仏像の成立を図像学的に述べる本。
インドで仏教が成立した時は、仏像というものはなかった。まず初めに生じたのはストゥーパ(仏塔)の造立である。仏陀は生前、自分の遺体を信仰するのではなく「法(ダルマ)」を拠り所にせよ、と述べておいたにもかかわらず、死後には遺灰の争奪が起こる。人々は抽象的な「法」よりも、具体的な礼拝の対象としての遺灰を有り難がった。
なので、遺灰(舎利)の安置施設であるストゥーパが造営され、礼拝されるようになるのである。このストゥーパの門柱などには、仏陀の生涯を絵解き的に説明する浮き彫りが作られ、仏陀がいかに超人的な生涯をたどったかが喧伝された。インドの民話伝説が次々に仏陀に付託され、またさらに大量の民話が集積されて仏陀の前世譚(ジャータカ)が成立していった。であるから、仏伝は史実としての仏陀の生涯というよりも、インドの口承文芸の世界の集大成のようなものとなり、それを石彫で表したのが最初の仏教芸術であった。紀元前2〜1世紀頃ごろである。
しかしそこでは、仏陀自身は表現されず、仏足とか法輪のようなもので象徴表現された。具象的な絵解きの中で、仏陀があからさまには表現されなかったのは、超越的な存在を普通の人間と同じように表現することへの遠慮があったのだろう。
仏陀を具象的に表現するようになったのは、 2世紀くらい、有名なカニシュカ王の治世からのことで、ギリシア・イランの影響を強く受けたガンダーラと、純インド的なマトゥラーとで同時並行的に起こった。ただし本書ではガンダーラについては詳しく述べるが、マトゥラーについてはちょっと触れるのみである。
最初仏陀は他の登場人物と大きさや衣服などでは区別されなかったが、やがて後背がつけられ、身長も大きく表現されていった。そうした特徴は共有しながらも、ガンダーラでは深刻で荘厳な仏像が作られ、マトゥラーでは明るく官能的な仏像が作られた。
さらに本書では、図像表現の変遷を概観することで、印相(手の形)、特に施無畏印の起源がイラン的な誓約のジェスチャーに起源を持つこと、また菩薩像の登場は仏教が貴族や王侯の保護に依存するようなったためではないか、といったことが推測されている。また各論的に弥勒菩薩と観音菩薩の起源についても関連する彫像を多数挙げて考察している。
本書は西アジアの古代美術や東西文化交流史を研究した著者が一般向けに仏像の起源を語ったものであるが、当時の最新の研究や学説も博引旁証されており、研究史的な部分も充実している。図版(白黒)も豊富で眺めるだけでもかなり仏像彫刻史が理解できる。
ただちょっと物足りなく思ったのは、本書では表現内容については関心が高いが、石材など表現の材質についてはあまり触れていないということだ。どのような石に刻むかによっても表現方法はかなり異なってくる。塑像のストゥッコについても簡略に触れるに過ぎない。もう少し素材の変遷についても取り扱えばさらに理解が進んだと思う。
仏像が産まれた時代を豊富な図版で手軽に学べる良書。
2020年1月19日日曜日
2020年1月18日土曜日
『かつお節と日本人』宮内 泰介・藤林 泰 著
かつお節を巡る近代史。
かつお節は伝統食品ではあるが、庶民にまで普及するようになったのは最近のことで、かつお節の生産量は明治からごく最近まで(戦中・戦後の一時期を除いて)ずっと増え続けてきた。2011年のかつお節の供給量は3万5000トン以上。現代は歴史的に見れば空前のかつお節ブームといえるのだ。
ではそのかつお節はどのように生産されてきたか。 まず明治から大正までは日本国内の産地間競争が起きる。かつお節は伝統食品であっても元来の生産量は僅かだったから、新たな産地が勃興する余地があった。その競争に勝利したのが静岡の焼津である。
またかつお節は軍隊の携行食としても活用された。調理の必要がなく保存性がよいかつお節は軍用食にぴったりであった。戦時中にかつお節になじんだ復員者によって、日清日露戦争後には各地にかつお節の味が伝えられ、日本全体に普及していった。
ところが日本ではカツオは回遊魚であるため年中は穫れない。そこで一年中カツオが回遊している南洋がカツオの漁場として注目され、またそこでのかつお節生産(「南洋節」)が行われることになったのである。言うまでもなくその背景には、日本の軍国主義による南進政策(南洋諸島の植民地化)があった。
まず昭和初期には沖縄と台湾でかつお節生産が広がった。そして植民地化を後押しする政府の後押しを受け、パラオ、ボルネオのシアミル島、インドネシアのビドゥンといったところで日本人がかつお節生産に乗り出す。こうした動きの中心にいたのは沖縄からの移民だった。わずか10年あまりの短期間で、そうしたかつお節生産は企業的に発展し、一部は国策会社へと規模拡大して国内の産地を脅かすほどになった。ところが戦争が激しくなってまともに生産ができなくなり、また敗戦によって南洋節は潰滅することとなった。
敗戦後には一時的にかつお節生産は低迷したが、復興によって再び生産量は増加する。消費量の増加に画期的なインパクトを与えたのが、削り節のパック商品の登場である(1969年)。そしてパックの花カツオは脂があまりのっていない荒節の方が美味しそうに見せることができるので、再び南洋のカツオが注目され、遠洋漁業が盛んになっていった。
またダシやめんつゆなどの商品にかつお節を「贅沢につかう」ことが価値となっていったことで、かつお節は家庭で消費するものというより、そうした商品の原材料としての側面が強くなっていく。 1980年代からのことである。こうなると、かつお節製造会社は大手調味料メーカーの下請けのような形にならざるをえない。価格決定力を大手メーカーに奪われ、より競争が厳しくなっていった。それには、輸入かつお節の増加も一枚噛んでいた。
輸出元はインドネシアのビドゥン。先述の通り、ビドゥンは戦前に日本人によりかつお節生産が行われた街である。その事業の先鞭をつけたのは、鹿児島の坊津生まれの原耕(はら・こう)という人物。1927年(昭和2年)のことであった。そこに沖縄からの移民が加わり、ビドゥンにはかつお節の一大生産地が形作られた。
