2018年8月27日月曜日

『羅漢—仏と人の間』梅原 猛 著、井上博道 写真

梅原猛の語る「羅漢の世界」。

本書は、ほぼ半分を占める羅漢の写真と、それに対する著者の記述によって構成される。写真の方は、説明的なものというより、割合に芸術性のある写真が多く、そういう意味では写真集として読めるものだと思う。

その写真に対する著者の記述は、一言でいうと玉石混淆である。体系的に語られることが少ない羅漢であるから、著者の説明はかなり参考になる部分がある一方で、著者の空想(この羅漢さんはきっとこんな人物だったのだろう、というような)が延々と続くような部分もあり、雑誌を眺めるような気分で読むときにはよいが、「羅漢とはなんぞや」という真剣な問題意識を持って読むと肩すかしを食らう。

ちなみに、なぜ羅漢崇拝が起こったのかということについては、「仏教と老荘の結合により生みだされた超人思想、それが十六羅漢の思想であったように思われる」(p.146)としており、「羅漢思想は一種の自由人崇拝である」と言う。

本書の多くの部分が、先ほど述べたように著者の空想に費やされており、あまり真面目に受け取れないのがほとんどだが、最後の木喰上人の羅漢像製作のエピソードについては空想ではありながら説得力があった。それは、木喰上人が十六羅漢像(および釈迦如来像)を彫刻した際、自らの仏化を演出するためにいろいろな仕掛けを自作自演したのではないかとする空想である。木喰上人はこのためにアシタ尊者(十六羅漢の中の一人)を自らに似せて作り、すぐ後に光背を持った自刻像をも作った。これは、木喰上人が生きながらにして即身成仏し、仏となったことを宣言するものだというのである。

著者は、これを「それは確かにペテンにも似ている」としながらも、木喰上人の無邪気な姿を非常に好意的に描いている。この部分は情感がこもっていて、今までさほど興味のなかった木喰上人が急に気になってきた。

なお、本書はあまり有名な本ではないが、梅原猛の最初期の著作の一つであり、その選んだテーマが「羅漢」であったこと自体も興味深かった。

玉石混淆であるが、羅漢をテーマに梅原猛が自由に語る異色の本。

2018年8月26日日曜日

『薩摩の兵児大将―ボッケモン先生青春放浪記』大迫 亘 著

明治末期から昭和初期を舞台にした自伝的小説。

著者大迫亘氏は、明治末期の加世田で士族の子として生まれた。ところが、母親の両親が結婚を認めず父親を加世田から追放。そのショックから母親は精神を病んでしまい、亘は半私生児として祖母によって育てられる。その教育は虐待といってもよいほど厳しいもので、そのために著者は強烈な負けじ魂と命を惜しまない無鉄砲さを持つ悪ガキに育ち、浄福寺という寺跡に住居があったことに因み「浄福院のキッゲ(きちがい)稚児」と呼ばれた。

本書第1章は、その悪ガキの頃の悪逆の伝説である。祖母一人の畑仕事の収入しかないのだから「浄福院のキッゲ」は大変な貧乏であったが、貧乏なだけ一層、士族として偏狂的なまでの自負心を持っていた。そして血を見るケンカが大好きで、手のつけられようのないガキ大将だった。

川辺中学校に入学するといよいよ悪事のスケールも大きくなり、ケンカと無鉄砲さは狂気の度合いを増していく。一方、どういうわけか浄福院のキッゲは芸術に関心を持ち、絵を描いたり詩を書いたりしだし、遂には大坪白夢らと共に同人誌『鴻巣(クルス)』を発刊する(鴻巣とは加世田の地名)。

第2章以降は東京の歯科専門学校に入学してからの話。相変わらず武勇伝の連続。そしてこの頃になると無鉄砲というよりも、女がらみの話が多くなってくる。亘は「不死身の松」なとど呼ばれ、バーを経営したり、屋台の用心棒のような存在となって、昼は専門学校生、夜は半ヤクザとして生活。月に10日は留置所で過ごすというような有様だった。

全体として非常にスピード感がある話ばかりで、特に第1章は一気読みするような面白さがある。第2章以降になるとヤクザ的な部分が出てくるため引っかかる部分もあるが、登場人物が生き生き動いてやはり読まされる作品。

