2015年8月19日水曜日

『西南戦争 遠い崖—アーネスト・サトウ日記抄13』萩原 延壽 著

外交官アーネスト・サトウの日記で西南戦争の時代を読み解く本。

本シリーズの副題は「アーネスト・サトウ日記抄」となっているが、単なる日記の抄訳ではない。サトウの日記が縦軸とすれば、それに同時代資料が横軸に組み合わされ、重層的に時代の雰囲気が感じられる体裁となっている。アーネスト・サトウの日記を中心として明治維新を追体験する叢書と呼べるだろう。

本書の白眉は、なんといっても西南戦争での挙兵に際しサトウを訪ねてきた西郷隆盛との一席である。明治10年2月11日、もうあと数日で進軍を開始するというその時、西郷は旧知のサトウを突然訪問した。その時の様子をサトウはこう記す。
「西郷には約二十名の護衛が付き添っていた。かれらは西郷の動きを注意深く監視していた。そのうちの四、五名は、西郷が入るなと命じたにもかかわらず、西郷に付いて家の中へ入ると主張してゆずらず、さらに二階に上がり、ウイリスの居間へ入るとまで言い張った」
護衛たちは、他ならぬ西郷を監視していたのであった。西郷がこの外国人とどのような会話を交わすかを確認しなくてはならなかったのだろう。西郷はサトウとウイリス(鹿児島県に雇われていた外国人医師)に水入らずの状況で何か重要なことを語りたかったに違いない。それは護衛たちが家に入ることを西郷が制止したのを見ても明らかだ。しかし護衛は付いてきた。監視下に置かれた西郷は、サトウらへ伝えたかった何かを、遂に告げることはできなかった。結局、
「会話は取るに足らないものであった」
そうサトウの日記には記されている。これが、サトウと西郷の最後の別れとなった。

このとき、西郷はサトウに何を語りたかったのだろうか。それは多分、西南戦争という望まない内戦で兵を率いることの内心だったに違いないと思う。挙兵の本当の理由、そして自分が残せる最後の言葉を伝えたかったのだと思う。鹿児島の大勢の士族に慕われながら、実のところ孤独で四面楚歌だった西郷が、数少ない心を許せる旧友へ別れの挨拶に来た、その瞬間がこの時だったのだろう。ツヴァイクなら『人類の星の時間』に編んだような、そんな別れの時だった。

これ以降のサトウの日記は、外交官というより文人のそれへとなっていく。混迷する日本の状況、敬愛する西郷の悲惨な運命、それらについて深く語ることはしない。それが、サトウなりの西郷への愛情だったのかもしれないと著者は言う。ありそうなことだ。

サトウと西郷の別れという劇的な瞬間が収められた貴重な本。

2015年8月9日日曜日

『EUの農協―役割と支援策』 ヨス・ベイマン 他編著、株式会社農林中金総合研究所 海外協同組合研究会訳

EUが2012年に出した農協に関する包括的な調査報告書の日本語訳。

今のタイミングでEUが農協に注目するのにはいろいろな理由がある(その一つは「南薩日乗」でも触れた)。

農協の活動が盛んな国(フランスやドイツ)が農業全体も強い傾向があることから、農業振興をしていく上でEUは農協に着目しており、未だ農協が十分に整備されていない国々(特に東欧の旧社会主義国)での農協整備を進めたいという思いがその一つ。

もう一つは、EU域内における小売りの力がものすごく大きくなって来つつあるということ。EUの小売りはたった15のグループに牛耳られている(!)そうで、食品に関して言えばほとんどが110の小売業者の買付窓口を通じて購入されていると推定されている。

考えてみればこれはありそうなことで、EUという巨大な統合市場が出来れば、必然的に強いものが寡占していく流れとなるであろう。そういうわけで、EUの小売業界は少数のスーパーパワーが幅をきかせる状態になっているようだ。だが生産の方は昔ながらの小さな組合が中心で、生産者組織(農協)は何百もある。

