2025年12月21日日曜日

『図説 死の文化史―ひとは死をどのように生きたか』フィリップ・アリエス著、福井 憲彦 訳

ヨーロッパで人々が死をどう表現してきたか述べる本。

著者のフィリップ・アリエスは、アナール派の歴史家である。彼は熱帯植物の研究所に入り、その後開発途上国向けの技術協力研究所となったその研究所に37年間在籍した技術者であった。アリエスは本業でもそれなりの業績を残したらしいが、自ら「日曜歴史家」を標榜して、本業の傍らで歴史研究に打ち込んだ。代表的な著作として『〈子供〉の誕生―アンシャン・レジーム期の子供と家族生活』(杉山光信・杉山恵美子 訳)がある。

本書『図説 死の文化史』がいかなる本であるかは、アリエスのもう一つの主著『死を前にした人間』(成瀬駒男 訳)から説明する必要がある。彼は1950年代に図像と文学作品の中で子供がどう表現されてきたかを研究し『〈子供〉の誕生』を執筆した後、弟の死から感じてきた死への尊崇の念について研究することを決意した。彼は遺言書や墓碑銘を収集して、哲学や神学の観点ではなく、テクストに基づいて人々が死をどう表現してきたかに取り組み、1976年に8か月、W・ウィルソン国際学術センターの特別研究員になった時、一気呵成に書き上げたのが『死を前にした人間』である。その方法論は、「均質的資料の量的分析(墓の形態、地形、墓碑銘、奉納額などへの統計的方法の適用)とは対照的なもの、すなわち様々な非均質的資料から集団的感性の無意識の表現を解読する方法(『死を前にした人間』訳者あとがきp.582)」であった。

アリエスは多くの文学作品で、人が死ぬ場面(やそれにまつわる場面)がどう描かれているか、絵画作品でどう死や死体が描かれているか紐解き、ヨーロッパにおいて人が死をどう捉えてきたかまとめたのである。これは原著で650ページ、日本語訳で2段組み580ページもある大著だ。なお、この『死を前にした人間』も手元にあるが、これを読むには私のヨーロッパ文化の前提知識が足りないのでまだ読んでいない(最初だけ読んだ)。ともかくこの著作により、アリエスはヨーロッパにおいて人々の死への感性と葬送儀礼が大きく変化してきたことを、キリスト教の教えをほとんど援用せずに(!)説明した。まさにそれはアナール派の考え方――国家の動きとは無関係に社会は変化していく、という社会と歴史の見方を死について応用したものであり、アナール派の巨頭リュシアン・フェーヴルがいう「心性史」の一つの実践であった。

この大著『死を前にした人間』には一つの図版もなかったのだが(ただし日本語訳には参考として口絵が掲載されている)、アリエスはこの執筆に先立って1940年代から墓・墓碑・教会の納骨堂・芸術作品などの図像を収集しており、『死を前にした人間』を5分の1ほどに圧縮して図像を中心として改めて死の受容や表現についてまとめたのが本書『図説 死の文化史(原題:死を前にした人間のイメージ)』なのである。よって、本書は『死を前にした人間』が前提となっている。ただし本書は単なる図版付きの前著の要約ではない。また、前著で提示した枠組み(「飼いならされた死」「己れの死」「遠くて近い死」「汝の死」「倒立した死」)は、本書ではそのままは受け継がれていない。このように、本書は『死を前にした人間』を図像の歴史によって修正し発展させたものであり、それが完成したのはアリエス自身の死のたった4か月前であった。

私が本書を読んで最も驚かされたのは、ヨーロッパ文化≒キリスト教文化では、死体を写実的に表現したいという観念が、古代から近代にいたるまで強固に持続してきた、ということである。アリエス自身は、そのことを当然と考えて何も指摘していないのだが、日本人の私からするとこれ自体が日本人とヨーロッパ人(といってもアリエスは東欧をほとんど無視しているが)の死に対する大きな違いを象徴していると思う。

日本文化において死が表現されている図像作品というと、例えば中世の『餓鬼草子』があるがこれはかなり例外的なものだし、『一遍上人絵伝』のような作品では死も描かれるがそれはストーリーの構成上控えめに描かれているだけだ。文学作品では、どのように死を迎えたか、辞世の句は、といった死の表現は豊富であるにもかかわらず、図像となると日本の場合は死や死体を直接に描くということは少ない。この日欧の心性の違いは何に起因するのか、極めて興味深い。

「第1章 墓地と教会」では、古代から16世紀あたりまでの墓地が概観される。

本書が対象とするのはキリスト教世界である。ローマ帝国がキリスト教化した頃には、墓地は都市の外の街道筋に設けられていた。墓は都市から遠ざけられ、また貧しい人々は市外の捨て場のようなところに葬られたと考えられる。ところが紀元後2-3世紀頃に都市の中に墓地が出現する。それらは、(日本でいうところの)甕棺墓とか、整然とした地下の納骨堂(ローマのヴィニア・コディーニにある)のようなものだ。一方、4世紀頃には農村に墓地が出現する。畑の中(しばしば小高い場所)に、居住地から離れて集団的な墓地が設けられたのである。これまたアリエスは指摘していないが、すでにこの時期に家族ごとなどではなく、個人の墓がずらずらと並べられていることに日本との大きな違いを感じる。そして石棺の向きが整然と揃えられていることには、深い意味があるに違いない。アリエスはそれを「ひとつの世界イメージをあらわしているようにみえる(p.19)」という。

