2018年5月6日日曜日

西郷隆盛と西南戦争

私は鹿児島の人間だから、西郷隆盛というと、もう物心ついた時からいろいろ聞かされていて、内容はあまり覚えていないが高校生の頃に伝記(か海音寺潮五郎の小説か)を読んだ記憶がある(曖昧)。

その後祖父が「これも読みなさい」といって3冊、本をくれた。

『西郷隆盛のすべて―その思想と革命行動』(濵田尚友)、『首丘の人 大西郷』(平泉 澄)、の2冊は覚えているが、3冊目がなんだったか今や分からなくなってしまった。『南洲翁遺訓』だったか。こちらも曖昧である。

なぜ曖昧かというと、これらの本を読んでも、どうも西郷隆盛という人間が自分の中にスッと入ってこない。だいたい、これらの本はどれも最初から西郷隆盛賛美を決めてかかっているところがあって、大げさに言えば、「西郷はかくも偉大であった」というようなことが結論としてあり、それに枝葉をつけたような書きぶりなのだ。

それで、どうも西郷隆盛は自分にとって謎の存在ということになってしまった。伝記的なことを一応は知っていても、等身大の姿というものが見えなかったのである。

そんな西郷に再び興味を抱いたのはだいぶ後になってからで、西南戦争のことが気になり出してからだった。

そのきっかけは、『近代日本の戦争と宗教』(小川原 正道)という本だ。
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https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2013/12/blog-post.html

この本で、西南戦争には「不平士族の暴発」だけでない、多様な性格があった事を知った。西南戦争発端の裏側には、鹿児島で布教を進めたい西本願寺と、真宗の教化によって鹿児島の民衆を政府に馴化しようとする大久保利通らの思惑があった。

西南戦争を起こした者たちには、単なる新政府への不平不満だけでなく、思想的な反抗があったということが朧気ながらに見えた。

なぜ、鹿児島の士族たちは、明治維新を主導しながらも反政府的になってしまったのか。西郷はなぜ、その士族たちを抑えることが出来ずに望まない戦争に担ぎ出されたのか。鹿児島の歴史を知るにつれ、それが私の中で大きな疑問となっていった。

もちろん、通り一辺倒の答えならすぐに準備できる。鹿児島の士族たちが反政府的になったのは彼らが廃藩置県で無職になってしまったからだし、西郷が彼らを止められなかったのは、県内各所の温泉など巡っていて現場(城下)にいなかったからだ。

でも私は、もっと深いレベルで西南戦争を理解したいと思った。西南戦争は、「鹿児島の明治維新」を象徴するものであり、いろいろな意味でその後の日本を先取りしている点がある。そしてその中心にいる西郷隆盛を、今までとは違った視角から理解したくなった。

そういう視角を準備してくれたのが、『南洲残影』(江藤 淳)である。
↓読書メモ 
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本書は、西郷が残した文学作品(漢詩)や檄(指示)を読み解くことで、西郷の心情に迫ろうとするもので、その内容の多くが西南戦争に費やされている。

本書が用意した視角というのは、西郷を「維新の英雄」としてではなく、むしろ「国賊として討伐された敗者」として描いたことだ。西郷賛美でも西郷否定でもなく、一人の非命の人間として西郷を理解しようとする姿勢が、意外と類書にはない。本書によって初めて、私は西郷という人間がこちらの方へ歩み寄ってくれたような気がした。

だが本書の憾みは、適度な距離感をもって語りはじめたはずの著者が、最後には西郷に飲み込まれ、「日本人はかつて「西郷南洲」以上に強力な思想を持ったことがなかった」といったことを言い出すことである。私には、西郷が「思想」だったとはどうしても思えないのだ。いや、「西郷の思想」が何だったのかさえ、未だ茫洋としてつかみどころがないのである。

一方、猪飼隆明は『西郷隆盛―西南戦争への道』によって、西郷の行動原理が「忠君」であることを主張した。
↓読書メモ 
https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2015/08/blog-post.html

要するに西郷は古いタイプの人間で、武士としてのあるべき行動原理である「忠」をずっと守っていたというのである。

最初は主君島津斉彬に対し、そしてその後は明治天皇に対して。そして明治天皇も、ことのほか西郷を寵愛したという。それは、他の維新の功臣が形式的にしか天皇を尊重していなかったのと比べ、西郷は天皇を主君として仰いでいたからではないかという気がする。

また、西郷もその胸の内に様々な葛藤を抱えていた。

例えば、斉彬が残した国(鹿児島藩)を解体してしまってよいのかという葛藤だ。700年も続いた島津氏の支配を、「廃藩置県」を行うことで微臣に過ぎぬ自分が終わらせてよいのか。そういった葛藤を、西郷は天皇への忠心によって乗り越えたという。

