2021年6月2日水曜日

『新編 大蔵経—成立と変遷』京都仏教各宗学校連合会編

大蔵経の歴史を描く本。

大蔵経とは、仏教の経典や律・論書等、すなわち仏教のテキストの集成である。それはただテキストを集めたものではなく、大蔵経に編入(入蔵)するかどうかは、中国においては皇帝の勅許を必要としたほど権威ある集成であり、大蔵経は仏教テキストの正統にして最大のデータベースであった。

大蔵経は、成立の当初からかなり大部であった。劈頭に置かれることが多かった『大般若経』だけでも600巻あって、その全体は時代ごとの変遷はあるが大体5000巻余りを要したのである。であるから、これを出版するという事業はとても個人の力のなし得るところではなく、国家またはそれに並ぶような権力・財力によってようやく可能となるようなものだった。

即ち、大蔵経の歴史を繙くことは単にテキストの行方を追うだけでなく、国家と仏教の関係を概観するようなことでもあるのだ。

インド

仏教テキストが最初にまとめられたのはインドであり、幾たびか「仏典結集」が行われてテキストが整理されていった。しかし小乗仏教においては、論や律はテキスト化されたが、経典は基本的に口誦するものであり写本は作られなかったようである。経典が写本化していくのは大乗仏教以降であり、現在発見されている最古の写本はガンダーラから発見されたカローシュティー文字のもので紀元1世紀のものである。

中国

一方、中国においては仏典は翻訳によって普及した(最初からテキストで流布した)。そして翻訳の混乱を避けるため、翻訳された仏典の目録を作ることが次第に大蔵経に繋がっていく。特に五胡十六国時代には仏教が非常に盛んになってテキストの整備が進んだ。しかし中国では廃仏運動もたびたび起こり、特に隋代の前には徹底的な廃仏があった。隋代には、逆に仏教の復興運動が起こって、初めて組織的に大蔵経を整備する体制が作られた。隋代には写本の一切経(大蔵経の先蹤)もたくさん作られたようである。

唐代には『開元録』全20巻が著される。これは大蔵経編成史上、最善の総合目録である。これにより1076部、5048巻の大蔵経の構成が明示され、その後の大蔵経は『開元録』の構成を長く踏襲した。またこの頃より入蔵には勅許が必要とされるようになった。

なお、こうした大蔵経編纂の動きとは別に、石刻経典が制作された歴史もある。末法思想などを受け、仏典の永続性を願い、経典を石に刻んだのである。特に隋代の静琬(じょうえん)は、全経典の全文を石板に刻んで洞窟内に封蔵し、法滅の到来に備えるという異次元の事業を企画した。この事業は300年かけて完成され、さらに補刻追雕は明末まで約一千年に及ぶ一大護法事業であった。これは今でも1万4620石が保存されている。

開板(印刷)の大蔵経のはじめは、宋の太祖による開宝蔵(蜀版大蔵経)である。太祖は四川の人心収攬政策の一環としてこれを企画したと見られる。開宝蔵は日本僧奝念(ちょうねん)によって日本にももたらされ、藤原道長に献上された。その後、金版大蔵経、契丹版大蔵経、などが開版された。

さらに11世紀後半からは、国家ではなく寺院による大蔵経開板が行われる。蜀版大蔵経以来の伝統がある福建では福州東禅等覚院、それに続き福州開元禅寺が開板。江南では思渓円覚禅院、蹟砂延聖禅院、白雲宗教団の普寧寺などが大蔵経を開版した。これらは、地域の富豪や名家からの協力や浄財を募って実施されるプロジェクトであった。ただし、蹟砂延聖禅院の場合は、なんと僧了懃(りょうごん)によるたった一人の個人的運営でスタートした。しかしそれにしても大檀越(支援者)が現れてようやく事業が進捗していったのである。

なお白雲宗は仏教系の新宗教であったが、元のクビライに教団の公認と大蔵経開板の許可を取り付け、14年という短期間で完成した。普寧寺蔵は中国のみならず日本にも多くもたらされた。(なお元は勅版大蔵経もつくっている。)