一方、自伝としていながらも、50年以上前のことを非常に細かい点(交わした会話の内容など)まで書いているため、相当脚色もありそうである。悪ガキ時代の話は、自分自身で「残虐だった」としてあまり美化していないが、学生時代以降はかなり美化しているような感じも受けた。しかしこれは当時を知る人だけが判断できることである。

また、物語の本筋とは全く関係ないが、個人的に興味を抱いたことは、大正時代の加世田ではほとんどが神道による葬儀だったとしている点である。浄福院のキッゲは貧乏であったため、バイトとして葬送行列の旗持ちをすることを思い立ち、遂には加世田全体の旗持ちの総元締めとなってみかじめ料を徴収するところまでいく。そういう体験の持ち主が加世田の葬儀は神道が多かったとしているので信頼性が高い。これは私が知らなかった点であった。その他、大正時代の加世田の様子を知ることができると言う点も、地元の人間としては面白い。


2018年8月22日水曜日

『現代文 正法眼蔵(2)』石井 恭二 著

西洋哲学の概念なども使い、現代文へ意訳された正法眼蔵(第2巻)。

【参考】『現代文 正法眼蔵(1)』石井 恭二 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/01/blog-post_20.html

本書には『正法眼蔵』の「第16 行持 上」から「第29 山水経」までをおさめる。興味を引いた部分は以下の通り。

道元は「第21 授記」で一種の言語論を展開している。それは、「此の世界に世界のどのような現象であれ語句によらないものはない」(p.151)とし、我々の世界認識は言語を離れ得ないことを指摘したものである。

もっと言えば、世界が先験的に存在し、それを我々が認識し言語化する、ということではなくて、 言語によって世界が認識されることで、それが存在していることを知る、という順序だと述べている。(世界が先験的に存在しているかどうかについては沈黙しているようだ。)「覚り」というものもこれ(世界)と同じであるという。石井恭二もこの段ではソシュールやデリダを援用して気合いが入った解説を書いているが、私は言語論には疎いので道元の主張を完全には咀嚼できなかった。

「第26 仏向上事」でも、違った方向から言語論・認識論が展開される。洞山悟本大師が「貴方が他に語る時には、貴方には聞こえない」と言ったエピソードを道元は紹介し、これについて解説している。この段を読む前に、私もちょうど同じようなことを考えていたので、道元が既に思索していたことに驚いた。

これはもちろん聴覚についての言明ではない。音声言語を自ら発し、それを同時に認識することは不可能であるのだという。なぜなら、(いろいろ議論は展開されているが約めて言うと)語句と語句の指し示すものの結びつきは恣意的なものであって、自ら音声言語を発しながらそれを点検する(聞いている人が理解した内容を自らの中に再現する)ことは不可能であるからだという。

しかし道元は、音声言語を発した後の沈黙の中で、意識を集中すれば自らの言明を事後的に理解することはできる、という(「他に対して語っているのは自己でありながら、そのとき自己を確認することはない、自己の普遍性を証すのは沈黙のなかでの体得である」(p.210))。しかし私はこれは楽天的すぎる見方だと思った。自己の言明について自己で点検するなど可能なのだろうか。そもそも「意識」とは何かを明らかにしてからでないと、事後的にですら自己の言明を「理解」できるかどうか言えない気がする。

それはともかく、様々な言語論を展開した後で「云ってみれば諸仏諸祖の言葉はみな豊穣な寝言である」(p.214)という名言が飛び出したのには驚いた。道元、なかなか言ってくれる。

「第28 礼拝得髄」では、男女・幼長平等論が展開される。 師とするべき人物を見つけるには男女の違いは問題ではないという。それどころか、誰を師とするべきかについてあらゆる権威を信用してはならないとする。男か女か、年長なのか幼少なのか、名のある者か名もないものか、そういった区別は無用である。そうした外形的な区別にとらわれる人間は「真の仏道を知ることはない」(p.237)。「仏法を修行し、仏法を語りうるならば、たとえ七歳の女流であろうと、そのまま諸々の修行者にとっての導師である」(p.242)

この段は、当時の禅林においても権威主義が跋扈し、年功序列主義や女性の排斥などがあったため、それを痛切に批判しているのだと思う。現代においても、禅の世界で男女平等は達成されていないと思う。道元の批判にはもっと耳が傾けられてよい。

また、「第25 渓声山色」では、蘇東坡が渓流の夜の音を聞いて悟りを得たエピソードを紹介し、自然そのものが覚りと等しい、自然こそが正しい導きをくれるという自然観が展開される(「渓の声 渓の色、山の色 山の声は、挙げてみなお前に雄弁に語りかけることをおしまないのだ」(p.206))。

