2015年10月25日日曜日

『李陵』護 雅夫 著

李陵の存在を手がかりにしながら、匈奴の社会について考察する本。

本書は、中島 敦の『李陵』に刺激されて書かかれたものである。 古代遊牧民族の研究者である著者は、中国人としての李陵の生き様だけでなく遊牧騎馬民族の視点も加えて李陵のことを語ってみたくなり、この書をものしたという。

李陵は、漢の武帝の厚い信頼を受け、軍隊を率いて匈奴と戦ったが、行き違いや勘違いから匈奴に寝返ったと誤解され、親族を誅殺されてしまう。 これに激怒した李陵は、その本心では漢へ戻りたかったにも関わらず、本当に匈奴へと寝返り、以後匈奴の忠臣として栄達することになる。一方、同じような境遇にあって匈奴へは寝返らず、あくまで漢の臣すなわち敵国人として匈奴の地で辛い生活に耐えた蘇武との鋭い対照もあって、李陵の物語は永く中国大陸で語られてきた。それ恰も、我が国における判官伝説のようなものであるという。

著者はこの物語の背景にある匈奴と漢の関係、言い換えれば遊牧民族国家と農耕民族国家の関係を考察する。李陵は、ただ匈奴へと投降したのではなく、単于(ぜんう)からの誘いを受けて匈奴の将軍となっているが、敵国人を将軍にするというのはどうしてか。

しかも独り李陵のみではなく、意外と多くの漢人が匈奴へと亡命し、匈奴社会において軍人や官僚として栄達の道を歩んでるのである。李陵も単于の娘を娶っており、相当な権勢を誇っていたようであるし、彼らは現代社会での亡命者のイメージとはかなり違う。

そして、それは漢人が優秀だったから遊牧民族社会で成功した、ということではおそらくない。それよりも、単于は積極的に漢人をリクルートしてポストを準備しており、かなりの数の漢人が匈奴に亡命して住んでいたらしいことを考えると、匈奴の社会構造自体が、亡命漢人の存在を前提にしたものだったように思われる。

なぜ匈奴の社会は亡命漢人を必要としたのか? 著者の考えはこうである。匈奴は文字を持たなかった。しかし広大な匈奴を文書を使わずに治めていくのは困難で、人口や生産力の把握といった基本的なことでも、文字がないととても管理しきれない。そこで漢人を官僚として使い、支配機構に組み込むことで国家体制を維持していたのではないか。

とするなら、匈奴と漢の戦いというと、遊牧民族と農耕民族の争い、というように見がちなのだが、それは妥当な見方ではなく、匈奴は遊牧民族と農耕民族のハイブリッドで出来た国家であり、漢なかりせば匈奴もなかったということになる。

ところで本書のエピローグは、まるで本編とは違うテーマのことが書かれていて、唐帝国と突厥、そしてそこに活躍したソグド人たちについて述べられている。実は私が本書を手に取ったのは、まさに護 雅夫がソグド人に深い関心を寄せていたからで、李陵を中国史からの視点だけではなく、中央アジア史からの視点から書いているのではないかと期待したからであった。

著者がエピローグでソグド人に触れているのは、突厥を内部で支えて(あるいは操って)いたのがソグド人だったからであり、突厥が遊牧民族とソグド人のハイブリッド国家であったとするなら、匈奴も遊牧民族と漢人のハイブリッド国家であったといえぬこともなかろう、と傍証する意図のようである。

本書は漢文に親しんだ人でないとちょっと読みにくいところがあり(読み下し文にはなっているが)、地の文も文語体になっているところがあって(中島 敦の影響だと思う)、そのテーマもやや専門的なので少し取っつきにくい本である。しかし遊牧民族国家というものを考える時、面白い切り口を提供していると思う。

文学でなく史学として李陵を考察した真面目な本。

2015年10月1日木曜日

『ハイパー・インフレの人類学:ジンバブエ「危機」下の多元的貨幣経済』早川 真悠 著

ジンバブエで著者が経験したハイパー・インフレについて見聞記的に語る本。

著者はジンバブエの大衆音楽の人類学的研究をするために同国へ滞在していた。そこで図らずもハイパー・インフレーションという異常事態を経験して音楽の研究どころではなくなり、研究テーマを急遽ハイパー・インフレに変更、ハイパー・インフレ下という混乱の中を自ら生きながら、社会がどのようになってしまうのかを現地で見つめ、博士論文として書いたのが本書(の元になったもの)である。

こういう言い方は不謹慎だが、ハイパー・インフレ下の社会の混乱は、はたから見る分には面白い!

ジンバブエのハイパー・インフレはもの凄いもので、2008年7月の公式統計では月間2600%ものインフレとなっていた。その後インフレがすさまじすぎてインフレ率を計算することもできなくなり公式統計が停止。インフレ末期の2009年11月では何と月間769億%ものインフレとなっていたと推計されている。これは年間インフレ率にすれば897垓(10の20乗)%という天文学的数字になる。

ここまで来ると「ものの値段が上がる」とか「お金が減価する」というような甘いものではなく、「経済自体が解体」されていってしまう。本書は、経済がどのように解体されていったのか、ということの観察が主要なパートになっている。

インフレも月間インフレ率50%〜150%あたりをうろうろしていた2007年頃は、人々はそれなりに対応していた。それどころか、こうした混乱を商機として零細な商売が活発にすらなった。サラリーマンや公務員は月給制であるためインフレには脆弱だが(何しろ1ヶ月で給料の価値が半分程度になる!)、その日暮らしの零細商売の場合は逆に強いからだ。

