2025年10月20日月曜日

『日本造形史—用と美の意匠』水尾 比呂志 著

日本美術の歴史を、生活・宗教・作家の三側面から述べる本。

本書は、武蔵野美術大学での講義に基づいて著述した『日本美術史』を元として、武蔵野美術大学造形学部通信教育課程のテキストとして、タイトルを改めて補訂出版されたものである。

では「美術」から「造形」へのタイトル変更はどういった思想に基づくかというと、著者の美術への根本的な認識が「用」にあることにあるらしい。 著者は、「用」に即する「生活のための造形」があり、また精神的生活のための「用」として「宗教の造形」があり、またこれらの「用」から発展して「作家の造形」という「美術」が生まれたと考える。そのため、本書は「生活の造形」「宗教の造形」「作家の造形」という3部構成となっている。

「第1部 生活の造形」では、狩猟民、農耕民、王族、公家、武家、町衆、民衆の造形を語っている。生活の場面というよりは、生活スタイル・階級に即して関連の造形を語るという方法である。

「第2部 宗教の造形」は原始信仰、神道、顕教、密教、浄土教、禅という章立てである。ここで民間信仰がないのは少し気になる。

「第3部 作家の造形」では、画家、書家、彫刻家と工藝家、茶匠と花匠について語っている。第3部は、名の残っている人について語る部分である。

本書を網羅的にメモすることは骨が折れるので、以下気になったところや感じたことだけメモする。

先述のとおり、著者は「用」を最も重要に考え、民芸運動などを高く評価している。逆に言えば、「用」のない、純粋な美術品についてはやや辛口である(形式化しているなどと批判する)。しかし「用」のみで事足れるならばそもそも「美」など必要がない。これに対し著者は、「用」は重要であるが、「実用性は、ただに実用の機能の充足のみによって満たされるものではなく、心理的充足も大きな比重を占める(p.28)」という。つまり、心理的に充足させることも「用」の一つだとみている。よって「物心両面よりする実用性への志向(同)」が大事だという。

例えば縄文土器には様々な紋様が施されているが、実用性だけ考えれば紋様は不要だ。しかし紋様によって心理的にも充足する、と著者は捉える。一方、弥生土器では装飾が控えめになるが、これを著者は「(装飾が)器の機能に従属して、心理的快感を控え目に充たす、という工藝品の装飾の基本を守ったもの(p.46)」と捉える。これでは、結局は「どうやったら心は充たされるのか」という答えのない領域に造形の解明が押しやられるような気もする。

そもそも、著者がいうように心理的に充足させることも「用」の一つだとするなら、鑑賞のみを目的とした純粋な美術品だって十分に「用」を目的とすると言える。 このように「用」に「心理的充足」を含める著者の立場は論理的に堅牢でない。少し注意が必要だと思った。

面白い指摘が、屏風が大量に制作されたことがやまと絵の成立を促したということだ。日本では絵画も中国の影響が大きかったが、屏風が大画面であることが唐絵とは違うデザイン感覚をもたらしたという。また、巻物も横長の画面である上、時間的な遷移も表すため、「世界に稀な絵画形式と価値(p.85)」を生んだという。こうした、形態から内容の発展を跡づける考察は面白い。

茶の湯(本書では「茶道」の用語を使う)が日本人の美意識に与えた影響は大きい。それは批評や評価を伴い、造形の美を享受し論ずる美学が発達したためである。足利将軍の同朋衆能阿弥や相阿弥は唐物奉行として「君台観左右張記(くんだいかんそうちょうき)」を表したが、これの「中国の画家を上中下に分類した部分は日本最初の美術批評といえよう(p.105)」。

この「同朋衆」は、もともとは将軍の戦陣に従った僧や医者や伎藝者であったが、やがて「各種の能力に秀でた賤民が、世俗の身分を脱し、時宗に出家して将軍の側近に侍して造形や藝能の相談に参加(p.106)」したもので、能阿弥・藝阿弥・相阿弥の三阿弥、作庭者の善阿弥、花の立阿弥・文阿弥などが知られている。能の観阿弥・世阿弥も一種の同朋衆であろう。これら身分は低いが新しいセンスを持った人々が北山東山文化を作った。

なお、著者は中世の武家文化に対してはかなり辛口で、中世の武家は武具武器以外には独創的な文化を作っていないという。「武将の調度や服飾は、当時一般の流行を、豪華に贅を尽くして製作したものにすぎない(p.118)」と手厳しい。

一方、高く評価されるのが近世の町衆文化である。京都の上層町衆は公家と結びつき、武将文化を「はるかに凌駕する質的な洗練(p.125)」をなしとげた。佗茶、琳派、そして個人としては俵屋宗達がその到達点だと考えているようだ。これは古典復興の成果であったというのが著者の考えである。近世町衆文化は「日本のルネサンス」であったものの、「ヨーロッパにおけるような近代的展開を遂げずに凋落した(同)」。 

なお「民衆の造形」については、民芸運動を重視する著者らしく類書に比べ詳細であるが、図版がほとんど掲載されていないのが残念である。 

ちなみに、私が本書を手に取るにあたって興味があったのは、こうした工芸の担い手の実態(社会的地位・身分)がどうであったか、ということである。例えば古代には官に直属する絵画工房「画工司(えだくみのつかさ)」が設けられ、正(かみ)・佑(すけ)、令史(さかん)の官職があり、画師4名、画部60名の組織であった。画師の長は笏を持つことが許されているなど、画家は必ずしも社会の低層にあったのではない(p.267)。

ただし著者は「作者の人格や身分は若干の例外を除いては、雑戸という賤民階級に属するものとされていた(p.62)」とする。どういう根拠でそういっているのかわからないが、彼らには官位がある以上賤民ではないように思う。とはいえ画工のアシスタントをしていたのは賤民なのかもしれない。

平安時代には、 画工司は画所(えどころ)に改められたが、画所に属さない官人で絵の上手いものが宮廷絵師になる事態が見られる。このあたりが面白い。絵の上手い下手は、ある程度はっきりわかるものであるために、高い身分だからといって師匠になれるわけでもないし、逆に画所のような機関に属していなくても、上手ければお願いされるようになるだろう。身分を超越する機能が芸術には備わっていると考えられる。

11世紀には、仏像彫刻の定朝は治安2年(1022)に仏師として初めて法橋に叙され、教禅という仏画の絵仏師は治暦4年(1068)に法成寺丈六薬師像百図を描いた功で、絵仏師として初めて法橋位を授けられている。法橋(ほっきょう)は僧位のひとつで、仏師や絵仏師が僧位を持つことは一見自然であるが、工芸家に僧位を与えることは後代に大きな影響をもたらした(連歌師や儒者や医師までが僧位をもらうようになる)。なぜすぐれた工人に僧位を与えたのか、ここに身分と芸術の関係を考えるキーがあると思う。

なお、定朝から独立した弟子の長勢は、法勝寺阿弥陀堂の造仏によって法印位に叙されている。なぜ定朝より上の法印に叙されたのか。それは出身階級に関係していたのかもしれないし、造仏の素晴らしさに基づくものだったのかもしれない。芸術の評価と社会的身分の関係がどうであったのか大変興味深いところである。

先に記した足利将軍の同朋衆が「○阿弥」という阿弥号を持っているのも身分との関係がある。つまり、彼らは出家することで世俗の身分を超越して将軍に近侍することが可能になったと思われるのである。とはいえ、それがなぜ時宗であったのかは別に考えなければならない問題である。なお、現在では何ら社会的地位がない人間を「内閣官房参与」(首相のブレーンのような立場)に任命することはあり得ないが、当時は時宗に出家しさえすればそれが可能になったのだと思えば、かえって今よりも社会的身分が流動的だったとも言える。

また、私は石工(いしく)に大きな興味を持っているが、本書ではほとんど石材工芸について触れていない。供養塔や墓石は言うに及ばず、石臼や挽き臼など生活用品も含め、石材工芸は近世以前の世界において大きな存在感がある。これを工芸史に含めていないのは残念だった。

このことを考えると、素材毎の工芸史を著述するとまた違った歴史が書けるのではないかと感じた。石工、金工、木工、織工…といった工芸の分野毎の歴史である。工芸史としては、むしろこちらの方が自然な記述スタイルであるようにも思う(なお、石工の他には織工について本書は手薄であり、特に近世の服飾はほとんど手つかずである)。

逆に言えば、石工、金工、木工、織工…といった分野毎でない、日本工芸史であるのが本書の価値であり、そのために記載されていない分野も多いのだが、日本の工芸や美術を手際よく通観するという意味では、読みやすく大変よくまとまっている本である。

「用」を基軸に日本の工芸・美術を通史的に見る良書。

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2025年10月18日土曜日

『盆行事と葬送墓制』関沢まゆみ・国立歴史民俗博物館 編

盆行事の地域差に注目して葬送の思想を民俗学によって明らかにしようと取り組む本。

本書は、2013年に開催された第9回歴博映像フォーラム「日本各地の盆行事と葬送墓制の最近の変化」における報告と討論を中心としてまとめたものである。私自身は、お盆の歴史的変遷に興味があったのだが、本書では主に地域的変異と現代の変容が取り上げられている。

「民俗研究映像「盆行事とその地域差」」(関沢まゆみ)では、盆行事の地域差が歴史的な変化を表していることを論証している。

私は鹿児島に住んでいるが、一昔前のお盆といえば、お墓に親族が集まって提灯を飾り、飲食をともにするなど遊興やお祭り的な要素があった。大きな墓地ではテキヤさんまで来ていた気がする。こうしたお盆は九州の他東北地方でも見られたという。これは、先祖の霊と飲食を共にして交流するというお盆である。ところが近畿ではお盆でもお墓参りすらしない。しかし何もしないのではなく、近畿のお盆は自宅で霊を迎える。そのためにオシャライサンという飾りをつくったり(但馬地方)、縁側や軒下に新仏・無縁仏を祀ったりする(奈良県)。これらの事例を整理してみると、盆行事には(1)墓地で飲食する=東北・九州、(2)墓参するが、墓地での飲食はない=中国・四国・関東など、(3)墓参はしないが、霊を先祖・新仏・無縁仏などと区別して祀る=近畿、の3つの類型があることが分かった。

古い習俗ほど周縁地域に残るという民俗学のセオリーでこれを考えてみると、最も古い習俗は(1)で、それを(3)が上書きしていったとみなすことができる。古代の記録を検証してみると、死者の遺骸を家屋敷の近くに埋葬することは普通で、墓を遠ざけていなかったことは明らかであるが、摂関期には死の穢れがやかましくなり、墓が作られないことも増えている。ところが室町時代には墓参りが行われるようになっていく。

