2019年12月16日月曜日

『中世奇人列伝』今谷 明 著

中世における、知られざる6人の小伝。

本書に収められているのは、一般的な歴史書ではほとんど看過される人物であるが、型破りの人生を生きた人ばかりである。「奇人」とはいっても「変わった人」のことではなく、数奇な運命を辿った人のことだ。

歴史書というのは面白いもので、同時代に大きな存在感があった人でも、何らかのことでその重要人物が省略され、後続の歴史書でもそれが踏襲されてほとんど顧みられぬままになっていることがある。本書が収録する6人は、そういう過小評価が続いてきた人たちだ。その6人は次の通り。

法印尊長:尊長は頼朝との血縁から出世し、寺院社会の中でも最高位に上り詰めた。厖大な天皇家荘園が寄進されていた法勝寺の執行を始め、蓮華王院、歓喜光院等の歴代上皇の御願寺の執行、備前の任国司までにもなって、彼の元には全国から財宝が集まった。後鳥羽上皇の信が篤かった尊長は、承久の乱の黒幕となったが乱は幕府から鎮圧され逃亡。最後は捕らえられて壮絶な死を遂げた。

京極為兼:伏見天皇の腹心であり、一流の歌人でもあった為兼は興福寺の騒動(永仁の南都闘乱)に巻き込まれて失脚したが復活。勅撰和歌集『玉葉和歌集』は為兼の独撰となった。晩年には再び失脚して配流され、その業績は以後顧みられることはなかった。

雪村友梅:一山一寧の侍童で聡明だった友梅は中国へ留学するが、日元関係の悪化から捕らえられ長年にわたり中国で幽囚生活を送る。しかし斬首されかけた際に詠んだ「臨剣頌(りんけんじゅ)」が友梅の作とされるほど(本当は無学祖元作)中国でもその学識は認められ、帰国後は各地の名刹の住持を歴任した。

広義門院(西園寺寧子)
:南北朝の動乱の渦中にいた広義門院は、後伏見天皇の妻であり、花園天皇の准母(名義上の母)であり、また後に光厳天皇と光明天皇も生んだ。南朝が北朝の三上皇・皇太子を拉致し、三種の神器を奪ったことで幕府により北朝の中心として担ぎ出される。幕府は北朝に天皇がいないという異常事態に直面し、上皇后によって天皇の権能が代行できると解釈、さらに「天下同一法」という人事・官位等の全てを過去に遡らせるという大奇策によって切り抜けた。広義門院はこれらの策を実行するための名目上の登場かに思われたが、その権力は実質化し、あらゆる政治の決定に関与、文和2年(1353)には政務を後光厳天皇に譲ったものの、長講堂領、法金剛院領、今出川領という天皇家領荘園の全てを所有し続け、北朝の家督者として死ぬまで重きをなした。

願阿弥:時衆の僧で、著名な勧進聖であった願阿弥は、寛正の大飢饉で京が難民と死体で溢れるや、勧進(募金)を募って難民収容所を開設し人々を救った(しかし多くは収容の甲斐なく死亡したという)。18年後、応仁の乱後には、消失していた清水寺の再建に取り組んで諸国を勧進に巡り成功させた。この背景には、清水寺の参拝者を宛てに生活していた清水坂の乞食非人たちの救済があったと考えられるという。

足利義稙(よしたね):足利義視の子である義稙は、義視・義政という父世代の対立がありながらも、義政の子義尚が若くして陣没したことで棚ぼた的に将軍に就任する。ところが政権を牛耳っていた日野富子と不仲になり、細川政元らがクーデターを起こし幽閉された。脱出後、大内義興の力を借りて将軍に返り咲いたものの、お人好しの義稙には政権運営能力はなく、かつての腹心細川高国との確執から逐電し逃げ延びた撫養(むや:鳴門市)で病没した。武家で将軍を再任したのは彼だけである。

著者自身が後書きで書いているように、本書に取り上げられた6人のうち義稙を除く5人が法体(ほったい:出家後の姿)で生涯を終えている。しかし専門的宗教家と呼べるのは雪村友梅だけである。中世においては、人は晩年には出家するのが普通だったし、また法体であることに各種の便宜があった時代だったからだという。本書の中心テーマではないが中世における出家の意味を改めて考えさせられた。

また、6人の中で私が最も興味を抱いたのは広義門院。幕府によって担ぎ出されたのにもかかわらず、その権力が実質化した過程を知りたくなった(本書ではごく簡単に書いている)。

