2015年9月8日火曜日

『フードトラップ 食品に仕掛けられた至福の罠』マイケル・モス著、本間 徳子訳

糖分・塩分・脂肪分を巡る、米国の食品メーカーの内幕を描いた本(原題 "Salt, Sugar, Fat")。

本書における著者のスタンスは次のようなものだ。今や米国人の食卓に加工食品は欠かせないものになっているが、食品メーカーは消費者の健康には目もくれず利益ばかりを追求し、結果として食べ過ぎを催すような過剰な糖分・塩分・脂肪分が使われた不健康な食品が跋扈している。そのために米国人の多くが肥満になり、生活習慣病に苦しんでいる。食品メーカーはこのような事態に道徳的な責任があるのだ!

しかし本書は、このような告発の書として書かれながら、その糾弾的なトーンに騙されずに事実だけ辿っていくと、正直なところ、食品メーカーを弾劾するつもりにはなれなくなる。この面では、著者の意気込みは空回りしている。

糖分・塩分・脂肪分は、これまでも何度となくその不健康さが喧伝されて消費者団体やFDA(アメリカ食品医薬品局)などから低減を求める活動が行われてきた。アメリカ人に肥満が多いのは清涼飲料水の飲み過ぎのせいだとか、糖尿病が多いのはチーズたっぷりのピザを食べ過ぎるせいだとか。

そのたびに食品メーカーの心ある人たち(そういう人が著者のインタビューに応じてくれている)は、低糖、低塩分、低脂肪の健康的な加工食品を開発するよう努力してきた。それが消費者の要請であり、いつまでも砂糖たっぷり、脂肪たっぷりの刺激的な食品ばかりを作っていては、やがて消費者にそっぽを向けられるのではないかと本気で心配してきた。

巨大食品メーカーのフィリップ・モリスも健康的な加工食品づくりに力を入れた時期があった。それには主力商品であるタバコでの苦い経験が効いていた。タバコは健康を害さないということを言い続けていたのに、結局はタバコと癌との因果関係が立証され、巨額の和解金を払う羽目になった。食品でも同じことが起こるかもしれないと考えたのは当然だ。

だが低糖、低塩分、低脂肪の加工食品は、どうしても味が落ちる。なぜなら、糖分、塩分、脂肪分がおいしく感じるように、私たちの舌が設計されているからだ。だから、消費者の求めに応じて開発したはずの「健康的」な製品は、結局鳴かず飛ばずで消えていってしまう。その間に、ライバル社の「不健康」な製品のシェアが伸びるのである。

食品店の限られたスペースを熾烈に奪い合っている大手食品メーカーにとって、シェアの奪い合いに負けるということは、社長のクビが飛ぶような事態だ。結果、健康的な製品の開発は脇に追いやられて、より売れ行きがいい、糖分・塩分・脂肪分たっぷりの製品が強力にプッシュされていくことになる。

そうして、米国人の肥満はもっと進んでいくのだ。だが誰が悪いのだろう? 利益ばかりを追求して「健康的」な製品を積極的に販売しない食品メーカーなんだろうか? 本書は、少なくとも食品メーカーには「道徳的な責任」がある、という。事実食品メーカーの中には、不健康な製品を売りまくったことに対する悔悟の念を持つものも少なくない。そして不健康な自社製品を決して食べず、新鮮な野菜や魚だけを食べるという経営者だっている。

確かに、自ら誇れるような製品を売っていない、食品メーカーにも責任の一端はあるのかもしれない。だが食品メーカーだって消費者の求めに応えようとはしている。でも「健康的」な製品がサッパリ売れないのなら、その「消費者の求め」とは何なのか? 消費者は、口では「こんな甘過ぎのお菓子は子どもに食べさせたくない」とか、「ポテトチップスを食べ過ぎると悪いことをしたような気になる」などと言いながら、実際には甘くないお菓子は買わないし、脂ぎって塩辛いポテトチップスでなければ食べないのである。そうでなければ、フィリップ・モリスは「健康的」な製品で一儲けしていたはずだ。

では悪いのは、バカな消費者なんだろうか? 口では健康的なものが食べたいと言いながら、実際にはジャンクフードが大好きな消費者に責任があるのだろうか?

しかし実のところ、悪いのは消費者でもない。悪いのは、安価なカロリーに頼らざるを得ない「貧困」である。経営者が自社製品を食べないのは当然だ。それらは、手頃な加工食品に頼りがちな、時間もお金もない労働者に向けて作られているからだ。彼らは確かに健康的な食事を求めてはいる。だが新鮮な野菜は結構高いし、それ以上に調理の手間が掛かる。そして塩を振りかけなくても肉が美味しくなるハーブには手が届かない。共働きで子どものランチを手作りする余裕がない。時間もお金もない人間に、できる食事は限られている。安くカロリーが取れて調理の手間もないジャンクフードだ。

本書は、糖分・塩分・脂肪分に抗しがたい魅力があるから不健康な食品が跋扈するのだ、というトーンで書かれているがそれは事実ではないだろう。上質な食事を楽しむエスタブリッシュメント(上流階級)がジャンクフードを愛していないことでもそれは明らかだ。そうではなくて、健康を犠牲にせざるをえない貧困層の食事が、自然と糖分・塩分・脂肪分という手っ取り早い魅力に頼ったものになるというのが実態だろう。何しろ、糖分・塩分・脂肪分は原材料としてかなり安い。ハーブを使うのに比べたら塩を振るのはタダみたいなものだし、肉は脂肪分が多いほど安くなる。

