2017年1月20日金曜日

『食事の文明論』石毛直道 著

世界各国の食事の在り方が、近代文明の影響によってどのように変容してきたかを語る本。

著者は文化人類学者の石毛直道。「鉄の胃袋」の異名を持ち、世界各国でフィールドワークして様々な土着の料理を食べてきた人物だ。彼がたくさんの食卓を見るうちに沸き上がってきた「人類の食事の文明はどういう志向性を持つのか」という疑問。本書は、それを学問的というよりもエッセイ風に思索していったものである。

人類の食事を考える際に、最も基本となる単位は「家族」である。というよりも、食事を分け与える最小単位として「家族」というものが成立したのだろう。家族がそのメンバーにどう食物を分配するか(時間的な意味でも。例えば一日3食にするか2食にするか)、そしてそれを取り巻く社会がどう家族ごとに分配するかというのがまず問題になる。それには、宗教や文化や労働の在り方、社会システムなどが影響する。

例えば、一日3食が普及したのはなぜか、という問題。前近代の社会はもともと一日2食が普通だった。それなのに日本でも欧州でも、同じような時期に一日3食の習慣が広まっているのはどうしてか。一般的には、灯火の普及で夜の生活が長くなり3食に分けて食べないと体が持たなかったからと言われているが、著者は近代社会では長時間うんと働かなくてはならなくなったのが最大の原因ではないかと考える。

さらに日本で朝に飯炊きをするという習慣も会社労働や学校などの普及によって導入されたものだ。会社や学校は、昼に帰宅が難しい場合があり弁当を持って行かなくてはならない。よって弁当をつくるために朝に飯炊きをする必要が生じたのだという。

このように、伝統的な食事の在り方は近代文明の波を受けて劇的に変わってきている。その変化はどこへ向かっているのか。それは著者自身にもまだ茫洋としているようだ。しかし社会が豊かになって食物が豊富になり分配のややこしい手続きが省略されるといった傾向はある。そしてそのことは、食事の分配機能の最小単位である家族の在り方にまで影響を及ぼしつつある。

一昔前では、一人で生活してちゃんと3食食べることは不可能に近かったが、電化製品や加工食品の普及で、今ではそんなことは全く難しいことではない。毎日の食事を用意するために「家族」があるのではなく、むしろ共に食事することが「家族」を維持する役目を担うようになってきた。こうなると、「機能集団としての意味が弱くなった家庭生活の運営というものは、大人も参加したママゴト遊びのようなもの」になったのである。

要するに、食事から見れば、我々の文明にはもはや「家族」は不要なのだ。しかしこれはいっときの栄華のなせることなのかもしれない。「ふたたび食物の獲得と分配をめぐって家族が機能する時代がやってくる可能性もある。(中略)そのときまで、フィクションとしてでも家族を存続させるために、われわれはつかの間のママゴト遊びを演じているのかもしれない。」

食事を通じて、姿が見えない社会の基底まで考えさせる好著。

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