さらにこの自然論は「第29 山水経」によっても発展させられる。この「山水経」は、『正法眼蔵』のハイライトの一つであり、私自身、「山水経」を読むために『正法眼蔵』に取り組んだといっても過言ではない。その内容は、冒頭の「山も水もともに本来ありのままの場にあって、真実を究め尽くしている」(p.243)で象徴される。これは天台本覚思想(山川草木も悉く仏性を有する)と似ているがそれよりもずっと自然を敬した見方で、山水はありのままで覚りの本質を究めているから、覚者はやはり山水のごとくになるべきであり、山水こそが真の教えを与えてくれる師であるという。「山水はそのまま仏経である」(p.258)道元の自然観の究極であろう。何事も言語によらなければ認識できないという言語論を展開している一方で、山水がそのまま仏経なのだというのは一種の矛盾ではあるが、これが道元の思索の到達点の一つである。

全体を通して、常に二元論的な思考を戒めており、此岸に対する彼岸、というような仏教的概念をも否定されている。元来の仏教では「世間=此岸」を厭い、清浄な「彼岸」に行き着くことを覚りとしたのであるが、道元は人間や自然のありのままの姿が覚りであるとしたのである。

【関連書籍】
『現代文 正法眼蔵(1)』石井 恭二 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/01/blog-post_20.html
西洋哲学の概念なども使い、現代文へ意訳された正法眼蔵。
現代語釈で道元の思想に気軽に触れることができる良書。

2018年8月9日木曜日

『観音像の形と物語』大法輪編集部編

観音像の種類と形態的特徴、その信仰についての読み物。

本書は、雑誌「大法輪」の特集を書籍化したもので、第一篇では観音像の種類とその形態的特徴が羅列的に述べられ、第二篇では、観音像で有名な寺の住職がその信仰や由来、エピソードについて1ページ程度ずつ寄稿している。

その構成から分かるように、この本は観音信仰について体系的にまとめたものではなく、観音像についての形態的知識、エピソードをやや散漫に束ねたものであって、ちょっと無味乾燥なところがある。

ところが、こういう宗教の本は無味乾燥にまとめた方が面白いというケースがままあって、「すごいんですよ」「霊験あらたかなんですよ」みたいなトーンで書かれるより、事実の羅列の方がずっと頭に入りやすい。

一番印象に残ったのは、沼 義昭(当時立正大学教授)の執筆する「マリア観音」の項。短いながら観音信仰の本質をえぐるような論考であり、蒙を啓かされる思いがした。

マリア観音とは、キリスト教の聖母マリアと観音が合体(習合)したものであり、かくれキリシタンが捕縛の手を逃れるために崇拝したものである。

ところで、仏教は男性原理が強い宗教であり、古来女性はそのままでは成仏できないとまで考えられて、女人変成(にょにんへんじょう)=女性が一度男性に生まれ変わって成仏するという思想まで生まれた。しかし一方で、人間は母性的な包まれるような慈愛も求めるものであるから、仏教においてもそういった包み込んでくれる存在が求められるようになり、やがてそれが観音信仰となっていった、というのである。その意味で、キリスト教におけるマリア信仰と非常に似通っているところがある。マリア信仰も、聖書には位置づけられない自然発生的な信仰であるが、観音信仰も元々の仏教にはその要素が希薄であった。マリア信仰と観音信仰には、女性原理の宗教的枯渇を満たすという共通の基盤があったのであり、この習合が起こったのも故なきことではなかった。

よって、観音像は(女性そのものでなくても)女性を思わせる形態が非常に多く、子授けや子育ての仏として信仰されてきたものが夥しい。多くの如来・菩薩が「人々を救ってくれる存在」とみなされてきたが、こと観音となると、例えば乳が出るとか、子どものない夫婦に子を授けるとか、女性にとっての切実で具体的な願いを聞き入れてくれる存在であった。こうしたことから、著者(沼)は、観音は「その本性がもともと一人の母神であったからと考えたい」としており、また「観音は海神として、水神として、山神として、その母性性において信仰されてきた」と述べる。

ちなみに、後で調べたところ沼は『観音信仰研究』という研究書を書いており、これは「観音を女神と位置付け、ギリシア神話やゲルマン神話などの女神と対比して論及した書」だそうである。そういう視点で改めて観音信仰を見直してみたいと思わされた。