こうした墓地文化に決定的な影響を与えたのが聖人の存在であった。聖人の墓も当初は市街にあったが、聖人崇拝の高まりの中で聖人の墓が聖地と見なされて参拝されるようになり、そこに教会が建てられていった。元来キリスト教の教会に墓地の機能はなかったが、こうして教会に墓が付属するようになったのである。こうした教会墓地の発掘資料(5-6世紀)を見ると、そこには立派な(ほとんど定型化されていたと思われる、大きさの揃った)石棺がギチギチに並べられていて壮観でさえある。木棺ではなく石棺だったのか、木棺もあったが朽ちてしまったのかは本書からはわからないが、この頃の墓には石棺が本質的に重要だったことが窺える(それは死体を永久保存しようとする試みだったように思われる)。また重要な人物の石棺には入念な彫刻が施されていた。そして10から11世紀ごろには、すべての教会に墓が付属するようになった。日本で寺院に墓地が付属するようになったのはこの少し後だが、同じような歴史をたどっているのが面白い。

こうして教会墓地が都市内に設けられるようになった。具体的には、15-16世紀の墓地は教会に隣接した歩廊で囲まれた広場状の部分で、共同墓穴に遺体が何層にもわたって無秩序に積み重ねられて埋葬されていた。整然と石棺を並べた頃の墓地とは全く違うのだ。ここでは、墓に個人的な要素はなく、教会の敷地に埋葬されることだけが重要で、乱雑に死体が扱われていた。さらに面白いことに、新しい遺体を埋葬するために死体が定期的に掘り起こされ、その骨が納骨堂に乱雑に積み上げられたり、墓地の歩廊の上に芸術的に並べられたり(しかも個人ごとではなく骨の種類ごとにまとめて!)、装飾に使われたりした。 ナポリの納骨堂では整然としゃれこうべが並べられ、ブルターニュの納骨堂では骨が乱雑に投げ込まれていた。捨てることもできないからしょうがなく保管している、という感じである。これが16世紀までのヨーロッパの墓地であった。

「第2章 墓碑」では、再びアッピア街道の時代までさかのぼって墓碑が概観される。

整然とした石棺の墓地が設けられていたころ、墓碑も盛んに作られた。そうした墓碑は故人が何者であるか述べるとともに、しばしば故人の肖像があしらわれていた。個人のアイデンティティが重視されていたことは墓碑から見ても明らかだ。石棺にも碑文が刻まれていたり、または石棺が空の墓碑として使われたりすることもあった。後者はどういうことかというと、石棺が二段重ねになっていて、遺体が入っている下の段は埋められて見ることができないが、そのすぐ上の地上に空の石棺(つまりダミーの石棺)が乗せられて、ときに装飾が施されていた。これはあまり多くなかったものの、石棺が持つ意味を象徴する特異な事例である。つまり、石棺は元来は見えていることが重要だった。おそらく死体の存在を主張するためにだ。日本の中世ならば墓塔や供養塔が果たしている役割を、石棺が担っているのである。

ところが先述の通り、5世紀頃から墓から個人要素が希薄になると墓碑はなくなり、約5世紀にわたって姿を消した(!)。「これはまったく、とてつもない現象です(p.55)」。代わりに現れるのは十字架である。石棺の使用はいくつかの場所では13世紀まで続いたが、それらの石棺にも装飾や碑文はなく、教会の中にありさえすればよいという調子で、誰の石棺ともわからない状態となっていった。

この状況が変わったのは11世紀頃で、墓碑銘と似姿が造られるようになった。フランスの修道院長イザルズの墓碑は、長い碑文と故人が横臥している像が組み合わさったもので、これは後に広く製作された横臥像の初期の作例である。さらに13世紀末の教会参事会員エメリックの小さな墓碑は、その後の墓にかかわる図像の全てが詰め込まれている。それは、①死者の戸籍情報、②横臥像(死んでいるのか寝ているのかはともかくとして横たわった像)、③天使が魂を天上へ連れていく様子、④中心にいる父なる神(審判)、⑤祈禱像(故人が祈っている姿)で構成される(※)。11世紀頃、ただ教会に埋葬されればよく墓は匿名的なものだという意識から、故人の魂を昇天させ、それを長く記録に留めたいという意識に変わっていったようなのだ。そして墓碑は、「銘文つき墓碑」「横臥像の墓碑」「祈禱像の墓碑」の三系列によって構成されるようになった。これらの形態が普及したのは16世紀頃のようだ。普及に500年もかかっているのも面白い。

