2016年1月11日月曜日

『未来のイヴ』ヴィリエ・ド・リラダン著、齋藤 磯雄 訳

19世紀末の恐るべきSF。

これは、没落貴族の詩人、ヴィリエ・ド・リラダン伯爵が、インクを水で薄めて使う赤貧の中で書き上げた、数奇で風刺に満ちた本である。

ある青年貴族が、女神のように美しい、完璧な容貌を持つ人と運命的な恋に落ちる。しかしその女性の精神は、芸能界に憧れ薄っぺらい成功を夢見る俗物、というよりも悲しいほどに平凡なものであった。女性の神々しい外見に恋しながら、その俗物さを嫌悪する青年貴族は魂の矛盾にさいなまれる。

そこで発明家のエディソン氏は、あなたの女神から魂を抜き取ってあげましょうと提案する。 恋する女性の代わりに、その女性とそっくりの人造人間を創り、理想的な精神(の模倣物)を入れてしまえばよろしいというのである。

本書のかなり多くが、精神を模倣することなんて不可能だという青年貴族に対する、エディソン氏の反駁に費やされるが、そこが人間性への風刺にもなっていて面白い。例えば、当時は当然コンピュータのようなものはないので、会話は事前に録音したセリフの組み合わせになる。青年貴族はそんな舞台のような会話は耐えられないと言うが、エディソン氏は、我々の会話だって一種の舞台のセリフのようなもので、自分の言いたいことを発言しているというより、その場で言うべきことを半ば機械的に言っているだけなのだから、それはほとんど自然なことだ、というように諭すのである。

このように、我々が「自由意志」に基づくと信じているようなものですら、機械的に模倣することが可能であり、機械はそれを人間よりももっと正確にできるのだから、魂のない人形こそが理想の人間になりうるのだ! というエディソン氏の主張はある意味哲学的ですらある。

最初はそんなわけはないと歯牙にも掛けなかった青年貴族だったが、できあがった人造人間「ハダリー」との衝撃的な出会いによって、この人造人間に首ったけになってしまう。ほとんど、現代の「2次元の嫁」におけるそれと同じように、自分の理想が完璧に投影されたハダリーを「愛し」てしまうのである。

本書には、科学万能主義、工業主義への批判や風刺がこめられているという。しかしその批判や風刺は一筋縄ではない。機械によって人間性が再現できるのだという傲慢は、批判されるべきものというより人間性そのものへの疑問に基づいているし、人造人間を愛する青年貴族は、現実を見ない世間知らずではなく、むしろ浅薄な栄達を夢見る中身のない「現代的な」女への糾弾者である。

この軽佻浮薄な資本主義の世の中で、古き良き品位を備えた人間として生きようと思えば、もはや現実の人間を相手にしていてはダメで、人間以上の理想の存在を伴侶にする必要がある。しかしそれは、嫌悪すべき科学の力を使わなくては創り出すことができないのだ。

創世記において、イヴは知恵の実を食べてアダムを堕落させた。未来において男を堕落させるのは、もはや生身の女ではなく人造人間である。そういう黙示的予感から、「未来のイヴ」というタイトルがつけられたのであろう。それは、21世紀の日本で、「2次元の嫁」として現実化しているのかもしれない。

齋藤磯雄による正字・歴史的仮名遣いの鏤骨の翻訳も光る歴史的名著。

2015年12月20日日曜日

『大地・農耕・女性—比較宗教類型論—』ミルチャ・エリアーデ著、掘 一郎 訳

様々な宗教に共通して見られる種々のモチーフについて述べる本。

本書は、エリアーデによる大規模な著作『比較宗教における類型(評者仮訳)』の抄訳である。世界的な宗教学者である著者は、様々な宗教に共通して見られるモチーフ、例えば「天空神」「地母神」「宇宙木」といったものを取り上げ、考察する。そして、何が「聖なるもの」として扱われるのかという宗教の根源を探ろうとする。

