猫族の生活についてエッセイ風に述べた本。
本書は、原題”The Tribe of Tiger”(虎の一族)が示すとおり、猫だけでなく広く猫族について様々なエピソードを紹介し、その共通性や相違点について検討しつつ猫族の「生活原理」ともいうべきものを探るものだ。
その第一原理は、猫族はその栄養源を肉のみに負っているということだ。雑食性のクマやイヌと異なり、猫族は肉以外、しかも自ら(か親が)仕留めた獲物の肉以外を食べることはない。それは狩りがうまくいかなければすぐに飢餓状態に陥ってしまう「崖っ縁の生き物」であることを意味する。
そのため、猫族はライオンなどを除いて基本的に単独行動が多い。多くの仲間を維持するためには大量の肉が必要になるから、群れの維持が大変なのである。だから猫族は孤独を好む、気まぐれな動物と思われている。群れの紐帯を重視し調和と統制を好む犬と違って、猫は仲間や飼い主のことをあまり気にしていないと。
しかし著者によればそれは事実ではない。ただ、社会性や愛情の「流儀」が違うだけなのだ。実際、猫族は自らの縄張り内のことを大変気に掛けている。大型猫族(ライオンのような)は、獲物となる動物の群れの構成や弱った個体の有無を常に調べており、おそらく個体を識別している。 また猫族は仲間と無用な争いを避ける、友好を示しながら一定の距離を保つ手法を心得ている。犬のようにベタベタする必要はないから、淡泊だと誤解を受けているだけなのだ。
さらに猫族が肉だけを食料とするハンターだからといって、食べられそうなものをなんでも獲物と見なすわけではない。猫族にとって動物は3つのカテゴリに分けられそうだ。食べものか、敵か仲間か。それは先験的に決まっているのではなく、その動物が食べものとして振る舞うか、敵としか振る舞うか、それとも仲間として振る舞うか、という社会的なコードによるのである。
その一例が本書で最も感動的なエピソードである、ライオンと人間(ブッシュマン)との停戦協定だ。カラハリのライオンは、丸腰に近い人間でも襲わず、家畜も襲わなかった。一方、人間もライオンには敬意を持って接した。人間がライオンに要求を伝えたいときは(例えばそこをどいて欲しいとか)、ライオンに真摯にかつ毅然として語りかけた。こうした流儀は、ブッシュマンとライオンたちの間で何世代にもわたって培われてきた文化であった。人間が武器を持っているから従っていたのではなくて、お互いに敬意を払いながら距離を保つすべが形成されてきたのだ。
だから他の地方ではライオンと人間は敵対的であったし、カラハリでもブッシュマンがいなくなるとその流儀は短い間に廃れ、ライオンとの停戦協定は消えてしまった。ライオンの文化も、人間の文化と同じように儚いものだった。
著者は人類学者。その調査でアフリカに滞在する中でライオンに興味を持ち、また別にピューマや虎とも接する機会があって、さらに自らも猫を飼っていることで、広く猫族に関する話題を集めたのが本書である。であるから、本書はあまり学術的なものではなく、○○から聞いた話、というような体験談も多く楽しく読める。何かを解明するといった本ではなくて、猫族の生き方について再考を催すような本である。
猫族の社会性について考えさせる良書。
2019年1月7日月曜日
2019年1月2日水曜日
『バッハと時代精神(バッハ叢書 2)』フレート・ハーメル著、渡辺 健・杉浦 博 訳
バッハの生涯を思想面で辿る本。
本書は、一見バッハの伝記のような構成を持っている。しかし内容は伝記ではなく、バッハの伝記的知識を既知のものとして、その思想に影響を与えたに違いない当時の思潮や神学、思想的な時代の趨勢について述べる本である。
本書では、バッハが過ごした地域の有力者の思想的立場や同時代に影響を与えた神学書、哲学書といったものがこれでもかと紹介される。また、バッハの学歴や蔵書、その転職遍歴などからその精神面が推測され、それが創造に与えた影響が考察されている。こうした手法によってバッハの思想を物語るものであるから、本書は音楽史的著作であるにもかかわらず、具体的な作品についてはあまり語らない。
その生涯の思想的な歩みをまとめれば、次のようになるだろう。バッハはルター派正統主義の色が濃い地域に育ちそれを生涯護持したが、その遍歴時代には敬虔主義的な地域でも仕事をし、己の正統主義と敬虔主義とを妥協させなければならなかった。さらに晩年になると、啓蒙主義の波がバッハにも押し寄せた。キリスト教にも合理的精神でメスを入れる啓蒙主義とバッハの信仰とは相容れなかったため、バッハは啓蒙主義に立ち向かうべく最高の作品を残したのであった。
さらに本書によれば、バッハは若い頃に人生の目的を「整った教会音楽」を創るということに置き、その職歴・遍歴は全てこの目的を成就するための必然と見なしうるというのだが、それはちょっとありそうにもないことだ。また、本書では思想的な展開と人生の転機を相即不離な関係と見なす見解が多く、これは後付けの理屈という側面が強い。さらに本書はやや古いものであるため、今では否定されている伝説や伝記的に不正確な事実が用いられており、その点注意を要する。