私は、本書を読んで、西郷は、みずから「時代遅れの男」であることを自覚しつつ、むしろ「時代遅れの男」として死のうと決意した人間であると思うようになった。西南戦争は彼にとっては望まない戦争であったが、彼以上に「時代遅れの男」たちであった鹿児島の士族を見捨てきれなかったのも、西郷の西郷らしい点であった。

このことは、最初期に「藩」という意識を脱却し、日本の「政治家」としての自覚を持った進歩的な人間、大久保利通と全く対照的な点だった。

だがもちろん、西郷はただの「時代遅れの男」ではなかった。

西郷は鹿児島の士族たちとは、全く違う想いを抱いていた。明治政府のやり方が気にくわなかったのは事実であるが、彼の中には「万国公法」と通ずる進歩的思想が旧来の儒教道徳の上に打ち立てられてもいた。

だから、「時代遅れの男」ばかりの鹿児島の不平士族たちの中にあって、西郷は孤独だった。鹿児島の大勢の士族に慕われながら、実のところ西郷は四面楚歌だったのである。

そもそも、士族が失職した原因である「廃藩置県」は西郷が主導したものなのだ。鹿児島の士族は西郷をまつりあげたけれども、内心憤懣やるかたない想いがあったのではないか。そういう空気を感じられるのが、『西南戦争 遠い崖—アーネスト・サトウ日記抄13』(萩原 延壽)に描かれる一場面である。
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https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2015/08/13.html

明治10年2月11日、もうあと数日で薩軍が進軍を開始するというその時、西郷は旧知のサトウを突然訪問した。その時の様子をサトウはこう記す。

「西郷には約二十名の護衛が付き添っていた。かれらは西郷の動きを注意深く監視していた。そのうちの四、五名は、西郷が入るなと命じたにもかかわらず、西郷に付いて家の中へ入ると主張してゆずらず、さらに二階に上がり、ウイリスの居間へ入るとまで言い張った」
護衛たちは、他ならぬ西郷を監視していたのであった。そして西郷は、西南戦争のさなかにあっても直接に指揮を執らせてもらえなかった。戦場から隔離され、激しい戦闘が行われている裏側で、西郷は呑気にウサギ刈りなどしていたのである。いや、「させられていた」と言う方が正しいか。彼は西南戦争において、少なくとも戦いの半ばまで蚊帳の外に置かれていた。

しかしながら、西郷がただ士族たちのいいように手玉に取られていたかというと、それはまた違う。

当時イギリスの外交官で日本に赴任していたオーガスタス・マウンジーが『薩摩国反乱記』(安岡 昭男 補注)を書いているが、彼は仕事の外交記録としてではなく、一個人として本書を書きイギリスで公刊した。
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https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2017/09/blog-post_8.html

マウンジーは、イギリスにとっては東洋の遅れた島国の内輪もめにすぎない西南戦争についてなぜ一書をものしたのか。それは、おそらく彼が西郷隆盛を高く評価していたからであり、西郷はイギリス人にとっても知って損はない人間だと信じていたからであろう。

マウンジーは、西南戦争については「封建制度をいくらか復活させようとする最後の真剣な企図であった」としていて、それ自体に進歩的意義は認めていない。しかし西郷については「その波瀾に富んだ生涯とその悲劇的な死とによって、国民の間で、「東洋の偉大な英雄」との称号を得、またイギリスの読者の興味をひくにも事欠かないのである」と述べている。

彼がこうした記述をしたことを考えてみても、西郷が鹿児島の士族にいいように使われていただけということは考えにくく、戦争中はかなり自由を制限されていたとはいえ、西郷が西南戦争の性格に大きな影響を及ぼしていることは確実なのだ。西南戦争は西郷にとって望まない戦だったが、鹿児島ではこの戦いは「せごどんのイッサ(戦)」と呼ばれ、確かに「西郷の戦い」だったのである。

そして、西郷の思想そのものが西南戦争にどう現れているか、ということはさして重要ではない。それよりも、西南戦争において、西郷にどのような思想が付託されていたのか、ということが、この戦争を理解する上でもっと重要だ。

西南戦争は、「時代遅れの男」たちの守旧的な戦いであると同時に、明治維新の精神が骨抜きになっていくなかで、自由と言論をもって権力に対抗し明治維新の大業を貫徹させようとする進歩的な思想を持った人々の戦いでもあった。

そういう西南戦争の二面性を描いたのが、『西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦』(小川原 正道)である。
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https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2018/04/blog-post_23.html

五箇条のご誓文では「万機公論に決すべし」とされていなかがら、実際には言論が制限され、薩長の政治家たちによる独裁政権(有司専制)が敷かれていたのが明治政府の実態であった。