このように「第1段階として8世紀から9世紀には先祖の遺骸と墓地を大切にする状態、第2段階として10世紀から12世紀には死の穢れを忌み避けて墓参をしない状態、第3段階として14世紀から15世紀以降は再び先祖の眠る墓地を重視して墓参をする状態、という3段階の大きな変化があった(p.26)」。さらにこうした変化と並行して、近畿地方では「先祖を本仏、死んだばかりの死者を新仏、無縁の亡者たちを餓鬼仏というように、三種類の霊魂に明確に区別するようになっ(同)」た。これは柳田国男がかつて『先祖の話』で概説したことを具体的な事例から論証するものである。

本章では次に、火葬化がもたらした盆行事の変化について滋賀県蒲生郡竜王町の事例から考察している。土葬時代には集落ごとにサンマイ(墓地)が営まれており、これは死穢忌避の意識からあまり墓参されることもなかった(それどころか石塔さえも設けない事例が近畿地方にはある)が、火葬時代になると広域の墓地となり、死穢忌避の観念が薄れているということである。

「葬儀は誰がするのか、してきたのか?」(新谷尚紀)では、葬儀の担当者の地域差を分析している。

まず本章では、日本民俗学の創立期を振り返り、民俗学がイギリスやドイツの「フォークロア」の翻訳学問ではなく、独自の伝統と方法論があったとし、これをさらに発展させて「伝承文化分析学」として確立していくべきだとする。この論述の中で「自分で柳田や折口をよく読まずに柳田や折口を否定する論調に伝言ゲーム的に追随し便乗した人たちがいたことも残念なことであった(p.55)」としていることは驚いた。確かに柳田・折口の研究は現代から見ると脇が甘いところがあるが(よくも悪くも文学的なのだ)、「よく読まずに」否定されていたとは意外だった。

次に話題が急に変わって、高度経済成長以降の葬送墓制習俗の変化について、特に葬儀を誰が担当するのかという点に注目して述べている。これまで、葬儀を誰がやるのかということは、「ただ漠然と地域社会の相互扶助によるものだろうという先入観によって見逃されていたように思われる(p.68)」と著者はいう。

こうして著者はいくつかの地域で実際に葬儀(特に埋葬)がどのような社会関係によって執り行われるかを、血縁・地縁・無縁(僧侶な葬儀業者など)を基軸に分析している。この分析は意外性に満ちている。詳細は省くが、埋葬・死体の焼却などは親しい人にお願いする以外ないと思い込んでいたが実はそうではない。もちろん、棺担ぎや火葬や埋葬は血縁者にお願いするという地域もある。ところが逆に、そうしたものは敢えて他人(血縁があってもタニンということにするという場合さえある)に任すという地域もあるのだ。これを分析してみると、元来は血縁者によって執行されていたが、葬儀は地縁が協力して行うものという観念が成長して徐々に変化したと考えられる。さらに近年では、これが無縁に移行していっていることは言うを待たない。著者は最後に、こうした変化を記述するのが日本民俗学=伝承分析学なのだと述べている。

「祖霊とみたまの歴史と民俗」(大本敬久)では、祖霊を迎える習俗とその概念について批判的に検証している。本章が私自身の関心の中心である。

柳田国男は『先祖の話』で、正月は先祖の霊を祀る日であるという説を提示した。しかしこれまでそれは実証されていない。東北地方から関東地方にかけて、年の暮れや正月に行う「みたまの飯」と言われる習俗などを鑑みても、正月に祀る魂は直近の死者であって「先祖」ではないようである。また、柳田は同書でお盆を祖先祭祀のキーとして考察しているが、お盆が祖先祭の性格を帯びて墓参を伴うようになったのは中世以降であり、柳田の祖先祭祀をめぐる説は再検証しつつ、より精緻化することが必要である。

まず、著者はケガレと穢(え)の観念について史料に基づいて正確な理解が必要であると述べ、次に本題として「みたま」の考察へと移る。正月は「みたま=御魂」を祀るものであったか。著者はこれを古記録を徴して考察している。

『蜻蛉日記』では天延2年(974)12月に「暮れはつる日(大晦日)」に「みたまなどみるにも」とある。

『小右記』には寛仁元年(1017)12月30日の記録に「次拝御魂(次ニ御魂ヲ拝ム)」の文字がある。同様の記録が前後の年の日記にないところを見ると、これは毎年祀る祖先の霊ではなくて、その年に亡くなった人の魂であった可能性がある。

『枕草子』40段には「師走のつごもりのみ時めきて、亡き人のくひもの(食物)に敷くにやと…」とあり、大晦日に直近の死者(←先祖を「亡き人」とは呼ばないだろう)に対して供物を備えていたことがわかる。

『後拾遺和歌集』(応徳3年(1086))(哀傷)の和泉式部の歌に「12月のつごもりの夜よみ侍りける。亡き人の来る夜と聞けど 君もなくわが住む宿や魂なしの里」とある。

『徒然草』第19段では、「晦日の夜」は「亡き人のくる夜とて、魂まつるわざは、この比(ころ)、都にはなきを、東の方には、なほする事にて有りしこそ…」といっている。すでに鎌倉時代には、大晦日に「亡き人」を祀る風習が廃れつつあったらしい。

『後撰集』(哀傷)には「亡き人の共にしかへる年ならは 暮ゆく今日は嬉しからまし」とあり、『詞華集』(冬)には、「霊まつる年の終わりになりにけり 今日にやまたもあはむとすらむ」とある。死者が大晦日に来るだけでなく、「会えるので嬉しい」という観念であったことが注目される。

こうした史料を踏まえると、古代末期から院政期にかけて大晦日に(直近の)死者の魂が帰ってくるという観念があり、それが鎌倉時代には希薄になって、やがてお盆に引き継がれたように思われる。

また本章では考察されていないが、ここでいう「亡き人=みたま」は、死亡から何年くらい大晦日に帰ってくると観念されたのだろうか? これらの歌が作られた時期には、一周忌は行われていたが三回忌の習俗は定着していない。ということは一年限りなのだろうか。いずれにしても、長い間定期的に帰ってくるということを示す史料はない。よって、この「みたま」は長い間祭祀が続けられるとされる「祖霊」とは異なるようだ。

では「みたま」と「祖霊」はどう異なるのか。『先祖の話』では、柳田国男は「みたま」の語を主に使用している。また柳田は「三種の精霊」として「先祖=定まって我家に祭るみたま」「新仏」「無縁」の3つを挙げている。どうも、民俗学の展開の中で「みたま」が「祖霊」に入れ替わっていったようだ。そもそも「祖霊」なる語は江戸時代には一般的でない。著者ははっきりとは述べていないが、「祖霊」がはっきりと定義されることなく、なんとなく使われるようになった曖昧な語であり注意が必要だとしているようだ。

ともかくも、柳田は「みたま」≒「先祖」と考えたが、柳田の理論では「先祖」が個別性を失った習合的な先祖の霊であるとしているため、二つの概念にはやや違いがある。つまり歴史的語彙としての「みたま」はまずは「新仏」を示すもので、そこから「先祖」に敷衍していった(あるいは「先祖」の概念が徐々に外延的に形成されていった)と思われる。これは中世以前の文献史料で「新仏」を表す「あらみたま」の用例が確認されないことでも傍証される。

「葬法と衛生概念」(小田島建己)では、土葬から火葬への移行を山形県の事例から考えている。

日本での葬法がほとんど火葬になったのは、明治以来の政策の影響があった。著者は明治7年に火葬禁止となったものの、短期間で解禁された経緯を略述し、「この一連の動きによって、葬法は行政が指導するものという基盤が形成された(p.124)」という。その後、明治8年にも「焼場」について内務省が達しを出しているが、火葬は「不潔」で好ましくないものと考えられていた。ところが明治10年以降にコレラがたびたび流行し、この死体処理として火葬が衛生的であると捉えられるようになる。明治13年にはコレラに罹患した遺体は火葬以外で処理することが禁止されている。

こうした歴史を踏まえつつ、著者は山形県内の墓地を詳しく取り上げ、近現代の墓がどのように立地し、また管理されているか、その葬法との関連を中心に考察している。土葬時代には死穢の観念があったが、火葬になると「もはや死穢の概念は不在で、衛生の概念が原理となっているようにも考えられる(p.138)」。さらに山形県では、葬儀の前に火葬を済ませておく「骨葬(こっそう)」が行われている。葬儀は遺体を前にして行うものという認識でいるとこれは奇異なのだが、山形では葬儀の完了は遺体を埋葬すること、という認識があり、火葬は死体を埋めるための前処理として捉えられたのではないかという。

ともかく、土葬から火葬への移行は「思想を背景にしていないからこそ、短期間の内に火葬へと迅速に移行できた(p.141)」という。それは「死者観念や死生観の変化によってもたらされたのではなく、行政上の意図や衛生の問題とも絡みながら進行してきた(同)」のである。

「自動車社会化と沖縄の祖先祭祀」(武井基晃)では、自動車社会化が祭祀の在り方を変えてきたことを述べている。

沖縄の葬儀と清明祭(一族の墓をめぐってご馳走を食べる祖先祭祀)は、自動車社会化にともなってその在り方が変わってきた。例えば、かつては体力のある若者だけが祖先祭祀を担っていたのが、自動車が普及したことによって一族全員が移動して祭祀に参加できるようになった、というようなことである。しかしこのことは、「一族の中心である年寄りが祖先祭祀に直接参加できるなら、自分たちはいいや」というような調子で、若者の参加が低調になりつつあるという一因にもなっている。

沖縄の祖先祭祀について疎いので詳細は割愛するが、祭祀の在り方が自家用車の所持のような死生観や思想とは関係なものに大きく影響を受けているということは非常に重要な視点だと思った。

「列島の民俗文化と比較研究」(小川直之)は、上述の発表および研究映像(当然ながら本書には収録されていない)に対するコメントである。

詳細は割愛するが、列島文化の多様性を改めて認識し、地域ごとの比較を行うなど民俗研究をより精緻化していかなければならないと述べている。

「討論」は、関沢まゆみが司会者となり、上述の発表者がパネラーとなって討論を行った記録である。気になったところのみ記す。

大本敬久は、盆行事が行われるようになったのが摂関期であること、「盆棚」などは鎌倉以前の記録には見えないことを述べ、家の盆行事と寺院での盂蘭盆会は分けて考えた方がよいことを主張している。 