しかしながら、バッハの思想、特にルター派の護持者としての面を考える時は、本書は必ず参照すべき本であると思う。バッハの伝記については不十分なところがあるとしても、このように当時の思想世界を詳細に明らかにした本は画期的であり、大変な労作である。バッハを取り囲む思潮を手軽に知れる本は本書以外ないだろう。
なお音楽ファンとしては、著者フレート・ハーメルは、ドイツ・グラモフォンの古楽レーベル「Archiv(アルヒーフ)」を立ち上げた人物として記憶に留めるべき存在である。
バッハを巡る思潮を丁寧に解きほぐした労作。
本書は、一見バッハの伝記のような構成を持っている。しかし内容は伝記ではなく、バッハの伝記的知識を既知のものとして、その思想に影響を与えたに違いない当時の思潮や神学、思想的な時代の趨勢について述べる本である。
本書では、バッハが過ごした地域の有力者の思想的立場や同時代に影響を与えた神学書、哲学書といったものがこれでもかと紹介される。また、バッハの学歴や蔵書、その転職遍歴などからその精神面が推測され、それが創造に与えた影響が考察されている。こうした手法によってバッハの思想を物語るものであるから、本書は音楽史的著作であるにもかかわらず、具体的な作品についてはあまり語らない。
その生涯の思想的な歩みをまとめれば、次のようになるだろう。バッハはルター派正統主義の色が濃い地域に育ちそれを生涯護持したが、その遍歴時代には敬虔主義的な地域でも仕事をし、己の正統主義と敬虔主義とを妥協させなければならなかった。さらに晩年になると、啓蒙主義の波がバッハにも押し寄せた。キリスト教にも合理的精神でメスを入れる啓蒙主義とバッハの信仰とは相容れなかったため、バッハは啓蒙主義に立ち向かうべく最高の作品を残したのであった。
さらに本書によれば、バッハは若い頃に人生の目的を「整った教会音楽」を創るということに置き、その職歴・遍歴は全てこの目的を成就するための必然と見なしうるというのだが、それはちょっとありそうにもないことだ。また、本書では思想的な展開と人生の転機を相即不離な関係と見なす見解が多く、これは後付けの理屈という側面が強い。さらに本書はやや古いものであるため、今では否定されている伝説や伝記的に不正確な事実が用いられており、その点注意を要する。
しかしながら、バッハの思想、特にルター派の護持者としての面を考える時は、本書は必ず参照すべき本であると思う。バッハの伝記については不十分なところがあるとしても、このように当時の思想世界を詳細に明らかにした本は画期的であり、大変な労作である。バッハを取り囲む思潮を手軽に知れる本は本書以外ないだろう。
なお音楽ファンとしては、著者フレート・ハーメルは、ドイツ・グラモフォンの古楽レーベル「Archiv(アルヒーフ)」を立ち上げた人物として記憶に留めるべき存在である。
バッハを巡る思潮を丁寧に解きほぐした労作。
『日本の古代文化』林屋 辰三郎 著
日本古代史を5つのテーマから語る本。
著者林屋辰三郎は、日本の中世史、特に芸能史の研究で有名であり、その著者が古代文化をどう見ていたのだろうと思い手に取ったのが本書である。
本書には、「杜」「前方後円墳」「伽藍」「国史」「都城」という5つのテーマに基づいて、行きつ戻りつしながら弥生時代後期から平安京遷都までの古代史が記述されている。
「杜」では、 農耕文化の基層としての杜が位置づけられると共に、「倭国大乱」の政治状況が分析される。
「前方後円墳」では、新たに成立した政治権力の象徴として古墳文化が振り返られ、また前方後円墳の形状が楯を模したものであるとする説を支持し、それが停戦の象徴であったと考察されている。またその画期として応神天皇に至る系譜が検討される。さらに、前方後円墳は次第に横穴式古墳へと遷移していくが、その背景として死後の世界の観念の変化が示唆される。
「伽藍」では、新たな国家の枢軸として仏教がどう導入されたかが語られる。「伽藍」は「古墳」を引き継ぐものであった。継体天皇の後に王権が分裂し、欽明天皇と安閑天皇は並立する事態を生じるが、この統一にあたって思想的な支柱となったのが仏教だったのである。
「国史」では、国史編纂の前提としての政治権力の集中、隋や新羅との対外関係、一時代前のものとなりつつあった各氏族との関係を整理し顕彰し位置づけるといった事情が語られる。『古事記』は大伴氏の、『日本書紀』は蘇我氏の記念碑と考えられるという。
「都城」では、古い氏族性を刷新して成立した律令制の象徴として都城が捉えられ、その完成形として左右均斉の平城京が位置づけられる。しかし律令制は徐々に崩壊してゆく。平城京においても藤原氏の氏寺興福寺は意図的に外京に位置し、内京が荒廃していくのと対照的に外京は奈良市街として今日まで生き残った。それは律令制の内実が形無しにされ、氏族制のリバイバルともいえる荘園制に移行していったことの象徴なのであった。
