中世、多くの死者が墓地に葬られるようになる背景を説き明かす本。
平安末期、京都には日常的に死体が放置されていた。貴族の屋敷や内裏においてさえ、野犬が死体の一部を置いていくことが珍しくなかった。当時は死の穢れが神経質に避けられていたから、屋敷で死体の一部がみつかれば「五体不具穢(ごたいふぐえ)」となって、7日間の出仕停止(謹慎)が必要であった(※この「五体不具」は、死体の一部によるという意味)。彼らは死体が見つかった気味の悪さや死者への弔いの気持ちよりも、7日間の謹慎を食らうことを気にしており、日記に書き留めた(ちなみに全身死体の場合は30日の謹慎だった)。それが仕事に影響することだったからだ。
よって、貴族の日記にはたびたび遺棄された死体のことが記録された。著者は、その記録を詳細に分析し、12世紀には「五体不具穢」などの記事が頻繁に出てくるのに、13世紀前半にそうした記事が急減することを突き止めた。12世紀の京都では死体放置・遺棄が日常的であったが、13世紀前半にはあまり死体は放置されなくなり、14世紀には稀な出来事になっていた。これはどうしてなのだろうか? それが本書の問題提起であり、この謎解きが本書のテーマである。
そもそも、なぜ死体は放置されていたのだろうか。それにはいくつか理由があった。
第1に、死者の葬送はほとんど親族しか携わることができなかった。その背景には死の穢れへの懼れ・忌みがあったと思われる。このため、肉親が少ない人は死を目前にすると自ら(!)葬所へ赴いたりした。また家の中で家族の死体が放置されていることもよくあった。死体が重すぎて女一人では移動させられなかった場合などだ。つまり葬送は、あくまで家族が自力でやるもので地域社会はこれに協力しなかった。
第2に、当時は鳥葬が行われていた。貴族や財力のある人は火葬を行うことが出来たが、火葬にはかなりお金がかかった。よって河原や山に死体を放置することにはそれほど抵抗感はなかった。鳥葬は山野で行う方が好ましいとは思われていたが、死体をそこまで運んでいくのも一苦労だったので、荒廃した貴族の屋敷地やそのあたりの空き地に死体を置いておくのも珍しくはなかった。そもそも低層の人々にとって、死体の遺棄と鳥葬の間には明確な線がなかったと思われる。
第3に、使用人が病気になり死にそうになると家を追い出すことが一般的に行われていた。もし家の中で使用人が病死すれば、死穢によって30日間の謹慎になるからである。今から見ると非人道的と言うほかないが、こうして死に瀕した病人が追い出され、路傍で死んだ。
こうした理由から、疫病が流行した時には当然河原には死体が溢れ、そうでなくても京都には若干の死体が放置されていることは珍しくなかった。もちろん国家はそれを好ましいものとはせず、検非違使に死体清掃のパトロールをさせることはあったが、それも何か行事がある時に限られ、積極的にこれを対策しようという気はなかったようだ。死の穢れを神経質なまでに気にしていたのに、「開放空間(道路や広場)にある死体の穢れは伝染しない」というような屁理屈で街中の死体を黙認していたのが平安朝であった。
それがなぜ13世紀前半に放置死体は急減するのか。その謎を解くため、本書では当時の葬送がどうであったかをまとめている。死の直前から年忌法要に至るまでの各段階における儀礼がこれまでの研究に基づいて整理されており、この項目は大変参考になり、便覧としても便利である。
その中でも火葬場の様子が興味深い。この頃は常設の火葬場はなく、そのたびごとに火葬場(「山作所」という)をしつらえていたが、上級の人々の場合、その形式は、荒垣で囲んで四方に鳥居で門を設けるものだった。四門はそれぞれ発心門、修行門、菩提門、涅槃門と呼ばれていた。門の名前だけでなく葬送儀礼全体が仏式で行われながら、「鳥居」が使われているのが面白い。やや時代は下るが天文5年(1536年)制作の『日蓮聖人註画讃』にはその様子が描かれており、仏式の場に鳥居が並んでいるのが奇異である。なぜ仏教は葬送の場において鳥居を必要としたのだろうか。大変興味を引かれる。
なお葬儀には死霊を恐れ、その害を避ける儀式が多いが、「貴族はそれを行いつつも「世俗の忌」として否定的に見ているようである(p.123)」という指摘が目を引いた。貴族は死霊を実体として扱うことを迷信的と思っていた節がある。「貴族は葬送のやり方を詳細に日記に書いているが、個々の儀礼について、死霊や魔がどうとかは一言半句も書いていない。(中略)彼らはそういう解釈を系統的に排除しているような感じがする(同)」とのことである。しかし死霊を避ける儀礼(出棺後に竹箒で掃くなど)は徐々に貴族社会にも浸透し、12世紀中期からは「世俗の忌」的儀礼が取り入れられるようになる。普通、文化は上流から下流に伝わっていくが、この時代の葬送儀礼に関しては民衆的な「俗信」が貴族社会に逆流していく感じがする。
葬送儀礼は全体として、鎌倉時代にかけて整備が進んでくる感じである。また散発的・個別的だった墓地(その都度適当な山野を選んで墓を作っていた)が12世紀後半になると全国的に広域の共同墓地が営まれるようになってくる。京都では、「鳥辺野」に加え「蓮台野」という墓地が12世紀中頃に成立している。また墓地が一門の繁栄の源泉という考え方も現れ、一門墓地も形成された。墓地=穢れという感覚が希薄になり、むしろ聖性を帯びてくるのである。共同墓地の場合も、ただ墓をまとめただけというのではなく、そこに葬れば必ず極楽往生できるといった聖性を帯びた「勝地」と捉えられ、実際僧侶によって結界が行われるなど聖域としての性格を有していた。なお平安中〜後期には墓自体が全国的に少なく、どのように葬ったのか謎が大きいそうだ。
このように当時の葬送を外観し、それが13世紀にどう変化していくのかを見るのであるが、その変革の兆しとなったは、「二十五三昧会(にじゅうござんまいえ)」である。これは僧侶が極楽往生するための互助組合のようなもので、恵心僧都源信が寛和2年(986年)に組織した念仏結社である。お互い極楽往生を遂げられるよう念仏を欠かさないようにし、死にそうになったら他のメンバーで面倒を見て葬儀も共同で行うというもので、「寺院内部でさえ葬式互助がなかった当時としてまさに画期的なものだった。(p.179)」
この「二十五三昧会」は12世紀には天台系の寺院で普及し、また死を目前とした貴族がこれに加入して共同の火葬場を利用させてもらうことも出てきた。さらに13世紀後半からは「念仏講」のような形で次第に一般社会にも浸透していき、血縁のない人の葬式の手伝いをするという行為が普及していく。こうして死体が放置される理由の第1は徐々に解消されていくのである。
さらに死者が葬られるべき共同墓地が出現したことで、鳥葬をするにせよ、どこかの空き地に放置するのではなく、「鳥辺野」や「蓮台野」まで持っていくことが期待されるようになった。さらに著者はそうした死体運搬に「坂非人」(清水坂にいた非人)が活躍したのではないかと推測している。
平安時代の「非人」は後の被差別階級とは異なり、ハンセン病患者などによって構成され、救恤の対象と見られていたのであるが、鎌倉時代になると彼らは「葬送得分権」を持つようになり強固な集団となっていく。この「葬送得分権」というのは、死者の葬儀を行う代わりにその衣服や葬具を奪取する権利であり、やがて彼らは京中の葬送に関する権利を持つようになって、南北朝時代(14世紀)には死体を運ぶ輿を独占する権利(輿独占権)を有し、輿の貸しだしで収入を得るようになった。さらに16世紀になると寺院が独自の葬式をする場合に、葬式一回あたりいくらの権利料を非人集団に支払うまでになるのである。
そして著者は、非人集団が「葬送得分権」を持つようになったきっかけが、葬送において鳥辺野や蓮台野まで死体を運ぶサービスを行ったことにあるのではないかと推測する。いくら共同墓地が「勝地」であったにしろ、死体を運ぶのは重労働である。しかし死体の衣類などと引き換えに非人集団が代わりに運んでくれるのであれば、あえて死体をそこらに放置するより運んでもらうことを選ぶだろう。こうして死体が放置される理由の第2が解消されたというのが著者の考えである。
ただし、(1)京中の放置死体の減少するのと歩調をあわせ、(2)蓮台野が大規模共同墓地として成長し、(3)同時期に非人の組織が史料に現れる、という状況証拠はあるものの、非人が棺を運んでいたこと自体を証明する史料は存在しないそうだ。
