法は前時代に属するものだったようである。なお、モーツァルトの『魔笛』序曲はクレメンティの作品を下敷きにした形跡がある。

クレメンティは倦まず弛まず努力するタイプの人間であった。彼の最初期の作品の多くは、必ずしも素晴らしい才能を予見させるものではないが(また、名声をなしてからも駄作がある)、持ち前の学究的な態度でその精度を向上させていった。特に1780年頃に早くもバロック時代の(特にバッハの)フーガを研究し、自ら複雑な後期バロック様式のフーガを作曲していたことは特筆に値しよう。

彼は次第に、名人芸の誇示を辞め、メロディー豊かで高貴な演奏様式を好むようになり、18世紀の終わり頃にはロンドンでの作曲家・演奏家としての絶頂に達した。そして1790年、38歳で公的なピアニストとしての活動を終了する。この頃、ピアニストと言えば十代の若手が普通であって、クレメンティはかなり年上であったことも引退の理由であった。だがそれよりももっと大きかったと推測されるのは、いかに広く世間に認められていたにしても、ヴィルトゥオーゾ(名人)であるだけでは、社会的地位が低かったということである。クレメンティは若い頃の孤独で屈辱的な経験があるだけに「名声」や社会的地位には強くこだわった。

クレメンティは、ある時期は交響曲の作曲家として名をなそうと努力した事もあったが、結局ハイドンの交響曲には太刀打ち出来なかった。クレメンティの音楽は一流ではあっても超一流ではなかったのである。一方、ピアノ教師としては、多くの有望な弟子を育て成功した。特に有名な弟子は、クラマー、ベルティーニ、ジョン・フィールドである。彼は特別高額な謝礼は設定していなかったものの、かなり大勢の弟子を教えていたらしい。

クレメンティは音楽によって財をなし、それを事業に投資して自身で会社を経営した。事業内容は、楽譜の出版・販売、ピアノの製造・販売である。世紀の変わり目頃に、クレメンティは芸術から事業へと足場を移した。イギリスでは、事業家になることは「尊敬さるべき地位への一歩と見られた(p.144)」。彼は度を超した極端な倹約家で、疑り深く、金銭にガメつく、自らの楽譜出版の収入のために駄作を量産した時期もあった。「クレメンティほどの能力ある人物が、明らかに収入の増大と、Opus番号を増やすだけの目的で、このような手段に頼ったことを知るのは悲しいことである(p.148)」。

それであっても、彼の最良の作品(例えばOp.34 no.2のピアノソナタ)は、彼が第一級の音楽性の持ち主であったことを如実に示している。

1802年から、50歳となったクレメンティは8年にも及ぶ大陸旅行を行う。これは旅行というより出張と言った方がよいもので、目的は自社のピアノ販売・販路拡張と、楽譜の出版のための出版社や作曲家との交渉のためであった。この出張によって、クレメンティはベートーヴェンのいくつかの曲の楽譜出版の権利を得、イギリスにおけるベートーヴェンの主要な出版社となることができた。

またこの旅行中、彼は弟子を大陸の主要な都市に配置し、ピアノ販売の代理人として活用した。なおアレクサンダー・クレンゲルはこの旅行の中でクレメンティの一門に入り、ペテルブルクに残って(駐在させられて)いる。

この時期、クレメンティは自身の作品の出版をほとんど行っていない。それは、事業に軸足が移ったためでもあるが、それ以上に「自作を手当たり次第に出版するという悪習から脱却した(p.197)」ためでもある。彼は完全に納得ゆくまで自作を公表しなくなっていた。作曲家としては、内省の時期であった。

1810年代、クレメンティの会社はベートーヴェンの作品の出版によって輝かしい業績を挙げ、また1813年にはクレメンティらロンドンの最高の音楽家たちは共同してフィルハーモニー協会を設立し、クレメンティはその常任指揮者に就任した。また同年、クレメンティはスウェーデンの王立音楽アカデミー会員ともなった。60代のクレメンティは今や十分な社会的地位にいて、多くの弟子に囲まれ、名実共に大家として遇された。孤独で疑り深かったクレメンティはすっかり自分を変えることが出来た。

それでも、クレメンティは向上することをやめなかった。一つは、彼のピアノ芸術の集大成である『グラドゥス・アド・パルナッスム』の作曲である。これは、約55年に及ぶ作曲・改訂・編集の産物であり、全てが新作ではないが、「クレメンティ自身の鍵盤音楽技法の要約的記録、最終的総括」であり、プレリュード、フーガ、カノン、スケルツォ、ソナタなどの多様な曲の100曲もの集成である。彼は既に時代遅れのように思われていたフーガを数多くこの曲集に収録した。この曲集は、練習曲の体裁は取っていたが、「これらの曲のかなりの部分は(中略)一般的練習曲とは異なっていた。すなわち、それらは純粋に多声的なのであった(p.239)」。

『クラドゥス』1巻は1817年、3巻が完結したのが1826年。その曲集は、技術的な目的から音楽的な目的へと次第に高まっていき、遂に「堂々たる一種の遺書、遺言状」であり、彼の鍵盤音楽技法の総決算となった。70代の音楽家が、このような一大作品集を作り得たということが驚異的である。

もう一つは、晩年までも交響曲の作曲を辞めなかったことである。クレメンティにとって、最後に追い求めた名声が交響曲の作曲家として認められることであった。しかし、ベートーヴェンが現れて別格の交響曲を作曲し、それ以上の作品が誰にとっても不可能になってしまったため、クレメンティは敗退を余儀なくされた。だが、70代の作曲家が交響曲にトライし続けたのは、大変なエネルギーであったはずである。

クレメンティは、1832年、80歳で亡くなった。葬儀には、数多くの民衆が訪れたという。遺体は、ウエストミンスター大聖堂の修道院に葬られた。床にはこう刻まれている

ピアノフォルテの父と呼ばれた
ムツィオ・クレメンティ
音楽家として
また作曲家としての
ヨーロッパ中に認められた彼の名声は
この修道院に
埋葬されるという
栄誉を彼に与えた

クレメンティの音楽家としての人生は、輝かしい成功を収めた。こんなにも長い期間、演奏家・作曲家・教育者として活躍した人は同時代にいなかった。クレメンティの人生が、そのまま、ピアノという楽器の成立時期にもあたっていたので、彼は「ピアノフォルテの父」と呼ばれるに相応しい業績を残した。

