平安時代から徳川時代までの日本の日記文学を紹介する本。
著者にれば、日記が文学形式として小説や随筆に劣らず重要だと思われている国は日本以外にはないという。有名無名の大勢の日本人が、平安時代から今に至るまで日記を書き続け、しかもそれを日々の記録としてだけでなく文学的鑑賞の対象として捉えてきた。
しかし、この日本人の日記世界を俯瞰するような研究はこれまでになかった。そこで著者はその多くの日記を網羅的に読み、そこに描かれた作者の姿を探るという探求を行った。
ここにはよく知られた著名な日記(少なくとも文学として捉えられている日記)はほぼ全て取り上げられている。平安時代12、鎌倉時代17、室町時代22、徳川時代27の項目が立てられ、1項目に1つ以上の日記が取り上げられている場合があるから80以上の日記が触れられる。もちろんそこには全体の繋がりやバランスを重視した取捨選択がされているとはいえ、近世以前の日記世界を理解するには十分すぎるほどの内容だ。
しかも著者は、これらの日記を(悪い意味で)「文学的に」読むことをしない。かつて日記(だけでなく文学作品全般)は、和漢の典籍からの引用や本歌取り、込み入った修辞技法や古事を踏まえた表現など、華麗な名文を評価する傾向があった。誰に読ませるつもりで書いたわけではない日記でさえ、こうした名文をものそうと推敲を重ねた人は多く、そして実際そのような点が評価もされてきたのである。しかし著者は、そうした表現を作者の教養の高さを表すものとは認めても、むしろ「少なくとも私には、いささかじれったい」(p.240『十六夜日記』への言及)とし、それよりも作者の人間性の発露と呼ぶようなものを厖大な日記から丹念に探っていくのである。
多くの名文とされた日記は、個性的であるよりもいわば「歴史的」であることを目指して書かれていた。例えば多くの旅日記は、旅の様子をありのままに記すのではなく、各地の歌枕を訪ね、古人の歩んだ道、古人の見た風景を「追体験」することに主眼を置いていた。知られていない新鮮な風景や壮大な絶景に心を躍らすよりは、誰もが古典を通じて知っている、そして今となってはさほど情趣のない場所で古い時代の有様を想像する方が、ずっと「文学的」であると思われていたのである。要するに日本人は日記においても、作者個人の感性を表現するより、いかに古事を踏まえたその場に似つかわしい表現を当て嵌めるかということに心を砕いてきたのだ。
しかしそうであっても、やはり日記というものは個人的な性格のものである。古典の知識を引けらかすような形式張った日記でさえ、ふとした拍子に作者の内心がこぼれ出てしまう場合がある。著者はそういった一文を、徹底的に探している。それを著者は「今日私が知る日本人と、いさかでも似通った人間を、過去の著作の中に見いだす喜びのため」に行ったという。
そういう視点であるから、本書は一見すると日記をひたすら紹介するだけの無味乾燥な本と思われるかもしれないが、さにあらず、非常に興味を持ってそれらの作品に接することができる本である。それは著者なりの視点で日記を読み解き、つまらない点はつまらないと明言する一方、興味の引かれる点については遠慮なく詳述しているからで、平坦な文学評論とは全く違い、日記を通じて作者の人間性に触れる工夫が施されている。
さらに、やはり網羅的に日記世界を俯瞰してみると時代によってかなり変遷があり、それを見ることも本書の興味深い点である。例えば平安時代の女性の日記が、その内省的な性格において日記文学の一つの精華となったにも関わらず、宮廷の衰微とともにその伝統が廃れ、鎌倉時代の『竹むきが記』を最後に女性が日記を書くということは約300年も途絶してしまうのである。こうした変遷は、大量に日記を並べてみないと見えてこないことで、本書の面目躍如たるところであろう。
こうして、日記に描かれた(あるいは当然にそこにあったにも関わらず敢えて描かれなかった)ことを通じ、一種の日本人論にまでなっていることが本書の特徴である。個別の日記を知るための事典的な本として読むのも可能だが、ぜひ通読をお薦めする。
本書を読むと、とにかくこの過去の日記を読みたくなること請け合いである。日記文学案内としても最良な上、それに留まらない価値を持っている名著。
【関連書籍】
『明治天皇』ドナルド・キーン著、角地 幸男 訳
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/12/blog-post.html
明治天皇の生涯を軸にたどる明治の歴史。厖大な資料を駆使して明治天皇の実像を浮かび上がらせた大著。維新の功臣たちの日記も縦横に参照されている。
2019年2月24日日曜日
2019年2月10日日曜日
『鹿児島古寺巡礼―島津本宗家及び重要家臣団二十三家の由緒寺跡を訪ねる』川田 達也 写真・文、野田 幸敏 系図監修
墓所から見る島津家とその家臣団。
薩摩藩の島津家には、姻戚関係で結ばれた重要家臣団23家があった。本書は、島津本宗家および家臣団といういわば島津一族を体系的に紹介するものである。しかもその手法が変わっていて、由緒寺跡を巡ることで家臣団の世界に入っていく仕掛けになっている。
