雑草に関する雑学の本。
本書は、ごくごく身近に存在する雑草が、実は多様で高度な生存戦略を持っていることを紹介する本である。この生存戦略の紹介はかなり興味深く、それを知ってどうということはないがフムフムと唸るような趣がある。
そして、著者はそこから人生訓的なものを引き出すのであるが、管見の限りではそこは若干浅薄な感じがある。確かに雑草の生存戦略は企業経営や人の生き方そのものに示唆を与える部分があるし、事実本書を読んでそういう面で感銘を受けた向きも多いようであるから、これはちょっと意地悪な見方かもしれない。
しかし、著者は狭い紙幅の中でちょっと気の利いたことを言おうとして人生訓的なものに落とし込んでいるような所があり、例えば小中学校の朝礼で校長先生が述べる訓話じみたところがある。別に内容自体がそんなに悪いわけではないが、どうにも底が浅いような気がしてしまう。
私としては、雑草の生存戦略そのものをより深く学べた方が面白いと思ったし、更に言えば、広大な植物の世界の中でその戦略がどのように位置づけられるのかといったような話も触れていけばなお面白かったと思う。
とはいえ、植物の随筆といえば、牧野富太郎以来、生態の簡単な紹介とそこから引き出される人生訓というのがセットで扱われるのがある種の慣例である。そうしないと、読者をものすごく限定してしまうのだろう。そういう意味では、本書の人生訓話は本題を邪魔しない程度であり問題があるほどとはいえない。
ありきたりの人生訓話はやや蛇足だが内容は面白い植物随筆の本。
2015年1月22日木曜日
2014年12月18日木曜日
『生活の世界歴史(8) 王権と貴族の宴』金澤 誠 著
16世紀から18世紀、フランス革命に向かって進む時代に生きた人びとを描く本。
本書も他の「生活の世界歴史」シリーズの本がそうであるように、歴史自体を語る本というよりは、歴史の中に生きる人びとを描く本である。年表的な歴史についてはごく簡略にしか述べられないので、フランス革命の概略は前提知識として知っておく必要がある。
舞台は大体3つに分けられる。まずは絶対王政の完成までである。次にフランス革命、そして最後にフランス革命に直面した王族たち。
絶対王政の成立の背景には、売官制があったというのが面白い。つまり官僚の地位を金で買えたのである。旧貴族が没落する中で新興の成金が現れ、しかも教養を身につけた彼らは官職すらも金で買うようになっていく。一見これは行政機構の腐敗に見えるのだが、旧い価値観を持つ貴族が排されて、清新な思想を持つ新興階級(ジャンティヨム)が勃興してくることはフランスの行政を動かす力の一つにもなった。
この新興階級は新しい時代の貴族としてやがて民衆と結託するようになる。そして様々な思想のゆりかごにもなるのである。その象徴の一つがサロン文化だ。サロンは女主人が切り盛りする一種の社交サークルであり、そこでは文学と芸術が語られ、貴族たちが風流を競い合った。しかしそれはただの風流合戦ではなく、そこで科学主義(デカルト、パスカルなど)が育ち、また政権への鋭い批判が論ぜられていくのである。
新しい時代の思想が百家争鳴する中で、旧態依然の宮廷との対決は鮮明になっていく。そして遂に起こったのがフロンドの乱だ。新貴族と民衆が王権に挑戦したのである。だがこれはあえなく失敗に終わる。そして再度権力を掌握した宮廷は、絶対王政を敷くことになる。
絶対王政は、フランスの宮廷文化の最後の仇花であった。そこからフランス革命まではもう一歩である。そして著者の筆は、この最後の仇花の中で生きた貴族たちの人生を鮮やかに活写する。恋に生き、哲学に生き、現実と妥協し、理想を追求し、栄達を極める。悲喜こもごもの人間模様だ。いきおい著者の筆は、歴史を語るそれよりも、文学のそれに靡いていく。それもやむなし、と思う。語るべきことは人生の襞の中にある。文飾、いや虚飾によってしか語れぬ世界を、著者は語ろうとするのである。
最後のフランス革命に直面した王族たちの話は、ちょっととってつけたようなところがある。だが、ルイ17世の逸話は面白い。ルイ17世が、密かに幽閉先から運び出されたのではないか、というのはフランス革命の最後を彩る謎である。もちろん、その謎は歴史のダイナミズムには関係ない謎である。だがそういう逸話によってしか、語られない歴史があるのだろう。
歴史というより文学的な、フランス革命を語る好著。