歴史書ではあまり語られない人物を題材に、いろいろな角度から中世を知れる良書。


2019年11月24日日曜日

『密教占星術—宿曜道とインド占星術』矢野 道雄 著

密教占星術「宿曜道」の理論を解明する本。

本書は、英語による宿曜道(すくようどう)についての論文を著者自身が一般向けに書き直したものである。よって、宿曜道の概説というよりは研究論文としての内容を持つ。

本書に書かれる宿曜道についての新知見で、私が重要だと思ったのが主に次の3点。第1に、『宿曜経』上下巻は同じ書物の新訳と旧訳(くやく)であるということ。第2に、『宿曜経』和本のみに伝えられた第7章「宿曜経算曜直章第七」は『九執暦』の抜粋であること。第3に、『七曜攘災決』に解説される「羅睺(らこう)」は月の昇交点であり、「計都(けいと)」は月の遠地点であること、を解明したことである。

これだけを読むと、本書がとても専門的で難解なものと思われるかもしれない。しかしその筆致は平明であり、丁寧に解説されるため初学者にも易しい。備忘を兼ねて上記の内容を紹介しよう。

第1:『宿曜経』上下巻は同じ書物の新訳と旧訳(くやく)である
『宿曜経』は、平安時代に空海によって日本に将来された。正式名称は『文殊師利菩薩及諸千所説吉凶時日善悪宿曜経』といい、その表題が示すように「文殊菩薩と諸仙人が日時の吉凶を説いたお経」である(よって仏説ではない)。具体的には、「宿」すなわち月の運行上にある1日ごとの恒星(27宿)と黄道12位の関係、「曜」すなわち惑星の運行から派生した曜日の観念とを組み合わせて日の吉凶を述べるものだ。つまりこれはインド占星術の初歩の概説書である。

これを翻訳したのは、中国において密教を国家的宗教に発展させた不空のチームであるとされるが、著者はこれはインドには原本はなく、不空自身が撰述した(つまり偽作した)ものだと考えている。それはその内容にインド占星術の専門的なテクニックが述べられていないことなどから推測されるのだという。

それはともかく、『宿曜経』は759年に不空の弟子史瑶(しよう)が最初の翻訳を行い、同じく弟子の楊景風が764年に改訳版を作成した。初訳版はインド的な要素を残していたが、中国語の文章もこなれておらず、構成にもまとまりがなかった。そこで不空は5年後、俗人の弟子で史瑶よりもはるかに学があった楊景風に再編集を命じ、より大系的に構成され中国化した『宿曜経』の改訳版を作成した。

ここまでは『宿曜経』序文により明らかだったのであるが、『宿曜経』上下巻の内容を検証したところ、構成や文章は全く異なるが内容的に同一箇所が散見され、上巻が楊景風訳の新訳版、下巻が史瑶訳の旧訳版であることが明らかになったのである。ということは上巻だけあれば十分だったのであるが、『宿曜経』の編纂者は旧訳も捨て去ることはせずに下巻として残したということだ。おかげで、我々はよりインド占星術の原型を留めた旧訳を参照することが可能となり、その内容を正確に理解できるのだという。

第2:『宿曜経』和本のみに伝えられた第7章「宿曜経算曜直章第七」は『九執暦』の抜粋である
『宿曜経』は日本に伝えられ、陰陽道と並んで「暦と吉凶の理論」として発展し、やがて「宿曜道」となっていった。一方、陰陽道が早くから「陰陽寮」という国家機関が設置されたのに、宿曜道の方は密教の一要素となって国家機関化はせず、南北朝期か遅くとも室町所期には衰微してしまった。ところが『宿曜経』は原型に近い形を留めたまま伝承され続け、『宿曜経』に述べられる27宿の理論は「宣明暦(862〜1684年施行)」の間用いられた。

さらに江戸中期に『宿曜経』を研究し頭注を附して出版(1736年)したのが学僧の覚勝である。この覚勝本は中国では失われた部分をも保存した優れたもので、その第7章「宿曜経算曜直章第七」こそは中国の『宿曜経』でも日本の大正大蔵経でも収録されていない失われた部分であったのである。

その内容は、ずばり曜日の計算方法である。『宿曜経』と相前後して中国に伝えられたのが七曜、つまり「日月火水木金土」という曜日の概念であったが、『宿曜経』本体は曜日の吉凶については述べていても、ある特定の日が何曜日であるのかを調べる手法は書いていない。しかし『宿曜道』成立のころ、そもそも曜日の観念が普及していなかったのだから、曜日を求める方法がなくては吉凶自体が占えない。そこで楊景風は新訳を作成する際、曜日の算定方法を述べた「宿曜経算曜直章第七」を付け加えた。そして著者はこの内容を検証し、罌曇悉達(くとんしった)が718年に著した『九執暦』からの抜粋であることを明らかにした。