そうなると当然、生産者の交渉力は弱くなる。市場を寡占する巨大な小売業者は、農産物を買い叩いて生産者を破滅させることすらできるようになるだろう。

もちろんそうなってしまったら困るので、この巨大な小売業の力に農協は対抗できるのか? ということが重要になってくる。これまで欧州の農協はうまくやってきたにしても、小売業者の力があまりに強くなりすぎた現在、それにどうやって拮抗していけばよいのか、そういう知恵が求められている状況である。要するに、フード・チェーンにおいて農協が小売りと対抗できる力を持つためにはどうすればよいのかということだ。

本書は現状報告書であり提言書ではないので、それに対する直接的な処方箋は書いていない。しかしいくつかの示唆が提示されている。

その一つは、農協の合併(特に国際的な合併)によって農協の規模を大きくすることだ。実際、欧州には1万人以上もの組合員を持つ国際的なメガ農協があって、こうしたところは小売りと十分に対決していける。

だが農協が大規模化すれば、管理者・使用者・投資者が同一である農協は経営が困難になる。組合員一人一票制の下で巨大な組織を運営していくことが困難なことは、日本で言えば相互会社がうまく経営できていない(現実の経営と組織規則上に規定する経営とが乖離している)ことでも例証されている。

他の策は、例えば生産物のブランド化といったようなことが挙げられているが、要するに投資家所有の企業と同じくらい経営を強くしなければならないということである。

ではどうやって経営を強化していったらいいのか。農協の経営を強化する支援策はあるのか、というのが次の問題になる。だがこれに対して、本研究は否定的な見解を述べる。欧州各国の制度、支援策、また歴史的経緯なども考慮した結果、農協の経営(市場規模ではかる)を強くする支援策や制度は存在しないらしいことが明らかになったのである。

ただし、直接的な支援策というわけではないが、未だ小規模な農協に対して、人材育成や技術支援を行うことは発達を助ける上で有効であるとは言っている(だがこれは当たり前すぎることだとは思う)。

逆に、農協の発達を阻害するものはかなり分かってきて、本書はこういうネガティブリストが大変役に立つが、その第一は「信頼の欠如」だという。例えば旧共産主義国で共同農場をやっていたようなところは、(他人を信頼するという素直な意味での)一般的な信頼が低下しているらしく、こういうところでは農協はうまくいかないそうだ。

農協とは相互扶助的な組織であるため、組合員や経営陣が互いを信頼し合うという状況にないと経営がうまくいかないのだという。日本の農協も、経営側と組合員側でかなり信頼が低下している現象が見受けられ、互いに疑心暗鬼になっているところがある。そういう状況では日本の農協の将来も暗い、と思わされた。

ところで本書では、農協を便宜的に8つの部門に分けて研究している。それは、①羊肉、②オリーブ、③ワイン、④穀物、⑤豚肉、⑥砂糖、⑦酪農、⑧果実・野菜、の8つである。このリストを見てすぐに気づくことは、鶏肉および牛肉が除外されているということである。本書を読む上での最初の疑問はなぜ鶏肉と牛肉が研究から外れたのか、ということでこれは本書のどこにも理由が書いていない。欧州では鶏肉・牛肉は農協が取り扱っていないのかとも思ったがそれはありそうにないことである。なんでなんだろうか。

それはともかく、日本の農協のあり方を考える上でも示唆に富む、農協の経営学ともいえる視野の広い本。

2015年8月3日月曜日

『西郷隆盛―西南戦争への道』猪飼 隆明 著

西郷隆盛の行動原理を説明する本。

西郷隆盛は不思議な存在である。明治維新の最大の立役者の一人であるにもかかわらず、(本意ではなかったとは言え)西南戦争を起こし、反明治維新の旗手ともなった。征韓論争では刎頸の友である大久保利通と鋭く対立することも厭わず、朝鮮との外交をなぜか強硬に主張した。そこには何か一貫しないものが感じられる。本書は、それを説明しようとするものである。

つまり、西郷の行動原理は一体何であったかということだ。それを一言にまとめれば、西郷はあくまで忠君たらんとした、と言えると思う。

幕末においては、自分を取り立てて表舞台へと引き出した島津斉彬公への敬慕が西郷を英雄にした。斉彬公が亡くなると殉死しようとしたが果たせず、内心軽蔑する島津久光へ仕えるものの、冷遇されやがて讒言により島流しに遭う。時を得て明治政府に復帰すると、大久保等のお膳立ての上で明治政府最大の改革の一つ「廃藩置県」を行った。これは藩を解体するということであるから、先君斉彬公の残した鹿児島藩もなくしてしまうということで西郷にとって非常に悩ましいことであったに違いない。