事実の羅列であるだけに、かえって観音信仰について考えさせられた本。


2018年8月5日日曜日

「犀の角のように ただ独り歩め」

あなたの生き方に一番影響を与えた本は? と聞かれたら、『ブッダのことば』(中村 元 訳)と答えるかもしれない。

当時私は大学の一年生。郷里の鹿児島を離れ、姉と一緒に東京で生活していた。別段、人生に迷っていたとか、東京暮らしが不安だったとか、そういうことはなく、大学の勉強は楽しく、友人も出来、日々充実していたと思う。そんな私が、大学の近くにあった古本屋でひときわ古びていた『ブッダのことば』を手に取ったのは、どうしてだったのだろう。

読んで、衝撃を受けた。

まず、その美しい詩文に魅了された。当時の仏教は、書物を通じて伝えられたのではなく、口伝えされることによって広まった。であるから、その表現は平易で力強く、また美しくもあって覚えやすいものでなくてはならない。最初期の仏典(原始仏典)は、そういう美しい口承文学であった。

本書は、当時の言葉(パーリ語)から直接訳出されたものである。仏典=お経といえば漢訳で難解なものと思っていた私にとって、原典から訳出された美しく力強い詩文は、仏教のイメージを一変させるものであった。

そしてその思想も、後代のそれとは全く異なっていた。今になってみると、そこに表現されたものをまた違った角度で眺めることができると思うが、当時の私が読み取ったのは、「人は一人で生きてよいのだ」というメッセージであった。それを象徴する詩文が、「犀(さい)の角のように ただ独り歩め」である。私は、この詩文と出会った衝撃を一生忘れないであろう。

友達とわいわいガヤガヤしながら生きることが楽しみだと思っていた人間にとって、「犀の角のように ただ独り歩め」は強烈な刺激であった。当時の私は、友達とわいわいガヤガヤしながらも、我が道を歩むことを恥としない人間だったと自負するが、この言葉に衝撃を受けたところをみると、それを完全には肯定していなかったのかもしれない。この詩文は、私の人生の屋台骨のような存在になった気がする。

本書で原始仏典に興味を引かれた私は、同じ中村 元の『ブッダ最後の旅—大パリニッバーナ経』とか『ブッダの真理のことば、感興のことば』など岩波文庫で出ている一連のシリーズを読んだ。

そうした本を読むうち、私は訳者・研究者の中村 元の語り口にも魅了されていった。中村 元は、松江が生んだ世界的仏教研究者、比較思想学者であって、その緻密な文献学的手法とサンスクリット語、パーリ語の強力な語学力によって、仏教学に新たな地平を切り拓いた人物である。

私は、中村 元の手引きによって徐々に仏教に親しむようになった。

次に読んだのは、中村 元『仏典をよむ』シリーズだったと思う。このシリーズは『ブッダの生涯』 『真理のことば』『大乗の教え(上)』『大乗の教え(下)』で構成される全4巻(前田専学監修)。ラジオ放送の講座を元にしたものであり、非常に平易で親しみやすく、仏教の核心部分を大まかに理解するためによい本だった。万人にお勧めできる仏教の入門シリーズである。

ところが、こうなるともっとしっかり主要な経典を理解したくなるものである。原始仏典のあの清新な感動から仏教に入った身としては、大乗仏典は夾雑物が多すぎる野暮なものに感じていたのだが、勉強してみるとそうでもないと思い始めたのだ。

そこで手に取ったのが中村 元「現代語訳大乗仏典」という全7巻のシリーズ。こちらは(1)般若経典、(2)法華経、(3)維摩経・勝鬘経、(4)浄土教典、(5)華厳経・楞伽経、(6)密教経典・他、(7)論書・他、の構成である。

特に印象深かったのが『華厳経』。

華厳経というと、あの東大寺が華厳宗であることからもわかるように、古代日本において国家的経典とみなされた重要なものである。そこに表現された思想は、人生の悩みといった個人的な問題に応えるものというよりは、世界観を提示するというか、文明の在り方を示唆するようなスケールの大きなもので、古来華厳経に魅了されてきたものは多いのである。

一方で、こうした経典への興味とは別に、私が次第に心を傾けていったのが「禅」だった。といっても、私の禅に対する興味は最初がひねくれていた。禅が”Zen”になり、なにやら深遠な思想だと一知半解のまま称揚されていることに疑問を持ち、どちらかというと懐疑的興味から禅を知るようになったのである。