なお死体が放置される理由の第3については特に変化したとの指摘はないが、行き倒れの死体や極貧で身寄りのないものの死体は川や野山に棄てられるのは中世後期(14〜15世紀)でも続いていたと述べている。
本書は問題設定が極めて明解で、中世の葬儀に関する情報が総動員されており、著者の推測は史料の裏付けはないとはいえ説得的である。放置死体の減少から京都の葬儀事情が繙かれるという構成は読みやすく、葬送という地味な話題を扱っているにもかかわらず引き込まれる。
ただし思想面では若干記載が弱く、13世紀前半に放置死体が減少する背景に思想的な変遷もあったのではないかという気がさせられた。例えば本書には鎌倉新仏教とか浄土教の流行といったものはほとんど触れられていないが、こうしたものは葬送儀礼には影響していないのだろうか。唯一、葬送儀礼の整備には禅宗が積極的だったと簡単な記載があったのみだが、このあたりはもう少し考察が欲しかったところである。
思想面は手薄だが、中世の葬送観について総合的に理解できる良書。
【関連書籍】
『中世の葬送・墓制—石塔を造立すること』水藤 真 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_4.html
中世の葬式がどうであったか検証する本。
葬儀事例を数多く紹介することで中世の葬送を知る真面目な本。
2019年10月9日水曜日
2019年10月6日日曜日
『畜生・餓鬼・地獄の中世仏教史—因果応報と悪道』生駒 哲郎 著
中世の畜生・餓鬼・地獄の世界観について述べる。
仏教では殺生は重大な罪である。では戦で人を殺した武士はみな地獄に落ちたのか、狩猟を行った人は地獄に落ちた(と考えられた)のかというと実はそうではない。殺生は罪業であったが、地獄が必定の殺生と、そうでもない殺生があった。
ごく単純化して言えば、わけもなく人を殺した場合が地獄行きで、道理に基づいて人を殺した場合はそうでもないと考えられた。例えば大義名分のある戦の場合や、仇討ちの場合は同じ殺生でも義務を果たした行為と見なされた。そういう場合、地獄には落ちない。中世の仏教において、殺生は決定的な罪業とは考えられていなかった模様である。むしろ道理のなさ、慈悲のなさといったことの方が決定的であった。
また、ひとたび地獄に落ちても、地蔵菩薩が救ってくれるという思想も発達した。本書では、『今昔物語集』に収録された地蔵霊験譚を分析してその変遷を考察している。地蔵菩薩の功徳は、地獄に落ちそうになった人を閻魔庁で救い出してやるというところから始まったようである。地獄に落ちてしまった人には代受苦(地獄の苦しみを代わりに受けてくれる)を提供したが、やがて地獄から人道へ戻すこともやるようになり、人道から西方浄土への往生に導くようになる。地獄に落ちた人を救うという地蔵菩薩の性格が、浄土信仰と結びついているのが興味深い。
また、罪業を冒しても、それを機縁として仏道を修せば地獄落ちを避けることができると考えられた。このように、悪事をきっかけに仏道に入ることを「逆縁」といった(今でいう逆縁とは意味が違う)。地獄に落ちたくないという利己的な心によるものであっても悔過(けか=懺悔みたいなもの)を行い、仏像を安置し、法華経を写せばそれで罪が軽くなったのである。また、自らは仏道を修さずとも、追善供養でも地獄落ちは避けられた。殺人や裏切りといった悪事も地獄落ちの決定打ではなく、各種の「抜け道」があったということだ。こうした「抜け道」があることが、仏教の盛行に一役買っていたに違いない。抜け道のない峻厳な教義であれば、きっと仏教は中世においてそれほど一般化しなかったであろう。
本書ではさらに、畜生道に落ちる場合はどんな時か、そして畜生道に落ちると人はどうなると考えられたかについて述べ、次いで同様に餓鬼道の場合が述べられる。畜生道の場合で、神への供物に肉や魚を使うことの仏教的整合性をどうとったかという説明があるがこれが面白い。例えば神にハマグリを供えるということを考えると、これはハマグリを殺しているわけだから殺生である。これは神が殺生を要求しているということになり、仏教的に考えるとおかしい。当時は神と仏は神仏習合で一体化していたが、この矛盾はどう考えたらよいか。これは、畜生道に落ちてしまっているハマグリを神に供えることで仏道に触れる機縁とし、天人道へ転生する道筋であると考えたのである。ハマグリは畜生道で苦しんでいるわけだから、それを神に供えることによって救う、という話である。
本書にはごく簡単にしか書いていないが、敵方供養が重要であったという指摘も面白い。中世には敵方の妻や子どもまでも一族皆殺しにすることはなかったという。これは温情があったのではなくて、敵方の供養をする人を残すためなのであった。なぜなら、非業の死を遂げた人間は、適切な供養がなければ怨霊となり現世に仇なすと考えられたからである。よって戦の供養塔などでは敵方の供養も重要なこととみなされた。この頃の仏教はさほど倫理的ではないが、これは人道的な考え方だろう。
本書は「中世仏教史」というタイトルになっているが、中身はケーススタディ的なものが多く通史的ではない。畜生・餓鬼・地獄といったものがどのように考えられていたかということを記述するのがメインで、それらの分析や考察もあまりない。私は地獄の観念は中世の仏教に甚大な影響を与えていると感じているが、本書ではそうした思想史的展開がほとんど語られないのは少し残念だった。
事例紹介的で「中世仏教史」は名折れだが、中世の悪道の軽重を知ることができる手軽な本。
仏教では殺生は重大な罪である。では戦で人を殺した武士はみな地獄に落ちたのか、狩猟を行った人は地獄に落ちた(と考えられた)のかというと実はそうではない。殺生は罪業であったが、地獄が必定の殺生と、そうでもない殺生があった。
ごく単純化して言えば、わけもなく人を殺した場合が地獄行きで、道理に基づいて人を殺した場合はそうでもないと考えられた。例えば大義名分のある戦の場合や、仇討ちの場合は同じ殺生でも義務を果たした行為と見なされた。そういう場合、地獄には落ちない。中世の仏教において、殺生は決定的な罪業とは考えられていなかった模様である。むしろ道理のなさ、慈悲のなさといったことの方が決定的であった。
また、ひとたび地獄に落ちても、地蔵菩薩が救ってくれるという思想も発達した。本書では、『今昔物語集』に収録された地蔵霊験譚を分析してその変遷を考察している。地蔵菩薩の功徳は、地獄に落ちそうになった人を閻魔庁で救い出してやるというところから始まったようである。地獄に落ちてしまった人には代受苦(地獄の苦しみを代わりに受けてくれる)を提供したが、やがて地獄から人道へ戻すこともやるようになり、人道から西方浄土への往生に導くようになる。地獄に落ちた人を救うという地蔵菩薩の性格が、浄土信仰と結びついているのが興味深い。
また、罪業を冒しても、それを機縁として仏道を修せば地獄落ちを避けることができると考えられた。このように、悪事をきっかけに仏道に入ることを「逆縁」といった(今でいう逆縁とは意味が違う)。地獄に落ちたくないという利己的な心によるものであっても悔過(けか=懺悔みたいなもの)を行い、仏像を安置し、法華経を写せばそれで罪が軽くなったのである。また、自らは仏道を修さずとも、追善供養でも地獄落ちは避けられた。殺人や裏切りといった悪事も地獄落ちの決定打ではなく、各種の「抜け道」があったということだ。こうした「抜け道」があることが、仏教の盛行に一役買っていたに違いない。抜け道のない峻厳な教義であれば、きっと仏教は中世においてそれほど一般化しなかったであろう。
本書ではさらに、畜生道に落ちる場合はどんな時か、そして畜生道に落ちると人はどうなると考えられたかについて述べ、次いで同様に餓鬼道の場合が述べられる。畜生道の場合で、神への供物に肉や魚を使うことの仏教的整合性をどうとったかという説明があるがこれが面白い。例えば神にハマグリを供えるということを考えると、これはハマグリを殺しているわけだから殺生である。これは神が殺生を要求しているということになり、仏教的に考えるとおかしい。当時は神と仏は神仏習合で一体化していたが、この矛盾はどう考えたらよいか。これは、畜生道に落ちてしまっているハマグリを神に供えることで仏道に触れる機縁とし、天人道へ転生する道筋であると考えたのである。ハマグリは畜生道で苦しんでいるわけだから、それを神に供えることによって救う、という話である。