それは西郷ならずとも維新の志士の多くが抱えていた感情であったろう。藩の力を背景にして成立したのが明治政権であるのに、力の基盤であるはずの藩を自らの手で解体するということは大きな矛盾であったのである。

西郷はこの矛盾を、明治天皇への忠誠によって克服する。天皇に従うということは、藩主に従うということと矛盾しないのであり、より大きな立場で見たとき、仮に藩主の不利益になることでも、天皇の意志であればそれを貫徹することができたのだ。

一方、大久保等進歩派官僚・政治家にとってみれば、この時期の天皇は象徴的に至上権を有しているに過ぎず、自らの政策に大義名分を与えるための存在だった。いわば天皇を傀儡化して、実質的には少数の実力者の独裁政権を作っていたのである。この独裁体制のことを「有司専制」という。

西郷にとってはこの「有司専制」が気にくわない。西郷は共和制への理解を示しながらも、期待していたのは天皇による親政であったという。ただ、西郷という人はどこまでも軍人であり、行政官でも政治家でもなかったため、具体的にどのような政治体制にしたらよいのか、というような青写真があったわけでもなく、天皇への忠誠心の発露としてそうした空想的な体制を夢見ていたようである。

著者によれば、征韓の目的の一部もこの「有司専制」の打倒にあったという。ただ、これもまた具体的な青写真があったわけでないようだ。どうも西郷という人は、緻密に考えて動くというよりは、「至誠天に通ず」を地で行くような人で、ともかくも誠意を持って動いていれば結果的にはうまくいくに違いない、というような楽観主義があったようである。

しかしそれが裏切られたのが西南戦争だ。征韓論争に破れて下野したのち、鹿児島で士族の教育や社会事業(開墾)に取り組むが、結果的には不平を抱く士族たちを押さえることができず望まない開戦を迎えた。この戦争は大義なき戦争であり、士族たちの不平不満が爆発しただけのものだった。西郷にとっては、天皇に背いて反乱を起こすことはあってはならないことだっただろうし、おそらく開戦にあたって、やるだけやったら最後は自害と決めていただろう。天皇に逆らい、逆賊として人生を終えることは、西郷の最大の悲劇であり不幸だった。

西郷は古いタイプの人間だった。主君に忠義を尽くす人生を歩みたいと思っていたし、斉彬没後はそれに足る主君を探してもいた。そして見つけた主君こそが天皇だったのである。この西郷の態度はやがて日本全体へと広がり、国家神道の暴走も招くが、この時点では中世的な主君ー臣下の双務的関係だったようだ。もはやそうした古い関係の中で生きるのではなく、政治家・官僚といった国家システムの中で働くことが求められていても、忠君という行動原理しか内に持っていなかったのも西郷の不幸だったのかもしれない。

小著ではあるが西郷の葛藤が垣間見えるような優れた論考。

2015年7月31日金曜日

『麵の文化史』石毛 直道 著

麵の歴史を考察する本。

麵とは、伝統食品としては変わったところがある。作るのに特別な道具を必要とし、作るには手間もかかり技術もいる。手づかみでは食べにくく、箸や匙の使用を前提とする。さらには主食的なものでありながら肉や野菜も入っており副食的な部分もある。

このようなことから、ある文化が麵を食べるようになるには、ある程度の段階に達しなければならない。例えば最も道具を必要としないタイプの製麺方法である手延べ麵であっても、小麦の製粉のための道具(石臼など)がいるし、 麵を打つ台が必要である(ここまではパンと同じ)。

うどんのような切り麵だともっと道具は高度になる。麺棒は断面が真円に近くないとうまく麵が打てないので、木を削る轆轤(ロクロ)が存在しなくては麺棒が作れないし、台の方も真っ平らでないといけないので、真っ平らな台を作る技術や道具(のこぎり、カンナ等)が必要だ。

