2015年8月3日月曜日

『西郷隆盛―西南戦争への道』猪飼 隆明 著

西郷隆盛の行動原理を説明する本。

西郷隆盛は不思議な存在である。明治維新の最大の立役者の一人であるにもかかわらず、(本意ではなかったとは言え)西南戦争を起こし、反明治維新の旗手ともなった。征韓論争では刎頸の友である大久保利通と鋭く対立することも厭わず、朝鮮との外交をなぜか強硬に主張した。そこには何か一貫しないものが感じられる。本書は、それを説明しようとするものである。

つまり、西郷の行動原理は一体何であったかということだ。それを一言にまとめれば、西郷はあくまで忠君たらんとした、と言えると思う。

幕末においては、自分を取り立てて表舞台へと引き出した島津斉彬公への敬慕が西郷を英雄にした。斉彬公が亡くなると殉死しようとしたが果たせず、内心軽蔑する島津久光へ仕えるものの、冷遇されやがて讒言により島流しに遭う。時を得て明治政府に復帰すると、大久保等のお膳立ての上で明治政府最大の改革の一つ「廃藩置県」を行った。これは藩を解体するということであるから、先君斉彬公の残した鹿児島藩もなくしてしまうということで西郷にとって非常に悩ましいことであったに違いない。

それは西郷ならずとも維新の志士の多くが抱えていた感情であったろう。藩の力を背景にして成立したのが明治政権であるのに、力の基盤であるはずの藩を自らの手で解体するということは大きな矛盾であったのである。

西郷はこの矛盾を、明治天皇への忠誠によって克服する。天皇に従うということは、藩主に従うということと矛盾しないのであり、より大きな立場で見たとき、仮に藩主の不利益になることでも、天皇の意志であればそれを貫徹することができたのだ。

一方、大久保等進歩派官僚・政治家にとってみれば、この時期の天皇は象徴的に至上権を有しているに過ぎず、自らの政策に大義名分を与えるための存在だった。いわば天皇を傀儡化して、実質的には少数の実力者の独裁政権を作っていたのである。この独裁体制のことを「有司専制」という。

西郷にとってはこの「有司専制」が気にくわない。西郷は共和制への理解を示しながらも、期待していたのは天皇による親政であったという。ただ、西郷という人はどこまでも軍人であり、行政官でも政治家でもなかったため、具体的にどのような政治体制にしたらよいのか、というような青写真があったわけでもなく、天皇への忠誠心の発露としてそうした空想的な体制を夢見ていたようである。

著者によれば、征韓の目的の一部もこの「有司専制」の打倒にあったという。ただ、これもまた具体的な青写真があったわけでないようだ。どうも西郷という人は、緻密に考えて動くというよりは、「至誠天に通ず」を地で行くような人で、ともかくも誠意を持って動いていれば結果的にはうまくいくに違いない、というような楽観主義があったようである。

しかしそれが裏切られたのが西南戦争だ。征韓論争に破れて下野したのち、鹿児島で士族の教育や社会事業(開墾)に取り組むが、結果的には不平を抱く士族たちを押さえることができず望まない開戦を迎えた。この戦争は大義なき戦争であり、士族たちの不平不満が爆発しただけのものだった。西郷にとっては、天皇に背いて反乱を起こすことはあってはならないことだっただろうし、おそらく開戦にあたって、やるだけやったら最後は自害と決めていただろう。天皇に逆らい、逆賊として人生を終えることは、西郷の最大の悲劇であり不幸だった。

西郷は古いタイプの人間だった。主君に忠義を尽くす人生を歩みたいと思っていたし、斉彬没後はそれに足る主君を探してもいた。そして見つけた主君こそが天皇だったのである。この西郷の態度はやがて日本全体へと広がり、国家神道の暴走も招くが、この時点では中世的な主君ー臣下の双務的関係だったようだ。もはやそうした古い関係の中で生きるのではなく、政治家・官僚といった国家システムの中で働くことが求められていても、忠君という行動原理しか内に持っていなかったのも西郷の不幸だったのかもしれない。

小著ではあるが西郷の葛藤が垣間見えるような優れた論考。

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