現在の伊勢神宮がどうやって形作られたのかを説明する本。
伊勢神宮というと、天皇家の神話的祖先である天照大神を祀る天皇の神社であり、国家的性格を持つ神社でもある。しかしこうした伊勢神宮の在り方は、伝統的なものとは全く違う。これは明治維新後につくられたものだ。例えば、明治になるまで天皇は伊勢神宮を参拝したことがなかった。
江戸時代において、天皇と伊勢神宮が全く関係なかったかというとそうではない。遷宮の諸儀礼の日取りの宣下、幣史の派遣など、特別な関係にあったことは間違いない。しかし天皇家の宗廟として祀られていたわけではなかった。庶民のレベルにおいても、天照大神を祀る内宮(ないくう)はさほど注目されず、豊受大神を祀る外宮(げくう)の方が参拝客がずっと多かった。
これが劇的に変貌を遂げるのが明治になってからである。明治維新は、王政復古、すなわち天皇が治めていた古代王朝のリバイバルを己のレジティマシー(正統性)の旗印にした。このため、神社政策は国家統一の重要な1ピースであった。徐々に改められて政策自体は世俗的になっていくものの、最初は「神祇官」が置かれ文字通り祭政一致の体制が取られたほどだった。
こうした趨勢の下、伊勢神宮は国家的神社としてまるきり作りかえられる。まず天皇との特別な関係が樹立され、天皇が参拝する神社となった。それを主導したのは、岩倉具視や木戸孝允、そして神社政策を委託されていた津和野藩の亀井茲監(これみ)と福羽美静(ふくば・びせい)らだそうである。そして、自治的・世襲的に運営されていた伊勢神宮は国家の管理化に置かれ、人事が国家政策となり、「浄化」されていった。
具体的には、まず廃仏毀釈が行われ、伊勢から仏教勢力が一掃された。そして神宮大麻(お札)の頒布を担っていた御師(おんし)と呼ばれる世襲職をはじめ神宮の世襲役職が全て廃止され、宮司も中央からの任命になり、祭主も皇族が務めるようになった。また伊勢の街自体が「神都」として作りかえられ、猥雑な妓楼街は主要道路から遠ざけられ、自然消滅させられていった。さらに、天皇との特別な関係の樹立のために、今に続く数々の儀礼が定められ(『神宮明治祭式』)、新しい神道理論も確立していった。この際に26の明治以前の儀礼が廃止され、新しい儀礼が21も取り入れられたという。伊勢神宮は、こうして明治以前のそれとは全く違う神社になっていったのだ。なお、こうした改革を主導したのは、内宮の神職だった浦田長民(ちょうみん)という人物である。
しかしこうした改革は、伊勢神宮がこれまで数百年に渡って培ってきた地域社会や全国の信者との関係性にも大きく変更を迫るものでもあった。交通の改善や伊勢の観光地化、旅館による広報といった数々の策が打たれたが、こうした改革のために参拝者は明治以前よりもむしろ減少してしまった。つまり神宮には矢継ぎ早の改革が行われたが、伊勢という街を見た時には明治初期は停滞の時期であった。
1929年の式年遷宮がこうした停滞を打ち破る画期となる。式年遷宮の当日に、総理大臣はじめ多くの国務大臣など国家の要人だけでなく、軍までも参加した。そして遷宮当日は休日に指定され、文部省は全国の小学校に奉賀式を執り行うよう指示した。文字通り国家儀礼として式年遷宮を行ったのである。こうなるとメディアでも伊勢神宮が多く取り上げられるようになり、国民の間に国家の神社としての認識が浸透してくる。また、小学校では「一生に一度は神宮に参拝した方がいい」と教えられはじめ、遂には「参拝しなくてはならない」に変更された。これを受けて修学旅行での伊勢神宮参拝が広まり、参拝客はどんどん増加していった。特に1935年の「国体明徴声明」(天皇を立憲君主ではなく時空を超越した聖なる君主として位置づける声明)以後はこれに拍車がかかった。開戦により伊勢神宮自体の整備は停滞したが、1941年の参拝客は年間400万人に達し、また神宮大麻の頒布数も1945年には当時の世帯数とほぼ同じ1400万体にも登っている。ただしこの頃、参拝客はまだ内宮ではなく外宮を中心に参拝していた。
戦後、「国家神道」の中心であった伊勢神宮はGHQにより存続の危機に立たされた。天皇の宗廟として細々と存続するのか、それとも単なる神社となるかを迫られた。伊勢神宮側は、当初は天皇の宗廟となる意向であったが、それだと予算的にも限られ宗教活動も制限されるということで、私的宗教法人となる道を選んだ。
しかし伊勢神宮は、単なる神社にはならなかった。GHQの目が光っているうちは表立った活動は控えていたが、徐々に天皇家との特別な関係も復活させていった。さらに、国家的な神社としての性格も獲得していった。本書の用語ではそれを「脱宗教法人化」という。その象徴となったのが1959年の正月、岸信介が総理大臣として参拝した時であった。戦後にも私的に参拝した総理はいた(鳩山一郎、石橋湛山)。しかし岸は、非公式参拝としていたにもかかわらず、随行者60人以上を連ねて明らかに公的行事として参拝を行ったのである。これに続き、池田勇人は神宮にある「八咫(やた)の鏡」が神話に基づくものであり、公的なものであるという答弁書を決定した。こうして、戦後日本でも神話が公認されて、天皇の神的性格は確認されたのである。天照大神は、国家に公認された神になった。
こうして、交通(バイパス)整備という事情もあって、戦後にはついに内宮への参拝者が外宮へのそれを上回るようになった。一度「単なる神社」になりかけた伊勢神宮は、また戦前と同じように国家と皇室の神社として国民に認識されるようになった。2013年、安倍総理大臣は戦後の首相として初めて式年遷宮に参列した。伊勢の式年遷宮は、またしても国家儀礼になりかけている。
伊勢神宮というと、古代より続く伝統の牙城のように思われている。しかしそれは事実とは全く異なる。むしろ国家が民衆支配の道具として創り出した伝統の方が多い。ただし、伊勢神宮は国家に翻弄された存在というわけでもない。積極的に国家と関わり、自らの権威を高めるように働きかけたのも伊勢神宮だった。
本書を読む上での私の興味は、なぜ伊勢神宮だけがこのような特別な存在になれたのかということだった。靖国神社や明治神宮ならば、最初から国家が創ったものだから分かる。しかし伊勢神宮は、最初から国家の神社だったわけではないし、そうならない道もあったように思われる。だが伊勢神宮は国家の神社となった。なぜなのだろうか。その答えは本書にはない。ただ、それは明治政府の誰か偉い人が決めたというより、地元伊勢の人を含めて多くの人の思惑が絡み合っていることだけは確かだ。
その大勢の中の一人に、薩摩出身の田中頼庸(よりつね)という人がいる。田中は明治時代に神宮の大宮司となり、浦田長民と対立しながらも神宮の改革を手がけた上、神社の宗教活動が禁止されると(神道は宗教でないということになり政教分離に抵触しないとされた)神宮を飛び出して「神宮教」という宗教を立ち上げて神宮大麻の配布などを行った異色の人物である。本書は田中の事績を辿るものではないからその全貌はわからなかったが、この人物もより掘り下げて知りたいと思った。
近代に成立した国家の神社としての伊勢神宮の姿に迫る、コンパクトながら内容の濃い歴史書。
2017年2月15日水曜日
2017年2月12日日曜日
『東シナ海文化圏の民俗—地域研究から比較民俗学へ』下野敏見 著
東シナ海に共通してはいるが様々な地域的変異がある民俗を取り上げ、その伝播や起源を考える論文集。