そしてこのように道具・技術・手間をかけて食品を作るという文化的・経済的余裕も必要である。

しかし一度麵を打ってしまえば、ワンプレートで主食と副菜が採れる上、茹でるのは簡単で調理の手間も時間もかからないことから、麵は外食向きの手軽な食品であり、麵の文化は外食する文化と共に発展してきた。いうまでもなく外食文化は都市化と関係があり、自給自足的経済には外食が存在しない。また高度な技術を要する麵打ちは家庭では作りづらいということも、麵が商品経済的な食品(つまり職人によって製造され販売される食品)となることに一役買っていた。

さらに、本書には指摘がないが、麵にはエネルギーの節約という側面もある。ご飯を炊くのには長い時間の炊爨(すいさん)を必要とするが、素麺を茹でるのはものの1~2分だ。しかも一度麵を茹でたお湯は次の麵を茹でるのにも使える。基本的には薪で火を焚いていた前近代社会では、特に人口が集積していた都市部で薪は慢性的に不足しており、エネルギー効率のよい麵食は歓迎されていた。江戸時代に蕎麦が流行したのも、薪の不足が原因の一つと言われる。

この麵という食品は、どこで生まれ、どう世界に伝播していったのだろうか。本書は、それを探るべく東アジアを中心としてフィールドワークし、また史料によっても探っていこうとする世界初の試みである。

その成果は下図に纏まっているが、一言で言えば、麵は中国に発祥し、5世紀頃に中国の文化を受容した地域(漢字文化圏)に広まり、近世(1700年代以後)に多様化していった、とまとめられるだろう。麵は特に箸で食べやすい食品でもあり、箸を使う地域での発展が顕著である。


なお図においては、地域ごとではなく麵づくりの技術によって系譜がまとまっている。すなわち、切り麵(うどん)、手延べ麵(ラーメン)、そうめん(道具をつかって細く長く延ばしていく麵)、押し出し麵(ビーフン)、河粉(東南アジアの麵)である。本書は、料理法や製法に着目して麵を系統分類している。

さて、中国が麵のふるさとであるとすれば、当然問題になってくるのはもう一つの麵食文化の中心地であるイタリアとの関係だ。イタリアのパスタは、中国に由来するものなのだろうか? 中国に直接由来する麵文化はカスピ海の東までしか存在しないのだが?

ここはまだまだ研究が進んでいないことで、本書でも控えめな表現で書いてはいるが、著者はやはりイタリアのパスタも中国からの伝来であると推測している。

というのは、イタリアのシチリアに12世紀にはあった「イットリーヤ」というパスタはアラブから伝えられた「リシュタ」というものを元にしていたらしい。この「リシュタ」は遅くとも10世紀には中央アジアにあったものらしいが、中央アジアはシルクロードによって中国の強い影響下にあったことを思うと、 この「リシュタ」が中国の麵文化と独立に発祥したものであることは考えがたい。要するに、シルクロードによって中国の麵はアラブを介してイタリアに渡り、パスタになったのだろうというのである。

さらに、本書には指摘がないが、元々ヨーロッパには硬質小麦(パスタを作るデュラム小麦など)はなく、硬質小麦をヨーロッパに伝えたのはアラブ人たちである。硬質小麦の伝来とあわせて、アラブ人たちが麵づくりの技術を伝承したということはありそうなことである。

ただし、イタリアのパスタの特徴であるネジ式の押し出し製麵は中国の押し出し麵とは独立してイタリアにおいて考案されたものだということだ。

ところで、本書は元々は日清の企業出版であったものが講談社文庫により文庫化され、内容が学術的なものであったためか改題して講談社学術文庫に移されたものである。原題の『文化麵類学ことはじめ』はユーモアがあってよかったと思うが、学術文庫に収載されるにあたりふざけるのはよくないとなったのか『麵の文化史』という真面目な題に改題されたのはちょっと残念である。

食文化の研究というのは世界的に見てもまだ始まったばかりで、身近に存在する美味しい食べ物の故事来歴というのは意外に謎なことが多い。麵という一つの食材を取ってみても分からないことだらけで、本書は麵文化を解明する最初の試みとしてほんのアウトラインを描くものだ。

麵を通じて文化の伝播まで考えさせる意欲作。


【関連書籍の読書メモ】
『食味往来—食べものの道』河野 友美 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/11/blog-post.html
日本における食べものの伝播を考える本。
食べものの道を考察することで、文化の伝播や食文化の価値を考えさせる良書。