由緒寺「跡」というのは、鹿児島では廃仏毀釈で全ての寺院が取りつぶされているためで、本書のタイトルは「古寺巡礼」を冠しているが、実際に巡っているのは寺跡、もっと具体的に言えば墓地なのである。よって本書は、墓地を訪れることで往時の島津家・家臣団を偲ぶというものだ。
墓地を訪れるといっても、著者はただ墓参りをするわけではない。墓地に残された遺物から歴史を読み解くだけでなく、石塔や石積み、石仏や仁王像といった今に残されたものの美を感じ、端正な写真によってそれを表現した。本書はテキスト部分だけ見ると島津一族の歴史を紹介する本なのであるが、写真部分は古寺跡の美しさ・奥深さを伝えるものとなっており、墓所という具体的なモノを通じて島津一族を縦覧できる稀有な本である。
しかも著者の視点が清新なのは、廃仏毀釈に対する姿勢である。廃仏毀釈を嘆き糾弾する人は多いのだが、 実際に破壊された寺跡を大事にしようとする人は少なく、多くの廃寺跡が顧みられることもないまま、朽ち果てつつある。それはいわば「現在進行中の廃仏毀釈」なのだという。地域の人や子孫によって細々と維持管理されているところもあるが、それもこれから先どうなっていくか分からない。
そうしたことから、「廃仏毀釈を批判し、その悲惨さを伝えるためでは」なく、「少しでも多くの人が鹿児島にあった古寺や歴史に興味を持ち、さらには現地を訪れて」ほしいとの願いで本書は書かれている(本書まえがきより)。そしてその言葉通り、本書には全ての由緒寺跡の詳細な地図がついており、廃寺跡の見方・見どころもしばしば案内されている。例えば、「これほど大きな石仏が無傷で残っているのは奇跡と言ってよい」(真如院)、「自然の中に溶け込み始めた墓塔が、わびしくも美しい風景を作り出している」(長善寺)など。本書を読めば、廃寺跡での歴史の謎解きと写真撮影に繰り出したくなるだろう。
なお、著者がまだ30代というのも本書の驚くべき点である。著者の廃寺跡巡りの目的意識を考えると、そのスコープは島津一族だけに限らないはずであり、鹿児島にまだまだある名刹跡を取り上げた次回作を期待したい。
廃寺跡を通じて鹿児島の歴史や島津一族を知ることができる、新しい視点の歴史歩きの本。
薩摩藩の島津家には、姻戚関係で結ばれた重要家臣団23家があった。本書は、島津本宗家および家臣団といういわば島津一族を体系的に紹介するものである。しかもその手法が変わっていて、由緒寺跡を巡ることで家臣団の世界に入っていく仕掛けになっている。
由緒寺「跡」というのは、鹿児島では廃仏毀釈で全ての寺院が取りつぶされているためで、本書のタイトルは「古寺巡礼」を冠しているが、実際に巡っているのは寺跡、もっと具体的に言えば墓地なのである。よって本書は、墓地を訪れることで往時の島津家・家臣団を偲ぶというものだ。
墓地を訪れるといっても、著者はただ墓参りをするわけではない。墓地に残された遺物から歴史を読み解くだけでなく、石塔や石積み、石仏や仁王像といった今に残されたものの美を感じ、端正な写真によってそれを表現した。本書はテキスト部分だけ見ると島津一族の歴史を紹介する本なのであるが、写真部分は古寺跡の美しさ・奥深さを伝えるものとなっており、墓所という具体的なモノを通じて島津一族を縦覧できる稀有な本である。
しかも著者の視点が清新なのは、廃仏毀釈に対する姿勢である。廃仏毀釈を嘆き糾弾する人は多いのだが、 実際に破壊された寺跡を大事にしようとする人は少なく、多くの廃寺跡が顧みられることもないまま、朽ち果てつつある。それはいわば「現在進行中の廃仏毀釈」なのだという。地域の人や子孫によって細々と維持管理されているところもあるが、それもこれから先どうなっていくか分からない。
そうしたことから、「廃仏毀釈を批判し、その悲惨さを伝えるためでは」なく、「少しでも多くの人が鹿児島にあった古寺や歴史に興味を持ち、さらには現地を訪れて」ほしいとの願いで本書は書かれている(本書まえがきより)。そしてその言葉通り、本書には全ての由緒寺跡の詳細な地図がついており、廃寺跡の見方・見どころもしばしば案内されている。例えば、「これほど大きな石仏が無傷で残っているのは奇跡と言ってよい」(真如院)、「自然の中に溶け込み始めた墓塔が、わびしくも美しい風景を作り出している」(長善寺)など。本書を読めば、廃寺跡での歴史の謎解きと写真撮影に繰り出したくなるだろう。
なお、著者がまだ30代というのも本書の驚くべき点である。著者の廃寺跡巡りの目的意識を考えると、そのスコープは島津一族だけに限らないはずであり、鹿児島にまだまだある名刹跡を取り上げた次回作を期待したい。
廃寺跡を通じて鹿児島の歴史や島津一族を知ることができる、新しい視点の歴史歩きの本。
2019年1月20日日曜日
『漂流怪人・きだみのる』嵐山光三郎 著
嵐山光三郎がきだみのるの晩年を描く本。
きだみのるは、名著『気違い部落周游紀行』の著者。フランス語とギリシア語を操り、桁違いの教養と学識を持ちながら、世間のはみ出し者として各地を漂流し、行く先々で知り合いの家に押しかけて家の中を絶望的に汚し散らかしていった破天荒な人物。著者嵐山はきだの晩年に担当編集者となり、一時期行動を共にする。