つまり、糖分・塩分・脂肪分の跋扈は食品会社の問題ではなく、貧困問題のはずである。しかし本書にはそういう視点はほとんどない。利益を追求する食品会社が悪い、というだけの表面的な話になってしまっている。せっかく綿密な取材をしているのに、そういう単純な構図に収めようとするからエピソードに深みがない。

それに、糖分・塩分・脂肪分の摂りすぎが問題だ、というのも、間違ってはいないがどうも俗説を真に受けているところがある。例えば、著者は糖分が肥満の大きな原因だと疑っていないが、砂糖のカロリーはそば粉と大差がない。それに砂糖が肥満の原因なら、炭水化物(体内で分解されて各種の「糖」になる)もやり玉に挙げられなくてはおかしいが、本書では炭水化物によるカロリーの摂りすぎは全く看過されている。

他にも、ちょっと口が滑っただけかもしれないが砂糖の摂りすぎで多動になるといった俗説も真に受けていたし、態度がちょっと科学的でない。本書の大きな問題点は、著者に化学の素養がないことで、次の記述を見つけたときはのけぞった。
「フルクトースは12個の水素原子が6個の炭素と6個の酸素に挟まれた白色の結晶で、…」(p195)
化学を少しでも囓ったことがある人なら、こんな間違いはしない。これはきっとフルクトースの化学式がC6H12O6で表されることから来る誤解で、この化学式を見てそういう構造なんだと思い込んだのだろう。しかし実際のフルクトースはそんな構造ではなく、せめて「6つの炭素原子に5つの水酸基(-OH)と一つの酸素、いくつかの水素がくっついた」くらいの説明にすべきである。

こういう調子で、著者は糖分・塩分・脂肪分について語りながら、その化学的な様相についてほとんど理解していないように見える。多くの食品科学者にインタビューしていながら、フルクトースの構造を理解していないというのは不可解だ。

また、仮に糖分・塩分・脂肪分の跋扈は食品会社の責任だ、と主張するにしても、本書には欠陥が多い。まず第1の欠陥は、エピソードだらけで体系的な主張が全くないことである。例えば糖分について語るなら、糖分は体にどれくらい悪いのか、米国人はいつからどれくらいの糖を摂取しているのか、それによって誰にどのような影響があったのか、その相関係数はどれくらいなのか、といったようなことを一つ一つ積み上げなければならないのに、本書では「元食品メーカーの誰それは○×(商品名)を売りまくったことを今では後悔している」みたいなエピソードだけで済まそうとしている。

第2の欠陥は、図表が全くないことである。エピソードだけで話を進めようとする当然の帰結であるが、本書には図も表も、ついでに言えば写真も一つもない。 糖分・塩分・脂肪分のように計測可能なものを相手にしているにもかかわらず、グラフ一つ出さないというのは全く科学的態度ではない。本書にも多少の数字は出てくるが、つまみ食いの数字ほど信頼できないものはなく、経年的に追える数字の変化を明解に出すべきだ。

第3の欠陥は、 食品会社が悪い、というのを最初から決めてかかっていることで、これは公平でないだけでなく全体の論旨が説得的でなくなっている。本当に食品会社に責任があるのか、あるとしたらどれくらいあるのか、というのを考察しなければ糾弾の名に値しない。「ほら、やっぱり食品会社が悪いでしょ」みたいなトーンだけで食品会社を悪玉にしようとしてもダメで、悪いなら悪いと徹底的に論証する姿勢がないとフェアでない。

このように本書には大きな問題がある。

しかし大きな問題はあるが、著者の取材は真面目であり、そこに書かれたエピソードは生き生きしている。米国の巨大食品会社の内幕を覗くようなスリリングさすらあるといえる。そして私が感じたのは、著者の主張するような食品会社悪玉論よりもむしろ、消費者に振り回される食品会社の哀れな姿である。

私も本書を読むまでは、米国の加工食品市場を牛耳る巨大食品メーカー、例えばコカ・コーラ、ネスレ、フィリップ・モリスといった企業は、米国の食事をも牛耳る巨人なのではないかと思っていた。しかし本書を読むとそういう巨人の姿は片鱗もない。やれ糖分がダメだ、脂肪分が多すぎる、といった移り気な消費者の動向に右往左往し、結局「健康的」な製品で失敗するお人好しにすら見える。彼らは巨大過ぎて、もはや自分たちが売りたい製品を売るという「贅沢」が出来なくなっているのだ。

つまり巨大すぎるから、巨大な需要に頼るしかなくなる。巨大な需要というのは、要するに米国の人口ピラミッドの最下層の需要ということだ。緻密にマーケティングして、あらゆる成分の分量を最適化する。製品を買ってくれる人たちの嗜好にバッチリ合う商品開発を行うのだ。そこに、こんな商品が美味しい、という理想はどこにも存在しない。ただ、どんな商品が「美味しいと思われるか」という現実だけが横たわっている。味の分かる料理人を雇う必要はなく、たくさんの微妙に味を変えた試作品を作って調査を行い、一番売れそうなものを商品化するだけの空疎な商品開発。

米国の食卓を牛耳っているかに見える巨大食品メーカーは、ただ消費者の動向をマーケティングして「美味しいと思われる」商品を出すだけのつまらない存在になってしまった。そうしなくては、巨大な企業を支えられないのである。青臭い理想を言っている暇はない、利益がでなければ投資家からせっつかれる。シェアを奪われれば、雇われ社長はクビになる。巨大であるがゆえに多数派に阿(おもね)るしか選択肢がない。こんなにも強大そうに見える企業が、移り気な消費者の動向に振り回される哀れな存在だったなんて、幻滅すら感じたのは私だけだろうか?

著者の筆致は非科学的で主張は独りよがりだが、豊富なエピソードで巨大食品メーカーの悲哀をも感じる本。

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