著者は鹿児島を代表する民俗学者の下野敏見氏。本書は、著者が『隼人文化』と『鹿児島民俗』に提出した論文を中心に、「東シナ海文化圏」にまつわる論文をまとめたもので、「第一章で身近な地域からだんだんひろがった地域の比較をなし、第二章でさらにひろげて近隣の国の資料もとり入れ、第三章では隣国の現地にどっぷりつかって調べあげた資料をもとに、日本の民族を省みて比較するという構成」(あとがきより)である。
個人的に興味を持って読んだのは、「鬼火焚き・門松の意味するもの」(第1章第1節)、「南日本の石神信仰—立神と陰陽石と三ツ石」(第1章第3節)、「南からみたハレ・ケガレ論—エビスと水死体」(第2章第2節)、「十五夜綱引の源流—門ノ浦のヨコビキに寄せて」(第2章第3節)の4編。
著者はこうした材料で「東シナ海文化圏」を構想する。そもそも、民俗学は比較の学である。民俗文化はただその地域の伝統を見ているだけでは見えてこない。隣村とはどう違いがあるか、また隣の地域とはどう違うか、そして隣の国とはどう違うのか、ということを次第に視野を広げてみることで、その民俗伝承の持つ意味が明確になってくる。例えば、綱引き一つとっても、小正月に綱引きをする地域と十五夜に綱引きをする地域がある。だからそれらがどう分布しているかを調べれば、伝達の経路や時期が分かったり、その伝統がどこで生まれたかが分かってくる。
いろいろな民俗現象で著者はそれを考え、文化伝播について調べていく。日本の文化伝播は基本的には畿内を中心とした同心円状になっており、畿内で生まれた文化が次第に広がっていったものが多い。となると、南九州などは日本の端っこなわけだから、最も後進的な地域となってしまう。だが、さらに視野を広げてみれば、違った文化伝播の同心円が見えてくる。それが下の図である(序章より)。
これを見ると、南西諸島、台湾、中国南部沿岸、朝鮮半島南部、そして九州が同じ同心円の中に収まっている。つまり文化は決して畿内中心ばかりではなく、いわば海を中心とした文化伝播も起こっていたわけだ。この、海を中心とした文化伝播によって形作られた地域が「東シナ海文化圏」である。
とはいえ、この図で言われていることがどれほど妥当なのかは、本書だけでは判断することができない。もう少し材料が必要だし、衣食住全般にわたった比較が必要になるだろう。ただし、本書に取り上げられた民俗についていえば、かなりの程度こうした文化圏の存在は肯定できる。
書き下ろしではないので論文ごとの粗密はあるが、郷土研究から出発しより広い視野に誘ってくれる好著。
著者は鹿児島を代表する民俗学者の下野敏見氏。本書は、著者が『隼人文化』と『鹿児島民俗』に提出した論文を中心に、「東シナ海文化圏」にまつわる論文をまとめたもので、「第一章で身近な地域からだんだんひろがった地域の比較をなし、第二章でさらにひろげて近隣の国の資料もとり入れ、第三章では隣国の現地にどっぷりつかって調べあげた資料をもとに、日本の民族を省みて比較するという構成」(あとがきより)である。
個人的に興味を持って読んだのは、「鬼火焚き・門松の意味するもの」(第1章第1節)、「南日本の石神信仰—立神と陰陽石と三ツ石」(第1章第3節)、「南からみたハレ・ケガレ論—エビスと水死体」(第2章第2節)、「十五夜綱引の源流—門ノ浦のヨコビキに寄せて」(第2章第3節)の4編。
著者はこうした材料で「東シナ海文化圏」を構想する。そもそも、民俗学は比較の学である。民俗文化はただその地域の伝統を見ているだけでは見えてこない。隣村とはどう違いがあるか、また隣の地域とはどう違うか、そして隣の国とはどう違うのか、ということを次第に視野を広げてみることで、その民俗伝承の持つ意味が明確になってくる。例えば、綱引き一つとっても、小正月に綱引きをする地域と十五夜に綱引きをする地域がある。だからそれらがどう分布しているかを調べれば、伝達の経路や時期が分かったり、その伝統がどこで生まれたかが分かってくる。
いろいろな民俗現象で著者はそれを考え、文化伝播について調べていく。日本の文化伝播は基本的には畿内を中心とした同心円状になっており、畿内で生まれた文化が次第に広がっていったものが多い。となると、南九州などは日本の端っこなわけだから、最も後進的な地域となってしまう。だが、さらに視野を広げてみれば、違った文化伝播の同心円が見えてくる。それが下の図である(序章より)。
これを見ると、南西諸島、台湾、中国南部沿岸、朝鮮半島南部、そして九州が同じ同心円の中に収まっている。つまり文化は決して畿内中心ばかりではなく、いわば海を中心とした文化伝播も起こっていたわけだ。この、海を中心とした文化伝播によって形作られた地域が「東シナ海文化圏」である。
とはいえ、この図で言われていることがどれほど妥当なのかは、本書だけでは判断することができない。もう少し材料が必要だし、衣食住全般にわたった比較が必要になるだろう。ただし、本書に取り上げられた民俗についていえば、かなりの程度こうした文化圏の存在は肯定できる。
書き下ろしではないので論文ごとの粗密はあるが、郷土研究から出発しより広い視野に誘ってくれる好著。
2017年1月30日月曜日
『バナナと日本人―フィリピン農園と食卓のあいだ』鶴見 良行 著
日本人のバナナ需要に応えるため、フィリピンのバナナ・プランテーションがいかにして成立し、またそこで労働者がいかに苦しんでいるかを告発した本。
フィリピンのバナナ産業は、国際資本4社に完全に支配されている。すなわち、デルモンテ、キャッスル&クック(ドール)、ユナイテッド・ブランズ(チキータ)、住友商事(バナンボ)の4社である(括弧内はブランド名)。住友を除く3社は米国資本であり、この3社でバナナの作付面積のほぼ8割を支配している。フィリピンのバナナ産業は、フィリピンが作ったものというよりは、米国資本が作ったものだ。しかしその背景には、日本人にも大きな関わりがある。
フィリピンのバナナ産業の原型は、戦前日本人が作った「ダバオ麻農園」まで遡る。フィリピンには戦前多くの日本人が入植して「アバカ麻」という植物を育てる農園を経営していた。アバカ麻とは、麻と名はついているがバナナと似た植物で、水に強いことから船に使うロープなどの原料となった。戦争のため海軍がどんどん増強されていった時代であり、アバカ麻は飛ぶように売れた。日本人たちは半ばイカサマのような方法でフィリピンの土着の人から土地を奪って開墾を進め、アバカ農園をミンダナオ島のダバオというところに作ったのである。
日本の敗戦でこの農園は雲散霧消してしまうが、これが戦後のバナナ農園の原型を準備した。
日本が戦争の痛手を克服し高度経済成長期を迎えると、日本のバナナ需要が急激に高まってきた。60年代の話である。1950年には6600トンだったバナナの輸入は、ピークの1972年には106万2900トンになり、実に160倍もの伸びを見せている。バナナはいくらでも売れる商品だった。これに目をつけたのが米国資本の商社である。
フィリピンは米国にとって植民地だったから、強力な権益を持っていた。日本も米国にとって戦後そうした位置づけにあったとも言えるが、米国がフィリピンに対して行ったこと日本に対するそれは随分違う。例えば、日本では農地解放(地主層の解体)をやったがフィリピンではやらなかった。地主の問題は同様に存在していたのにだ。
むしろ、米国商社はフィリピンの地主層と結託して大規模農園を作った。もともと、米国はスペイン統治時代にできた大地主制のプランテーションでフィリピン人が苦しんでいることを知っていたから、1903年には公有地法を定めて法人・個人の土地所有をそれぞれ1024ha、24haに制限していた。しかし米国資本商社にとってはこの制限は障害となる。この法の制限を、あの手この手でかいくぐってバナナ・プランテーションが発達していく。