本書も他の「生活の世界歴史」シリーズの本がそうであるように、歴史自体を語る本というよりは、歴史の中に生きる人びとを描く本である。年表的な歴史についてはごく簡略にしか述べられないので、フランス革命の概略は前提知識として知っておく必要がある。
舞台は大体3つに分けられる。まずは絶対王政の完成までである。次にフランス革命、そして最後にフランス革命に直面した王族たち。
絶対王政の成立の背景には、売官制があったというのが面白い。つまり官僚の地位を金で買えたのである。旧貴族が没落する中で新興の成金が現れ、しかも教養を身につけた彼らは官職すらも金で買うようになっていく。一見これは行政機構の腐敗に見えるのだが、旧い価値観を持つ貴族が排されて、清新な思想を持つ新興階級(ジャンティヨム)が勃興してくることはフランスの行政を動かす力の一つにもなった。
この新興階級は新しい時代の貴族としてやがて民衆と結託するようになる。そして様々な思想のゆりかごにもなるのである。その象徴の一つがサロン文化だ。サロンは女主人が切り盛りする一種の社交サークルであり、そこでは文学と芸術が語られ、貴族たちが風流を競い合った。しかしそれはただの風流合戦ではなく、そこで科学主義(デカルト、パスカルなど)が育ち、また政権への鋭い批判が論ぜられていくのである。
新しい時代の思想が百家争鳴する中で、旧態依然の宮廷との対決は鮮明になっていく。そして遂に起こったのがフロンドの乱だ。新貴族と民衆が王権に挑戦したのである。だがこれはあえなく失敗に終わる。そして再度権力を掌握した宮廷は、絶対王政を敷くことになる。
絶対王政は、フランスの宮廷文化の最後の仇花であった。そこからフランス革命まではもう一歩である。そして著者の筆は、この最後の仇花の中で生きた貴族たちの人生を鮮やかに活写する。恋に生き、哲学に生き、現実と妥協し、理想を追求し、栄達を極める。悲喜こもごもの人間模様だ。いきおい著者の筆は、歴史を語るそれよりも、文学のそれに靡いていく。それもやむなし、と思う。語るべきことは人生の襞の中にある。文飾、いや虚飾によってしか語れぬ世界を、著者は語ろうとするのである。
最後のフランス革命に直面した王族たちの話は、ちょっととってつけたようなところがある。だが、ルイ17世の逸話は面白い。ルイ17世が、密かに幽閉先から運び出されたのではないか、というのはフランス革命の最後を彩る謎である。もちろん、その謎は歴史のダイナミズムには関係ない謎である。だがそういう逸話によってしか、語られない歴史があるのだろう。
歴史というより文学的な、フランス革命を語る好著。
2014年12月6日土曜日
『発展する地域 衰退する地域: 地域が自立するための経済学 』ジェイン・ジェイコブス 著、 中村 達也 翻訳
都市の発展と衰退のダイナミズムを説明する本。
著者のジェイン・ジェイコブスは『アメリカ大都市の死と生』で著名な都市の経済論の論客である。彼女は経済学者ではなくジャーナリストであったので、その筆は理論的というよりも経験主義的で、その主張は厳密でもない。しっかり定義せずに新出概念を提示するあたりは、ちょっと学問的に脇が甘い感じがする。
だが一方で、既存の経済学が見落としていた「都市を基本単位に据えた経済」というものを鮮やかに描くのは爽快である。国を単位に経済を見れば、統計などの面で対象を厳密に扱うことができ学問的にはなるけれども、経済のダイナミズムを解明するという点ではあまりにその解像度が低すぎて、どうして経済は成長する(できる)のかという基本的なことすらもよく分からない有様なのである。
本書では、都市を経済の単位に見て、経済成長のダイナミズムの中心を「輸入置換」という現象に置く。これは、これまで他の都市から輸入されていた財を、自ら生産するようになること、つまり輸入品を地場品で置換することである。これによって、これまで輸入に当てられていた資本を他の輸入品に振り向けることもでき、より重要なことに置換品の生産のための雇用も生まれるのである。
都市が発展していくためには、この「輸入置換」が次々に起こっていく必要がある。さもなければ、その「都市」は僅かな特産品のみを生産するだけの地域になってしまい、情勢の変化などに脆くなり、発展の道がなくなるからである。