しかし、その内容を詳細に見てみれば、そこには一抹の哀しみがあるように思う。まず、クレメンティが偏愛した対位法的な作品は、成功しなかったということだ。クレメンティはカノンやフーガといった後期バロックの込み入った作品を理想としていたが、そのような様式ではクレメンティは遂に第一級の作品を書くことができなかった。15歳からの7年間という大事な時期、正規の音楽教育を受けられなかったことは、クレメンティの生涯に長く悪影響を及ぼした。

次に、彼は優れた音楽性を持っていたにも関わらず、余りにも事業に熱心であったために、本当なら到達してもおかしくなかった音楽的高みに辿り着くことができなかったように見える、ということだ。少年の頃の長く辛い孤独な境遇を克服して、自由闊達な境地に辿り着くのに、彼は半世紀ほどもかけなければならなかった。

クレメンティは、学究肌で、語学に堪能であり(ヨーロッパ諸語のほとんどをしゃべれた)、「特にラテン文学に素養があり、数学と天文学の熱心な研究者(p.71)」でもあった。いわば彼は、天才なのだった。少年の頃のやや時代遅れな教育を別とすれば、彼はほとんど独学によってヨーロッパのピアノ界の頂点まで上り詰めたのである。しかしそれが、彼の限界をも定めてしまったという面が否めない。

なお、本書は音楽について論評する際には必ず楽譜を掲示し、かなり専門的な部分(楽典的なところ)まで考証する。正直言うと、私はそういう部分は読み飛ばした。音大の学部レベルの本である。しかしそこを読み飛ばしたにしても、クレメンティの人生は面白く、楽譜が読めない人にも十分楽しめる本だと思う。

独学の「ピアノフォルテの父」の実像に迫った快作。

※原著出版1977年。その後、テレマンについては再評価されており、「激しく下降」は現代では当たらない。


2021年1月2日土曜日

『日待・月待・庚申待』飯田 道夫 著

日待・月待の考察。

今では失われてしまった習俗に日待(ひまち)・月待(つきまち)がある。今でも寺院の隅などに「二十三夜塔」と刻まれた石塔が立っていることがあるが、これは「月待塔」と総称される石塔で、この習俗の名残だ。

日待・月待とは、特定の月(普通は1月、5月、9月)の特定の日(例えば「二十三夜待」であれば、23日)に、余興などをしながら眠らずに過ごすという行事である(日待・月待の行事内容にはほとんど差がない)。

では、これは一体何のために行われたものか。日待・月待は広く行われた一般的な習俗であったにもかかわらず、これがわからない。すでに江戸時代の文化人たちが、「日待は○○のためにするものであろう」といった調子で推測を交えて語っている。この行事をやっていた江戸時代の人々も、余興をして徹夜するという遊興の方に重点があったせいで、行事の本質を忘れてしまい、役者を呼んで騒いだり、遊郭で遊び呆ける日としか認識していなかったようである。

現代の民俗学では、日待・月待をそれぞれ五穀豊穣を祈った太陽信仰・月信仰と見る。寝ずに夜を過ごし、太陽が出てくる様子を拝むのが日待だというのだ。例えば「二十三夜待」も、二十三夜の月(当時は太陰暦だったので、日付と月齢は一致する)を拝する信仰であると。

確かに、農村に残る日待・月待を観察してみればそういう結論になる。農村では何かにつけ五穀豊穣を祈るものだし、太陽や月も豊作を司るものとして敬われたのは事実である。しかし、日待で太陽をそのまま拝むとは妙に原始的であるし、別に徹夜せずとも早起きして朝日を拝めばよいはずなのに、なぜ夜中起きている必要があるか。どうも民俗学の説明では行事の本質が見えてこないのである。

そこで著者は、随筆や文芸作品といった近世の文献に日待・月待がどのように描かれているかを渉猟し、日待・月待とは一体なんであったのか推測する。その過程を省いて結論だけ書けば次のようになる。

まず、三長斎月(正五九月)の一定期間(元来は一ヶ月間)、精進潔斎して仏事を修する行事があった。これは、この期間、帝釈天が人々の行いを宝鏡に映し出して監視すると考えられたために行われたもの。この期間だけでも行いを正しくするため悔過(けか)の法が行われることもあった。また、満月がこの宝鏡と同一視され、満月に行いを見せる行事へと変質していったと思われる。さらに、鏡餅も、この宝鏡とみなされたアイテムではなかったかと著者は言う。

それはともかく、元来は精進潔斎して一月を過ごす仏事であったらしいが、一ヶ月間も精進潔斎するのは日常生活に差し障りがあるので、それが短縮されやがて1日となった。また月に自らの正しい行いを見せるという趣旨に変わっていき、結果として徹夜して過ごすことになったと考えられる。また神は賑やかなことが好きであるという考えで、精進潔斎というより楽しく騒いで夜を明かすというように変わっていった。これが日待である。ところが「日待」は単に「徹夜する」というだけの意味の言葉となり、広く使われるようになったため用語が混乱した。

よって、日待に太陽信仰は関係なく、朝日を拝むという行為自体が行われていなかったと考えられる。江戸時代の識者が「日待」=「日祭り」と考え考証したことが裏目となり、太陽信仰であるという誤解が生まれたのだという。また、用語としては”日”待であるが、行事の趣旨からは”月”に自分の行為を見せるというところに重点があったことにも注意しなくてはならない。

では月待の方はどうか。大雑把にいうと「月待」というもの自体がなかったというのが著者の考えである。というのは、「二十三夜待」などというものはあったが、これは別に月とは関係なかったというのである。もちろん「十三夜夜待」「十九夜待」「二十六夜待」といったいわゆる月待は、月に行いを見せるということがあったり、月を拝んだりと、全く月と関係ないわけではないが、本質的にはそれぞれその仏の縁日(縁が深い日)に仏事を修することであり、月はオマケであった。例えば「二十三夜待」の場合、勢至菩薩を祀ることが行事の中心であって、月には象徴的な意味しかないというのである。

なお、庚申待については、江戸時代は「日待・月待・庚申待」とセットで認識されていたので本書でも一緒に扱われているが、著者は前著(『庚申信仰』等)によってこれを詳細に考察しているため、本書では簡単な説明である。

著者は、英文科卒で航空会社に勤務した人で、日本の文化は専門ではない。海外に出た時に日本文化への無知を感じて古典文芸を紐解いたことをきっかけにこういった研究をするようになったのだという。よって、本書は必ずしも専門的な考証を経たものではないが、民俗学や宗教学の立場で研究するよりもかえって自由に検討ができているように感じ好感を持った。

