2020年4月30日木曜日

『海洋国家薩摩』徳永 和喜 著

鎖国体制の中でも薩摩が東アジア世界と繋がっていたことを述べる。

薩摩藩は中世から南蛮貿易・唐貿易を行い、また鎖国体制下においても琉球国を隠れ蓑にして中国等と交易を行っていた。しかしこれは密貿易であったために史料があまり残っていない。

そこで著者は様々な史料の断片からかつての貿易の様子を推測する。本書はこのような断片の集積であるため、決して読みやすいものではなく、時代が行ったり来たりする上に記述にはかなり粗密がある。また、既存研究である程度明らかになっていることについては記載しないという方針であったのか、重要なことでもかなりあっさりと書いている部分も多い。例えば、薩摩藩の海外貿易に巨大な影響を与えた琉球侵攻についてはほとんど結果のみを述べるだけだ。さらに専門的な事項でも全く説明を与えていない箇所がある(例えば「嘉吉附庸説」は一般的でないから説明した方がよかった)。

つまり、本書は「これまでの研究の隙間を埋める」形で、しかも通時的ではなくトピック的に書かれているため、初学者にとってちょっと取っつきにくい。私も全て飲み込めたかというと覚束ない。そんなわけで、以下は気になったところの備忘録的なメモである。

「第1章 島津氏の中世外交」では、鎖国以前の島津氏の外交政策が述べられる。特に義久が山川港を直轄港としたこと(天正11年=1583)や、中国商人の自由貿易を保護した家久の貿易政策については興味深い。家久は後になって琉球に侵攻して貿易を我がものにするにもかかわらず、当初は自由貿易推進派だったらしいのが不思議だ。本章ではこの他薩摩の朱印船貿易について述べられる。朱印船貿易では、中国ではなく、カンボジア、シャム、ベトナム、ルソン(フィリピン)、西洋までにも行っている。これは純粋な官営ではなく、商人を募って貿易船を派遣する方式だったようだ。

「第2章 鎖国下の藩密貿易」では、薩摩藩による官営密貿易(これを著者は「藩密貿易」と名付ける)の実態が述べられる。その方式はこうだ。琉球を薩摩藩の属国としつつ、表向きには独立国のように見せかけて中国の冊封体制に留まらせ、進貢貿易に参加する。こうして琉球を通した藩密貿易(=琉球口交易)を行ったのである。

ちなみに進貢貿易とは、琉球が親善のために中国に貢納品を持っていくと、それ以上に価値あるいろいろな品が下賜されるため、実質的に貿易と等しい価値を持つ進貢の形態である。薩摩藩は琉球を中国にはわからないように実質属国化したことで、この進貢貿易による莫大な利益を手にすることとなった。つまり、薩摩藩は琉球が独立国であるようしつらえていたのであるが、その装置の一つが七島(宝島)と呼ばれたトカラ列島だ。

薩摩藩は元々七島衆が持っていた交易権を奪取し、琉球口交易を独占した。一方で琉球に薩摩藩からの船が来ていれば、琉球と薩摩藩の関係が中国にばれてしまうことから、七島(宝島)をさも独立国のように見せかけ、薩摩藩の船は七島からの往来と称して隠れ蓑に使ったのである。もちろん七島は薩摩藩領であった。にもかかわらず七島を「虚構の国」としたことを著者は「近世最大の虚構」であるという。

しかしこのような虚構が中国に見破られないハズもなく、中国との関係が難しくなったことから、享保3年(1718年)頃にこのような虚構の国を隠れ蓑に使う体制を改め、以後は中国からは薩摩藩の船を徹底的に隠蔽する工作を行うようになるのである。

同時期に、密貿易の一大拠点だった坊津では「享保の唐物崩れ」と呼ばれる事件が起こる。これは、藩による密貿易の一斉摘発事件である。どうやら薩摩藩は幕府との関係上、私の密貿易については厳禁とし、山川港での藩営琉球口交易に一本化した模様である。これによって貿易港だった坊津は潰滅させられた。ただしこの事件については未だ史料で裏付けられていない。