きだは謎の少女ミミくんと共に旅をしていた。やがてミミくんはきだの隠し子であることがわかってくる。きだはどこでも女と関係を持ち、分かっているだけで7人もの子どもがいたが、ミミくんは晩年に生まれた最後の子どもだった。
本書の前半部分は、きだの破天荒ながら憎めない人柄と学識の背景を伝える評伝となっている。 『気違い部落周游紀行』に至るまでの道と、それから「部落」を著作の中心テーマに据えてからの活躍について。この部分は、これはこれで興味深い。本書を手に取る人は、誰しも「きだみのる」を知るためにページをめくるであろうから、その期待に応える内容が書かれている。
しかし後半部分は、思わぬ方向に話が展開していく。 ミミくんをどう育てていったらよいのかというきだの葛藤と、周囲の心配が重奏していくのである。ミミくんは学齢期に達しながら小学校に通っていなかった。きだが定住していなかったからだ。きだが各地を巡る中で実践的な教育を施してはいたが、きだは教育者としては不安定すぎ、父親としては性的に放縦すぎた。そもそも、自分が父親であることをミミくんに明かしていなかった。
そして、ミミくんはきだの子どもというよりも、むしろミューズに近かった。きだは各地を巡る際に、ミミくんの目を通して社会を観察していた。学識のないミミくんの反応を手がかりに、素のままの社会の有様を摑もうとした。きだにとってミミくんは必要な目であった。だからきだは、ミミくんが学校に通わなければならない年齢になっても手元から逃したくなかったのだ。きだは反国家、反権力、反文壇、反知識人で、優等生的な勉強よりも、野生の感性や土着の論理をずっと信頼していた。
しかしきだは一方で学校教育を重視していた。破天荒なくせに、学歴はひどく気にした。ミミくんに教育を施すには、どうしたって定住しなければならない。車に寝泊まりしながら全国を移動する生活では、小学校に通わせられない。だからきだは迷った。そして迷いながら決断を先延ばしにすることで、バツが悪い思いをしていた。「ミミくんをどうするつもりですか」と問われるたび、言葉を濁す有様だ。ミミくんは、いつしかきだの最大の負い目になっていた。
結局、きだはさる「熱血教師」三好京三にミミくんを養子にして教育を任すことにした。教育資金は負担した。きだは貧乏ではなかった。ミミくんにはよい教育が与えられるはずだった。しかし結果的に見れば、この決断はミミくんにとってよくないものだった。三好は破天荒に育てられたミミくんを型に嵌めようとし、矯正を試みた。さらに三好はミミくんを文学に利用し、まるで「狼少女」を育てている風なことを書いて文学賞を獲得したのである(『子育てごっこ』文學界新人賞及び直木賞)。奇妙なことに、ここでもミミくんはミューズにされた。そして真偽のほどは定かでないながら、三好はミミくんを性的にも弄んだ。
ミミくんを利用して文学界でのし上がった三好は、文学作品だけでなく多くの教育論も著したが、ミミくんが性的虐待の告発をしたり、ヌード写真集のモデルになったことでスキャンダルとなり、親子関係も崩壊。ミミくんとの養子縁組は解消された。こうした悲しい結末を迎えたのは、本書を読む限りきだの判断ミスの面が大きいように感じさせられる。ミミくんとの関係を正常化できず、親子関係を隠したまま養子に出したというそのことだけを見ても、いかにきだがミミくんという存在を持てあましていたか物語っている。
本書で知るきだみのるは、鋭い目をした社会学の異端児でもなければ、破天荒な怪人でもない。もちろんそうした面を持ちながらも、娘の扱いに悩んであたふたと醜態を演じる普通の父親であるという印象の方が、ずっと強いのである。しかし著者は、決してきだみのるの伝説のベールを剥がそうというつもりで本書を書いたわけではない。いやむしろ、本書から伝わってくるきだは、怪人的社会学者としてのきだよりも、ずっと生き生きしていて、人間味がある。立派な父親だったという評価は出来ないが、少なくとも娘の行く末を案じ、自分にできることを精一杯果たそうとした父親だったとは思える。
このように、本書はきだみのるの評伝である以上に、ミミくんをめぐる物語であり、非常なる迫力がある。特に後半は、本を置くことが出来ないほど熱中して読んだ。
破天荒な一人の男とその娘の先の見えない人生が気になりすぎる傑作。
きだみのるは、名著『気違い部落周游紀行』の著者。フランス語とギリシア語を操り、桁違いの教養と学識を持ちながら、世間のはみ出し者として各地を漂流し、行く先々で知り合いの家に押しかけて家の中を絶望的に汚し散らかしていった破天荒な人物。著者嵐山はきだの晩年に担当編集者となり、一時期行動を共にする。
きだは謎の少女ミミくんと共に旅をしていた。やがてミミくんはきだの隠し子であることがわかってくる。きだはどこでも女と関係を持ち、分かっているだけで7人もの子どもがいたが、ミミくんは晩年に生まれた最後の子どもだった。