ただ、上述の結論については、私自身はスッキリと納得したとはいえない。日待・月待という行事が多様であるため、都合のいいところで切り取ればどうとでも言える部分があるし、特に月待については、著者の説明では徹夜しなくてはならない理由が薄弱に思える。著者自身も一つの考えであるという立場で、決定的なものとは見なしていない。さらなる考究が行われることを期待したい。

とはいえ、日待・月待のような地味な研究は今の世の中では人気がなく、「さらなる考察」は当面出そうにないのが現実である。そんなわけで本書は、日待・月待について、現段階では最もよくまとまった考察の書である。

自由な立場で日待・月待を論じた価値のある本。


2021年1月1日金曜日

『19世紀のピアニストたち』千蔵 八郎 著

19世紀前半のピアニストたちの多様な生き様。

18世紀の終盤から19世紀前半は、まさにピアノの時代であった。ちょうどその頃、ピアノという楽器が長足の進歩を遂げてどんどん表現の幅が広がり、また上層中産階級の家庭に普及した。そしてたくさんのピアニストがデビューし、持てはやされた時代でもあった。

本書は、そうしたピアニストたちの人生を紹介し、生き生きとしたピアノの時代の雰囲気を描くものである。

主に取り上げられているのは、フンメル、クレメンティ、フィールド、ベートーヴェン、カルクブレンナー、モシェレス、アルカン、リスト、ショパン、チェルニー…といったところである。この他、女性の音楽家も数多く登場する。

当時のピアニストの在り方は、今のクラシックのピアニストよりも、ポップスやロックのバンドマンたちに近い。というのは、演奏会を企画開催する団体がほとんどなかったからで、彼らは自身の手でその披露の場を作らなくてはならなかった。

まず演奏会は、人口の多い都市に乗合馬車で向かうところから始まる。当時はまだ鉄道がなく、悪路をゆく乗合馬車を何十時間も乗り継いでヨーロッパ中を巡る必要があった。一つの町で継続的に演奏会に人を呼ぶのは、人口のずっと多い現代でも難しいからだ。それに、録音もジャーナリズムもなかった時代、音楽家として名を上げようと思えば、どうしても自分が出向いて演奏する必要がある。だから、まずピアニストは長時間の移動に耐える体力が必要だった。

目的の都市についたら地域の顔役に挨拶し、演奏会の開催の許可やその協力を取り付ける。ここで重要なのは共演者の確保である。というのは、ヨーロッパ中に名声が轟いているようなピアニストでない限り、たくさんのチケットがいきなり売れるわけはない。そこで、「歌がうまい誰々さんの娘」というような、地元の音楽愛好家に共演してもらうのである。そうすることで、知り合い票によってチケットを売りさばくことができる。そして関係者は多い方がいい。だからこの時代は、ピアニストが単独でリサイタルするということはなく、いろいろな人が演奏したり出し物をするような、今でいう演芸大会のような形のコンサートが行われていた。

もちろん、そこで出演してもらう共演者には主催者であるピアニストが出演料を出す必要がある。チケット収入から、会場費、出演料などを引いた残りが本人の収入となるが、いつの時代も興行とは難しいもので、儲かる時もあれば損する時もあった。この時代のピアニストは、芸術家というよりは「興行主」であり、むちゃくちゃな人生を歩んだ異色の人物が多かったのである。一言でいえば、当時のピアニストはヤクザっぽかった。

しかし、実は彼らの本当の目的は興行収入ではなかった。演奏会で評判がよければ、良家の子女や音楽家志望の若者がレッスンを申し込んでくる。このレッスン料が継続的な収入となったのである。そもそも、移動を含めて演奏会には多大な労力がかかる上、この時代のピアノ技法はどんどん進歩し、一人のピアニストが長い期間に演奏活動を続けることはなかった。だから、いわばイキがいいうちに指導者として認められるか、興行で得たお金で事業を興すなど、次のステップに移っていく必要があったのである。

とはいえ、この時代は「いまのように、名声をあげるすべがたった一つのルートしかないというのに比べれば、はるかに幸福だった(p.64)」といえる。コンクールはまだ存在せず、音楽院はあったがそこでの成績や学閥は、成功にはあまり関係なかった。この点も、バンドマンの世界と似ている部分である。

ちなみに、当時の演奏会は、これまでの説明でもわかるように今のクラシックのコンサートとは全く違うもので、観客は演奏会を社交の場と捉えておしゃべりしたり、時には一緒に歌ったりするような場であったらしい。今のような2時間程度の独演会を初めて開催したのはリストだと言われている。19世紀半ばに、今風の「リサイタル」が確立した。

また、本書の全体を通じて述べられているのが、19世紀前半はピアノの古い奏法と新しい奏法が共存し、競争した時期であったということである。「古い奏法」とは、チェンバロ由来のもので、腕(と掌)を動かさずに指だけを動かして弾くやり方である。この訓練のため、手の甲にコインを置いて、それが落ちないようにピアノを弾くようなことも行われていた。一方、新しい奏法は、腕全体を使って弾く今のやり方である(ベートーヴェンは前世代に属するが、どうやらこっちの弾き方をしていたようだ)。 クレメンティのように、古い奏法で頭角を現しながら、新しい奏法の利点を認めて鞍替えした人もいた。新しい奏法を使って華麗に演奏したリストによって、この共存には終止符が打たれることになった。

本書は、雑誌『ムジカノーヴァ』に連載された記事をまとめたものであり、気軽にスラスラと読める。エピソードによって当時を語るものであるため、ちょっと物足りないところもあるが、普通の音楽史があまり扱わないピアニストのヤクザ的な面が描かれており面白い本である。

【関連書籍の読書メモ】
『カルル・チェルニー—ピアノに囚われた音楽家』グレーテ・ヴェーマイヤー 著、岡 美知子 訳
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/12/blog-post_31.html
チェルニーの人生を辿り、19世紀前半の音楽シーンを描く。時代に適合しすぎた音楽家チェルニーを描いた力作。


2020年12月31日木曜日

『カルル・チェルニー—ピアノに囚われた音楽家』グレーテ・ヴェーマイヤー 著、岡 美知子 訳

チェルニーの人生を辿り、19世紀前半の音楽シーンを描く。

チェルニーといえば、ピアノ学習者にはおなじみで、『チェルニー30番』とか『同40番』などの練習曲に苦労した記憶は誰にでもある。だが、チェルニーという音楽家がどのような人物であったのかは知らない人が多い。本書は、チェルニーという知られざる音楽家の全貌を紹介するとともに、それを通じて19世紀ヨーロッパにおける音楽事情を活写するものである。