そして政府がインフレをコントロールしようとする価格統制などの措置が、さらに公式経済を衰退させた。実質的にインフレしているのに、価格統制されたら商売あがったりなわけで、スーパーマーケットからは商品が姿を消し、生活必需品にすら事欠く有様となった。こうした中、人々は露天商や闇市といった「非公式経済」に頼るようになり、携帯電話の通話カードを売る露天商が公務員やサラリーマンにお金を貸すようにもなってゆく。

インフレとは、ただお金の価値が減じていくだけではない。ジンバブエでは深刻なお札不足にも陥った。ジンバブエのお札はドイツの会社が印刷していたが、EUによる制裁措置(選挙での不正への罰則)としてドイツからお札を仕入れられなくなった。預金しておいてもどんどんお金の価値が下がってしまうので、インフレ下ではただでさえ人々は預金ではなく現金を持ちたがる。しかし現金を引き出そうとしてもお札が足りない!

これに対し政府は預金の引き出し制限を実施。引き出し上限額は当初はそれなりに合理的だったが(約60米ドル/日)、やがてインフレに応じて引き出し上限額をどんどん引き上げても追いつかなくなり、2008年7月には、1日の引き出し上限額では新聞を1部買うこともできなくなるという有様(1.1米ドル/日)。これでは給与生活者は、たとえ毎日銀行に並んでも生活に必要なお金を手に入れることが全くできなくなったのだ。

こうしてジンバブエでは預金と現金が「非公式には」全く違うものとして扱われた。額面価格は同じでも、預金でのお金と現金でのお金では、現金のお金の方が高い価値を持つものとされた。つまり現金と預金の間の闇の為替レートがあったわけだ。さらに、外貨との為替レートも公式レートと闇レートがあって、さまざまな価値尺度に公式と非公式が入り交じり、ものの価格を表すのに、預金ならいくら、現金ならいくら、外貨ならいくら、と様々な表現手段が用いられた。

このようになってくると、なぜ人々は価値の安定している外貨を使わないのか、という疑問が生じる。ジンバブエドルを手に入れたら、それをすぐに米ドルに替えるのが合理的な気がするが人々はそのようにはしない。本書のテーマの一つは、価値がすさまじい速さで減じていくジンバブエドルを人々がいつまでも使い続け、外貨経済に移行しないのはなぜなのか、ということである。

ただ、これについては現地の状況を見てみるとそこまで不思議なことでもないらしい。というのは、外貨はその経済にとって例外的な存在で、いくら価値が安定しているといっても人々はそれを普段の生活で使うものとは見なしていない。そしてそれ以上に、外貨は絶対的に不足しているということがある。例えば米ドルを使うにしても、1米ドル札だけでは事足りない。1枚の1米ドル札に対してずっと多くのおつりの貨幣が準備されていなければ、商売は成り立たないのだ。しかし外貨の小額硬貨をまとめて入手するのは困難だ。銀行ではジンバブエドルですら僅かずつしか引き出せない状況だというのに! おつりを準備することができないという現実的な問題から、草の根の自主的な対応としての外貨への移行は決して簡単なものではなかったのである。

やがてジンバブエのハイパー・インフレは、天文学的領域へと突入していく。本書の白眉がここだ。

あまりにもインフレ率が高くなりすぎ、商店では1日に3度も価格を付け替えるようになる。そして誰も本当のジンバブエドルの価値がわからなくなり、ものの値段もつけられなくなっていくのである。価値が変動しているのは「お金」だったはずなのに、「ものの価値」の方も解体していってしまうのだ。

それはこういうことだ。例えば、タバコ1箱というのは、それなりに安定した価値があると見なせるだろう。タバコ1箱が500円だったとして、それが翌月に1000円に値上がりしたとすると、お金の価値は半分になったと考えられる。これが普通の「ハイパー・インフレ」の世界である(ちなみに、ハイパー・インフレとは月間インフレ率が50%以上のインフレのこと)。しかし翌日に1箱が1500円になり、その次の日に3000円になるような世界だったとするとどうだろう。商店主は、400円で仕入れたタバコをいくらで売れば商売が成り立つのか、それすら分からなくなる。今そのタバコの価値はどれくらいなのか、売っている本人の方も知らないという事態が生じるのだ。

そうなると、タバコの価値はもはや客観的には決められない。首尾一貫した価格付けはもうできないのだ。タバコを売ってくれという客が、どれだけ切実にタバコを求めているか、商店主がタバコを早く現金化したいと思っているかどうか、そういったことの総体として暫定的にタバコの価格が決まるのである。だから、タバコが1箱500円の時に、横に置いてあるティッシュペーパーが4000円もする、というような奇妙な事態が起こりうる。要するに、価格付けはめちゃくちゃになって、その場しのぎでしか価格が決まらなくなってしまうのだ。

価格がめちゃくちゃになるということは、ものの価値が人間関係やその場での状況に寄るということである。もうこの段階にまで来ると、人々は持ちつ持たれつでお金ともののやりとりをするようになって、ジンバブエドルの「存在」そのものが無価値になっていく。お金によって作られた価値体系が崩壊して、人間関係と社会的文脈による価値体系が澎湃として沸き上がってきたのだ。それでなくてもジンバブエは、インフレ・もの不足・金不足のために、人々は路上で、職場で、どこででも、立ち話をして情報交換をし合う社会になっていた。今日牛乳を売っているのはどこか、今の闇為替レートはどれくらいか、乗り合いタクシーに乗るのに今日はいくらかかるのか。それに社会階層は関係なかった。露天商、公務員、サラリーマン、知っている人も知らない人も、普段は交わることのない人々がごた混ぜになり、ある意味で社会が一体化したのである。