実際、『十牛図―自己の現象学』(上田閑照・柳田聖山)であるとか『無門関を読む』(秋月龍珉)などを読んでも、それなりに知的興奮はあるのだが、どこかピンと来なかった。当時の私は、こういう深遠ぶった(と私は思っていた)「禅」が、胡散臭いものに感じられたのだ。

そんな時には、やはり原典というものが力を発揮するもので『臨済録』(入矢義高 訳注)が私の禅理解をより前向きなものに変えてくれた気がする。『臨済録』は言わずとしれた臨済の言行録(弟子が記録したもの)で、「語録中の王」とも呼ばれる最も重要な禅書の一つである。

その内容は、「破天荒」の一言に尽きる!

『十牛図』とか『無門関』がいかにも観念的というか、上品なものであるのに比べ、臨済は暴力的であり、行動的であり、実践的なのだ。例えば、有名な言葉にこういうのがある。

「諸君、まともな見地を得ようと思うならば、人に惑わされてはならぬ。内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢ったら羅漢を殺し、父母にあったら父母を殺し、親類に逢ったら親類を殺し、そうして始めて解脱することができ、なにものにも束縛されず、自在に突き抜けた生き方ができるのだ」

これを文字通り受け取れば、悟りというよりも大量殺人の勧めなのであるが、もちろんこの言葉はそういう意味ではない。ではどういう意味かというのは、まあ、原典に当たって確認していただきたい(参考:Wikipediaにもそれなりに面白く臨済のことが紹介されているのでお手軽に知りたい方はこちらを → 臨済義玄)。

日本の禅書で『臨済録』に匹敵するものというと、『盤珪禅師語録』がある。

盤珪は江戸初期の臨済宗の僧。厳しい修行の果てに、人は生まれながらにして必要なもの(精神的なものも含めて)は全て備わっているという悟りを得、それを平易な言葉で多くの人に優しく説いた。その精神は、臨済と通じ合っていると思う。本書は、盤珪の説法を弟子がメモしたものを元にしていて、盤珪の生き生きとした説法の様子が伝わってくる。

盤珪の特徴は、おのれの存在を徹底的に肯定するという臨済の基本路線を受け継ぎつつも、臨済のような韜晦な表現はせず、あくまでも平易に、人々によりそって明解な教えを説いたことで、その弟子は五万人もいたというから、歴代の禅師の中でも抜群に大きな存在であった。

一方、そういう立派な(?)禅僧とは違い、ひねくれていたのがあの有名な「一休さん」こと一休宗純である。

一休についてはわかりやすい入門書もあるが、私の場合、水上勉『一休』によって彼を知った。本書は、かなり取っつきにくい本である。一次資料からの引用が多いし、考証は微に入り細に入り、大まかに一休を分かればいいや、という向きは辟易するに違いない。しかし一休の魅力を伝えるには、そういう作業が必要なのだと思う。

社会派推理小説で有名な著者の水上勉は、実は臨済宗のお寺で修行していて、しかもその後仏教から離れた経歴を持つ。だから禅宗について詳しい一方、禅宗への批判的視点もあって、本書ではそのバランスが絶妙に調和している。

一休は、決して、立派な禅僧ではなかった。権力に反抗し、形式に堕した禅宗の実態を批判したが、 自身が清廉だったかというとそうでもない。いや、それどころか、人間の本当の姿を極める、などといって性愛の世界に溺れ、その上にそういう自分を完全に肯定することもできず、一生煩悩のままに生きたようなところがある。彼は貴族社会を批判したけれども、実際には内心貴族に憧れ、しかも憧れてしまう自分に苦しみながら、その苦しみを誤魔化すために魔の道へ入ってしまうひねくれた求道者であった。人は、彼を「風狂僧」と呼んだ。

私のハンドルネームの「風狂」は、実はこの一休宗純から来ていて、私はこのひねくれ者の一休に憧れるのである。

今まで、禅宗の中でも臨済宗の話ばかりが続いたので、曹洞宗のことについても触れておかなくてはならない。

曹洞宗と言えば、やはり巨大な存在が道元であって、即ち『正法眼蔵』がその思想の最高峰であろう。ところが、私は未だ『正法眼蔵』を通読せずにいる。原文はかなり難しいものなので、私は石井恭二の『現代文 正法眼蔵』を第1巻だけ読んだ(全4巻)。第2巻の途中で止まっているというのが正直な状況だ。