本書の表題は『日本の古代文化』だが、古代文化そのものについて語る本でもない。舞踊や歌、服飾や年中行事といった古代文化についてはほとんど全く触れられない。どちらかというと政治権力史をメインとして、各種の遺物にその痕跡を見ようとする本である。ただし私は古代史についてはさほど詳しくなく前提知識が乏しいため、著者の主張を完全に理解することはできなかった。
文化面に残る古代の権力闘争の痕跡を探る、やや専門的な本。
【関連書籍】
『日本文化の多重構造―アジア的視野から日本文化を再考する』佐々木 高明 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/02/blog-post_26.html
日本文化の基層に存在する多様な文化について述べる。アジアを俯瞰して日本生活文化史を位置づけた非常に内容の濃い本。
著者林屋辰三郎は、日本の中世史、特に芸能史の研究で有名であり、その著者が古代文化をどう見ていたのだろうと思い手に取ったのが本書である。
本書には、「杜」「前方後円墳」「伽藍」「国史」「都城」という5つのテーマに基づいて、行きつ戻りつしながら弥生時代後期から平安京遷都までの古代史が記述されている。
「杜」では、 農耕文化の基層としての杜が位置づけられると共に、「倭国大乱」の政治状況が分析される。
「前方後円墳」では、新たに成立した政治権力の象徴として古墳文化が振り返られ、また前方後円墳の形状が楯を模したものであるとする説を支持し、それが停戦の象徴であったと考察されている。またその画期として応神天皇に至る系譜が検討される。さらに、前方後円墳は次第に横穴式古墳へと遷移していくが、その背景として死後の世界の観念の変化が示唆される。
「伽藍」では、新たな国家の枢軸として仏教がどう導入されたかが語られる。「伽藍」は「古墳」を引き継ぐものであった。継体天皇の後に王権が分裂し、欽明天皇と安閑天皇は並立する事態を生じるが、この統一にあたって思想的な支柱となったのが仏教だったのである。
「国史」では、国史編纂の前提としての政治権力の集中、隋や新羅との対外関係、一時代前のものとなりつつあった各氏族との関係を整理し顕彰し位置づけるといった事情が語られる。『古事記』は大伴氏の、『日本書紀』は蘇我氏の記念碑と考えられるという。
「都城」では、古い氏族性を刷新して成立した律令制の象徴として都城が捉えられ、その完成形として左右均斉の平城京が位置づけられる。しかし律令制は徐々に崩壊してゆく。平城京においても藤原氏の氏寺興福寺は意図的に外京に位置し、内京が荒廃していくのと対照的に外京は奈良市街として今日まで生き残った。それは律令制の内実が形無しにされ、氏族制のリバイバルともいえる荘園制に移行していったことの象徴なのであった。
本書の表題は『日本の古代文化』だが、古代文化そのものについて語る本でもない。舞踊や歌、服飾や年中行事といった古代文化についてはほとんど全く触れられない。どちらかというと政治権力史をメインとして、各種の遺物にその痕跡を見ようとする本である。ただし私は古代史についてはさほど詳しくなく前提知識が乏しいため、著者の主張を完全に理解することはできなかった。
文化面に残る古代の権力闘争の痕跡を探る、やや専門的な本。
【関連書籍】
『日本文化の多重構造―アジア的視野から日本文化を再考する』佐々木 高明 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/02/blog-post_26.html
日本文化の基層に存在する多様な文化について述べる。アジアを俯瞰して日本生活文化史を位置づけた非常に内容の濃い本。
2018年12月30日日曜日
『カミとホトケの幕末維新—交錯する宗教世界』岩田 真美・桐原 健真 編
幕末維新期の宗教界を様々な視点から捉える本。
本書は科研費による研究「近代移行期における日本仏教と教化」に基づいた論文集で、青野誠、岩田真美、上野大輔、大澤広嗣、大谷栄一、碧海寿広、落合建仁、桐原健真、オリオン・クラウタウ、ジャクリーン・ストーン、芹口真結子、髙橋秀慧、谷川穣、林淳、引野亨輔、舩田淳一、ジョン・ブリーン、朴澤直秀、星野靖二、松金直美、三浦隆司(五十音順)の約25編の論考を収める。
「第Ⅰ部 維新とカミとホトケの語り」では、神仏分離、廃仏毀釈、世直し、民衆宗教などについて先行研究が整理され、これまでこれらの宗教的現象がどう語られてきたかが検討される。全体として、幕末維新期の宗教的断絶を強調するのではなく、近世からの連続としてこれらを理解する立場が取られている。
「第Ⅱ部 新たな視座から見た「維新」」では、キリスト教対策や科学的世界観の浸透、宗教政策の変転にあたって、各宗派がどのように対応したかがテーマとなる。例えば、幕末の動乱では仏教勢力にも「勤王僧」が出現し、尊攘活動を行ったが、同時に仏教そのものも改革する必要があると考え、事実仏教体制内の改革も手がけてゆく。吉田松陰が流布させようとした月性の『仏法護国論』や、日蓮の著作の校訂に一生を捧げ、他宗を廃絶して日蓮法華宗を国教化しようとした小川泰堂の動向などは興味深い。また伊勢神宮は自ら国家の宗廟となるために神社のみならず伊勢山田の街並み自体を作りかえた。