さらに本章では、天保年間(享保から約100年後)の史料に基づいて、具体的な琉球口貿易の商品である昆布・煎海鼠・干鮑等の「俵物(たわらもの)」の流通を考察している。俵物は長崎を通じた幕府の交易における主力商品だったため幕府はこれを独占的に取り扱ったが、薩摩は幕府の目を盗んで俵物を集荷して、これを琉球口交易で捌いていたのである。特に重要な商材の昆布については、北前船を利用した富山の薬売りのネットワークを活用した。

薩摩藩は、薬売りチーム「薩摩組」に薩摩での売薬を許可する代わりに、昆布の上納を求めたのである。これは当初は売薬権との引き換えに過ぎなかったが、やがて薩摩組は昆布の運搬を主体的に担うようになっていく(嘉永2年(1949)から)。

琉球口交易で薩摩が売っていたものが昆布だとすれば、買っていたものの流通はどうなっていたのか。それを伺えるのが天保6年に新潟で起こった、薩州船の遭難抜荷事件である。この事件は、要するに密貿易品を積んだ薩摩の船が新潟で遭難したため、密貿易が幕府にもばれてしまったというものである。この船に積まれていたものは、唐薬種、毛織物、鼈甲、犀角といったものだった。これら薩摩が取り扱っていた品は低価格で広く流通し、北陸や東北地方まで流通経路があった。

「第3章 幕末薩摩藩の倒幕資金」では、幕末の薩摩藩のいろいろな金策が述べられる。例えば調所広郷の財政改革では、その目玉として黒砂糖の運輸など海運の振興が行われた。しかしこれは密貿易を伴っていたために、調所の自殺とともに密貿易の終焉ももたらすことになった。また島津久光は「琉球通宝」(琉球と銘打っているが全国流通)の鋳造及び「天保通宝」の偽造で財政を豊かにした。本書では「琉球通宝」の鋳造量やその背景事情などが詳しく述べられている。

「第4章 東アジアの漂流民送還体制」では、薩摩の通訳制度、苗代川の朝鮮人(子孫)たち、漂着民の返還ルール等が取り上げられる。薩摩には、唐通事・朝鮮通詞・(幕末では)西洋通詞という通訳体制があった。朝鮮通詞については、苗代川の朝鮮人子孫が担った特殊な通詞である。このように通訳を配置していた藩は異例だといい、本書ではこれらの細かい制度(例えば職階や処遇)について考察している。こうした中、西洋通詞になった上野景範という人物が紹介されており興味を持った。唐通事の家に生まれた上野景範は、当初蘭学、追って英学を勉強し、独断で上海に渡ってさらに勉強しようとした面白い人物(上海には渡海したもののすぐに露見した)。彼は開成所の句読師(英語教師)になった。

全体を通じ、既に述べたように本書はなかなかややこしい。薩摩藩の海運関係の史料がほとんど残っていないため、やむを得ない部分もあるのだろうが、それにしても研究ノート的な部分があることは否めない。本書の内容を年表化するだけでもかなり見通しが良くなったのではないかと思う。ちょっと自分でも改めて頭の整理をしてみたい。

ややわかりにくいが、薩摩の海洋・貿易政策を考えるために参考になる本。


2020年4月29日水曜日

『黄檗伝心法要』入矢 義高 訳(西谷啓治・柳田聖山編『世界古典文学全集36A 禅家語録 I』 所収)

禅学概論の書。

『黄檗伝心法要』は臨済義玄(りんざい・ぎげん)の師匠であった黄檗希運(おうばく・きうん)の講義録である。

これは、黄檗の在俗の弟子であった裴休(はいきゅう)が江西の鍾陵における説法(842年)と宛陵での説法(848年)を筆録したものを基本に、他の弟子が記録した宛陵の筆録(宛陵録)を加えたものである。

私はこれまで『禅家語録』によって初期の禅思想のテキストを追ってきたが、本書を読んで感じたのは「禅思想の完成」ということである。

達磨に仮託される初期の禅は、大雑把には仏教的な老荘思想であり「禅」としての独自性は弱かった。一方、六祖恵能(実際にはその弟子の荷択神会(じんね))の頓悟禅は、あまりにも超越的というか、ハッタリ的な部分があり、「そんなものがあればすごいけど多分ないだろう」というスーパー理論である。それを具体的に実践可能な形に組み替えたのが馬祖道一で(※『禅家語録』には馬祖の語録はない)、さらに学問的に整理して経典によって理論付けたのがその弟子の大珠慧海であった。

