2013年6月2日日曜日

『幸せに暮らす集落―鹿児島県土喰集落の人々と共に―』ジェフリー・S・アイリッシュ 著

民俗を学んだ米国人が鹿児島県南九州市の川辺にある小さな集落へ移住し、見聞きしたことや感じたことをエッセイ風にまとめた本。

著者は世界的な一流大学であるエール大学を出て清水建設に入社、その後なんと甑島に移住し漁師の仕事をしばらくした後、ハーバード大学と京都大学の大学院で民俗学を学び、1998年から川辺の土喰(つちくれ)集落というところに移り住んだ。翻訳や論文の編集、講演で生計を立てながら、この限界集落の小組合長(自治会長)も務めるという、なんというか超弩級の変わりモノである。

その内容は、変わりモノの著者自身に関する部分はあまりなく、集落の日々の様子、おばあちゃんやおじいちゃんから聞いた話、そして後半は、集落の人間がどう死んでいったかというもので、特にこれというところはないのに引き込まれる。著者の人を見る暖かい目、それに細やかな観察眼、深い思索に裏打ちされながらも素朴にまとめられた文章が心地よい。

この本には、教訓めいた部分はほとんどなく、日本の片隅で静かに滅びゆく小さな集落の日常が淡々と描かれるだけである。それなのに、人間にとってとても普遍的な何かが伝わってくるような気がする。それが何なのか、明確に述べるのは難しい。内容を要約できる本ではなく、完成された文学のように、何も言っていないのに何か大事なことが述べられている本。

2013年5月19日日曜日

『砂糖の世界史』川北 稔 著

砂糖の生産と消費の動向を巡って世界史を逍遙する本。

岩波ジュニア新書ということで、その語り口は極めて平易なのであるが、内容は充実していて、砂糖という「世界商品」を巡って歴史が動いていく様子が生き生きと描かれている。

著者はイマニュエル・ウォーラーステインのいう「世界システム」、すなわち近代世界をひとつながりのものと認識する考えを援用しつつ、サトウキビの生産が不可避的に奴隷労働と植民地を生み出し、植民地のみならず本国の歴史すら動かす大きな力となったことを解き明かす。

こうしたことは、概略的には高校の世界史あたりでも習うことではあるが、著者の筆致は非常に具体的であって、一般論に陥ることなく、当時の事情から「どうして今ある世界はそうなっているのか」を説明している。

砂糖、という具体的な商材にフォーカスすることで、「世界システム」をリアリティをもって感じることができる内容である。モノが語る世界史、というのは個人的に注目していたが、本書を読んでこれからいくつかその類の本を読んでみたいと思わされた。

大げさに言えば、歴史を学ぶ醍醐味を感じることのできる本だろう。

【関連書籍】
『砂糖百科』高田 明和、橋本 仁、伊藤 汎 監修
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2015/09/blog-post_9.html
砂糖についての科学的知識を網羅的に提供してくれる本。
砂糖についてたった一冊で深く知ることができる。


『山の神 易・五行と日本の原始蛇信仰』吉野 裕子 著

山の神 易・五行と日本の原始蛇信仰 (講談社学術文庫)
日本の山の神信仰の基礎として、蛇信仰及び五行説があったことを主張する本。

著者の主張によれば、山の神信仰には2つの考え方が影響しているという。第1に祖霊信仰としての原始蛇信仰。第2に五行説による猪信仰だ。

原始蛇信仰については、別の著書で著書はより詳細に論じているので、本書ではサワリを紹介する感じになっているが、正直なところあまり説得的な論拠は呈示されない。蛇が信仰された理由も、「蛇は男根型だから信仰された」というようなあまりに一面的な見方をされており、例証する様々な事例も牽強付会の謗りを免れないものであって、極めて不用意である。それにしても、著者は細長いものを見るとすぐに「男根型」を想起するのであるが、もう少し慎重に検証をしてもらいたいと思う。

猪信仰については、陰陽五行説において太陰にあてられる亥が山の神に見立てられたのではという推測から、山の神信仰の謎を解き明かしている。これは見方として独自なものがあり、興味深い点も多い。しかしながら、やはり結論が先にありきで例証をつまみ食いしている感が強い。

そもそも全体の調子が、推測を重ねながらそれをすぐに断定へと変化させ、軽々しく「謎が解けた」とする部分が多く、学術的に未熟である。処女作の『扇』ではそういう素人的な見方が面白かったが、著作を重ねてもそういう軽挙妄動を繰り返しているのを見ると、この人はずっと素人としての研究者だったのだなと感じる。もちろんそれが面白い部分もあるが、基本的には一部の好事家が喜ぶだけのものに終わってしまっている。