ただし、その態度は体系的・学術的なものというよりは、とにかく並べてみようという博物学的、コレクション的なものであって、そこに添えられた考察も素人目には思いつきの域を出ないもののように思われる。エリアーデの研究はある意味で19世紀的な手法によって行われていて、独断や大胆な推論が多く、今日的な視点からは少し脇が甘いような感じがするが、世界の諸宗教から縦横に例を引いてくるのはさすがというべきで、そこに現れる共通のモチーフをただ列挙していくだけであったとしても本書には価値があると思う。

しかもそのモチーフが、思想的なものというよりも、図像的なものを中心として取り上げているので、イコノロジーの博物館とでもいうべき本である。本書には図が全く掲載されていないが、本書に適当な図をつけて参考書としたら非常に面白い本が出来ると思う。

私が本書を手に取ったのは、地母神信仰について知りたかったからで、特にその地理的広がりや地母神の性格といったものに興味があった。日本の神話では地母神らしい地母神がなく、鹿児島の農耕の神である「田の神」は男性であるし、中東あたりによく見られる「生産力の象徴としての女性」という観念が希薄である。どうしてこのような差異が生じたのであろうか?

本書は体系的な研究書ではないので、それに対する答えは全く得られなかったが、様々なモチーフがどんどんと現れ、いろいろなことを空想させられる本である。

2015年12月12日土曜日

『食の終焉』ポール・ロバーツ著、神保 哲生 訳

食システムの破綻が間近に迫っていると警告する本。

先進国のスーパーマーケットには安価な食材が溢れ、肥満も大きな問題になっている。一方で、世界には未だ多くの飢餓状態にある人たちが存在し、農業には持続可能性を疑わせる数々の懸案が存在する。例えば、過剰施肥、土壌の流亡、地下水の過剰な汲み上げ、大規模単一栽培によって病害虫被害に脆弱になっていること、モンサントやウォルマートなどの巨大企業による支配、などなど。

本書は、こうした問題を取り上げて、食システムの破綻は間近であると畳み掛ける。なお、ここでいう「食システムの破綻」とは、本書中では明確な定義がないが、サプライチェーンのどこかに問題が起こって、需要を満たすだけの生産ができなくなること、といった意味のようだ。しかし、問題がたくさんあるからといって破綻は間近だと結論づけるのも短絡的であり、これは食システム全体を俯瞰して考えなければならないテーマであるにも関わらず、現在のシステムがうまくやっている点については全く触れず、延々と問題だけを取り上げているのはやや誠実さに欠ける。

しかも、その問題の取り上げ方も、専門家の誰それがこういっている、というような断片的なことがたくさん書かれているだけで、本書中には一つのグラフも表も出てこない。将来を見通すには全体の趨勢を理解するのが大事なのに、事実を経年的に把握するグラフの一つも出さないというのは信頼性に欠ける。要するに、取材の態度が科学的ではなく、ゴシップ的なものと言わざるを得ない。

もちろん、ここで提示されたような問題は、それぞれ事実大きな問題であろうと思う。しかし、食糧危機が間近に迫っているという警告は、それこそ何十年も前から出されているが、これまでのところその予言が外れているところを見ると、ここで挙げられている問題も破綻が不可避なものとは思えない。

例えば、現在は安い価格で大量の食肉が生産されており、これは安価な穀物と補助金に支えられているが、今後新興国の生活水準が上がってきてさらに食肉需要が増大した時、現在の食システムはその需要に応えられないかもしれないと本書は予言する。でもそれが何の問題なんだろうか? 食肉需要が高まって、でも供給がそれに追いつかなかったら、食肉価格が上がるだけのことだろう。要するに価格調整によって需給は調整されるのだから、そこに「破綻」と呼べるほどの問題は起こらない。

もちろん、これまでの先進国はたくさん肉を食べられたのに、これからの先進国はそれほど多くの肉を食べられないというのは不平等ではある。しかし、これは19世紀の先進国は植民地を持てたのに、21世紀の先進国は植民地を持てない、 というのと同じことで、不平等かもしれないがそれを受け入れて社会を構築していけばいいだけのことだし、これは食システムの問題というより、国際的な不均衡の問題、つまり国際政治の話だと思う。