本書の前半部分は、きだの破天荒ながら憎めない人柄と学識の背景を伝える評伝となっている。 『気違い部落周游紀行』に至るまでの道と、それから「部落」を著作の中心テーマに据えてからの活躍について。この部分は、これはこれで興味深い。本書を手に取る人は、誰しも「きだみのる」を知るためにページをめくるであろうから、その期待に応える内容が書かれている。
しかし後半部分は、思わぬ方向に話が展開していく。 ミミくんをどう育てていったらよいのかというきだの葛藤と、周囲の心配が重奏していくのである。ミミくんは学齢期に達しながら小学校に通っていなかった。きだが定住していなかったからだ。きだが各地を巡る中で実践的な教育を施してはいたが、きだは教育者としては不安定すぎ、父親としては性的に放縦すぎた。そもそも、自分が父親であることをミミくんに明かしていなかった。
そして、ミミくんはきだの子どもというよりも、むしろミューズに近かった。きだは各地を巡る際に、ミミくんの目を通して社会を観察していた。学識のないミミくんの反応を手がかりに、素のままの社会の有様を摑もうとした。きだにとってミミくんは必要な目であった。だからきだは、ミミくんが学校に通わなければならない年齢になっても手元から逃したくなかったのだ。きだは反国家、反権力、反文壇、反知識人で、優等生的な勉強よりも、野生の感性や土着の論理をずっと信頼していた。
しかしきだは一方で学校教育を重視していた。破天荒なくせに、学歴はひどく気にした。ミミくんに教育を施すには、どうしたって定住しなければならない。車に寝泊まりしながら全国を移動する生活では、小学校に通わせられない。だからきだは迷った。そして迷いながら決断を先延ばしにすることで、バツが悪い思いをしていた。「ミミくんをどうするつもりですか」と問われるたび、言葉を濁す有様だ。ミミくんは、いつしかきだの最大の負い目になっていた。
結局、きだはさる「熱血教師」三好京三にミミくんを養子にして教育を任すことにした。教育資金は負担した。きだは貧乏ではなかった。ミミくんにはよい教育が与えられるはずだった。しかし結果的に見れば、この決断はミミくんにとってよくないものだった。三好は破天荒に育てられたミミくんを型に嵌めようとし、矯正を試みた。さらに三好はミミくんを文学に利用し、まるで「狼少女」を育てている風なことを書いて文学賞を獲得したのである(『子育てごっこ』文學界新人賞及び直木賞)。奇妙なことに、ここでもミミくんはミューズにされた。そして真偽のほどは定かでないながら、三好はミミくんを性的にも弄んだ。
ミミくんを利用して文学界でのし上がった三好は、文学作品だけでなく多くの教育論も著したが、ミミくんが性的虐待の告発をしたり、ヌード写真集のモデルになったことでスキャンダルとなり、親子関係も崩壊。ミミくんとの養子縁組は解消された。こうした悲しい結末を迎えたのは、本書を読む限りきだの判断ミスの面が大きいように感じさせられる。ミミくんとの関係を正常化できず、親子関係を隠したまま養子に出したというそのことだけを見ても、いかにきだがミミくんという存在を持てあましていたか物語っている。
本書で知るきだみのるは、鋭い目をした社会学の異端児でもなければ、破天荒な怪人でもない。もちろんそうした面を持ちながらも、娘の扱いに悩んであたふたと醜態を演じる普通の父親であるという印象の方が、ずっと強いのである。しかし著者は、決してきだみのるの伝説のベールを剥がそうというつもりで本書を書いたわけではない。いやむしろ、本書から伝わってくるきだは、怪人的社会学者としてのきだよりも、ずっと生き生きしていて、人間味がある。立派な父親だったという評価は出来ないが、少なくとも娘の行く末を案じ、自分にできることを精一杯果たそうとした父親だったとは思える。
このように、本書はきだみのるの評伝である以上に、ミミくんをめぐる物語であり、非常なる迫力がある。特に後半は、本を置くことが出来ないほど熱中して読んだ。
破天荒な一人の男とその娘の先の見えない人生が気になりすぎる傑作。
2019年1月17日木曜日
『地図の歴史』織田 武雄 著
地図の歴史を豊富な図版で概観する本。
本書は「世界篇」と「日本篇」の2つのパートに分かれている。「世界篇」では、主に西洋世界において作成された世界地図の変遷が語られ、「日本篇」では、まず日本地図の変遷、そして日本における世界地図の変遷が語られている。なお、日本における世界地図の変遷については、西洋の世界地図をどのように受容したかということと等しいので、これは幕末における洋学の受容を具体的に示すテーマともなっている。
「日本篇」も大変面白いが、出色なのは「世界篇」である。世界地図の変遷というと、技術的な問題のように思われるかも知れないが、それ以上に「世界観」の変遷を物語るもので、多分に心理的側面を含んでいる。
古代・中世の地図には、未見の大陸や奇妙な異邦人(長耳人とか無頭人とか)、遠い海に住む怖ろしい怪物、誰も見たことがない世界の果てといった、空想的なものがまことしやかに描かれていた。もちろんそうしたものが実際に存在すると信じられていたのである。