しかしながらこの「宿曜経算曜直章第七」には決定的な弱点があった。それは『九執暦』にある正確な曜日の計算方法を引き写しながら、楊景風は暦元(暦の起点となる日)を勝手に「2月白分朔日」から「上元の日(1月15日)」に勝手に押し上げてしまった。暦の起点がずらされているので、この章の計算方法自体は正しいのに、結果は間違っているということになる。そのため中国ではこの章は早くに削除されてしまった。だが日本では、中国からきた有り難いお経が間違っているわけがないということでそのまま伝承され、1000年後の僧侶たちが曜日の計算が合わない事に呻吟することになったのである。

第3:『七曜攘災決』に解説される「羅睺」は月の昇交点であり、「計都」は月の遠地点である
既に述べたように、『宿曜経』は「宿」と「曜」により日の吉凶を判断する手法を概説したものだが、ホロスコープでは肝心な情報である惑星の運行については全く述べられていない。これでは、観測に基づいて吉凶を判断することはできても、未来の特定の日の吉凶を占うことには役立たないのである。そこで惑星の運行の計算方法が必要になってくるのであるが、これこそが8世紀末から9世紀初頭に中国で作られた『七曜攘災決』であった。なお日本には宗叡が伝え、中国では失われている。

さて、「攘災決」というのは惑星によってもたらされる災厄を鎮める方法のことで、この本では「七曜」の他に「羅睺(らこう)」・「計都(けいと)」という架空の天体についても論じられている。

なお日月火水木金土+羅睺・計都の9天体を「九曜」または「九執」という。先述の『九執暦』はこの意味であるが、実は『九執暦』では5惑星を論じていない(あくまで「曜日」として扱っている)。『七曜攘災決』はこれを補い、科学的な観測によって5惑星のかなり正確な運行表を作成したものだ。そこに加えられたのが、「羅睺」・「計都」という架空の天体なのだ。

では「羅睺」・「計都」とは何なのだろうか? インドの伝説では、「羅睺(ラーフ)」は日蝕・月蝕を起こす魔物で、「計都(ケートゥ)」はその尻尾であるとか、「計都」は彗星であるとかいう。『宿曜経』の時点ではその存在すらなかったこの架空の2惑星は、『七曜攘災決』の頃には5惑星に並ぶ重要な天体になっていた。

しかしそれは凶事をもたらす魔物だという伝説的存在だったわけではない。というのは、『七曜攘災決』では5惑星と同じように詳細な運行表や計算がなされているからである。それは科学的な観測に基づいたものでしかありえない。そして著者は、『七曜攘災決』と現代の惑星計算の対照に基づいて、羅睺が月の昇交点であり、計都が月の遠地点であることを解明したのである。

月の昇交点とは、月の軌道(白道)が黄道と交わる2つの交点のうち、南半球から北半球に向かって北向きに交差する点のことである。白道と黄道は約5度の角度で交わっている。つまり月が地球を公転している軌道と、太陽が地球の周りを回っているとみなした時の軌道は5度ずれている(ずれていなければ白道と黄道は一致する)。よって2つの軌道をリングとすれば、そのリング同士が交わる点が「交点」であって、片方を昇交点といい、もう片方を降交点と呼び区別する。

この交点は常に同じところにあるわけではなく、月の公転面に歳差運動(軸のブレ回転)があるため移動していき、約19年周期で1周する。リング同士が5度の角度を保ちながらズレていくことをイメージしてみればよい。そして、この交点の天文学的意味は、月と太陽と地球が一直線に並ぶ点になるわけだから、日蝕・月蝕が起こるポイントというわけだ。

ということは、日蝕の計算を行うには、もちろん太陽と月の動きをそれぞれ計算してもよいが、重要なのはその交点のみであるから、昇交点を19年周期で一回転する1つの天体であると見なして計算すれば、それでかなり計算の手間が省けるというわけである。それが架空の天体「羅睺」であったのだ。ということは、天体としての「羅睺」を考え出したインド人がこれを魔物と思っていたというのはありそうもなく、計算上の便宜として導出した架空の天体を、日蝕を起こす魔物になぞらえて呼んだのであろう。

「羅睺」が、日蝕・月蝕を起こすということで月の昇交点と考えられることは、著者が示す以前にも半ば予見されていたのであるが、著者の独創は「計都」の方にある。

「計都」は「羅睺」の尻尾だという伝説があったことから、著者以前には「計都」は昇交点と対になる降交点であると考えられていた。だとすれば、「羅睺」の座標から180度を加えれば「計都」の位置が算出できるはずだ。ところが『七曜攘災決』では「計都」の位置計算はそのようになっていなかった。では何か? ということで著者が現代の惑星計算と照合した結果、「計都」は月の遠地点であることが明らかになったのである。