その頃になるとインフレが激しすぎて零細商すら没落。社会全体が混乱の渦に巻き込まれどうにもならなくなり、政府は外貨を公式に認めてインフレが終熄(ジンバブエドルも引き続き公定通貨ではあったが実質上廃止)。

それによって社会はどうなったか。これまで路上で長話をしていた人はいなくなり、これまで親しげに話していた露天商とサラリーマンはまた他人のようになってしまった。人々を結びつけていた何かはもうなくなって、何も面倒なやりとりをしなくてもお金が決める価値によってスムーズに取引ができる社会になった。もちろんそれはいいことだ。牛乳一本買うために、人間関係がどうだこうだ、という社会はいやだ。しかしジンバブエの経験した一時期は、「お金の存在そのもの」に対して鋭い問題提起をしているように見えてならない。

本書は、出版社の紹介文によれば「一元的貨幣論に縛られた経済学への反論」だそうだが、そんなつまらないものではないと思う。著者は(専門ではない)経済学の勉強は実直にこなした印象があるが、経済学的な分析についてはさほどのことが書かれていない。もちろん人類学的な分析というのも深くはなく、見聞記のレベルを出ていない。しかし単なる見聞記だからこそ、お金というものが社会をどう形作っているのかまでも垣間見た気がする。著者自身の深い洞察というものはないが、実体験した人だからこそ書ける貴重な記録である。

ハイパー・インフレを通じて「お金の存在そのもの」の意味を考えさせられる面白い本。


2015年9月24日木曜日

『万能人とメディチ家の世紀―ルネサンス再考』池上 俊一 著

フィレンツェの万能人アルベルティとメディチ家のあれこれを述べてルネサンスの雰囲気を説明する本。

本書の内容はあまりまとまりがない。タイトルが「万能人とメディチ家の世紀」であるが、万能人の活躍について体系的に述べるでもないし、メディチ家の繁栄について詳しい説明があるわけでもない。ただ万能人とかメディチ家といったわかりやすい言葉を軸にして著者の考える「ルネサンス」をとりとめもなく語っていくというようなスタイルである。

もちろん章立てはちゃんとあるし、著者なりの主張もあるのだが、それが体系的に示されるということがなくて、書きたいことを書いているという感じである。

また文章もよくない。悪い意味で「文学的」であり、文飾には大変力が入っているが、それが虚飾になってしまっている。表現に具体性がなく理念的・概念的・総論的な説明が多い。大体の雰囲気を摑もうという本だから、それでいいのかもしれないが私には物足りなかった。

著者がのお気に入りの万能人といえるアルベルティ(レオン・バティスタ・アルベルティ)に関してはかなり詳しい説明がある。伝記的な情報だけでなく、アルベルティの著作の紹介も1次資料をちゃんと読み込んで真面目に書いている印象でそこは好感を持つ。

でもやはり書きたいことを書いている、というようなつまみ食い感があるのは否めない。アルベルティがどうして重要なのか、というのが最後までよくわからなかった。その後のルネサンスの「万能人」の原型になったのがアルベルティだ、というのがポイントなんだろうか? それとも様々な著作を通じ後世の人に影響を与えたということ? いろいろ書かれてはいるものの何だか頭にスッキリと入ってこない構成の本である。

アルベルティとメディチ家を巡る、エッセイ的な本。

2015年9月9日水曜日

『砂糖百科』高田 明和、橋本 仁、伊藤 汎 監修

砂糖についての科学的知識を網羅的に提供してくれる本。

本書は、砂糖の業界団体である社団法人糖業協会が発行したもので、数多くの執筆者により専門的事項がまとめられたまさに『砂糖百科』の名にふさわしい本である。砂糖は人間の主要なエネルギー源であるが、甘い=嗜好品というイメージから様々な面で不当に不健康なものだという扱いを受けてきた。本書は、そうした非科学的な俗説を退けるだけでなく、砂糖に関する科学的で正確な知識を提供してくれるもので、業界団体が出しているものだけにちょっと身内びいきな点はあるが、概ね公平・中立的な記述となっている。

以下、読書メモとしてはやや煩瑣になるが各章の内容を紹介し、印象に残った点について述べることとする。

第1章は「砂糖と栄養」。糖質が体内でどのように消化・吸収されて、やがて代謝されエネルギーとして消費されるかをかなり詳細に記述する。

糖質は炭水化物の一種であり、栄養的には炭水化物と等価である。このことは砂糖を考える上での基本定理とも呼ぶべきものであるが、つい閑却しがちである。炭水化物は体内で消化されて糖として吸収される。砂糖たっぷりのお菓子は体に悪く、白いご飯は体によいというのはイメージだけのことで、実際には栄養の面で見ればどちらも糖なのである。そして糖は人間の主要なエネルギー源として非常に重要だ。血糖値は半分ほどになってしまうと昏睡状態に陥ることもあり、血液中の糖分は常に一定濃度に保たなくてはならない。