しかし西洋人の知見が徐々に広がっていくと、地形の誤りが修正されていったのはもちろん、そうした空想的な存在はありはしないのだ、ということが分かってくる。大航海時代には安全な航海を行う必要から世界地図はより正確なものになってくるが、その結果何が起こったか。正確な地形を表すだけでなく、わからない部分は空白にする、という態度が生じたのである。
それまでは、既知の部分とわからない部分は、おそらく地図制作者にも明確に区別されていなかった。 つまり探査されていない部分もわかったつもりになって描かれていた。しかし近代的な地図の精神が芽生えてくると、未知の部分を空白にして残すようになった。これにより、既知と未知がはっきりと区別され、どこにさらなる探査が必要かも分かっていったのである。
世界地図の発展は、地図に書き込むことによってではなく、むしろ曖昧な要素を書き込まないことによってもたらされた。 まさにデカルトが『方法序説』を持って世に問うた「方法的懐疑」の実践がここに見られるのである。この知的な変遷を豊富な図版をもって辿ることは、スリリングでさえあった。
地図の歴史を通して人間の世界観の発展を知れる名著。
本書は「世界篇」と「日本篇」の2つのパートに分かれている。「世界篇」では、主に西洋世界において作成された世界地図の変遷が語られ、「日本篇」では、まず日本地図の変遷、そして日本における世界地図の変遷が語られている。なお、日本における世界地図の変遷については、西洋の世界地図をどのように受容したかということと等しいので、これは幕末における洋学の受容を具体的に示すテーマともなっている。
「日本篇」も大変面白いが、出色なのは「世界篇」である。世界地図の変遷というと、技術的な問題のように思われるかも知れないが、それ以上に「世界観」の変遷を物語るもので、多分に心理的側面を含んでいる。
古代・中世の地図には、未見の大陸や奇妙な異邦人(長耳人とか無頭人とか)、遠い海に住む怖ろしい怪物、誰も見たことがない世界の果てといった、空想的なものがまことしやかに描かれていた。もちろんそうしたものが実際に存在すると信じられていたのである。
しかし西洋人の知見が徐々に広がっていくと、地形の誤りが修正されていったのはもちろん、そうした空想的な存在はありはしないのだ、ということが分かってくる。大航海時代には安全な航海を行う必要から世界地図はより正確なものになってくるが、その結果何が起こったか。正確な地形を表すだけでなく、わからない部分は空白にする、という態度が生じたのである。
それまでは、既知の部分とわからない部分は、おそらく地図制作者にも明確に区別されていなかった。 つまり探査されていない部分もわかったつもりになって描かれていた。しかし近代的な地図の精神が芽生えてくると、未知の部分を空白にして残すようになった。これにより、既知と未知がはっきりと区別され、どこにさらなる探査が必要かも分かっていったのである。
世界地図の発展は、地図に書き込むことによってではなく、むしろ曖昧な要素を書き込まないことによってもたらされた。 まさにデカルトが『方法序説』を持って世に問うた「方法的懐疑」の実践がここに見られるのである。この知的な変遷を豊富な図版をもって辿ることは、スリリングでさえあった。
地図の歴史を通して人間の世界観の発展を知れる名著。
2019年1月7日月曜日
『猫たちの隠された生活』エリザベス・M・トーマス著、木村 博江 訳
猫族の生活についてエッセイ風に述べた本。
本書は、原題”The Tribe of Tiger”(虎の一族)が示すとおり、猫だけでなく広く猫族について様々なエピソードを紹介し、その共通性や相違点について検討しつつ猫族の「生活原理」ともいうべきものを探るものだ。
その第一原理は、猫族はその栄養源を肉のみに負っているということだ。雑食性のクマやイヌと異なり、猫族は肉以外、しかも自ら(か親が)仕留めた獲物の肉以外を食べることはない。それは狩りがうまくいかなければすぐに飢餓状態に陥ってしまう「崖っ縁の生き物」であることを意味する。
そのため、猫族はライオンなどを除いて基本的に単独行動が多い。多くの仲間を維持するためには大量の肉が必要になるから、群れの維持が大変なのである。だから猫族は孤独を好む、気まぐれな動物と思われている。群れの紐帯を重視し調和と統制を好む犬と違って、猫は仲間や飼い主のことをあまり気にしていないと。
しかし著者によればそれは事実ではない。ただ、社会性や愛情の「流儀」が違うだけなのだ。実際、猫族は自らの縄張り内のことを大変気に掛けている。大型猫族(ライオンのような)は、獲物となる動物の群れの構成や弱った個体の有無を常に調べており、おそらく個体を識別している。 また猫族は仲間と無用な争いを避ける、友好を示しながら一定の距離を保つ手法を心得ている。犬のようにベタベタする必要はないから、淡泊だと誤解を受けているだけなのだ。
さらに猫族が肉だけを食料とするハンターだからといって、食べられそうなものをなんでも獲物と見なすわけではない。猫族にとって動物は3つのカテゴリに分けられそうだ。食べものか、敵か仲間か。それは先験的に決まっているのではなく、その動物が食べものとして振る舞うか、敵としか振る舞うか、それとも仲間として振る舞うか、という社会的なコードによるのである。