2015年7月28日火曜日

『渡辺芳則組長が語った「山口組経営学」』溝口 敦 著

山口組五代目組長 渡辺芳則にインタビューした本。

渡辺は山口組組長としては異色の人物。先代の指名ではなく幹部の合議で組長に就任したし、少年時代もいわゆるワルではなく、少年院にも行っていない。賭け事はしないし、親はカタギで親との関係も良好(家庭に問題を抱えた人間がヤクザの道に入ることが多い)。そして山口組としてはヨソ者となる関東の出身。

本書は、「組長が語った山口組経営学」を謳っているが、実際には渡辺が組長に就任するまでの話がほとんどで、組長時代のことについては後日談的に語られるに過ぎない。

何しろ渡辺が組長を務める間には、暴力団対策法が施行された上にバブル後の不況時代でもあり、暴力団の経営は思わしくなかった。不況であったことと、暴力団が広域暴力団に集約されていく趨勢から、その間も山口組の団員だけは増え続け4万人以上になったのだが、シノギ(仕事)の減少や抗争の禁止などから組織が停滞して活力が失われた。そのため渡辺は事実上クーデターの形で司忍へと組長の座を明け渡すことになったのだった。

そういうことから、本書は「渡辺の「山口組経営学」は結果的に敗北した」と結ばれている。

「ナントカ経営学」というような本は、基本的に成功者が経営哲学を語るという体のものがほとんどだろう。それが本書は逆で、結果的に敗北したものが(未だ敗北していない段階で)語っているという点が一つの価値かと思う。なお内容は経営哲学を語るというようなものではなく、基本的には渡辺がいかにして山口組で上り詰めたか、という成り上がりストーリーになっている。

その言葉の端々に窺える組織論や人生論は、意外と(いい意味で)普通で、カタギの人間とそれほど変わったところがない。ある意味で暴力団というより実務家風な感じがした。だがその人間が、結果的にはクーデターで追い落とされているわけなので、やはり極道のトップは実務家では務まらなかったということなのだろうか。

ところで私は、ヤクザは日本社会を写す鏡だと思っている。ヤクザ組織は日本社会のいいところも悪いところも増幅して具現化したような存在である。そういう観点で見てみれば、渡辺の敗北もなんとなく分かる気がする。日本社会では、実務家はトップにいてはならないのである。

書名と内容はちょっと食い違っているが、暴力団の組織に関心がある人には楽しめる本。

2015年7月21日火曜日

『犬と鬼—知られざる日本の肖像』アレックス・カー 著

本書は、日本の政治・行政機構への痛烈なダメ出しの書である。

日本の政治・行政機構はバブル崩壊までは世界的に称讃され、研究もされてきた。世界一優秀な教育システム、倫理感のあるエリート、「日本株式会社」と呼ばれ官民一体で通商を振興する体制、そういうものの秘訣はどこにあるのか、多くの欧米の研究者が日本を訪れた。

また一方では、神秘的な日本文化——茶の湯や能、禅や古寺といった伝統文化も世界的に称揚されてきた。こうしたことから、ジャパノロジストと呼ばれる日本研究者が「神秘的な日本」、「東洋と西洋が融合した日本」、「技術立国であるとともに伝統的な価値観が残っている日本」という日本賛美の声を惜しげもなく注いできた。

しかしそれは本当だろうか? 日本の社会はそんなに褒められたものだろうか? いやそれどころか、今の日本は世界的に見て後れを取っているのではないか? 本書は、そういう観点から著者なりに問題だと思うところを延々と挙げていくものだ。

まずやり玉に挙げられるのは「土建国家」である。日本経済は土木工事なくては立ちゆかなくなるほどに土建業に依存してしまっている。余剰労働力を吸収できるところが土建業しかないために土建業に過度の税金が投入されている。そのため不必要な工事が無定見に行われ、美しい国土がコンクリートで覆われてしまった。どれくらいすごい量のコンクリートが使われているかというと、
「94年の日本のコンクリート生産量は合計9160トンで、アメリカは7790トンだった。面積当たりで比較すると、日本のコンクリート使用量はアメリカの約30倍になる」(p.52)
とのことだ。だだっ広いアメリカと面積当たりで比較するのはやや的確でないとしても、人口当たりで考えてもアメリカの倍はコンクリートを使っている計算だ。