こうした禅の系譜に基づき、その諸思想を結実させたのが黄檗希運である、と本書からは感じる。その言葉は、論理的かつ直截的であり、また教育的である。禅思想の概論として、本書以上に簡潔かつ明解なものはないだろう。しかし逆に言えば、黄檗自身には独自の思想というものはないように思われる。いわばそれまでの禅思想を集大成し、普遍的な形にまとめたのが黄檗であると言えるかも知れない。

もちろんそれは本書がつまらないということではない。非常な名言が次々に飛び出すとても面白い本だ。例えば次のような言葉がある。
  • 「あらゆる仏と、一切の人間とは、ただこの一心にほかならぬ。そのほかのなんらかのものはまったくない」
  • 「偉大なる菩薩たちが顕現する徳も、実はわれわれ人間にはみな具わっている」
  • 「もともと法というものは一切ないのであり、そんなものの幻想から離却することがむしろ法なのである」
  • 「仏も衆生も、みな君の虚妄の見が作ったものだ」
  • 「山河も大地も、日月も星辰も、すべて君の心の外にあるのではない。三千世界はすべて君という自己にほかならぬ」
  • 「いま大事なことは、あらゆるとき、あらゆる機会に、日常の行住坐臥の一つ一つのうちにひたすら無心を学び、ものを分別することなく、ものに寄りかかることもなく、ものに執着することなく、日ねもすのほほんとして成りゆきにまかせ、まるで阿呆のように生きてゆくことだ」 

本書はこのようにエキサイティングと言えるほど生き生きした禅籍であるが、この完成度があるだけに、却って一抹の不安すら抱かせる。それは、禅思想がここで完成の時を迎え、これ以降は衰退——と言って悪ければ「固定化」——するのではないか、と感じさせるからだ。実際、後代の禅はいわば「訓詁学」となっていく。

ちなみに、『黄檗伝心法要』は北条顕時が来朝僧大休正念に命じて弘安6年(1283)に出版させており、これが日本における禅録流布のはじめとされている。その詳しい事情はわからないが、本書は日本における禅録出版の第一号にふさわしい重要なものである。

しかし異常に(?)行動的な『臨済録』や、衒学的な『碧巌録』、そして意味深長な詩偈など、トリッキーな禅籍が流行するようになると、地味な講義録である本書はさして重要でないものと見なされ、顧みられなくなった。しかし後代の後知恵で評価すれば、『黄檗伝心法要』こそ禅思想そのものとして受け取るべき第一の書であったのである。

初期禅思想の到達点。

2020年4月9日木曜日

『頓悟要門』平野 宗浄 訳(西谷啓治・柳田聖山編『世界古典文学全集36A 禅家語録 I』 所収)

頓悟の理論書。

禅には北方で行われていた禅(北宗)と南方のそれ(南宗)があるが、『六祖壇経』の六祖こと恵能(えのう)の弟子荷沢神会(じんね)が、
北宗は漸悟——長い修行の末に悟る
南宗は頓悟——すぐさま悟る
だと決めつけてから南宗の独走となった。

そしてそれを新しい角度から発展させるのが馬祖道一である。馬祖道一は優れた弟子を多く輩出し、神会の一派(荷沢宗)をしのぎ後の臨済宗へと発展して行く。そんな馬祖道一の弟子の中でも第一の学匠だった大珠慧海が馬祖の禅を理論化したのが本書である。

本書は上下に分かれており、上巻は大珠による頓悟の理論書である。理論展開としては、問答の形式により、「○○はこうである。なぜなら××経にこのように書いているからである」、または「××経には○○とありますが、これはどういう意味ですか?→それはしかじか」とする形が多い。禅の語録は数多いが、このように禅の教義的根拠を明らかにした著作は少ない。ここには後代の禅のような韜晦な「禅問答」はなく、経典を参照して自らの考え方を明解に述べるという学問的態度が禅籍として実に新鮮である。また、本書では様々な経典が参照されており、禅の立場は特定の経典ではなく、それの「読み方」に依拠するものだったことを感じさせる。