「第Ⅲ部 カミとホトケにおける「維新」の射程」では、主に仏教勢力に関するマイナーでトピック的な話題を取り上げている。例えば「幕末/明治期の仏書出版」「仏教天文学を学ぶ人のために」などは耳慣れない話で興味深く読んだ。 仏教勢力に甚大な影響を与えながら詳しい顛末があまり触れられない「社寺上知令の影響」も参考になる。だが第Ⅲ部は構成的にはまとまりがなく、事例の列挙といった印象が強い。
本書にはこれらを縦軸としつつ、短いコラムが横軸として随所にちりばめられていて、こちらの方がかなり面白い。特に「孔子の変貌」「宗門檀那請合之掟」「勤王・護法の実践—真言宗の勤王僧」「幕末京都の政治都市化と寺院」「絶対的創造神への批判—釈雲照のキリスト教観①」など興味深かった。
本書は若手研究者を中心とした研究報告的な意味合いが強く、全体を通じてなるほどと膝を打つような本ではないが、通読するといろいろな視点から幕末明治の宗教政界を理解することができ、視野を広げることに役立つと思う。私個人としては、改めて「勤王僧」の存在に興味を持ち、勤王僧と廃仏毀釈の関係や勤王僧のその後の生き方についてより深く知りたいと思ったところである。
なお題名は「カミとホトケの〜」であるが、実際にはあまりカミ(神道)の方の話題は少なく、国学や神道についての記載、神社の動向についてはさほど語られない。もう少し神道側の研究も含めてもらったらよかったと思う。
仏教勢力を中心とする幕末明治の宗教世界の変転について多角的に学べる本。
本書は科研費による研究「近代移行期における日本仏教と教化」に基づいた論文集で、青野誠、岩田真美、上野大輔、大澤広嗣、大谷栄一、碧海寿広、落合建仁、桐原健真、オリオン・クラウタウ、ジャクリーン・ストーン、芹口真結子、髙橋秀慧、谷川穣、林淳、引野亨輔、舩田淳一、ジョン・ブリーン、朴澤直秀、星野靖二、松金直美、三浦隆司(五十音順)の約25編の論考を収める。
「第Ⅰ部 維新とカミとホトケの語り」では、神仏分離、廃仏毀釈、世直し、民衆宗教などについて先行研究が整理され、これまでこれらの宗教的現象がどう語られてきたかが検討される。全体として、幕末維新期の宗教的断絶を強調するのではなく、近世からの連続としてこれらを理解する立場が取られている。
「第Ⅱ部 新たな視座から見た「維新」」では、キリスト教対策や科学的世界観の浸透、宗教政策の変転にあたって、各宗派がどのように対応したかがテーマとなる。例えば、幕末の動乱では仏教勢力にも「勤王僧」が出現し、尊攘活動を行ったが、同時に仏教そのものも改革する必要があると考え、事実仏教体制内の改革も手がけてゆく。吉田松陰が流布させようとした月性の『仏法護国論』や、日蓮の著作の校訂に一生を捧げ、他宗を廃絶して日蓮法華宗を国教化しようとした小川泰堂の動向などは興味深い。また伊勢神宮は自ら国家の宗廟となるために神社のみならず伊勢山田の街並み自体を作りかえた。
「第Ⅲ部 カミとホトケにおける「維新」の射程」では、主に仏教勢力に関するマイナーでトピック的な話題を取り上げている。例えば「幕末/明治期の仏書出版」「仏教天文学を学ぶ人のために」などは耳慣れない話で興味深く読んだ。 仏教勢力に甚大な影響を与えながら詳しい顛末があまり触れられない「社寺上知令の影響」も参考になる。だが第Ⅲ部は構成的にはまとまりがなく、事例の列挙といった印象が強い。
本書にはこれらを縦軸としつつ、短いコラムが横軸として随所にちりばめられていて、こちらの方がかなり面白い。特に「孔子の変貌」「宗門檀那請合之掟」「勤王・護法の実践—真言宗の勤王僧」「幕末京都の政治都市化と寺院」「絶対的創造神への批判—釈雲照のキリスト教観①」など興味深かった。
本書は若手研究者を中心とした研究報告的な意味合いが強く、全体を通じてなるほどと膝を打つような本ではないが、通読するといろいろな視点から幕末明治の宗教政界を理解することができ、視野を広げることに役立つと思う。私個人としては、改めて「勤王僧」の存在に興味を持ち、勤王僧と廃仏毀釈の関係や勤王僧のその後の生き方についてより深く知りたいと思ったところである。
なお題名は「カミとホトケの〜」であるが、実際にはあまりカミ(神道)の方の話題は少なく、国学や神道についての記載、神社の動向についてはさほど語られない。もう少し神道側の研究も含めてもらったらよかったと思う。
仏教勢力を中心とする幕末明治の宗教世界の変転について多角的に学べる本。
2018年12月17日月曜日
『明治天皇』ドナルド・キーン著、角地 幸男 訳
明治天皇の生涯を軸にたどる明治の歴史。
明治天皇について語られた資料は厖大にあるという。しかしそれらは相互に矛盾し、錯綜し、誇張や伝説が入り交じっている。そこで著者は、それらを注意深く取捨選択して、バランスの取れた明治天皇の伝記をつくり上げた。