では、この「輸入置換」が起こるためにはどうしたらよいのだろうか? 著者は、そのためには「インプロヴィゼーション」が必要だという。「インプロヴィゼーション」とは、即興的な工夫とでも言えばいいだろうか。先進都市から輸入されている物品は、発展途上にある都市にとっては高度すぎることが多く、自前でそのものを作ることは難しい。またそのための設備や材料も乏しいだろう。だから、あり合わせのものでなんとかする必要がある。この「あり合わせのものでなんとかする」のがインプロヴィゼーションである。
これをもっと乱暴にまとめてしまうと、経済発展の原動力は広い意味での「創造性」にあるといえるだろう。本書ではここまで乱暴にはまとめない。経済発展は個人の才覚だけの問題ではないことも示す。しかし大きく見れば、経済が活性化するということは、創造性ある事業家が様々な事業を地域内で興していくこと以外にはない、というのが著者の見解であるようだ。
後半は、逆に都市の衰退のダイナミズムについて述べる。都市に衰退をもたらすものの第一に掲げられているのは為替変動の間違ったフィードバックである。マクロ経済学では、ある国家の競争力が落ちてきたらその国家の通貨の価値が下がり、輸出がしやすくなることによって競争力を取り戻すというフィードバック機構がある、とされている。しかし著者によればこの仕組みはうまく働かない。
なぜなら、通貨は国家を単位にして流通しているが、経済の実態は都市が単位だからである。ある為替水準は、ある都市にとっては高すぎ、ある都市にとっては低すぎる。円安になると喜ぶ企業もあれば、いやがる企業もある。つまりいくら為替変動というフィードバック機構があっても、それは都市という単位ではさほど有益なものではないということである。
そしてひとたび衰退が始まると、それは坂を転げ落ちるように進んでしまい、挽回が難しい。競争力を取り戻すための現実的な処方箋は、ほとんどないようである。ただ、衰退を遅らせることはできる。それが著者のいう「衰退の取引」というもので、こういう取引が行われるようになることは衰退の象徴でもあり、また衰退しているさなかではやむを得ないものでもあり、しかもある面では衰退をさらに進めてしまうものでもある。
それは、軍需産業への依存、後進国への輸出に頼ること、また補助金に頼った取引である。これらは詰まるところ、都市に必要な創造性を発揮させる機会を減らし、経済を単調なものにしてしまうのである。だがしかし、これらを続けている間はある程度経済を回すことができる。だから衰退の過程にある都市(または国家)は、こうした取引を続けていくことになる。そしてこれらの取引への依存度がどんどん高まってしまい、経済は後戻りできないほど衰退していくのだという。
著者が提示する、この衰退の過程を回避する空想的な解決策は、都市ごとに通貨を独立させることである。そうすれば為替変動により適切なフィードバックが働き、都市は競争力を取り戻せるかもしれない、という。この思考実験は、まだまだ多くの検証が必要だと思う。それにいくらこの方法が有効だとしても、現実的な問題(例えば九州と本州で異なる通貨にするということだけでも、クリアすべき障壁が膨大にある)のために実現はできないだろう。
にしても、都市を単位に経済のダイナミズムを考えるという本書の視点は有効である。どうやって都市に経済発展を起こせるか、というところまでは踏み込んでいないが、そのヒントがたくさん詰まっている良書。
著者のジェイン・ジェイコブスは『アメリカ大都市の死と生』で著名な都市の経済論の論客である。彼女は経済学者ではなくジャーナリストであったので、その筆は理論的というよりも経験主義的で、その主張は厳密でもない。しっかり定義せずに新出概念を提示するあたりは、ちょっと学問的に脇が甘い感じがする。
だが一方で、既存の経済学が見落としていた「都市を基本単位に据えた経済」というものを鮮やかに描くのは爽快である。国を単位に経済を見れば、統計などの面で対象を厳密に扱うことができ学問的にはなるけれども、経済のダイナミズムを解明するという点ではあまりにその解像度が低すぎて、どうして経済は成長する(できる)のかという基本的なことすらもよく分からない有様なのである。
本書では、都市を経済の単位に見て、経済成長のダイナミズムの中心を「輸入置換」という現象に置く。これは、これまで他の都市から輸入されていた財を、自ら生産するようになること、つまり輸入品を地場品で置換することである。これによって、これまで輸入に当てられていた資本を他の輸入品に振り向けることもでき、より重要なことに置換品の生産のための雇用も生まれるのである。