下巻は大珠の語録(言行録)である。上巻の方が禅の歴史において意義深いのかもしれないが、私にとってはやや間怠っこしい。一方、下巻は具体的な問答であるため生き生きしており読んで面白い。元々の大珠の著作は上巻(「頓悟要門入道論」)のみであったが、それに下巻の言行録をセットにしたのは妙叶(みょうきょう)という僧であった。これは『頓悟要門』の普及に役だったと思う。

さて、そんな『頓悟要門』における大珠の主張を一言でいえば、「心こそが仏である」ということになるだろう。そして「究極はそなたのみ」なのだ。「その本性はもともと清浄であって、修行をする必要はない。証を立てたり修行したりという方法を取るものは、思い上がった人間と同じである」という。このあたりは、日本の盤珪禅師の「不生禅」(人は産まれながらに必要なものは全て備わっているという悟りの禅)を思わせる。

しかし同時に「心すらも幻である」と付け加えるのが大珠らしさかもしれない。大珠にとっては地獄も実在のものではなく、心が生みだした幻にすぎない。この世の中には実在的なものは何一つなく、あらゆるものは幻であり、自分が拠り所にするべきなのは自分の心(精神作用)以外は何もないのである。それ(心)が幻だったとしても! このあたりの論理は、ちょっとデカルトの『方法序説』にも似ているところがある。

ところで神会の禅は「煩悩即涅槃」のように、「煩悩があることを肯定することで、それが即ち悟り(涅槃)の世界となる」といった認識の問題を中心に据える。認識一つで悟りの世界にいけるから「頓悟」なのだ。一方、大珠の禅もそうした面はあるが、「心を清浄に保て」といった修養の性格もかなり持っている。大珠の「頓悟」は認識を変えるための方法論を「心」にフォーカスして述べたものといえるかもしれない。

禅籍としては稀なほど学問的に書かれた頓悟の教科書。


【参考文献 読書メモ】
『六祖壇経』
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/01/36a-i.html
唐代の禅僧、恵能の言行録。
内容は歴史的事実ではありえないが、創作的人物としての恵能の言説が魅力的な本。

2020年3月31日火曜日

『密教とマンダラ』頼富 本宏 著

マンダラを中心として密教の考え方に触れる本。

本書は、主に3つの内容で構成される。

第1に、密教がインドに発生してから日本に伝来し、発展していくまでの歴史である。日本に来るまでの歴史は簡略であるがよく要点がまとまっておりわかりやすい。日本が受容した密教は「中期密教」であり、「後期密教」(チベット密教として今も生きる)は、日本まで伝来していたもののほぼ影響を与えなかったとの指摘が興味を引いた。

第2に、密教の教義の要点である。密教は本来対立する「聖と俗」を接続するということにポイントがある。その象徴が「即身成仏」だ。即ち、煩悩にまみれた凡人たる自分が、そのまま仏そのものであると認知すること、いわゆる「煩悩即菩提」の考え方である。これは、非常に長い時間を要する厳しい修行によって悟りの境地に到ろうとする旧大乗仏教への批判の意味合いもあったのではないかと著者は言う。一方で密教は「煩悩即菩提」を認知(考え方)の問題とせず、そこに到るための実践的手法も種々用意した。修法(しゅほう=仏への供養)、護摩、加行(=段階的修行)、灌頂、阿字観、遍路などである。

また密教では、「密厳(みつごん)国土」の思想もポイントとなる。密厳国土とは、理想化された仏の美しい世界のことであるが、密教ではこれが現に我々が住む世界と本質的に異ならないとする。ところで私は、「煩悩即菩提」も「密厳国土」も、禅宗とかなり類似しているように思った。 「煩悩即菩提」は、中国南方の「頓悟禅」も同じ考え方をするし、例えば道元が自然の姿がそのまま悟りの世界だと考えたように、禅宗でも「密厳国土」的な世界観は根強いのである。禅宗と密教は表面的には全く違うが、思想内容には共鳴する部分が大きい。