本書にはごく簡単にしか書いていないが、敵方供養が重要であったという指摘も面白い。中世には敵方の妻や子どもまでも一族皆殺しにすることはなかったという。これは温情があったのではなくて、敵方の供養をする人を残すためなのであった。なぜなら、非業の死を遂げた人間は、適切な供養がなければ怨霊となり現世に仇なすと考えられたからである。よって戦の供養塔などでは敵方の供養も重要なこととみなされた。この頃の仏教はさほど倫理的ではないが、これは人道的な考え方だろう。
本書は「中世仏教史」というタイトルになっているが、中身はケーススタディ的なものが多く通史的ではない。畜生・餓鬼・地獄といったものがどのように考えられていたかということを記述するのがメインで、それらの分析や考察もあまりない。私は地獄の観念は中世の仏教に甚大な影響を与えていると感じているが、本書ではそうした思想史的展開がほとんど語られないのは少し残念だった。
事例紹介的で「中世仏教史」は名折れだが、中世の悪道の軽重を知ることができる手軽な本。
2019年10月4日金曜日
『中世の葬送・墓制—石塔を造立すること』水藤 真 著
中世の葬式がどうであったか検証する本。
江戸時代になると葬送や墓制(火葬し、その後石塔に納骨するなど)は現代とさほど変わらない。しかしその前の中世では、死者に対する態度、死体の扱い方、葬送の仕方、墓の造立、墓参の仕方まで、その基本的態度がだいぶ違うようである。本書は、中世の葬送・墓制がどうであったか、各種の資料に基づいて推測するものである。
「第1 中世の葬送・墓制」では、藤原良通、藤原俊成、中原師右(もろすけ)の死にあたってどのようなことが行われたか記述される。この頃の葬送はこっそり行われ、各種の儀礼がかなりの期間にわたって行われたが、必ずしも造塔は伴わなかった。墓は忘れられていたわけではないし、墓参もあったようだが、後代の常識とは異なって石塔は必須とは考えられていなかったようだ。
「第2 中世的葬送・墓制の淵源」では、平安貴族、後醍醐天皇、貴族・庶民の葬送が検証される。ここでも貴族の日記などから葬儀の様子が述べられているが、後醍醐天皇の葬儀でもほとんど仏式に行われていることが注目される。この時代の葬式は今のように決まった形態がなく、バリエーションが非常に大きい。
「第3 石塔の作り方」は、技術的な意味での石塔の作り方ではなく、どのような思想によって石塔が造立されたかを述べる。この項は基本的なことであるが面白い。石塔を作ることは故人を弔うというよりも、積善・作善の行為であったとし、であるから必ずしも墓に石塔がなくてもいいし、逆に墓以外にも石塔をたくさん建ててもよいのであった。もちろん積善の行為は造塔だけでなく、仏事を修する、仏像を造立する、梵鐘を鋳造する、風呂を施す、罪人を解き放つといったことも積善と見なされていた。また生前に自らの供養をする逆修供養の事例が紹介されているが、文明3年(1471年)の例で、初七日や一周忌、十三回忌までを圧縮した日程で実施しているものがあり、逆修供養で生前に葬式の全課程を終えておく場合があったことを初めて知った。
「第4 中世における葬送・墓制の諸相」では、足利将軍家、僧侶、女性の葬儀について検証される。かつては仏式というだけで特に何宗ということのなかった葬儀が、14世紀、室町時代になると何宗という分化が生じ、時宗の影響を受けた禅宗の葬儀が盛行するようになる。また葬儀の執行が相続の正統性を示すものと受け止められるものとなったという。
「第5 色々な墓」では、文字通り墓にまつわるいろいろな話を列挙している。中でも葬送や石塔の費用について分析した部分が面白い。貴族の葬式では大変な出費があり、例えば母の追善供養のためにその領地を売却した例も紹介されている。なおその中で石塔の造立にかかるコストは比較的小さく、数多くの仏事を修するのが費用のメインである。とにかく葬式を正式に修すると大金がかかったので、逆修供養とは葬式の簡略化によるコスト削減でもあったのかもしれないと思った。
「第6 中世的墳墓の形成と実態」では、14世紀頃から葬送と石塔の造立がセットになっていったことが推測され、それには禅宗が積極的に関与したことが示唆されている。また墓が寺に営まれるようになったことが簡単に指摘されているが、これはさらに詳しく過程を知りたいところである。さらに悉皆調査が行われている埼玉県の板碑についての統計的な分析が行われ、墓の変遷がデータで述べられている。このデータは非常に示唆的で興味を引く。
全体的に葬儀の事例を列挙していく感じの内容であり、普通には退屈な本であるかもしれないが、中世の葬儀への興味を持って読むとどの項目も興味深く、意外と退屈せずに読んだ。ただし、事例の列挙であるためにあまり分析や考察はなされていない。一つひとつの事例についてもう少し突っ込んだ考察が欲しかった。また、副題が「石塔を造立すること」であるにもかかわらず、石塔そのものについての話(どのように制作されたのか、どのような形式の石塔があったのかなど)がほとんどないのは残念だった。
葬儀事例を数多く紹介することで中世の葬送を知る真面目な本。
【関連書籍】
『死者たちの中世』勝田 至 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_9.html
中世、多くの死者が墓地に葬られるようになる背景を説き明かす本。
思想面は手薄だが、中世の葬送観について総合的に理解できる良書。
江戸時代になると葬送や墓制(火葬し、その後石塔に納骨するなど)は現代とさほど変わらない。しかしその前の中世では、死者に対する態度、死体の扱い方、葬送の仕方、墓の造立、墓参の仕方まで、その基本的態度がだいぶ違うようである。本書は、中世の葬送・墓制がどうであったか、各種の資料に基づいて推測するものである。
「第1 中世の葬送・墓制」では、藤原良通、藤原俊成、中原師右(もろすけ)の死にあたってどのようなことが行われたか記述される。この頃の葬送はこっそり行われ、各種の儀礼がかなりの期間にわたって行われたが、必ずしも造塔は伴わなかった。墓は忘れられていたわけではないし、墓参もあったようだが、後代の常識とは異なって石塔は必須とは考えられていなかったようだ。
「第2 中世的葬送・墓制の淵源」では、平安貴族、後醍醐天皇、貴族・庶民の葬送が検証される。ここでも貴族の日記などから葬儀の様子が述べられているが、後醍醐天皇の葬儀でもほとんど仏式に行われていることが注目される。この時代の葬式は今のように決まった形態がなく、バリエーションが非常に大きい。
「第3 石塔の作り方」は、技術的な意味での石塔の作り方ではなく、どのような思想によって石塔が造立されたかを述べる。この項は基本的なことであるが面白い。石塔を作ることは故人を弔うというよりも、積善・作善の行為であったとし、であるから必ずしも墓に石塔がなくてもいいし、逆に墓以外にも石塔をたくさん建ててもよいのであった。もちろん積善の行為は造塔だけでなく、仏事を修する、仏像を造立する、梵鐘を鋳造する、風呂を施す、罪人を解き放つといったことも積善と見なされていた。また生前に自らの供養をする逆修供養の事例が紹介されているが、文明3年(1471年)の例で、初七日や一周忌、十三回忌までを圧縮した日程で実施しているものがあり、逆修供養で生前に葬式の全課程を終えておく場合があったことを初めて知った。
「第4 中世における葬送・墓制の諸相」では、足利将軍家、僧侶、女性の葬儀について検証される。かつては仏式というだけで特に何宗ということのなかった葬儀が、14世紀、室町時代になると何宗という分化が生じ、時宗の影響を受けた禅宗の葬儀が盛行するようになる。また葬儀の執行が相続の正統性を示すものと受け止められるものとなったという。
「第5 色々な墓」では、文字通り墓にまつわるいろいろな話を列挙している。中でも葬送や石塔の費用について分析した部分が面白い。貴族の葬式では大変な出費があり、例えば母の追善供養のためにその領地を売却した例も紹介されている。なおその中で石塔の造立にかかるコストは比較的小さく、数多くの仏事を修するのが費用のメインである。とにかく葬式を正式に修すると大金がかかったので、逆修供養とは葬式の簡略化によるコスト削減でもあったのかもしれないと思った。
「第6 中世的墳墓の形成と実態」では、14世紀頃から葬送と石塔の造立がセットになっていったことが推測され、それには禅宗が積極的に関与したことが示唆されている。また墓が寺に営まれるようになったことが簡単に指摘されているが、これはさらに詳しく過程を知りたいところである。さらに悉皆調査が行われている埼玉県の板碑についての統計的な分析が行われ、墓の変遷がデータで述べられている。このデータは非常に示唆的で興味を引く。