小川直之は、「日本から東アジア、そして東南アジア、南アジアにかけて、飲食物を通して死者の霊魂や神々の霊や精霊たちとの交流がはかられるという習慣が非常に広範囲に存在(p.219)」すると述べている。関沢まゆみによれば、フランスなどでは死者に食べものは供えないとし、お墓に食べものをお供えするというようなことはないという。言われてみれば、死者は実際には飲食ができないわけで、飲食物を供えるというのは当たり前の習慣ではない。これはハッとする指摘だった。

新谷直紀は、相互扶助による葬式の方法が確立したのは17世紀後半から18世紀前半にかけてであり、それほど古いものではないことを指摘している。よって、高度経済成長期以降に激変している葬式の習俗についても、伝統の破壊というような観点で見ない方がよいと感じた。

本書には全体として、ここにメモした以外にも柳田国男『先祖の話』が多く登場している。『先祖の話』は慧眼に満ちた名著であるが、体系的に日本全体の祖先祭祀をまとめたものではなく、柳田の主張に沿う事例を並べて祖先観を構築したものという性格がある。このため、従来「柳田の主張を鵜呑みにしてはいけない」という批判も多かった。確かに、柳田の主張は現在から見るとやや一面的であった部分もある。そんなわけで、名著とは言われながらも、柳田の主張を真正面から検証しようという研究は意外と行われず、「扱いに注意が必要な通説」というような中途半端な位置づけのまま長く放置されていた。

このフォーラムに集った研究者たちはこうした状況を遺憾とし、柳田の主張を真正面から受け止め、それを現在の民俗学によって検証しようとしているように見える。列島文化は多様であり、盆行事一つとっても、大きな地域差が見受けられる。それは、関沢や新谷が述べるように歴史的な変遷を跡づけている場合もあるし、小田島が述べるように行政の指導によってもたらされたものである場合もある。そして武井が述べるように、自動車社会化のような、死生観とは関係の内社会変化によってもたらされた場合もある。こうした地域差を精緻に研究することで、祖先観の根源にせまり、柳田の研究を発展させようというのが本書の研究者たちの基本的認識のようである。 

なお、本フォーラムの本来の価値は、お盆ひとつとっても地域ごとに大きな差があることが映像で明解に示されることにあったと思われるが(各地の平時のお墓の写真がいくつか掲載されているが、それだけで面白い)、フォーラムにおける研究映像報告の部分は本書にはほんの少ししか記述されていないため、結果として本書はやや理念的・図式的な考察がメインになっているように思われる。映像を見ることができれば、違った感想を持ったかもしれない。 

盆行事を改めて民俗学の俎上に載せ、研究の最前線をまとめた講座的な本。

【関連書籍の読書メモ】
『先祖の話』柳田 國男 著(柳田國男全集13)
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/11/13.html
日本人の最も大きな信仰が先祖崇拝だったことを述べる本。日本人のあの世観を初めて文章化した名著中の名著。  

2025年10月6日月曜日

『日本法制史(下)』瀧川 政次郎 著

 (上巻からの続き)

第5編 融合法時代中期(国法時代)

戦国時代には「法律が異常なる発達を遂げた(p.11)」。伊達家の『塵芥集』(171か条)や武田信玄の『甲州法度』(55か条)のような法典が各地で編纂されたのである。それらは概ね室町時代の法令に倣っており、制裁が弾圧的で裁判が簡略といった特徴がある。織田信長は志半ばに斃れたために法令はほとんどなく、豊臣秀吉も法制には見るべきものは少ない。ただし秀吉は、「朱印状」という法令よりも強制力を持った文書を発給しており、これは重要である。

秀吉定めた掟で重要なのは、刀狩、検地などがあるが、中でも「文禄4年8月3日掟」6か条(および追加9か条)は注目される。特に追加9条の方で、諸公家・諸門跡は家道を嗜み公儀への奉公を守り云々と定められており、これが発達して公家法度へと至るのである。豊臣氏の掟には、戦国大名の国法には見えない平和的なものが見えており、「江戸時代の法制の基礎をなした点において、法制史上特にこれを重要視せねばならない(p.32)」。

第6編 融合法時代後期(定書時代)

上巻の読書メモに書いた通り、私が本書を手に取るにあたっての関心の一つは江戸時代の法制にあった。江戸時代は日本的な法制度が完成した時代である。それはいかなるものであったか。

まず、この時代も慣習法が主であって成文法は補完的なものであった。『御定書百箇条』などの法典が編纂されてはいたが、それは判例の集成であって現在の法典とは全然性質が異なる。また、加賀・薩摩藩のような大藩では藩法も生きていたし、寺法・宗法のような治外法権的な性質を持つ法的領域もあった。そうではあるが、一応法制を全国統一してしかもそれが機能したことは特筆される。

江戸時代の前期には、『公家諸法度』『武家諸法度』のように、『貞永式目』に倣った諸法度公布された。よって江戸時代前期を「法度時代」と呼ぶこともある。後期になると『公事方御定書』『寛政法典』のような判例の集成が編纂された。これによって後期を「御定書時代」ともいう。

『武家諸法度』は現代の意味での法令ではない。それは、「将軍の代替りごとに多少の修正を加えて発布せられるのを常とした(p.38)」ことでも明らかだ。法度は、主従性に基づく契約のようなものであったようだ。しかし厳密には主従ではない公家にも『公家諸法度』が定められている。この法源は何なのか? 「将軍」は形式的には天皇から任命されているのに、天皇についても法令で定めたのは、どういう理屈なのだろうか。また寺院・神社に対しても『諸宗寺院法度』『諸禰宜神主法度』を定めているが、こちらの法源も明らかでない。なお御料所(幕府の直轄地)の百姓を取り締まるのが『郷村法度』であるが、こちらは直轄地以外には効力がないので法源は実効支配力なのである。

ところで5代綱吉は『服忌令』を定めているが、これは後世まで影響を及ぼした。

江戸時代の法令は、こうした法度に加え、臨時令である「御書付(おかきつけ)」、今の通達にあたる「御達(おたっし)」、広く公布する「御触(おふれ)」、一般人にまで公布する「申渡(もうしわたし)」「張紙(はりがみ)」などがあった。こうした臨時令はすぐに忘れられてしまうため、8代吉宗は御触書集である『寛保集成』50巻を編纂した。法制史上これは画期的であった。なお吉宗は老中からの内訓指令、評定所一座の評議の類も蒐集して『享保撰要類集』42巻を編纂している。その後、御触書集などの編纂は相次いだ。

吉宗は『公事方御定書』も編纂しており、これは「江戸時代最大の立法事業である(p.44)」。上巻81か条は評定所の執務規定、訴訟手続きなどを規定し、下巻103か条(これが『御定書百箇条』)は刑罰規定、つまり刑事・民事裁判を中心とした内容である。これは秘密法典であって公にされなかったが、実際には流布していた。ちなみに『御定書百箇条』は侍、百姓、町人等に関する刑法であったので、社家・僧侶に対する刑法35条を後に追加し「寺社方御仕置例書」が編纂された。

また吉宗は、『公事方御定書』の編纂にあたって自ら判例集に意見を附し、これに諸奉行がさらに答申した内容を加えた『科条類典』もまとめている。これが基本となって、後に『寛政刑典』が松平定信によって編纂された(ただしこれは施行されたかどうか不明)。この他、幕府は様々な法典を編纂しており、前代までに比べその量は膨大である。

次に、本書では幕府の組織について述べている。幕府の組織の全部が法制で定まっていたわけではないため、この項目は法令によらない実態だ。現代と違う著しい特徴は、その組織に月番制が多いことである。例えば老中は現代の大臣にあたるが、定員は4~6人であったものの、この執務が月番制であった。毎月そのうちの一人が政務にあたり、その他はその補佐であった。これは一人の専横を防ぐには効果があったが、責任の所在が曖昧になったりお座成りになるなど弊害も大きかった。行政の責任者は寺社奉行・江戸町奉行・勘定奉行の3役で、これも月番制であった。責任者が月番制というのが、現代から見ると本当に不思議である。

本書では、江戸時代は封建制度の時代であったとし、主従関係が基本になっていたという。武士だけでなく、町人と奉公人などの関係も主従関係になぞらえられて理解されていた。所領安堵においても、当事者のいずれかが死亡したときは、主従関係を更新しなくてはならなかった。これは法律面においても非常に重要なことである。「家」というのは現代でいえば法人的であったが、あくまでも主従関係という個人の契約に基づいて存立していたということである。

幕府と大名の関係も主従関係であるが、それを契約の面で見ると、幕府は大名に自治権を認める(所領安堵)する代わりに、大名に軍役を課すということになっていた。しかし実際に軍役が課されたのは島原の乱のみであって、実際上はこまごまとした負担(諸所の警備や普請など)が課されたにすぎなかった。

一方、江戸時代の村は、今でいう法人であった。「村自身訴訟もすれば、売買その他の法律行為も行ったのである(p.90)」。旗本や大名があくまでも個人であったのに比べ、村の方が現代的な仕組みを持っていたといえる。村が法人であったために、村民は生死を共にするような盟約を行い、一致団結してことにあたった。村の自治組織は、名主(庄屋)・組頭(年寄/脇百姓)・百姓代の3つが基本である。

村を代表して法律行為を行ったのは名主(庄屋)であるが、これは大体世襲で無給(ただし実際には莫大な利益があった)、組頭は年貢の割引があり、百姓代は給米も年貢の割引もなかった。つまり法人としての村の運営組織は無給を基調としていた。そして村の運営に必要な費用は、村民から「村入用(むらにゅうよう)」として徴収した。重要なことは、江戸時代の年貢は個人ではなくして村に課されるものであったということである。だからこそ村が法人として扱われたのだと考えることができる。

堺のような都市は中世末には自治権をもっていたが、これは織豊期に解体させられ、江戸時代には遠国奉行や諸藩の町奉行によって統治された。ただし大坂そのものではなくてそれを構成する飯田町とか連雀町のような町は、村と同様に自治団体として法人のような性格を認められ、租税法上も納税の一主体として財産を持ち債務も負った。町の組織は江戸と大坂では異なり、町の組織の任命や負担といった種々の面で興味深い相違が認められる。ただしいずれにしろ、住民であることより地主であることが重要であり、地借人・店借人であっても町政に参与する資格がなかった。だが、それは様々な義務を免除されることでもあったので、大坂ではお金持ちでありながらあえて借家住まいをしているものもあったという。