なお密教が「日本文化の地下水脈」であるとして、密教が日本文化に与えた影響や文物も述べられているが、その項目はあまりに簡略でありやや物足りない印象である。

そして第3に、マンダラの解説である。マンダラは密教の世界観を集大成するものとして詳しく説明される。しかし教義との接続については若干説明不足で、なぜマンダラが重要なのかはいまいちピンと来なかった。一方解説の内容は丁寧で、マンダラの構造、仏たち(仏、菩薩、天など)、胎蔵界と金剛界の違い、信仰、そして発展・変化して生みだされたマンダラや各国のマンダラの違いなどが述べられている。

特に印象に残ったのは、インドで生みだされたマンダラは仏たちの集積なだけではなく、その外側にマンダラを護る構造があったのに、日本ではそういう構造は捨象されて仏だけになった、というところだ。一方分からなかったのは、なぜわざわざ密教の世界観はマンダラとして表現されたのか、という根本的なところである。マンダラの歴史も本書にはあまり述べられておらず、例えば最古のマンダラはなんなのかといったこともわからない。要するに、本書は「マンダラとはこうですよ」という描写をしているのであって、「マンダラとはそもそも何か」という問題提起はない。それから参考図版があまりない上に、印刷が小さいのでよく分からない点も多かった。図版はもっと豊富にあった方がよかった。

なお全体を通じて、密教は素晴らしいとするやや我田引水な(著者は真言宗の寺院の住職でもある)見解が多いのも気になった。また「どうしてそうなのか」ということにはあまり触れずに表面的な説明で終始している部分もあり、内容はあまり学術的ではない。というのも、本書は元々「NHK市民大学」のテキストを下敷きに書かれたものであり、一般向けにわかりやすく密教のポイントを説くことに重点が置かれたようである。

平易な解説による一般向けの密教入門書。

【関連書籍の読書メモ】
『密教―インドから日本への伝承』松長 有慶 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/09/blog-post.html
密教が日本に伝わってくるまでの、その教えを受け継いだ人々について述べる本。密教の歴史についてはこの本が詳しく、また学術的である。


2020年3月10日火曜日

『達摩二入四行論』柳田 聖山 訳(西谷啓治・柳田聖山編『世界古典文学全集36A 禅家語録 I』 所収)

最初期の禅籍。

『達摩二入四行論』は最も古い禅籍であり、禅の初期思想を伝えるものである。達摩(「達磨」が一般的な表記だが、敦煌本の発見によりこちらの方が元来の表記とされ、本書ではこちらが採用)という人物の実在は怪しいが、達摩に仮託して表現された初期の禅のエッセンスがつまっている。

本書の表題「二入四行論」は鈴木大拙が便宜的につけたものである。「二入四行」とは悟りに到るための「2つのやり方、4つの実践的方法」を示し、確かに本書冒頭でそのような解説がある。しかしそれは最初だけで、全体としては他の禅籍と同じように達摩、また他の未詳の禅師たちの言行録であって、体系的な論述ではなくエピソード集である。

禅とは「老荘化した仏教だ」としばしば言われ、本書はまさにそれを体現する。真理は「道」と表現され、徹底的に「分別の心」を排除することが勧められている。あらゆる分別的な(分析的な、現実に即して考える)理解は妄想として否定され、「無知は是れ無碍の知なり(無知こそ自在の知り方だ)」など「無」が称揚される。

さらに「無為自然」的なありのままの世界が肯定され、全てが悟り(菩提)でないものはない、という。極めつけは、問答において「『老経(老子)』にしかじかとありますけどこれはどういう意味ですか?」と達摩に尋ねている場面があることだ。達摩は、『老子』に通暁していると考えられたのである。禅とは、老荘思想を仏教によって読み解くことから生まれたものであるようだ。