都市が発展していくためには、この「輸入置換」が次々に起こっていく必要がある。さもなければ、その「都市」は僅かな特産品のみを生産するだけの地域になってしまい、情勢の変化などに脆くなり、発展の道がなくなるからである。
では、この「輸入置換」が起こるためにはどうしたらよいのだろうか? 著者は、そのためには「インプロヴィゼーション」が必要だという。「インプロヴィゼーション」とは、即興的な工夫とでも言えばいいだろうか。先進都市から輸入されている物品は、発展途上にある都市にとっては高度すぎることが多く、自前でそのものを作ることは難しい。またそのための設備や材料も乏しいだろう。だから、あり合わせのものでなんとかする必要がある。この「あり合わせのものでなんとかする」のがインプロヴィゼーションである。
これをもっと乱暴にまとめてしまうと、経済発展の原動力は広い意味での「創造性」にあるといえるだろう。本書ではここまで乱暴にはまとめない。経済発展は個人の才覚だけの問題ではないことも示す。しかし大きく見れば、経済が活性化するということは、創造性ある事業家が様々な事業を地域内で興していくこと以外にはない、というのが著者の見解であるようだ。
後半は、逆に都市の衰退のダイナミズムについて述べる。都市に衰退をもたらすものの第一に掲げられているのは為替変動の間違ったフィードバックである。マクロ経済学では、ある国家の競争力が落ちてきたらその国家の通貨の価値が下がり、輸出がしやすくなることによって競争力を取り戻すというフィードバック機構がある、とされている。しかし著者によればこの仕組みはうまく働かない。
なぜなら、通貨は国家を単位にして流通しているが、経済の実態は都市が単位だからである。ある為替水準は、ある都市にとっては高すぎ、ある都市にとっては低すぎる。円安になると喜ぶ企業もあれば、いやがる企業もある。つまりいくら為替変動というフィードバック機構があっても、それは都市という単位ではさほど有益なものではないということである。
そしてひとたび衰退が始まると、それは坂を転げ落ちるように進んでしまい、挽回が難しい。競争力を取り戻すための現実的な処方箋は、ほとんどないようである。ただ、衰退を遅らせることはできる。それが著者のいう「衰退の取引」というもので、こういう取引が行われるようになることは衰退の象徴でもあり、また衰退しているさなかではやむを得ないものでもあり、しかもある面では衰退をさらに進めてしまうものでもある。
それは、軍需産業への依存、後進国への輸出に頼ること、また補助金に頼った取引である。これらは詰まるところ、都市に必要な創造性を発揮させる機会を減らし、経済を単調なものにしてしまうのである。だがしかし、これらを続けている間はある程度経済を回すことができる。だから衰退の過程にある都市(または国家)は、こうした取引を続けていくことになる。そしてこれらの取引への依存度がどんどん高まってしまい、経済は後戻りできないほど衰退していくのだという。
著者が提示する、この衰退の過程を回避する空想的な解決策は、都市ごとに通貨を独立させることである。そうすれば為替変動により適切なフィードバックが働き、都市は競争力を取り戻せるかもしれない、という。この思考実験は、まだまだ多くの検証が必要だと思う。それにいくらこの方法が有効だとしても、現実的な問題(例えば九州と本州で異なる通貨にするということだけでも、クリアすべき障壁が膨大にある)のために実現はできないだろう。
にしても、都市を単位に経済のダイナミズムを考えるという本書の視点は有効である。どうやって都市に経済発展を起こせるか、というところまでは踏み込んでいないが、そのヒントがたくさん詰まっている良書。
2014年11月28日金曜日
『農産物直売所(ファーマーズマーケット)運営のてびき』都市農山漁村交流活性化機構 編
タイトルそのまま、農産物直売所をどう運営していくか、という本。
ただし内容は、農家数人が集まって自前で農産物直売所をオープンさせるということが中心で、例えば規約作り、店番の体制づくりといったことが述べられる。一方で、既にある直売所をどう盛り上げていくかといったような、いわば繁盛させるノウハウといったことはあまり書かれていない。それはいわば応用問題であるし、その店が置かれている状況次第で対応は千差万別にならざるを得ないから基本的テキストとしては十分な内容ではあると思う。