その一例が本書で最も感動的なエピソードである、ライオンと人間(ブッシュマン)との停戦協定だ。カラハリのライオンは、丸腰に近い人間でも襲わず、家畜も襲わなかった。一方、人間もライオンには敬意を持って接した。人間がライオンに要求を伝えたいときは(例えばそこをどいて欲しいとか)、ライオンに真摯にかつ毅然として語りかけた。こうした流儀は、ブッシュマンとライオンたちの間で何世代にもわたって培われてきた文化であった。人間が武器を持っているから従っていたのではなくて、お互いに敬意を払いながら距離を保つすべが形成されてきたのだ。
だから他の地方ではライオンと人間は敵対的であったし、カラハリでもブッシュマンがいなくなるとその流儀は短い間に廃れ、ライオンとの停戦協定は消えてしまった。ライオンの文化も、人間の文化と同じように儚いものだった。
著者は人類学者。その調査でアフリカに滞在する中でライオンに興味を持ち、また別にピューマや虎とも接する機会があって、さらに自らも猫を飼っていることで、広く猫族に関する話題を集めたのが本書である。であるから、本書はあまり学術的なものではなく、○○から聞いた話、というような体験談も多く楽しく読める。何かを解明するといった本ではなくて、猫族の生き方について再考を催すような本である。
猫族の社会性について考えさせる良書。
本書は、原題”The Tribe of Tiger”(虎の一族)が示すとおり、猫だけでなく広く猫族について様々なエピソードを紹介し、その共通性や相違点について検討しつつ猫族の「生活原理」ともいうべきものを探るものだ。
その第一原理は、猫族はその栄養源を肉のみに負っているということだ。雑食性のクマやイヌと異なり、猫族は肉以外、しかも自ら(か親が)仕留めた獲物の肉以外を食べることはない。それは狩りがうまくいかなければすぐに飢餓状態に陥ってしまう「崖っ縁の生き物」であることを意味する。
そのため、猫族はライオンなどを除いて基本的に単独行動が多い。多くの仲間を維持するためには大量の肉が必要になるから、群れの維持が大変なのである。だから猫族は孤独を好む、気まぐれな動物と思われている。群れの紐帯を重視し調和と統制を好む犬と違って、猫は仲間や飼い主のことをあまり気にしていないと。
しかし著者によればそれは事実ではない。ただ、社会性や愛情の「流儀」が違うだけなのだ。実際、猫族は自らの縄張り内のことを大変気に掛けている。大型猫族(ライオンのような)は、獲物となる動物の群れの構成や弱った個体の有無を常に調べており、おそらく個体を識別している。 また猫族は仲間と無用な争いを避ける、友好を示しながら一定の距離を保つ手法を心得ている。犬のようにベタベタする必要はないから、淡泊だと誤解を受けているだけなのだ。
さらに猫族が肉だけを食料とするハンターだからといって、食べられそうなものをなんでも獲物と見なすわけではない。猫族にとって動物は3つのカテゴリに分けられそうだ。食べものか、敵か仲間か。それは先験的に決まっているのではなく、その動物が食べものとして振る舞うか、敵としか振る舞うか、それとも仲間として振る舞うか、という社会的なコードによるのである。
その一例が本書で最も感動的なエピソードである、ライオンと人間(ブッシュマン)との停戦協定だ。カラハリのライオンは、丸腰に近い人間でも襲わず、家畜も襲わなかった。一方、人間もライオンには敬意を持って接した。人間がライオンに要求を伝えたいときは(例えばそこをどいて欲しいとか)、ライオンに真摯にかつ毅然として語りかけた。こうした流儀は、ブッシュマンとライオンたちの間で何世代にもわたって培われてきた文化であった。人間が武器を持っているから従っていたのではなくて、お互いに敬意を払いながら距離を保つすべが形成されてきたのだ。
だから他の地方ではライオンと人間は敵対的であったし、カラハリでもブッシュマンがいなくなるとその流儀は短い間に廃れ、ライオンとの停戦協定は消えてしまった。ライオンの文化も、人間の文化と同じように儚いものだった。
著者は人類学者。その調査でアフリカに滞在する中でライオンに興味を持ち、また別にピューマや虎とも接する機会があって、さらに自らも猫を飼っていることで、広く猫族に関する話題を集めたのが本書である。であるから、本書はあまり学術的なものではなく、○○から聞いた話、というような体験談も多く楽しく読める。何かを解明するといった本ではなくて、猫族の生き方について再考を催すような本である。
猫族の社会性について考えさせる良書。
2019年1月2日水曜日
『バッハと時代精神(バッハ叢書 2)』フレート・ハーメル著、渡辺 健・杉浦 博 訳
バッハの生涯を思想面で辿る本。
本書は、一見バッハの伝記のような構成を持っている。しかし内容は伝記ではなく、バッハの伝記的知識を既知のものとして、その思想に影響を与えたに違いない当時の思潮や神学、思想的な時代の趨勢について述べる本である。