そのため、いわゆる「民権派」という、自由と言論を重視する勢力が勃興してきたのが明治10年の頃である。そして「民権派」は、政府の横暴なやり方を糺すには武力を使うこともやむなしとさえ考えつつあった。例えば、板垣退助は明治政府の独裁を打破するため西郷を擁した反乱を企図し、島津久光に建言するのである。

後に板垣は西郷に批判的に転じるが、こういう背景があったから、薩軍には民権を求める進歩的な人々が多数参加している。

薩軍には、武士の特権を信じ封建制の復活を目指す人々と、自由と言論を信じ民権の拡大を目指す人々という、全く正反対の勢力が奇妙に同居していた。しかもそれぞれの勢力が、共にその思想を西郷に託していたのである。

どうしてそんなことが起こりえたのか。例えばこれが大久保利通であったなら、こんなことは起こりえなかっただろう。ほとんど共通点がない正反対の思想が西郷その人に付託されたという事実そのものが、西郷という人物を読み解く鍵であるように私には思える。

そして二つの思想の唯一の共通点は、理想の社会を実現するために身命をなげうつ点であったろう。ご一新の世の中に順応しえた人々が薩軍を冷ややかに見つめる中で、「この社会は間違っている」と憤った人々が西郷を旗印に集結した。社会を自分たちの手で変えようとする第2の明治維新を、西郷と共に起こそうとした。

だがこの戦いは、敗北を宿命付けられていたとも言える。なぜなら当の西郷にはその気がなかったからだ。彼は、あくまで明治天皇に忠誠を尽くそうとしていたのだから。

西郷をどう評価するかということは、近代日本の歩みを評価することと等しい。西郷には、古い社会の理想と新しい社会の理想が、両方投影されていた。しかし自分ではそのどちらも選び取ることが出来ず、新しい社会の理想を夢見ながら、「時代遅れの男」として死んだ。

「武士らしく生きることができない世の中なら、せめて武士らしく死なせてくれ」とでも言わんばかりの同胞と共に。

こうして西郷は「神話」となった。彼はあくまで黙して語らない。だから彼をどう評価してよいのか、考えれば考えるほど途方に暮れてしまう。

明治時代を鋭い目で見た橋川文三でさえ、西郷をどう扱えばいいのか悩んだ。『西郷隆盛紀行』(橋川 文三)は、依頼された西郷の評伝を書くために行った対談や小文をまとめたものだが、これを読めば西郷の評価がどうして難しいのかが分かるだろう。
↓読書メモ 
https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2018/04/blog-post_7.html

だから、こうしていくつかの本を読んできたが、私もまだ「西郷隆盛と西南戦争」をどう考えたらいいのか、正直よく分からないのだ。以前とは違った意味で、西郷隆盛は私にとって謎の存在のままだ。

それにまだまだ知りたいことがいくつかある。西郷が設立したと一般的には思われているが、実はそうではないらしい「私学校」の実態について(例えば徳富蘇峰の『近世日本国民史「西南戦争」第1巻』参照)。西南戦争を始めた戦犯ともいうべき篠原国幹や桐野利秋、別府晋介といった人々の動向。そして私学校を保護して薩軍を支援し、実質的な薩軍の代理人をつとめたといえる県令・大山綱良のこと。

こうしたことを分かった上でないと西南戦争の評価は出来ないし、西郷の評価もできないだろう。近代日本史の分水嶺であった西南戦争は、もっと深く理解されてしかるべき戦いだ。もう少し、書の径(みち)をさまよってみなくてはならない。


2018年5月2日水曜日

『神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』安丸 良夫 著

明治初年の神仏分離政策を中心とした、明治政府の神祇行政史。

本書は、廃仏毀釈や神仏分離はなぜ起こったのか、どのようなことがあったのか、そしてそれはどう終熄していったのかを述べるものである。

「Ⅰ 幕藩制と宗教」では、明治政府の根本思想とも言うべき「復古神道」に至るまでの思想史が信長の一向宗弾圧や秀吉のキリシタン禁制にまで遡って簡潔に述べられる。近世後期に至って、荻生徂徠、太宰春台、中井竹山、会沢安(正志斎)など儒学者、水戸学者が廃仏論を展開し、「祭祀による人心統合」が次第に企図されていった。

「Ⅱ 発端」では、慶応4年に「神祇官」が復興され、「国体神学」が政府の正統性を担保する思想として確立し、具体的施策として神仏分離政策が実施していく過程が述べられる。神祇官は政治的には弱小勢力であり、職掌も狭く、祭祀と宗教政策と国民教化のみが活動を許された領域であったが、そこに結集した国学者たちは情熱をもって彼らの理想の実現に取り組んだ。