本書は書き下ろしではなく各誌に発表した論考をまとめたものであり、全体的なまとまりもイマイチである。学術文庫で900円は、正直過大評価と思う。見るべき部分もたくさんあるが、学問的な未熟さや軽率さが先に目に付いてしまう本。

2013年5月10日金曜日

『神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈』安丸 良夫 著

明治初期の神仏分離及び廃仏毀釈のアウトラインを書く本。

神仏分離と廃仏毀釈については大体理解しているつもりだったが、基礎的事実をちゃんと押さえておこうと思い本書を手に取った。少しいかがわしい(?)書名とは裏腹に、堅実な書きぶりであって、目から鱗が落ちるというわけにはいかないが、基本事項の復習にはよい。

本書によって改めて認識させられたのは、神仏分離はともかく、廃仏毀釈については元々明治政府の企図するところではなかったということだ。地方政府が中央政府の意を汲んで、というよりも深読みをして、また僧侶に対してやや不満を持っていた社人たちが率先して行った、暴動的な、偶発的な現象ということができる。平たく言えば、廃仏毀釈とは地方政府のフライングであろう。それは明治政府がむしろこれを規制し、勝手に廃仏をしないようにと諫めていることでも分かる。

ところで、この廃仏毀釈という逆風に対してかなり粘り強く立ち回ったのが浄土真宗であり、それがゆえに廃仏後の回復が早く、結果として信徒を多く獲得するに至ったということは特筆すべき現象のように思われる。本書では、このあたりのことはごく軽く触れられるに過ぎないが、もう少し浄土真宗(特に西本願寺派)の動向を詳しく知りたいものである。

全体として、概説書であるために詳細な説明はなされないが、神仏分離にしろ廃仏毀釈にしろ、概略だけではよくわからない部分もあり、隔靴掻痒の感は否めない。特にそれを感じるのは、これらについて定量的な記載があまりないことで、全国でどれくらいの社寺がなくなったのか、というような事がわからないことだ。というような不満はあるものの、新書としては大変水準が高く、コストパフォーマンスが優れている本。

2013年5月8日水曜日

『道教史』 窪 徳忠 著

古代から現代に至る中国における道教の歴史を追った本。

著者は道教研究の泰斗である窪 徳忠氏。1977年の出版ということで、近年注目を浴びて急に研究が進展してきた道教に関する著作としてはやや心許ないところもあるのだが(随所に「今後の研究に期待」と書いてある)、平易かつ実直に道教の歴史が纏められており、この分野の基本文献と呼べるだろう。

私自身の興味としては、宋代の道教に関心があって読み始めたのだが、それ以外の時代に関しても目から鱗が落ちるような記載がたくさんあり、蒙を啓かれる思いであった。

本書を通読して大変印象に残るのは、古来より仏教と道教はあまり区別されておらず、互いに大いに影響し合いながら発展してきたということだ。道教は民間信仰に立脚していたため、仏教のような体系的な教義や布教組織を持たない時代が長かった。だからきっと仏教に対抗意識があったのではと思いがちだが、著者によるとそうとも言えないという。むしろ仏教寺院に神仙の像が置かれたり、僧侶が道観(道教のお寺)で修行したりするなど、仏教側からの交流も盛んだったようだ。もちろん、道教側については言うに及ばず、神仙のみならず仏像も礼拝したのであった。

さらには、禅宗と道教の類似も言われてみれば著しいものがあり、禅宗とはある意味で道教化した仏教なのではないかと思うほどだ。ちなみに、宋代には儒仏道の三教を糾合させたようなコンセプトを持つ全真教が登場し、ここに道教と仏教の垣根は限りなく低くなったのであった。

本書は非常に勉強になるが、もちろん足りない部分もある。その一つが図像発展の歴史がほぼ全く取り上げられていないことである。本書が語る歴史のメインは時の政権と道教の関係にあり、 これはこれで重要だがビジュアルの情報がほとんどないのは残念だ。とはいっても、これはようやく中国に渡航できるようになった時代に出版されているわけだから、テキストベースの研究がメインになるのはしょうがない。

そしてもう一つが、教義史や政治史ではなく、民衆と道教との関わりがあまり丁寧に扱われていないことだ。民衆の信仰は文字に書かれないものだから、これもしょうがない面があるが、どのような社会階層の人が、どうしてその宗教を信仰したのか、というのは宗教学的には大変重要なことと思われるので、こういう面をもっと具体的に語れるように研究が進展して欲しいと願うばかりである。