本書では、バッハが過ごした地域の有力者の思想的立場や同時代に影響を与えた神学書、哲学書といったものがこれでもかと紹介される。また、バッハの学歴や蔵書、その転職遍歴などからその精神面が推測され、それが創造に与えた影響が考察されている。こうした手法によってバッハの思想を物語るものであるから、本書は音楽史的著作であるにもかかわらず、具体的な作品についてはあまり語らない。
その生涯の思想的な歩みをまとめれば、次のようになるだろう。バッハはルター派正統主義の色が濃い地域に育ちそれを生涯護持したが、その遍歴時代には敬虔主義的な地域でも仕事をし、己の正統主義と敬虔主義とを妥協させなければならなかった。さらに晩年になると、啓蒙主義の波がバッハにも押し寄せた。キリスト教にも合理的精神でメスを入れる啓蒙主義とバッハの信仰とは相容れなかったため、バッハは啓蒙主義に立ち向かうべく最高の作品を残したのであった。
さらに本書によれば、バッハは若い頃に人生の目的を「整った教会音楽」を創るということに置き、その職歴・遍歴は全てこの目的を成就するための必然と見なしうるというのだが、それはちょっとありそうにもないことだ。また、本書では思想的な展開と人生の転機を相即不離な関係と見なす見解が多く、これは後付けの理屈という側面が強い。さらに本書はやや古いものであるため、今では否定されている伝説や伝記的に不正確な事実が用いられており、その点注意を要する。
しかしながら、バッハの思想、特にルター派の護持者としての面を考える時は、本書は必ず参照すべき本であると思う。バッハの伝記については不十分なところがあるとしても、このように当時の思想世界を詳細に明らかにした本は画期的であり、大変な労作である。バッハを取り囲む思潮を手軽に知れる本は本書以外ないだろう。
なお音楽ファンとしては、著者フレート・ハーメルは、ドイツ・グラモフォンの古楽レーベル「Archiv(アルヒーフ)」を立ち上げた人物として記憶に留めるべき存在である。
バッハを巡る思潮を丁寧に解きほぐした労作。
本書は、一見バッハの伝記のような構成を持っている。しかし内容は伝記ではなく、バッハの伝記的知識を既知のものとして、その思想に影響を与えたに違いない当時の思潮や神学、思想的な時代の趨勢について述べる本である。
本書では、バッハが過ごした地域の有力者の思想的立場や同時代に影響を与えた神学書、哲学書といったものがこれでもかと紹介される。また、バッハの学歴や蔵書、その転職遍歴などからその精神面が推測され、それが創造に与えた影響が考察されている。こうした手法によってバッハの思想を物語るものであるから、本書は音楽史的著作であるにもかかわらず、具体的な作品についてはあまり語らない。
その生涯の思想的な歩みをまとめれば、次のようになるだろう。バッハはルター派正統主義の色が濃い地域に育ちそれを生涯護持したが、その遍歴時代には敬虔主義的な地域でも仕事をし、己の正統主義と敬虔主義とを妥協させなければならなかった。さらに晩年になると、啓蒙主義の波がバッハにも押し寄せた。キリスト教にも合理的精神でメスを入れる啓蒙主義とバッハの信仰とは相容れなかったため、バッハは啓蒙主義に立ち向かうべく最高の作品を残したのであった。
さらに本書によれば、バッハは若い頃に人生の目的を「整った教会音楽」を創るということに置き、その職歴・遍歴は全てこの目的を成就するための必然と見なしうるというのだが、それはちょっとありそうにもないことだ。また、本書では思想的な展開と人生の転機を相即不離な関係と見なす見解が多く、これは後付けの理屈という側面が強い。さらに本書はやや古いものであるため、今では否定されている伝説や伝記的に不正確な事実が用いられており、その点注意を要する。
しかしながら、バッハの思想、特にルター派の護持者としての面を考える時は、本書は必ず参照すべき本であると思う。バッハの伝記については不十分なところがあるとしても、このように当時の思想世界を詳細に明らかにした本は画期的であり、大変な労作である。バッハを取り囲む思潮を手軽に知れる本は本書以外ないだろう。
なお音楽ファンとしては、著者フレート・ハーメルは、ドイツ・グラモフォンの古楽レーベル「Archiv(アルヒーフ)」を立ち上げた人物として記憶に留めるべき存在である。
バッハを巡る思潮を丁寧に解きほぐした労作。
『日本の古代文化』林屋 辰三郎 著
日本古代史を5つのテーマから語る本。
著者林屋辰三郎は、日本の中世史、特に芸能史の研究で有名であり、その著者が古代文化をどう見ていたのだろうと思い手に取ったのが本書である。
本書には、「杜」「前方後円墳」「伽藍」「国史」「都城」という5つのテーマに基づいて、行きつ戻りつしながら弥生時代後期から平安京遷都までの古代史が記述されている。
「杜」では、 農耕文化の基層としての杜が位置づけられると共に、「倭国大乱」の政治状況が分析される。