ただし、人口が90億人に達したとき、十分な量の穀物が生産できるのかという点だけは、シンプルなだけに重大深刻な問題で、ここだけは真面目に考究する価値があると思った。ただ、本書においては「既に利用しやすい農地は利用しているし、灌漑用の水も限界まで使っているし、これ以上生産量を増やそうとすれば森林を切り拓くしかないがそれは環境破壊になるし、どうする」みたいなことが定性的に書いてあるだけで、真面目な(定量的・科学的な)考察がない。もう少しデータに裏付けられた分析が必要だと思った。

食システム全体を俯瞰する視点がなく、食にまつわる問題をゴシップ的に列挙するとりとめのない本。

2015年12月2日水曜日

糞尿の文学

『ガルガンチュアとパンタグリュエル』という、もう書名を目にした瞬間にうずうずしてしまうような偉大な文学作品がある。
 
この本を初めて見たのは神保町の古本屋だった。古びた岩波文庫の5冊揃い。渡辺一夫訳の伝説的な作品。

当時は絶版の岩波版がほとんど唯一の『ガルガンチュア』だったから、確か9000円くらいしたと思う。お金がない時で、当然買えなかった。神保町へ行くたび、もうちょっと安いセットはないものかと一時期は探していた。

ちくま文庫から宮下志朗訳が出版されたのが2005年。もちろんすぐに購入した。この世界文学史に燦然と輝く作品が、一体どのようなものなのか期待してページをめくったのを覚えている。

それは、期待以上の読書体験だった。この本は、とにかく、笑える。荒唐無稽な巨人王の生涯! ナンセンスと言葉遊びの嵐! 下品なことも高尚なこともごった煮にした、百科全書的で無秩序な物語。

鋭い社会風刺、文明批判、そういうものもあるが、それは横に措いてもとにかく面白い(もちろん理解すればもっと面白い)。16世紀のユマニスム——つまり「人間中心主義」が作品のありとあらゆるところに横溢している。「ガルガンチュア伝説」という中世的な素材を扱いながら、教条主義に凝り固まった無益な規矩から解き放たれた人間が「自由」を存分に謳歌する。ここでは優等生的な人間でなく、ありのままの人間そのもの(巨人だからスケールは桁外れだが)が主人公である。

ぜひ紹介したいのが第13章「グラングジェ、ある尻拭き方法を考案したガルガンチュアのすばらしいひらめきを知る」。主人公たる巨人のガルガンチュアは、この章では「何を使ったら一番気持ちよくお尻が拭けるか」を父上のグラングジェに講釈する。

ビロードのスカーフ、深紅のサテンでできた頭巾の耳当て、母上の手袋、で拭くのもまずまず宜しいそうである。逆にカボチャやほうれん草の葉っぱ、レタスやバラは気持ちよくないらしい。カーテン、クッション、ゲーム台、そういうものは気持ちよい。

最上のお尻拭きを明らかにする前に、ガルガンチュアは「脱糞人に雪隠が話しかける歌」をグラングジェに聞かせる。
うんち之助に、
びちぐそくん、
ぶう太郎に、
糞野まみれちゃん、
きみたちのきたないうんこが、
ぼたぼたと、
ぼくらの上に、
落ちてくる。
ばっちくて、
うんちだらけの、
おもらし野郎、
あんたの穴がなにもかも
ぱかんとお口を開けたのに、
ふかずに退散するなんて、
聖アントニウス熱で焼けちまえ!
すばらしい「世界文学」! 下品なものを下品なままで文学に表現出来るようになったのが、16世紀のユマニスムであるような気がする。ユマニスム万歳!

さらにガルガンチュアの試行錯誤は続く。おんどりやめんどり、子牛の皮、ウサギ、ハト、弁護士の書類袋などでも尻を拭いてみた。が、「しかしながら、結論として申しますれば、うぶ毛でおおわれたガチョウのひなにまさる尻拭き紙はないと主張いしたしたいのであります」とのことである!