戦後には生産は一時期途絶えたものの、冷凍カツオ輸出からかつお節製造へと再び発展して行く。それには日本の商社や日本人の生産者も絡んでいた。ビドゥンのかつお節は当初は品質はそれほどでもなかったが、最近では「インドネシア産」を売りに出来るほど品質も高まり、輸入量もどんどん伸びている。
一方で、枕崎や山川(鹿児島)といった国内の産地は、大手メーカーの下請けのような形となったため「空前のかつお節ブーム」の中でも経営は楽ではない。今の生産の中心は高級品の本枯れ節ではなく荒節だ。しかし職人たちは品質を高め、あくまでいいものを作ることで生き残ろうとしている。ところが消費者がそれについてこれるかは心もとない。消費者がかつお節に求めるものはなんなのか。産地にもよくわからない時代なのだ。
本書を読みながら、『バナナと日本人』(鶴見 良行)を髣髴とした。それもそのはずで、本書は『バナナと日本人』に直接間接に影響を受けた人たちの勉強会の成果として執筆されたものだからだ。しかし本書は、同じ南洋を舞台とした開発経済学のフィールドワークでありながら『バナナと日本人』とは大きな違いがある。それは、バナナの場合は国際資本が参画し現地の労働者を巧妙に収奪する体系をつくり上げたのに対し、かつお節の場合はどちらかというと才覚ある個人の動きの集積として産業が出来ていったということだ。
そのため、似たようなテーマを扱いながらも、本書の場合は暗澹たる気分になることがない。かつお節は国際資本が収奪の道具にするにはあまりにもローカル食すぎた。そのおかげで、ある意味では人間的な、そして自由度が高い産業が形作られたのかもしれない。
日本と南洋でのかつお節生産を通して産業の成立発展を垣間見る良書。
【関連書籍】
『バナナと日本人―フィリピン農園と食卓のあいだ』鶴見 良行 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/01/blog-post_30.html
日本人のバナナ需要に応えるため、フィリピンのバナナ・プランテーションがいかにして成立し、またそこで労働者がいかに苦しんでいるかを告発した本。
綿密な調査から、国際資本の商社がいかにしてフィリピン人を合法的に搾取する体制を作ったかを克明に記録した名著。
かつお節は伝統食品ではあるが、庶民にまで普及するようになったのは最近のことで、かつお節の生産量は明治からごく最近まで(戦中・戦後の一時期を除いて)ずっと増え続けてきた。2011年のかつお節の供給量は3万5000トン以上。現代は歴史的に見れば空前のかつお節ブームといえるのだ。
ではそのかつお節はどのように生産されてきたか。 まず明治から大正までは日本国内の産地間競争が起きる。かつお節は伝統食品であっても元来の生産量は僅かだったから、新たな産地が勃興する余地があった。その競争に勝利したのが静岡の焼津である。
またかつお節は軍隊の携行食としても活用された。調理の必要がなく保存性がよいかつお節は軍用食にぴったりであった。戦時中にかつお節になじんだ復員者によって、日清日露戦争後には各地にかつお節の味が伝えられ、日本全体に普及していった。
ところが日本ではカツオは回遊魚であるため年中は穫れない。そこで一年中カツオが回遊している南洋がカツオの漁場として注目され、またそこでのかつお節生産(「南洋節」)が行われることになったのである。言うまでもなくその背景には、日本の軍国主義による南進政策(南洋諸島の植民地化)があった。
まず昭和初期には沖縄と台湾でかつお節生産が広がった。そして植民地化を後押しする政府の後押しを受け、パラオ、ボルネオのシアミル島、インドネシアのビドゥンといったところで日本人がかつお節生産に乗り出す。こうした動きの中心にいたのは沖縄からの移民だった。わずか10年あまりの短期間で、そうしたかつお節生産は企業的に発展し、一部は国策会社へと規模拡大して国内の産地を脅かすほどになった。ところが戦争が激しくなってまともに生産ができなくなり、また敗戦によって南洋節は潰滅することとなった。
敗戦後には一時的にかつお節生産は低迷したが、復興によって再び生産量は増加する。消費量の増加に画期的なインパクトを与えたのが、削り節のパック商品の登場である(1969年)。そしてパックの花カツオは脂があまりのっていない荒節の方が美味しそうに見せることができるので、再び南洋のカツオが注目され、遠洋漁業が盛んになっていった。
またダシやめんつゆなどの商品にかつお節を「贅沢につかう」ことが価値となっていったことで、かつお節は家庭で消費するものというより、そうした商品の原材料としての側面が強くなっていく。 1980年代からのことである。こうなると、かつお節製造会社は大手調味料メーカーの下請けのような形にならざるをえない。価格決定力を大手メーカーに奪われ、より競争が厳しくなっていった。それには、輸入かつお節の増加も一枚噛んでいた。
輸出元はインドネシアのビドゥン。先述の通り、ビドゥンは戦前に日本人によりかつお節生産が行われた街である。その事業の先鞭をつけたのは、鹿児島の坊津生まれの原耕(はら・こう)という人物。1927年(昭和2年)のことであった。そこに沖縄からの移民が加わり、ビドゥンにはかつお節の一大生産地が形作られた。
戦後には生産は一時期途絶えたものの、冷凍カツオ輸出からかつお節製造へと再び発展して行く。それには日本の商社や日本人の生産者も絡んでいた。ビドゥンのかつお節は当初は品質はそれほどでもなかったが、最近では「インドネシア産」を売りに出来るほど品質も高まり、輸入量もどんどん伸びている。
一方で、枕崎や山川(鹿児島)といった国内の産地は、大手メーカーの下請けのような形となったため「空前のかつお節ブーム」の中でも経営は楽ではない。今の生産の中心は高級品の本枯れ節ではなく荒節だ。しかし職人たちは品質を高め、あくまでいいものを作ることで生き残ろうとしている。ところが消費者がそれについてこれるかは心もとない。消費者がかつお節に求めるものはなんなのか。産地にもよくわからない時代なのだ。
本書を読みながら、『バナナと日本人』(鶴見 良行)を髣髴とした。それもそのはずで、本書は『バナナと日本人』に直接間接に影響を受けた人たちの勉強会の成果として執筆されたものだからだ。しかし本書は、同じ南洋を舞台とした開発経済学のフィールドワークでありながら『バナナと日本人』とは大きな違いがある。それは、バナナの場合は国際資本が参画し現地の労働者を巧妙に収奪する体系をつくり上げたのに対し、かつお節の場合はどちらかというと才覚ある個人の動きの集積として産業が出来ていったということだ。