しかも糖分は主要エネルギー源であるにもかかわらず、体内にあまり貯蔵できない。だから我々は継続的に糖分(炭水化物)を摂取する必要があるのである。しかし常に糖分が潤沢に補給されるとは限らない。そうして食間などに血糖値が低下した場合は、人間の体はアミノ酸やピルピン酸からブドウ糖を合成さえもする、つまり体内で糖を製造するという仕組みがあり、これを「新糖成」という。エネルギーをあえて使ってもブドウ糖を合成せざるをえないくらい、糖分というのは体にとって欠くべからぬ栄養素なのである。

第2章は「砂糖と健康」。砂糖が健康を害するという様々な俗説を取り上げ、そのうち代表的なものについて科学的に反駁する。

例えば、砂糖は酸性食品(摂取すると体が酸性になる)だとか、 砂糖は骨を溶かすとか、甘いものを摂りすぎると子どもがキレやすくなるとか、白砂糖は漂白されているので体に悪いとか。こうしたことには科学的な根拠がないことを丁寧に説明する。

また砂糖を食べると急に血糖値が上昇してよくない、というのも実は俗説で、砂糖の血糖指数(食べ物がどの程度血糖値を上昇させるか、を白パンと比較して表した数字)は、実はバナナ(94.5)とパスタ(83)の間の88.5で、特に血糖値の上昇が早い食品ではない。それどころかこれは白パン(100)よりも低く、またこれが高い食品としてニンジン(119)がある。早く血糖値を上げて空腹感を抑えたいということがあれば、甘いものを食べるよりもニンジンを食べた方がよい。

また砂糖が肥満の原因というのも間違いで、砂糖(ショ糖)の100gあたりカロリーは387kcalで、ヘルシーなイメージがあるそば粉(364kcal)と大差ない。国民全体の砂糖摂取量と肥満率には関係がなく、運動不足の方がはっきりとした関係がある。さらには砂糖が糖尿病の原因となるということもない。ただし砂糖は虫歯の原因となるというのは俗説ではなく、本書では業界に気を使っているのか曖昧な書きぶりになっているが(本書ではなぜか俗説に分類されている)、甘いものを間食するのはやっぱりよくないらしい。

第3章は「砂糖と味覚」。砂糖の甘さはどう感じるか。様々な糖質の甘さを相対的に比べた指数である「甘味度」を紹介し、糖質ごとの甘味度の特徴を述べる。

「甘味度」とは、ショ糖を100(1とする場合もある)として、食品の甘さを比べたもので、例えばブドウ糖は64〜74、マルトースは40、キシリトールはショ糖と同じ100、ソルビトールは60、といった具合である。「最も甘い糖」と呼ばれることもある果糖(フラクトース)は115〜173。

果糖の甘味度にどうしてこんな幅があるのかというと、立体構造の差などによって同じ糖質でもα型とβ型で甘味度が異なるからで、α−フラクトースの甘味度は60、β−フラクトースは180である。

興味深いのは、こうした糖質を混ぜた時の甘味度が、単純にその平均の甘味度にはならないことで、ブドウ糖とショ糖を混ぜると相乗効果により甘味度が増すことが分かっている。果糖とショ糖も混合すると甘味度が10%ほど上昇する。

さらに、甘味度は温度によっても変化する。ショ糖は温度によってほとんど甘味が変化しないが、果糖やキシリトールは温度が低い方が甘味度が増し、逆に40℃以上の高温になるとショ糖より甘味度が低くなってしまう。

この性質は、清涼飲料水において甘味が「ブドウ糖・果糖・液糖」(液糖はショ糖)という複合材料によってつけられていることをうまく説明する。冷やして飲む清涼飲料水の場合、低温で甘みが強くなる果糖と相乗効果を生むブドウ糖・ショ糖を混ぜることで少ない糖質で強い甘味を感じられるようにし、糖質の量を節約しているのである。

第4章は「砂糖の種類」。砂糖の工業的な分類を紹介する。本章についてはカタログ的な記述である。

第5章は「「糖」とは」。種々の「糖」について化学的に解説する。糖の構造、定義、異性体、アルドースとケトース、 ピラノースとフラトースなどについて。

糖は分子式CnH2mOmで表される物質で、その分子構造にヒドロキシ基(-OH)を2つ以上持ち、アルデヒド基(-CHO)またはケトン基(>C=O)を持っている。糖は鎖状構造の時もあれば環状構造の時もあり、分子式構造式は同じでも多くの異性体がある。またそれらが結合して二糖、三糖、そして多糖類も形成される。本章では、こうした複雑な科学的性質について述べる。

第6章は「光合成」。光合成の仕組みをかなり詳しく解説した後、光合成によって糖がどのように生成されるかを述べる。

本章は、砂糖百科の内容から少しはみ出ている印象がある。要するに、光合成によって生みだされたエネルギーの貯蔵物質として糖があるということが言いたいようであるが、C4回路(普通の植物の光合成に比べて効率がよい光合成の方式)みたいなことは砂糖を理解するには必要ないような気がする。

第7章は「砂糖の製造法」。甘蔗糖、ビート糖、精製糖について製造法を工業施設のレベルまで解説する。

 砂糖はありふれた食品であるがその製造法はあまり知られていない。甘蔗糖ならサトウキビから穫れたジュースを煮詰めて精製するという概略は分かっても、どのように濃縮していくのかといったことは知らなかった。本章は業界団体の出版の本領発揮とも言うべき章で、製造方法について明解に知ることができる。