先述のとおり町は納税の主体であり、享保7年(1722)に幕府は江戸の町の公役をすべて銀納とした。その課税方法は、表間口の長さ(5間とか10間とか)を基準とするものである。しかしこれは個人に課されるものではなく、このように計算された租税を、町では間口のみによる不公平を是正して個人に配賦した。

こうした町村の生活において重要なのが五人組の制度である。これは官より治安維持の目的をもって強制的に組織を命じられた隣保団体である。婚姻・養子縁組・相続・遺言・廃嫡などの際に互いに立会し、また不動産の書入、質入、売買などの場合に連印を押し、訴訟や請願をなす場合にも互いの同意を要した。このように社会生活の相互監視が五人組によってなされたが、重要なことはこれは納税組合ではなかったことである。

村は納税の主体であったが、基本的な納税の単位は土地であり、租税負担の有無や慶弔によって土地は様々な名称で呼ばれた。高請地(たかうけち)、段高場(だんたかば)、見取場(みとりば)、流作場(りゅうさくば・ながれさくば)、御朱印地、拝領地、除地(のぞきち・じょち)、無年貢地、見捨地(みすてち)、損地などである。そして幕府の課税は、本途物成(ほんとものなり)、高掛物(たかがかりもの)、小物成(こものなり)、国役という4つで構成された。これらについて詳説は避けるが、課税単位はあくまでも村だったのに、実際には一筆当たりで税額が計算されていたのは興味深い。

次に、江戸時代の刑法であるが、現代と著しい違いがあるのは、連坐・縁坐制、私刑主義(復讐の公認、主人から妻や下人への私刑)、階級(武士・町人・僧侶など)によって処分が違ったこと、死刑が多く、しかもその種類が多かったこと(下手人[最も軽い死刑]、死罪、獄門、磔、火罪[火あぶり、放火犯にのみ行われた]、鋸引、切腹、斬罪など)、追放があったこと、財産の没収があったこと(債務の弁済のためではない)、入墨・敲(たたき)が行われたことなどである。

次に、江戸時代の司法制度であるが、現代と全く違うのは行政官と司法官が分化していなかったことである。家光のころまでは最高裁判所裁判官にあたるのは将軍であったが、これが老中に委任され、後には評定所に委任された。江戸時代には「支配」というものがある。人々はそれぞれの「支配」に分割されていた。評定所が担当したのは、その「支配」にまたがった事件であり、「支配」内部はそれぞれの「支配」に任された。例えば大名の治める領域内の事件は大名が裁くのであり、複数の大名の統治領域にまたがった事件が評定所に持ち込まれる、といったようなことである。よって司法制度は「支配」ごとにバラバラであったが、実際には評定所の意見が裁定の標準となったためにそれほどの違いはなかったらしい。

評定所に次いで広汎な裁判権があったのが、寺社・町・勘定の三奉行であり、幕府の地方官中で最も広い裁判権を有したのが京都所司代と大阪城代である。ただし、遠国奉行の管轄権は錯雑としており、当時でさえ明瞭でなかった。行政官と司法官が分離していなかったこと、担当範囲が明瞭でなかったことの2点から、幕府の司法制度は非効率的であった。

民事事件と刑事事件は江戸時代でも「出入筋」「吟味筋」としてやや明瞭に区別された。そして「出入筋」(民事事件)は、なるべく当事者間の和解を勧めて表ざたにしない方針であった。幕府の処罰は基本的に大変重かった(現在の刑務所にあたるものがなかったため)ので、実務的な都合(収監などができない)から和解が推奨されたのだと思われる。

そして判決にあたっては犯人の自白が最も重んぜられた。これは現代とは少し違う。証拠ではなくて自白の方が大事なのである。ただし書面は重要であり、特に土地関係の総論では書面がものを言った。なお、江戸時代には弁護士にあたる人はいなかったが、老・幼人や病人には代理人の出頭を認めたため、「公事師」なる訴訟代理業者が江戸や大坂には存在した。

ここで本書では、江戸時代の身分法を述べて、それぞれの身分について説明しているが、ここは本書以降に研究が長足の進歩をしているため詳細は割愛する。ただし一つだけメモしておくと、非人は非人素性(非人の子)と、犯罪によって非人になった人、貧困によって自発的に非人になった人の3種類があったが、非人は幕府より持場内で勧進することを許された報恩として、獄門、磔の手伝いをするなどの公役を負担していた。

ここから本書は物権法の説明となる。この種の解説が本書は大変詳しい。

まず、不動産物権については、当時の不動産物権は、不動産の所有権ではなく、不動産の上に行使する知行権すなわち支配権であったことが重要である。土地を個人で所有するという観念ではなく、その支配権があったのである。よってそれは「知行地」であり「拝領地」であったりした。ただ、町人の所持する町屋敷地は今でいう私有地と同じであった。なお、家屋の新築にあたっては、地頭や代官に届け出て許可を得るという、今でいう建築許可のような仕組みがあったのは興味深い。どんな場合に不許可となったのだろうか。

小作すなわち土地の貸借にもたくさんの種類があり、契約の内容もさまざまであった。単純な所有とか貸借ではなく、それが土地に対する用益権であったために、契約にあたって金額の多寡だけでない条項が設けられたのである。

そして不動産物権に準じて捉えられていたのではないかと思われるのが、座の特権などである。例えば旅宿や商品の委託販売を営む問屋の特許営業権(株)のようなものも、売買された。権利の売買ということが普通に行われるようになったのが江戸時代なのである。

次に金融関係の説明に移る。これの解説も大変詳しい。まず質(動産不動産の占有質:現代の質)と書入(無占有質である差質など:現代の抵当)であるが、これらに関する規定が江戸時代には大変たくさんあった。というのは、田畑の売買が禁止されていたため、質入によって資金調達したり、譲渡や質流れの形で田畑の売買を行うことが横行し、これが規制されるとその抜け道が考案されるなどしたことによる。ちなみに質の最長年季は10年であった。

なお、江戸時代初期では年貢諸役等を納めさえすれば、志ある百姓が田地を寺社に寄進することを許されたが、宝暦12年(1762)以降は、百姓が寺社に対して寄進地をなすことはすべて禁止された(p.221)。

江戸町でも質は盛んで、質屋は今の不動産屋と銀行を合わせたようなものであった。享保8年の調査で、江戸町の質屋は253組、2731人いたという。質金の法定利率は、銭であれば百文につき月三文(年率に直すと36%とかなりの高利だ。なお江戸時代は複利は禁止されていたた)などだったが、実際は金1両につき月銀1匁6分など、年利40%を超えていた。質屋が儲かったのは当然である。このように高利であったため、質屋間の質入れも盛んであったようだ。

ところが、更に高かったのが借金の利息である。古くは月2割を最高率としたが(=年率240%!)、元文元年(1736)にこれが1割5分、天保13年(1842)に1割に引き下げられた。これでも年率120%の高利である。さらにこうした規制が守られなかったのも言うまでもない。また複利は禁止されていたが、証文の書き換えによって未払い利息を元本に組み入れることも行われた。こうした高利であったため借金の訴訟は数が多かったのか、その受理にも制限があったほどである。

なぜ高利貸しが横行したのかといえば、武士階級が生活に困窮するようになったからで、高利貸しにも金を借りなければならないほど彼らは切迫していたのである。そこで幕府は、町人階級の利益を顧慮することなく借金に種々の規制を加えたが、当の武士階級が借金に依存していたのでその規制は形無しになっていった。ただし室町時代と違って幕府は徳政令は発していない。幕府にとって武士階級は保護すべき家臣ではあるが、何ら経済的なうまみがなく、一方町人は御用金を徴収することができる金づるであったから、結果的に消費貸借に強力な規制が加えられることがなかったのではないかと思われる。

雇庸関係については、江戸時代には奉公と日庸用取(日用取)の2種類があった。奉公において重要なことは、奉公人は雇庸者の家族と並んで雇庸者の人別に編入せられたことである。この点、現代の労務契約とは違って、奉公は身分と「支配」に関わってくるのである。

このほか、商業手形、組合・無尽講、海法、不法行為の扱いについても記載があるが割愛する。

本書の最後が親族相続法についてである。これも武士と平民では大きな違いがあった。そして親族間の関係は、「法律的関係というよりはむしろ倫理的、道徳的関係(p.250)」なのであった。この点を注意することが必要だという。

江戸時代の「家」は、家長と配偶者およびその直系尊属、そして兄弟姉妹、淑父母のような傍系親も加わっていた。配偶者・直系尊属以外の構成員を「厄介」と呼ぶ。ただし「家長と厄介との関係は、純然たる道徳的関係であって、家長が厄介に対して家長の資格において行使し得べき権力はほとんど皆無であったといってよい(p.251)」。これは面白いことで、厄介はある意味では道徳的に保護されていたと考えることができる。

ちなみに親族の範囲は、親類・遠類・縁者の3つがあった。当時親類といえば伯淑父母・甥姪・従兄弟までであって、武士階級においては親類の間は服忌令の規定に従って互いに喪に服する義務があった。武士階級の婚姻は、幕府または藩庁の許可を得なくてはならなかったというのが現代との大きな違いである。百姓・町人にはこのような許可は必要なかった。夫婦は別々の財産を有し、妻の持参金は夫の所有に帰したものの、離婚の際にはこれを返還する義務があった。夫は妻に対して懲戒の権利を持っていたと考えられ、夫は妻を一方的に離縁することはできたが、妻は夫を離縁することはできなかった(武士も平民もともに)。

子との関係は、父母は教令権と懲戒権を有しており、特に懲戒権については「懲戒の結果、子孫を死に致すも法律上の制裁を受けなかった(p.260)」のは驚かされる。しかし、子を売る権利は本来は有しておらず、また久離(親族関係の解消)・勘当(主従・親子関係などの解消)をなすには武士階級では管轄奉行の許可が必要であった。

現代と大きく違うのは、養子が盛んに行われたことである。江戸時代の養子には、通常の養子の他、婿養子、仮養子、心当養子(こころあたりようし)、急養子、順養子、夫婦養子、嫡母継母之養子、父計之養子、母計之養子などの名目があった。本書ではこれらについて詳述しているが、詳細は割愛する。なぜこうした様々な養子が広範に行われたのかといえば、江戸時代の「家」は実質的には法人であったが、形式的には家長個人の個人事業のようなものであったため、その継承を担保するための仕組みが必要だったからである。武士階級の場合、嫡子を定めずに死去した場合、封禄は取り上げられて絶家になった。