チェルニーは、850曲以上を出版した作曲家であった。彼はベートーヴェンの弟子であるが、ベートーヴェンが作品番号を与えたのが150曲に満たなかったのを考えると非常なる多作家である。ではその内容はどのようなものであるか。今では練習曲が高名であるがそれは作品全体のごく一部であり、全体の半分を占めるのは当時流行したオペラや歌曲のパラフレーズ(編曲やアレンジ)である。

なにしろ、当時は録音ができないため、音楽を楽しみたい市民は、劇場に行くか、あるいは自分たちで演奏する以外にはなかった。だから、今の人が流行の曲をカラオケで歌うのと同じように、当時の市民は自宅のピアノ(やその他の簡単な伴奏楽器)でオペラや歌曲を演奏したのである。そのため、誰でもさほど練習せずとも弾ける簡単なパラフレーズは非常に需要が大きかった。ウィーンでこういう仕事を一手に引き受けていたのがチェルニーである、といっても過言ではない。

我々は、チェルニーがどのようなパレフレーズを作曲したかを辿ることで、今では失われた当時のウィーンの音楽シーンを再構成することができる。それは、必ずしも古き良き時代の記憶を呼び起こすことではない。むしろ、苦々しい音楽シーンの記録でありさえする。

19世紀初頭のウィーンは、政治的な混乱のまっただ中にあった。1848年、ヨーロッパの他の都市より遅れてウィーンにも革命が起こるが、この革命の年まで、ウィーンの貴族や市民たちは先の見えない政治情勢に右往左往した。この、一見するとナポレオン戦争後の平和な時代、社会の不平等や格差は大きく広がり、どうしようもない矛盾が世の中に横たわっていた。それゆえに人びとは自分が政治的に無力であると諦観し、混乱した政治を視て見ぬ振りしながら、「政治から芸術にへ、社会から個人へ、現実から夢へと逃避した(p.48)」。

そして人びとは音楽に熱狂した。だがそこで好まれたのは真の芸術ではなかった。理想に燃えた高尚な芸術ではなく、その場しのぎの、簡単に盛り上がるがすぐに忘れられる音楽が好まれた。そもそも、音楽は政治に従属していた。オペラの台本は検閲され、問題のある箇所は削除され書き換えられた。そういう中で、音楽は当たり障りのないものへと堕落していった。チェルニーが厖大にパラフレーズした作品は、そういう、閉ざされた時代の産物であった。彼は高尚な芸術を作るよりは、市民の需要に応えた、まるで手工業製品のような作品—ビーダーマイヤー(小市民)様式の曲—を生みだした。

また、19世紀前半は、空前の「名人芸(ヴィルトゥオジテート)」の時代でもあった。産業の発展とともに市民階級が音楽を楽しむようになると、誰にでも分かるすごい音楽、として「名人芸」がもてはやされた。つまり、人間業でないスピード、跳躍、和音の連打といったものである。折しも、ウィーンの音楽シーンにヴァイオリンの悪魔、ニコロ・パガニーニが出現して人びとは熱狂した。1830〜1848年に活躍した名人芸的ピアニストといえば、フンメル、カルクブレンナー、リスト、タールベルグといった絢爛たるヴィルトゥオーゾが挙げられる。

そして、こうした綺羅星に憧れて、いやその収入に憧れて、多くの親たちは子供に音楽教育を施すのである。14歳以下の少年少女たちが機械的に訓練させられたピアノの技を披露し、市民が喝采した。子供が難しい曲を弾けば喝采するのは当然である。そして演奏会での収入は、思うように出世できない中産階級の親たちには魅力的だった。こうしてウィーンでは空前の音楽教育ブームが到来する。

ウィーンに医者が500人もいなかかった時代に、「心もとない知識でレッスンをしている人も勘定に入れれば、実際に1,600人のピアノ教師が稼働していたという(p.165)」。 このような莫大なピアノレッスンの需要に応え、優れた音楽教師として多くの俊英を育てたのがチェルニーであった。

ピアノの神童であったチェルニーは、ベートーヴェンの弟子となりピアノや作曲を学んでいた。チェルニーがベートーヴェンのような芸術家になる理想を持っていたことは疑いない。 だが、彼の両親は演奏旅行を行うには歳を取りすぎており、また裕福でもなかった。チェルニーは15歳の頃から、毎日20人もの生徒のレッスンを朝から夕方まで行った。それは、おそらく少年にとって耐え難い日々であったに違いない。

チェルニーは非常に規則正しく生活し、毎日のレッスンを終えると、夜には毎晩作曲を行った。 残された大量の作品は、おそらくは日中のつまらない仕事を埋め合わせようとする試みであり、皮肉なことに夢破れた結果でもあった。

だがチェルニーがいやいやながらピアノレッスンを行っていたとしても、その手法は時代に先んじていた。彼は無味乾燥で機械的な指の訓練を誡め、音楽的に優れた演奏を行うことを目的にしている。今のピアノ学習者は『チェルニー40番』の無味乾燥さに嫌気が差しているだろうが、当時としてはチェルニーの指導は大変優れていた。とはいってもチェルニーが自身の練習曲を弾かせて生徒をうんざりさせたことも間違いはない。進展する産業化社会の中で、音楽の世界のみならず「勤勉」で「禁欲的」なピューリタン的なやり方が求められるようになっていた。チェルニーは、ピアニストの卵たちに「労働」を指示したのである。チェルニーの、いわば「公文式」のような指導は、時代の子であったともいうことができる。

だが、当時は(今でも?)頭ごなしに子供を押さえつけ、泣き叫んでも無理矢理弾かせるような苦行のような「指導」が横行していたことを考えると、チェルニーの元に引きも切らさず入門希望者が訪れたのは不思議ではない。チェルニーの指導はとても穏やかで、人間味に溢れていたという。

ベートーヴェンの弟子としての名声も彼の成功に一役買っていたには違いないが、ピアノ教師として優秀であったことは確実だ。しかもチェルニーは、リストのような天才少年が現れると無料でレッスンを行った。貧しかったリストはチェルニーの家で住み込みで教わっている。

1840年代になると、名人芸の時代は下火になる。そこに音楽的な感動はなく、いわば一発屋的なものだったからだ。例えばリストは、もはや名人芸の演奏会を開くのではなく、作曲に重点を置いていった。一方チェルニーは、1827年に母親を、1832年に父親を亡くして天涯孤独となった。それまでのチェルニーは、年老いた両親を支えなくてはならないという責任感が大きかったようにみえる。そして自由な立場になった1836年、彼は36年に及んだピアノ教師業を一切辞める決心をした。時にチェルニー45歳であった。