しかし本書は明治天皇の伝記そのものとは言えない。というのは、明治天皇自身がほとんど私的な領域を持たず、いかなる時でも感情を外に表さず、自ら君主にふさわしいとした規範から一歩も外へ出なかったため、明治天皇には「自らの人生」と呼べるようなものはなく、それは明治日本の歴史と相即不離な関係にあるからだ。
であるからして、本書にはほとんど明治天皇が関与していないことについての記述も多い。例えば本書にはペリー来航以来の幕末の歴史も触れられるが、当然ながら当時の明治天皇は幼少で幕末の事件に主体的に関わることはない。晩年になっての、伊藤博文の韓国での行いや閔妃暗殺についても明治天皇は直接は関係していなかったが割合詳述される。
ところが、やはり明治天皇の人生を理解しようとすれば、明治の歴史を理解することが必須なのである。そして逆に、明治の歴史を理解するためには、明治天皇を理解することもまた必要なのだ。
明治天皇は、即位した当初は、ほとんどお飾り的な存在であった。尊攘派の志士は口では天皇への忠誠を誓っていたが、実際には天皇を傀儡化して自分たちの正統性の象徴としたかっただけだし、天皇自身にも彼らを御していく能力はなかった。
ところが形だけの至高権力は、明治の中頃になると実体化していく。それは、維新の功臣たちが、明治天皇を世界の指導者たちと伍するべき名君として教育したからでもあるし、それよりももっと重要なのは、有為転変が激しい明治の政界にあって、天皇一人が安定して存在していたからだ。
明治の功臣たちは、都合が悪くなるとすぐに辞職し、病気を理由に地元に引っ込んだ。また、意見の対立が激しくなり調整が不能になると、最終的には天皇の裁可を仰いだ。しかも天皇はそういう際、決してその場しのぎの気まぐれな裁可をすることなく、優れた洞察力によって中庸な決断を下した。こうしたことから、明治20年代あたりから天皇の存在は実質的に政治を左右するようになっていくのである。
しかし、明治天皇は独裁者とはほど遠かった。信任を与えた臣下をよく信頼し、その決定を尊重した。ほぼめったに自分の意見を表明しなかったし、表明した場合も反論や諫言を受け入れて、多くの場合はそれに従った。そして彼は個人的悦楽に耽ることもなく、華美を嫌い倹約を旨とした。服が破れても継ぎを当てる事を選び、住居は上級の貴族よりも質素だった。明治天皇が唯一趣味としたのは、若い頃に凝った乗馬くらいで、それも一時のことだった。明治天皇は和漢洋についてそれぞれ教育を受けたが、倫理面においては儒教の影響が大きく、儒教的な名君とあらねばならないと考えていた。そのために明治天皇は強烈な自制心を備えていた。
それは、ある意味では自らを義務感の虜にすることであったかもしれない。生母中山慶子(よしこ)が危篤に陥った際も、その病床に駆けつけることはなかった。なぜなら慶子は天皇が自ら訪ねるには位が低すぎたからだ。「しかし天皇は、天皇にふさわしい振舞いと自分が思う規範を破ることが出来なかった。天皇は事実、自由を奪われた良心の囚人だった。」(文庫版第4巻 p.241)
そういう明治天皇の心理は、世界中のどんな君主とも違っていたように思う。明治天皇は御前会議でもほとんど発言しなかった。常に微動だにせず、表情は冷静そのもの。静かに臣下の議論を聞き、必要な裁可を(上申に従い、自らの意見を交えず)下した。ほとんどの場合、その場に明治天皇がいる必要はなかった。だが天皇は、精力的に公務に参加した。明治天皇の仕事ぶりは、まるで機械のようであった。しかしあらゆる資料が示していることは、天皇自身にも政治的意見があり、国情に関する洞察があり、理想があったということである。にもかかわらず、明治天皇はほとんど自分自身を出すことはしなかった。
そういう生き方を見ると、私はかのローマの哲人皇帝マルクス・アウレーリウスを思い出さずにはいられない。強烈な自制心によって、自らがなすべきことをなす、そういう明治天皇の姿勢は、マルクス・アウレーリウスと非常に似ている。しかし哲人皇帝が『自省録』を残し自分の内心を吐露したのとは違い、明治天皇が残したものは、厖大な御製(短歌)だけである。しかもそれらにはほとんど内心と呼べるものは明かされていない。伝統的な歌題に沿って、ほんの僅かな心情が仄めかされるに過ぎないのである。
著者ドナルド・キーンが本書を書くにあたって、最初に参照したのはまさにこの御製『新輯明治天皇御集』であるという。本書では明治天皇の公式記録である『明治天皇記』を縦糸とし、和歌を横糸として、大量の資料を手際よく配置して明治の歴史を辿り、そこに明治天皇その人の姿を幽かに浮かび上がらせている。
明治天皇の生涯は、明治の歴史とまさしく一体であり、明治天皇がああいう人物でなければきっと明治は違った時代になっていた。だがその歴史に翻弄され、歴史から逃れられなかったのもまた明治天皇であったのだ。しかもそれを自分では悲劇とは思っていなかった。本書を読むと、そういう一人の人間としての明治天皇に愛着と尊敬を覚えずにはいられない。
厖大な資料を駆使して明治天皇の実像を浮かび上がらせた大著。
【関連書籍】
『自省録』マルクス・アウレーリウス著、神谷美恵子 訳
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/04/blog-post.html