例えばデルモンテが使った方法は奇抜なものだ。デルモンテは米国海軍に働きかけて、バナナ農園適地の高原を海軍基地(!)として指定させた。そして海軍からその土地を借りるという手段で8000haもの農園を手に入れるのである。1934年にフィリピンが独立するとその土地はフィリピンに返還されたが、デルモンテは超法規的な国有企業の「国立開発公社」をフィリピンに設立させ、今度はその公社から土地を借りるという形をとった。この8000haもの土地に対し、1937年から1956年までの18年間に同社が払った地代はわずか4100ドルである。詐欺的な手段によって、米国資本の商社はフィリピン人から土地を奪っていったのである。
そして土地を奪われたフィリピンの人びとには、バナナ農園で働くという選択しか残っていなかった。
形式的には、契約栽培など地場の農園が自主的に商社と取引するという形が取られたが、実質的にはフィリピンの農民に選択肢はなかった。作付計画から農薬散布、出荷検品にいたるまで、全て商社のいいなりだったからだ。生産性を向上させて、所得を上げようということすら難しかった。なぜなら、形の上ではバナナは全量買取りだったが、商社は相場を調整するために、検品の厳しさを自由自在に変えて買取量を上下させていたからだ。酷いときには、集荷されたバナナの半分が廃棄された。これでは頑張って収量を上げても意味がなかった。
そもそも、バナナ栽培は農民に全く利益が出ないように作られていた。栽培指導、農薬代、生産資材代、手数料…としてバナナの売り上げはどんどん天引きされ、手元に残るのは売り上げの1割ほどしかなかった。当然そんな薄利では生活できようはずもない。農民は、商社の下請けから借金をして生活をせざるを得なかった。こうなると、返すアテのない借金のために、商社の農奴になるのと同じことだった。農民に出来るのは、夜逃げくらいしかなかったが、そうしたとしても、港湾のスラムでのバナナ積み込みの荷役が待っていた。バナナ農園で働くよりももっと厳しい仕事である。
フィリピンのバナナ産業は、まさに「生かさず殺さず」のシステムである。儲けるのは、商社だけになるように巧妙に設計され、そのシステムから逃げることもできないように仕組まれていた。それというのも全ては、日本人のバナナの需要があったからのことだ。
日本のバナナ輸入の業者は、急激に伸びるバナナ需要を前にして、商社に強気の契約を持ちかけた。前もって定めた価格で、全量買い取るという契約である。バナナはいくらでも売れる、と思っていたのだ。だが実際は、日本人がバナナばかりを際限なく食べ続けるなんてことはあるわけがなかった。1972年をピークに消費は漸減していく。それでも全量買取の縛りがあったので日本の輸入業者はバナナを商社のいいなりに輸入せざるを得ない。バナナは「3年に1度当たればいい」というバクチ的商品になっていた。
しかし、結局日本の輸入業者はバナナのバクチには負けてしまう。このバナナ貿易は巨額の赤字を計上して契約を終えた(以後、買取制ではなく入札制に変わる)。ここでも儲けたのは、国際資本の商社だけだったのである。
そしてフィリピンのバナナ産業には、あくどい仕掛けもあった。バナナには、先進国では使用が禁止されているような毒性の強い農薬が大量に使われていたのだ。米国企業は、自国では販売が禁止されている農薬をフィリピンに輸出して使わせていたのである。先進国では厳しい環境基準を守っているように見せかけながら、「植民地」では現地の人の健康被害にも、環境汚染にも全く気にも留めなかった。このために、バナナ農園には体を壊した人がたくさんいるらしい。
こうして、日本人のバナナ需要をアテにしてつくられたフィリピンのバナナ産業は、フィリピンの人びとと環境を搾取し、自生的な成長の機会を奪ってしまった。貧しい人がもっと貧しく、富める人がもっと富むメカニズムが固定化され、フィリピンの農民はどんどん没落していった。自給自足的でのどかな世界に生きていた土着の人びとは、いきなり生き馬の目を抜く国際競争の世界に投げ出され、なすすべなく溺れていったのである。
この悲惨な自体に対し、我々日本人は全くの無罪ではありえない。何しろ、安いバナナを輸入しているのは、他ならぬ我々だからである。一番悪いのは商社なのは間違いないが、我々には、少なくとも道義的責任があるだろう。すなわち、もう少しマシなやり方はできないのか? と問いかける責任はある、と私は思う。
綿密な調査から、国際資本の商社がいかにしてフィリピン人を合法的に搾取する体制を作ったかを克明に記録した名著。
★Amazonページ
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フィリピンのバナナ産業は、国際資本4社に完全に支配されている。すなわち、デルモンテ、キャッスル&クック(ドール)、ユナイテッド・ブランズ(チキータ)、住友商事(バナンボ)の4社である(括弧内はブランド名)。住友を除く3社は米国資本であり、この3社でバナナの作付面積のほぼ8割を支配している。フィリピンのバナナ産業は、フィリピンが作ったものというよりは、米国資本が作ったものだ。しかしその背景には、日本人にも大きな関わりがある。
フィリピンのバナナ産業の原型は、戦前日本人が作った「ダバオ麻農園」まで遡る。フィリピンには戦前多くの日本人が入植して「アバカ麻」という植物を育てる農園を経営していた。アバカ麻とは、麻と名はついているがバナナと似た植物で、水に強いことから船に使うロープなどの原料となった。戦争のため海軍がどんどん増強されていった時代であり、アバカ麻は飛ぶように売れた。日本人たちは半ばイカサマのような方法でフィリピンの土着の人から土地を奪って開墾を進め、アバカ農園をミンダナオ島のダバオというところに作ったのである。
日本の敗戦でこの農園は雲散霧消してしまうが、これが戦後のバナナ農園の原型を準備した。
日本が戦争の痛手を克服し高度経済成長期を迎えると、日本のバナナ需要が急激に高まってきた。60年代の話である。1950年には6600トンだったバナナの輸入は、ピークの1972年には106万2900トンになり、実に160倍もの伸びを見せている。バナナはいくらでも売れる商品だった。これに目をつけたのが米国資本の商社である。
フィリピンは米国にとって植民地だったから、強力な権益を持っていた。日本も米国にとって戦後そうした位置づけにあったとも言えるが、米国がフィリピンに対して行ったこと日本に対するそれは随分違う。例えば、日本では農地解放(地主層の解体)をやったがフィリピンではやらなかった。地主の問題は同様に存在していたのにだ。
むしろ、米国商社はフィリピンの地主層と結託して大規模農園を作った。もともと、米国はスペイン統治時代にできた大地主制のプランテーションでフィリピン人が苦しんでいることを知っていたから、1903年には公有地法を定めて法人・個人の土地所有をそれぞれ1024ha、24haに制限していた。しかし米国資本商社にとってはこの制限は障害となる。この法の制限を、あの手この手でかいくぐってバナナ・プランテーションが発達していく。
例えばデルモンテが使った方法は奇抜なものだ。デルモンテは米国海軍に働きかけて、バナナ農園適地の高原を海軍基地(!)として指定させた。そして海軍からその土地を借りるという手段で8000haもの農園を手に入れるのである。1934年にフィリピンが独立するとその土地はフィリピンに返還されたが、デルモンテは超法規的な国有企業の「国立開発公社」をフィリピンに設立させ、今度はその公社から土地を借りるという形をとった。この8000haもの土地に対し、1937年から1956年までの18年間に同社が払った地代はわずか4100ドルである。詐欺的な手段によって、米国資本の商社はフィリピン人から土地を奪っていったのである。