その具体的活動が神仏分離政策であり、それは神社から仏教的要素を取り除くという簡単な指示でしかなかったが、これが時代の趨勢という見えない力の手を借りて巨大な影響を社会に及ぼしていく。例えば、神仏分離政策そのものは必ずしも廃仏を意図したものではなかったものの、それが恰も仏教的要素の「破壊」までも含意していると(半ば意図的に)誤解したものたちは、興福寺や日吉山王社のような大寺院を破却したのであった。

一方、国体神学は仏教的要素の破壊だけでなく、新たな神道の構築をも企図していた。例えば国家の功臣を祀る神社(楠木正成を祀る「湊川神社」や後の「靖国神社」)を創建し、天皇家の葬祭を神道式に改め、国家規模で新たな神道を実現しようとした。だがこの動きに釘を刺したのが西本願寺で、西本願寺は元来尊皇的で政府と近く、多額の献金をしていたことなどを背景に、神道優遇策に反対する力となっていく。

「Ⅲ 廃仏毀釈の展開」では、実際に地方で展開した廃仏毀釈運動について述べられる。具体的には、明治政府の神仏分離政策を先取りして実施していた津和野藩、狭い範囲で廃仏が強行的に実施された隠岐、佐渡、苗木藩が取り上げられる。こうしたところでも、廃仏に最も抵抗したのは真宗門徒であり、一度廃仏されても速やかに復興を果たしたのも真宗が多かった。富山藩や松本藩の場合、廃合寺政策が推し進められながらも、真宗の抵抗によって挫折している。この他廃仏毀釈が行われた地域として、薩摩藩、土佐藩、平戸藩、延岡藩などがある。

廃仏毀釈は、明治政府の政策そのものではなく、神仏分離政策を過激に解釈して起こった地方的な運動であったから、隠岐や佐渡、薩摩といった、他の地域と隔絶し地方権力が強力だったところで展開しやすかった。

「Ⅳ 神道国教主義の展開」では、国体神学を全国的に実現するために行われた種々の政策について述べられる。明治政府が国教化しようとした「神道」は、全ての宗教行為を祖霊祭祀と皇室崇拝に組み替え、それを総括するものとして産土社から国家的大社までの神社を据える一方、記紀神話に位置づけられない信仰を異端として圧殺するものであった。これを実現するため、国民教化の役割を担う「宣教使」の設置、伊勢神宮を国家の宗廟として改変すること、神職の世襲を禁じ全ての神社を国家の管理下に置くとともに全国の神社をヒエラルキー的に整理統合すること、国家的祝祭日(元始祭、天長節など)の設定などが矢継ぎ早に行われた。こうして新たな宗教大系が民衆に強制されていった。

「Ⅴ  宗教生活の改変」では、こうした新たな宗教大系がどのような影響を及ぼしたかがケーススタディ的に述べられる。修験道については特に影響が大きく、神仏混淆が最も進んだ宗教だったことから、元来の信仰が大胆に組み替えられ、神道的に再解釈されてしまった。また古来より信仰されてきた地域の小社については、記紀神話に基づかないものが多かったため、各種の民俗信仰や民俗行事・習俗が淫祠邪教とされて廃止された。こうした動きは、強権的なものというよりも、「迷信を打破する」といったような「啓蒙や進取のプラスの価値」として人々に迫り、強力にその信仰を組み替えていった。

「Ⅵ 大教院体制から「信教の自由」へ」では、このように推し進められた神道国教化政策がどのように挫折していったかが述べられる。神道へ露骨な優遇は西本願寺を中心とした仏教勢力の働きかけによって改められ、神仏合同で国民教化を担う「教部省」が設置され、具体的教化の機関として「大教院」等を置き、その根本原則として「三条の教則」が定められた。ところが人々に新たな信仰を強制することには、軋轢を生まずにはおかなかった。また当初は協力的だった仏教側も次第に離反的となり、ヨーロッパの宗教事情を踏まえた西本願寺の島地黙雷の運動によって「信教自由」を求めるようになった。一方で明治政府としても、不平等条約の改正の条件として諸国から信教の自由を求められるなどし、明治8年5月に大教院は解散、以後各宗が独自で布教活動をするようになった。こうして神仏分離政策から始まった一連の宗教政策は挫折した。

ところが、これは国家のイデオロギー的要請に対して各宗派がみずから有効性を証明する自由競争、すなわち各宗派が自主的に国家へ奉仕していく体制への端緒を開いた。こうして、後の「国家神道」という、宗教を超越した宗教の誕生へと繋がっていくのだった。神仏分離と廃仏毀釈は、その政策意図が貫徹できなかったという意味では失敗した政策であったが、それは、「国家神道」へと至る道筋となるものだったのである。