そのため、似たようなテーマを扱いながらも、本書の場合は暗澹たる気分になることがない。かつお節は国際資本が収奪の道具にするにはあまりにもローカル食すぎた。そのおかげで、ある意味では人間的な、そして自由度が高い産業が形作られたのかもしれない。
日本と南洋でのかつお節生産を通して産業の成立発展を垣間見る良書。
【関連書籍】
『バナナと日本人―フィリピン農園と食卓のあいだ』鶴見 良行 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/01/blog-post_30.html
日本人のバナナ需要に応えるため、フィリピンのバナナ・プランテーションがいかにして成立し、またそこで労働者がいかに苦しんでいるかを告発した本。
綿密な調査から、国際資本の商社がいかにしてフィリピン人を合法的に搾取する体制を作ったかを克明に記録した名著。
2020年1月5日日曜日
『大宰府(教育社歴史新書<日本史25>)』倉住 靖彦 著
大宰府の概略的な歴史。
古代から中世初期の九州の歴史において、大宰府は絶大な影響を及ぼしている権門の一つだ。大宰府は形式的には九州を治めるための地方行政機関ではあったが、実質的にはそれ自体が国家に準じるような存在になった時期もあった。
官衙(役所)としての大宰府の淵源は、推古朝あたりに作られた「筑紫大宰」である。当時は新羅の圧迫によって任那(日本が朝鮮半島に権益を有したらしき地域)を失いつつある時期で、筑紫大宰はこうした外交関係の処理を担うため中央行政府の出先機関のような役割を果たしたと考えられる。
しかしその後の対外関係の悪化から白村江の戦いの敗北を受け、九州は朝鮮半島の緊張をモロに受ける最前線へと変化する。そこで筑紫大宰はより守りの堅固な内陸に移転することとなり、選ばれたのが太宰府町(現・太宰府市)であり、そこに設けられたのが大宰府である。よって大宰府は地方行政府であると同時に、国家の防衛を担う役所として出発したのである。ここは辺境防衛隊である防人(さきもり)配備の拠点でもあった。
よって大宰府の規模や任官の位階は他の行政組織を凌いでおり、律令制最大の官司であったということができる。長官(かみ)は中央政府でみれば大納言に次ぐ高位ポストで、しかも大伴旅人のような有力者が任命された。また大宰府の官人は経済的にも優遇されていた。なお租庸調のうち、租は国衙に、庸調は中央政府に京進することとなっていたが、大宰府管内諸国の場合は庸調が全て大宰府に集積され、府用に宛てられた残余が京進されていた。
また大宰府には府庁と隣接して、天智天皇により観世音寺が建立された。種々の事情から造営には80年近くかかったが、これは地方における第一級の寺院となっただけでなく、西海道諸国の戒壇にもなり、東大寺戒壇院、下野薬師寺とともに「天下の三戒壇」をなして平安前期まで大いに栄えた。
さらに大宰府の北東に位置する宝満山は竈門(かまど)山と呼ばれるが、ここに竈門山寺が奈良時代中期(推定)に創建された。ここでは最澄・空海も修行したという。宝満山は神仏習合が進むにつれて英彦山(ひこさん)とならぶ修験道のメッカとなった。
9世紀に入ると大宰府は徐々に変質していく。長官(帥(そち))には親王が遙任官(現地に赴任しない任官)として宛てられるようになり、また副長官級(権帥(ごんのそち))には政治的敗者・罪人が左遷ポストとして赴任させられるようになる。大宰府の役人は位階は高いが都から遠く離れていたため、左遷にはぴったりであった。大宰大弐(次官級)であった小野岑守(みねもり)の意欲的な改革はあったが、律令制の弛緩に伴って大宰府の政務も次第に形骸化していった。
菅原道真も大宰府に権帥として赴任させられて現地で死亡した。道真は怨霊になったと信じられ、その霊をなだめるため北野神社(天満宮)と安楽寺が創建された。これらは明治の神仏分離までは同体であり、安楽寺天満宮あるいは天満宮安楽寺などと呼ばれていた。安楽寺は道真の墓所であり菅原氏の氏寺であったが次第に官寺化し、また九州各地の荘園が寄進されて、九州では宇佐神宮と並ぶ大荘園領主へと成長した。安楽寺は大宰府の政治的保護すらも必要としないようになり、日宋貿易にも進出して経済的基盤を強化した。他方、それと対照的に観世音寺は大宰府に密着して自立を怠り、大宰府の衰退とともに衰微して東大寺の末寺となった。
ところで、菅原道真の建言によって遣唐使は廃止されたが、遣唐使の廃止以後も大宰府は海外との交流の拠点であり続けた。公館であった鴻臚館も遣唐使廃止以後は民間商人の宿泊施設となったようである。むしろ遣唐使時代は、九州は大陸との窓口ではあったが文化は素通りしていった。民間の交流が盛んになってからの方が、海外交易が九州に大きな文化的・経済的影響を与えたと見られる。
平清盛が大宰大弐の地位を手に入れたのも日宋貿易を独占するためだったと考えられる。継いで弟の頼盛も大弐になり実際に赴任。その着任2ヶ月前には宇佐大宮司公通(きんみち)が権少弐に任命されている。安楽寺や筥崎宮、宗像宮も平氏と親近関係になっていた。平氏はこうして九州に一大権門として君臨したのである。ところが平氏は源平合戦で敗れる。その結果、九州における平氏関係勢力が駆逐されて関東御家人が下向し、九州地方の勢力図は中世的に再編されていくのである。
大宰府においても、文治2年(1186)、伊豆の有力御家人天野遠景(あまの・とおかげ)が鎮西九国奉行人に任命されて大宰府の政務を処理するようになり、それにより大宰府守護所(幕府が大宰府を支配する機関)が成立。さらにその後任として赴任した中原親能(ちかよし)や、筑前・肥前・豊前などの守護として下向してきた武藤資頼(すけより)によって九州支配の構図が代わっていく。特に資頼は大宰少弐にも任命されたがこれは大宰府の歴史に重要な意味を持ち、彼は鎌倉から赴任した鎮西奉行でありかつ大宰府の役人でもあるという二重構造の支配を行い、やがて「大宰府」は実質を失って、武藤氏が少弐を世襲する九州支配機関の名として便宜的に用いられるに過ぎなくなるのである。 そうして武藤氏は「少弐氏」を称するようになり、大友・島津氏とともに中世の九州を三分する勢力となっていくのである。