そして土地を奪われたフィリピンの人びとには、バナナ農園で働くという選択しか残っていなかった。
形式的には、契約栽培など地場の農園が自主的に商社と取引するという形が取られたが、実質的にはフィリピンの農民に選択肢はなかった。作付計画から農薬散布、出荷検品にいたるまで、全て商社のいいなりだったからだ。生産性を向上させて、所得を上げようということすら難しかった。なぜなら、形の上ではバナナは全量買取りだったが、商社は相場を調整するために、検品の厳しさを自由自在に変えて買取量を上下させていたからだ。酷いときには、集荷されたバナナの半分が廃棄された。これでは頑張って収量を上げても意味がなかった。
そもそも、バナナ栽培は農民に全く利益が出ないように作られていた。栽培指導、農薬代、生産資材代、手数料…としてバナナの売り上げはどんどん天引きされ、手元に残るのは売り上げの1割ほどしかなかった。当然そんな薄利では生活できようはずもない。農民は、商社の下請けから借金をして生活をせざるを得なかった。こうなると、返すアテのない借金のために、商社の農奴になるのと同じことだった。農民に出来るのは、夜逃げくらいしかなかったが、そうしたとしても、港湾のスラムでのバナナ積み込みの荷役が待っていた。バナナ農園で働くよりももっと厳しい仕事である。
フィリピンのバナナ産業は、まさに「生かさず殺さず」のシステムである。儲けるのは、商社だけになるように巧妙に設計され、そのシステムから逃げることもできないように仕組まれていた。それというのも全ては、日本人のバナナの需要があったからのことだ。
日本のバナナ輸入の業者は、急激に伸びるバナナ需要を前にして、商社に強気の契約を持ちかけた。前もって定めた価格で、全量買い取るという契約である。バナナはいくらでも売れる、と思っていたのだ。だが実際は、日本人がバナナばかりを際限なく食べ続けるなんてことはあるわけがなかった。1972年をピークに消費は漸減していく。それでも全量買取の縛りがあったので日本の輸入業者はバナナを商社のいいなりに輸入せざるを得ない。バナナは「3年に1度当たればいい」というバクチ的商品になっていた。
しかし、結局日本の輸入業者はバナナのバクチには負けてしまう。このバナナ貿易は巨額の赤字を計上して契約を終えた(以後、買取制ではなく入札制に変わる)。ここでも儲けたのは、国際資本の商社だけだったのである。
そしてフィリピンのバナナ産業には、あくどい仕掛けもあった。バナナには、先進国では使用が禁止されているような毒性の強い農薬が大量に使われていたのだ。米国企業は、自国では販売が禁止されている農薬をフィリピンに輸出して使わせていたのである。先進国では厳しい環境基準を守っているように見せかけながら、「植民地」では現地の人の健康被害にも、環境汚染にも全く気にも留めなかった。このために、バナナ農園には体を壊した人がたくさんいるらしい。
こうして、日本人のバナナ需要をアテにしてつくられたフィリピンのバナナ産業は、フィリピンの人びとと環境を搾取し、自生的な成長の機会を奪ってしまった。貧しい人がもっと貧しく、富める人がもっと富むメカニズムが固定化され、フィリピンの農民はどんどん没落していった。自給自足的でのどかな世界に生きていた土着の人びとは、いきなり生き馬の目を抜く国際競争の世界に投げ出され、なすすべなく溺れていったのである。
この悲惨な自体に対し、我々日本人は全くの無罪ではありえない。何しろ、安いバナナを輸入しているのは、他ならぬ我々だからである。一番悪いのは商社なのは間違いないが、我々には、少なくとも道義的責任があるだろう。すなわち、もう少しマシなやり方はできないのか? と問いかける責任はある、と私は思う。
綿密な調査から、国際資本の商社がいかにしてフィリピン人を合法的に搾取する体制を作ったかを克明に記録した名著。
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2017年1月20日金曜日
『食事の文明論』石毛直道 著
世界各国の食事の在り方が、近代文明の影響によってどのように変容してきたかを語る本。
著者は文化人類学者の石毛直道。「鉄の胃袋」の異名を持ち、世界各国でフィールドワークして様々な土着の料理を食べてきた人物だ。彼がたくさんの食卓を見るうちに沸き上がってきた「人類の食事の文明はどういう志向性を持つのか」という疑問。本書は、それを学問的というよりもエッセイ風に思索していったものである。
人類の食事を考える際に、最も基本となる単位は「家族」である。というよりも、食事を分け与える最小単位として「家族」というものが成立したのだろう。家族がそのメンバーにどう食物を分配するか(時間的な意味でも。例えば一日3食にするか2食にするか)、そしてそれを取り巻く社会がどう家族ごとに分配するかというのがまず問題になる。それには、宗教や文化や労働の在り方、社会システムなどが影響する。
例えば、一日3食が普及したのはなぜか、という問題。前近代の社会はもともと一日2食が普通だった。それなのに日本でも欧州でも、同じような時期に一日3食の習慣が広まっているのはどうしてか。一般的には、灯火の普及で夜の生活が長くなり3食に分けて食べないと体が持たなかったからと言われているが、著者は近代社会では長時間うんと働かなくてはならなくなったのが最大の原因ではないかと考える。
さらに日本で朝に飯炊きをするという習慣も会社労働や学校などの普及によって導入されたものだ。会社や学校は、昼に帰宅が難しい場合があり弁当を持って行かなくてはならない。よって弁当をつくるために朝に飯炊きをする必要が生じたのだという。
このように、伝統的な食事の在り方は近代文明の波を受けて劇的に変わってきている。その変化はどこへ向かっているのか。それは著者自身にもまだ茫洋としているようだ。しかし社会が豊かになって食物が豊富になり分配のややこしい手続きが省略されるといった傾向はある。そしてそのことは、食事の分配機能の最小単位である家族の在り方にまで影響を及ぼしつつある。
一昔前では、一人で生活してちゃんと3食食べることは不可能に近かったが、電化製品や加工食品の普及で、今ではそんなことは全く難しいことではない。毎日の食事を用意するために「家族」があるのではなく、むしろ共に食事することが「家族」を維持する役目を担うようになってきた。こうなると、「機能集団としての意味が弱くなった家庭生活の運営というものは、大人も参加したママゴト遊びのようなもの」になったのである。
要するに、食事から見れば、我々の文明にはもはや「家族」は不要なのだ。しかしこれはいっときの栄華のなせることなのかもしれない。「ふたたび食物の獲得と分配をめぐって家族が機能する時代がやってくる可能性もある。(中略)そのときまで、フィクションとしてでも家族を存続させるために、われわれはつかの間のママゴト遊びを演じているのかもしれない。」
食事を通じて、姿が見えない社会の基底まで考えさせる好著。
著者は文化人類学者の石毛直道。「鉄の胃袋」の異名を持ち、世界各国でフィールドワークして様々な土着の料理を食べてきた人物だ。彼がたくさんの食卓を見るうちに沸き上がってきた「人類の食事の文明はどういう志向性を持つのか」という疑問。本書は、それを学問的というよりもエッセイ風に思索していったものである。