全体を通読して、西本願寺の対応に多くの紙幅が割かれ、神仏分離政策を挫折せしめた大きな力である仏教勢力の動きがよく理解できる。また上述のまとめでは触れなかったがキリスト教対応についても詳しい。キリスト教への対応が、神道国教化の大きな目的だったのである。一方、「国体神学」の生みの親である本居宣長や平田篤胤の思想については簡潔な記載しかなく、明治初年の神祇行政に巨大な影響力をもった津和野派の思想的はほぼ触れられていない。本書は国学思想についてあまり立ちっていないのが憾みの一つである。

しかしながら、込み入った動きを見せる明治の宗教行政史を非常にわかりやすくまとめており、しかも決して概略的な記載に留まらない深みを持っている。私は本書を数年前にも通読しているが、この分野の他の文献をいくつか読んで改めて本書に向かったとき、やはり本書はこの分野の基本文献となる重要な本であると確信したところである。

「国家神道」まで繋がる明治初年の宗教的激動を、わかりやすくしかも深く学べる名著。

【関連書籍】
『明治維新と国学者』阪本 是丸 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/02/blog-post_11.html
国学者が近代天皇制国家の創出に果たした役割と限界について考察する重厚な論文集。

2018年5月1日火曜日

『靖国神社』大江 志乃夫 著

靖国神社とは何か、丁寧に解き明かした本。

著者の大江志乃夫は、靖国神社や忠魂碑に関する訴訟において原告側の証人として意見陳述することになった。しかしとても半日足らずの尋問では回答できない難しい内容であるため、予め「意見書」を裁判所に提出し、法廷ではそれを補足するという形を取った。本書は、その際の「意見書」を元に、全面的に書き改めたものである。

この訴訟は、靖国神社や忠魂碑へ行政が公式に関与することが信教の自由や政教分離に反し違憲であるという訴えであった。よって彼は靖国神社が「国体」と一体不可分のもので、軍国主義と宗教とを結びつける施設であったことを緻密に論証していった。

第1章では、現在の靖国神社にまつわる問題が概観され、その成立史をまとめている。靖国神社は政教一致の戦前日本を象徴する存在であったため、戦後はその形を変えたものの、「私的な宗教法人」であることを盾にしてその性格は大きな変更なくして現在に至った。

第2章では、靖国神社を生みだした「国家神道」の成立が簡単にまとめられている。大日本帝国憲法において天皇が統治権を持つとされた唯一の根拠は「天壌無窮の皇統」にあるとされた。このことは、天皇の権威の源泉が(武力ではなく)宗教性であるために無制限の権力の拡大を招き、「国家神道」があらゆる宗教を超越し、全ての国民を統御する力を持つまでになった。

第3章では、靖国神社の成立史を、より多面的に分析している。靖国神社は陸海軍が管轄する軍事施設であったが、その思想的背景には古くからの御霊信仰があった。しかし元来の御霊信仰は現世に恨みを以て死んだ人を祀るというものであるが、靖国神社ではこれが忠臣を神として祀るというものへと転換された。これは新たに創出された信仰であるために、すぐには軍人においてすら受け入れがたかった。しかし天皇が靖国神社を伊勢神宮と並ぶ最高の宗教施設として遇したことや教育(祭祀の強制)等、大規模な顕彰の行事などにより、日露戦争後に戦前の靖国神社信仰が確立した。

第4章では、当初は軍の管轄ではなかったが、やがて在郷軍人会の関与の下で事実上の靖国神社の地方での分祀になっていく「忠魂碑」や「護国神社」についてまとめている。本章は、本書成立の直接の契機である訴訟に関するものであり、靖国問題を考える上でのケーススタディと捉えることができる。多くの地方で残されている「忠魂碑」や「護国神社」がその成立の事情から説き起こされ、非常に参考になった。

「おわりに」では、本書成立の事情が述べられるとともに、著者の強烈な問題意識「一身を天皇に捧げた戦死者の魂だけでもなぜ遺族のもとにかえしてやれないものか、なぜ死者の魂までも天皇の国家が独占しなければならないのか」が提起される。まさに靖国神社は、国家へ尽くすことのみを最高の徳行とし、本来悲劇であるはずの戦死が栄光に満ちた名誉であると転換させる宗教装置として働いた。それは、本来は私的領域に属する戦死者の魂の行方までも国家が管理することによって完成したのである。

著者が当事者として強烈な問題意識のもとに書き上げ、靖国神社成立の事情が豊富な一次資料によって明かされた名著。


2018年4月24日火曜日

『江戸の思想史—人物・方法・連環』田尻 祐一郎 著

江戸時代のさまざまな思想を紹介する本。

本書は大学の講義に基づいて書かれており、「宗教と国家」「太平の世と武士」「禅と儒教」といったテーマにそって江戸時代の思想・思想家を紹介していくというものである。

それぞれの思想の紹介はかなり簡潔で物足りなく感じる部分もある。例えば熊沢蕃山についてはたった2ページしか述べられていない。他も、伊藤仁斎と荻生徂徠がやや詳しく説かれる程度で、思想史とはいえほんのサワリだけを見ていく感じである。とは言っても、記載の密度は高く、原典からの引用も豊富であり、決して辞典風の要約ではなく、著者の思い入れが感じられる文章である。