全体的に葬儀の事例を列挙していく感じの内容であり、普通には退屈な本であるかもしれないが、中世の葬儀への興味を持って読むとどの項目も興味深く、意外と退屈せずに読んだ。ただし、事例の列挙であるためにあまり分析や考察はなされていない。一つひとつの事例についてもう少し突っ込んだ考察が欲しかった。また、副題が「石塔を造立すること」であるにもかかわらず、石塔そのものについての話(どのように制作されたのか、どのような形式の石塔があったのかなど)がほとんどないのは残念だった。
葬儀事例を数多く紹介することで中世の葬送を知る真面目な本。
【関連書籍】
『死者たちの中世』勝田 至 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_9.html
中世、多くの死者が墓地に葬られるようになる背景を説き明かす本。
思想面は手薄だが、中世の葬送観について総合的に理解できる良書。
『寺社勢力の中世—無縁・有縁・移民』伊藤 正敏 著
中世の寺社勢力の姿を、様々な事例から解き明かす本。
中世において、寺社は幕府からも朝廷からも独立した存在であった。それを象徴するのは、寺社が「検断権」を持っていたということである。これは今の検察・警察権にあたる。たとえ謀反人であったとしても、寺社の境内に逃げ込めば幕府も朝廷も捜査はできなかった。あくまで、謀反人の捜査を寺社に「依頼」することしかできなかった。だから頼朝から追討された義経は比叡山に逃げ込んだ。比叡山に逃げ込めば、積極的な保護を受けられるかどうかは別として、直ちに幕府や朝廷に引き渡されることはなかったのである。
それは、百姓でも、悪党でも同じであった。俗世で行き詰まった人々は寺社を頼ってきた。少なくともそこでは俗世の階級やしがらみは断ち切ったことになっていた。実際には、寺社の中には貴族・武士階級を出自に持つ学侶と、百姓階級の行人・堂衆があり、僧侶としての身分は世襲されていたのであるが、建前としては寺社の境内では俗世をどう過ごしてきたかは不問にされた。これを著者は寺社の「無縁性」と呼ぶ。中世では、寺社は俗世の縁(有縁)を絶ちきり、しがらみのない状態(無縁)になれる唯一の場所であった。
そうして寺社にやってきた人々も、寺社の中で無為徒食できるわけではなかった。彼らは幕府や朝廷から距離を置くことはできたが、逆に言えば朝幕が用意していた社会システムから離れて生活の糧を得る必要があった。彼らは今で言えば「移民」であった。ある人は職人となり、ある人は商人となり、またある人は金融業を営んだ。こうした人々の生きるためのエネルギーによって寺社は最新技術を有し、中世の経済の中心となった。例えば根来寺(真義真言宗)では、武器製造が盛んだった。根来寺は高度な鍛冶技術を有し、鉄砲の三大生産地のひとつであった(他の2つは堺・近江国友)。
故郷を離れ、経済活動に勤しむ「個人」が集積していたところ、しかも国家と別の警察権を持ち、国家から半独立していたところ、それが寺社であった。著者はそうした寺社の様相を「境内都市」という用語で読み解く。中世末期、高野山には7千坊もの子院があったというが、これは宗教施設の集合ではなく、むしろ都市そのものだと考えた方がいいというのである。中世は農業中心の経済ではなく、多くの境内都市(=寺社)が活躍した都市経済の時代であった。
そして中世の京都は、事実都でもあったのだが、それ以上に叡山の門前町という性格が強かった。感神院祇園社は元は興福寺末寺であったが延暦寺(比叡山)が強奪し、祇園社を通じて比叡山は京都の経済を牛耳った。延暦寺の僧侶は、比叡山ではなく京都に住んでいたのである。
朝幕の勢力が、寺社勢力に対して無力だったわけではない。しかし朝廷と寺社勢力が争う場合、常に朝廷の腰は引けていた。神罰・仏罰を恐れたためだ。嗷訴(ごうそ)を行う場合、比叡山の僧侶は日吉社の神輿を持ち出した(神輿動座(しんよどうざ))。神の乗り物である神輿を置き去りにし、神意によって主張を通そうとしたのである。しかし「僧侶」が「神輿」を持ち出すというのが面白い。この頃、仏教と神道は、教義においてはもちろんアイテム的な面でも区別されていなかった。
本書はこうした寺社勢力の特質を、当時の文書(もんじょ)に現れる事例から読み解いている。鎌倉幕府の行政記録はほとんど残っていないし、当時の朝廷の様子も貴族の日記によって窺い知れるのみであるが、寺社の場合かなり寺としての記録が残っている上、貴族の日記にも頻繁に寺社とのもめ事が記述されているため、寺社の動向はこの時代の一次資料によってかなり解明できるんだそうである。
しかし、多くの事例から読み解くというスタイルであるため、本書はあまり体系的ではなく、時系列的でもないためややわかりにくい。さらに、著者はいわゆる「名物教授風」というか、かなりアクの強い書き方をしているため、文体の好みは分かれそうである(私自身はちょっと苦手だった)。
また「無縁性」を大きなキーワードとして寺社勢力の特質を読み解き、寺社に流入する人々を「移民」と捉える視点は面白いが、実際には寺社の中も世襲の僧侶たちによって相続されていたという事実と若干接続しない部分がある。ある面では寺社は「無縁所」であったし、移民が金持ちになれるアメリカン・ドリームな世界であったのは事実である。しかし「無縁」はあくまで寺社勢力の中の一部(特に行人・堂衆と呼ばれた人たち)の成立背景に過ぎず、「無縁」を以て寺社勢力全体を読み解くには無理があるような気がした。
ややアクの強い論ではあるが、「境内都市」という概念で寺社勢力の特質を繙いていく独特な本。
【関連書籍】
『寺社勢力—もう一つの中世社会』黒田 俊雄 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/09/blog-post_13.html
中世における寺社勢力の勃興と衰退を述べる。
中世の申し子とも言える寺社勢力を通じて当時の社会の内実を考えさせる良書。
中世において、寺社は幕府からも朝廷からも独立した存在であった。それを象徴するのは、寺社が「検断権」を持っていたということである。これは今の検察・警察権にあたる。たとえ謀反人であったとしても、寺社の境内に逃げ込めば幕府も朝廷も捜査はできなかった。あくまで、謀反人の捜査を寺社に「依頼」することしかできなかった。だから頼朝から追討された義経は比叡山に逃げ込んだ。比叡山に逃げ込めば、積極的な保護を受けられるかどうかは別として、直ちに幕府や朝廷に引き渡されることはなかったのである。
それは、百姓でも、悪党でも同じであった。俗世で行き詰まった人々は寺社を頼ってきた。少なくともそこでは俗世の階級やしがらみは断ち切ったことになっていた。実際には、寺社の中には貴族・武士階級を出自に持つ学侶と、百姓階級の行人・堂衆があり、僧侶としての身分は世襲されていたのであるが、建前としては寺社の境内では俗世をどう過ごしてきたかは不問にされた。これを著者は寺社の「無縁性」と呼ぶ。中世では、寺社は俗世の縁(有縁)を絶ちきり、しがらみのない状態(無縁)になれる唯一の場所であった。
そうして寺社にやってきた人々も、寺社の中で無為徒食できるわけではなかった。彼らは幕府や朝廷から距離を置くことはできたが、逆に言えば朝幕が用意していた社会システムから離れて生活の糧を得る必要があった。彼らは今で言えば「移民」であった。ある人は職人となり、ある人は商人となり、またある人は金融業を営んだ。こうした人々の生きるためのエネルギーによって寺社は最新技術を有し、中世の経済の中心となった。例えば根来寺(真義真言宗)では、武器製造が盛んだった。根来寺は高度な鍛冶技術を有し、鉄砲の三大生産地のひとつであった(他の2つは堺・近江国友)。
故郷を離れ、経済活動に勤しむ「個人」が集積していたところ、しかも国家と別の警察権を持ち、国家から半独立していたところ、それが寺社であった。著者はそうした寺社の様相を「境内都市」という用語で読み解く。中世末期、高野山には7千坊もの子院があったというが、これは宗教施設の集合ではなく、むしろ都市そのものだと考えた方がいいというのである。中世は農業中心の経済ではなく、多くの境内都市(=寺社)が活躍した都市経済の時代であった。