人類の食事を考える際に、最も基本となる単位は「家族」である。というよりも、食事を分け与える最小単位として「家族」というものが成立したのだろう。家族がそのメンバーにどう食物を分配するか(時間的な意味でも。例えば一日3食にするか2食にするか)、そしてそれを取り巻く社会がどう家族ごとに分配するかというのがまず問題になる。それには、宗教や文化や労働の在り方、社会システムなどが影響する。
例えば、一日3食が普及したのはなぜか、という問題。前近代の社会はもともと一日2食が普通だった。それなのに日本でも欧州でも、同じような時期に一日3食の習慣が広まっているのはどうしてか。一般的には、灯火の普及で夜の生活が長くなり3食に分けて食べないと体が持たなかったからと言われているが、著者は近代社会では長時間うんと働かなくてはならなくなったのが最大の原因ではないかと考える。
さらに日本で朝に飯炊きをするという習慣も会社労働や学校などの普及によって導入されたものだ。会社や学校は、昼に帰宅が難しい場合があり弁当を持って行かなくてはならない。よって弁当をつくるために朝に飯炊きをする必要が生じたのだという。
このように、伝統的な食事の在り方は近代文明の波を受けて劇的に変わってきている。その変化はどこへ向かっているのか。それは著者自身にもまだ茫洋としているようだ。しかし社会が豊かになって食物が豊富になり分配のややこしい手続きが省略されるといった傾向はある。そしてそのことは、食事の分配機能の最小単位である家族の在り方にまで影響を及ぼしつつある。
一昔前では、一人で生活してちゃんと3食食べることは不可能に近かったが、電化製品や加工食品の普及で、今ではそんなことは全く難しいことではない。毎日の食事を用意するために「家族」があるのではなく、むしろ共に食事することが「家族」を維持する役目を担うようになってきた。こうなると、「機能集団としての意味が弱くなった家庭生活の運営というものは、大人も参加したママゴト遊びのようなもの」になったのである。
要するに、食事から見れば、我々の文明にはもはや「家族」は不要なのだ。しかしこれはいっときの栄華のなせることなのかもしれない。「ふたたび食物の獲得と分配をめぐって家族が機能する時代がやってくる可能性もある。(中略)そのときまで、フィクションとしてでも家族を存続させるために、われわれはつかの間のママゴト遊びを演じているのかもしれない。」
食事を通じて、姿が見えない社会の基底まで考えさせる好著。
2016年12月31日土曜日
『鹿児島県の歴史 <県史シリーズ (46)>』原口 虎雄 著
鹿児島県の歴史を簡潔にまとめる本。
著者の原口虎雄氏の専門は日本近代史、特に鹿児島の近代史に詳しい。本書執筆の時点で、鹿児島を代表する歴史家だったと思う。
本書は、古代から現代までの鹿児島県(旧日向国=宮崎県の一部を含む)の歴史を編年的に記述し、年表や各種データなどかなり多くの参考資料を巻末に備えたものである。
古代については、教科書的なものでわかりやすく、また薩摩国の特色が理解できるもので、こうした概説としてはよく出来ていると思う。
中世については、かなり分かりづらい。戦国時代の三国(薩摩・大隅・日向)の群雄割拠の様子は相当に複雑であるから、分かりづらいのもしょうがないかもしれないが、それにしても年表をそのままなぞりながら書いているような調子であり、ポイントが不明確で頭の中がこんがらがった。この部分については通説をコンパクトにまとめることが腐心されたような形跡があるが、思い切って簡略化するか、逆に著者なりの見方で語ってもよかったのではないかと思う。
著者の専門である近世、特に幕末に関しては、ちょっと簡潔すぎる。著者自身が「あとがき」で「近世から維新のあたりを精細に書き、それ以前を簡略にすればよかったと思う」と書いている。とはいえ、鹿児島の維新の歴史は中央政権への影響は甚大であるが、実は鹿児島県の現代にさほどの影響を与えていないわけだから、本書の方針は理解できるものだと思う。だが中央からの維新の歴史では語られない、鹿児島にとっての明治維新がもっと克明に描かれていたら、もっと面白い歴史書になっていただろう。
近世についてはちょっと物足りないが、気軽に読める鹿児島県の通史。
著者の原口虎雄氏の専門は日本近代史、特に鹿児島の近代史に詳しい。本書執筆の時点で、鹿児島を代表する歴史家だったと思う。
本書は、古代から現代までの鹿児島県(旧日向国=宮崎県の一部を含む)の歴史を編年的に記述し、年表や各種データなどかなり多くの参考資料を巻末に備えたものである。
古代については、教科書的なものでわかりやすく、また薩摩国の特色が理解できるもので、こうした概説としてはよく出来ていると思う。
中世については、かなり分かりづらい。戦国時代の三国(薩摩・大隅・日向)の群雄割拠の様子は相当に複雑であるから、分かりづらいのもしょうがないかもしれないが、それにしても年表をそのままなぞりながら書いているような調子であり、ポイントが不明確で頭の中がこんがらがった。この部分については通説をコンパクトにまとめることが腐心されたような形跡があるが、思い切って簡略化するか、逆に著者なりの見方で語ってもよかったのではないかと思う。
著者の専門である近世、特に幕末に関しては、ちょっと簡潔すぎる。著者自身が「あとがき」で「近世から維新のあたりを精細に書き、それ以前を簡略にすればよかったと思う」と書いている。とはいえ、鹿児島の維新の歴史は中央政権への影響は甚大であるが、実は鹿児島県の現代にさほどの影響を与えていないわけだから、本書の方針は理解できるものだと思う。だが中央からの維新の歴史では語られない、鹿児島にとっての明治維新がもっと克明に描かれていたら、もっと面白い歴史書になっていただろう。
近世についてはちょっと物足りないが、気軽に読める鹿児島県の通史。
2016年12月28日水曜日
『地蔵尊の研究』真鍋廣濟 著
地蔵菩薩について様々な角度から考察する本。
著者は龍谷大学教授の眞鍋廣濟氏。著者は古典文芸を専攻し、元来は仏教研究の専門家ではなかったようだが、さまざまな縁から地蔵菩薩について興味を持って折々にその故事来歴を調べ、たびたび雑誌『密教研究』などで発表してきた。本書は、そうした数編をまとめて出版したものである。
内容は雑駁であるが、 地蔵菩薩とは何か(特に地蔵菩薩は男性なのか女性なのかという問題)から始まり、起源、聖典、信仰の歴史、賽の河原の思想との関係、六地蔵と六地蔵巡り、地蔵盆の由来、尊形、真言・種字・契印、他の菩薩との関係、地蔵菩薩と本地垂迹思想、地蔵菩薩と遊戯、俚諺、歌詠文学、という構成で、さながら地蔵菩薩に関する百科事典的なものとなっている。さらに「余説」として、『沙石集』における地蔵菩薩の研究、近江における地蔵信仰、地蔵菩薩霊験記考、地蔵盆についての子ども向け解説、を掲載している。
お地蔵さん、というと、我々にとってはかなり身近なものであり、つい分かった気になるものであるが、改めてこうして深く考究してみると、お地蔵さんとは一体何なのか不思議でよくわからないものだということに気づかされる。大正の終わりから昭和初期にかけて、地蔵研究には一種の流行があったらしく、著者がまとめるところによれば多くの人がこれを研究したようである。本書は、そうしたものを下敷きにして、著者の専門とする古典文芸を頼りにして地蔵信仰の歴史を解き明かし、「お地蔵さんとは何だろう?」という疑問に応えようとしたものだ。