よって「家」の存続に重要なことは相続であった。相続には、隠居によって開始する家督相続と、死亡によって開始する相続の跡式相続があった。ただし両者は実質的には同じである。平民階級では、家を相続するのは女子であっても何ら差し支えはなかったが、武士階級の場合は軍役を負担するためという名目で、相続は男子に限られていた。

本書の最後は、隠居制度について述べているが、簡素な記載である。なお、私は隠居と出家の関係について興味を持っていたのだが、出家については何ら記載はなかった。

上下巻の全体を通じ、本書は法制史をはみ出す部分が大きい。過去の人々がどのように生活を規制されていたのかについて、法のみならず社会通念や慣習法まで含めてまとめたのが本書であり、純粋な意味での法制の歴史はかえって簡素な気さえする。例えば、本書の最後にある親族相続法であるが、そこに記載されていることのほとんどは慣習法であり、このうちどの部分が法による規制なのか定かでない。おそらく、その部分は服忌令などかなり限られたものなのであろう。

こうしたスタンスで本書が書かれているのは、当然ながら成文法と慣習法が絡み合って近世以前の規制が行われていたからで、さらにいえば明文的に規制されていなかったとしても、人々が「こうすべきだ」と思っていたものは実質的に法と同じ効力を持っていたからである。要するに、法と法以外が未分化だったのが近世以前の日本社会だった、ということだ。

全体を通じて印象に残ったのは、金融関係の規制が大変多いことである。金の貸し借りが行われるとき、必ず貸した方が立場が強くなる。ということは、法による規制がない場合には、どんどん貸す方に有利な社会になっていく可能性が大きい。時の権力はこれを是正しようとした。本書を読んでびっくりしたことは、近世以前の国家も金を借りざるを得ない人を明らかに保護しようとしていた、ということだ。それは、慈悲の心というよりは、金貸しが増長することを放置していると社会不安が増大するという実際的な問題があったからなのだろう。

そして、江戸時代よりも鎌倉・室町の方が弱者保護の姿勢はより強いように思われた。江戸時代になると、町人の力を無視できなかったためか、相当に高利貸しに甘い規制になっているように思われる。町人が吉原で豪遊したのも当然だろう。

 私は、江戸時代の法制全体に興味を持って本書を手に取ったが、本書は法制の全体像というよりも、どちらかというと人々の生活が主役なので、その興味にはあまり応えてくれなかった。しかし、法や規制から見た日本史として、本書は独自の価値を持っていると思う。特に租税法や物権法、金融関係の法を通史的に見るということだけでも価値があるのではないだろうか。

法から見る日本史として独特の価値を持っている本。

【関連書籍の読書メモ】
『日本法制史(上)』瀧川 政次郎 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/06/blog-post.html

2025年9月10日水曜日

『江戸のセンスー職人の遊びと洒落心』荒井 修・いとうせいこう 著

扇子のデザインを語る本。

本書は、東京の扇子の店「荒井文扇堂」の主人・荒井 修 氏の話をいとうせいこう氏が聞いたものの記録である。対話ではなく、荒井氏の話がまとめられており、章末にいとうせいこう氏のコメントが付されるというスタイルになっている。

荒井氏の話は、基本的には江戸時代から続く伝統的な扇子のデザインについてのものだが、荒井氏自身のデザイン哲学もそこに差し挟まれるため、純粋な「江戸のセンス」を述べたものではない。ただ、幼いころから古典文芸に親しんでいたらしき氏の口ぶりは、「江戸の職人ってこんな感じだったのかも」と思わせるに十分である。

私は、「江戸時代のデザインってどういうものだったのだろう」という疑問から本書を手に取ったが、上述のとおり本書は江戸時代のデザインについて歴史的に語るものではないので、本書を読みながら考えたことを中心に読書メモを書くこととする。

「のぞき」という技法がある。全部を描かず一部を象徴的に表現し、大きく余白を残すのが「のぞき」である。例えば、秋の夜の情景を表現するのに、大きく月を描いて、ススキを一本それに重ねる。もちろん月は全部書くのではなく、画面からはみ出す。こういうのが「のぞき」である。

「見立て」という技法がある。物や人物や風景をそのまま描くのではなく、別のものをそれに「見立て」て、象徴的に表現する技法である。「のぞき」も「見立て」も、全部描かない、説明的にしないという共通点がある。つまり、江戸時代には「説明的なのは野暮」という感覚があったようだ。

「のぞき」にしろ「見立て」にしろ、説明的でないのだから、何が描かれているか、意匠の意図はなんであるかを鑑賞者の方が読み解く必要がある。それは単純に花鳥風月が描かれているだけでなく、古典文芸に関する知識を必要とした。と書くと、当時の人は教養人ばかりだったと思いがちではそういうことではない。

例えば人物とともに「ゴゴゴゴゴゴ」と書いたら、若い(概ね40代以下の)人はこれは『ジョジョの奇妙な冒険』が踏まえられていることはすぐわかると思うし、これにわざわざ「※これは『ジョジョの奇妙な冒険』に出てくる擬態語です」などと書いていたら野暮にもほどがあると思うだろう。これと同様に、江戸時代の人は教養人ばかりだったのではなく、人々の間に広く共通の知識が存在し、それを自在に呼び出したりアレンジしたりすることに面白さを感じていた。それは現在の二次創作市場と似たようなものだったのだろう。

江戸時代のデザイン界と現在の二次創作市場には、別の面でも類似がある。それは著作権の扱いである。現在の二次創作市場は、厳密に言えば著作権的にアウトであるが、出版社や原作者が黙認することによって成り立っている。我々は比較的自由に(商業的にならない範囲で)「ゴゴゴゴゴゴ」と書いてジョジョ風の人物を登場させてもよいことになっている。江戸時代の著作権の考え方はこれに似ていた。つまり、版権は確かに存在していたが、デザインそのものを保護する知的財産権の仕組みはなかった。

なので、著作物の複製そのものはできなかったのだが(正確に言えば法律で規制されていたのではなく版元が禁じていた)、そこに表現されたものは比較的自由にコピーできた。こういう、知的財産権の保護が不完全な市場で何が起こるかは興味深い問題である。まず第1に、優れたデザインはすぐに広まった。そして第2に、人々はそれをアレンジすることを楽しんだ。容易にコピーできるからこそ、それを変化させることが主眼になったのである。江戸のデザイン界では、現在の二次創作市場と同じことが起こっていた。

この2点が、現在の商業デザインと決定的に違うところであり、江戸のデザインの多様性の鍵であるような気がする。

そしてもう一つ違うのは、現在の商業デザインは、万人受けする、どんな人にも場面にも合うものを作りたがるが、江戸時代はそこが少し違った。もちろん江戸時代にもシンプルなデザインは存在したが、けっこうドギツいデザインも多かった。それは、江戸時代が大量生産の時代でないことと関係がある。江戸時代のモノは手作りで、注文生産である場合も多かった。だから、万人受けする必要がなく、むしろ注文者の趣味趣向や、使う場面に適したものが好ましかった。そしてそれは、上級に洗練されたものというより、「遊び」がある面白いものが好まれた。何しろ顧客は、しかつめらしい武士ではなくて、遊びに生きた商人だったのである。このあたりも、現在の二次創作市場と似ている。

ところで、デザインというと、家具や日用雑貨のデザインから平面デザインまで含まれるが、本書で対象としているのは、モノにあしらわれる図案のことが中心になっている。当然、その多くは荒井氏の専門である扇であるが、それ以外の話も少しは出ている。そういうものを見ていて思うのが、「江戸時代は、よくこんな不整形な画面に絵をあしらおうと思ったな」ということである。

そもそも、扇からして図案を乗せるのは不向きだ。蛇腹に折られているし、そうでなくても扇形は図案を乗せる画面としてやりづらそうだ。ところが、江戸時代のデザイナーたちは、むしろ長細い画面や不整形な画面にこそ図案を乗せやすかったのではないかとさえ思える。現在の画用紙のようなアスペクト比になっている作品は浮世絵などわずかで、図案の多数はむしろ極端なアスペクト比を好んだのではないか。

というのは、日本の工芸では歴史的に、掛け軸(縦長)、屏風(縦長)、巻物(横長)など、縦長または横長の料紙に描く図案が発達していたからである。そしてこうした長細い(あるいは不整形な)画面であればこそ、「のぞき」や「見立て」のような技法が発達したといえる。西洋絵画のように正方形に近い長方形画面が中心であったら、モノの一部だけ描くのはかえって難しくなるからだ。

このように、江戸時代のデザインは、その市場の在り方と深くかかわっていたと思う。本書には、そうした視点はあまりなく、どちらかというと荒井氏の個人的な経験や創作活動が中心になっていて、それはそれで生き生きした内容なので面白いが、歴史家がそれを解説すればさらに面白いものになったのではないだろうか。

扇子屋の主人の生き生きした話を聞ける本。

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2025年8月24日日曜日

『老子』福永 光司 訳(『世界古典文学全集37 老子・荘子』所収)

老子の思想。

『老子』を通読するのは3度目である。以前は道の思想に憧憬を抱き、無為の世界を体得しようとさえ思っていた。だから以前は、「聖典」へ向かう態度で『老子』を見ていたと思う。今でも道の思想には魅力を感じているが、一歩引いてみられるようになった。そして今回は、今まであまり目につかなかった部分が見えてきた。そこでこの読書メモでは、老子の思想そのものというより、私が今回気になったことを中心として述べたい。

まず注目したのは、老子は「天」を肯定するということ。例えば「人を治め天に事(つか)うるは、嗇(しょく)に若くはなし(=民を治め天に事えるには、つつましやかであるといことが第一である)(第59章)」と老子は言う。

この「天」とは何か? 古来、中国では「天」の祭祀が行われてきた。「天」は至高の存在として祀られたのだが、老子が生きたと考えられている戦国時代には、すでにインテリは天帝や鬼神といったものを信じていなかったとされている(ただし墨子を除く)。だから「天」は実在の何かとしては捉えられていなかったようだ。しかしそれでも「天」は至高の存在として認められていた。老子はこの常識を承認する。そして老子は「天」を人間の力ではどうしようもないものとして認識した。「天下は神器、為す可からざるなり(=天下というものは不思議なしろもので、人間の力ではどうすることもできない)(第29章)」。だから「自然」に従うほかないのである(第29章)。

そして老子は「帝」や「王」や「侯」を肯定する。老荘思想というと、「竹林の七賢」に代表されるように支配機構から背を向けているという印象がある(もっとも、現実の「竹林の七賢」の多くも公職についていたのだが)。だから老荘思想では、支配機構そのものが否定されているかのようなイメージを(少なくとも私は)抱いていた。ところが実際にはそうではない。老子は「故に道は大、天は大、王も亦た大(第25章)」という(この「大」は「偉大」の意味である)。