フランソワ・ラブレー先生の世界文学上に名だたる作品が、こういう調子なのだから、これはもう驚きというより痛快な読書体験であった。ありのままの人間を描こうとするなら、その最も汚い部分、つまり排泄だって描く必要がある。人は誰でも食べてそして排泄する。我々は誰でも「うんち之助」であり「糞野まみれちゃん」なのである。

こういうテーマをそれまでの文学ではあまり扱ってこなかった。というより、未だにそうである。

でも世の中にはやっぱりそういうテーマで文学を書いてみようという人もいるもので、安岡章太郎はそういう作品だけを集めた『ウィタ・フンニョアリス』というアンソロジーを編んだ(これも題名が洒落ている。「ウィタ・フンニョアリス」はもちろん森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』のもじりだ)。

この本では、主に日本近代文学の書き手による糞尿やトイレを題材にした短編が集められており、芥川龍之介、谷崎潤一郎、吉行淳之介、北 杜夫、遠藤周作といった名前が並ぶ(『ガルガンチュア』の第13章も渡辺一夫訳で所収)。全体を通じて意外に思うのは、糞尿が汚いものという観念が薄く、厠の匂い(当然昔は水洗便所ではなかった)には一種の情緒すらあるという考えである。作家たちには、世の中が水洗便所に変わっていき、清潔第一になってしまったことが何か寂しいという郷愁があるようだ。

私などは水洗トイレの方がいいだろ! という現代人で、汲み取り式便所の匂いにどんな情緒があるのか理解できないが、明治や大正の文豪たちにとっては、糞尿は現代の人に比べてずっと身近なものだった。何しろ、昔(といってもそんなに昔ではない)は人糞は肥料として使われていたので、それは大切に集められていた。

以前、江戸時代の農書の勉強をしていたとき、「上農(上手な農家)はあたりかまわず小便をしない」というようなことが書かれていて、何のこっちゃと思ったら、小便はちゃんと溜めておいて肥料に使うべきで、畑の隅で立ち小便をしているようではダメだ、という意味だった。汚いからとか、はしたないから立ち小便をしてはダメということではないのである。

そういう次第だから、化学肥料と水洗便所以前の人たちにとっての糞尿は、今の私たちとは全然違うものとして認識されていた。だが化学肥料が利用できるようになると、自ずから糞尿は役立たずとなり、ただ穢らしいもの、処分すべきもの、できれば目にしたくないものに変わっていった。

そうした風潮に真っ向から異議申し立てをし、糞尿こそ世界を救うとのたまった学者がいる。中村 浩という人だ。

この人の『糞尿博士・世界漫遊記』という本は、めっぽう面白い。中村 浩は幼少の頃よりなぜか糞尿に心惹かれ、微生物学者となってからも「ウンコ博士」として糞尿の研究を続け、ついに糞尿からクロレラを培養して直接的に食糧生産する方法を編み出す。妖気漂う臭気芬々たる研究室から、「緑のパン」が生みだされたのだ。

この功績により、中村はソ連から招聘される。宇宙空間では糞尿はたくさん溜めておけないので、その水分を浄化し、栄養分を食糧生産に使えるなら、宇宙での長期滞在の役に立つ。そういうわけで、日本では奇人・変人扱いされていたウンコ博士が、ソ連へは重要人物として招聘されたのだった。このほか中村は、香港、インド、エジプト、イタリア、スイス、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカと巡り、各地で糞尿談義をふっかけるのである。

中村の夢は、糞尿という毎日生ずる大量の有機物を有効活用し、クロレラを中心とした食糧生産をすることで地球から飢えの心配をなくすという「食糧革命」なのだが、世界各地での彼の興味関心は、糞尿をどうやって排泄し、利用し、処分するかという実務的な面だけでなく、糞尿をどう語り、どう扱うかという文化的側面にまで渡っている。それどころか、本書には「糞尿からの文明批評」というべき風采があって、「糞尿をキタナイもの、イヤラシイものと目のかたきにしていては、人類の進歩はのぞみえない」とか、「人間は糞をひる葦である」といった面白い警句が並ぶ。しかもユーモアいっぱいの!