哲人皇帝による、魂の葛藤の書。
明治天皇について語られた資料は厖大にあるという。しかしそれらは相互に矛盾し、錯綜し、誇張や伝説が入り交じっている。そこで著者は、それらを注意深く取捨選択して、バランスの取れた明治天皇の伝記をつくり上げた。
しかし本書は明治天皇の伝記そのものとは言えない。というのは、明治天皇自身がほとんど私的な領域を持たず、いかなる時でも感情を外に表さず、自ら君主にふさわしいとした規範から一歩も外へ出なかったため、明治天皇には「自らの人生」と呼べるようなものはなく、それは明治日本の歴史と相即不離な関係にあるからだ。
であるからして、本書にはほとんど明治天皇が関与していないことについての記述も多い。例えば本書にはペリー来航以来の幕末の歴史も触れられるが、当然ながら当時の明治天皇は幼少で幕末の事件に主体的に関わることはない。晩年になっての、伊藤博文の韓国での行いや閔妃暗殺についても明治天皇は直接は関係していなかったが割合詳述される。
ところが、やはり明治天皇の人生を理解しようとすれば、明治の歴史を理解することが必須なのである。そして逆に、明治の歴史を理解するためには、明治天皇を理解することもまた必要なのだ。
明治天皇は、即位した当初は、ほとんどお飾り的な存在であった。尊攘派の志士は口では天皇への忠誠を誓っていたが、実際には天皇を傀儡化して自分たちの正統性の象徴としたかっただけだし、天皇自身にも彼らを御していく能力はなかった。
ところが形だけの至高権力は、明治の中頃になると実体化していく。それは、維新の功臣たちが、明治天皇を世界の指導者たちと伍するべき名君として教育したからでもあるし、それよりももっと重要なのは、有為転変が激しい明治の政界にあって、天皇一人が安定して存在していたからだ。
明治の功臣たちは、都合が悪くなるとすぐに辞職し、病気を理由に地元に引っ込んだ。また、意見の対立が激しくなり調整が不能になると、最終的には天皇の裁可を仰いだ。しかも天皇はそういう際、決してその場しのぎの気まぐれな裁可をすることなく、優れた洞察力によって中庸な決断を下した。こうしたことから、明治20年代あたりから天皇の存在は実質的に政治を左右するようになっていくのである。
しかし、明治天皇は独裁者とはほど遠かった。信任を与えた臣下をよく信頼し、その決定を尊重した。ほぼめったに自分の意見を表明しなかったし、表明した場合も反論や諫言を受け入れて、多くの場合はそれに従った。そして彼は個人的悦楽に耽ることもなく、華美を嫌い倹約を旨とした。服が破れても継ぎを当てる事を選び、住居は上級の貴族よりも質素だった。明治天皇が唯一趣味としたのは、若い頃に凝った乗馬くらいで、それも一時のことだった。明治天皇は和漢洋についてそれぞれ教育を受けたが、倫理面においては儒教の影響が大きく、儒教的な名君とあらねばならないと考えていた。そのために明治天皇は強烈な自制心を備えていた。
それは、ある意味では自らを義務感の虜にすることであったかもしれない。生母中山慶子(よしこ)が危篤に陥った際も、その病床に駆けつけることはなかった。なぜなら慶子は天皇が自ら訪ねるには位が低すぎたからだ。「しかし天皇は、天皇にふさわしい振舞いと自分が思う規範を破ることが出来なかった。天皇は事実、自由を奪われた良心の囚人だった。」(文庫版第4巻 p.241)
そういう明治天皇の心理は、世界中のどんな君主とも違っていたように思う。明治天皇は御前会議でもほとんど発言しなかった。常に微動だにせず、表情は冷静そのもの。静かに臣下の議論を聞き、必要な裁可を(上申に従い、自らの意見を交えず)下した。ほとんどの場合、その場に明治天皇がいる必要はなかった。だが天皇は、精力的に公務に参加した。明治天皇の仕事ぶりは、まるで機械のようであった。しかしあらゆる資料が示していることは、天皇自身にも政治的意見があり、国情に関する洞察があり、理想があったということである。にもかかわらず、明治天皇はほとんど自分自身を出すことはしなかった。
そういう生き方を見ると、私はかのローマの哲人皇帝マルクス・アウレーリウスを思い出さずにはいられない。強烈な自制心によって、自らがなすべきことをなす、そういう明治天皇の姿勢は、マルクス・アウレーリウスと非常に似ている。しかし哲人皇帝が『自省録』を残し自分の内心を吐露したのとは違い、明治天皇が残したものは、厖大な御製(短歌)だけである。しかもそれらにはほとんど内心と呼べるものは明かされていない。伝統的な歌題に沿って、ほんの僅かな心情が仄めかされるに過ぎないのである。
著者ドナルド・キーンが本書を書くにあたって、最初に参照したのはまさにこの御製『新輯明治天皇御集』であるという。本書では明治天皇の公式記録である『明治天皇記』を縦糸とし、和歌を横糸として、大量の資料を手際よく配置して明治の歴史を辿り、そこに明治天皇その人の姿を幽かに浮かび上がらせている。
