産業革命以後19世紀半ばまでの、イギリスの市民生活について書いた本。
言うまでもなく、産業革命を発端とした近代的産業の成立は人々の暮らしを大きく変えた。イギリスは、いわばその変化の先頭に立った国である。本書では、産業革命によって引き起こされた社会生活の変化を、主に下流から中流階級を中心として見ていくものである。
産業革命は、新産業の勃興であったが、それは違った面から見ると旧産業の破壊であった。これは平和的に移行した部分もあれば、例えばインドのキャラコ産業のように、意図的に撲滅させられた場合もあった。イギリスはどうしてもインドのキャラコ産業に打ち勝たなくてはイギリス製の綿布を普及させていくことができなかったため、インドのキャラコ職人を捉えて腕を切り落とし、あるいは目をくりぬいたのであった。
そういう非情な手段が使われたわけではないが、イギリス国内でも平穏な農村の暮らしは破壊され、社会的な平衡状態は打ち砕かれたのである。
そうして、都市には新たな社会が勃興してきた。この新たな社会は、貧困にまみれた労働者と、新興の資本家によって象徴される。労働者は汚穢の中で生き、満足な食事も摂ることができないまま長時間働かされ、ひどいところでは平均寿命は15歳の短さだった。この境遇は、経済発展によって自然に解消されることになるが、産業革命の背後には、当初は黒人奴隷、そして次にイギリス国内の労働者の犠牲があったのである。
一方で、新興の資本家は、富を背景にしてやがて貴族のマネをし始める。当初は富と社会的地位は必ずしも一致せず、資本家はいくら大金持ちであっても、貴族よりは権威が低いと思われていたが、資本家も広大な土地を購入して邸宅を構え、貴族と変わらない暮らしをするようになると次第に貴族との境界は薄れていった。
このように、産業革命で旧産業や旧社会のしくみが崩れ、身分制のタガが外れてくると、下流階級は中流階級のマネをし、中流階級は上流階級のマネをするという現象が生じてきた。これは、一見してそう思うほど当たり前のことではない。フランスではこの頃、階級制が割とはっきりとしていたため、イギリスのような階級上昇のメカニズムが働かなかった。隣の人よりも、いい暮らしをしたい、少なくとも「いい暮らしをしているように見せたい」という虚栄の気持ちが、余暇を削ってでも労働に勤しむという行動を産み、経済発展に繋がっていった。
本書でも、「勤勉」の理念の元としてウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」が援用されて説明されるが、これは今日ではほぼ否定されている説であり、それよりも、この「虚栄」が「勤勉」に繋がっていくという説の方が説得的と感じた。
本書ではこうした通史的部分の他に、コーヒーハウスが社会に果たした役割、服飾革命など生活の国際化、食事・娯楽・旅行など生活のレジャーの面、上流階級の生活といったものがトピック的に扱われ飽きさせない。
著者の角山 榮は経済史家。この他、川北 稔と村岡 健次が執筆している項目がある。
産業革命以後の社会変化を裏側から見る面白い本。
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