ところで本書は、昭和40年代に行われた大宰府政庁の発掘調査の成果に基づいて1979年(昭和54年)に書かれ、それまでの大宰府史を概略的に訂正する目的をもっている。よって、おそらく現代の研究水準からはやや古びた点があると思われることと、概略であるために若干隔靴掻痒の感が否めない。宇佐八幡宮との関係や交易の実態、大宰府と各国司の関係などもう少し突っ込んで知りたくなった。
やや物足りないところもあるが、大宰府のコンパクトな通史。
【関連書籍】
『列島を翔ける平安武士—九州・京都・東国』野口 実 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_13.html
平安時代から鎌倉時代にかけての武士のネットワークを南九州にフォーカスして述べる。
大宰府が九州に及ぼしていた種々の影響が実例によって知れる。
古代から中世初期の九州の歴史において、大宰府は絶大な影響を及ぼしている権門の一つだ。大宰府は形式的には九州を治めるための地方行政機関ではあったが、実質的にはそれ自体が国家に準じるような存在になった時期もあった。
官衙(役所)としての大宰府の淵源は、推古朝あたりに作られた「筑紫大宰」である。当時は新羅の圧迫によって任那(日本が朝鮮半島に権益を有したらしき地域)を失いつつある時期で、筑紫大宰はこうした外交関係の処理を担うため中央行政府の出先機関のような役割を果たしたと考えられる。
しかしその後の対外関係の悪化から白村江の戦いの敗北を受け、九州は朝鮮半島の緊張をモロに受ける最前線へと変化する。そこで筑紫大宰はより守りの堅固な内陸に移転することとなり、選ばれたのが太宰府町(現・太宰府市)であり、そこに設けられたのが大宰府である。よって大宰府は地方行政府であると同時に、国家の防衛を担う役所として出発したのである。ここは辺境防衛隊である防人(さきもり)配備の拠点でもあった。
よって大宰府の規模や任官の位階は他の行政組織を凌いでおり、律令制最大の官司であったということができる。長官(かみ)は中央政府でみれば大納言に次ぐ高位ポストで、しかも大伴旅人のような有力者が任命された。また大宰府の官人は経済的にも優遇されていた。なお租庸調のうち、租は国衙に、庸調は中央政府に京進することとなっていたが、大宰府管内諸国の場合は庸調が全て大宰府に集積され、府用に宛てられた残余が京進されていた。
また大宰府には府庁と隣接して、天智天皇により観世音寺が建立された。種々の事情から造営には80年近くかかったが、これは地方における第一級の寺院となっただけでなく、西海道諸国の戒壇にもなり、東大寺戒壇院、下野薬師寺とともに「天下の三戒壇」をなして平安前期まで大いに栄えた。
さらに大宰府の北東に位置する宝満山は竈門(かまど)山と呼ばれるが、ここに竈門山寺が奈良時代中期(推定)に創建された。ここでは最澄・空海も修行したという。宝満山は神仏習合が進むにつれて英彦山(ひこさん)とならぶ修験道のメッカとなった。
9世紀に入ると大宰府は徐々に変質していく。長官(帥(そち))には親王が遙任官(現地に赴任しない任官)として宛てられるようになり、また副長官級(権帥(ごんのそち))には政治的敗者・罪人が左遷ポストとして赴任させられるようになる。大宰府の役人は位階は高いが都から遠く離れていたため、左遷にはぴったりであった。大宰大弐(次官級)であった小野岑守(みねもり)の意欲的な改革はあったが、律令制の弛緩に伴って大宰府の政務も次第に形骸化していった。
菅原道真も大宰府に権帥として赴任させられて現地で死亡した。道真は怨霊になったと信じられ、その霊をなだめるため北野神社(天満宮)と安楽寺が創建された。これらは明治の神仏分離までは同体であり、安楽寺天満宮あるいは天満宮安楽寺などと呼ばれていた。安楽寺は道真の墓所であり菅原氏の氏寺であったが次第に官寺化し、また九州各地の荘園が寄進されて、九州では宇佐神宮と並ぶ大荘園領主へと成長した。安楽寺は大宰府の政治的保護すらも必要としないようになり、日宋貿易にも進出して経済的基盤を強化した。他方、それと対照的に観世音寺は大宰府に密着して自立を怠り、大宰府の衰退とともに衰微して東大寺の末寺となった。
ところで、菅原道真の建言によって遣唐使は廃止されたが、遣唐使の廃止以後も大宰府は海外との交流の拠点であり続けた。公館であった鴻臚館も遣唐使廃止以後は民間商人の宿泊施設となったようである。むしろ遣唐使時代は、九州は大陸との窓口ではあったが文化は素通りしていった。民間の交流が盛んになってからの方が、海外交易が九州に大きな文化的・経済的影響を与えたと見られる。
平清盛が大宰大弐の地位を手に入れたのも日宋貿易を独占するためだったと考えられる。継いで弟の頼盛も大弐になり実際に赴任。その着任2ヶ月前には宇佐大宮司公通(きんみち)が権少弐に任命されている。安楽寺や筥崎宮、宗像宮も平氏と親近関係になっていた。平氏はこうして九州に一大権門として君臨したのである。ところが平氏は源平合戦で敗れる。その結果、九州における平氏関係勢力が駆逐されて関東御家人が下向し、九州地方の勢力図は中世的に再編されていくのである。
大宰府においても、文治2年(1186)、伊豆の有力御家人天野遠景(あまの・とおかげ)が鎮西九国奉行人に任命されて大宰府の政務を処理するようになり、それにより大宰府守護所(幕府が大宰府を支配する機関)が成立。さらにその後任として赴任した中原親能(ちかよし)や、筑前・肥前・豊前などの守護として下向してきた武藤資頼(すけより)によって九州支配の構図が代わっていく。特に資頼は大宰少弐にも任命されたがこれは大宰府の歴史に重要な意味を持ち、彼は鎌倉から赴任した鎮西奉行でありかつ大宰府の役人でもあるという二重構造の支配を行い、やがて「大宰府」は実質を失って、武藤氏が少弐を世襲する九州支配機関の名として便宜的に用いられるに過ぎなくなるのである。 そうして武藤氏は「少弐氏」を称するようになり、大友・島津氏とともに中世の九州を三分する勢力となっていくのである。