そして中世の京都は、事実都でもあったのだが、それ以上に叡山の門前町という性格が強かった。感神院祇園社は元は興福寺末寺であったが延暦寺(比叡山)が強奪し、祇園社を通じて比叡山は京都の経済を牛耳った。延暦寺の僧侶は、比叡山ではなく京都に住んでいたのである。
朝幕の勢力が、寺社勢力に対して無力だったわけではない。しかし朝廷と寺社勢力が争う場合、常に朝廷の腰は引けていた。神罰・仏罰を恐れたためだ。嗷訴(ごうそ)を行う場合、比叡山の僧侶は日吉社の神輿を持ち出した(神輿動座(しんよどうざ))。神の乗り物である神輿を置き去りにし、神意によって主張を通そうとしたのである。しかし「僧侶」が「神輿」を持ち出すというのが面白い。この頃、仏教と神道は、教義においてはもちろんアイテム的な面でも区別されていなかった。
本書はこうした寺社勢力の特質を、当時の文書(もんじょ)に現れる事例から読み解いている。鎌倉幕府の行政記録はほとんど残っていないし、当時の朝廷の様子も貴族の日記によって窺い知れるのみであるが、寺社の場合かなり寺としての記録が残っている上、貴族の日記にも頻繁に寺社とのもめ事が記述されているため、寺社の動向はこの時代の一次資料によってかなり解明できるんだそうである。
しかし、多くの事例から読み解くというスタイルであるため、本書はあまり体系的ではなく、時系列的でもないためややわかりにくい。さらに、著者はいわゆる「名物教授風」というか、かなりアクの強い書き方をしているため、文体の好みは分かれそうである(私自身はちょっと苦手だった)。
また「無縁性」を大きなキーワードとして寺社勢力の特質を読み解き、寺社に流入する人々を「移民」と捉える視点は面白いが、実際には寺社の中も世襲の僧侶たちによって相続されていたという事実と若干接続しない部分がある。ある面では寺社は「無縁所」であったし、移民が金持ちになれるアメリカン・ドリームな世界であったのは事実である。しかし「無縁」はあくまで寺社勢力の中の一部(特に行人・堂衆と呼ばれた人たち)の成立背景に過ぎず、「無縁」を以て寺社勢力全体を読み解くには無理があるような気がした。
ややアクの強い論ではあるが、「境内都市」という概念で寺社勢力の特質を繙いていく独特な本。
【関連書籍】
『寺社勢力—もう一つの中世社会』黒田 俊雄 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/09/blog-post_13.html
中世における寺社勢力の勃興と衰退を述べる。
中世の申し子とも言える寺社勢力を通じて当時の社会の内実を考えさせる良書。
2019年9月13日金曜日
『寺社勢力—もう一つの中世社会』黒田 俊雄 著
中世における寺社勢力の勃興と衰退を述べる。
本書の副題は「もう一つの中世社会」である。寺社は、天皇を中心とする公家、将軍を中心とする武家と並ぶ、中世社会におけるもう一つの権門であった。しかしその実態は、天皇や将軍のような中心がないからつかみどころがなく、また一般にもその存在が浸透していない。本書はこの謎の第三勢力・寺社勢力の中世史について述べるものである。
寺社、特に仏教寺院については、飛鳥や奈良の頃から現代にまで連綿と続いているように思うのであるが、現代の諸宗派が整備されたのは江戸時代で、それも廃仏毀釈による破壊・改変から復興したものであり、中世のそれとはだいぶ違っている。仏教寺院の多くは、中世の始まりとともに非常なる隆盛を見せ、そして中世の終わりとともに衰微していった。今に残る寺社と、中世における寺社は全く別のものであった。
それを象徴するのは「僧兵」の存在かもしれない。今の宗教の在り方からすると、寺院が兵力を持つということはあってはならぬことのように思える。しかし当時は、「僧兵」という言葉すらなく、僧侶であれひとたびことが起これば武器を持ち戦うことは当然とされていた。「僧兵」とは、寺院が兵士を雇っていたということではないのである。
では寺院は宗教的に堕落していたのか、というとそうとも言い切れない。南都六宗は国家の後ろ盾を失って荒廃していたし(東大寺と興福寺を除く)、仲間内で争いごとばかりする不届きな僧侶はいた。しかし同時に中世——特に鎌倉時代——は宗教的には確かに高潮期であり、今に繋がる主要な宗派の高僧が矢継ぎ早に出現したのである。即ち寺院は、高僧から悪党まで、様々な人間が犇めいた世界であった。公家や武家と、同じように。
当時の寺院を今の社会で譬えてみれば、宗教法人というよりは、大学と企業が一体になったような存在だと言うことができる。寺院は高徳な学僧を有した一方で、広大な荘園を経営してもいた。寺院の中の身分としては、リーダー格(別当・座主・検校など)、執行部(三綱——上座・時主・都維那(ついな))に続いて、哲理を究明する学侶(学衆・学生(がくしょう))、修行を行う行人(ぎょうにん)(行者・禅衆)の他に、僧に仕える身分である堂衆(どうしゅ)・夏衆(げしゅ)・花摘(はなつみ)などと呼ばれた者もたくさん在籍していた。これら様々な身分・階層のものがいたが、しかし建前からいえば、僧伽(僧侶の集団)は和合の精神で運営されており、寺院の中でこれらは同じ「大衆(だいしゅ)」を構成し、ある種の平等的な連帯集団を形作り自治を行っていた。
その具体的装置が「大衆僉議(だいしゅせんぎ)」である。これは、大衆——大寺院ともなれば何千人という規模になる——が一堂に会し、破れた袈裟で頭を裹(つつ)み、誰が誰ともわからない匿名の状況で集団討議と議決を行うものである。10世紀ごろのことだ。権力者が専断して憚らなかった時代に、匿名による討議と多数決による議決によって寺院としての決定を行っていたということは、やはり高く評価されなければならない。世俗とは違う論理によって経営がなされていたということが、寺社勢力の勃興に一役買っていたのだろう。
だが寺社が権門として力を持ってくると、いきおい公家との関係が深まってきた。大衆たちは自らの権威を飾るためにも、貴種を戴くことを当然と考えた。こうして、寺院の中に「門跡」ができるようになった。「門跡(もんぜき)」とは、皇族や摂関家のみに相続を許された寺院内の子院であって、例えば延暦寺における青蓮院(しょうれんいん)、興福寺における一乗院や大乗院といったものがそれに当たる。寺院は、貴族にとって公家社会とは別の居場所として機能するようになった。
12〜13世紀になると、門跡の下に大衆が組み込まれ、匿名平等だったはずの寺院が、門跡という特権階級の下に再組織化されていった。それは門跡だけでなく、寺院内の子院においても規模は違えど同様のことが起こったのである。先ほどの譬えを使うなら、当初は大学全体の自治が教授会によって行われていたが、大学が一部の特権的経営者によって独裁されたことで、研究室ごとの独立性が高まって大学全体の連帯意識が薄くなり、小組織へと分裂していったというようにいえるかもしれない。
このようにして寺院社会は内部から瓦解し、僧たちは武力と銭を蓄える方向へと走っていく。それは寺院勢力の強大な力を示す最後の仇花となり、寺院は繁栄を享受したが、世俗の論理に覆い尽くされた寺院に社会的存在価値はもはやなかった。織田信長・豊臣秀吉の全国統一が始まった時、寺社勢力は最終の没落を迎え、織田信長の比叡山焼き討ちに象徴されるように、新しい時代の権力者によって中世的な寺社勢力は滅亡したのである。
ところで私が本書を手にした興味は2つあった。第1に、寺社が広大な荘園を有したのはなぜかということ。特に寺社は広大な皇室領を持っていたが、なぜ天皇は寺社に荘園を寄進したのか。第2に、天皇をはじめ執権北条氏、室町幕府の足利氏など、時の最高権力者の多くが出家し法体となっているがこれはなぜなのかということ、である。
第1の点に関し、本書では寺院への寄進を「「王家」の(中略)荘園を確保し拡大する方途でもあった」としているが、なぜそうなのか詳しくは書かれていない。
中世、天皇家は広大な荘園を寺院に寄進している。有名なのは、安楽寿院・蓮華王院・長講堂・最勝光院といったものがある。これらは王家の御願寺、菩提寺、持仏堂などに荘園群を寄進し、事実上の王領(皇室領)でありながら、形式的に寺院の荘園としたものである。例えば「長講堂」というのは、後白河法皇の持仏堂であった「法華長講弥陀三昧堂」のことであるが、法皇がこの長講堂に多くの荘園を寄進しておいたのが「長講堂領」という荘園群のことである。鎌倉初期には長講堂領は180箇所の荘園によって構成されていたというが、形式的にはこれらは長講堂という持仏堂が所有しているものの、その長講堂が後白河法皇の所有であったのだから、結局王領なのである。