しかも多くの日本人はそのことを当然だと考えている。災害の多い日本は、治山・治水に力を入れなければ手痛い目に遭うと思っており、土建業への依存はやむないこととされている。特に震災後は、土建業者がいつでも遊軍として控えていることが一種の防災であるかのように認識されてもいる。

確かに、日本は雨が多く山がちであり、舗装されていない坂道があろうものなら大雨ですぐに通れなくなってしまう。今でも東南アジアでは雨が降ると通行止めになる山岳地帯の道は結構あると思うし、気候条件がかなり違うアメリカやヨーロッパとコンクリートの多寡を単純比較することはできない。道路をアスファルトで舗装すること一つ考えても、日本と欧米では必要性の度合いが違うと思う。

しかし問題は、そうした土木工事が本当に意味のある工事となっているか、ということである。もちろん、例年、年度末になると予算消化のための工事が行われることを知っている我々は、とても全てに意味があるとは言えないことは本書に指摘されるまでもなく分かっていることだ。

そして治山・治水に必要な工事であっても、環境と周囲の景観に配慮し、最小の構築物で最大の効果を生む工事を行うべきだ。しかし日本では、本来の必要からかけ離れた大規模な——モニュメンタル(記念碑的)な、といってもよいような工事が好まれる。ほとんど車の通らない山道に、立派な橋が懸けられる。海岸線は、目を覆うばかりのテトラポッドで埋め尽くされる。山は切り開かれ、斜面全体がコンクリートの奇っ怪な格子で覆われるのである。こうして国土は醜くなっていく。

そんな工事は、本当に必要なのだろうか? いくら護岸工事が必要といっても、テトラポッドをむやみやたらに積み上げて効果があるのか? ちゃんと専門的な調査に基づいて護岸しなくては、逆効果なことだってある。護岸工事をしたら海岸の浸食が激しくなった、というような皮肉な話は、日本にはゴロゴロ転がっているのである。

このように、日本では、必要性は低いが金がかかる派手な工事はバンバン行われるが、逆に必要性は高いのに地味な事業には全然手がつけられないのである。

こうしたことは、新聞やテレビでもよく糾弾されていることであるから、あえて本書に指摘してもらうまでもないと思うかもしれない。確かにそういう面もある。だがそうした日本の「リアル」を外国人が英語によって発表(原題 "Dogs and Deamons")したことに意味がある。また著者ならではの視点での問題提起もたくさんある。

例えば、都市と景観の問題。日本でも都市計画はあるにはあるが、そもそも都市を美しくしようという意志に全く欠けており、電線の埋設一つとっても全然進んでいない。それどころか周囲の環境と調和しない奇抜な建物がドンドン建てられる状況にあり、例えば世界的な観光都市といえる京都ですら、一部の古寺を除けば電線とコンクリートの建物に溢れ、古都の情緒など微塵も存在しない。それどころか市内中心部の京都駅は古都らしからぬ醜悪な「現代建築」で、外には京都タワーが聳える。そして周りを見回せば品のない看板ばかり! どうしてこんな無秩序な景観になってしまったのだろうか?

日本は規制が多い社会と思われており、実際に煩瑣な規制はたくさん存在しているが、本質的に意味のある規制は少なく、ほとんど形式的なものであることが多い。よって規制が多いのに無秩序が横行している。景観や都市計画といった面では諸外国の方がよほど規制が多く、しかもその規制が実質的だ。しかし規制の多寡が問題なのではなく、規制によって実現しようとする理想の社会があるかどうか、ということが重要だ。

さらに、膝を打つ思いだったのが街路樹の管理の稚拙さ! 日本では街路樹の落葉が迷惑がられるためか、秋になると無残にもバッサリと街路樹の枝が落とされることが多い。それも不要な部分をバサバサちょん切ってしまい、非常に無様な姿になる。こんな無様な街路樹管理をしている都市は他の先進国にはないのではないか。一方で、盆栽を始めとして日本の庭木管理は高度な技術を持っているはずである。技術は持っているはずなのに、街路樹の管理がどうしてこうもおざなりなのか?