明代になると、南・北両京で勅版大蔵経が開板した。南蔵は、洪武南蔵と永楽南蔵の2種が作られた。北蔵は、永楽帝によって永楽南蔵と時を隔てずして企画され、非常に精確であったが宮中に秘蔵され、「特賜」や「奏請」以外に入手が不可能だった。そのため明末にはその普及版とも言うべき嘉興蔵が寺院・民間の力によって開板された。嘉興蔵の大きな特徴は、それまでの折り本に変わって袋とじ製本を採用したことである。南蔵・北蔵は日本へは舶載されなかったが嘉興蔵は50蔵以上輸入されたと見られる。

清代では、雍正帝が大蔵経開板を企画して乾隆帝の時に完成した。これが龍蔵である。中国では、古代から近世までずっと大蔵経が作られ続けていたといえる。その事業の目的は必ずしも弘法だけでなく、政治的な意図も多分に含まれていたのであるが、大蔵経が国家・民間のそれぞれで継承・発展せしめ続けられてきたのは確かである。

朝鮮

朝鮮では高麗時代に2度の大蔵経開板が行われた。1度目は、契丹の侵攻を受けて、仏力による契丹退散を祈願して大蔵経が開板された。この版木はモンゴルの侵攻によって焼失してしまったため、モンゴル軍の退散を祈願して2度目の大蔵経が開板された。

日本

日本では、奈良時代に(「大蔵経」ではなく)「一切経」の書写が盛んになった。「一切経」は当時の用語で、大蔵経よりも意味が広く、たくさんのお経の集成といった意味合いで使われていた。最古の確実な一切経書写は「聖武天皇発願一切経」。国家的な写経機構もあり、7〜8世紀には頻繁に一切経の書写がなされた。

平安時代前期には一切経書写は一時低調になるが、9世紀には律令国家が諸国に一切経の書写を命じ、実際に(全国でないにしても)実行に移された。また平安時代後期になると、各地の寺社で勧進(寄附集め)による一切経書写が広く行われるようになった。また奝念によって開宝蔵が日本にもたらされると(前述)、筆写ではなく印刷の大蔵経が正統な一切経であるという意識が生まれ、強い憧れが生じた。

11世紀になると、末法思想の影響を受けて一切経を供養する「一切経会」が行われるようになる。これは、衆僧を請じ、転読あるいは真読して供養し、またそれに付随して管弦舞楽を行う貴族の遊楽の行事である。

中世に入ると、栄西、重源らは宋版の大蔵経を持ち帰り、次第に大蔵経が宗教的・政治的に重要な役割を果たすようになっていく。それには、二度の元寇の脅威も影響していた。大蔵経に国土安全や攘災の役割が期待されたのである。例えば、弘安2年(1280)、西大寺の叡尊は亀山天皇からの勅命を受けて、多くの僧侶を率いて伊勢神宮(内宮・外宮)に参詣し、亀山天皇から託された大蔵経を内・外宮に献納した。神社に大蔵経を献納するというのが今から見ると面白い。また禅僧で宗像社一宮座主だった色定法師は一人で一切経を書写した(色定法師一切経)。一切経会も賀茂社など神社で催されるのが恒例だったが、神社でも一切経は重んじられたようである。

南北朝・室町期で注目されるのは、足利尊氏発願の一切経である。尊氏は南北朝動乱で命を失った敵味方一切の亡魂供養のために一切経書写を発願した。この一切経は、亡魂供養のみならず政治的混乱を収拾し、社会の安定を図る意図が込められていた。後年、足利義満によって万部経会が始められ、歴代将軍が参詣する北野社で行われる重要行事となった。このため、北野社ではこの法会を管掌した覚蔵坊増範が主導して一切経が書写された(北野社一切経)。