本書の白眉は、水と太陽と糞尿さえあれば人は自給自足できるんだ! という「食糧革命」の理論を証明するために、自らアリゾナ砂漠で「人体実験」をするくだり。砂漠の朽ちた一軒家に身を寄せて、小さな池を掘り、そこに糞尿を栄養としてクロレラや水草を培養、それらを食べて3ヶ月生きるという何ともワイルドな実験である。

そして中村は池を掘ってから3週間で自給自足の体制を整えた。農業だったらこうはいかない。自給自足できるのに1年はかかるし、その上かなりの面積が必要だ。たった5坪の池で大人一人が生きていくというのは、ものすごい生産性である。中村の夢見る「食糧革命」も絵空事ではないのだろう。

本書のエピローグにはこういう言葉がある。「人間の生活をみてみても、食べることには熱中するが、フンベンなどは口にするもいやらしいこととして葬りさっている。この誤った観念が今日の公害問題を引き起こしたのである。近代工業においても、生産品を高く売りつけて儲けることには熱中するが、工業廃棄物などはコッソリ始末してしまえという安易な考えがあった」その通りであると思う。

ところで、糞尿が社会から隠されてしまうと、逆にそれを覗き観たいと思う人が現れてくる。隠されたものを愛でる行為はそれだけで淫靡なものである。この世界にはそういう、糞尿をなぜだか偏愛している人たちがいて、スカトロジストと呼ばれている。

ある種のポルノビデオには、そういう人たちのための過激な排泄や糞尿表現があるだけでなく、糞便を食べることすらする。ちょっとここまでくると、厠の匂いの情緒とかそういう文学的なものから離れて、ただのゲテモノ趣味のようにも見える。

でも、知り合いからホンモノのスカトロジストの話を聞いてみたら、その活動(?)は結構真面目で、まず彼らはご飯をいただくというところからするそうだ。そのご飯が体内を通って、そして糞便になって出てくる。それをまたいただく——というのが私には全く理解できないが、そういう行為を通じて「生の営み」を実感するんだとかなんとか。

その話を聞いて、最高のスカトロ文学というのが何かひらめいた。それは、『Dr.スランプ(アラレちゃん)』である。アラレちゃんはいつもうんちを持って走り回っているが、それはアラレちゃんがロボットであるため自分には絶対にうんちができないからで、要するにアラレちゃんにとっての生命の象徴がうんちなのだ(と鳥山 明が実際に考えたのかどうか知らないがそういうことにしておく)。

うんちは汚いが、その汚さは人工的に生み出せるものではなく、生命にしか生み出しえない汚さなのである。だからアラレちゃんはうんちに憧れている。かつて、これほど純粋に糞尿に憧れる主人公を登場させた文学作品があっただろうか。

ラブレーが『アラレちゃん』を読んだら歯ぎしりするに違いない。糞尿への憧れが、ロボットによって表現されるなんて、なんて文学的なんだろうか!

2015年11月25日水曜日

『食と文化の謎』マーヴィン・ハリス 著、板橋 作美 訳

歴史・宗教・文化といったものからではなく、唯物論によって人が何を食べ、何を食べないかを説明する本。

インドでは牛が神聖視され食べられないし、一方イスラーム圏では豚が汚れたものとして忌避される。アメリカには馬はたくさんいるのにアメリカ人は馬肉を食べず、昆虫は西洋文明にとって身の毛もよだつ食材だ。ペットを食べるなどともってのほかと考える人もいれば、愛情たっぷりに育てたペットを食べるのは当然のことと考える人たちもいる。さらには、我々にとっては恐怖でしかない食人すら、全く公認されていた地域もあった。

こうした食文化の違いは、どうして生じたのか。これまでは、歴史や宗教の気まぐれ、そして合理的な思考ができない人々の遅れた考え方といったものがその原因ではないかと考えられがちだった。しかし、著者のマーヴィン・ハリスは、こうした一見つじつまが合わない食文化の多様性の背景には、そのものが食べるに適するか適さないかを支配するコスト・ベネフィットの構造、つまり合理性があるという。