このように、本書は日本への愛のムチとも言える本であり、耳が痛いを通り越して不愉快な部分もある。時に少し偏った紹介の仕方もあるし、日本人として完全に同意できない点もある。しかしその主張は総じて「普通の日本人」の感覚に沿ったものである。普通の日本人が、「この国はどこかおかしい」と感じるそのボンヤリとした違和感を、外国人の視点からスバっと具体的に指摘してくれている。

才覚と能力に溢れた若者にとって、この国はもはやさほど魅力的ではなくなってきている。海外で一旗揚げた若者は、もう日本には戻りたがらない。「平和を謳歌している自由で裕福な国が、そこに属する最も優秀で野心ある人々にとって魅力がないというのは、世界史を見てもほかに例のないことだ。(p.343)」この一文には目が醒める思いだった。日本はまだ裕福で自由な国と呼べるだろうが、優秀な人間に見捨てられるほど、大きな問題も抱えた国なのだ。

ではその問題をどうやって解決していけばよいのか。本書は問題提起の書であり、処方箋を提示するわけではない。ある意味では言いっぱなしである。解決策を考えるのは我々の責任だ。日本社会には巨大な問題があるが、それを解決していくのは超弩級にやりがいのあることでもある。

日本の姿を率直に捉えて、これを改善していこうじゃないか、そういう気持ちにさせられる重要な本。

2015年7月6日月曜日

『百姓たちの幕末維新』渡辺尚志 著

幕末維新期における百姓の実態を探る本。

「百姓たちの目線から幕末維新を見直してみようと思います」と帯にあったので、私は幕末維新の動乱がどのように百姓たちの生活を変えたのか、あるいは百姓たちの力がどう時代を動かしたのか、ということが本書の主眼ではないかと思っていた。

しかし実際には、本書の内容は「幕末維新期における百姓たちの社会生活の一端を垣間見る」というようなものである。

例えば、本書では「抜地(ぬきち)」というものについて詳しく説明がなされる。これは土地が質流れして他人の手に渡ってしまう時、本来は土地に付属する納税(年貢)義務も同時に譲渡されるべきなのに、納税義務の方は元の持ち主にあるまま利用権だけが移ってしまった土地のことである。つまり納税義務者たる名義人と、実際の利用者が合致しない土地ということだ。どうしてこのようなことが生じるかというと、少ない土地でたくさんの金を質から借りたいという時に「納税義務無しの土地」ということにすればその価値は非常に高いので、困窮した百姓がこうした裏技を使って金を借りてしまったのだった。

しかし土地はないのにその納税義務だけあるということは、すぐに行き詰まるのは必然である。抜地が横行した結果、代官にも本当の土地所有者が誰なのか分からなくなり、適切に課税することができなくなって、困窮したものがなおさら困窮して没落していくという現象が生じた。

そこで抜地を解消し、土地の所有者と納税義務者を一致させる改革が必要になってくる。こうした改革を行うには、今風に言えば「言論」の力が必要になるのであるが、本書の白眉は百姓による「言論」がどんなだったかを詳細に記述している点である。時代劇によるイメージでは、百姓は代官に対して「慈悲を乞う」ような接し方しかしていなかったように思いがちであるが、実際には対等な形で非常に立派な議論を展開していることもあり、百姓のイメージが変わった。

それどころか、その議論の仕方を見ると現代の農家よりもよほど立派な部分があるようにも見受けられる。課題を認識し、解決策を自らの手でつくり出していこうとする努力は、ともすれば役所や農協に不満を言うだけで終わりがちな現代の農家よりも優れている。

もちろんそういう立派なやり方だけでもなかったのだろうが、「村」というものが意外と自律的かつ民主的な原理で運営されていて、身分の上下はありながらも武士と百姓が対等な言論によって課題を解決していこうとした(こともあった)ということがよくわかった。

このように、本書に出てくる事例はとても具体的なものであって、一つの案件を丁寧に追っていくということが長所である。「抜地」の部分などは誰それがこう言った、次にどう行動した、ということが詳細に語られ、現場の息吹が感じられる。だが逆にそれが短所でもあって、その現象が全国的に見てどう位置づけられ、それが幕末維新という動乱にどう関係したのか、というマクロな視点というのはほとんどない。

そういう意味では少し物足りないところもあるけれども、当時の百姓の「言論」の有様を知る上では好適な本。