しかしなぜ後白河法皇は、わざわざ自分の所有地を長講堂という持仏堂の荘園としたのだろうか。長講堂なる持仏堂が天皇以上の権威を持っていたとも思えず、寄進によって荘園の私有が権威付けられたとも思えないのである。本書にその答えは書かれていないが、本書を読みながら私が思ったのは、その裏に相続の事情があったからなのではないか、ということである。
というのは、当時、日本の相続は分割相続がメインである。5人子どもがいれば、土地は(等分かどうかはともかく)5人に分割相続される。しかも女子にも相続権はほぼ同様にある(実際、長講堂領は後白河法皇の娘に相続された)。となると財産は代を進むごとに分割されていってしまう。それを避ける手段が、荘園の寺院への寄進だったのではないか。先ほど述べたように、寺院は門跡と門流の細分化によって相続関係は複雑となっていくが、少なくとも「大衆僉議」が機能していた頃はいわば「法人的」であったし、それでないにしても法統の関係は一括相続的であった。寺院に寄進した荘園は分割されることなく相続されていくものだったのである。それが、皇室直属の荘園との違いであった。分割不能なものとして土地を相続していく手段が寺院への寄進ではなかったのか。
そしてもしかしたら、寺院興隆には、寺院が「法人的」であったことが一役買っていたのかもしれない。中世の社会は「家」を重視してはいたが、実際には個人で活動している意味合いが強かった。そんな中で寺院は「法人的」な安定した存在であった。しかも匿名平等な多数決によって運営されていたから、経営者の交替によって方針が大きく変わるということもそれほどなかったのだろう。その安定性が、財産の維持に利用されたのかもしれない。
さらに寺院は、荘園経営事務に長けているということもあった。寺院は大学のようなものであったから、高度な事務作業ができたのだと思われる。荘園経営というのは、各地の荘園への課税を産出し、布達し、回収し、不達の場合は督促し、問題点があれば改善し…といったようなことが必要になるわけだが、荘園の数が多くなればこの事務は厖大かつ煩瑣なものとなっていく。荘園を寺院に寄進することで、荘園事務に長けた寺院にこれらの作業を丸投げすることができれば、仮に寺院に幾ばくかの分け前を割かなければならないとしても、結果的には安くついたのではないだろうか。荘園事務の「外注」のため、天皇家だけでなく多くの名家が寺院に荘園を寄進したのではないかと思う。
第2の点に関しては、本書にはあまり記載がなかった。足利義満が出家したのは、「ことごとに法皇に準じて威儀を示した(p.191)」ことがその背景にあり、「もはや武家であることをやめて院政を行う法皇の地位についたのである(同)」としているが、これは義満についてはそう言えるとしても、彼に先行する幾多の権力者が出家している以上、より構造的な原因を探る必要があると思った。
中世の申し子とも言える寺社勢力を通じて当時の社会の内実を考えさせる良書。
【関連書籍】
『日本の歴史 (8) 蒙古襲来』黒田 俊雄 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/09/8.html
蒙古襲来からの鎌倉幕府の滅亡までを描く。
長講堂領や安楽寿院領(八条院領)がたどった波瀾の運命が描かれている。
本書の副題は「もう一つの中世社会」である。寺社は、天皇を中心とする公家、将軍を中心とする武家と並ぶ、中世社会におけるもう一つの権門であった。しかしその実態は、天皇や将軍のような中心がないからつかみどころがなく、また一般にもその存在が浸透していない。本書はこの謎の第三勢力・寺社勢力の中世史について述べるものである。
寺社、特に仏教寺院については、飛鳥や奈良の頃から現代にまで連綿と続いているように思うのであるが、現代の諸宗派が整備されたのは江戸時代で、それも廃仏毀釈による破壊・改変から復興したものであり、中世のそれとはだいぶ違っている。仏教寺院の多くは、中世の始まりとともに非常なる隆盛を見せ、そして中世の終わりとともに衰微していった。今に残る寺社と、中世における寺社は全く別のものであった。
それを象徴するのは「僧兵」の存在かもしれない。今の宗教の在り方からすると、寺院が兵力を持つということはあってはならぬことのように思える。しかし当時は、「僧兵」という言葉すらなく、僧侶であれひとたびことが起これば武器を持ち戦うことは当然とされていた。「僧兵」とは、寺院が兵士を雇っていたということではないのである。
では寺院は宗教的に堕落していたのか、というとそうとも言い切れない。南都六宗は国家の後ろ盾を失って荒廃していたし(東大寺と興福寺を除く)、仲間内で争いごとばかりする不届きな僧侶はいた。しかし同時に中世——特に鎌倉時代——は宗教的には確かに高潮期であり、今に繋がる主要な宗派の高僧が矢継ぎ早に出現したのである。即ち寺院は、高僧から悪党まで、様々な人間が犇めいた世界であった。公家や武家と、同じように。
当時の寺院を今の社会で譬えてみれば、宗教法人というよりは、大学と企業が一体になったような存在だと言うことができる。寺院は高徳な学僧を有した一方で、広大な荘園を経営してもいた。寺院の中の身分としては、リーダー格(別当・座主・検校など)、執行部(三綱——上座・時主・都維那(ついな))に続いて、哲理を究明する学侶(学衆・学生(がくしょう))、修行を行う行人(ぎょうにん)(行者・禅衆)の他に、僧に仕える身分である堂衆(どうしゅ)・夏衆(げしゅ)・花摘(はなつみ)などと呼ばれた者もたくさん在籍していた。これら様々な身分・階層のものがいたが、しかし建前からいえば、僧伽(僧侶の集団)は和合の精神で運営されており、寺院の中でこれらは同じ「大衆(だいしゅ)」を構成し、ある種の平等的な連帯集団を形作り自治を行っていた。
その具体的装置が「大衆僉議(だいしゅせんぎ)」である。これは、大衆——大寺院ともなれば何千人という規模になる——が一堂に会し、破れた袈裟で頭を裹(つつ)み、誰が誰ともわからない匿名の状況で集団討議と議決を行うものである。10世紀ごろのことだ。権力者が専断して憚らなかった時代に、匿名による討議と多数決による議決によって寺院としての決定を行っていたということは、やはり高く評価されなければならない。世俗とは違う論理によって経営がなされていたということが、寺社勢力の勃興に一役買っていたのだろう。
だが寺社が権門として力を持ってくると、いきおい公家との関係が深まってきた。大衆たちは自らの権威を飾るためにも、貴種を戴くことを当然と考えた。こうして、寺院の中に「門跡」ができるようになった。「門跡(もんぜき)」とは、皇族や摂関家のみに相続を許された寺院内の子院であって、例えば延暦寺における青蓮院(しょうれんいん)、興福寺における一乗院や大乗院といったものがそれに当たる。寺院は、貴族にとって公家社会とは別の居場所として機能するようになった。
12〜13世紀になると、門跡の下に大衆が組み込まれ、匿名平等だったはずの寺院が、門跡という特権階級の下に再組織化されていった。それは門跡だけでなく、寺院内の子院においても規模は違えど同様のことが起こったのである。先ほどの譬えを使うなら、当初は大学全体の自治が教授会によって行われていたが、大学が一部の特権的経営者によって独裁されたことで、研究室ごとの独立性が高まって大学全体の連帯意識が薄くなり、小組織へと分裂していったというようにいえるかもしれない。
このようにして寺院社会は内部から瓦解し、僧たちは武力と銭を蓄える方向へと走っていく。それは寺院勢力の強大な力を示す最後の仇花となり、寺院は繁栄を享受したが、世俗の論理に覆い尽くされた寺院に社会的存在価値はもはやなかった。織田信長・豊臣秀吉の全国統一が始まった時、寺社勢力は最終の没落を迎え、織田信長の比叡山焼き討ちに象徴されるように、新しい時代の権力者によって中世的な寺社勢力は滅亡したのである。
ところで私が本書を手にした興味は2つあった。第1に、寺社が広大な荘園を有したのはなぜかということ。特に寺社は広大な皇室領を持っていたが、なぜ天皇は寺社に荘園を寄進したのか。第2に、天皇をはじめ執権北条氏、室町幕府の足利氏など、時の最高権力者の多くが出家し法体となっているがこれはなぜなのかということ、である。
第1の点に関し、本書では寺院への寄進を「「王家」の(中略)荘園を確保し拡大する方途でもあった」としているが、なぜそうなのか詳しくは書かれていない。