ところで狂牛病騒ぎの時、砂糖の業界団体が「骨粉が輸入されないのは困る」みたいなことを言っていて、その時は「どうして砂糖製造に骨粉が必要なのか」と思っていたが、その謎が解けた。骨粉は、焼成して骨炭にし、砂糖の不純物の除去に使っていたのである。

白砂糖は漂白されているから体によくない、というのは先述したように根拠のない俗説で、白砂糖やグラニュー糖は、砂糖から徹底的に不純物を除去して作っているだけで漂白はされていない。砂糖の純粋な結晶は無色透明で、これが粒になっているから粉末が白く見える。

ではどうやって不純物を除去するのかというといくつか工程がある。まず糖液に石灰乳と炭酸ガスを吹き込んで溶液中の不純物を析出させる。次に骨粉から作った骨炭を通し、不純物を吸着させる。これは活性炭で浄水するのと原理は同じだが、コスト的な問題で骨炭が使われている。この工程でほとんどの不純物が除去され脱色される。さらに色素成分を除くため脱色用イオン交換樹脂に通される。糖液に含まれる色素成分には陰イオン性のものが多いのでこうしたイオンを選択的に吸着するのである。その後セラミックフィルターに通し、紫外線によって殺菌して精製が終わる。このようにして白い砂糖の原料となる無色透明な糖液が得られているのである。

第8章は「砂糖の特性」。砂糖の物理・化学的な特性を述べて、調理における種々の性質や食品加工において有用な性質について述べる。

物理的な特性については、密度、屈折率、溶解性、粘度、沸点、凝固点降下、浸透圧などが説明され、化学便覧的な記述である。化学的な特性については、まず加熱による変化を説明する。砂糖をうまく加熱するとカラメルができるのだが、これはどういう化学変化によるものだろうか。実は、カラメル化の化学変化は完全には解明できていないそうだ。加熱によって複雑な化学変化が起こり、非常に他種類の揮発性の生成物が生まれるということだ。カラメルとはかなり複雑な物質の集合だそうである。

もちろんカラメル化する前の変化もドラマチックで、色や粘性や水中での挙動がどんどん変わっていく。温度によってこのような微妙な変化をするからこそ、加熱程度をいろいろに調整することでお菓子や料理に砂糖だけで違った風合いをつけることができるのである。

次に酸がある状況でショ糖が加水分解しブドウ糖と果糖に分解されていくことを述べる。つまり有機酸がある溶液中では次第にショ糖がこのように分解されていくわけで、酸っぱいジャムやシロップを保存しているとだんだん味が変わっていくのはこのためではないかと思った。

次に話は調理における砂糖の使い方になる。お料理する上での実践的な砂糖の性質が説明されているのは本書ではこの項目だけである。といっても砂糖の使い方を教えてくれるわけではなくもっと一般的な性質について解説している。

例えば、砂糖は食品のテクスチャーを保つ。軟らかい羊羹を軟らかいまま保ったり、アイスクリームやマシュマロのように泡が内包されている食品の泡が崩壊しないできめ細かい泡のまま保持されるのは砂糖のお陰である。これらは砂糖の親水性(水を保持する性質)による。

また砂糖には防腐性もある。水を保持することで細菌が使える水(自由水)を減らすのだ。なんだか砂糖が入ったものはカビやすいというイメージがあるがそれは逆である。

さらに砂糖は芳香を保持する効果もある。食品の揮発性芳香成分はどんどん失われていくが、砂糖があれば砂糖が芳香成分を吸着してその香りを長く持続させる。

そして、砂糖は食品の造形性にも深く関わっている。つまり粘りや固さを調節したり、かさやボリューム感を持たせる(先述したような泡の保持などの面で)といったことにも使われる。しかもそれを、煮詰める温度のような簡単な調整方法によって様々に変えることができる。この造形性が食品としての砂糖(ショ糖)が優れている理由の一つである。他の甘味料、ブドウ糖、水飴、ソルビトールなどの場合は、味覚の他にテクスチャーの調整を別に考慮しなければならない。

さらに砂糖の乳化保持性、デンプン老化の防止効果などに言及して本書は終わっている。

本書はISBNが取得されておらず、取次−書店の流通を経なかった本であり、基本的には図書館にしか置いていない。 内容は極めて専門的で、確かに一般の人が読みこなすのは大変だ。しかし科学的に信頼できる内容で、それこそ百科事典的に興味のあるところだけ読むのでもかなり参考になると思う。

砂糖についてたった一冊で深く知ることができる本。



2015年9月8日火曜日

『フードトラップ 食品に仕掛けられた至福の罠』マイケル・モス著、本間 徳子訳

糖分・塩分・脂肪分を巡る、米国の食品メーカーの内幕を描いた本(原題 "Salt, Sugar, Fat")。

本書における著者のスタンスは次のようなものだ。今や米国人の食卓に加工食品は欠かせないものになっているが、食品メーカーは消費者の健康には目もくれず利益ばかりを追求し、結果として食べ過ぎを催すような過剰な糖分・塩分・脂肪分が使われた不健康な食品が跋扈している。そのために米国人の多くが肥満になり、生活習慣病に苦しんでいる。食品メーカーはこのような事態に道徳的な責任があるのだ!