ところで本書は、昭和40年代に行われた大宰府政庁の発掘調査の成果に基づいて1979年(昭和54年)に書かれ、それまでの大宰府史を概略的に訂正する目的をもっている。よって、おそらく現代の研究水準からはやや古びた点があると思われることと、概略であるために若干隔靴掻痒の感が否めない。宇佐八幡宮との関係や交易の実態、大宰府と各国司の関係などもう少し突っ込んで知りたくなった。
やや物足りないところもあるが、大宰府のコンパクトな通史。
【関連書籍】
『列島を翔ける平安武士—九州・京都・東国』野口 実 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_13.html
平安時代から鎌倉時代にかけての武士のネットワークを南九州にフォーカスして述べる。
大宰府が九州に及ぼしていた種々の影響が実例によって知れる。
2020年1月2日木曜日
『六祖壇経』柳田 聖山 訳(西谷啓治・柳田聖山編『世界古典文学全集36A 禅家語録 I』 所収)
唐代の禅僧、恵能の言行録。
恵能は貧しい生まれで教育を受けず、字が読めなかった。彼は薪を売って母親を支えていたという。だが町でお経を読んでいる声を聞いて突如発心し、母を棄てて出家し弘忍という高僧の下で修行した。字が読めないので最初は下働きのような形だったが、彼は生まれながらの禅匠であり詩人だったのでやがて頭角を現し、遂に禅の第五祖弘忍から後継者と認められ、ダルマから引き継いだ袈裟を譲られて六祖となった。
しかし字が読めず生まれが卑しかったことで弘忍の弟子たちは恵能を認めず彼を暗殺しようとする。そのため恵能は逃亡。こうして恵能は禅僧としての人生を激動のうちにスタートさせたのである。
本書は、恵能が役人の韋璩(いきょ)という人の求めに応じて行った公開説法の模様を弟子の法海がメモしたものである。恵能のドラマチックな人生と、深遠な教えが縦横に展開されており、禅籍らしからぬ面白さである。
しかしながら、本書にはほぼ全く書いていないが実は『六祖壇経』を額面通り受け取ってはいけない事情がある。というのは、これは恵能の弟子であった荷沢神会(かたく・じんね)という禅僧が、自らが正統な禅の継承者であることを主張するため、師の恵能を持ち上げるべく創作した部分もかなり含まれているからなのである。
荷沢神会は当時大きな反響を呼び起こし、禅の歴史を大きく変えた人物である。彼は自らの正統性を鼓吹するため様々な新説を考案した。例えば、先述した「恵能はダルマから代々引き継いできた袈裟を譲られた」(「伝衣(でんね)説」という)というのも彼の創作である。それまで、法統を継ぐ証しとして袈裟を与えるという慣習自体が存在していなかったと見られる。しかし『六祖壇経』では、あたかもそうした慣習があったものとされてドラマが展開し、恵能に反発した弘忍の弟子たちが袈裟を奪いにやってくる…といった場面が描かれるのである。
神会はまたダルマから自らにいたるまでの祖師の系譜を作為し(「西天八祖説」)、遂に恵能が禅の六祖であることを社会に認めさせた。恵能の生前には、彼は六祖でもなんでもなかったのである。
また神会は禅の思想をもかなり変質させた。彼は北方の禅で行われていた長い修行や座禅を回りくどいものとし、悟りとは一瞬の認識によって得られるものと考えた。そして自らが迷っているという認識を得ることで仏陀になる、迷いが即ち悟りであるという「煩悩即菩提」の「頓悟禅」を推し進めた(頓悟=一瞬で悟る)。こうしたことから、北方の禅が長い修行や座禅によって真理に到達しようとする「漸悟」であり、神会の主宰する南方の禅は「頓悟」であるのでより優れているという「南頓北漸説」をも鼓吹した。
そしてこうした神会の説は、当然のごとく六祖恵能に仮託され、『六祖壇経』に描かれる恵能によって語られているのである。しかしだからといって、恵能の言説の全てが神会の薄っぺらい創作であると思うならそれは間違いだ。『六祖壇経』ほど異本の多い禅籍はないと言われるが、様々な優れた言説が恵能に仮託され、いわば禅の超人として恵能がアイコン化してゆき、超人の言行録として成立したのが『六祖壇経』なのである。
であるから、恵能の言葉は非常に含蓄があるものが多い。確かに神会は恵能を超人として演出したかもしれないが、それは非現実的な瑞祥(花弁が降ってきたとか)をちりばめることによってではなく、あくまでも言葉の力によってなされたものだからである。確かに恵能のような師の下では一瞬に悟ることができるかもしれない、と思うようなところがある。その教えの要諦は「自己に目覚めよ」の一言に集約できる。本来の自己を見つめること、それができたならもう仏陀であるという。これは非常に力強い言葉であって、『六祖壇経』は迷いの中にある人にとって道標になりうる本である。
内容は歴史的事実ではありえないが、創作的人物としての恵能の言説が魅力的な本。
【参考文献】
『禅の歴史』伊吹 敦
↑荷沢神会についてはこの本を参照しました。
恵能は貧しい生まれで教育を受けず、字が読めなかった。彼は薪を売って母親を支えていたという。だが町でお経を読んでいる声を聞いて突如発心し、母を棄てて出家し弘忍という高僧の下で修行した。字が読めないので最初は下働きのような形だったが、彼は生まれながらの禅匠であり詩人だったのでやがて頭角を現し、遂に禅の第五祖弘忍から後継者と認められ、ダルマから引き継いだ袈裟を譲られて六祖となった。
しかし字が読めず生まれが卑しかったことで弘忍の弟子たちは恵能を認めず彼を暗殺しようとする。そのため恵能は逃亡。こうして恵能は禅僧としての人生を激動のうちにスタートさせたのである。
本書は、恵能が役人の韋璩(いきょ)という人の求めに応じて行った公開説法の模様を弟子の法海がメモしたものである。恵能のドラマチックな人生と、深遠な教えが縦横に展開されており、禅籍らしからぬ面白さである。
しかしながら、本書にはほぼ全く書いていないが実は『六祖壇経』を額面通り受け取ってはいけない事情がある。というのは、これは恵能の弟子であった荷沢神会(かたく・じんね)という禅僧が、自らが正統な禅の継承者であることを主張するため、師の恵能を持ち上げるべく創作した部分もかなり含まれているからなのである。