老子は、王は偉大でなくてはならないと考える。「王を道の最高の担い手として天地と並列するのは、老子思想の特色の一つである(p.31)」。しかしもちろん現実にはそうでない。「朝は甚だ除(よご)れ、田は甚だ蕪(あ)れ、倉は甚だ虚しきに、文綵を服し、利剣を帯び、飲食に厭き、財貨余り有り(第53章)」と彼はいう。現代の政治批判と同じようなことがここに言われている。政治は汚職にまみれ、田は荒れて民衆のふところは乏しいのに、政治家たちは虚飾の繁栄を楽しんでいるというのである。だから彼はいろいろと統治機構に注文をつける。『老子』は、隠棲者のための書ではなく、政治論でもある。

その注文は、大まかに言えば「余計なことは何もするな(=無為)」ということに尽きる。人為的なものを廃して(第38章)、刑罰を設けず(特に死刑を否定する)(第72章、第74章)、税金を少なくし(第75章)、戦争は行わない(第31章、第80章)。そして、人々を愚かな状態に留めておく(第3章、第65章)。ここはいかにも老子的な言説である。老子は人間が小賢しくなったことが禍の元だと考える。だからいっそ愚かな方がよい。儒学では人間は勉学に励んで賢くなることが必要だと考える。ところが老子は逆に、勉学などするから争うのだという。だから民衆を愚かにせよというのは極論のようであるが、「老子のいう愚とは無為の道と一体になった無知である(p.76)」。「学を絶てば、憂い無し(第20章)」である。

ともかく、老子は統治機構を表面的には否定しないが、実際には何もしない方がよいという。しかしこれは、無政府主義であろう。このような国家がもしあったら、存続できないことは明白だ。というよりは国家の体を成さない。だから老子の考えはユートピア的な空想だと思える。しかし彼は、おそらく農村に暮らして政治の現実を見ていた現実主義者なのである。『老子』には、しばしば現実主義者の顔が出る。例えば、「是を以て聖人は、終日行(ゆ)いて、輜重(しちょう)を離れず(第26章)」という。「聖人は、終日行軍しても輜重車を手放さない」すなわち、聖人は行軍において兵站(へいたん=物資の補給)を疎かにしないというのである。

そもそも老子は戦争を愚かな行為として否定するが、彼の生きた時代は戦国時代であったので、現実に戦闘が行われていた。そんな中、おそらくは兵站を疎かにした行軍が行われていたのだろう。それで困るのは末端の戦闘員である。老子はこういう下っ端に最も共感しているように見える。彼らは、税金に喘ぎ、為政者が恣意的に定めた刑罰によって捌かれる人間であった。「為政者よ、何もしてくれるな」というのが、老子の叫びなのである。

ところで、老子は自衛のための戦争は否定はしない。「兵は不詳の器、君子の器に非ず。已むを得ずして之を用うれば…(第31章)」といい、「武器は君子の手にすべきものではない」といいつつも、それを使わざるを得ない時があることも認めるのである。つまり一見老子は無政府主義的であるが、いつ他国に攻め込まれるかもしれない戦国時代の現実を見ていた。そしてひとたび戦争になれば「人を殺すことの衆(おお)き、哀悲(あいひ)を以て之に泣(のぞ)み、戦い勝つも喪礼を以て之に処(お)る(第31章)」べきだという。悲しみを以て戦いに臨み、戦いに勝っても葬礼を以て対処する、ということだろう。

では、老子のいうような国家があったとして、それが他国に攻め込まれないかどうか。ここはかなり怪しい。まず、老子は富国強兵を否定する。税金はなるべく取らない方がいい。とすると強大な軍備は不可能となる。刑罰も設けないから、民衆に何かを強制することも難しい。となると他国に攻め込まれるほかなく、しかもその国は弱いから敗北が必定である。となると、やはり老子はユートピア主義者なのだろうか。だが老子は「弱い」ことに積極的な価値を見出す。というより、勝利の価値を疑う。そんなもの一時的なものじゃないか、と彼は考える。

老子の哲学は女性的だ、と言われてきた。剛よりも柔、強よりも弱を老子は永続的なものと見る。「物壮なれば則ち老ゆ(=物はすべて威勢がよすぎると、やがてその衰えがくる)(第30章)」。儒教が男性的な思想だとすれば、老荘は女性的思想である。「敗北してよい」とまでは老子は言っていないが、 軍国主義が招くのは農村の荒廃であると彼はいう(第30章)。だから富国強兵は一時的にはうまくいっても、結局はゆきづまる。ではどうしたらいいのか。そこを老子は突き詰めて考える。その答えが、文明そのものを疑えということなのだ。

しかしながら、それは個人の思想としては力を持ち得ても、政治論としては無力である。

老子の時代に活躍した諸子百家と呼ばれる思想家は、みな政治コンサルタントとして活動した者たちである。彼らはどうすれば他国に打ち勝てるかを君主たちに説いて回った。しかし老子はそういう者たちと全然違う。彼の思想は、諸子百家の系譜には位置づけられない。彼の思想は農村に生きる、下っ端の思想である。そこでは社会的価値が顚倒する。官僚よりも農民が、賢い人よりも愚かな人が、強い人より弱い人が、名声を得た人より無名の人が、文明より野蛮がよいとされる。それらは全て、人為的な虚飾にすぎないというのが老子の考えだ。農村の下っ端は、一番文明から遠いからいいのだ。

しかしそういう言説こそ観念論に過ぎないのではないか。むしろ文明が生みだした虚飾の思想に過ぎないのではないか。結局、老子だって「小」より「大」を好む。「小国寡民(第80章)」を理想としながら、無為の道を体得すれば「天下を取る(第48章)」という。老子は「天下を取るなんて価値がない」とは言わないのである(ただし第48章は後次的なものとみる説もある)。彼は敗北主義者のように見えるがそうではなく、天下に君臨する聖人は無為である、無為な人こそ天下を取れる、といっているのだ。

では、その聖人は具体的には何をするのか。どうして天下を取るのか。これは儒教の徳治主義にも通じる問題である。儒教では、徳のある君主がいれば、彼は何もしなくても民衆は彼に靡き、他国もそれを尊重して天下はうまく治まると説く。老子の言説もこれと同じである。無為の聖人は何もしないが、何もしないことで全てはうまく治まる。落ちつくところに落ちつくから、全てがうまくいくのだという。しかしそんなことはありそうもない。

ここに回答を与えたのが、意外なことに法家の人たちであった。つまり、巧妙な法がありさえすれば、君主は何もしなくても世の中はうまく治まると彼らは考えた。だから老荘思想を発展させたのは、無為自然とは最も遠いはずの法家思想の人たちであり、『韓非子』には老子の影響が色濃い(逆に、『老子』の中に『韓非子』の文章が改作されて竄入したと考えられる箇所もある)。しかし法家思想と合体することにより、夢想的だった老荘思想が現実に適用できる政治論となり、長く巨大な影響力を持つことになった。現在伝わる『老子』のテキストは、おそらく法家の人々によって伝えられたものなのであろう。

よって、もともと老子(老聃)が説いた教えは、今の『老子』とは少し違っていたのかもしれない。だがそのエッセンスは明確である。それは、何かをやることに価値があるのではなく、やらないことに価値がある、という無為の哲学である。そして、こんな争いばかりの世界になってしまった原因は、人々があらゆることに手を出してしまったからだ、欲望を実現してしまったからだ、とする今に通じる圧倒的なリアリズムに基づいている。

全ての人為的価値を顚倒させるリアリズムの書。

【関連書籍の読書メモ】
『世界古典文学全集 19 諸子百家』貝塚 茂樹 編 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/05/19_15.html
諸子百家の思想の概観。

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2025年8月20日水曜日

『民間暦』宮本 常一 著

民間の年中行事について考察した本。

本書には、「新耕稼年中行事」『民間暦』「亥の子行事—刈り上げ祭り」の3編が収録されている。

このうち『民間暦(みんかんれき)』は、宮本常一が初めて一般向けに出した単行本である。小学校教員をしていた宮本が民俗学の世界に傾倒し、教員を退職して調査研究の生活に入ったのが昭和14年。そして本書の刊行が昭和17年である。宮本35歳の時であった。本書が彼の「処女作」だ。

本書収録の3編は、どれも事例の羅列という性格が強く、そこからの考察というか、民間の年中行事に対する分析はあまり展開されていない。それは宮本自身が「民間暦」のあとがきで「この書物の論旨のほとんどは柳田先生のお説を復誦しているようなもの(p.287)」といい、「書いていくうちに、概観だけで、予定の紙を要してしま(p.289)」った、としている通りである。

では「民間暦」の本来の目的は何かというと、「この書は、民間において古くから年々歳々日を定めておこなってきた諸々の行事が、いかなる意味を持ったものであるかを、広く全国各地におこなわれている現状に徴してみようとした(p.58)」ものだと宮本はいう。私もこれを期待して本書を紐解いたのだが、先述のとおり、本書は「こういう行事があります」というだけで終わってしまっている。

もちろんその紹介自体かなりの力作なのだが(なにしろ宮本の処女作だ)、私の関心は諸行事の大量の事例ではなく別のところにあった。そこで、通常の読書メモとは少し違うが、私がどういう関心で本書を手に取ったかをまず述べたい。

私は、年中行事というよりも暦の成り立ちそのものに関心がある。それは、私自身が農業をしていることと関係がある。当たり前のことをいうようであるが、農業は季節の移り変わりを基準に組み立てられる。つまり太陽暦が基準だ。近世以前の日本では太陰暦(=旧暦、月の満ち欠けによる暦)が行われていたが、農事に関しては太陽暦による二十四節気が基準となっていた。

ちなみに農業というとのんびりした印象があるが、実際には植物の栽培は季節の移り変わりに敏感で忙しい。例えばかぼちゃの植え付け時期はそれなりに自由度があるが、本当に上手にできる時期を選ぶと植え付けの適期は2週間くらいしかない。太陰暦と太陽暦は平気で3週間くらいズレるので、太陰暦を基準にしては農事はうまくいかない。

つまり農業は太陽暦を基準にしなくては例年通りの栽培ができないところがほとんどすべての年中行事は太陰暦によって日が決まっている。これは農民にとって大変都合が悪い。例えば、ある年は植え付けの前にその行事がある。ある年は植え付けの最中に。ある年は植え付け後に。これは困る。なぜなら、植え付け前や植え付けの最中はとても忙しく、悠長に年中行事などやっている暇がないのである。近世以前の年中行事は、物忌みを伴っていたから「休む」「仕事をしない」日でもあった(そういう日に仕事をすると制裁が加えられることもあったという)。これが農家にとって大変都合が悪いのである。植え付け後に休むならいいが、植え付け前は大変忙しく、休んでなどいられない。