ところで、この老荘化した仏教は、仏教本来の考え方とは真逆な部分がある。というのは、元来の仏教はあくまで理知的な教えであって、むしろ分別の心を究極に推し進めることによって心の平安を得るものだからである。しかし本書では逆にそれを全否定する。例えば「 もしつとめて心のすがたを内省し、理法のすがたを観察して、つとめて、心のあり方そのものが、寂滅という在り方であり、(中略)そういう心の在り方は、存在の場所がなくて、それが理法の世界の立場であり、(中略)禅によって心が安定し障りのない場所であると——もしこのような考え方をする人は、まさしく無慚な生ける屍である」といった言明はその極端な場合だ。

本書には後代の禅が発展させた概念が萌芽的な形で現れており、思想史的にも興味深い。しかしそんな中で最も相違を感じるのが、本書で理想とされている悟りの姿が老荘の仙人のような静的なものであることだ。後の時代の禅では、悟りの境地は能動的なものであるとされているのとは対照的である。初期の禅は老荘思想の影響から始まったが、そこから老荘とは逆の能動性を獲得することによって発展していったのかもしれない。


『アマテラスの変貌—中世神仏交渉史の視座』佐藤 弘夫 著

神仏習合論に新しい視座を導入する本。

神仏習合は、古代末期から中世にかけて進行した。そして神と仏は人々の信仰の中でほとんど区別されないようになり、仏教と神道は切り分けることができないほど一体化した…と考えられてきた。しかし著者によれば、それはちょっと大雑把すぎる見方ということになる。もう少しその内実を見て、そこにどのようなコスモロジー(秩序)があるのか探ってみようというのが本書の意図である。

その結論をまとめれば次のようになる。

中世の人たちは(1)仏教の宇宙観を採用し、至高の存在として遙かな仏の世界を観想しつつも、(2)現実の願いや信仰を託すものとしては身近な地域神や仏像などとして表現された此土の神仏を拝んだ。それらは彼岸の仏の垂迹ではありながら、日本という辺境の(インドから遠い)国の人々を救うために具体化した存在であると考えられ、そのローカル性から神仏の世界での重要性が低い代わりに、却って卑近な信賞必罰を託すのに適していると見なしていた(著者はこれを<怒る神>と呼ぶ)。(3)一方で極楽往生については、彼岸の仏にすがる必要のあることだった。だが彼らは遙かに遠い世界=異界に存在すると考えられたから、現実の生活に及ぼす影響はほとんどなかった(著者はこれを<救う神>と呼ぶ)。(4)中世では神仏の区分けよりも、彼岸にいる救済者となる理念的な仏(大日如来、阿弥陀如来など)と、此岸にいる具体的で裁定者となる神仏(伊勢、八幡、各地の氏神、大仏や○○寺の仏像といったような具体的表現を持つもの)という2分類の方が実態に即していたと考えられる。

著者はこうした結論を導くため、「起請文」に現れる神仏を分析している。起請文とは、「○○の約束を破ったら神仏の罰をこうむります」というように、約束事を神仏に誓う形の請け書のようなものである。実は私も起請文には興味があって調べたことがあって、著者の問題意識には共感するし、結論は穏当だ。

ただし起請文には注意すべき点がある。それは、起請文にはずらずらと神仏の名が登場するのだが、本当にこれらの神仏は信仰されていたのだろうか? ということだ。なぜなら、とりあえず挙げておけばよいとばかりに多くの神仏を挙げて誓っているし、そもそも起請文は結構簡単に破られた。本当に信仰していたのならありそうもないことが起請文には散見される。著者はその点については何も留保していない。ここは考察の上で不十分だったと思う。

ところで、本書のタイトルともなっている天照大神については、それほど詳細には語られていない。先ほどのまとめにも書いた通り、本来中世人のコスモロジーの中では至高の存在としては仏であった。しかし国家、というよりも天皇家は、自らを権威付ける必要もあり天照大神を至高神として位置づけようとした。理念的には「辺土」の国主であるという妥協を受け入れつつ、実際には至高神としての普及活動を行うことで「日本国主」天照大神は浸透していったのだという。

なお、私がそもそも本書を手に取ったのは、天照大神の像容の変化に興味があってのことだった。天照大神は女性神であると我々は考えているが、中世ではいろいろに表現されており、童子神(雨宝童子)であったり、男性神官であったりしたらしい。本書ではちょっとだけ紹介されているが、このあたりをもう少し踏み込んでもらえると天照大神のイメージの変遷がもっとよくわかったと思う。