荷沢神会は当時大きな反響を呼び起こし、禅の歴史を大きく変えた人物である。彼は自らの正統性を鼓吹するため様々な新説を考案した。例えば、先述した「恵能はダルマから代々引き継いできた袈裟を譲られた」(「伝衣(でんね)説」という)というのも彼の創作である。それまで、法統を継ぐ証しとして袈裟を与えるという慣習自体が存在していなかったと見られる。しかし『六祖壇経』では、あたかもそうした慣習があったものとされてドラマが展開し、恵能に反発した弘忍の弟子たちが袈裟を奪いにやってくる…といった場面が描かれるのである。
神会はまたダルマから自らにいたるまでの祖師の系譜を作為し(「西天八祖説」)、遂に恵能が禅の六祖であることを社会に認めさせた。恵能の生前には、彼は六祖でもなんでもなかったのである。
また神会は禅の思想をもかなり変質させた。彼は北方の禅で行われていた長い修行や座禅を回りくどいものとし、悟りとは一瞬の認識によって得られるものと考えた。そして自らが迷っているという認識を得ることで仏陀になる、迷いが即ち悟りであるという「煩悩即菩提」の「頓悟禅」を推し進めた(頓悟=一瞬で悟る)。こうしたことから、北方の禅が長い修行や座禅によって真理に到達しようとする「漸悟」であり、神会の主宰する南方の禅は「頓悟」であるのでより優れているという「南頓北漸説」をも鼓吹した。
そしてこうした神会の説は、当然のごとく六祖恵能に仮託され、『六祖壇経』に描かれる恵能によって語られているのである。しかしだからといって、恵能の言説の全てが神会の薄っぺらい創作であると思うならそれは間違いだ。『六祖壇経』ほど異本の多い禅籍はないと言われるが、様々な優れた言説が恵能に仮託され、いわば禅の超人として恵能がアイコン化してゆき、超人の言行録として成立したのが『六祖壇経』なのである。
であるから、恵能の言葉は非常に含蓄があるものが多い。確かに神会は恵能を超人として演出したかもしれないが、それは非現実的な瑞祥(花弁が降ってきたとか)をちりばめることによってではなく、あくまでも言葉の力によってなされたものだからである。確かに恵能のような師の下では一瞬に悟ることができるかもしれない、と思うようなところがある。その教えの要諦は「自己に目覚めよ」の一言に集約できる。本来の自己を見つめること、それができたならもう仏陀であるという。これは非常に力強い言葉であって、『六祖壇経』は迷いの中にある人にとって道標になりうる本である。
内容は歴史的事実ではありえないが、創作的人物としての恵能の言説が魅力的な本。
【参考文献】
『禅の歴史』伊吹 敦
↑荷沢神会についてはこの本を参照しました。
2020年1月1日水曜日
『親鸞』赤松 俊秀 著
親鸞の伝記。
親鸞ほど歴史的事実が混乱し、評価の異なる高僧は少ないという。それは、親鸞の家族関係(妻・子)に関する史料の誤読や根拠のない伝説、勘違いのために、本来なら平易なはずの消息(手紙)が誤解され、複雑な家庭環境や教説を想像したことに原因があった。
著者が本書で指摘したこれまでの誤解のうち主なものを2つ揚げると、「親鸞の妻は2人いた」という誤解、 「下人の「いや女」を娘の覚信尼であるとした誤解」である。江戸時代以来こうした誤解があったために、親鸞の伝記は混迷を極めてきたのだという。
そこで著者は史料を注意深く考証し、これまでの伝説を排して実証的に親鸞の人生を再構成した。そのため本書には論争を挑むようなところがあり、「某の研究はここが間違っていて、正しくはこうである」といった指摘が多い。おそらく、発表当時はかなりの賛否があったのではないかと思う。しかし読者としては、先行研究を紹介し、それを糾合しつつ批判を加え、一次史料に基づいて事実を確定していくという態度がまことに堅牢であり、安心して読める伝記である。
本書を読んで心に残ったのは、法然の浄土教との理論的相違、親鸞の在俗主義への徹底、無教会主義とも言うべき伽藍との決別、親鸞の晩年における公私両面での苦労である。
第1の法然との相違は、親鸞自身は法然の教説を受け継いでいると自認していたものの、理論的には法然が「偏依善導」を標榜してもっぱら善導の理論に基づいていたのと比べ、親鸞は宋代の(つまり同時代の)浄土教の種々の理論を積極的に摂取して宗教理論を精緻化している。善導は当時から400年も前の人であるから、法然は随分古い理論に基づいていたわけで、親鸞はそれをキャッチアップさせたといえる。
第2の在俗主義への徹底は、そもそも比叡山を下りた契機に存在する。親鸞は20年間比叡山で修行したが、おそらくは性欲に関する苦悩から精進潔斎の生活は不可能であると悟った。そして山を下りた親鸞は、自らは(出家した)僧ではないという自覚を持ち続けた。事実親鸞は妻帯肉食し、大勢の弟子にかしずかれるようになっても自分は師ではないと主張し、親鸞に弟子は一人もいない、すべて朋友だという立場をとった。
第3の伽藍との決別は、在俗主義から帰結するものであったといえる。親鸞は教団的なものを率いるようになっても寺院を作らなかったし、弟子達が道場を組織するようになってもその建物を質素なものとするよう訓戒した。伽藍との決別は、精神的なものを重視する立場を具体化したものであり、また当時の顕密仏教への批判でもあったのだろう。
第4の晩年の苦労は、第2、第3の点から導かれた側面もある。親鸞自身はそう思っていなくても、弟子達は立派な伽藍を設け宗教指導者として信者の布施を受ける経営に憧れた。親鸞の晩年には、弟子達との方向性の違いから教団(親鸞は教団を組織する気はなかったのであるが)は分裂気味であった。それは教義上の差異もさることながら、在俗主義を貫いては教団の発展が望めないことに内在していたのである。また親鸞は家族のことでも苦労した。有名な善鸞の義絶だけでなく、孫の覚恵の生活の心配もあった。親鸞は高齢になっても世俗のごたごたと離れられなかった。しかし親鸞の在俗主義と家族の重視は、真宗教団が世襲的に維持されていく基盤にもなった。
ところで、本書は親鸞の行実に関しては充実しているものの、思想史的な部分は非常に簡潔である。例えば親鸞の主著であり浄土真宗の根本理論となった『教行信証』が、どうして著されたのかについて本書は述べるところがない。弟子でも『教行信証』を理解できたものは十指に満たなかったと考えられる。ほとんどの弟子には理解できないのに、なぜ親鸞は『教行信証』を書いたのか。それは当時の思想界での対立を踏まえてしか理解できないと思うが、そうした面に本書はあまり触れていない。