遠地点にも少し説明が必要かも知れない。月は地球の周りを楕円運動しているから、一番遠くなる位置と近くなる位置があり、それをそれぞれ遠地点と近地点という。そしてこの楕円運動についても、その楕円の膨らみ方は常に地球から見て同じ位置にあるわけではなく、約9年で白道上を一周する。これも厳密には月の楕円運動の計算によって求められるものであるが、遠地点をあたかも1つの天体と見なすことで簡易に計算結果が表現できるのである。

そして「計都」が月の遠地点であるとするなら、観測上、それは月が最も小さく見えるところであることを意味する。「羅睺」は日蝕・月蝕と関係し、「計都」は月が小さくなるということで、この2つの架空の天体はどちらも月の特徴的な位置関係を表すものであったことが解明された。

本書はこの他、インドのホロスコープがどのようにして『宿曜経』に受容されているかを分析している。著者は古代インドの天文学・数学・占星術を専門としており、分析はその面目躍如たるところがある。全体を通じて非常に重厚な学問的内容を持ちながら平易でもあり、特に「羅睺」と「計都」の考察はスリリングですらあった。

本書を読んで気になったのは、陰陽道でも日の吉凶をやかましく云々していたし、暦を作成したりしていたわけだが、陰陽道と宿曜道の暦(特に天体運動)の理論がどう異なっていたのかということだ。陰陽師と宿曜師は対抗関係にあったが、科学的な面において彼らはどちらが勝れていたのか。また九曜の理論が日本にはどのように受容されていたのかということ(例えば「羅睺」=月の昇交点、などということは理解されていたのだろうか?)にも興味を抱いた。

宿曜道を理解する上での必読書。

2019年10月31日木曜日

『趙州録』秋月 龍珉 訳(西谷啓治・柳田聖山編『世界古典文学全集36A 禅家語録 I』 所収)

趙州従諗(じょうしゅう・じゅうしん)の言行録。

趙州和尚といえば、かの『無門関』の第1則「狗に仏性はあるのか?」で余りにも有名である。また道元の『正法眼蔵』にもたくさん登場するし、『碧巌録』にもその公案が多く集録されている。

彼の禅風は徹頭徹尾語りと問答にあった。ややもすればすぐに「三十棒!(30回棒で打つ)」と実力行使に出る当時の禅にあって、趙州は禅を言葉で説明することにこだわった。であるから、その言行録は禅のテキストとして貴重であり、広く流布した。

ところが多くの禅籍で取り上げられたためか、肝心の『趙州録』そのものはいつしか忘れられ、原典が顧みられなくなってしまった。中国にも日本にも、『趙州録』の注釈と呼べるものは現代に至るまで存在しなかったのである。

では『趙州録』はつまらないものだったのか、というと実はこれが大変に面白いものだったのである。後代(宋代)に編纂され「公案化」された彼の問答よりも、原典はもっとずっとヴィヴィッドであり、わかりやすい。『趙州録』は神秘的な「公案」ではなくて、直接的な生きた教えなのだ(おそらく、そのために却って廃れたのだろう)。

ではその問答の調子はどんなものかというと、例えば代表的な問に「祖師西来意」というものがある。これは「ダルマ(祖師)がインドから中国に来て伝えようとしたその精神はどんなものですか?」という問である。『趙州録』では、たくさんの僧が趙州にこの質問をしている。趙州のお寺では問答の時間(かノルマ?)があって、僧たちは趙州和尚に質問をすることになっていた。それで、気の聞いた質問を思いつかなかった僧が、「思いつかない時はこういう質問をしたらいいよ」という先輩僧の入れ知恵によって定型的な質問をしていたようなのである。「祖師西来意」はそういう定番質問の一つである。

であるから、そもそも「祖師西来意」を尋ねる僧に切実な疑問というか探求心があろうはずもなく、趙州も軽くあしらっているように見える。そしてその答えはいろいろあり、古来有名な答えは「庭前栢樹子——庭先の栢の木だよ」というものなのだが(『無門関』第37則に取り上げられた)、他にも20以上の答えがある。そこから抽出される趙州の答えの核心は、「ダルマのことはさておいて、それを問うオマエはなんなの?」というものである。「ダルマ云々よりも、まず本来の自己に目覚めないことには話にならないよ」と言ってもよい。

趙州の問答は、質問者の切実度合いと理解度と修行度合いによって変幻自在に変わっていた。であるから、彼の問答の意味を表面的な言葉の意味でだけ考えても無意味であり、「庭先の栢の木がどうして祖師西来意なんだろう?」と考えてもあまり実りはないのである(ちょっと庭先の栢の木を見てみろ、とでも理解した方がいい)。

それを象徴するのが『無門関』第1則にも取り上げられた「狗に仏性はあるのか?」で、『無門関』では趙州は「無」とだけ答え、それについての考究がなされる。そしてこの「無」の一字は禅の究極のようなものと捉えられ、それに因んで『無門関』——「無」に至る門への関所——という標題までつけられているのである。

