2019年7月11日木曜日

『日向国山東河南の攻防—室町時代の伊東氏と島津氏』新名 一仁 著

鎌倉から室町までの日向国山東河南の歴史について、島津氏と伊東氏の関係を軸に語る本。

日向国の「山東河南」とは、宮崎県平野部の大淀川南岸を指す。ここは島津氏、伊東氏の領国の境界に位置していたため、その勢力が激突する場所であった。

鎌倉時代の山東
鎌倉時代の初め、宮崎県の荘園は、島津荘(約45%)・宇佐八幡宮領(25%)・王領(皇室領)国富荘(約20%)の3つで9割を占めていた。

ところが建仁3年(1203年)「比企能員(ひき・よしかず)の乱」が起こると島津氏は縁座(親類として巻き添えになって罰せられること)により薩隅日三カ国の守護職および島津荘惣地頭職を解任させられた。島津氏は後日薩摩の守護職には復帰するものの、日向からは手を引くことになり、広大な島津荘は北条氏が管理するようになった。

宇佐八幡宮領については、実際には様々に分割され、宇佐八幡宮の支配を離れて各荘ごとに領主が存在する状態となっていた。元寇より後、ここに伊東氏の一門、庶子家が下向してくる。伊東氏は静岡の伊東を本拠地とする鎌倉御家人であったが、幕府の依頼を受けて庶子家を下向させたのである。それが、田島伊東氏(田島荘)、門川伊東氏(富田荘)、木脇伊東氏(諸県荘)の3家であった。

国富(くどみ)荘については、鎌倉時代を通じて王領として維持され、鎌倉時代の最後には地頭として北条泰家が支配していた。

戦乱の始まり
鎌倉時代末はこうした状況にあったが、鎌倉幕府が滅亡して建武の新政が敷かれると、こうした土地は後醍醐天皇によって没収され、功績があった家臣達に分配されることとなった。国富荘・島津荘日向方を与えられたのが足利尊氏である。

ところが建武の新政は2年ほどで瓦解、足利尊氏は後醍醐天皇により追討令が出される。こうして国富荘・島津荘はある意味「無主」の状態となって奪い合われるのである。

この混乱に乗じて山東に進出してきたのが、都城盆地の三俣院を本拠地とする肝付兼重(きもつき・かねしげ)と、木脇伊東氏の伊東祐広(すけひろ)であり、これに対立したのが尊氏方を貫いた在地勢力の土持宣栄(のぶひで)である。 一方尊氏は、薩摩・大隅の両国には守護・島津貞久を下向させ、日向国には畠山直顕(ただあき)を「大将」として派遣し、肝付兼重・伊東祐広の討伐を命じた(建武3年(1336年))。

日向に下向した畠山直顕は、穆佐(むかさ)院・国富荘を本拠地として日向国を平定し、追って畠山直顕は日向国守護職に昇格したが、観応元年(1350年)「観応の擾乱」が起こる。「観応の擾乱」では畠山直顕は足利直冬方となって(結果的に)尊氏方・南朝方と対立。そしてこの混乱期に、直冬方として伊東本宗家は日向に下向してくるのである。

伊東本宗家の山東進出
しかし伊東本宗家当主・伊東氏祐は、すんなりとは山東に入っていくことができなかった。畠山直顕の軍門に降ってからも支配権を保持していた伊東祐広の子・守永祐氏が阻んだのだ。そこで伊東氏祐は、守永祐氏の娘を妻とすることで和睦し、その権益を継承する形で都於郡(とのこおり)に入部した。

一方、鎌倉幕府滅亡に際し、後醍醐天皇の下で一時は大隅・日向国の守護職も回復した島津貞久だったが、尊氏配下になるのが遅れたためか日向国守護職は大友氏に奪われる。ところが征西将軍宮懐良(かねよし)親王が下向し九州での勢力が大きくなると、大友氏や島津氏を初めとした多くの武家方国人は宮方に寝返った。そして貞久の三男氏久は畠山直顕を撃破して日向国進出を確固たるものにしていった。

そんな中、武家方の挽回のために九州に派遣されたのが今川了俊である。今川了俊は九州を制圧する勢いだったものの、島津氏と友好関係にあった前筑前国守護の少弐冬資(しょうに・ふゆすけ)を謀殺したため島津氏とは対立。今川了俊は伊東氏、土持氏などを反島津でまとめて国人一揆を主導したがさしたる成果もなく瓦解。やがて今川了俊は京都へ召還された(応永2年(1395年))。

そういうゴタゴタの間に、伊東本宗家の伊東祐安(すけやす)(氏祐の子) は国富荘を実効支配していった。これは違法な占拠だったが、今川了俊は島津氏との対抗上これを黙認。一方で国富荘は幕府にとって重要な経済基盤だったため、幕府は島津氏に国富荘を奪還するよう命じた。こうして国富荘を巡って、島津氏と伊東氏が対立するようになった。

島津家の山東進出
今川了俊の召還後、島津氏は山東に侵攻し加江田城を攻略(応永6年(1399年)頃)。国富荘全域を手に入れることはできなかったが、山東河南の一部を実効支配することとなった。さらに、本来は国富荘を奪還するよう幕府から命じられたことが大義名分だったにもかかわらず、島津氏は強引なロジックによって実効支配を幕府に追認させ、島津元久(氏久の子)は大隅・日向国守護職に命じられ、島津家は薩隅日の三カ国の守護職を手に入れた。