例えば、地蔵菩薩というと「地獄におちたものを救う菩薩」であるというのが一般的な理解であろうが、この他にも地蔵菩薩にはさまざまな神格がある。例えば、中国では地蔵は閻魔大王と同じものと見なされた。地獄で生前の罪を裁く存在と、地獄から救い出す存在が同一視されたのはどうしてか。さらに、地蔵菩薩は賽の河原で惑う子どもたちを守護する存在とも見られたが、これはどうしてか。本書は、こうした問題に対して著者なりの解答を提示するものである。
それらの疑問は、普通はどうでもいいことと見なされるものばかりだ。「地蔵菩薩は男性なのか女性なのかという問題」なんかは、「そんなのどっちでもいいだろ!」と大半の人が思うに違いない(私も思った)。とはいえ、そういう疑問一つ一つにそれなりの解答を与えていくことは知的興奮がある。
ちなみに、私が地蔵菩薩に興味を持ったのは、「なぜお地蔵さんは路傍に雨ざらしになっているのだろう」ということからである。普通は、仏像というものは出来るだけ祠堂を設けて祀るものと思うし、お地蔵さんも大切に祀られているものもある。しかし路傍に雨ざらしになっているものも多く、これは他の菩薩・如来に比べずっと多いのではないかと思う。これはどうしてだろうか。
本書には、これには真正面からの解答はない。ただ、我が国では地蔵菩薩と道祖神が習合したためであろうと簡単に書いているが、だとしても、なぜ地蔵菩薩が道祖神と習合したのかということまで解かなくてはならないと思う。
それから、戦乱の時代に流行した勝軍地蔵への信仰についても、本書ではごく簡単に触れられるに過ぎないが、芝の愛宕神社に勝軍地蔵が祀ってあるごとく、勝軍地蔵は民間信仰では大きな存在感があるので、勝軍地蔵の故事来歴も詳しく知りたいところである。なぜ地獄から人びとを救う菩薩が、戦における勝利を加護する存在へと変化したのだろうか。
さらに、地蔵はなぜか「地蔵塔」という塔によって表現される場合があり、これも他の菩薩・如来とは違っている。なぜ塔になるのか、非常に気になるところである。
本書は、地蔵についての百科事典的な体裁を企図して書かれてはいるが、著者の専門が日本の古典文芸であるために、中国やインドにおける地蔵信仰についてはさほど詳しくないという弱点がある。また、断片的な研究をまとめたものであるため、全体としてみてさほど体系的ではない。そうであるから、上のような私の疑問に対する答えは十分に得られなかった。
しかし、現在手に入る中では本書はおそらく最もよくまとまった地蔵研究書であり、この分野の基本文献とも言えるだろう。実際、原書は昭和16年に発行されているが、そっくりそのまま昭和44年に翻刻されているのは、需要があったためであろうと思う。
少し古いが、地蔵菩薩について深く知りたいと思った時、必ず目を通すべき本。
著者は龍谷大学教授の眞鍋廣濟氏。著者は古典文芸を専攻し、元来は仏教研究の専門家ではなかったようだが、さまざまな縁から地蔵菩薩について興味を持って折々にその故事来歴を調べ、たびたび雑誌『密教研究』などで発表してきた。本書は、そうした数編をまとめて出版したものである。
内容は雑駁であるが、 地蔵菩薩とは何か(特に地蔵菩薩は男性なのか女性なのかという問題)から始まり、起源、聖典、信仰の歴史、賽の河原の思想との関係、六地蔵と六地蔵巡り、地蔵盆の由来、尊形、真言・種字・契印、他の菩薩との関係、地蔵菩薩と本地垂迹思想、地蔵菩薩と遊戯、俚諺、歌詠文学、という構成で、さながら地蔵菩薩に関する百科事典的なものとなっている。さらに「余説」として、『沙石集』における地蔵菩薩の研究、近江における地蔵信仰、地蔵菩薩霊験記考、地蔵盆についての子ども向け解説、を掲載している。
お地蔵さん、というと、我々にとってはかなり身近なものであり、つい分かった気になるものであるが、改めてこうして深く考究してみると、お地蔵さんとは一体何なのか不思議でよくわからないものだということに気づかされる。大正の終わりから昭和初期にかけて、地蔵研究には一種の流行があったらしく、著者がまとめるところによれば多くの人がこれを研究したようである。本書は、そうしたものを下敷きにして、著者の専門とする古典文芸を頼りにして地蔵信仰の歴史を解き明かし、「お地蔵さんとは何だろう?」という疑問に応えようとしたものだ。
例えば、地蔵菩薩というと「地獄におちたものを救う菩薩」であるというのが一般的な理解であろうが、この他にも地蔵菩薩にはさまざまな神格がある。例えば、中国では地蔵は閻魔大王と同じものと見なされた。地獄で生前の罪を裁く存在と、地獄から救い出す存在が同一視されたのはどうしてか。さらに、地蔵菩薩は賽の河原で惑う子どもたちを守護する存在とも見られたが、これはどうしてか。本書は、こうした問題に対して著者なりの解答を提示するものである。
それらの疑問は、普通はどうでもいいことと見なされるものばかりだ。「地蔵菩薩は男性なのか女性なのかという問題」なんかは、「そんなのどっちでもいいだろ!」と大半の人が思うに違いない(私も思った)。とはいえ、そういう疑問一つ一つにそれなりの解答を与えていくことは知的興奮がある。
ちなみに、私が地蔵菩薩に興味を持ったのは、「なぜお地蔵さんは路傍に雨ざらしになっているのだろう」ということからである。普通は、仏像というものは出来るだけ祠堂を設けて祀るものと思うし、お地蔵さんも大切に祀られているものもある。しかし路傍に雨ざらしになっているものも多く、これは他の菩薩・如来に比べずっと多いのではないかと思う。これはどうしてだろうか。
本書には、これには真正面からの解答はない。ただ、我が国では地蔵菩薩と道祖神が習合したためであろうと簡単に書いているが、だとしても、なぜ地蔵菩薩が道祖神と習合したのかということまで解かなくてはならないと思う。
それから、戦乱の時代に流行した勝軍地蔵への信仰についても、本書ではごく簡単に触れられるに過ぎないが、芝の愛宕神社に勝軍地蔵が祀ってあるごとく、勝軍地蔵は民間信仰では大きな存在感があるので、勝軍地蔵の故事来歴も詳しく知りたいところである。なぜ地獄から人びとを救う菩薩が、戦における勝利を加護する存在へと変化したのだろうか。
さらに、地蔵はなぜか「地蔵塔」という塔によって表現される場合があり、これも他の菩薩・如来とは違っている。なぜ塔になるのか、非常に気になるところである。
本書は、地蔵についての百科事典的な体裁を企図して書かれてはいるが、著者の専門が日本の古典文芸であるために、中国やインドにおける地蔵信仰についてはさほど詳しくないという弱点がある。また、断片的な研究をまとめたものであるため、全体としてみてさほど体系的ではない。そうであるから、上のような私の疑問に対する答えは十分に得られなかった。
しかし、現在手に入る中では本書はおそらく最もよくまとまった地蔵研究書であり、この分野の基本文献とも言えるだろう。実際、原書は昭和16年に発行されているが、そっくりそのまま昭和44年に翻刻されているのは、需要があったためであろうと思う。
少し古いが、地蔵菩薩について深く知りたいと思った時、必ず目を通すべき本。
2016年12月22日木曜日
本で旅した人びと
先日、「石蔵古本市」というイベントを主催した。
雰囲気のよい石蔵を貸し切って、古本屋さん5軒を呼んだ古本市を行うというものである。それを取り仕切ってくれたのが鹿児島市の「つばめ文庫」という古本屋さん。
この「つばめ文庫」、「本で旅する」というテーマを掲げていて、ちょっと他で見ないような探検ものの古書が充実している。
「本で旅する」——すごくステキなテーマだと思う。でも、実際にはそういうたぐいの本はほとんど売れないらしい。確かに、ちょっと昔の、未開のジャングルを探検するような本は、最近流行らないとは思う。「National Geographic」誌すら売れなくなってきている世の中である。