チェルニーは、それまでの需要に応えた音楽活動を、後悔し始めていた。自分の音楽的才能を無駄遣いしてしまったのではないかと。そして間違った作品を大量に生みだしていた無意味さを思うのだった。そして後半生を懸けて、本当に自分が作りたかった芸術の道へと入っていくのである。彼は大量のパラフレーズを作るのを辞め、「古典様式」—つまりハイドンやベートーヴェンの到達した音楽様式—の曲を作るようになった。しかもそれらは気軽に演奏出来るものではなく、本格的な芸術を志向していた。

また、チェルニーは1837年にJ.S.バッハのクラヴィーア作品(『平均律クラヴィーア曲集』)の校訂版、1839年にはスカルラッティの校訂版を出版する。このスカルラッティ校訂版は、先駆的な掘り起こしであった。またチェルニーは自身では作曲の教本は書かなかったが、アントニン・ライヒャの『作曲法講義』(仏語)を独訳して注釈をつけて出版した。彼はピアノ教師から引退した後も、変わらぬ勤勉さで幅の広い仕事を行っている。なおチェルニー版の『平均律』は、時代に先んじたものではなく、また19世紀の過剰なアーティキュレーション(表情付け)によって味付けされたものであるが、これはベートーヴェンが弾いていたバッハを再現したものと言われており、その意味で価値のあるものである。

それに、チェルニーは廃れゆくポリフォニー(多声)音楽の擁護者でもあった。名人芸への賛美の裏で、ポリフォニー音楽は演奏会で人気がなく、地味で衒学的、時代遅れなものと見なされていたのがこの時代であった。チェルニーは『フーガ演奏教本』Op.400を作曲し、また最晩年には『クラシック・スタイルにおけるピアニスト』(24の全調性による前奏曲とフーガ)を作曲している。

さらにチェルニーは、『完全なる音楽史の概要(Umriss der ganzen Musik-Geschifgt)』を1851年に出版する。これは音楽事典であり、トロイア戦争の時代から1800年に至るまでの音楽年表であった。チェルニーは完全主義者であったから、どんな仕事でも高い完成度を持っていなければ満足しなかった。「あらゆる時代を網羅して著名な音楽家の一覧を挙げ、年齢に従って作品を列挙し、それを年代順に並べた。また国別、時代別に区切って、同時代の歴史的事件を並列し、アルファベット順の人名索引を備えた(p.297)」この音楽史の巻末には1477名の音楽家が索引に挙げられた。

こうした労作を準備しながら、50年代のはじめ頃のチェルニーは非常に多作だったというのが驚きを禁じ得ない。チェルニーは、若い頃、糊口を凌ぐために作らなければならなかったくだらない音楽を上書きするかのように、弦楽四重奏曲や交響曲などの本格的な作品をどんどん生みだし、「死を目前にしてもなお人生の階段をもう一段昇ることを考えていた(p.120)」。

1857年、ある出版人に向けてチェルニーは書いている。「あんなもの(注:チェルニーを有名にした練習曲群)は私の芸術家という職には何のプラスにもならないのです。もし神が私の人生に今少しの猶予をくださるのなら、私はこの何年来とり組んでいる『四重奏、交響曲、教会音楽など』の芸術作品によって、ひとえに出版業の方々に対する好意から犯してきたあやまちを正したいと思っています(p.121)」と。そしてこの手紙を出したたった10日後、チェルニーは10万フロリーンという多額の遺産を残して死んだ。

チェルニーの人生は、良くも悪くも小市民的であった。彼は芸術に殉じて破滅的な人生を歩むタイプではなかった。芸術家として生きる夢がありながら、現実と妥協してより堅実なピアノ教師となり、社会の求めるままに流行の曲のパラフレーズを書きまくった。その仕事は規則正しく、また穏当で優れたものであったが、本当にやりたいことではなかった。彼が本来の自分に目覚めたのは45歳の時で、それはやや遅すぎたのである。

だが、チェルニーは優れたピアノ演奏家を育て、それは次の音楽の主流を作っていった。フランツ・リスト、ハンス・フォン・ビューローなどといった「チェルニーの門下生を数えあげれば、二十世紀にいたるまでピアノ音楽界は彼の流れをくむ人々で占められていたといわざるをえない(p.166)」。その意味では、彼を大音楽家と言って差し支えないと思うのである。そして、最晩年に作曲した『クラシック・スタイルにおけるピアニスト』は、まさにチェルニーがベートーヴェンの弟子であり、対位法を使いこなした優れた作曲家であったことを如実に物語る傑作である。チェルニーの本当の姿は、もっと知られるべき価値がある。

本書は、当時の史料を縦横に駆使しており、またチェルニーの人生を時代的に辿るというよりトピック的に巡っているので、やや難解である。ただ、この本を手に取る人はある程度音楽史や音楽に詳しい(少なくとも楽譜は読める)人だと思う。そういう人にとってはかなりエキサイティングで、滅法面白い本である。

また、本書には上にまとめたこと以外にも興味深い事項(例えば暗譜演奏、即興演奏の扱いについてなど)が盛り込まれている。チェルニーにあまり興味がない人にも音楽ファンに広くお勧めできる本である。

時代に適合しすぎた音楽家チェルニーを描いた力作。

 

2020年12月30日水曜日

『音楽と音楽家』シューマン 著、吉田 秀和 訳

シューマンによる音楽時評。

シューマンは、若い頃に文学の道に進むか迷ったほど文筆にも秀でていた。結局彼は音楽の道に進んだが、1833年のライプツィヒで、仲間たちと音楽の行く末を論じているうちに、「進んで事態を改善し、芸術のポエジーの栄誉をもう一度取り戻そうではないか」と新しい雑誌を創刊することになった。

それが「音楽新報」という雑誌であった。シューマンはいろいろな事情から、やがてこの雑誌の編集長的な立場として筆を振るうことになる。本書は、「音楽新報」が活動していた約10年間の、シューマンが執筆した諸編の抄訳である。

当時、「ロマン派」と呼ばれる新しい音楽が続々と発表されていたが、その音楽の真価は十分に理解されていなかった。シューマンらは、それらに対する時に攻撃的なまでの擁護を雑誌上で行った。