全体を通じて、著者の提示する中世の神仏のコスモロジーは説得的だし、議論は史料に基づいていて穏当である。しかしやや話題が散漫で、考察が少なく、構成が体系的ではない。「新しい視座」を提供するものとしてヒント的な書き方をしたのだろうが、習作的な部分があることは否めない。

神仏習合に対する考え方は参考になるが、ややまとまりに欠ける本。

【関連書籍】
『神仏習合』逵 日出典 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/08/blog-post_17.html
神仏習合の概略的な説明。『アマテラスの変貌』で再考を催される神仏習合の通説は本書が参考になる。


2020年3月8日日曜日

『観応の擾乱—室町幕府を二つに引き裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』亀田 俊和 著

観応の擾乱を丁寧に解きほぐす本。

観応の擾乱とは、室町幕府の成立初期、足利尊氏とその弟直義(ただよし)の兄弟が争った内乱である。関ヶ原の合戦などと違い、どちらが勝っても足利政権なわけで、地味な内乱としてあまり踏み込まれることがないが、本書はこの乱によって室町幕府の性格が確立したと考え、史料に基づいて擾乱の経過とその意味を丁寧に解きほぐしている。

乱の発端は、尊氏の執事高師直(こうの・もろなお)を直義が排除しようとしたことだった。幕府成立当初、尊氏は政務からほとんど引退し、実権を弟直義に譲っていた。そして僅かに残した重要な政務(恩賞宛行(あておこない)、守護職補任(ぶにん))を中心に業務を高師直に補佐させていた(著者はこれは「三条殿体制」と呼ぶ。三条殿=直義)。

それが気にくわなかったらしいのが直義。師直は特に専横ということもなく、直義にも恭順だったらしいが、勘所を押さえられている気がしたのかもしれない。南朝との争い(四条畷(なわて)の戦い)においても師直には軍功があったから正論によって対抗することもできず、直義は讒言によって師直を排除しようとした。

高師直はただちに行動に出た。軍勢を率いて尊氏邸を包囲し(御所巻(ごしょまき))、直義の罷免を要求したのである。この行動には幕臣の多くが賛同していた。どうやら幕政への不満が鬱積していたようである。尊氏・直義の兄弟はなすすべなく師直の要求を受け入れ、直義は失脚し出家した。直義の実権は、尊氏の実子足利義詮(よしあきら)が引継ぎ、尊氏・師直コンビが復活した。

一方、尊氏の別の実子直冬(ただふゆ)は父からなぜか冷遇され(実子としても認められなかった)、直義の養子となっていた。直義はこの甥を目に掛けて「長門探題」として西国に派遣したが、やがて直冬は九州へ下向し独自の勢力圏をつくっていく。直冬は尊氏の命令も聞かず、九州の武将を自分の意によって動かしていた。それが気にくわなかった尊氏は直冬に出家を命じるものの無視され、遂に直冬討伐に乗り出した。

その頃、出家して引退したかに見えた直義が、密かに京都を脱出し再起を図っていた。直義の下には重要な武将が次々に寝返り、巨大な勢力に成長していった。直冬の討伐でさえままならない尊氏・師直コンビに不利を感じていた各地の武将が直義に乗り換えていったのである。こうして、尊氏は配下の武将を次々に失い、戦う前から敗軍の将のような体になっていた。そして「打出浜(うちではま)の戦い」の激戦に負け、直義軍と講和した。

講和条件は、高師直・師泰(もろやす、師直の兄弟)の出家だったが、実際には高一族は講和後に斬殺された。ところで直義は尊氏に圧勝したものの、彼自身は戦には非常に消極的だった。味方への恩賞宛行(恩賞として領地を与えること)も一切行っていない。合戦にも参加することなく、別の国から傍観するだけだった。直義は幕政に不満を抱く武将に担がれただけのようだった。

そういう消極性からか、講和後の政権の体制は意外なほど尊氏に有利で、基本的には擾乱以前の「三条殿体制」を復活させることとなった。消極的な直義とは対照的に、尊氏は擾乱以前には決して見せなかった強烈な気概を見せはじめ、恩賞宛行権を保持することに成功したのである。