といっても、本書で述べることは、一度でも組織の中で働いたことがある人にとっては常識のようなことが多く、これまで組織で働くということを経験したことがない零細農家に、組織の運営を噛んで含めて教え諭すような調子のところがある。正直、その程度はさすがに農家でも分かってるんじゃないですか、と思う部分もあった。そういう所を簡素にして、運営の具体的なやり方に踏み込んだ方が(例示されている直売所の具体的運営方法を述べるなど) より役立つ本になったのではないかと思う。
個人的な興味は、既にある直売所をどう活用していくか、という視点で本書を読んだが、それに対するヒントはそんなに多くなかった。というより、ちゃんとしたリーダーを置き、組織の規律をしっかりとして、品物を切らさないようにし、出荷する農家がそれぞれ当事者意識をもって販売に当たり、情報発信やイベントを行うといったような経営の基本を着実にこなすということ以上に、重要なこともないのだと思う。
農産物直売所の運営について、良くも悪くも当たり前にやるべきことが書いてある本。
ただし内容は、農家数人が集まって自前で農産物直売所をオープンさせるということが中心で、例えば規約作り、店番の体制づくりといったことが述べられる。一方で、既にある直売所をどう盛り上げていくかといったような、いわば繁盛させるノウハウといったことはあまり書かれていない。それはいわば応用問題であるし、その店が置かれている状況次第で対応は千差万別にならざるを得ないから基本的テキストとしては十分な内容ではあると思う。
といっても、本書で述べることは、一度でも組織の中で働いたことがある人にとっては常識のようなことが多く、これまで組織で働くということを経験したことがない零細農家に、組織の運営を噛んで含めて教え諭すような調子のところがある。正直、その程度はさすがに農家でも分かってるんじゃないですか、と思う部分もあった。そういう所を簡素にして、運営の具体的なやり方に踏み込んだ方が(例示されている直売所の具体的運営方法を述べるなど) より役立つ本になったのではないかと思う。
個人的な興味は、既にある直売所をどう活用していくか、という視点で本書を読んだが、それに対するヒントはそんなに多くなかった。というより、ちゃんとしたリーダーを置き、組織の規律をしっかりとして、品物を切らさないようにし、出荷する農家がそれぞれ当事者意識をもって販売に当たり、情報発信やイベントを行うといったような経営の基本を着実にこなすということ以上に、重要なこともないのだと思う。
農産物直売所の運営について、良くも悪くも当たり前にやるべきことが書いてある本。
2014年10月20日月曜日
『イスラームの生活と技術』佐藤 次高 著
中世イスラーム世界における、紙の伝播と利用、砂糖の生産と消費について述べた本。
まず内容以前に、「生活と技術」というかなり広い視野を持った書名ながら、実際には紙と砂糖についての本であり看板に偽りがある。
内容については、短くまとめる世界史リブレットなだけあって、かなり簡潔である。本書の中心は砂糖の生産と消費であるが、それに関してはよく纏まっていると思った。一方、オマケ的な位置づけである紙の伝播と利用については、あくまで素材としての紙にのみ注目して書かれているのは少し残念で、やはり紙である以上書かれている内容の方が重要なわけだから、消化不良な感じがした。例えばイスラームの絢爛たる写本文化についてはもう少し考察が加えられてもよいと思う。
それから、砂糖については著者はさらに研究を進め、本書を著して後『砂糖のイスラーム生活史』という、より充実した本を執筆している。中世のイスラーム世界における砂糖生産はただ嗜好品の栽培・生産というだけでなく、世界史的・文化史的に非常に重要であるため、こうしたテーマでより深い本を出してくれることはありがたい。
タイトルと内容が乖離しているが、イスラーム世界における砂糖について手軽に学べる本。
まず内容以前に、「生活と技術」というかなり広い視野を持った書名ながら、実際には紙と砂糖についての本であり看板に偽りがある。