山東が係争の地となったのは、山北にいた島津氏の庶子家(北郷家や樺山家)からの要請もあったが、それよりも大きかったのは山東河南、つまり大淀川周辺が海運の要衝だったからである。内陸の大荘園である島津荘は、収穫物や貢納の運搬のために港を必要とした。であるから、山東の海岸までの領有権を確立することが重要だったのである。

山東河南への進出を果たした島津元久は、その支配のために異母弟の島津久豊を派遣した。そこで思わぬことが起こる。久豊は元久に無断で、伊東祐安の娘を妻に迎えて勝手に伊東氏と和睦してしまったのである(応永8年(1401年))。元久はこれに激怒。また伊東庶子家や山東の在地勢力も本宗家の単独講和を認めなかった。そのため元久と山東国人が結託し、島津久豊・伊東祐安連合との間で紛争が勃発する。この紛争は戦闘にまでは到らず、結局久豊と祐安の娘の間に生まれた虎寿丸を元久の人質にすることで和睦が成立した。

島津家の内訌と伊東祐立の侵攻
島津元久が没すると、島津本宗家の家督は元久の妹と伊集院頼久の間にうまれた犬千代丸に移ることになっていたが、これを阻止する形で久豊がクーデターを起こし家督を奪取した(応永18年(1411年))。伊集院家と島津家旧主流派(総州家)はこれに反発し、久豊方との抗争に突入する。その空隙を塗って、久豊の義兄弟にあたる伊東祐立(すけはる)(祐安の子)は山東河南に進出。北郷氏・樺山氏・佐多氏などを中心とする島津勢は「曽井・源籐合戦」で大敗、さらに久豊の居城だった穆佐城も焼き払われた。こうして伊東祐立は念願だった山東河南の制圧に成功した。

その背景には、かつて伊東本宗家よりも強い立場だった庶子家(田島伊東氏、門川伊東氏、木脇伊東氏)を婚姻政策によって内部に取り込み、伊東家一門の結束を固めつつ本宗家の求心力を高めた地道な「血の結びつき」の構築があった。

さて、当然島津久豊としては奪われた山東河南の奪還を図る。伊東氏は講和を申し込んだが久豊はこれを拒否し侵攻。加江田城を陥落させ同城に居住した。1425年(応永32年)、久豊は病没し、山東制圧の宿願は穆佐城生まれの嫡男忠国に引き継がれた。また庄内国人(北郷氏や樺山氏)にとっても庄内の外港であった山東河南の奪回は宿願だったから、大規模な山東侵攻が行われるが島津勢は大敗を喫する。

しかもその隙を縫って、薩摩国では「国一揆」とよばれる反島津の反乱が起きた(永享4年(1432年))。中心人物は伊集院煕久や渋谷一族である。しかし忠国は山東侵攻を中止せず、伊東・土持連合軍と合戦。決着はつかなかったが伊東氏が領地を割譲することで和睦し、忠国は飯野や穆佐を回復したものの、「国一揆」への対応のまずさのためか失脚し、事実上のクーデターによって庄内末吉に隠居させられ、一躍リーダーとして擁立されたのが弟の持久(もちひさ)だった。こうして島津家は忠国派と持久派の泥沼の抗争に巻き込まれていく。

伊東氏中興の祖、伊東祐堯
そんな中で伊東本宗家の家督を相続した伊東祐堯(すけたか)は、島津氏が内訌で弱体化している間に国人支配(一揆の結成)と一族の結束を高め、山東全域の制圧に乗り出す。次々に山東を制圧すると、島津氏の拠点・加江田城、穆佐城も攻略し、遂に山東全土を統一した。後に「伊東四十八城」と呼ばれる広大な領域が伊東氏の支配下となっていったのである。

同じ時期、島津忠国・持久はようやく和睦し、また追って伊東氏とも和睦した。これにより島津氏は一時的に山東奪回を諦めることになる。 忠国の嫡男立久が忠国を加世田に追放する形で家督を相続すると、政治的には融和路線となり情勢は安定。さらに伊東祐堯とも改めて和睦し、立久は祐堯の娘を妻に迎えて血縁の上でも関係強化を図った。そして伊東氏の山東支配を認める代わりに、島津氏は庄内支配を強化していった。

島津氏が体制を立て直し、伊東氏とまた対決するようになるのは、16世紀に島津忠良・貴久親子が守護家を継承してからのことである。

さて、鎌倉時代から室町時代までの山東の歴史を見て感じることは、最終的に山東統一を成し遂げる伊東本宗家は決して最初から支配的な勢力ではなかったということだ。むしろ先行的に下向していた庶子家や土持氏のような在地勢力の方がずっと強かった。本宗家であるという権威も、ほとんどなかったように思われる。そんな伊東本宗家が結果的に山東の覇者になったのは、伊東祐安とその孫の祐堯の周到な婚姻政策が大きく影響していたのかもしれない。この頃、島津氏と伊東氏は対立しながらも関係を強化しており、久豊とその孫の立久は伊東氏から妻を迎えている。その微妙な距離感は興味がそそられるところである。

ところで正直に言うと、本書はほぼ2回読んだがなかなか歴史が頭に入ってこなかった。記述はわかりやすく簡にして要を得ているが、逆に言うとちょっと「分かっている人向け」の面もある。よりかみ砕いて説明し、人物像のイメージが湧くようなエピソードも添えてもらえると詳しくない人にも楽しめると思う。

やや専門的だが、マイナーな山東の戦乱の歴史がよくまとまった本。


0 件のコメント:

コメントを投稿