ところが、『趙州録』を見てみると、「狗に仏性はあるのか?」を質問した僧は2人いて、確かに一人への答えでは「無」と答えているが、もう一人には「家々の門前[の道]は長安の都に通じている(=どんな道でも悟りへ至る道=狗にも仏性はある、という意味と思われる)」と答えている。この2つの問答を見れば、狗に仏性はあるのかないのか、どっちやねん! と思うわけだが、趙州にとってみれば、「なんでオマエは狗の仏性の有無をあーだこーだいうわけ?」というところなのだと思う。『趙州録』の全体を通して、そういう観念的な質問をする時点で「こいつわかってねーな」という応対なのである。

逆に、初歩的な質問、定型的な質問であっても、僧の方に切実な問題意識がある(ように見受けられる)場合には趙州は「いい質問だ」と褒めている。他の僧が同じ質問でメタクソにされているようなものであってもである。趙州の禅は、観念的なものを排し、本来の自己に目覚めることを究極の目的として、あくまでも目の前の人物に応じて臨機応変に説かれるものであった。

であるから、例えば「庭前栢樹子」のような一見すると意味不明の答えであっても、その裏に観念的な世界が広がっているというよりは、極めて具体的・即物的な意味合いがあったと考えるべきなのだと思う。しかし宋代になると、『趙州録』から問答の一部が切り出され、まるで暗号のような公案が多々できあがる。『無門関』はその代表で、それはそれで禅の精神の発露であることは否定しないが、趙州和尚の臨機応変の自在の禅とは、かなり違うものになっていたこともまた事実である。

宋代の禅よりも、その原典の唐代の禅の方が、ずっと普遍的で理解しやすく、私にとっては親しみが持てる。『趙州録』はまさに禅の原点となる、忘れられた名著である。


2019年10月23日水曜日

『碧巌録』(西谷啓治・柳田聖山編『世界古典文学全集36B 禅家語録 II』 所収)

日本語訳された『碧巌録』。

『碧巌録』は、「宗門第一の書」と呼ばれ日本の禅宗、特に臨済宗には多大な影響を与えてきた。また難解であることでも有名であり、古来多くの注釈・講釈の本が出版されてきた。しかし意外にも長く日本語訳されることがなく、本書は出版時おそらく初めて日本語全訳された『碧巌録』である。

これは、雪竇(せっちょう)和尚が『伝燈録』から選んだ公案百則に頌(詩)をつけたテキストを作り、それに対して圜悟(えんご)和尚が解説と著語(じゃくご=ツッコミ)をくわえたノートの集録である。

つまり『碧巌録』は雪竇と圜悟の共同執筆なのであるが、ことはそう単純ではない。というのは、雪竇重顕(980年−1052年)と圜悟克勤(1063年−1135年)にはほぼ3世代の開きがあるからだ。

雪竇和尚が編集した公案百則に、3世代経って圜悟和尚が”超編集”を加えて出来たのが『碧巌録』なのである。その”超編集”ぶりを示すため、一則だけ例示しよう(なお、本来は一則につき、垂示(序論)[圜悟]、本則[雪竇]+著語[圜悟]、評唱(参考資料と解説)[圜悟]、頌古[雪竇]+著語[圜悟]、がセットになっているが、今本則+著語のみを引用する。なお本書では評唱は省略され、訳者による短い解説がそれに代わっている)。

第39則 雲門花薬欄 本則
挙。僧問雲門、如何是清浄法身。壒(*1)扱(*2)堆頭見丈六金身。斑斑駁駁是什麽。門云、花楽欄。問処不真答来鹵莽。祝(*3)著磕著。曲不蔵直。僧云、便恁麽去時如何。渾崙呑箇棗。放憨作麽。門云、金毛獅子。也褒也貶。両采一賽。将錯就錯。是什麽心行。
(*本来の漢字がPCで出せないため代字で表現した。*1「艹」不要、*2「扌」の代わりに「土」、*3 「祝」の下に「土」)
※黒字が雪竇による「本則」、青字が圜悟による「著語」。本書では「著語」は本文より小さい活字にすることで区別されている。

(日本語訳)
雲門大師のところへ、一人の僧がやって来て、「宇宙の本体ともいうべきビルシャナ仏とは、どんなかたですか」と尋ねた。ごみ捨て場の中に仏がいらっしゃるよ。きれい、きたない、いろいろなものが入り交じっているやつ、あれは何かね。雲門は、「便所の袖垣だよ」と答えた。質問がいい加減だから、答えもぞんざいだ。打てば響くようにぴったりだ。曲がったものは、曲がったままでよい。「それでは仰せのとおり、花薬欄は花薬欄と承知したら、どうなりましょうか」と、ひねくれた質問をした。こいつ雲門の答えをよく味わってもみず、丸呑みにしたな。うすぼんやりしていて、いい加減なことを問うたな。「獅子中の王者、禅僧中の禅僧とでもいうかな」と、雲門は答えた。上げたり、下げたりだな。花薬欄と金毛の獅子では同じ賽の目だな。雲門も僧もどっちもいかん。どういうつもりでいったのかな。