「音楽新報」の言論の価値は、次のようにまとめられる。

  • ベートーヴェン崇拝を確立したこと。
  • シューベルトの世界を再発見したこと。
  • ショパンを天才と認めて多くの作品を取り上げたこと。
  • ベルリオーズを強力に擁護し、ドイツ楽壇に紹介したこと。
  • メンデルスゾーンの新古典主義的な作曲を積極的に評価したこと。
  • J.S.バッハ(特に『平均律』)の価値を最大限に喧伝したこと。
  • ブラームスを歓迎したこと。

これらは全て、現在の音楽史では完全に正統的な評価である。というよりも、シューマンの価値判断が、間違いなく「定評」を作ったのである。

第一級の音楽家であったシューマンが、当時の第一級の音楽家のことを理解できたのは当然として、実はその文章の方もロマン派まっただ中の時代の雰囲気を感じてなかなか面白い。シューマンはジャン・パウルに傾倒していたそうで、ところどころにその言及もある(とはいえ、ジャン・パウルに比べると文章は断然まとまっている(笑))。

また、中期以降は硬派な評論になっていくが、初期の方は架空のキャラ=フロレスタンとオイゼビウス、ラロー先生の語りになっており、音楽評論としてはやや冗長であるが青年の遊び心(なのか、双極性障害のような人格分裂なのか?)が読んでいて楽しい。ただし、このやり方は結局何が言いたいのか煙に巻かれているような部分もある。やはり署名記事の方が価値は高い。

ところで、本書は音楽評論家として著名な吉田秀和の初めての本である。吉田は、この本を訳している時は内務省地方局庶務係に勤務していて、勤務時間中に堂々と本を広げて翻訳をしたらしい。戦争中の昭和16年にそんなフマジメが許されたというのが不思議である。今だったら懲戒解雇ものだろう。

ロマン派の歴史を、音楽作品でだけでなく文筆によっても作ったシューマンの評論。


『殉教と民衆—隠れ念仏考』米村 竜次 著

相良藩(人吉藩)を中心として真宗禁制の実態を描く本。

相良藩では、薩摩藩と同じく江戸時代に真宗(一向宗)が禁止されていた。しかしその実態は、史料がほとんど残っていないため謎に包まれている。本書は、相良藩を中心として近世南九州における真宗禁制を、いくつかのトピックをキーにして読み解くものである。

第1のトピックは、貞享4年(1687)、相良藩で14人もの集団入水自殺が行われたもの。その身分は種々雑多であり、その集団を結びつけていたものが何かがわからず、しかも彼らは自殺の理由について何の手がかりも残さなかった。しかしそれは、幕府が切支丹禁制の弾圧を布達した直後のことであり、著者は14人を隠れ切支丹か、隠れ念仏の徒であったかもしれないと推測している。

第2は、隠れ念仏の「毛坊主」や講を組織した人びとについての考察である。毛坊主とは、俗人の僧侶(のような働きをした者)である。彼らは普段は農業などに従事するが、裏の世界では隠れ信徒を束ねる指導者の役割を果たした。本書では「伝助」や「高沢徳右衛門」という毛坊主の動向をかなり詳しく追っている。伝助は、累代にわたって襲名された毛坊主の名前であり、5代連続で殉教した。高沢徳右衛門は、藩の家老までも隠れ念仏の信徒に引き込むという大胆な組織者だった。(高沢に関して、「ナバ山騒動」という農民一揆の事が語られている。これは隠れ念仏との直接の関連はないが面白い一節である。」)

第3は、転びもの、つまり転向者について。隠れ念仏の信徒であることが露見すれば、厳しい拷問が行われた。当然、転向するものも出てくる。そして彼らは取り締まり組織の一員(一向宗訴人)となり、今度は摘発側に回らざるをえないのである。それが転向の証明となった。

ところで、鹿児島県出水地方の隠れ念仏の信徒は、夜中に肥後水俣の源光寺へやってきて念仏を行った。このような基盤があった出水では、一気に1700人もの人が隠れ念仏の信徒であると申し出てきたことがある(=元文5年頃)ほど真宗が盛んだった。この出水地方に、まさに隠れ念仏の取り締まりをしていた税所家の文書が残っていて、隠れ念仏研究には必須の史料である。著者はこれを頼りにして、弾圧と転向のリアルを探っている。

藩では、通常は隠れ念仏を泳がせていたと著者は見る。その動向を把握して、いつでも摘発ができるようにしておいたのだ。そして飢饉など藩の財政状況が厳しくなってきたとき、一気に弾圧を加え、厳しい拷問によって組織を潰滅させた。それは、真宗の信仰には上納金を必要とするため、藩財政を圧迫するものとみて問題視したのだという。

第4は、三業惑乱について。隠れ念仏の講の内部では、教義上の解釈と信仰のあり方に関して紛争が絶えなかったという。系統的な指導がなかったのだから当然である。幕末、真宗本願寺派(西本願寺)の本山でも、三業惑乱という教義上の争いがあった。

三業惑乱の詳細は本書に詳しいが、隠れ念仏との直接の関係はない。ただ、この争いで異端とされた願生帰命主義派(欲生派)は、地下に潜伏して隠れ念仏への布教に活路を見いだすのである。その一人が追放判決を受けて熊本・鹿児島に逃げてきた大魯(岡大道)という人物。彼は天草、甑島、永吉(吹上)を回って、「細布講」や「煙草講」という講を組織した。

彼は自身の教えこそが正しいと民衆に教え、その当てつけのように厖大な上納懇志を本山に毎年送りつけた。大魯によって鹿児島西部一帯は念仏の興隆を見せたが、同時に三業惑乱の抗争が隠れ念仏にも持ち込まれた。なお大魯が身を隠していた洞穴が永吉に残っており、大魯の墓は光専寺にあるという。

第5に、隠れ念仏の民俗学的な視点からの考察である。この部分は事例の列挙的である。特に隠し部屋の造作などは興味を惹かれる。本書の著者は真宗の住職であるが、本山には批判的であるものの、かといって隠れ念仏を称揚するでもなく、フラットな視点で隠れ念仏を語る。隠れ念仏は、隠す必要があるために呪術化していった。それは、本来の真宗から離れていくことでもあった。そして、そのように土着化したからこそ隠れ念仏が盛行したのかもしれない。「隠すこと、擬装することが嗜好的と言ってもいいほどに逆に信徒をむしばんでしまうこともあるのである。祈祷を許さない真宗の教典のゆえに、逆に秘事化、呪文化することによって有難みと娯しみを見出す(p.275)」のだった。