だが、その本は決してつまらないものではない。

それどころか、道元は、我が国では空海以来の大思想家であったというのがよくわかる。一般的には、道元は「只管打坐」、つまりひたすら座禅・瞑想をすることにより悟りの境地に至るという方法で有名だが、『正法眼蔵』を読むとそれは彼の思想の一面でしかないと感じる。座禅は思索の方法ではあるが、それが全てではないし、「どう思索するか」もまた重要である。本書は、落ちついているときにゆっくりと取り組みたい本である。

『現代文 正法眼蔵(1)』石井 恭二 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/01/blog-post_20.html

ところで禅宗というと、思想書そのものではないが、ここに紹介したい名著がある。それは『禅の歴史』(伊吹 敦)である。

本書は、禅をことさら神秘的・高遠なものと見ずに、極めてフラットな立場から禅の歴史を記述したもので、まずこのような態度で書かれた本が貴重である。そしてそのまとめ方も、大量の情報を手際よく整理し、あたかも高校の歴史の教科書のようにまとめている。

禅の歴史、というような専門的な事項が、高校の歴史の教科書レベルのわかりやすさでまとめられるだけでも相当に有り難いことであって、しかもそのまとめ方が無味乾燥(褒め言葉)と言ってもよいほど客観的である。

中国で生まれた禅が日本に渡り、また日本でも独自の発展を遂げるというその有様を、一切の虚飾なく、しかも大量の情報とともに、平易に学べる本は、おそらく本書以外にないであろう。

なお本書は禅の歴史の中でもいわゆる教理に限ったもので、文化史についてはほとんど触れられていない。著者は、禅の文化史についても本をまとめる予定ということなので、その本の完成を一日千秋の思いで待っているところである。


2018年7月26日木曜日

『ラッセル教育論』バートランド・ラッセル著、安藤 貞雄 訳

イギリスの哲学者バートランド・ラッセルによる教育論。

本書(の原書)は1926年に書かれており、日本でいえば戦前のものである。だが、今の社会においても十分に先進的な考え方で教育が語られており、時代を超えた普遍的な価値がある。

ラッセルは、あくまでも哲学者・社会活動家であって教育の専門家ではない。本書は、ラッセル自身が子育てを行う中で考え、学んだことをまとめたものであって、一種の体験談とみなせるかもしれない(事実、随所に自分の子どもはこうだった、という事例が出てくる)。しかしここに書かれていることは、何にせよ思索が行き届いており、「私の場合こうでした」というような安易な経験談に堕することなく、人間が育つということの本質まで考究した教育論が展開され、一種の人間論、社会論の趣さえある。

ラッセルの教育方針を一言でまとめれば、「自発性を育てる」ということである。かつては、子どもを罰し時に褒美を与え、強制によって「望ましい活動」に向かわせるようにすることが教育であると信じられてきた。いや、今の日本社会においてもこれが教育だと思っている「教育者」は多い。しかし、ラッセルは子ども自身が「学びたい、成長したい」という自発的な願望を持っていると考え、その願望をこそ「教育の推進力」としなければならないという。

そして、我々が育てたい人間像を「もっと想像力にあふれた同情心と、もっとしなやかな知性を持ち、ブルドッグ的な蛮勇をあまり信用せず、技術的な知識をもっと信用する人間」と置き、こうした人間を育てるために必要な教育を順を追って考えていくのである。特に幼児教育の重要性を強調していることが本書の特徴である。

「第1部 教育の思想」では、こうした教育の前提となる考え方が整理される。

「第2部 性格の教育」では、主に幼児期における教育の要諦について、「恐怖」「遊びと空想」「建設的な心」「真実を語ること」といったテーマ毎にまとめている。その考えは非常に現代的である。

例えば、「生まれたばかりの赤ん坊でも、将来この世でしかるべき地位を占める人間として、尊敬をもって扱うがいい」と述べ、決して赤ん坊をしかってはいけない、その後も非常に控えめにしなければならないとしている。これは当時としてはかなり過激な考え方だったのではなかろうか。 叱ることが教育だと理解していた人が多いのだから。