中世、天皇家は広大な荘園を寺院に寄進している。有名なのは、安楽寿院・蓮華王院・長講堂・最勝光院といったものがある。これらは王家の御願寺、菩提寺、持仏堂などに荘園群を寄進し、事実上の王領(皇室領)でありながら、形式的に寺院の荘園としたものである。例えば「長講堂」というのは、後白河法皇の持仏堂であった「法華長講弥陀三昧堂」のことであるが、法皇がこの長講堂に多くの荘園を寄進しておいたのが「長講堂領」という荘園群のことである。鎌倉初期には長講堂領は180箇所の荘園によって構成されていたというが、形式的にはこれらは長講堂という持仏堂が所有しているものの、その長講堂が後白河法皇の所有であったのだから、結局王領なのである。
しかしなぜ後白河法皇は、わざわざ自分の所有地を長講堂という持仏堂の荘園としたのだろうか。長講堂なる持仏堂が天皇以上の権威を持っていたとも思えず、寄進によって荘園の私有が権威付けられたとも思えないのである。本書にその答えは書かれていないが、本書を読みながら私が思ったのは、その裏に相続の事情があったからなのではないか、ということである。
というのは、当時、日本の相続は分割相続がメインである。5人子どもがいれば、土地は(等分かどうかはともかく)5人に分割相続される。しかも女子にも相続権はほぼ同様にある(実際、長講堂領は後白河法皇の娘に相続された)。となると財産は代を進むごとに分割されていってしまう。それを避ける手段が、荘園の寺院への寄進だったのではないか。先ほど述べたように、寺院は門跡と門流の細分化によって相続関係は複雑となっていくが、少なくとも「大衆僉議」が機能していた頃はいわば「法人的」であったし、それでないにしても法統の関係は一括相続的であった。寺院に寄進した荘園は分割されることなく相続されていくものだったのである。それが、皇室直属の荘園との違いであった。分割不能なものとして土地を相続していく手段が寺院への寄進ではなかったのか。
そしてもしかしたら、寺院興隆には、寺院が「法人的」であったことが一役買っていたのかもしれない。中世の社会は「家」を重視してはいたが、実際には個人で活動している意味合いが強かった。そんな中で寺院は「法人的」な安定した存在であった。しかも匿名平等な多数決によって運営されていたから、経営者の交替によって方針が大きく変わるということもそれほどなかったのだろう。その安定性が、財産の維持に利用されたのかもしれない。
さらに寺院は、荘園経営事務に長けているということもあった。寺院は大学のようなものであったから、高度な事務作業ができたのだと思われる。荘園経営というのは、各地の荘園への課税を産出し、布達し、回収し、不達の場合は督促し、問題点があれば改善し…といったようなことが必要になるわけだが、荘園の数が多くなればこの事務は厖大かつ煩瑣なものとなっていく。荘園を寺院に寄進することで、荘園事務に長けた寺院にこれらの作業を丸投げすることができれば、仮に寺院に幾ばくかの分け前を割かなければならないとしても、結果的には安くついたのではないだろうか。荘園事務の「外注」のため、天皇家だけでなく多くの名家が寺院に荘園を寄進したのではないかと思う。
第2の点に関しては、本書にはあまり記載がなかった。足利義満が出家したのは、「ことごとに法皇に準じて威儀を示した(p.191)」ことがその背景にあり、「もはや武家であることをやめて院政を行う法皇の地位についたのである(同)」としているが、これは義満についてはそう言えるとしても、彼に先行する幾多の権力者が出家している以上、より構造的な原因を探る必要があると思った。
中世の申し子とも言える寺社勢力を通じて当時の社会の内実を考えさせる良書。
【関連書籍】
『日本の歴史 (8) 蒙古襲来』黒田 俊雄 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/09/8.html
蒙古襲来からの鎌倉幕府の滅亡までを描く。
長講堂領や安楽寿院領(八条院領)がたどった波瀾の運命が描かれている。
2019年9月7日土曜日
『鎌倉武士の実像―合戦と暮しのおきて』石井 進 著
鎌倉武士の実態を様々な側面から描く本。
本書は、石井 進氏の論文集でありⅠ〜Ⅳの4部構成となっている。
Ⅰでは中世成立期の軍政や、鎌倉幕府成立の通史、相武地方の武士団の成長が述べられる。特に相武地方について取り上げられているのは、当該論文が元々「神奈川県史」の一節であったためで、ややローカルな部分もあるが鎌倉幕府のお膝元であった相武地方の様相が分かるのは興味深い。
Ⅱでは、武士の生活が農業経営の観点から取り上げられる。中世の村落はまず山裾の迫の部分から開発されたが、やがて新しい豪族が入ってくるとその下流の平野の開発が進み、豪族の館も平野部に建てられるようになる。山裾の部分の水田を開発するのは容易であるが、平地に水田を広げていくのはより進んだ水利技術を必要とする。新しい開発領主たちはそういう技術を持っていたのではと簡単に書いてあるが、仮にそうだとしてその技術をどこで手に入れたのか興味が湧いた。
Ⅲでは『蒙古襲来絵詞』と竹崎季長、霜月騒動、金沢文庫と『吾妻鏡』、鎌倉の道についてなど、関連しつつも雑多な論文が収録されている。
Ⅳでは、改めて「中世武士とは何か」という問を立て、短いながら啓発されるところの多い考察が行われている。 武士にとって、「名字の地」(本拠地)を持つことと共に、「祖先」を持つことが必須の条件であったと強調されているが、これについては改めて考えてみたいところである。現代の感覚からすれば本拠地(農業経営)と武力さえあれば武士といえそうなものであるが、なぜ彼らは「先祖」すなわち立派な家系図を持つことが重要だと考えたのだろうか。
鎌倉近郊の武士の実像を考える上で参考になるところが多い本。
【関連書籍】
『日本の歴史 (7) 鎌倉幕府』石井 進 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/09/7.html
鎌倉幕府成立の意義がよくわかる良書。
本書は、石井 進氏の論文集でありⅠ〜Ⅳの4部構成となっている。
Ⅰでは中世成立期の軍政や、鎌倉幕府成立の通史、相武地方の武士団の成長が述べられる。特に相武地方について取り上げられているのは、当該論文が元々「神奈川県史」の一節であったためで、ややローカルな部分もあるが鎌倉幕府のお膝元であった相武地方の様相が分かるのは興味深い。
Ⅱでは、武士の生活が農業経営の観点から取り上げられる。中世の村落はまず山裾の迫の部分から開発されたが、やがて新しい豪族が入ってくるとその下流の平野の開発が進み、豪族の館も平野部に建てられるようになる。山裾の部分の水田を開発するのは容易であるが、平地に水田を広げていくのはより進んだ水利技術を必要とする。新しい開発領主たちはそういう技術を持っていたのではと簡単に書いてあるが、仮にそうだとしてその技術をどこで手に入れたのか興味が湧いた。
Ⅲでは『蒙古襲来絵詞』と竹崎季長、霜月騒動、金沢文庫と『吾妻鏡』、鎌倉の道についてなど、関連しつつも雑多な論文が収録されている。
Ⅳでは、改めて「中世武士とは何か」という問を立て、短いながら啓発されるところの多い考察が行われている。 武士にとって、「名字の地」(本拠地)を持つことと共に、「祖先」を持つことが必須の条件であったと強調されているが、これについては改めて考えてみたいところである。現代の感覚からすれば本拠地(農業経営)と武力さえあれば武士といえそうなものであるが、なぜ彼らは「先祖」すなわち立派な家系図を持つことが重要だと考えたのだろうか。
鎌倉近郊の武士の実像を考える上で参考になるところが多い本。
【関連書籍】
『日本の歴史 (7) 鎌倉幕府』石井 進 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/09/7.html
鎌倉幕府成立の意義がよくわかる良書。
2019年9月6日金曜日
『日本の歴史 (7) 鎌倉幕府』石井 進 著
鎌倉幕府の誕生を描く。
源頼朝は貴顕の生まれであり、武家の棟梁にふさわしい家柄ではあったが、現実には大きな武力も後ろ盾も持っていなかった。だが平氏に戦いを挑み惨敗した「石橋山敗戦」からたった40日で、不可解にも関東の大豪族千葉介、上総氏などが味方につき、一気に鎌倉に新政権を打ち立てるのである。
頼朝は、天才的な政治才覚と読みの深さ、外交的バランスに恵まれ、カリスマ的な存在となった。彼は武士社会が抱えていた2つの課題を解決し、それによって広範な支持を得た。その2つとは、土地所有と訴訟である。