敗軍の将が恩賞宛行権を持っているのだから、勝者への恩賞が十分に与えられるわけがない。もちろん尊氏もその権利を自由に行使できたわけではない。にしても消極的なだけで十分に直義派への弱体化に寄与した。その上、直義自身にも積極的に恩賞を与える気がなかったようだ。守護職の補任もほとんど現状維持に留まった。官途の供与も限定的だった。これでは直義のために生命をかけて戦った武将たちが不満に思うのもやむを得ない。直義は南朝との講和だけは熱心に取り組んだがこれは不成功に終わった。

こうして新たな三条殿体制は直義の失政(=消極性)により瓦解した。風向きが悪くなり孤立気味になった直義は京都を脱出。時を同じくして南朝との戦闘も再開され、直義が実権を握っていることに不満な義詮や直義派の武将によってなし崩し的に観応の擾乱第二幕が始まった。ただし今回は尊氏も直義もあまり戦う意義を感じておらず武将の間にも厭戦気分が漂っていた。

失政により多くの武将からの支持を失っていた直義はあえなく敗北。戦乱の中で唯一の実子も失い、戦う意欲を阻喪した結果であった。一方尊氏は南朝との講和に成功し、皇統を南朝に統一することに同意した(正平の一統)。

直義死去後の体制は、東日本を尊氏が、西日本を義詮が治める東西分割統治体制であった。政権のメインは義詮が担い、尊氏は軍勢だけを引き連れて東国に臨んだ形だったが、恩賞宛行や守護職の補任を積極的に行い、東国経営を成功させた。

そんな中、三種の神器を南朝に渡すなど、尊氏方は講和条件を誠実に履行していたにもかかわらず、南朝が一方的に講和を破棄し幕府を滅ぼそうと攻勢に出た。南朝と尊氏軍は「武蔵野合戦」で激突し、尊氏軍は辛くもこれに勝利し東国での覇権を固めた。一方で西国では南朝軍との衝突が散発していたことなどから、尊氏自身がこれに対処するため分割統治体制を解消、尊氏が統一政権を担った。

また九州では、南朝の懐良親王、九州探題一色道猷、そして足利直冬の三つ巴の戦いが行われていたが、直冬は南朝に帰順し幕府と敵対。しかし実父と戦うつもりはあまりなかった直冬は自ら先頭に立つこともないうちに尊氏に撃破された(その後死亡)。

この観応の擾乱を、著者は「実に奇怪な内乱」と評する。短期間で形勢が極端に変動して離合集散が繰り返され、しかも戦いの目的がはっきりせず、当事者たちは戦う気があまりなかったのに戦乱が続いたからだ。その理由は従来様々に考察されてきたが、著者の考えは武将たちへの恩賞が少なく、功労に報いることが少なかったことに本質的な原因があったのではないか、ということだ。

実際、尊氏は擾乱を経て諸政策で広い意味での恩賞を充実させた。積極的な恩賞宛行や守護職の任命、訴訟制度の簡素化と迅速化(幕府に帰順したものへの優遇)などがそれに当たる。このようにして擾乱を契機として室町幕府は「努力が報われる政治」へと舵を切っていったのである。

ちなみに本書を読みながら気になったことがいくつか。 直義も義詮も寺社の所領保護にかなり気を遣っているように見受けられるが、そこにはどのような事情があったのか。擾乱以前は武将の権利よりも寺社のそれを優遇しているようにすら見える。寺社からどのような利益を得ていたのだろうか。それに関連して、室町幕府の財政事情についても気になった。本書を読む限り室町幕府は独自財源を持たず、所領の給付と守護職の補任のみが恩賞に使える手駒だったように見える。擾乱は、独自財源があればお金で解決できた面もあったように思った。

それから「九州で猛威を振るった」などと簡単に表現される足利直冬は、どうしてほとんど幕府の後ろ盾もない中、九州で一大勢力として成長することができたのか。本書には具体的な経過が述べられていないが、直冬の行動にも興味が湧いた。

観応の擾乱について一般向けにまとまったほぼ唯一の本。