内容については、短くまとめる世界史リブレットなだけあって、かなり簡潔である。本書の中心は砂糖の生産と消費であるが、それに関してはよく纏まっていると思った。一方、オマケ的な位置づけである紙の伝播と利用については、あくまで素材としての紙にのみ注目して書かれているのは少し残念で、やはり紙である以上書かれている内容の方が重要なわけだから、消化不良な感じがした。例えばイスラームの絢爛たる写本文化についてはもう少し考察が加えられてもよいと思う。
それから、砂糖については著者はさらに研究を進め、本書を著して後『砂糖のイスラーム生活史』という、より充実した本を執筆している。中世のイスラーム世界における砂糖生産はただ嗜好品の栽培・生産というだけでなく、世界史的・文化史的に非常に重要であるため、こうしたテーマでより深い本を出してくれることはありがたい。
タイトルと内容が乖離しているが、イスラーム世界における砂糖について手軽に学べる本。
2014年10月14日火曜日
『中世シチリア王国』高山 博著
シチリア王国の歴史本。
シチリアというと、現在のヨーロッパではある意味で辺境の地であるため、高校の世界史などではほとんど登場しない。しかし地中海世界という視点に立ってみると、シチリアはそのほぼ中央に位置し、中世においては交易の拠点でもあり、また文明の結節点でもあった。
すなわち、ビザンツ=ギリシア正教文化、ローマ=カトリック文化、アラブ=イスラーム文化という3つの文化=宗教が混淆し合う場所がシチリアであった。本書は、まさにその3つの文化が交錯した中世シチリア王国の成立、発展を記述する。中世シチリア王国はおおよそ12世紀に栄えた国であり、本書の対象とする時代はかなり短い。歴史書というよりは、中世シチリア王国が存在した歴史的一瞬に注目してみようという本である。
筆の流れは悪くない。かなり煩瑣で複雑な歴史を適度に簡略化して、要点がわかりやすい。一般的な世界史では閑却されがちなシチリア王国が、実は世界史的にも重要でまた興味深い役割を果たしたということが強く述べられていることは、本書の大きな価値である。ただその副作用として、少し概略的な説明すぎる部分もあり、もう少し詳しく知りたいと思う箇所も散見される。新書という体裁である以上、致し方ないが。
もう一つ不満を述べれば、3つの文化を同列に扱っているというより、視点がローマ=カトリックからの記述が多いということである。 シチリア王国という国は、当時の国際社会の枠組みからするとローマ教皇から認められて存在している国なので、これも致し方ないのかもしれない。だが一方で、シチリア王国はギリシア人、フランク人、アラブ人の連合政権であったともみなせるわけだから、やはりこの3つの文化は同列に記述しなければおかしい。本書は、あくまで「(支配者だった)フランク人からみたシチリア王国の歴史」という面が強い。
特に私が興味を持っているのはアラブ人、というかイスラーム勢力で、イスラームの文化がどのくらいシチリア王国に影響を及ぼしているかというのが本書を手に取った主要な動機であった。だが、本書にはイスラーム文化はシチリア王国に大きな影響を及ぼしているという概説は述べるが、さほど具体的なところには踏み込まないし、そもそもアラブ人たちから見たシチリア王国という視点もないので、少し隔靴掻痒な感じがする。
シチリア王国というマイナーな国の貴重な歴史書であるが、フランク人寄りの視点が少し残念な本。
シチリアというと、現在のヨーロッパではある意味で辺境の地であるため、高校の世界史などではほとんど登場しない。しかし地中海世界という視点に立ってみると、シチリアはそのほぼ中央に位置し、中世においては交易の拠点でもあり、また文明の結節点でもあった。
すなわち、ビザンツ=ギリシア正教文化、ローマ=カトリック文化、アラブ=イスラーム文化という3つの文化=宗教が混淆し合う場所がシチリアであった。本書は、まさにその3つの文化が交錯した中世シチリア王国の成立、発展を記述する。中世シチリア王国はおおよそ12世紀に栄えた国であり、本書の対象とする時代はかなり短い。歴史書というよりは、中世シチリア王国が存在した歴史的一瞬に注目してみようという本である。
筆の流れは悪くない。かなり煩瑣で複雑な歴史を適度に簡略化して、要点がわかりやすい。一般的な世界史では閑却されがちなシチリア王国が、実は世界史的にも重要でまた興味深い役割を果たしたということが強く述べられていることは、本書の大きな価値である。ただその副作用として、少し概略的な説明すぎる部分もあり、もう少し詳しく知りたいと思う箇所も散見される。新書という体裁である以上、致し方ないが。