しかし本書は、このような告発の書として書かれながら、その糾弾的なトーンに騙されずに事実だけ辿っていくと、正直なところ、食品メーカーを弾劾するつもりにはなれなくなる。この面では、著者の意気込みは空回りしている。

糖分・塩分・脂肪分は、これまでも何度となくその不健康さが喧伝されて消費者団体やFDA(アメリカ食品医薬品局)などから低減を求める活動が行われてきた。アメリカ人に肥満が多いのは清涼飲料水の飲み過ぎのせいだとか、糖尿病が多いのはチーズたっぷりのピザを食べ過ぎるせいだとか。

そのたびに食品メーカーの心ある人たち(そういう人が著者のインタビューに応じてくれている)は、低糖、低塩分、低脂肪の健康的な加工食品を開発するよう努力してきた。それが消費者の要請であり、いつまでも砂糖たっぷり、脂肪たっぷりの刺激的な食品ばかりを作っていては、やがて消費者にそっぽを向けられるのではないかと本気で心配してきた。

巨大食品メーカーのフィリップ・モリスも健康的な加工食品づくりに力を入れた時期があった。それには主力商品であるタバコでの苦い経験が効いていた。タバコは健康を害さないということを言い続けていたのに、結局はタバコと癌との因果関係が立証され、巨額の和解金を払う羽目になった。食品でも同じことが起こるかもしれないと考えたのは当然だ。

だが低糖、低塩分、低脂肪の加工食品は、どうしても味が落ちる。なぜなら、糖分、塩分、脂肪分がおいしく感じるように、私たちの舌が設計されているからだ。だから、消費者の求めに応じて開発したはずの「健康的」な製品は、結局鳴かず飛ばずで消えていってしまう。その間に、ライバル社の「不健康」な製品のシェアが伸びるのである。

食品店の限られたスペースを熾烈に奪い合っている大手食品メーカーにとって、シェアの奪い合いに負けるということは、社長のクビが飛ぶような事態だ。結果、健康的な製品の開発は脇に追いやられて、より売れ行きがいい、糖分・塩分・脂肪分たっぷりの製品が強力にプッシュされていくことになる。

そうして、米国人の肥満はもっと進んでいくのだ。だが誰が悪いのだろう? 利益ばかりを追求して「健康的」な製品を積極的に販売しない食品メーカーなんだろうか? 本書は、少なくとも食品メーカーには「道徳的な責任」がある、という。事実食品メーカーの中には、不健康な製品を売りまくったことに対する悔悟の念を持つものも少なくない。そして不健康な自社製品を決して食べず、新鮮な野菜や魚だけを食べるという経営者だっている。

確かに、自ら誇れるような製品を売っていない、食品メーカーにも責任の一端はあるのかもしれない。だが食品メーカーだって消費者の求めに応えようとはしている。でも「健康的」な製品がサッパリ売れないのなら、その「消費者の求め」とは何なのか? 消費者は、口では「こんな甘過ぎのお菓子は子どもに食べさせたくない」とか、「ポテトチップスを食べ過ぎると悪いことをしたような気になる」などと言いながら、実際には甘くないお菓子は買わないし、脂ぎって塩辛いポテトチップスでなければ食べないのである。そうでなければ、フィリップ・モリスは「健康的」な製品で一儲けしていたはずだ。

では悪いのは、バカな消費者なんだろうか? 口では健康的なものが食べたいと言いながら、実際にはジャンクフードが大好きな消費者に責任があるのだろうか?

しかし実のところ、悪いのは消費者でもない。悪いのは、安価なカロリーに頼らざるを得ない「貧困」である。経営者が自社製品を食べないのは当然だ。それらは、手頃な加工食品に頼りがちな、時間もお金もない労働者に向けて作られているからだ。彼らは確かに健康的な食事を求めてはいる。だが新鮮な野菜は結構高いし、それ以上に調理の手間が掛かる。そして塩を振りかけなくても肉が美味しくなるハーブには手が届かない。共働きで子どものランチを手作りする余裕がない。時間もお金もない人間に、できる食事は限られている。安くカロリーが取れて調理の手間もないジャンクフードだ。

本書は、糖分・塩分・脂肪分に抗しがたい魅力があるから不健康な食品が跋扈するのだ、というトーンで書かれているがそれは事実ではないだろう。上質な食事を楽しむエスタブリッシュメント(上流階級)がジャンクフードを愛していないことでもそれは明らかだ。そうではなくて、健康を犠牲にせざるをえない貧困層の食事が、自然と糖分・塩分・脂肪分という手っ取り早い魅力に頼ったものになるというのが実態だろう。何しろ、糖分・塩分・脂肪分は原材料としてかなり安い。ハーブを使うのに比べたら塩を振るのはタダみたいなものだし、肉は脂肪分が多いほど安くなる。

つまり、糖分・塩分・脂肪分の跋扈は食品会社の問題ではなく、貧困問題のはずである。しかし本書にはそういう視点はほとんどない。利益を追求する食品会社が悪い、というだけの表面的な話になってしまっている。せっかく綿密な取材をしているのに、そういう単純な構図に収めようとするからエピソードに深みがない。

それに、糖分・塩分・脂肪分の摂りすぎが問題だ、というのも、間違ってはいないがどうも俗説を真に受けているところがある。例えば、著者は糖分が肥満の大きな原因だと疑っていないが、砂糖のカロリーはそば粉と大差がない。それに砂糖が肥満の原因なら、炭水化物(体内で分解されて各種の「糖」になる)もやり玉に挙げられなくてはおかしいが、本書では炭水化物によるカロリーの摂りすぎは全く看過されている。