その他にもこういう文章がある。これらを読めば、いかにラッセルの教育思想が先進的であったかわかるだろう。
「子供は、わけがわかるようになり次第、親にもまた親なりの権利があること、また、自分も最大限の自由を持ってよいけれども、他の人にも自由を与えなければならないことを悟らなければならない」
「現在見られる学校競技は、競争の精神の権化にほかならない。もしもその代わりに協力の精神をとりたいのであれば、学校の競技に変化をもたらさなければならない」
「人にはみんな、この世で一定の場所を占める権利があるのだから、自分の当然の権利を擁護することを何か悪いことのように感じさせてはならない」
「私たちは、わが子が公平で、正直で、率直で、自尊心のある人間になってほしいと願っている。私一個としては、わが子が奴隷の技能で成功するよりも、むしろ、こういう性質をもって失敗するのを見たいと思っている」
「必要なのは、禁欲的な自己否定ではなく、知性と知識によて十分に啓発された本能をのびのびと豊かなものにすることである」
「ねたみを防ぐには、幸福によるほかないと思われる」

また、ラッセルは性教育についてもかなり進歩的である。性教育は幼児期における質問に率直に答えることによって行い、思春期を迎える前に終えてなければならないというのである。これは私自身、実行が難しいと感じるが、考えてみれば理に適ったやり方であると思う。

さらに、幼児教育を十分に行うには保育園が適切であることを述べている。それはただ子供が集団でいることで多くを学べるからではなく、普通の親が科学的な教育を施すことは難しいから、「愛に支配された科学」を実践する専門的機関によって幼児教育を果たすためである。

「第3部 知性の教育」では、幼児期から大学に至るまでの勉強についての考え方がまとめられている。ここでもラッセルの考え方は先進的であり、いわゆる詰め込み型教育が否定され、子どもの自発性にも基づいた学びが強調されている。勉強は、教科書に書いていることを鵜呑みに覚え込むのではなく、「考えることを教える」ものでなくてはならないし、また何を教えるかについても不断の検証をしなくてはならず、カリキュラムを時代に合わせて合理化していくことが必要という。ただし伝統的な教育のうち、文学作品の暗記については、「ことばの美しさに影響を与える」として薦められている。

一方で、日本の公教育の現状と、ラッセルのいた当時のイギリス上流階級における教育の状況が違いすぎるので、ちょっと話の間尺が合わないところがある。例えば、6歳になるまでに世界史を学ぶ準備をしておくとか、14歳以前に外国語としてフランス語とドイツ語をネイティブの教師によって学ぶべきだとか。しかしこうしたことは技術的な些末なことであって、ラッセル自身は貴族として家庭教師から初等教育を受けたけれども、決してそうした特殊事情は絶対化されず、現代の日本においても適用可能な学習の考え方が述べられている。

本書において、唯一ひっかかったところは「赤ん坊に、自分は大事な人間なんだという意識を与えてはならない」という一文だ。これは逆なんじゃないかと思ったが、これはよく読むと、要するに昔の貴族の子育てのように、乳母や下女をかしずかせて王様のように育てるのがよくないということであった。この他の点では、全く違和感を抱いたところがない。1929年の本であるにもかかわらず、例えば男女に平等に教育を施すべきであるとか、本書に述べられる教育思想は現代の我々の意識と異ならず、それどころか現代においても先進的な主張が多いということが驚異的である。

いや、予言してもよいが、ラッセルが提唱する教育法は、いつの世であっても先進的であり続けるだろう。これは悲観的な予言である。ラッセル自身が述べる通り、「思慮ある親は思慮ある子供を作る」のであるが、世の中が「思慮ある親」ばかりになるということは、ありそうもないからだ。

だがラッセルはそうしたニヒリズムに陥らない。あくまでも教育の力を信じ、彼が述べる理想的な教育によって育った自由な男女が新しい世界を作っていくことを信じるのである。「道は、はっきりしている。私たちは、その道をとろうとするほど十分にわが子を愛しているのか。それとも、私たちが苦しんできたように、わが子も苦しむままにしておくのか」

「もしも、その気があるならば、私たちは、この黄金時代を一世代のうちに生みだすこともできないわけではない」

教育こそが、素晴らしい世界を作る唯一の鍵である。

2018年7月21日土曜日

『神道の成立』高取 正男 著

神道の成立過程を丹念に辿る本。

我々が普通に知っている「神道」は、明治政府によって作りかえられたものであるし、それ以前から続く両部神道、垂加神道、吉田神道などは、それぞれ神道の一流派ではあるが、それ自身が「神道」そのものであるとは言い難い。ではそれらの元になった「神道」はどのようなものであったかというと、これがなかなか難問である。