構成がスッキリしていないため全体的にはわかりにくいが、ちゃんと現地に取材してまとめられた隠れ念仏考察の本。


2020年12月22日火曜日

『倭寇―海の歴史』田中 健夫 著

倭寇を軸に、14〜16世紀の東シナ海の歴史を描く。

倭寇と一口に言っても、時代も場所も様々であり、日本人も朝鮮人も中国人もおり、その目的も略奪から交易まで多様だった。そもそも、大陸では秀吉の朝鮮出兵も「倭寇」と見なされており、「倭寇」はカッチリとした歴史概念ではない。

広義に考えれば倭寇は日本と大陸の関係が生じてから20世紀に至るまで存在していたのであるが、本書では狭義の倭寇を叙述の対象とし、その活動が最も激しかった「14〜15世紀の倭寇」・「16世紀の倭寇」にフォーカスして述べる。

なおこの二つは、時代が違うだけでなく、その性質が全く異なるものであるため区分されている。人によっては「前期倭寇」「後期倭寇」と呼ぶこともあるが、この用語では連続したものの前期と後期に区分しているというイメージとなるということで本書では採用されていない。

14〜15世紀の倭寇

【高麗における倭寇】 高麗は、元の侵攻によって存亡の危機を迎え、空前の混乱状態となって警察・軍備もグダグダになった。すなわち、沿岸警備が疎かになり、この空隙を塗って倭寇の活動が急激に活発化したのである。1350年から高麗王朝が倒壊した1392年までの約40年間、倭寇は朝鮮半島を荒らし回った。

この頃の朝鮮半島の倭寇は、略奪行為が中心だった。倭寇は船数数百、兵数数千というような大軍で押し寄せ、騎馬隊までも引き連れていた。彼らは糧食を奪い、また人も掠って奴隷として売っていた。

もちろん、こうした不法行為に対して、朝鮮側は日本に対して抗議を行った。高麗時代はその効果は限定的であったが、李氏朝鮮が成立すると太祖李成桂は室町幕府に倭寇の禁止を要求する。足利義満はこれを受けて賊船を禁止し、また被虜人を送還して朝鮮との友好的な関係を樹立した。

さらに、李氏朝鮮は、それでも活動する倭寇には懐柔策を以て当たった。投降すれば土地や家財を与え、妻を娶らせ、また貿易の権利を与えて優遇するというものだった。倭寇(対馬、壱岐、松浦地方の人が多かった)はこれに続々と従った。こうして降伏した日本人は「投化倭人」などと呼ばれ、やがて朝鮮政府の中枢にまで入り活躍していく。

また、朝鮮は倭寇への懐柔策として日本の諸豪族に通商の許可を与えた。こうして朝鮮との貿易が活発化。ただしあまりに多くの豪族(の使節)が朝鮮に渡航してその接待が負担になったため後に貿易は制限する方向となった。ともかく、李氏朝鮮政府は、日本とちゃんとした外交関係を樹立し、倭寇として活動していたものを「投化倭人」や貿易商人へ変質させることで倭寇の猛威を収束させた。

【中国における倭寇】元と日本とは正式な国交はなかったものの、両国間で貿易は盛んに行われた。特に寺社の造営費用をまかなうために大寺院が貿易船を派遣した。また禅僧の往来も多かった。この時代、貿易を目的に渡航して、思うような成果が出ない場合に略奪を働いた場合が多かったらしいが、元代の史料はあまり残っていないので実態はよくわからない。

明代には、倭寇の活動はかなり激しくなる。その内容は、高麗の場合とほぼ同様であった(時代的にも同じ)。明の太祖洪武帝は、国際秩序の確立のためにも倭寇の問題を解決しなければならなかった。洪武帝は懐良親王に使節を送り、懐良親王を日本国王と認めて国交を開こうとしたが、懐良親王は今川了俊らに抑圧されその任を果たすことはなかった。

一方、この時期、明では洪武帝による功臣の粛清に関してもめ事があり、その余波によって日本との通交は断絶、また中国人民が海上に出ることを禁じた「海禁政策」を強行した。これにより諸外国との明との通交は朝貢一本に絞られることとなった。

足利義満は、征夷大将軍を譲り、剃髪して、国政の官職から離れてから、洪武帝没後の応永8年(1401)、明に使節を送り通商を求めた。彼は律令体制外にある一種の「自由人」として、日本国王として振る舞えた。明では義満を日本国王と認めて巨大な金印を送り、日本を中国中心の国際秩序(華夷秩序)に位置づけ倭寇の鎮圧を命じた。これに応じて義満は倭寇の取り締まりを行い、そのために倭寇の活動は下火となっていった。

義満死後、日明間の通交が断絶していた時期には、倭寇の船団が明の防衛によって全滅に近い被害を受けた「望海堝の戦い」があり、また朝鮮が倭寇の本拠地と見なした対馬を征伐する「応永の外寇」が起こった。幕府の取り締まりや、これらの戦いで15世紀には倭寇の活動は終わりを告げた。

それを埋め合わせるように、東シナ海では貿易が活発になっていく。明が海禁政策をとったことで、琉球が東南アジアとの中継貿易のハブとして栄えることとなった。また、幕府やその傘下の豪族(特に大内氏と細川氏)、堺の商人たちが綯い交ぜになって行われたのが明への朝貢の形をとった日明貿易である。応永8年(1401)[前出]から天文16年(1547)に至る約150年間に19回、遣明船が派遣された。

明の海禁政策は、中国の国民が海上に出ることを禁じた政策だが、多国間の貿易が盛んになる中で国家がこのような規制を行うことは無理があった。そのため、役人に賄賂を送って行う密貿易が盛んになっていき、15〜16世紀になると密貿易の方が主流になってしまった。

また、遣明船が入港していた寧波では、大内氏と細川氏の争いから「寧波の乱」が起こった。この結果遣明船は大内氏が独占したものの、大内氏の没落とともに遣明船は終止符を打つ。

一方、この時期にポルトガル商人たちが東シナ海を頻繁に訪れるようになった。明ではポルトガル商人たちを倭寇と同然に見なしたが、沿岸の住民たちは彼らと交易を望み、密貿易が行われるようになった。その中心が雙嶼(そうしょ:リャンポー)である。これは寧波の東方に浮かぶ島で、許棟(きょとう)の兄弟が仕切って一大貿易拠点となった。その傘下で活躍したのが有名な王直である。

しかし、嘉靖27年(1548)、雙嶼は大摘発によって潰滅させられた。許棟は捉えられ、王直は逃亡、賊徒は多数殺され、船は焼き払われた。これを主導したのが朱紈(しゅがん)という剛直な官僚であった。だが朱紈のこの強引なやり方は批判され、後に彼は自害し、その後海禁は緩むこととなった。