これを見れば、古来『碧巌録』が難解とされてきた理由が一目瞭然だろう。雪竇の編集した公案本体部分だけを見れば、その趣旨が理解できるかどうかは別として、なんとか読みこなせるものだろう。しかし圜悟がそこにツッコミの嵐を容赦なく加えており、しかもそれが口語調なものだから、ただでさえ文意があっちこっちしている上に日本人にとっては漢文として大変難しいのである。いや、読み下し文でこれを理解するのはほぼ不可能に近い。

しかし『碧巌録』が画期的だったのは、この圜悟のツッコミ部分だった。上の第39則でも、本文だけを見れば常人の理解を超越した何か高遠な問答のように見える。だが圜悟のツッコミも含めてみると、この問答はそれほど立派なものではなく、あまり噛み合っていない話であったことが理解できる。しかも圜悟のツッコミは、単に公案への対し方・味わい方を教えるだけでなく、公案に通底する禅の哲理を仄めかすものとなっているのである。

そもそも公案というものは、過去の偉大な禅匠たちの言行録で、有り難い教えが含まれていると考えられていた。臨済宗が依拠した「看話禅(かんなぜん)」というのは、公案の意味を考究する事によって悟りに至ろうとする禅のことであり、公案を悟りに至った事例と見なし非常に重視した。雪竇和尚が『碧巌録』の元となった公案百則を編集したのも、古来たくさん伝えられてきた公案(『伝燈録』1700則)から決定版的なものを百だけ選んで、その解読のヒントとして詩をつけたのである。

圜悟和尚は、それにツッコミの嵐を加える事によって、公案の意味を丸裸にしてしまった。それは、公案というものは自らの頭で考えることに意味があるのに、圜悟和尚のガイドによって公案が形無しになってしまったとも言えるし、公案集から神秘的なヴェールを剥ぎ、いたずらに公案を至上のものとする一種の思考停止に強烈な鉄槌を加えたとも言える。

そんなことで編集当時から『碧巌録』は毀誉褒貶が激しく、圜悟和尚の弟子大慧は『碧巌録』の版を焼き捨てたと言われる。また編集完成は1125年であったが、これが本格的に刊行されたのはなんと175年後の1300年であった(※1300年以前にも刊行はあったらしいが少部数だったのか残っていない)。そして、中国では『碧巌録』は、あまりにもわかりやす過ぎる禅籍として衝撃をもって迎えられ、大流行したのであった。

ところが日本では、『碧巌録』は難解な禅籍の代表のようになってしまった。先述の通り、『碧巌録』の本質である圜悟のツッコミが、中国語の口語体であるためかえって難しかったのである。そして、あたかも難解であることが『碧巌録』の価値であり、高遠さであると考えられてきた。現代ですら、「『碧巌録』に現代語訳を求めるなど邪道。難解な本文に直にあたってこそ意味がある」と考えている人は多い。しかし中国人がわかりやすい白話文(口語体)で禅を語り理解してきたのに、日本人がわざわざ難解な外国語を通してしか禅を理解できないなんてあるわけがないのである。

『碧巌録』を生き生きとした日本語訳によって表現した本書は画期的な訳業であり、日本の禅籍史に輝くものである。本書の刊行(1974年)より40年以上経過しているが、未だ『碧巌録』の日本語全訳は数えるほどしかない。とはいえ、本書の日本語訳は決定版とはいえない。刊行時点において『碧巌録』研究の集大成であると自負されてはいるものの、多数の訳者の共同作業であり、日本語訳の仕方も統一されていないからだ。読んだ感じとしても、明らかに訳者によって粗密を感じるところである。事実解説にも「歴史的・語学的な課題のすべてを今後に残すこととする。これが禅門の現状である」と記されている。なお分担は以下の通りである。

第1則ー第20則 苧坂光龍(般若道場)
第21則ー第40則 大森曹玄(鉄舟会)
第41則ー第60則 梶谷宗忍(相国僧堂)
第61則ー第80則 勝平宗徹(南禅僧堂)
第81則ー第100則 平田精耕(天龍僧堂) 

『碧巌録』の初めての日本語訳として不朽の価値がある名著。

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2019年10月22日火曜日

『八幡神と神仏習合』逵 日出典 著

神仏習合を軸に八幡神の成立過程を述べる。

八幡神社というと、日本中どこでも見られるもので、神社の中では最も多いとも言われる。この八幡神社はどのようにして成立し、発展していったのか。本書はそれをほぼ時系列的に述べるものである。