明治天皇の生涯は、明治の歴史とまさしく一体であり、明治天皇がああいう人物でなければきっと明治は違った時代になっていた。だがその歴史に翻弄され、歴史から逃れられなかったのもまた明治天皇であったのだ。しかもそれを自分では悲劇とは思っていなかった。本書を読むと、そういう一人の人間としての明治天皇に愛着と尊敬を覚えずにはいられない。
厖大な資料を駆使して明治天皇の実像を浮かび上がらせた大著。
【関連書籍】
『自省録』マルクス・アウレーリウス著、神谷美恵子 訳
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/04/blog-post.html
哲人皇帝による、魂の葛藤の書。
2018年11月17日土曜日
『食味往来—食べものの道』河野 友美 著
日本における食べものの伝播を考える本。
食べものは自然には広がっていかない。食べものが伝播するには必ず人の往来が必要である。自由な移動が禁止されていた近世や、交通が不完全で限られたルートでしか往来が可能でなかった中世以前においては、食べものはかなり明確なルートをもって伝播していた。
本書は、現在残されている郷土食を分析することで、そういったルートを推測し、再構成しようと目論見たものである。
例えば、海運が運んだ食べものがある。その一つがコンブである。コンブの産地は北海道。しかしかなり早くから沖縄までコンブは交易された。沖縄への輸出品として大阪商人がコンブをもたらし、コンブは沖縄の料理には欠かせないものとなった。もちろんその途中にある九州でもコンブは料理に欠かせない。これだけでなく、黒潮の流れに沿って同じ料理が残っているなど、日本の場合はまずは海が食べ物を運ぶ大きなルートになった。
もちろん、街道を通じて伝播していく食べものもあった。街道沿いに食べものが伝わっていくから、距離的には近い地域でも街道沿いでなければ違う食文化が発達したりした。食べものは文化の中心から同心円的に広がったのではなく、やはり明確な「道」を通って伝わっていったのだ。
本書ではこうした事例が様々なトピックに渡って紹介されている。その分析は、文化的なものだけでなく、著者の専門の食品化学に基づいた観点もあり、多角的である。
一方、人や情報の移動が激しくなるにつれ、食の道は急速に分からなくなってしまった。かつてあったはずの郷土料理は、各家庭で自然体で受け継がれてきたものであるがために、それが独特なものだと認識されることもないまま消滅し、人々はレシピ本などを参考にした画一化された料理を作り始めた。著者は、今(1987年)が食の道を解明できる最後の時代かもしれないという。しかしそれは家庭に分け入って調査しなければならないため、非常に難しい研究であると認めている。
著者がこう警鐘を鳴らしてから、既に30年が経過している。状況はもっと困難になっているだろう。日本の食文化は、この50年ほどで急速に失われたのは間違いない。もちろん、栄養的にはずっと改善された。だが長い年月かけて名もなき人々の手によって彫琢され続けてきた食文化には、栄養学的にも合理的な側面があったはずだと著者はいい、こうした食文化が失われたことは長期的に見て栄養の面でも問題が出てくるかもしれないと述べている。
食べものの道を考察することで、文化の伝播や食文化の価値を考えさせる良書。
食べものは自然には広がっていかない。食べものが伝播するには必ず人の往来が必要である。自由な移動が禁止されていた近世や、交通が不完全で限られたルートでしか往来が可能でなかった中世以前においては、食べものはかなり明確なルートをもって伝播していた。
本書は、現在残されている郷土食を分析することで、そういったルートを推測し、再構成しようと目論見たものである。
例えば、海運が運んだ食べものがある。その一つがコンブである。コンブの産地は北海道。しかしかなり早くから沖縄までコンブは交易された。沖縄への輸出品として大阪商人がコンブをもたらし、コンブは沖縄の料理には欠かせないものとなった。もちろんその途中にある九州でもコンブは料理に欠かせない。これだけでなく、黒潮の流れに沿って同じ料理が残っているなど、日本の場合はまずは海が食べ物を運ぶ大きなルートになった。
もちろん、街道を通じて伝播していく食べものもあった。街道沿いに食べものが伝わっていくから、距離的には近い地域でも街道沿いでなければ違う食文化が発達したりした。食べものは文化の中心から同心円的に広がったのではなく、やはり明確な「道」を通って伝わっていったのだ。
本書ではこうした事例が様々なトピックに渡って紹介されている。その分析は、文化的なものだけでなく、著者の専門の食品化学に基づいた観点もあり、多角的である。
一方、人や情報の移動が激しくなるにつれ、食の道は急速に分からなくなってしまった。かつてあったはずの郷土料理は、各家庭で自然体で受け継がれてきたものであるがために、それが独特なものだと認識されることもないまま消滅し、人々はレシピ本などを参考にした画一化された料理を作り始めた。著者は、今(1987年)が食の道を解明できる最後の時代かもしれないという。しかしそれは家庭に分け入って調査しなければならないため、非常に難しい研究であると認めている。