他にも、ちょっと口が滑っただけかもしれないが砂糖の摂りすぎで多動になるといった俗説も真に受けていたし、態度がちょっと科学的でない。本書の大きな問題点は、著者に化学の素養がないことで、次の記述を見つけたときはのけぞった。
「フルクトースは12個の水素原子が6個の炭素と6個の酸素に挟まれた白色の結晶で、…」(p195)
化学を少しでも囓ったことがある人なら、こんな間違いはしない。これはきっとフルクトースの化学式がC6H12O6で表されることから来る誤解で、この化学式を見てそういう構造なんだと思い込んだのだろう。しかし実際のフルクトースはそんな構造ではなく、せめて「6つの炭素原子に5つの水酸基(-OH)と一つの酸素、いくつかの水素がくっついた」くらいの説明にすべきである。

こういう調子で、著者は糖分・塩分・脂肪分について語りながら、その化学的な様相についてほとんど理解していないように見える。多くの食品科学者にインタビューしていながら、フルクトースの構造を理解していないというのは不可解だ。

また、仮に糖分・塩分・脂肪分の跋扈は食品会社の責任だ、と主張するにしても、本書には欠陥が多い。まず第1の欠陥は、エピソードだらけで体系的な主張が全くないことである。例えば糖分について語るなら、糖分は体にどれくらい悪いのか、米国人はいつからどれくらいの糖を摂取しているのか、それによって誰にどのような影響があったのか、その相関係数はどれくらいなのか、といったようなことを一つ一つ積み上げなければならないのに、本書では「元食品メーカーの誰それは○×(商品名)を売りまくったことを今では後悔している」みたいなエピソードだけで済まそうとしている。

第2の欠陥は、図表が全くないことである。エピソードだけで話を進めようとする当然の帰結であるが、本書には図も表も、ついでに言えば写真も一つもない。 糖分・塩分・脂肪分のように計測可能なものを相手にしているにもかかわらず、グラフ一つ出さないというのは全く科学的態度ではない。本書にも多少の数字は出てくるが、つまみ食いの数字ほど信頼できないものはなく、経年的に追える数字の変化を明解に出すべきだ。

第3の欠陥は、 食品会社が悪い、というのを最初から決めてかかっていることで、これは公平でないだけでなく全体の論旨が説得的でなくなっている。本当に食品会社に責任があるのか、あるとしたらどれくらいあるのか、というのを考察しなければ糾弾の名に値しない。「ほら、やっぱり食品会社が悪いでしょ」みたいなトーンだけで食品会社を悪玉にしようとしてもダメで、悪いなら悪いと徹底的に論証する姿勢がないとフェアでない。

このように本書には大きな問題がある。

しかし大きな問題はあるが、著者の取材は真面目であり、そこに書かれたエピソードは生き生きしている。米国の巨大食品会社の内幕を覗くようなスリリングさすらあるといえる。そして私が感じたのは、著者の主張するような食品会社悪玉論よりもむしろ、消費者に振り回される食品会社の哀れな姿である。

私も本書を読むまでは、米国の加工食品市場を牛耳る巨大食品メーカー、例えばコカ・コーラ、ネスレ、フィリップ・モリスといった企業は、米国の食事をも牛耳る巨人なのではないかと思っていた。しかし本書を読むとそういう巨人の姿は片鱗もない。やれ糖分がダメだ、脂肪分が多すぎる、といった移り気な消費者の動向に右往左往し、結局「健康的」な製品で失敗するお人好しにすら見える。彼らは巨大過ぎて、もはや自分たちが売りたい製品を売るという「贅沢」が出来なくなっているのだ。

つまり巨大すぎるから、巨大な需要に頼るしかなくなる。巨大な需要というのは、要するに米国の人口ピラミッドの最下層の需要ということだ。緻密にマーケティングして、あらゆる成分の分量を最適化する。製品を買ってくれる人たちの嗜好にバッチリ合う商品開発を行うのだ。そこに、こんな商品が美味しい、という理想はどこにも存在しない。ただ、どんな商品が「美味しいと思われるか」という現実だけが横たわっている。味の分かる料理人を雇う必要はなく、たくさんの微妙に味を変えた試作品を作って調査を行い、一番売れそうなものを商品化するだけの空疎な商品開発。

米国の食卓を牛耳っているかに見える巨大食品メーカーは、ただ消費者の動向をマーケティングして「美味しいと思われる」商品を出すだけのつまらない存在になってしまった。そうしなくては、巨大な企業を支えられないのである。青臭い理想を言っている暇はない、利益がでなければ投資家からせっつかれる。シェアを奪われれば、雇われ社長はクビになる。巨大であるがゆえに多数派に阿(おもね)るしか選択肢がない。こんなにも強大そうに見える企業が、移り気な消費者の動向に振り回される哀れな存在だったなんて、幻滅すら感じたのは私だけだろうか?