「忙しい時にあえて休むのもいいじゃないか」と思うかもしれないが、農業は適期に精一杯働いた方が後が楽だ。植え付けが3日遅れると後の生産性が変わってくる。植え付け前の忙しい時期に1日(または2日)休むのは非常にストレスなのである。「こんなことをするくらいなら早く農作業を終わらせたい」というのが農家の感覚である。しかしそういう年中行事が近世以以前に行われていた。これが不思議なのだ。

もちろんこの不自然さはいくつかの農事的な行事では考慮されていたように思われる。(これは民間行事ではないが)収穫祭の意味がある新嘗祭は、旧暦11月23日に行われていたが、これは新暦では12月から翌年1月にあたる。収穫祭にしては妙に遅い。新嘗祭がこの時期に行われる理由はいろいろに言われているが、これは旧暦でも確実に収穫が終わった時期であるということもあるのだろう。収穫祭が収獲前に行われたのでは意味がないからだ。

ところが多くの年中行事は、こういう配慮は感じられない。はっきり言って、民衆が行ってきた年中行事のスケジュールは、農業と相性のよくないものだと感じる。そういうものがずっと行われてきたというのは不可解というほかない。こういう疑問の下で私は本書を紐解いた。

「新耕稼年中行事」では、純粋な農事行事が紹介される。これは、「年中行事」とはいうが上述の「年中行事」ではない。つまり「年々歳々日を定めておこなってきた」ものではなく、農業のリズムに従って行われるものである。例えば、ワラ細工とかムギ刈り、いもほりといったものだ。ところがここにも太陰暦行事がある。それは八朔、つまり八月一日である。

この日、多くの地域では「それまでゆるされていたヒルネがもうできなくなる(p.37)」。百姓は昼寝さえ自由に許されておらず、それが権力によって規制されていたこと自体も興味深い(ちなみにヨナベ=夜の仕事も強制であった)が、それはともかく、農業の進行とは無関係に、暦でこういうことが区切られていたのだ。ただし、旧暦8月1日は新暦では8月末~9月末あたりで、どちらかというと農閑期にあたっているのはまだ合理的である。

一方、「民間暦」で取り上げられるのは多くが太陰暦行事である。これらは神仏の祭祀に関係があり、本書ではその骨格を、物忌、みそぎはらい、籠居、斎主、神を招く木、訪れる神、神送り、祝言、年占い、除厄という観点で語っている。太陰暦による(=月の満ち欠けの決まった)日取りに、仕事を休んで物忌み(生活の制限)を行って身を清め、神を招いて飲食をともにし、そして神からの何らかのメッセージを受け取って(=受け取ったことにして)神をまた元に返すというのが年中行事の基本構造であり、またこれを一村単位で行ったこと、つまり共同体の祭祀として行ったことが重要である。

また干支による行事もあった。例えば庚申待、甲子待、正月子の日、土用丑の日、四月卯の日、二月初午、十二月酉の日、七月および十月の亥の日などだ。これらはまた別の思想に基づいていたと考えられる。本書には詳らかではないが、これらの行事は講や個人で行われているものが多い気がする。

本書では、単なる年中行事ではなく、民間暦という「民衆が行ってきた年中行事」を取り上げているが、意外なことに、それらの多くが農事とは直接関係がない。例えば最も重要な年中行事は盆と正月であるが、これは農事とは無関係だ。正月は一年の豊作を願うにしても、農事そのものと関連しているとは言えない。

ところで、今では年中行事といえば年寄りが中心のようなイメージがあるが、若者がその中心的な役割を担っている場合が多い。そして若者中心の行事は、「だいたいはなやかにして興奮を覚えるようなものである(p.177)」。さらには、祭りには子供が中心となるものが存外に多い。「子供が行事に参加して中心となることは、若者たちが参加するよりは、いちだんとくずれかけた形ではなかろうかと思う。大人がおこなうには馬鹿くさいという気持ちがさきにたつようになったのである(p.180)」と著者はいう。

ともかく、信仰の零落によって、祭りは形骸化したり、華美になったり、遊興化したと著者は考える。例えば厳重な物忌み・潔斎を行うことは日常生活(当然農事にも)に支障をきたすから、これを選ばれた専門の人のみにまかせ、大多数の村人は受動的に参加するだけになっていったのだ。そしてその専門の人は、例えば正月の門付のようにやがて職業化していった。

このように著者は行事の変化の原因として「信仰の零落」を据えるが、それはそうとしても、私はそもそも日本の年中行事が農事と直接にリンクしていなかったことがその大きな要因のように感じる。

世界では、夏至・冬至・春分・秋分のような太陽暦行事・祭祀が数多いが、これは明らかに一年の生活リズムと連動し、農業とも深い関連がある。こうした行事の場合、例えば「〇〇の植え付けが済んだら夏至の祭り」とか「〇〇の収穫が済んだら冬至の祭り」といった感覚となり、祭りそのものに向かう態度も毎年等しい。ところが太陰暦行事の場合は、先述のように行われる時期がバラバラである。昨年は収穫後だったが、今年はまだ収穫の最中だ、となると行事に向かう態度そのものが変わってしまう、と農業を生業としている私は思う。

結局、行事から神聖な要素が脱落していったのは、このあたりに本質があるのではないだろうか。生活・農事と遊離した年中行事であったために、形骸化をまぬかれなかったのではないか。

ところで著者は、「民間暦」の出発点として「ずっと以前から子供の生活習俗に興味と関心をもっていた(p.287)」といい、民俗関係雑誌から子供に関する記事を書きぬいていたのであるが、そこには「不思議に年中行事に関する報告が多かった(同)」のだという。どうして日本では子供が年中行事を担ったのか。幼童に神聖性を感じるということもあったのかもしれないが、それよりは、年中行事が生活・農事と遊離していたために「今年は忙しい時期が祭りにあたっているから子供にやらせよう」といった心情になったことが遠因なのではないか。

そういう子供中心の行事の一例が、「亥の子行事」である。本編は「民間暦」のケーススタディにあたる一編で、全国の亥の子行事を比較してその本質を探っている。亥の子行事とは、10月の亥の日(2回または3回あり、その全てで行われる場合もある)に、山の神(または田の神)が家に帰ってくる日などとされ、お祝いをするものだ。10月の亥の子の日には宮廷でも別の趣旨の亥の子行事もあるが、これはおそらく別系統の行事である。また関東では案山子あげが10月10日に行われ(=十日ン夜(とおかんや))、これは亥の子の日ではないのだがやはり「亥の子」と言われている場合がある。著者は亥の子を刈り上げ祭りと見ているが、農事とは直接関係しない。

ここで亥の子と関連して能登地方のアエノコトが紹介されている。この事例が大変興味深い。「そのおこなわれる日は11月5日(現今は12月5日)が多いようであるが、日は必ずしも一定していなかったらしい(p.318)」。これが厳重に行われていた祭りだというのが示唆的だ。農事に強くリンクした祭りは、太陰暦とはリンクしないから日付が一定しない。そしてそういう祭りこそが厳重に行われるのである。ということは、「年々歳々日を定めておこなってきた諸々の行事」は、太陰暦で日が定まっているからこそ形骸化をまぬかれなかったと考えられるのである。そして逆に言えば、形骸化したからこそ長く行事が維持されたのかもしれない。祭りが形骸化し、遊興化し、子供や若者の楽しみになったからこそ年中行事は持続した。これが大人が厳粛に行うものでありつづけたら、全国津々浦々の村で行われたか疑問だ。

なお、行事の元来の意味が忘れられて、奇々怪々な解釈で年中行事が行われるようになったのも、それが生活・農事と乖離したものであったからという気がしてならないのである。

なお、私がここで述べた太陰暦と農事との乖離について、著者はほとんど考察していない。晩年に至って、この問題を著者がどう考えるようになったか興味があるが、さしあたり手元の資料ではわからない。また現在の民俗学ではこの問題がどのように考えられているのか、追って調べてみたい。

民間の年間行事を体系的にまとめようとした宮本常一の意欲作。

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2025年8月16日土曜日

『神国日本』佐藤 弘夫 著

中世の神国思想を考究する本。

中世には「日本は神国(しんこく)である」という言説が常識となった。それはどうしてか。なぜこのような言説が生まれたのか。一般には、神国思想は戦前日本の狂気じみたイデオロギーであったとみなされているが、実際はそういうものではない。ではその実態はいかなるものであったのか。本書は神国思想を丁寧に解明するものである。

神国思想が興隆した平安時代末期~鎌倉時代、日本では浄土教が流行し、日本を末法の辺土粟散とみる一種の自虐国家観があった。日本は仏法の本場インドから遠く、時代は末法で、機根の劣った人ばかりの小さな国だというのである。一方、神国思想では、日本は「神の国」なのだからこの国家観と真っ向から対立するように見える。従来、学界ではこの見方が通説となってきた(例えば、古川哲史など)。しかし神国思想を大きく鼓吹した『神皇正統記』(北畠親房)では、日本の末法辺土観も前提となっている。

また、神国思想では、天皇が超越的な存在にならざるをえないと考えられてきた。しかし中世では不徳の天皇は退位が当然とも思われていた。さらに親房は、天皇となるためには過去世に戒律を受持する必要があると『神皇正統記』で述べている。前世で仏道を真摯に実践したからこそ天皇として生まれたのだ、というのである。

このように、神国をめぐる通説は、神国思想の原典の一つである『神皇正統記』と乖離する。だから神国思想について再検討する必要があると著者はいう。

古代の天皇の神聖性は、天皇号の採用、大嘗祭の創出などから、天武天皇あたりで高められたと考えられる。そして国家が日本全国の神祇を一元的に祭祀に組み込む体制が構築された。しかし律令国家が瓦解し、寺院への国家からの財政支援が途絶えると、寺院は荘園領主として自立することを迫られ、神祇界にも自由競争原理が持ち込まれた。こうして「国家から相対的に独立した有力社家(p.41)」がしのぎを削った。そうした大社を国家がいちおう統合したのが「二十二社制度」である。そして地方の神社は「一宮制」によって似たような秩序を形成した。