とはいえ親鸞の教義面の遍歴については丁寧に書いている。本書は教義を解説するものではないからあくまでも概略であるが、親鸞の教えの要諦とその人生の関わりがよく理解できると感じた。
史料の厳密な考証によって行実を明らかにした親鸞伝の好著。
★Amazonページ
https://amzn.to/3TTd50E
親鸞ほど歴史的事実が混乱し、評価の異なる高僧は少ないという。それは、親鸞の家族関係(妻・子)に関する史料の誤読や根拠のない伝説、勘違いのために、本来なら平易なはずの消息(手紙)が誤解され、複雑な家庭環境や教説を想像したことに原因があった。
著者が本書で指摘したこれまでの誤解のうち主なものを2つ揚げると、「親鸞の妻は2人いた」という誤解、 「下人の「いや女」を娘の覚信尼であるとした誤解」である。江戸時代以来こうした誤解があったために、親鸞の伝記は混迷を極めてきたのだという。
そこで著者は史料を注意深く考証し、これまでの伝説を排して実証的に親鸞の人生を再構成した。そのため本書には論争を挑むようなところがあり、「某の研究はここが間違っていて、正しくはこうである」といった指摘が多い。おそらく、発表当時はかなりの賛否があったのではないかと思う。しかし読者としては、先行研究を紹介し、それを糾合しつつ批判を加え、一次史料に基づいて事実を確定していくという態度がまことに堅牢であり、安心して読める伝記である。
本書を読んで心に残ったのは、法然の浄土教との理論的相違、親鸞の在俗主義への徹底、無教会主義とも言うべき伽藍との決別、親鸞の晩年における公私両面での苦労である。
第1の法然との相違は、親鸞自身は法然の教説を受け継いでいると自認していたものの、理論的には法然が「偏依善導」を標榜してもっぱら善導の理論に基づいていたのと比べ、親鸞は宋代の(つまり同時代の)浄土教の種々の理論を積極的に摂取して宗教理論を精緻化している。善導は当時から400年も前の人であるから、法然は随分古い理論に基づいていたわけで、親鸞はそれをキャッチアップさせたといえる。
第2の在俗主義への徹底は、そもそも比叡山を下りた契機に存在する。親鸞は20年間比叡山で修行したが、おそらくは性欲に関する苦悩から精進潔斎の生活は不可能であると悟った。そして山を下りた親鸞は、自らは(出家した)僧ではないという自覚を持ち続けた。事実親鸞は妻帯肉食し、大勢の弟子にかしずかれるようになっても自分は師ではないと主張し、親鸞に弟子は一人もいない、すべて朋友だという立場をとった。
第3の伽藍との決別は、在俗主義から帰結するものであったといえる。親鸞は教団的なものを率いるようになっても寺院を作らなかったし、弟子達が道場を組織するようになってもその建物を質素なものとするよう訓戒した。伽藍との決別は、精神的なものを重視する立場を具体化したものであり、また当時の顕密仏教への批判でもあったのだろう。
第4の晩年の苦労は、第2、第3の点から導かれた側面もある。親鸞自身はそう思っていなくても、弟子達は立派な伽藍を設け宗教指導者として信者の布施を受ける経営に憧れた。親鸞の晩年には、弟子達との方向性の違いから教団(親鸞は教団を組織する気はなかったのであるが)は分裂気味であった。それは教義上の差異もさることながら、在俗主義を貫いては教団の発展が望めないことに内在していたのである。また親鸞は家族のことでも苦労した。有名な善鸞の義絶だけでなく、孫の覚恵の生活の心配もあった。親鸞は高齢になっても世俗のごたごたと離れられなかった。しかし親鸞の在俗主義と家族の重視は、真宗教団が世襲的に維持されていく基盤にもなった。
ところで、本書は親鸞の行実に関しては充実しているものの、思想史的な部分は非常に簡潔である。例えば親鸞の主著であり浄土真宗の根本理論となった『教行信証』が、どうして著されたのかについて本書は述べるところがない。弟子でも『教行信証』を理解できたものは十指に満たなかったと考えられる。ほとんどの弟子には理解できないのに、なぜ親鸞は『教行信証』を書いたのか。それは当時の思想界での対立を踏まえてしか理解できないと思うが、そうした面に本書はあまり触れていない。
とはいえ親鸞の教義面の遍歴については丁寧に書いている。本書は教義を解説するものではないからあくまでも概略であるが、親鸞の教えの要諦とその人生の関わりがよく理解できると感じた。
史料の厳密な考証によって行実を明らかにした親鸞伝の好著。
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2019年12月31日火曜日
『墓石が語る江戸時代—大名・庶民の墓事情』関根 達人 著
墓石によって江戸時代の社会を考察する本。
古代や中世の墓石は芸術性も高く文化財として保護されているものも多いが、江戸時代の墓石は特に貴重なものともみなされず、むしろ無縁仏として整理される対象であり、打ち捨てられてきた。
しかし著者は江戸時代の墓石によって当時の社会を考察することが出来ると主張する。大量の墓石を悉皆調査することでだ。
確かに江戸時代の墓石は(大名墓などを除いて)立派な文化財ではない。しかしそれは逆に言えば、名もない庶民も墓石を造立したということである。古代や中世の墓石がごく限られた社会の上流だけのものであったのに、江戸時代の墓石は全階層的なものであった。江戸時代後期には全国的に半数近くの人々が墓石を建てていたと見られる。だからそれを悉皆調査すれば、社会の有りさまがかなりわかってくるのである。
著者は弘前大学に赴任した際に松前を中心に墓石調査を行った。江戸時代の最北端の城下町である。この辺境の地でも、墓石はかなり造立された。この他著者は交易地を中心に墓石の調査を行っている。それによりわかるのは、歴史人口学(人口の推計)、飢饉の際に死亡した人の推計、社会階層の分析、家族のあり方の変遷、街の盛衰といったものだ。
しかしながら、そうした墓石の悉皆調査による考察は、墓石をデータとしてみるものであるから、参考にはなるがやや味気ないものだ。それよりも面白いのは、やはり墓石一つひとつを見ていくことである。例えば面白い戒名「米汁呑了信士」(ふざけているのか?)、個性的な墓石(挽き臼の形)など見ていて飽きない。