著者の筆致は非科学的で主張は独りよがりだが、豊富なエピソードで巨大食品メーカーの悲哀をも感じる本。

2015年9月1日火曜日

『カウンセリング・心理療法の基礎―カウンセラー・セラピストを目指す人のために』金沢 吉展 編

カウンセリング・心理療法の道に入る人に対するガイドのような本。

本書は、カウンセラーなどを目指す大学生に向けて書かれており、職業案内的なものも含めて専門分野に入っていく前のガイダンスである。であるから、心理療法の基礎、という表題になっているが治療法のハウツーではなく、本書によってそういう技術を身につけることはできない。むしろ、心理療法がどういうものであるのか、ということをしっかり知りたいという人のための本である。

本書で最も印象に残ったのは、カウンセリングの効果分析の項である。効果分析とは、カウンセリングには本当に効果があるのか。効果があるとすればどのような方法が効果的なのか、といったことを明らかにする研究である。たくさんのカウンセリングのサンプルから統計的にそうしたことを分析した結果、驚くべきことに、カウンセリングの理論や介入モデル(どういった助言をするかなど)間で効果に統計的な差はないことが明らかになったのである(M.L.スミスらの研究による)。

カウンセリングにはたくさんの心理理論が使われている。例えば、「心」には自我、イド、超自我といった構造があって精神を意識と無意識のメカニズムとしてとらえるのが「精神分析」、そういう反証可能性のない理屈を用いず、「心」をあくまで観察可能な行動の集積として理解しようとしたのが「行動療法」、逆に個人の主観的世界を「心」として理解しようとしたのが「クライエント中心療法」、といった具合である。

こうした種々の理論に基づいて、 様々なカウンセリングのアプローチが開発されておりその数は400以上もあるという。こうなってくると、そのうちのどれが最も効果的か、ということになるのであるが、先述のとおりその差はほとんどなかったのである!

ではカウンセリングの効果には何が決定的な要因となるのか。それは、クライエント(治療を受ける人)とカウンセラーとの間に「作業同盟」が築けるかどうかなのだ。つまり、クライエントがカウンセラーを信頼し、この人と一緒になって自分の心理的問題を解決しようという気になるかどうか、ということである。それには、カウンセラーの傾聴的姿勢とか誠実な態度とかいうことが重要になってくるが、心理理論はほとんど関係がない。

こうなってくると、じゃあ心理理論なんか必要ないのではないか、という疑問が生まれる。しかし、いくら自分の問題を傾聴して共感してくれる誠実な聞き手がいたとしても、クライエントがその人を心理の専門家ではない、ただの話し相手だと思ったとすると、「作業同盟」ができないので治療の効果が期待できない。やはりクライエントはカウンセラーをその道の専門家だと思うからこそ一緒に治療しようとするのであり、そのためにこそ心理理論という錦の御旗が必要なのである。本書はそこまでは書いていないがかなりそれに近いことが書いており、これには驚かされた。

このことを逆に考えると、信頼さえ構築できるのであれば心理理論など全く理解しない人であっても、心理的問題の解決にはかなり役立てるということになる。問題をよく聞き、理解し、共感し、力を貸すことができるなら、誰でも(特定の)誰かの立派なカウンセラーになれるのではないか。

カウンセリング・心理療法の世界をその限界まで含めて簡潔に説明してくれる良書。

2015年8月24日月曜日

『土壌微生物の基礎知識』西尾 道徳 著

農業に関係ある土壌微生物について簡潔に説明した本。

農業は土作りが大切だ! とよく言われる。が、土作りとは一体何なのかというのは往々にしてあやふやである。土作りとは、私の理解では土壌微生物の生物相(生態系)を作物の生育の助けとなるように整えることであり、平たく言えば、圃場に生きている微生物の数を増やすことである。

しかし、土壌微生物の世界は未だによくわかっていない。ただ、人間にとって有用な、または有害な微生物、つまり目立つ微生物について分かってきただけである。本書は、そういう農業に関する有用な、または有害な微生物について、基礎的知識を提供するものであり、土壌微生物についての初学者用の教科書のような本である。

本書で最もナルホドと思ったのは、土壌微生物の全体量を規定するのは土壌中の有機炭素の量だというところである。農業をやっていると、窒素やカリウムの量には敏感になるが、炭素の量というのには無頓着になる。植物は、根から炭素を取り込まないし、取り込む必要もない、要するに生育にほどんど関係がないからだ。

だが、多くの微生物にとっては炭素が主食にあたる。これは人間が炭水化物を主要なエネルギー源にしているのと同じである。だが、実は炭素は土壌中に不足しがちである。なぜなら、有機炭素というと、具体的にはセルロースとかヘミセルロース、リグニンといった物質になるが、これらはかなり頑丈な物質であり、なかなか分解できないからである。

特に木質の中心であるリグニンのベンゼン環を完全に分解できるのは、きのこの仲間の白色木材不朽菌だけだということだ。

ちなみに、炭素が微生物の主食とすれば、副食にあたる存在が窒素、リン、イオウだという。農業をやっていれば窒素やリンは十分過ぎるほど補給されるから、微生物層を豊かにしようとする時にボトルネックになるのが炭素なのである。本書には、普段農業をやっていると閑却しがちな炭素の重要性に気づかされた。

また微生物の世界は目に見えないからその変化に気づかないことが多いが、実はかなりダイナミックに変わっているということも心に残った。多細胞生物と違って分裂や死滅といった変化がとても早いから、土壌微生物の世界というのは、極端に言えば雨が降るだけで全然変わってしまう。そういう変化の大きな、動的なものの上に植物は生育しているわけで、そのダイナミズムを理解しなくては本当の意味では植物の栽培は理解しえないのではないかと思わされた。

本書はあくまで土壌微生物の教科書であり、土作りのハウツー本ではないから、土作りという言葉は全然出てこない。本書は、直接農業に活かせるというものではない。だがそのヒントがたくさん詰まっていて、こういう基礎的なものをちゃんと理解した上で農業をやるというのは重要だと思う。

難解な土壌微生物の世界を農業に関連する部分に限ってわかりやすく解説した、手軽だが堅実な本。