室町期、特に応永年間には多くの大蔵経が海外(特に高麗)に求められた。しかも足利義持は高麗に大蔵経の版木を譲ってもらえるように交渉した(当然断られた)。この時期は「応永の平和」と呼ばれる安定期である。かつては元寇によって大蔵経の価値が高まった一方で、平和になっても大蔵経が求められたのが不思議といえば不思議である。しかしさらに不思議なことに、大蔵経の需要は大きかったのにもかかわらず、日本で大蔵経が開板されることはなく、海外に依存していた。一切経の書写は多く行われていたにもかかわらず印刷はされなかったのはなぜか。技術的な問題だけでなく思想的なものが関わっていそうである(筆写の方が有り難いという認識があったのかもしれない)。

江戸期に入ると、遂に日本でも大蔵経が出版される。しかも宗存版、天海版、鉄眼版と、立て続けに3回も開板された。

宗存版の著しい特徴は、それまでの大蔵経が木版による整版だったのに対し、古活字版だったことである。宗存版は残念ながら未完に終わったが、世界初の活字版大蔵経であった。なお印刷は北野社の経王堂(万部経会を開催するための広大な建物)で行われた。

天海版は、徳川家光の支援を受け、日本初の活字版大蔵経として完成した。印刷部数は30部程度と少ないが、出版文化史に残る業績である。

鉄眼版は、いわば普及版の大蔵経である。黄檗僧の鉄眼道光は何の資金的裏付けも持たない一介の僧侶であったが、全国に行脚して浄財を集め、非常なる情熱で全6930巻を完成させた。これは全国に予約販売のような形で販売され、当時405蔵が納入されたという。昭和までに2000蔵以上が納品されたヒット商品であった。鉄眼版大蔵経によって全国共通の大蔵経の底本ができたことは、日本の仏教を大きく転換させるほどのインパクトがあった。これをきっかけに、以後の各宗派では盛んに校訂が作られ、近代仏教学の成立に繋がっていった。

明治になると、日本初の金属活字を利用した「大日本校訂大蔵経(縮刷大蔵経)」(明治14年)が出版された。これは廃仏毀釈で痛手を受けた仏教界の再興を願って、島田蕃根(みつね)、福田行誡(ぎょうかい)が企画したものである。これは明治の仏教学研究に大きな影響を与え、海外でも評価された。

有名な「大正新脩大蔵経」(昭和9年完成)は、それまでの大蔵経とは違い研究のためにまとめられたもので、大蔵経の集大成でもあり、仏教研究の基礎的文献として世界各地で今でも使われている(DB化されてインターネットで利用出来る)。

本書では大蔵経の歴史を書くにあたり、それぞれ判型(一行何字・何行といった)や千字文函号(いろはに…と同じような千字文の字によるナンバリング)の有無をまとめており、そうした形式面の変遷をたどるだけでも面白い。

本書を読みながら驚きを禁じ得なかったのは、冒頭に書いたように大蔵経の出版は「とても個人の力のなし得るところではない」のにもかかわらず、それに果敢に挑戦した無謀な人物が歴史にはたびたび登場することだ。

では、彼らは何故人生を賭けてまで大蔵経を出版しようとしたのだろうか? 本書にはそれは詳らかに書いていないし、そもそも発願の趣旨は史料に残っていることは少なく、よくわからない。弘法のためということは言えても、弘法の手段としてなぜ一切経の出版を選んだのか、そこは非常に興味を引かれるところである。

その点に関して一つ言えることは、中国と日本・朝鮮では大蔵経の持つ意味が少し異なっていたということだ。中国では、大蔵経はテキストとして意味があったが、日本・朝鮮ではテキストの内容よりも大蔵経の存在自体に象徴的意味を見出していたように見受けられる。元寇に際して高麗が大蔵経を開板して攘災を願い、また叡尊が伊勢神宮に大蔵経を献納して敵国降伏を願ったように、大蔵経は不思議な力を持っているとさえ見られていた。大蔵経は、テキストの集成以上のものだったのである。

大蔵経とは何かを学ぶための最良の本。

 

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