江戸時代から現代まではほとんどの人が墓石を造立した時代であり、古墳が造立された時代を「古墳時代」と呼ぶのなら、「墓石時代」と呼んでもいいのではないかと著者は提案する。墓石時代が到来した理由を著者は6つに整理している。(1)直系家族からなる世帯の形成、(2)儒教思想に基づく祖先祭祀の浸透、(3)寺檀制度の確立、(4)読み書きの普及に伴う文字文化の成熟、(5)海上交通網の整備による石材の遠距離輸送の実現、(6)石工の全国的拡散、である。
しかし現代は樹木葬や散骨など、墓石を敢えて造立しない葬送が一般化しつつある。人口減少時代にあって、墓を見る子孫がいない、墓参りが負担になる、家族像が変化しているといった理由からだ。墓石時代は今終わろうとしているのかもしれない。
墓石を通じて社会を見る視点が独特な本。
古代や中世の墓石は芸術性も高く文化財として保護されているものも多いが、江戸時代の墓石は特に貴重なものともみなされず、むしろ無縁仏として整理される対象であり、打ち捨てられてきた。
しかし著者は江戸時代の墓石によって当時の社会を考察することが出来ると主張する。大量の墓石を悉皆調査することでだ。
確かに江戸時代の墓石は(大名墓などを除いて)立派な文化財ではない。しかしそれは逆に言えば、名もない庶民も墓石を造立したということである。古代や中世の墓石がごく限られた社会の上流だけのものであったのに、江戸時代の墓石は全階層的なものであった。江戸時代後期には全国的に半数近くの人々が墓石を建てていたと見られる。だからそれを悉皆調査すれば、社会の有りさまがかなりわかってくるのである。
著者は弘前大学に赴任した際に松前を中心に墓石調査を行った。江戸時代の最北端の城下町である。この辺境の地でも、墓石はかなり造立された。この他著者は交易地を中心に墓石の調査を行っている。それによりわかるのは、歴史人口学(人口の推計)、飢饉の際に死亡した人の推計、社会階層の分析、家族のあり方の変遷、街の盛衰といったものだ。
しかしながら、そうした墓石の悉皆調査による考察は、墓石をデータとしてみるものであるから、参考にはなるがやや味気ないものだ。それよりも面白いのは、やはり墓石一つひとつを見ていくことである。例えば面白い戒名「米汁呑了信士」(ふざけているのか?)、個性的な墓石(挽き臼の形)など見ていて飽きない。
江戸時代から現代まではほとんどの人が墓石を造立した時代であり、古墳が造立された時代を「古墳時代」と呼ぶのなら、「墓石時代」と呼んでもいいのではないかと著者は提案する。墓石時代が到来した理由を著者は6つに整理している。(1)直系家族からなる世帯の形成、(2)儒教思想に基づく祖先祭祀の浸透、(3)寺檀制度の確立、(4)読み書きの普及に伴う文字文化の成熟、(5)海上交通網の整備による石材の遠距離輸送の実現、(6)石工の全国的拡散、である。
しかし現代は樹木葬や散骨など、墓石を敢えて造立しない葬送が一般化しつつある。人口減少時代にあって、墓を見る子孫がいない、墓参りが負担になる、家族像が変化しているといった理由からだ。墓石時代は今終わろうとしているのかもしれない。
墓石を通じて社会を見る視点が独特な本。
2019年12月29日日曜日
『石仏・石の神を旅する』吉田さらさ 著・宮本 和義 写真
全国の石仏のガイドブック。
本書は学術書でもエッセイでもなく、全国の見応えのある石仏(と神像もちょっと)をキレイな写真付きで紹介する本である。
そこに紹介されているのは、学術的に貴重であるとかいうよりも、まずは見て楽しい、感動する、驚くといったものである。いわば本書は石仏の入門書であって、それぞれについても詳細な考察があるでもなく、ごくあっさりと紹介されている。
しかし石仏だけを選んで紹介している本というのは少ないので本書の存在は貴重だ。見応えのある仏像を選んで紹介している本は多いが、本書の特色はまさに「石」という材質に注目してセレクションしたところだ。
石仏は寺の中にあるものもあるが、路傍にあったり磨崖仏であったり、誰でも自由に見ることができるものが多いのが特色だ。当然、写真撮影も自由である。それが旅との相性の良さだと思う。本書は単なる石仏紹介本ではなく、旅のガイドブック的に書いてあって、石仏を見に旅に出たくなる。
ただ、本書は全国を網羅しているわけではなく、あくまでも著者なりの視点で選んだものであるし、それに全く訪問していない地域も多そうである(例えば鹿児島には来ていないようだ)。体系的に石仏の紹介をする本ではないのでそれで全く問題はないが、2倍くらいの分量があったらもっと面白い本になったと思う。
石仏の世界を気軽に旅する本。
本書は学術書でもエッセイでもなく、全国の見応えのある石仏(と神像もちょっと)をキレイな写真付きで紹介する本である。
そこに紹介されているのは、学術的に貴重であるとかいうよりも、まずは見て楽しい、感動する、驚くといったものである。いわば本書は石仏の入門書であって、それぞれについても詳細な考察があるでもなく、ごくあっさりと紹介されている。
しかし石仏だけを選んで紹介している本というのは少ないので本書の存在は貴重だ。見応えのある仏像を選んで紹介している本は多いが、本書の特色はまさに「石」という材質に注目してセレクションしたところだ。
石仏は寺の中にあるものもあるが、路傍にあったり磨崖仏であったり、誰でも自由に見ることができるものが多いのが特色だ。当然、写真撮影も自由である。それが旅との相性の良さだと思う。本書は単なる石仏紹介本ではなく、旅のガイドブック的に書いてあって、石仏を見に旅に出たくなる。
ただ、本書は全国を網羅しているわけではなく、あくまでも著者なりの視点で選んだものであるし、それに全く訪問していない地域も多そうである(例えば鹿児島には来ていないようだ)。体系的に石仏の紹介をする本ではないのでそれで全く問題はないが、2倍くらいの分量があったらもっと面白い本になったと思う。
石仏の世界を気軽に旅する本。
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