その流れを大まかにまとめれば、(1)八幡神は新羅からの渡来人が祀った神が日本化してできたもので、(2)宇佐周辺で行われていた山岳信仰と一体となって発展し、(3)隼人の乱への征伐や大仏造立といったことに協力したことから朝廷との持ちつ持たれつの関係となって権威を得、(4)護国的な性格を持つ神社となって、また仏教とも融合して「護国霊験威力神通大自在菩薩」とまで称するようになり、(5)源頼朝が鎌倉に鶴岡八幡宮を勧請したことから武家にとって重要な神社となって全国に広がっていった。となるだろう。

この流れについて、本書は縦横に史料を駆使して述べており説得的である。しかし私が本書を手に取った動機は、宇佐八幡の荘園支配の実態がどのようなものであったのか、というもので、それについては本書はほとんど述べるところがない。

中世初期において、鹿児島の土地は島津庄と八幡宮領(八幡宮の荘園)で2分されており、九州の他の地方でも八幡宮領がかなり多かった。また八幡宮直轄領だけでなく、その神宮寺であった弥勒寺領となっていたところも多い。なぜ八幡宮はこのように広大な荘園を支配することができたのだろうか? 特に九州では、国衙の近くに八幡宮が勧請されることが多かったが、これは何を意味していたのだろうか。

また中世において、九州の二大権門は大宰府と宇佐八幡宮であるが、この二大権門はどのような関係だったのか。例えば、有名な宇佐八幡宮神託事件では、「道鏡を皇位に就けるべき」という最初の神託を伝えたのが大宰府の主神(かんづかさ:諸々の祭司を掌る)習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)であったが、なぜ大宰府の役人が宇佐八幡宮の託宣を表明することができたのか。

さらに宇佐八幡宮神託事件では、「皇族でない人間を皇位に就けるべきではない」という趣旨の第二の神託を持ち帰った和気清麻呂が処分されるわけだが、これは宇佐八幡の神託が恣意的なものと考えられていたことを示しているのではないだろうか。もし実際に神託が出て清麻呂がそれを持ち帰っただけなのであれば、清麻呂自身には責任があろうはずもないからである。つまり宇佐八幡の神託は、作為的なものと考えられていながら、やはり権威を持っていた。それが不思議なのである。宇佐八幡宮神託事件自体が『続日本紀』の作為であるという説もあるが、であるにしても、宇佐八幡が持つ意味について考えさせられる事件である。本書ではこうしたことについて全く考察はないが、非常に気になった。

また本書では、八幡神の発展が日本の神仏習合を先導していたと述べており、神仏習合現象についての説明もかなり丁寧である。事実、八幡神は「八幡大菩薩」として親しまれ、僧形によって表現されるようになったのであるが、ここも疑問に思った。なぜ八幡神は「大菩薩」なのにもかかわらず僧形なのだろうか。素直に考えれば菩薩形であるべきなのに、どうして僧形とされたのか謎で、これも本書には全く考察がない。

本書は、八幡神の思想的発展については丁寧に記述するものの、それに対する考察はあまり充実しておらず、荘園経営や社殿造営などの実務面についてはほとんど触れていない。入門書としては当然かもしれないが、そこは少し残念だった。

八幡神を巡る種々の謎についてはあまり解きほぐされないが、史実を実直に辿れる八幡神入門書。

【関連書籍】
『神仏習合』逵 日出典 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/08/blog-post_17.html
神仏習合の概略的な説明。

2019年10月20日日曜日

『一遍と時衆の謎—時宗史を読み解く』桜井 哲夫 著

一遍と時衆についてのこれまでの研究のまとめ。

著者の桜井哲夫は近現代ヨーロッパを主な対象とする社会学者であり、時衆については専門外である。が同時に時宗寺院の住職であって、その立場からまとめたのが本書である。よって本書は、著者自身の研究というよりも、これまでの時衆研究を概観してみようというものである。

本書は2部に分かれており、第1部は時衆とは何かということが様々なトピックから紐解かれている。先行研究が縦横に紹介されているので初学者には有り難いが、一方で「○○はこう言っている」という形で様々なことが雑然と語られているという側面もあり、時衆の全体像はやや摑みにくい。

個人的に気になったのは、時衆僧侶は「陣僧」として戦に同行して戦没者の葬儀を執り行っており、それが賦役として課されていたという点。本書では簡単に書いているが、時衆の性格を考察する上で重要だと思われる。