全体として見ると、これだけ手軽に江戸時代の思想の流れを概観できる本は少ないので、初学者向け案内書として読むのに好適と思う。ただし、さらに深く知ろうと思った時のためのブックガイドや参考資料が掲げられていないのが残念である。

本書の「思想史」として不十分な点は、基本的に「思想家」の歴史が描かれていて、思想家以外の部分についてあまり述べられていないことである。例えば、本書では「寛政異学の禁」については全く述べられていないが、これは思想史上でも重要な事件であるので取り上げた方がよいと思ったし、主流派の朱子学者がどういった思想を持っていたのかということももう少し解きほぐして欲しかった。

また、町人の思想の伝達や彫琢に一役買った連歌・俳諧といったものも取り上げてもよかったかもしれない。それに近松門左衛門、井原西鶴といった文芸分野で活躍した人の思想が全く閑却されているのも少し一面的だと思った。要するに本書は江戸の思想史全体を射程に収めるものではなくて、政治思想史として見た方がいいと思う。

そういう視野の狭さも感じるものの、「政治思想史」としては非常に手際よくまとまっており、取っつきにくい江戸の思想家に親しむのにはちょうどよい本。

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2018年4月23日月曜日

『西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦』小川原 正道 著

西南戦争のコンパクトな伝記。

西南戦争について書かれた本は厖大にあるが、新書という形でコンパクトにまとめられることは少なく、本書は西南戦争の入門編として珍しい。

入門編であるだけに記載はわかりやすく、特に戦争に突入してからの説明は簡潔で要を得ている。

一方、類書に比べて記載が充実しているところは西南戦争と民権派の関係についてである。西南戦争は、全体として見れば不平士族の封建揺り戻し闘争であった。彼らは明治政府の急進的な改革を不満とし、その不満のはけ口として戦争が起こったのであるが、一方で明治政府の改革が民主的でないとして不満を抱くグループも政府に対峙していく機会を窺っており、西南戦争の蜂起は民権拡充の好機と捉えられた。

例えば中江兆民は、自身が西郷隆盛を擁したクーデターを構想したし、政府と鹿児島の対立を煽った『評論新聞』は、士族反乱を支持し政府の開化政策を批判する一方、言論の自由や地方民会・民撰議院の設立、立憲政体の樹立なども要求している。さらに熊本では民権党も薩軍に加わったが、その中に宮崎滔天の兄で「九州のルソー」と呼ばれた宮崎八郎もいた(彼は『評論新聞』の記者もしていた)。

薩軍は、全体として士族意識によった反革命的性格を持ちながら、そこに民権拡大、言論の自由など民主的な主張が奇妙に同居していた。西郷隆盛と共に政府の改革を目指した人々は、そのさまざまな主義主張を西南戦争に託したのである。

ところが肝心の西郷隆盛は、この戦争では黙して語らなかった。というよりも、語らせてもらえなかったというのが正しい。彼はまさに「玉」として扱われたように見える。蹶起の正統性は、実際には何もなかった。ただ、「西郷を擁している」ことそのものが正統性と考えられたため、戦争の現場へ関与すらさせられず、恰も人質のように扱われたのが西郷その人であった。そして西郷は、その役割を甘んじて受け入れたかのようだ。

本書の記載がさほど充実していない点は、私学校党の動向である。「私学校とは何か」ということは、戦争の主体であるのだからもう少し丁寧に書いてもよいと思う。特に、実質的な戦犯である篠原国幹、桐野利秋などについては戦争前の動向を丁寧に追うべきだ。別府晋介、淵辺群平、辺見十郎太については「反乱の本当の首謀者」(西郷従道)とまで言われるので、人物像まで知りたいところである。また、私学校が成立するにあたって大きな役割を果たした大山綱良(県令)についてはその動きが本書にはほとんど書いていないが、これはちょっと残念だった。

本書では、最後に「西郷星」など西郷伝説についても触れ、そうした伝説が生まれた背景を簡単に考察している。曰く「西郷は、明治国家が成長過程を歩むなかで切り捨て、廃除してきたさまざまな可能性と、まだ見ぬ未来の可能性とを象徴していた」(p235)とのことである。

西南戦争が持つ多様な側面を切り出しつつ、経過をわかりやすくまとめた好著。


2018年4月7日土曜日

『西郷隆盛紀行』橋川 文三 著

西郷隆盛を巡る思索と対話の記録。

橋川文三は西郷隆盛の評伝を書くように依頼された。しかし西郷をどう評価していいのか、そして既に汗牛充棟する西郷本がある中でどういう視角から描けばこれまで見過ごされてきた一面が表現出来るのか思案する。そしてそのヒントを見つけるため、様々な人と対話し、小文をまとめた。本書はそうして出来上がったものである。