というのは、神道には明確な教義が存在せず、儀礼と儀式の体系の方こそ本体であるからだ。また古来の神祇信仰がそのまま神道となったのではなくて、古代国家の確立にあたって必要となった儀礼や儀式が、自然発生的な神祇信仰を援用する形で整備されたというのが実際のところである。

では、その儀礼と儀式はどのように成立したのだろうか、儀礼や儀式も時代によって移ろっていくものであるから、これが「神道の完成」という一時点を指定できるものでもないが、本書は奈良末から平安初期を一つの画期として神道の成立を述べるものだ。

「第1章 本来的な世俗的宗教」では、神道が俗権と対峙することなく、むしろ俗権と寄り添う形で発展したことが述べられる。

「第2章 神仏分離の論拠」では、平安時代の神仏分離が述べられ、神道が自覚されていく過程に於いて、道鏡政治への反発があったことが推測される。平安時代には、既に仏事と神事を混淆してはいけないという暗黙の了解があったようであるが、称徳天皇と道鏡による仏教政治が行われる中で神仏習合が進められた。ところが神護景雲4年(770年)に称徳天皇が薨ずると、この反動として一種の揺り戻し、復古的な政策が進められる。大中臣貴麻呂らによって伊勢神宮とその周辺で仏教色の排除が行われたのだ。

これは、それまで慣習として伝承されていた神道の祭儀を、改めて見直す契機となった。仏教に対抗するために、ただの伝承で済ますのではなく、それを理論化して改めて価値を与える作業が必要だったからである。これが神道の成立に大きな影響を及ぼした。

また本章では、寝殿・清涼殿の成立過程についてかなり詳しく述べ、それが儀式においていかなる意味を持っていたかを推測している。

「第3章 神道の自覚過程」では、桓武天皇が延暦4年に交野で天神を祀った背景を考察し、「天地にむかってこの国の秩序の樹立を訴えるひとつの思想的な実験」と位置づけている。さらに獣肉の禁忌や墓制の変遷を概観して、平安初頭以来「死の忌み」については庶民は意外と無頓着で、神経質であったのは中央政府の側であったことが結論づけられる。

しかし儒教や陰陽道、そして仏教の強い影響を受けていったことで、吉凶・陰陽の対比や仏教由来の浄・不浄の対比感が加わり、禁忌意識の肥大が始まったのである。神道は極端に禁忌意識、穢れの意識が強い宗教と思われがちだが、元来はそうではなく、むしろ仏教の影響によって禁忌意識が高まったという指摘は面白い。

「第4章 浄穢と吉凶、女性司祭」は、それまでの章で取りこぼした話題をやや散発的に取り上げている。例えば、貴族たちは肉親の墓参りをほとんどしなかったどころか、しばしばその墓がどこにあるのかすら知らなかった、という事実から古代の墓制・祖先崇拝を考察している。元来の神道では先祖崇拝の意識が非常に薄かったということだ。著者によれば、むしろ先祖崇拝は仏教の影響で醸成されたものではないかという。

また神道の成立時期に女性司祭(禰宜(巫女)、斎祝子(さいご)など)が後退していることも興味深い。元来の神祇信仰では女性が大きな役割を果たしていたのに、伝来の祭儀が再解釈され、儀式が整備されるにつれて神事における女性の地位が低下していったのである。これについては著者は立ち入って考察していないが非常に示唆的な現象である。

本書では神道成立の時点をおよそ平城天皇の即位あたりに置いている。平城天皇は即位にあたって年号を大同と改めたが、様々な理由からこれは貴族らから安易に過ぎるという批判が出された。それが神道による禁忌意識の成熟を象徴するものだというのである。そして神道が仏教と対峙する宗教として独立していく過程については、「聖武期から称徳期の仏教政治に対する一種の反作用として、儒教や道教の排仏論を援用した神祇信仰の昂揚がはかられ、多くの禁忌の架上と増幅がはじまって、貴族の心をとらえた結果」とまとめられている。

本書は論文を元に書かれたものであり、日本書紀や日本後紀などの一見些末な記事から当時の神道の特質を考察していくという地道な研究方法も相まって、ちょっと難解な本である。正直言うと、私もその全てを理解したとは言い難いが、ところどころにヒントとなるようなことが書いてある豊穣な本だ。

神道成立前夜の動向を、細かい事実を積み重ねて究明した労作。

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