しかしこの「本で旅する」ということについて、ちょっと思うことがあるので今回は昔語りをしてみたい。
私は、実は小学校低学年の時にはあまり本を読んだ記憶がない。本を読むより外で遊ぶのが好きだったように記憶している。正直、読書は興味がなかった。実を言うと、今でも読書より行動の方が好きだと思う。
そんな私が、初めて、「本を読んだ」という実感を持つ体験をしたのが小学校4年くらいの時。風邪で数日間学校を休んで、ずっと寝ていなくてはいけなかったので退屈で仕方なく、それを見かねた母が図書館から数冊の本を借りてきてくれたのだ。
その中に、”SFの父"ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』があった。出版社も翻訳者も全く覚えていないが、子供用のシリーズの、随分古い本だったように思う。これが、とても面白かった。病気も忘れて熱中した。これが、初めて「本を読んだ」という体験だ。
こうなると、ジュール・ヴェルヌという作家の本をもっと読みたくなる。それで、人生で初めて、自分の意志で買った本がヴェルヌの『海底二万里』である。それまでマトモに本を読んだことのない人間が、いきなり新潮文庫の小さい字で500ページ以上ある本に取り組んだのだから、読むのに結構苦労したような気がする。だが、それ以上に面白かった。それから、ヴェルヌの空想科学小説系の本は、数年かけて(簡単に手に入るものは)全て読んだ。そういう、ヴェルヌの作品の解説にたびたび登場する有名な逸話がある。
ヴェルヌは、11歳の時に初恋の相手のためにサンゴの首飾りを手に入れるべく、インド行きの船に水夫見習いとして密かに乗船した。しかし途中で父に見つかってこっぴどく怒られ、「もうこれからは、夢の中でしか旅行はしない」と誓ったという。事実、ヴェルヌは『八十日間世界一周』をはじめとして世界を股にかけた数々の冒険ものの本を書いているが、母国フランスから出たことがなかったはずである。
幼かった私にとって、この逸話は大変心強いものだった。鹿児島の田舎に生まれ、外の世界に出て行くすべも持たない子どもにとっては、世界は遠すぎた。都会では電車でどこか行くことも出来るが、田舎では車の運転ができるようになるまで、自由にどこか行くということが適わない。だから、書斎から一歩も出ずに(と当時の私は思っていた)外国どころか『月世界へ行く』まで書いてしまえるヴェルヌには勇気づけられた。
人間は、筆の力でどこへでもいけるんだと。
実際、本の虫になることで、実際にそこへ行くよりも通(ツウ)になってしまった人がいる。古本とジャズの伝説的人物、植草甚一氏である。彼の『ぼくの読書法』というエッセイ集の中に「ぼくの原体験は英語を覚えたことだ」というのがある。
普通は原体験というと、戦争や肉親の死といったものが多いが、植草は早い時期に英語を覚え、それが彼の世界を変えた。大正から昭和、そして戦争の時代、やがて戦後へと進む時代の中で、彼は洋書を漁り、「今ここにある世界」とは別の世界へと飛翔したのである。
言うまでもなく、当時は自由に外国へ行けない時代だった。彼の偏愛した洋書や、ジャズや映画といったものは、細い細い管を通って日本へと僅かにしたたり落ちてくるだけ、といったような時代だ。それでも、彼は自分が面白いと思ったものを孤独に愛し続けた。行くことのできないニューヨークの、街角にあるはずの、古書店にたたずむ自分を空想したに違いない。1974年、ようやく彼はニューヨークに降り立った。しかしそれは見知らぬ街ではなく、既に本や雑誌で顔なじみになった街になっていた。どこになんの店があるか、行かなくてもまるきり分かっていたという。実際、それ以前でもニューヨークに行く予定の人がいれば、「どこそこへ行った方がよい」とアドバイスしていた程だった。
本を読むことで、植草甚一はニューヨークを何度も旅していたのである。
地理的な場所でないところにまで、本で「冒険」した人もいる。「サディズム」の語源ともなった、マルキ・ド・サド侯爵である。
サドは、生来の嗜虐的な性向から非人道的なセックスを行い、危険人物として人生の1/3ほどを牢獄で過ごさなくてはならなかった人物。女性を裸にしてベッドに縛り付けナイフで切りつけたり、まあ牢獄に入れられるのもしょうがない素行の人ではあった。が、彼が並の異常性愛者と違ったのは、自分の心の奥にある猟奇的欲望を実行に移すだけでなく、それを行う自分自身を冷徹に観察して、その心理を検証・分析してみなくては気が済まなかったところで、彼はその「検証結果」を数々の文学作品に昇華させていった。
そういう作品の最高峰が『ソドム百二十日』という未完の大作(大作といっても序文と第1部しか書かれていないので実際には短い)。これは、ルイ14世治世の末期、悪行によって莫大な私財を築いたブランジ侯爵という人物が、友人3人とともに、郊外の館で奴隷状態にした42人の男女をなぶりつつ120日間に及ぶ大饗宴を催すという話。この大饗宴の中身はほとんど虐待と強姦と殺人であって、42人のなぶり者のうち30人はむごたらしい拷問によって絶命する。そういう、悪逆の教科書みたいな作品である。
しかしサドがこの奇妙な作品を書いたのは、やはり牢獄の中のことであった。時はフランス革命の4年前。バスティーユ牢獄の一室に閉じ込められていたサドは、監守の目を盗みつつ、小さな紙片を繋ぎ合わせた巻紙に蟻のような小さな文字でこの作品を執筆していた。だが牢獄から一切の私物を持ち出すことを禁じられていたサドは、おそらくは時間か紙の不足のために未完になっていたこの原稿を泣く泣く手放すことになり、さらには革命の混乱で原稿は行方知れずになってしまう。
この作品が漸く出版されたのは、サドが執筆した120年後の1904年のこと。様々な奇縁によってなった出版であった。
こうして世に現れた『ソドム百二十日』は、サドが獄中で思索に思索を重ねた異常性愛の一大絵巻となっており、訳者の澁澤龍彦は「系統的に観察し分類した性倒錯現象の集大成、科学者の目でとらえた性病理学試論といった性格をおび、クラフト・エビングやフロイト以前の、貴重な資料ともなっている」と評している。
これは、牢獄に閉じ込められ、紙とペンすら満足に使えなかったマルキ・ド・サドが、空想によって旅した、完全無欠の魔道の世界の物語なのである。
……こうして、ここで挙げた「本で旅した人びと」を眺めて見ると、現実の世界では行きたい場所に行くことができなかった、という共通点がある。だが、行きたい場所に行けるなら本が必要ないか、というとそうではない。今は、お金と暇さえあれば、世界中の大抵の場所にはいくことができるが、本を通じてなら、それよりももっと遠い場所に行くことができるからだ。というのは、現実の世界では、遠い未来に行くことはできないし、過去の英雄に出会うこともできない。宇宙の果てや、人の心の奥底にある深淵にも、決して立つことは出来ない。これらは今のところ、本を通してしか、行くことができない場所にある。
「本で旅する」——。現実の世界で満足出来なくなった人にとって、いや、現実の世界に満足し切っている人なんてごくごく僅かだろうから、そういうほとんど全ての人にとって、「本で旅する」ことは、時には必要な、精神の休暇の過ごし方だと思うのである。
雰囲気のよい石蔵を貸し切って、古本屋さん5軒を呼んだ古本市を行うというものである。それを取り仕切ってくれたのが鹿児島市の「つばめ文庫」という古本屋さん。
この「つばめ文庫」、「本で旅する」というテーマを掲げていて、ちょっと他で見ないような探検ものの古書が充実している。