16世紀の倭寇

王直は以前から日本人と関係を持ち貿易を行っていたので、逃亡後、私貿易が出来る場所として五島、追って平戸を拠点とした。平戸での彼は二千人の部下を擁し、豪奢な屋敷に住んで王者さながらの生活を送った。彼は学問に明るく、とかく争いが起こりがちな密貿易における調停者としての資質にも優れていた。まさに王直は倭寇国の王であった。

また王直は、中国大陸においても舟山群島の瀝港(れきこう)を半ば黙認された形の密貿易拠点とすることに成功した。しかしやがて瀝港も明政府によって掃討され、潰滅してしまった。こうした摘発・攻撃を受けたことは、密貿易団の性格を変えていった。雙嶼時代は、不法行為ではあったが平穏に貿易が行われていたのであるが、雙嶼潰滅後の密貿易団は武装するようになり、海賊化していく。嘉靖32年(1553)、王直は倭寇の大船団を引き連れて中国沿岸を襲った。こうした劫掠は「嘉靖大倭寇」と呼ばれ嘉靖35年頃まで続いた。

なお、王直と同類の海賊の首領に、徐海、陳東、葉明がいた。このうち、徐海は日本では明山和尚と呼ばれて尊敬された人物で、大隅に縁があったようだ。陳東は、伝説では薩摩の領主の弟というが、その真偽はともかく薩摩人を多く部下に持っていた。嘉靖大倭寇は、現地住民や日本人、ポルトガル人などと協力しながら展開した反政府的な寇掠であった。なお「倭寇」といっても、この頃の倭寇の主体は中国人で日本人はそれほど多くなかった模様である。

一方、明では倭寇対策が重要な政策課題となった。しかし海防の責任者(総督)は次々に更迭され、指揮命令系統は混乱していた。そのために倭寇の活動が可能となったのである。嘉靖35年、そんな中で総督になったのが浙江巡撫 胡宗建である。彼は日本に使者(蒋洲、陳可願)を派遣し、王直に「もし帰国するなら、海禁を緩めて貿易を許可し、罪は問わない」と利を以て誘った。王直はこれを信じ帰国したが、王直の罪を許すべきでないという廷義によって、嘉靖38年(1559)斬首された。胡宗建は、結果的には王直を騙し討ちにしたことになる。

こうして王直が討伐されたことは、他の倭寇集団を弱めることになり、徐海の一党も潰滅。倭寇はその後もなくなったわけではないものの、かつてほどの勢いはなくなった。

そして明の隆慶元年(1567)、200年にわたった海禁令が解除され、中国人の海外渡航や貿易が許可されることとなった(ただし日本への渡航は引き続き禁止された)。こうして倭寇出現の根本原因が取り除かれたため、16世紀末には倭寇の活動はほぼ終熄した。

倭寇の大きな出現原因は、日中間の貿易が自由化されていなかったにも関わらず、互いに貿易の必要性は大きかったことであった。例えば、ちょうど日本は戦国時代で、鉄砲の火薬のために硝石を大量に必要としたが、日本では硝石が産出せず、中国から輸入するしかなかった。そのため非合法ルートの貿易が必要になるのである。その一つが倭寇だったように思われる(本書でははっきりそう書いてはいない)。

もちろん、生糸、水銀、古銭(日本には自国の鋳銭がなかった)、薬材なども日本の需要は大きかった。また『論語』『大学』『中庸』といった古書(古典)も重要な輸入品であった。

それに関して、ちょっと面白いのは、日本は朝鮮からたびたび「大蔵経」を輸入しているということである。高麗では元の侵略を避ける願を掛け、国家の総力を挙げて「高麗版大蔵経」六千数百巻を彫造していた。日本はこれを盛んに求め、康応元年(1389)から天文8年(1539)までの150年間に83回も「大蔵経」を求め、43部が渡来している。足利義持などは版木までも要求した(当然断られた)。なぜ日本は「大蔵経」をこぞって求めたのか興味が湧いた。

ところで、倭寇は中国人の間に日本人の凶暴な印象を与えたが、一方では、倭寇の時代を経たことで、中国の日本に対する認識が一新されたという副産物があった。それまでの中国には『魏志倭人伝』くらいしかまとまった日本の情報がなく、日本へも無関心であった。だがこの時代、中国は倭寇対策のために日本研究が盛んに行われ、日本に関する正確で具体的な情報がまとめられた。その主なものは次の通りである。

『日本国略考』(1523):定海薜俊(せつしゅん)による明代日本研究書の先駆。所収の日本地理図は中国における最古の日本地図。
『日本図纂』『籌海図編』(1561、1562):鄭若曾が蒋洲・陳可願に聞き取りし、また様々な取材と情報収集を経てまとめたもの。倭寇研究のバイブルとなり後の多くの日本研究の書物が『籌海図編』の記述を踏襲した。
『日本一鑑』(1565):豊後大友義鎮の下に滞在した鄭舜功の書。戦国時代の日本を知るうえでも優れた史料。日本人の美点を多く認め、中国人の日本人観を一変させた。
『日本風土記』(1592):侯継高『全浙兵制考』の付録。倭寇対策よりも、日本の事物を知ることを楽しんだ様子の書。

倭寇は、いろんな意味で中国・朝鮮と日本の間にあった存在だった。日中・日朝の関係が確立し、穏やかな交流が行われていれば存在し得なかった。いくら利が大きかったにしても、討伐されてしまえば意味はない。そこに彼らが存在する隙間があったからこそ、活動できた。軍事・防衛の隙間、交易の規制の隙間があったということだ。ということは、彼らを理解するためには、中国・朝鮮と日本の外交関係、そしてそれぞれの国の内政を理解しなくてはならない。その編み目がほころんだ部分に、倭寇の生きるフィールドがあった。だが、私にはその基本となる前提知識がないので、本書をしっかり理解できたのか心許ない。

明や李氏朝鮮の歴史、室町幕府の外交政策などを勉強してから、改めて本書を読んでみるとかなり理解が進むのではないかと思った。

倭寇の動きを追うことで、東シナ海の激動の歴史を垣間見られるエキサイティングな本。

【関連書籍の読書メモ】
『海洋国家薩摩』徳永 和喜 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/04/blog-post.html

鎖国体制の中でも薩摩が東アジア世界と繋がっていたことを述べる。倭寇が活躍した時代、薩摩ではまた別の形の密貿易が行われていた。

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