本書で最も面白かったのは島尾敏雄氏との対談である。周知の通り西郷は二度遠島に処されている。一度目は大島に、二度目は(徳之島を経て)沖永良部島に。この島暮らしの中で西郷はどう変わったのか。

島尾によれば、一度目の島暮らしは西郷をさほど変えなかった。失意の中で荒れた生活をしていたし、大島での生活は、実際には服役ではなかったものの幽閉に等しい感覚だったという。だから島から呼び戻された時は当然喜んだ。

しかし沖永良部島での暮らしは違った。土持政照という地元の利発な青年と出会って慕われ、幽閉の形はとっていたが悠々と過ごすことが出来た。また絶海の孤島は、逆に恰も世界の中心にいるかのような感覚を催したのではないかという。そうして著者は、西郷は本土へ帰る気が失せたのではないか、と推測する。少なくとも、本土の方で繰り広げられている幕府と勤皇派の争い、そういうものが何か違うんじゃないか、そう思うようになったのではないか。ここで西郷の思想は他の志士たちとは違うものへと転化したのかもしれない。

本書の半分は、征韓論をどう考えるかということと、それに付随して西南戦争をどう評価するかという議論に当てられている。征韓論については、基本的に毛利敏彦『明治六年政変』(中公新書) の立場に賛成している。一方、西南戦争についてはこれといった見方は提出していない。封建主義の揺り戻しであり反革命と見るか、それとも明治維新の理想が現実には骨抜きになっていく中であくまで明治維新の革命を貫徹するための戦いと見るか、それすらも決められないという。

結局、西郷を評価することは、近代日本の歩みを評価することと等しい作業となる。あまりにも対象が大きく、つかみどころがない。著者は結局、病気(パーキンソン病)のためもあって、遂に西郷隆盛の評伝を書き上げることはなかった。本書は、この書かれなかった評伝のために準備した7、8年間の思索の記録である。

西郷の評価を考える上でヒントに溢れた小著。

【関連書籍】
『明治六年政変』毛利 敏彦 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/03/blog-post_21.html
いわゆる「征韓論」の虚構を暴き、その真相を究明する本。
明治六年の政界を実証的に解明した名著。


2018年4月6日金曜日

『本居宣長(上・下)』小林 秀雄 著

小林秀雄の語る本居宣長。

本書は、本居宣長の評伝ではない。宣長の仕事が時系列的・体系的に語られるわけでもないから、宣長を知らない人には読みにくい。本書は11年半にも及ぶ連載によるもので、著者自身がどこに着地すればよいやもわからないままに書き綴ったもののように思える。いうなれば、本書は「本居宣長研究ノート」とでもいうべきものだ。

この長大な作品において、著者が執拗に主張したこと、それを一言で言うなら、「宣長の研究は、古事記に書かれた荒唐無稽な神話をそのまま首肯するところが弱点だったと思われているが、これはむしろ宣長学の核心であり、弱点どころかこの態度こそが古典文学の読解に必要なものだったのである」とでもなるだろうか。

このような例が本書中に出されているわけではないが、話を簡単にするためにフランス文学に譬えて、この主張を少し解説してみよう。

フランス文学を真面目に研究しようとすれば、誰しもフランス語を習得する必要があると思うだろう。日本語への翻訳作品によっても、フランス文学の一端を捉えることはできるし、普通の人が楽しむ分には十分だ。しかしその機微、空気感といった微妙な芸術の襞を理解しようと思ったら、やはりフランス語を習得する意外にはなさそうだ。

その上、例えば18世紀のフランス文学を研究しようとすれば、18世紀の風俗や社会情勢、その当時の人々の心のありようがどんなだったか理解しなければ、本当に文学作品を理解したことにはならないだろう。当時の人が、どんな気持ちでその文学を読んだかということが自らの中に再現できて初めて、作者の意図や表現の価値が分かってくる。

こういったことが、『源氏物語』や『古事記』を読解する上でもいえるのである。『古事記』を本当の意味で読もうと思えば、『古事記』が生まれた社会のことを理解し、その言語を習得して読まなければならない。象徴的ないい方をすれば、『古事記』を「翻訳」せずに、『古事記』当時の人のこころになりきって読む必要がある。

ところがこの『古事記』当時の人のこころ、というのがくせ者である。この頃の言葉は、どこにも残っていないからだ。 『古事記』そのものは、当時の人の言葉ではない。これは変則的な漢文で書かれているが、当時の人が漢文でしゃべっていたわけはないからだ。よって、『古事記』として残された変則的な漢文から、まず『古事記』当時の肉声を再現するという作業をしなくては、そもそも『古事記』を「読む」ということすらできないのである。これが、宣長の『古事記伝』という決定的な『古事記』研究であった。