そもそも私が時衆に興味を抱いたのも、葬送との関連であった。中世の葬制が整っていくにあたり、大きな役割を果たしたのは禅宗であり、またそれを武士階級から一般まで普及させていったのは律宗の影響が大きいらしい。しかしその背景として、時衆の存在が非常に気にかかるのである。葬送は言うまでもなく死体を扱うので、当時(中世初期)には穢れの問題がやかましかった。そんな中で、「浄不浄を問わず」としていた時衆はかなり葬儀に関わっていたらしく、また実際に陣僧として活躍していたことを踏まえると、葬制の確立において時衆の果たした役割は大きいと考えられている。非人と時衆の関係がその核にあるのではないかという気がした。こうしたことについて本書ではほとんど触れられていないが、ここはさらに知りたいところである。

この他にも、江戸時代には時衆は遊行にかなり便宜を与えられていたということ、能などの芸道において時衆(と考えられている人)が活躍していたらしいということ、高野聖は時衆が吸収してしまったらしいということなど、様々な点が興味深かった。また、蓮如による浄土真宗の改革が真宗の時衆化ではなかったのかという指摘は面白かった。中世において時衆は非常に隆盛し、多くの信者を獲得したものの、蓮如によって浄土真宗が興隆してゆくと時衆は不思議と衰微していく。これは時衆の徒が浄土真宗に吸収されていった結果であると考えられる。確かに親鸞の浄土真宗は非常に学理的であるが、蓮如の浄土真宗は明解で庶民的であり、時衆風なのである。

第2部では、『一遍聖絵』に基づいて一遍の生涯を紹介している。『一遍聖絵』の研究と、一遍の伝記的研究が同時に扱われているので、こちらもやや煩瑣な部分があるが、時系列的になっている分、第1部に比べるとすっきりしている。

伝記的部分で気になったのは、一遍は神祇不拝ではなくむしろ積極的に神社等に参拝したということや、往生の際の奇瑞を信用せず、そうした奇跡的な現象を迷信だと退けていたという点である。時衆は教義らしい教義を持たない宗派であるとされることもあり、事実一遍は一冊の著書も残さなかったが(入寂の前に焼き捨てた)、彼が残した和歌を見ると宗教家としての思想が感じられる。

おのづから あひあうときも わかれても ひとりはおなじ ひとりなりけり

時衆は集団で念仏踊りに狂う宗派であったのは事実である。その興奮は時として入水往生(入水自殺)をも伴った。時衆教団はいつも「南無阿弥陀仏」の集団的熱狂を伴っていた。しかしその中心の一遍は、いつでも孤独を抱えていたのかもしれない。

先行研究の紹介は煩瑣でもあるが、中世において大きな存在感のある時衆について手軽に学べる本。


2019年10月14日月曜日

『日本宗教史』末木 文美士 著

古代から現代に到る日本宗教史を概観する本。

本書の対象とする範囲は非常に広く、新書という形式で記述するには無謀なほどである。そのため細かいことは省き、梗概のみの記載に留めている事項も散見され、古代から中世にかけては特に簡略である。このあたりは分量的には2倍くらい欲しかったのが正直なところである。

逆に近世以降の神道論の展開には、結構紙幅を割いているようだった。著者の専門は言うまでもなく仏教の方にあるが、神道論の展開を丁寧に扱っているのが意外であり好感を持った。

一方で、七福神信仰とか観音・地蔵信仰、庚申講といった近世の民衆的な宗教ムーブメントについては全く記載がなく、やや物足りなく感じたのも事実である。

要するに、本書は日本宗教史を描くにあたり、年表的な事実を教科書的にまとめているというよりも、著者なりの視点で大胆に取捨選択がなされているのである。そして「選択」された部分については割合に丁寧に描かれる。であるから、事実の羅列的な部分はほとんどなく、宗教史が一筋の流れとして理解でき、非常に平易である。著者自身が後書きで本書を評して「試論」「たたき台」「大胆な挑戦の書」と述べているように、決定版とはいえない本だが、本書を刺激として様々な考察を広げてゆく可能性を感じさせる本である。

なお、本書は「<古層>の形成・発見」を大きなテーマとしている。精神的変革が求められる時代にあたって、日本人は多くの場合<古層>を参照し、<古層>に返るというスタンスで革新を成し遂げてきた。しかしその<古層>自体が、歴史的事実としての古思想・文化ではなくて、「そうあるはずだった過去」として形成されたものであったというのである。これは各時代で検証しなくてはならない主張なので、妥当なのかどうかは私には判断できないが、著者はなんでもかんでも<古層>を牽強付会しようとはしていないので、読んでいてあまり違和感はなかった。とはいえそれが斬新な視点であるとも思えず、テーマとしての「<古層>の形成・発見」にはさほど魅力を感じなかったというのが正直な感想である。

「<古層>の形成・発見」はピンと来ないが、日本宗教史の詩論として価値ある本。