もう一つ不満を述べれば、3つの文化を同列に扱っているというより、視点がローマ=カトリックからの記述が多いということである。 シチリア王国という国は、当時の国際社会の枠組みからするとローマ教皇から認められて存在している国なので、これも致し方ないのかもしれない。だが一方で、シチリア王国はギリシア人、フランク人、アラブ人の連合政権であったともみなせるわけだから、やはりこの3つの文化は同列に記述しなければおかしい。本書は、あくまで「(支配者だった)フランク人からみたシチリア王国の歴史」という面が強い。
特に私が興味を持っているのはアラブ人、というかイスラーム勢力で、イスラームの文化がどのくらいシチリア王国に影響を及ぼしているかというのが本書を手に取った主要な動機であった。だが、本書にはイスラーム文化はシチリア王国に大きな影響を及ぼしているという概説は述べるが、さほど具体的なところには踏み込まないし、そもそもアラブ人たちから見たシチリア王国という視点もないので、少し隔靴掻痒な感じがする。
シチリア王国というマイナーな国の貴重な歴史書であるが、フランク人寄りの視点が少し残念な本。
2014年10月12日日曜日
『ピアノ―誕生とその歴史』ヘレン・ライス ホリス著、黒瀬 基郎訳
ピアノの歴史を図像によって辿る本。
本書は、ピアノの発達史というよりも、それを様々な図像によって確認してみようという本である。ピアノそのものが残っている場合はそれを見ればよいとして、ほとんどの古いピアノ(やその前身にあたる楽器)は失われているうえ、特にその姿形も記録されていない。そこで著者は、ピアノが描かれた絵画などをたくさん探し出してきて、隅っこに描かれたそれを興味深く眺めるわけである。
ピアノの歴史というと、まずは構造の変化を見てゆくということが普通だろうが、歴史を物語る主体が絵画であるために、記述はいきおいピアノを取り巻く社会ということになってゆく。絵画の中でピアノは主役ではなく、ある意味では調度品の一つに過ぎないからだ。
音楽を取り巻く社会の変化があり、それが楽器の変化を催し、楽器の変化によって演奏も変わり、そして楽器を演奏する人も変わってゆく。ピアノ発達史としてはシンプルな記述が多いが、どういう社会変化に基づいてピアノが変わっていったのかという物語の方は面白い。
私自身の興味は、ニコラ・ヴィチェンティーノという人が発明したアーキチェンバロという楽器がどのようなもので、ピアノの歴史の中にどのように位置づけられるのかという興味を抱いて本書を取ったのだが、これについては説明する部分がなかった(ただし関連する事項はある)。
イメージによってピアノの歴史が理解できる労作。
本書は、ピアノの発達史というよりも、それを様々な図像によって確認してみようという本である。ピアノそのものが残っている場合はそれを見ればよいとして、ほとんどの古いピアノ(やその前身にあたる楽器)は失われているうえ、特にその姿形も記録されていない。そこで著者は、ピアノが描かれた絵画などをたくさん探し出してきて、隅っこに描かれたそれを興味深く眺めるわけである。
ピアノの歴史というと、まずは構造の変化を見てゆくということが普通だろうが、歴史を物語る主体が絵画であるために、記述はいきおいピアノを取り巻く社会ということになってゆく。絵画の中でピアノは主役ではなく、ある意味では調度品の一つに過ぎないからだ。
音楽を取り巻く社会の変化があり、それが楽器の変化を催し、楽器の変化によって演奏も変わり、そして楽器を演奏する人も変わってゆく。ピアノ発達史としてはシンプルな記述が多いが、どういう社会変化に基づいてピアノが変わっていったのかという物語の方は面白い。
私自身の興味は、ニコラ・ヴィチェンティーノという人が発明したアーキチェンバロという楽器がどのようなもので、ピアノの歴史の中にどのように位置づけられるのかという興味を抱いて本書を取ったのだが、これについては説明する部分がなかった(ただし関連する事項はある)。
イメージによってピアノの歴史が理解できる労作。
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