平安末期、かつての公地公民制が瓦解して荘園制へと進んだが、これは場当たり的な土地所有制であったために、その制度は複雑怪奇でしかも不確かなものであった。例えば、自らが開発(開墾)した土地の所有を確実なものとするため、土地の権威者に寄進をし、自身はその現地管理者として収まるといったことが多かったが、その権威者はさらに上位の権威者(例えば大寺院)に寄進するといったことが繰り返された。こうして権利関係が網の目のように張り巡らされ、その結果として土地所有は何重に承認された。しかし現代のように法務局があってそこに登記された、というような確実なものではない。「悔返し」と言って、譲渡したはずの土地を取り戻す行為も多かった。そしてひとたび土地の所有者に疑義が起これば、関係者同士の水掛け論へ陥ってしまう危険性を孕んでいたのである。
だから開発領主たる東国武士にとっての大きな課題は、土地所有を確実なものとすることと、訴訟の際に公平公正な裁定を行うことであった。頼朝は、土地所有については頼朝自らが土地の所有権を認める(=所領安堵)という関係に一本化し、所領安堵した者を「御家人」とした。つまり「御家人」とは、単に頼朝の部下であるということではなく、土地を介した主従関係であった。そして訴訟については、全て頼朝の親裁とした上で公平で的確な裁定を下したのである。
頼朝は、土地や訴訟の問題を解決するだけでなく、関東の独立性の高い武士たちを巧妙に編成していった。そして社会の上部構造にほとんど手をつけることなくほぼ政治的手腕のみによってそれら武士の一団を国家の支配構造の中に組み込むことに成功した。頼朝は、いわば国家の執行機関(国衙)を合法的に乗っ取ったのである。その一例が、一種の徴税官である「地頭」であり、また警察・公安・軍事指揮者である「総追捕使」、後の「守護職」である。
しかし頼朝の政権は、頼朝のたぐいまれなカリスマ性に基づいていたし、その基本政策(土地の支配権の保護と公正な裁決)は2代目以降には引き継がれず、頼朝死後には混迷が訪れる。かつての重臣が次々と粛正され、将軍は形骸化、ついに3代将軍実朝は暗殺される。こうして幕府の実権は執権の北条家へと移っていった。それが確定したのが承久の乱である。
承久の乱の台風の目になったのは後鳥羽上皇であったが、それに呼応したのは将軍独裁時代に特権を教授していた重臣であった。この乱が平定されたことで、そうした特権層が解体され、「評定衆」という合議制機関に基づいた、代表としての執権・北条泰時を推戴する武家による武家のための政権が成立するのである。その到達点が「御成敗式目」の制定だ。「御成敗式目」は、律令のように立派であっても理念的な法規とは違い、極めて実践的かつ平易な、武家の生活実態に即した「道理」を表現した画期的なものであった。
そして現実にも泰時は道理を重んじ、強い者が勝つような不公平を廃して温情的な政治を行い、執権政治の黄金時代を作った。ところがこの合議制に基づく執権政治も、やがては得宗専制政治(独裁政治)へと変質してしまうのである。
本書ではこうした政治史の他、鎌倉文芸の到達点としての「平家物語」や貴族文化の革新、特に東大寺再建や慶派(運慶・快慶など)の活躍、鎌倉新仏教の対称的な実践者であった親鸞と道元についてなど文化史的な面についても筆を割いている。
ちなみに私が本書を手に取ったのは、「地頭や守護とはそもそも何か?」という疑問を抱いてのことだった。それについて本書はかなり丁寧に説明しているがその前提として「「守護地頭問題」…(については)…かつての古い通説的見解はもはやまったく色あせ、全面的な改訂を迫られるに至った。だが一方、学説の戦国時代ともいうべき状況のなかで、新しい統一的結論はまだ生みだされていない(p.174)」としており、暫定的な説明であると断っている。これについては最新の学説も確認したいところである。
鎌倉幕府成立の意義がよくわかる良書。
源頼朝は貴顕の生まれであり、武家の棟梁にふさわしい家柄ではあったが、現実には大きな武力も後ろ盾も持っていなかった。だが平氏に戦いを挑み惨敗した「石橋山敗戦」からたった40日で、不可解にも関東の大豪族千葉介、上総氏などが味方につき、一気に鎌倉に新政権を打ち立てるのである。
頼朝は、天才的な政治才覚と読みの深さ、外交的バランスに恵まれ、カリスマ的な存在となった。彼は武士社会が抱えていた2つの課題を解決し、それによって広範な支持を得た。その2つとは、土地所有と訴訟である。
平安末期、かつての公地公民制が瓦解して荘園制へと進んだが、これは場当たり的な土地所有制であったために、その制度は複雑怪奇でしかも不確かなものであった。例えば、自らが開発(開墾)した土地の所有を確実なものとするため、土地の権威者に寄進をし、自身はその現地管理者として収まるといったことが多かったが、その権威者はさらに上位の権威者(例えば大寺院)に寄進するといったことが繰り返された。こうして権利関係が網の目のように張り巡らされ、その結果として土地所有は何重に承認された。しかし現代のように法務局があってそこに登記された、というような確実なものではない。「悔返し」と言って、譲渡したはずの土地を取り戻す行為も多かった。そしてひとたび土地の所有者に疑義が起これば、関係者同士の水掛け論へ陥ってしまう危険性を孕んでいたのである。
だから開発領主たる東国武士にとっての大きな課題は、土地所有を確実なものとすることと、訴訟の際に公平公正な裁定を行うことであった。頼朝は、土地所有については頼朝自らが土地の所有権を認める(=所領安堵)という関係に一本化し、所領安堵した者を「御家人」とした。つまり「御家人」とは、単に頼朝の部下であるということではなく、土地を介した主従関係であった。そして訴訟については、全て頼朝の親裁とした上で公平で的確な裁定を下したのである。
頼朝は、土地や訴訟の問題を解決するだけでなく、関東の独立性の高い武士たちを巧妙に編成していった。そして社会の上部構造にほとんど手をつけることなくほぼ政治的手腕のみによってそれら武士の一団を国家の支配構造の中に組み込むことに成功した。頼朝は、いわば国家の執行機関(国衙)を合法的に乗っ取ったのである。その一例が、一種の徴税官である「地頭」であり、また警察・公安・軍事指揮者である「総追捕使」、後の「守護職」である。
しかし頼朝の政権は、頼朝のたぐいまれなカリスマ性に基づいていたし、その基本政策(土地の支配権の保護と公正な裁決)は2代目以降には引き継がれず、頼朝死後には混迷が訪れる。かつての重臣が次々と粛正され、将軍は形骸化、ついに3代将軍実朝は暗殺される。こうして幕府の実権は執権の北条家へと移っていった。それが確定したのが承久の乱である。
承久の乱の台風の目になったのは後鳥羽上皇であったが、それに呼応したのは将軍独裁時代に特権を教授していた重臣であった。この乱が平定されたことで、そうした特権層が解体され、「評定衆」という合議制機関に基づいた、代表としての執権・北条泰時を推戴する武家による武家のための政権が成立するのである。その到達点が「御成敗式目」の制定だ。「御成敗式目」は、律令のように立派であっても理念的な法規とは違い、極めて実践的かつ平易な、武家の生活実態に即した「道理」を表現した画期的なものであった。
そして現実にも泰時は道理を重んじ、強い者が勝つような不公平を廃して温情的な政治を行い、執権政治の黄金時代を作った。ところがこの合議制に基づく執権政治も、やがては得宗専制政治(独裁政治)へと変質してしまうのである。
本書ではこうした政治史の他、鎌倉文芸の到達点としての「平家物語」や貴族文化の革新、特に東大寺再建や慶派(運慶・快慶など)の活躍、鎌倉新仏教の対称的な実践者であった親鸞と道元についてなど文化史的な面についても筆を割いている。
ちなみに私が本書を手に取ったのは、「地頭や守護とはそもそも何か?」という疑問を抱いてのことだった。それについて本書はかなり丁寧に説明しているがその前提として「「守護地頭問題」…(については)…かつての古い通説的見解はもはやまったく色あせ、全面的な改訂を迫られるに至った。だが一方、学説の戦国時代ともいうべき状況のなかで、新しい統一的結論はまだ生みだされていない(p.174)」としており、暫定的な説明であると断っている。これについては最新の学説も確認したいところである。
鎌倉幕府成立の意義がよくわかる良書。
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