いろいろと不完全なところはあるにせよ、本書はおそらく初めて纏められた一般向けの道教通史であり、その読みやすさ、情報量、そして著者の見識も含め全てが水準が高い。道教を深く知ろうと思ったら、必ず手に取るべき本であると思う。

2013年4月18日木曜日

『扇―性と古代信仰』吉野 裕子 著

扇の起源を古代の信仰から探る本。

扇とは何だろうか? 日本の芸能において扇は非常に大きな役割を担っている。能、日本舞踊、神事、落語などいろいろな場面で扇は様々な意味を付託され、扇一本が千変万化する。これらの芸能は、扇無しには成立しないと言ってもいいほどである。

しかし、この扇が一体何なのかということについて、著者が着目するまでほとんど研究されなかった。本書は、扇の本質を探求したおそらく初めての本である。

著者の主張は次のように要約できる。即ち、扇はもともとビロウの葉だったのであり、ビロウは男根を象徴するものであった。古代、神の顕現は男性と女性の結合による誕生を擬することによってなされると考えられていたが、その男性の象徴としてビロウが用いられ、それゆえにビロウの葉も神聖視されたのである。

私は、実は扇について興味を持ったのではなく、ビロウという不思議な植物に興味を持ち本書を手に取ったのであるが、なぜビロウが男根の象徴となったのかという点に関して、本書ではあまり説明がない。少し乱暴に言えば、「私がそう感じたのだからそうに違いない」という書き方になっているが、それは根拠としては弱い。

その他の点でも、きっとそうに違いない、疑いもなくそうである、という調子で推測が容易に断定に変化している箇所が散見され、全体の信憑性を低めている。

だが、沖縄では神木とされ、また天皇の大嘗祭においても重要な役割を果たすビロウという植物についてかつてこのような論考が纏められたことはないと思うので、古代研究に新たな視点を提供したという点で本書の意義は極めて大きい。推測が断定に変化している箇所は多いながら、当時の宗教学や民俗学の研究を見てみるとそう言う調子で書いている人は多いし、事実私は本書はエリアーデ的な書き方であると感じさせられた。

嚆矢であるがゆえに足りない部分も多いが、扇という広大な研究の沃野を切り拓いた本。

2013年4月16日火曜日

『日羅伝』台明寺 岩人 著

仏教公伝のころ、日本から百済に渡って高官に上り詰め、帰国し暗殺された日羅についての伝記的小説。

南九州に多くの事績を残す日羅について興味を持ち、少し勉強してみようと本書をノンフィクションのつもりで手に取ったら、実は小説だった。

というわけでところどころ飛ばしながら読んだのだが、小説としての出来は正直イマイチである。

難点を挙げれば、まずは小説としてのドラマ性がなく、年表風に日羅の生涯をたどるだけという筋が退屈である。そして文章表現の幅が乏しく、説明的・事務的な表現が多い。登場人物もどことなく平坦な印象で、いかにも作り物という感じがぬぐえない。味方の善人と敵方の悪人という構図も浅薄だ。

また、一番気になったのは時代考証が不十分であることだ。本書では宴会の場面が数回出てくるが、当時は今のようなアルコールはなく、酔っ払うまで酒を飲むことは考えられないのに、ほとんど現在と同じような宴会描写となっている。 さらに、百済や新羅、そして梁との交渉の場面において、通訳を通さずに会話がなされている点も気になる。当時の国際間の意思疎通は漢文による筆談だったと思われるので、リアリティに欠ける。

さらには、本書の本質とも言える日羅の情報量自体も多くない。日羅に関しては日本書紀以外の情報源が乏しいので、伝記的小説を書こうとすればどうしても日本書紀の内容を潤色するだけになってしまうのだろうが、このレベルであればわざわざ小説に仕立てる必要はなく、単に伝記(ノンフィクション)に留めてよかったのではないかと思う。

ただ、作者の気持ちになってみると、日羅の研究者でもない人間が伝記を書くことを躊躇う部分があったのだろうし、日羅をもっと多くの人に注目して欲しいという思いから気軽な小説という形をとったのだろう。しかしこの出来では、本書をきっかけに日羅に興味を持つ人は少ないと思う。

とはいうものの、本書には一つ救いがあって、巻末にある日羅に関わりある旧跡や神社仏閣の写真付きリストは貴重だ。著者自身が訪れた場所らしいが、こうした地味なフィールドワークをして本書を書いたというのは実直で好感が持てる。日羅は日本に与えた影響という点で謎が多く、探求しがいのあるテーマと思われるので、本書をかなり否定的に紹介したけれども、より注目が集まって欲しいと思う。