例えば、インドで牛が食べられないのは、役畜として重要な役割を果たし、またミルクを供給しているから、 豚がイスラム圏で食べられないのは、中東に豚の飼育に適した森林が少なく、豚の餌が人間の食料と競合しているため、といった具合である(本書の説明を暴力的に簡略化しています)。つまり、その食料(になりうるもの)を生産・獲得するのに必要なコストと、それを食べることによるベネフィット(他の食料を生産しないで済むといったこと)を天秤に掛け、コスト・ベネフィットの帳尻が合うものは食べられるし、そうでないものは食べられないのだという。

著者の説明は、多くの場合非常に説得的である。人類学界では著者は「異端の人類学者」などと呼ばれ忌み嫌われているらしいが、私にとってはその論理は明解かつ合理的であって、別に「忌み嫌われる」要素があるとは思えなかった。それどころか、食の原価計算をするようなこうした無味乾燥で(!)唯物論的な考え方が、人類学の世界にもっと広まって欲しいと思う。

ただし、宗教的タブーに関する説明だけはちょっと疑問がある。例えば、インドでの殺牛のタブーである。インドでは牛は神聖なもので手厚く保護されており、牛を殺すことは重大な宗教的タブーであるが、それは著者の説明では牛を屠ることはインドではコストが高すぎるからだという。牛は棃を引いてくれる上に粗食に耐え、ミルクを出してくれる有り難い存在だから、食べることが罪になるというのだ。要するに、コスト的に引き合わないから殺牛はタブーになった、と著者は主張する。

これは一見もっともらしいが、「コスト的に引き合わないことをなぜあえてタブーにする必要があったのか」という新たな謎を生み、謎を謎で説明している感じがする。コスト的に引き合わないなら、別に禁止規定を設けなくても人はそれを積極的にしようとはしないだろう。実際、馬肉や昆虫食といった他の項目では、コスト的に引き合う時はそれらは食べられ、引き合わなくなったら食べられなくなる、といった説明がなされている。コスト的に引き合わないものをわざわざ禁止する道理はないのである。

ヒンズー教が牛を殺すことを重大な罪として禁止しているということは、禁止しなければ牛を殺して食べようという人たちが大勢いたはずだ。著者の言うことが正しいなら、そういう人たちはコスト的に引き合わないことを敢えてやろうとしていたということになるが、それはなんでなんだろうか。コスト的に引き合わないならそれは食べられなくなるのではないのか? これに対してはいろいろな説明ができることを承知してはいるし、本書にもそれなりに理屈を書いてはいるが、あまり説得的ではなく物足りなく思った。

もう一つの物足りない点は、本書で扱っているものが動物性タンパク質(要するに「肉」)ばかりで、野菜や果物、穀物といったものがほとんど登場しないことである。著者の主張はいろいろな食品に応用できるものだと思うので、肉以外の食品文化に「唯物論」を適用するとどのような説明が可能なのかは興味あることである。

タブーに関する説明は曖昧なところがあるが、食文化を経済面から解明する小気味よい本。

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2015年11月9日月曜日

『食の思想と行動』石毛直道 監修、豊川裕之 責任編集

本書は、「講座 食の文化」の一冊で、この叢書は味の素食の文化センターがやっている「食の文化フォーラム」の研究成果をまとめたものである。監修は、世界各地で実際に食べ歩いてフィールドワークをしてきた「鉄の胃袋」の異名を持つ石毛直道氏。

本書の構成は若干散漫なものである。元々、この叢書自体が研究の寄せ集めであるためさほど体系的でないが、「食の思想と行動」という大上段に構えたテーマからすると内容の方は少し物足りない。

まず、本巻の責任編集をしている豊川裕之氏の序章「複雑系としての食」は本巻全体に通底するパラダイム的なるものを示したものだが、これがあまりいただけない。多分、同氏は「複雑系」というものをあまり理解していないし、「複雑系」の視点によって食文化にどのような新たな知見がもたらされるのかも全く見通しがない。ただ、これまでの唯物論的・機械論的な食文化の分析だけでは解明できないことがある、と言いたいらしい。