「本で旅する」——すごくステキなテーマだと思う。でも、実際にはそういうたぐいの本はほとんど売れないらしい。確かに、ちょっと昔の、未開のジャングルを探検するような本は、最近流行らないとは思う。「National Geographic」誌すら売れなくなってきている世の中である。
しかしこの「本で旅する」ということについて、ちょっと思うことがあるので今回は昔語りをしてみたい。
私は、実は小学校低学年の時にはあまり本を読んだ記憶がない。本を読むより外で遊ぶのが好きだったように記憶している。正直、読書は興味がなかった。実を言うと、今でも読書より行動の方が好きだと思う。
そんな私が、初めて、「本を読んだ」という実感を持つ体験をしたのが小学校4年くらいの時。風邪で数日間学校を休んで、ずっと寝ていなくてはいけなかったので退屈で仕方なく、それを見かねた母が図書館から数冊の本を借りてきてくれたのだ。
その中に、”SFの父"ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』があった。出版社も翻訳者も全く覚えていないが、子供用のシリーズの、随分古い本だったように思う。これが、とても面白かった。病気も忘れて熱中した。これが、初めて「本を読んだ」という体験だ。
こうなると、ジュール・ヴェルヌという作家の本をもっと読みたくなる。それで、人生で初めて、自分の意志で買った本がヴェルヌの『海底二万里』である。それまでマトモに本を読んだことのない人間が、いきなり新潮文庫の小さい字で500ページ以上ある本に取り組んだのだから、読むのに結構苦労したような気がする。だが、それ以上に面白かった。それから、ヴェルヌの空想科学小説系の本は、数年かけて(簡単に手に入るものは)全て読んだ。そういう、ヴェルヌの作品の解説にたびたび登場する有名な逸話がある。
ヴェルヌは、11歳の時に初恋の相手のためにサンゴの首飾りを手に入れるべく、インド行きの船に水夫見習いとして密かに乗船した。しかし途中で父に見つかってこっぴどく怒られ、「もうこれからは、夢の中でしか旅行はしない」と誓ったという。事実、ヴェルヌは『八十日間世界一周』をはじめとして世界を股にかけた数々の冒険ものの本を書いているが、母国フランスから出たことがなかったはずである。
幼かった私にとって、この逸話は大変心強いものだった。鹿児島の田舎に生まれ、外の世界に出て行くすべも持たない子どもにとっては、世界は遠すぎた。都会では電車でどこか行くことも出来るが、田舎では車の運転ができるようになるまで、自由にどこか行くということが適わない。だから、書斎から一歩も出ずに(と当時の私は思っていた)外国どころか『月世界へ行く』まで書いてしまえるヴェルヌには勇気づけられた。
人間は、筆の力でどこへでもいけるんだと。
実際、本の虫になることで、実際にそこへ行くよりも通(ツウ)になってしまった人がいる。古本とジャズの伝説的人物、植草甚一氏である。彼の『ぼくの読書法』というエッセイ集の中に「ぼくの原体験は英語を覚えたことだ」というのがある。
普通は原体験というと、戦争や肉親の死といったものが多いが、植草は早い時期に英語を覚え、それが彼の世界を変えた。大正から昭和、そして戦争の時代、やがて戦後へと進む時代の中で、彼は洋書を漁り、「今ここにある世界」とは別の世界へと飛翔したのである。
言うまでもなく、当時は自由に外国へ行けない時代だった。彼の偏愛した洋書や、ジャズや映画といったものは、細い細い管を通って日本へと僅かにしたたり落ちてくるだけ、といったような時代だ。それでも、彼は自分が面白いと思ったものを孤独に愛し続けた。行くことのできないニューヨークの、街角にあるはずの、古書店にたたずむ自分を空想したに違いない。1974年、ようやく彼はニューヨークに降り立った。しかしそれは見知らぬ街ではなく、既に本や雑誌で顔なじみになった街になっていた。どこになんの店があるか、行かなくてもまるきり分かっていたという。実際、それ以前でもニューヨークに行く予定の人がいれば、「どこそこへ行った方がよい」とアドバイスしていた程だった。
本を読むことで、植草甚一はニューヨークを何度も旅していたのである。
地理的な場所でないところにまで、本で「冒険」した人もいる。「サディズム」の語源ともなった、マルキ・ド・サド侯爵である。
サドは、生来の嗜虐的な性向から非人道的なセックスを行い、危険人物として人生の1/3ほどを牢獄で過ごさなくてはならなかった人物。女性を裸にしてベッドに縛り付けナイフで切りつけたり、まあ牢獄に入れられるのもしょうがない素行の人ではあった。が、彼が並の異常性愛者と違ったのは、自分の心の奥にある猟奇的欲望を実行に移すだけでなく、それを行う自分自身を冷徹に観察して、その心理を検証・分析してみなくては気が済まなかったところで、彼はその「検証結果」を数々の文学作品に昇華させていった。
そういう作品の最高峰が『ソドム百二十日』という未完の大作(大作といっても序文と第1部しか書かれていないので実際には短い)。これは、ルイ14世治世の末期、悪行によって莫大な私財を築いたブランジ侯爵という人物が、友人3人とともに、郊外の館で奴隷状態にした42人の男女をなぶりつつ120日間に及ぶ大饗宴を催すという話。この大饗宴の中身はほとんど虐待と強姦と殺人であって、42人のなぶり者のうち30人はむごたらしい拷問によって絶命する。そういう、悪逆の教科書みたいな作品である。
しかしサドがこの奇妙な作品を書いたのは、やはり牢獄の中のことであった。時はフランス革命の4年前。バスティーユ牢獄の一室に閉じ込められていたサドは、監守の目を盗みつつ、小さな紙片を繋ぎ合わせた巻紙に蟻のような小さな文字でこの作品を執筆していた。だが牢獄から一切の私物を持ち出すことを禁じられていたサドは、おそらくは時間か紙の不足のために未完になっていたこの原稿を泣く泣く手放すことになり、さらには革命の混乱で原稿は行方知れずになってしまう。
この作品が漸く出版されたのは、サドが執筆した120年後の1904年のこと。様々な奇縁によってなった出版であった。
こうして世に現れた『ソドム百二十日』は、サドが獄中で思索に思索を重ねた異常性愛の一大絵巻となっており、訳者の澁澤龍彦は「系統的に観察し分類した性倒錯現象の集大成、科学者の目でとらえた性病理学試論といった性格をおび、クラフト・エビングやフロイト以前の、貴重な資料ともなっている」と評している。
これは、牢獄に閉じ込められ、紙とペンすら満足に使えなかったマルキ・ド・サドが、空想によって旅した、完全無欠の魔道の世界の物語なのである。
……こうして、ここで挙げた「本で旅した人びと」を眺めて見ると、現実の世界では行きたい場所に行くことができなかった、という共通点がある。だが、行きたい場所に行けるなら本が必要ないか、というとそうではない。今は、お金と暇さえあれば、世界中の大抵の場所にはいくことができるが、本を通じてなら、それよりももっと遠い場所に行くことができるからだ。というのは、現実の世界では、遠い未来に行くことはできないし、過去の英雄に出会うこともできない。宇宙の果てや、人の心の奥底にある深淵にも、決して立つことは出来ない。これらは今のところ、本を通してしか、行くことができない場所にある。
「本で旅する」——。現実の世界で満足出来なくなった人にとって、いや、現実の世界に満足し切っている人なんてごくごく僅かだろうから、そういうほとんど全ての人にとって、「本で旅する」ことは、時には必要な、精神の休暇の過ごし方だと思うのである。
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