「前方後円墳」では、新たに成立した政治権力の象徴として古墳文化が振り返られ、また前方後円墳の形状が楯を模したものであるとする説を支持し、それが停戦の象徴であったと考察されている。またその画期として応神天皇に至る系譜が検討される。さらに、前方後円墳は次第に横穴式古墳へと遷移していくが、その背景として死後の世界の観念の変化が示唆される。
「伽藍」では、新たな国家の枢軸として仏教がどう導入されたかが語られる。「伽藍」は「古墳」を引き継ぐものであった。継体天皇の後に王権が分裂し、欽明天皇と安閑天皇は並立する事態を生じるが、この統一にあたって思想的な支柱となったのが仏教だったのである。
「国史」では、国史編纂の前提としての政治権力の集中、隋や新羅との対外関係、一時代前のものとなりつつあった各氏族との関係を整理し顕彰し位置づけるといった事情が語られる。『古事記』は大伴氏の、『日本書紀』は蘇我氏の記念碑と考えられるという。
「都城」では、古い氏族性を刷新して成立した律令制の象徴として都城が捉えられ、その完成形として左右均斉の平城京が位置づけられる。しかし律令制は徐々に崩壊してゆく。平城京においても藤原氏の氏寺興福寺は意図的に外京に位置し、内京が荒廃していくのと対照的に外京は奈良市街として今日まで生き残った。それは律令制の内実が形無しにされ、氏族制のリバイバルともいえる荘園制に移行していったことの象徴なのであった。
本書の表題は『日本の古代文化』だが、古代文化そのものについて語る本でもない。舞踊や歌、服飾や年中行事といった古代文化についてはほとんど全く触れられない。どちらかというと政治権力史をメインとして、各種の遺物にその痕跡を見ようとする本である。ただし私は古代史についてはさほど詳しくなく前提知識が乏しいため、著者の主張を完全に理解することはできなかった。
文化面に残る古代の権力闘争の痕跡を探る、やや専門的な本。
【関連書籍】
『日本文化の多重構造―アジア的視野から日本文化を再考する』佐々木 高明 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/02/blog-post_26.html
日本文化の基層に存在する多様な文化について述べる。アジアを俯瞰して日本生活文化史を位置づけた非常に内容の濃い本。
著者林屋辰三郎は、日本の中世史、特に芸能史の研究で有名であり、その著者が古代文化をどう見ていたのだろうと思い手に取ったのが本書である。
本書には、「杜」「前方後円墳」「伽藍」「国史」「都城」という5つのテーマに基づいて、行きつ戻りつしながら弥生時代後期から平安京遷都までの古代史が記述されている。
「杜」では、 農耕文化の基層としての杜が位置づけられると共に、「倭国大乱」の政治状況が分析される。
「前方後円墳」では、新たに成立した政治権力の象徴として古墳文化が振り返られ、また前方後円墳の形状が楯を模したものであるとする説を支持し、それが停戦の象徴であったと考察されている。またその画期として応神天皇に至る系譜が検討される。さらに、前方後円墳は次第に横穴式古墳へと遷移していくが、その背景として死後の世界の観念の変化が示唆される。
「伽藍」では、新たな国家の枢軸として仏教がどう導入されたかが語られる。「伽藍」は「古墳」を引き継ぐものであった。継体天皇の後に王権が分裂し、欽明天皇と安閑天皇は並立する事態を生じるが、この統一にあたって思想的な支柱となったのが仏教だったのである。
「国史」では、国史編纂の前提としての政治権力の集中、隋や新羅との対外関係、一時代前のものとなりつつあった各氏族との関係を整理し顕彰し位置づけるといった事情が語られる。『古事記』は大伴氏の、『日本書紀』は蘇我氏の記念碑と考えられるという。
「都城」では、古い氏族性を刷新して成立した律令制の象徴として都城が捉えられ、その完成形として左右均斉の平城京が位置づけられる。しかし律令制は徐々に崩壊してゆく。平城京においても藤原氏の氏寺興福寺は意図的に外京に位置し、内京が荒廃していくのと対照的に外京は奈良市街として今日まで生き残った。それは律令制の内実が形無しにされ、氏族制のリバイバルともいえる荘園制に移行していったことの象徴なのであった。
本書の表題は『日本の古代文化』だが、古代文化そのものについて語る本でもない。舞踊や歌、服飾や年中行事といった古代文化についてはほとんど全く触れられない。どちらかというと政治権力史をメインとして、各種の遺物にその痕跡を見ようとする本である。ただし私は古代史についてはさほど詳しくなく前提知識が乏しいため、著者の主張を完全に理解することはできなかった。
文化面に残る古代の権力闘争の痕跡を探る、やや専門的な本。
【関連書籍】
『日本文化の多重構造―アジア的視野から日本文化を再考する』佐々木 高明 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/02/blog-post_26.html
日本文化の基層に存在する多様な文化について述べる。アジアを俯瞰して日本生活文化史を位置づけた非常に内容の濃い本。
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