著者がこう警鐘を鳴らしてから、既に30年が経過している。状況はもっと困難になっているだろう。日本の食文化は、この50年ほどで急速に失われたのは間違いない。もちろん、栄養的にはずっと改善された。だが長い年月かけて名もなき人々の手によって彫琢され続けてきた食文化には、栄養学的にも合理的な側面があったはずだと著者はいい、こうした食文化が失われたことは長期的に見て栄養の面でも問題が出てくるかもしれないと述べている。
食べものの道を考察することで、文化の伝播や食文化の価値を考えさせる良書。
2018年10月30日火曜日
『蘇翁夢物語—わが交友録』徳富 猪一郎 著
徳富蘇峰(猪一郎)がその交友した人物について語った本。
徳富蘇峰は反体制派のジャーナリストとして頭角を現すも、やがて体制に取り込まれて一種の御用記者となり、それは「蘇峰の変節」と批判されるのであるが、これは体制を内部から眺めるという機会を得ることにもなった。
本書は、そういう蘇峰の体制内部における交友、すなわち山県有朋、井上毅、伊藤博文、大隈重信などの要人との個人的な思い出やその人物評を語るものである(口述筆記)。
私自身は、これらの人々についてはあまり詳しくなく、ここに語られている内幕の話にどれほどの価値があるのか判断ができないけれども、面白かったのは勝海舟と新島襄の話。
私も本書によって初めて知ったのだが、徳富蘇峰は若い頃に勝海舟の家に借家していた。同じ家に住んでいたのではなくて、勝海舟の屋敷内にあり本宅と隣接していた別宅を借家していたのだがその書斎が隣同士で、同じ敷地内に住んでいたのだから勝海舟とはかなり濃密な付き合いがあった模様である。勝海舟の人柄については多くの人が述べているが、これほど近しかった蘇峰の論評には独自の価値があるだろう。
新島襄については、蘇峰が生涯で心酔したただ独りの先生であったようだ。蘇峰は新島に会ったその日に強く惹かれた模様である。そして、政府の要人と親しく付き合うようになって、偉人とされる人と親炙するようになっても、新島以上に尊敬した人はいなかったように思われる。彼は、新島の能力や知識に感服していたのではなくて、ひたすらに人柄に惹かれていた。
当時学生であった蘇峰は、キリスト教のことはよくわからないまま、新島の勧めに従って洗礼を受けている。蘇峰は一時期キリスト教徒だったのである。しかも記者としての出発は、キリスト教系の新聞社への就職にあった(しかしこれはすぐに辞職している)。ところが次第にキリスト教への抑えがたい疑問が湧いてきて、やがて棄教する。それでも新島への敬慕は持ち続け、新島が同志社大学を設立せんとするやそれに熱心に協力したのである。
私にとって蘇峰といえば『近世日本国民史』の作家という存在感が大きいのであるが、本書ではそれ以外の、どちらかというと私的な面での蘇峰を知ることができた。
徳富蘇峰は反体制派のジャーナリストとして頭角を現すも、やがて体制に取り込まれて一種の御用記者となり、それは「蘇峰の変節」と批判されるのであるが、これは体制を内部から眺めるという機会を得ることにもなった。
本書は、そういう蘇峰の体制内部における交友、すなわち山県有朋、井上毅、伊藤博文、大隈重信などの要人との個人的な思い出やその人物評を語るものである(口述筆記)。
私自身は、これらの人々についてはあまり詳しくなく、ここに語られている内幕の話にどれほどの価値があるのか判断ができないけれども、面白かったのは勝海舟と新島襄の話。
私も本書によって初めて知ったのだが、徳富蘇峰は若い頃に勝海舟の家に借家していた。同じ家に住んでいたのではなくて、勝海舟の屋敷内にあり本宅と隣接していた別宅を借家していたのだがその書斎が隣同士で、同じ敷地内に住んでいたのだから勝海舟とはかなり濃密な付き合いがあった模様である。勝海舟の人柄については多くの人が述べているが、これほど近しかった蘇峰の論評には独自の価値があるだろう。
新島襄については、蘇峰が生涯で心酔したただ独りの先生であったようだ。蘇峰は新島に会ったその日に強く惹かれた模様である。そして、政府の要人と親しく付き合うようになって、偉人とされる人と親炙するようになっても、新島以上に尊敬した人はいなかったように思われる。彼は、新島の能力や知識に感服していたのではなくて、ひたすらに人柄に惹かれていた。
当時学生であった蘇峰は、キリスト教のことはよくわからないまま、新島の勧めに従って洗礼を受けている。蘇峰は一時期キリスト教徒だったのである。しかも記者としての出発は、キリスト教系の新聞社への就職にあった(しかしこれはすぐに辞職している)。ところが次第にキリスト教への抑えがたい疑問が湧いてきて、やがて棄教する。それでも新島への敬慕は持ち続け、新島が同志社大学を設立せんとするやそれに熱心に協力したのである。
私にとって蘇峰といえば『近世日本国民史』の作家という存在感が大きいのであるが、本書ではそれ以外の、どちらかというと私的な面での蘇峰を知ることができた。
登録:
投稿 (Atom)