宣長は、言語というものは翻訳が不可能なものだ、と考えていたのではなかろうか。凡百の古典文学研究家が、古典に「何が」書かれているか理解しただけでそれを読解したと思ったのとは対蹠的に、宣長は「どう」書かれているかまで理解しない限り古典を読めたとは考えなかった。意味を摑むだけならば「何が」書かれているかだけで十分だ。だが言語の本質は意味のみにないと宣長は考えていたようだ。むしろ「書きざま」の方が重要であると彼は考えていた。そして「書きざま」を味わうには、当時の人のこころになりきるしかないというのだ。

しかし、もはや後代の人間には「当時の人のこころ」がどんなだったか分からない。なぜなら、日本語は「漢字」を受容したからだ。漢字のない日本語など、今になっては考えられない。そして受容したのは「漢字」だけではない。「漢字」を受容したことで、必然的に日本語には中国風の観念が導入されたはずだ。それを宣長は「漢(から)ごころ」と呼び、『古事記』を理解するためにはそれをどうしても排除しなければならないと考えた。

というのは、神話は漢字がないころから口伝えで生き残ってきたはずである。漢字を知らない人々によって語られてきたはずである。だから宣長は「漢ごころ」を棄て、古代人になりきって古典を読むという、知的な荒行ともいうべき読解を試みた。彼は実際に、古代人になりきったと信じた。

しかしこの読解方法には、決定的な弱点が内在していた。それは、「古代人になりきる」以上、古典に対する批判精神を失うことを意味していたのだ。現代の科学では、古典の文献を研究する場合には必ずテキスト・クリティークすなわち「史料批判」をする。史料自体の正当性や妥当性を批判検証することだ。文書というものは、現代においてすら現実の社会を丸のまま写したものではない以上、こうした作業を経なくては、古代の本当の姿は見えてこないのである。史料をそのまま事実だと信じれば、文辞によって飾った歴史しか理解し得ないだろう。

一方で、史料批判を行うことと、文学を理解することは別の次元の話である。例えば、「吾輩は猫である」という文章を味わうことは、その猫が実在したかどうかというようなこととは全く関係がない。「私は猫です」でも「拙者は猫でござります」でもなく、「吾輩は猫である」という表現をとっていることを味わうのが文学を理解するということの一端であって、これを"I am a cat."とだけ理解して、その猫の実在性について議論しているようでは、いつまでも文学を理解することはできまい。

そういうすれ違いが、上田秋成と本居宣長との間に、後に「日の神論争」と呼ばれる論争を引き起こした。秋成は神話がそのまま事実とは考えられないという常識的なことを述べ、宣長は神話は全てありのままの事実だと反駁にならない反駁をした。今日から見ると、筋の通った主張をする秋成に対して、滑稽なまでに狂信的な宣長と思われるのであるが、小林秀雄は、あくまで宣長を擁護するのである。

私が本書で理解できなかったところはそこである。著者も、この論争は議論の土台からすれ違っていて、いわば議論の体を成していないということは認めている。しかしそれでもあくまで宣長を擁護していて、秋成については文学に対する理解が浅いとでもいわんばかりの態度である。だが議論がすれ違っている以上、宣長を擁護するにしても秋成の「史料批判」も首肯することはできたはずである。いやむしろ、宣長の研究態度は言語の本質にまで通暁した徹底的なものであると称揚するにしても、やはり神話をそのまま事実と認めることは科学的ではなかった、と批判すべきだったように思う。

宣長の態度は科学的なものではなかったが、彼の文学上・言語学上の業績は失われるものではないし、実際に宣長の古事記訓は、記紀神話が事実として認められなくなった今でも通用している。であるから、著者が執拗といえるほどに宣長を擁護する、その気持ちが私にはよく分からなかった。ただ、作品と同一化してしまうほどに言葉の世界に没入した宣長を見習って、小林秀雄も、『古事記伝』と同一化しようのであろう。一切の批判を棄てて、その作品を味読することによって作品の真価を体得しようとしたのだ。

本書は、長大で引用も多く、論旨は不明確であって、表現が文飾に流れがちであり、決して端正な評論とは言い難い。重複や繰り返しも多く、著者自身が何をいおうとしているのかよく分かっていないような箇所もある。一方で、言語や文学作品といったものに対して真摯な思索が繰り広げられており、その重複や論旨の不明確といったことは、言語という捉えがたいものをどうにか捉えようとしている苦闘の跡のように見える。

かなり難解であるが、宣長の言語に向かう研究態度について徹底的に思索し尽くした労作。