しかし私の見るところ、食文化については唯物論的・機械論的な見方の研究すら端緒に付いたばかりの状況なので、こういう批判をしなくてはならない意味が分からなかった。

その他、「食の思想」を銘打つにはあまりに個別的な研究が多く、それぞれは興味深い部分もあるが全体としてまとまりがない。ただ、「食の思想」というテーマが非常に難しいものであるだけにしょうがないのかとも思う。しかしここに収録された多くの研究が、フィールドワークに基づいた具体的・帰納的・現実的な事実を蔑ろにしていて、理念的・演繹的・図式的な理解に留まるものであることは、そのテーマが「思想」であるにしても残念である。

「食」という非常に現実的な対象を扱うわけだから、あくまでも現実の食べ物を相手にして考察を行うべきであり、理屈をこねくり回すだけの研究はしてほしくない。確かに要素に分けていって分析するという旧来の科学の手法では、食文化という総合的な現象は解けないのかもしれない。しかし「食文化は複雑系なのだから、要素に分けないでありのままに考察すべきだ」というような主張からは、結局表面的な結論しか出てこないということが、本書により図らずも露呈した感じがする。

とはいえ、面白い論考も中にはある。「医食同源」は日本で作られた漢語だとして薬膳理解を促す「薬膳と医食同源の由来」(田中静一) 、日本での脚気研究の展開を見る「鷗外と高木兼寛」(山下光雄)、茶の湯がもたらした料理への影響を語る「つつしみの美—近世初頭にみる料理観の転回」(平田萬里遠)、日本近代文学における粗食派と美食派について語る「文学にみる粗食派と美食派」(大河内昭爾)などは面白く読んだ。

まとまりがなく玉石混淆な、食文化に関する論考集。

2015年11月1日日曜日

『今こそ伝えたい 子どもたちの戦中・戦後 小さな町の出来事と暮らし』 野崎 耕二 著

南さつま市万世に育った著者が、戦中・戦後の出来事を思い出して書いた画文集。

著者の野崎 耕二さんのことは、萬世酒造の展示施設「松鳴館」で知った。松鳴館は基本的には焼酎造りの見学をするところだが、最後のスペースに野崎さんが描いた絵が常設してあったのだ。芸術的にどうこうということはよくわからないが、昔の素朴な暮らしぶりが生き生きと描かれていて、すごく好感を持った(参考:南薩日乗の記事)。

本書は、その野崎さんがかつて執筆した『からいも育ち』という画文集を大幅に増補改訂したものである。私は『からいも育ち』を読んでいないのでどこが増補されているのか正確には分からないが、本書のあとがきによると「戦中・戦後のことを十分に伝えられなかったとの思いを、ずっと抱いてきました」とあるから、多分戦争の話が補われているのではないかと思う。

しかし著者が戦争を体験したのは主に小学校低学年の時で、10歳くらいの時の話なのに、よくここまでいろいろ覚えているものだと感心する。しかもエピソード的に覚えているだけでなく、記憶から呼び起こして絵まで描いているわけで、それだけ戦争というものが強く記憶に残る出来事だったのかもしれない。

本書では、「小さな町の出来事」が全て一人の少年(だった人)の視点で書かれている。戦争への批判もあるにはあるがそれは思い返してみればの話で、子どもの頃は意外と何もわかっていなかったということが率直に語られる。特攻というものを知らされずに学校で特攻隊の見送りをしたエピソードや、戦争が唐突に終わっていたという話(ラジオがなかったので玉音放送を聞いた人はほとんどいなかった)は当時の実情の象徴だと思った。

そしてそういう深刻な話があるかと思えば、かなりの紙幅を割いて当時興じた遊びの数々もいろいろと説明されている。松林で遊んだ思い出、虫や小動物を獲った思い出、大勢で遊んだ思い出、全てみずみずしく語られて、他人事ながらノスタルジックな気持ちになった。

それから、個人的な関心としては、やはり昔の農業のことがとても気になった。サツマイモ、小麦、大麦、米、カボチャといったものの栽 培方法がところどころで書かれていて興味深い。現在と違う部分もあれば、同じ部分もある。特にカボチャの立体栽培をしているのは大変気になるところで、な ぜ昔の人は敢えて立体栽培をしていたのか非常に疑問である。

万世の戦中・戦後を、一人の少年とともに追体験する本。