そうした制度は、いちおう国家が神社の序列を設けるものであったが、それは絶対的なものではなかったので各社は地位上昇をもくろみ、特に比叡山の日吉山王社は、みずからを伊勢神宮を超える根源的な神社であると主張した。「神道史家の高橋美由紀氏は、天照大神という神祇世界に君臨してきた至高神を相対化し、それを超越しようとする中世神道界の動向を「神々の下剋上」と評している(p.47)」。

また神祇の世界は、荘園経営と深くかかわるようになり、12世紀ごろからは、その領地を「神領」などとして課税を逃れようとしたり、寄進を善行として促すような言説がみられるようになった。神の存在が土地の支配と関連付けて観念されるようになっていったのである。

一方、それに先立つ10世紀あたりから本地垂迹説が広まった。仏の教えは機根の劣った人ばかりの末法辺土の日本には理解されない。だから日本人を救済するため、仏は神として垂迹したというのである。これは本地(仏)の偉大さを述べつつ、実際には神社への参詣や帰依を進めることとなった。

そしてこうした変化と並行して、平安時代中頃から、神の性格が徐々に変化した。その象徴が、天皇による神社行幸と返祝詞(かえしのりと)の制度の確立だ。古代の神はひたすら畏れられる存在だったが、このころには神は対話可能な存在と受け止められるようになった。そして神は「祟る」のではなく「罰」を与える存在として表象された。神は信賞必罰の合理的な存在になったのである。そして本地垂迹説によって、一見無関係に見える神々の世界が、仏を媒介にしてつながり、包摂された。そして道教の神々までも含めた神仏の壮大なコスモロジーが観念されるようになった。こうした中で神国の観念が育っていくのである。

日本を神国とみなす観念は古代までさかのぼる。日本書紀の「神功皇后紀」に、新羅王の言葉として「東方に神国がある」という一節がある。「日本=神国の理念は、神々に対する素朴な崇敬の延長線上に自然発生するようなものではなかった(p.90)」。その背景には統一王権による神々の再編成と、対外関係の緊張があり、当初から「きわめてイデオロギー的色彩が濃厚(同)」だったのである。

「神国」がまとまって使われるようになるのは9世紀後半の清和天皇の時代で、貞観11年(869)、新羅のものと思われる船が筑前に来航した際、諸国の寺社に国土の安穏を祈願した告文に「神明の国」「神国」といった語が散見する。この「古代的」な神国思想は、「天照大神の指揮のもと、有力な神々が一定の序列を保ちながら天皇とその支配下の国土・人民を守護する(p.95)」というものであった。ここでは仏教的要素は見られない。

そして「院政期ごろから日本を神国とする表現が急速に増加し始める(p.99)」。『古今著聞集』、『私聚百因縁集』、『神道集』、『八幡愚童訓』などは神国思想が前提となっており、頼朝も「わが朝は神国である」と述べているが、 なぜ頼朝は神国を強調せねばならなかったのか、奇異に感じるほどである。そして元寇があると神国思想は一層興隆した。神風が吹いたから神国なのではなく、それ以前の敵国調伏の祈祷の段階で神国は強調された。そういう祈祷を行った僧侶に東巌慧安(とうがん・えあん)という人がいる。彼の願文では、日本は仏が神として垂迹しているから神国なのだ、という論理になっている。これが「中世的」神国思想の特色である。

ところで、神国は何よりも国家・国土に対する観念である。では神国思想のいう国土は具体的にはどういう領域なのか。『貞観儀式』所収の追儺祭文には、東:陸奥/西:五島列島/南:土佐/北:佐渡よりも遠方、という国土観が示されている(村井章介)。これはやがて南:鬼界が島(硫黄島?)/北:外が浜(青森県?)へと拡大したが、ともかく日本の国土は人為的に成立したものというよりは、各種の「日本図」で明らかなごとく(例えば日本は独鈷杵の形をしているとか)、宗教的に(さらに言えば仏教的に)意味のある、あるいは予め定まったものとして観念されたのである。

このように、神国思想は末法辺土観を克服するものだったという通説はあたらない。むしろ日本が末法の辺土悪国だからこそ仏が神として垂迹したと考えるのであり、末法辺土観はその前提である。そして神の偉大さは末法辺土の劣った人間への救済者として強調された。神国思想は、「仏教をライバル視し、それに対抗しようとする立場から主張されることはありえない(p.119)」のである。

では、神国思想は蒙古襲来を契機として勃興し、日本を他国より優れた国だとするナショナリズムが内包されていたという通説はどうか。神国思想が前提としていた仏教の世界観では、世界を三国(インド・中国・日本)として把握したが、その上に真理の世界をも措定した。そこには曲がりなりにもインターナショナルな認識があった。神国思想は日本の優越を一方的に主張するものというよりは、仏が神として垂迹した国という特殊性を強調していると思われる。

また、神国思想は、奇妙なことに寺社の強訴に際して院周辺から主張された。著者は「国家的な視点に立って権門寺社間の私闘的な対立の克服と融和・共存を呼びかけるために、院とその周辺を中心とする支配権力の側から説き出されたものだった(p.137)」と考える。「そんなワガママいわないでください。同じ神国に住む仲間じゃありませんか? 」というところだろうか。

面白いことに、専修念仏運動を弾圧した延暦寺も、専修念仏教団が神祇を尊ばないことを神国をないがしろにするものとして批判した。とにもかくにも神国思想は「国家に対する観念」なのである

蒙古襲来に際して神国思想が盛んに鼓吹されたことは、それを象徴している。「日本は神国だから他国が侵略することはできない」と主張されたが、このころの日本は荘園の分捕りによって分裂気味であった。「神国の論理は、内部にさまざまな問題と矛盾を抱えていた日本の現実を「神国」と規定して蒙古に対峙させることによって、そのきしみと裂け目を覆い隠そうとするものだった(p.152)」のである。神国思想が支配者から盛んに言われていることはその証左である。神国思想は、対立する諸権門の融和を企図し、「中世国家体制を正当化するための宗教イデオロギーとして支配権力側から説き出されたものと推定できる(p.157)」。

なお、これは対立する勢力を対象としたイデオロギーであるから、民衆に訴えかけるのではないことは注意が必要だ。

神国思想は天皇を超越的存在に仮構するという通説はどうか。中世では天皇は政治の実権を失っていたが、確かに宗教的な権威は高まっていた。しかしそれは古代のように無条件に現御神としてあがめられるものではなかった。摂関・院政期には天皇がさまざまなタブーから自由になり、神秘性を失ってしまったとも指摘される(益田勝美の説)。そして天皇・院には仮借なき批判が寄せられるようになった。天皇が死後地獄に落ちたという言説もしばしばみられる。「中世社会においては歴代のほとんどすべての天皇について、仏神の罰やたたりを蒙ったというネガティブな噂が存在した(p.171)」。幼童の天皇が続いたことも天皇の形式化の証左である。

しかし同時に、いくら天皇の存在が形式化しても、天皇を超える国家の支配権力結集の核が形成されなかったことも事実である。だから結局「支配秩序を維持しようとする限り、必然的に国王=天皇を表に立てざるをえな(p.187)」かった。つまり、天皇の実権が弱い状態では、その権威のみを強調する神国思想は諸権門にとって都合がよかったのである。

このように、中世の神国思想の通説は主に3つの点で訂正されねばならない。(1)神国思想は蒙古襲来を契機として言われるようになったのではなく、その淵源は意外と古い。(2)神国思想は日本礼賛の論理ではなく、日本を末法辺土の小国であるとする仏教的世界観を前提としており、日本の特殊性を強調する。(3)天皇は神国思想の中心的要素ではない。

本書は最後に、神国思想がどう現代までつながっていくかを簡単に述べている。神国思想は中世後期から変貌していった。その背景には、「彼岸世界の後退(p.200)」がある。それまでは人々は此岸・彼岸の二重世界に生きていたが、彼岸世界のリアリティがなくなり、この世での充実した生活の方がずっと重要になっていった。秀吉や家康も神国思想に言及しているが、そこで仏教的世界観こそ否定はされていないものの、日常の儒教論理の方が前面に出てきている。近世になると、彼岸での救済といった観念が批判され、神国思想から仏教的要素が希薄化して、神国思想は日本の絶対的優位性を主張するものへと転換していった。そのような近世的神国論は、林羅山や熊沢蕃山から見られる。そして「江戸中期以降は神道家や国学者をはじめ、心学者・民間宗教者の著作や通俗道徳書などに広く散見するようになる(p.210)」。そして「だれもがなんの制約もなしに、仏教・儒教・国学などの諸思想に結びつけて「神国」を語ることができるような状況(同)」になっていた。このような中で、神国思想が天皇と強く結びつけられ、明治維新以降に大きく担ぎ出されることになったのである。

本書は全体として、神国思想を中心として中世の思想史を紐解くものであり、神国思想そのものよりも、神国思想を生み出した基盤についてより重点的に語っている。例えば、北畠親房の『神皇正統記』などはもっと内容を詳細に紹介してもよさそうに思ったが、著者の関心は「なぜこういう言説が生まれ、広まったのか」という点にある。その要諦は、神国思想を育んだのは仏教であったということである。そこから仏教的要素が脱落したことで近世の神国思想が生まれ、さらに天皇が中心となることで戦前の神国思想へと変貌した。

なお、本書は学術書ではないため、注がない。全体的に平易な書き方をしてはいるが(というより、そうだからこそ)、注があった方がよいと感じた部分もいくつかあった。巻末に掲げられた参考文献一覧では、神国思想研究を形作った文献がまとめられているので、備忘のため下に年代順に掲げる(出版社等適宜省略した)。

神国思想をキーにして中世思想を紐解く良書。

山田孝雄『神皇正統記述義』1932
長沼賢海『神国日本』1943
田村圓澄「神国思想の系譜」『日本仏教思想史研究浄土教篇』1959
黒田俊雄「中世国家と神国思想」『日本中世の国家と宗教』1975
藤田雄二「近世日本における自民族中心的思考」1993
高橋美由紀「中世神国思想の一側面」『伊勢神道の成立と展開』1994
河内祥輔「中世における神国の理念」『日本古代の伝承と東アジア』1995
佐藤弘夫「中世的神国思想の形成」『神・仏・王権の中世』1998
白山芳太郎「神国論形成に関する一考察」『王権と神祇』2002
鍛代敏雄「中世「神国」論の展開」2003
佐々木馨「神国思想の中世的展開」2005

【関連書籍の読書メモ】
『日本中世の国家と宗教』黒田 俊雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/06/blog-post_22.html
日本中世の国家と宗教の在り方を考察した論文集。中世社会への見方を一変させた記念碑的論文集。