※アリエスはこの他に「⑥終末論的な要素」があるというが、私にはそれが具体的に何なのかわからなかった。

なお留意すべきことに、墓碑と墓(埋葬の位置)は必ずしも一致しなかった。墓碑はしばしば教会の内壁や外壁に据えられたが、埋葬は地下墓地であったりし、人々は死体の場所には無頓着であることが多かったように見える。また墓碑銘は最初は「修道士〇〇ここに横たわれり」といった簡素なものであったが、やがて長文になっていった。

「横臥像の墓碑」は、寝そべった姿の故人の彫像を墓碑とするものである。これは死んでいるのでも寝ているのでもなく、当初は明らかに立像が横倒しになったものであった(なぜ横倒しにしたのかは不詳)。なので横臥像ではなく立像の墓碑もある。本書に掲載されている13世紀から15世紀の横臥像の墓碑は、等身大で作られたとみられる大理石の立派な彫像で、かなり高位の人物であることは間違いないが、王族だらけとも限らず、騎士や宗教者でも作られている。また横臥像はしばしば石棺(や石棺に擬えられた石の台座)の上に表現されたが、例によってそこに死体が収納されていたわけではなかった。

さらに、アリエスは当然のこととして指摘していないが、この芸術作品のような横臥像には、しばしば作者の名前が刻まれているのに驚かされる。フィレンツェで1453年に死去したカルロ・マルスッピーニという人の横臥像の墓碑は、デジデリオ・ダ・セッティニャーノという人の「作品」である。この墓碑は、華麗な装飾が施された石棺を模した台座に、目をつぶった故人が横たわっており、墓碑ではなく芸術作品であると言われてもおかしくないものだ。日本でも、華麗な装飾を施した石塔の墓碑はあるが、これに石工の名が刻まれることは(絶対にないとはいわないが基本的に)なかった。墓碑の製作は彫刻家にとって「作品」を作るのと同様の仕事だったということになる。これも日欧の大きな違いであろう。

また、このマルスッピーニの横臥像は、明らかに立像ではなく横臥した彫像であり、さらには死んだ姿であると思われる。先述のとおり横臥像は最初は横倒しになった立像であったのだが、これがいつのまにか寝姿の像になり、死んだ姿を記録するもののようになっていった。ただし、これは死そのものを記録するというよりは、天に召された「至福者」の像であったというのがアリエスの考えだ(生きている時はまだ天に行っていないのだ)。

しかし15世紀以降、個人の死骸の表現は写実の度を増していった。1525年の傭兵隊長グイダレㇽロ・グイダレㇽリの横臥像は、恐ろしく写実的で完成度が高い。彼は明らかに昇天の至福に満ちているのではなく、死の苦痛に眉を顰めている。それにしても、非常な高位ではない人物が、高い完成度の芸術作品のような横臥像を製作されているのは、ルネサンス期の繁栄を考えても驚かされる。

ちなみに横臥像の墓碑は男性から興ったが、女性にも作られるようになり(それも読書する姿で!祈祷書なのだろう)、夫婦そろった横臥像墓碑も作られるようになった。それにしても16世紀の横臥像墓碑は、とんでもなく芸術的であり、技巧的だ。これらは教会から移動されることがないから日本人の目に触れることはほとんどないが、ヨーロッパの彫像史の重要な潮流になっているのは間違いない。

次に祈祷像とは、故人の立像が横臥している姿で祈りの体制をとっている像から始まり、横臥像とそれほどはっきりとは区別できなかったが、教会の壁面に据えられることが多かったという点に違いがあったのと、これは写実的な表現よりも、聖書のストーリーによって墓碑を(しばしば過剰に)装飾するという方向へ向かっていった。16世紀フランスの、城館の礼拝堂にある墓碑では、像の台座に「ラザロの蘇生」の場面が入念に浮き彫りされている。故人の記録や顕彰より、聖書物語の場面の方が中心になっているのである。ブルゴス大聖堂にある1536年の副司教ペドロ・デ・ビリェハスの墓碑は驚異的だ。大聖堂の壁に据えられた祈祷像の上方に、受胎告知からの場面が途方もない規模で彫刻され、その頂点には父なる神が据えられている。まるでロダンの「地獄の門」を髣髴とさせる壮大な墓碑なのだ。もはや墓碑は墓碑であることを超えて、天上の世界への入り口のような扱いになっている。

つまり、横臥像の系譜と祈禱像の系譜は、同じように横たわる人物という基本的デザインから出発したが、一方は死体の表現へと向かい、一方は昇天する魂の行き先(天国)の描写を含むより多様な表現を包摂する方へと向かった。そして横臥像の系譜は16世紀に途絶え、祈禱像の系譜が貧しい人の墓にも展開するようになるのである。そして、もはや祈禱像は横臥せず、合掌した祈りの姿勢をとって、昇天することをひたすら祈るようになった。17世紀のヴィルロワ大公廟には、一族が合掌して跪いている(おそらく等身大の)写実的な大理石彫刻がずらずら並んでいる。死してなお祈り続けているのである。

そして、もはやこの祈禱像は、墓碑であるというより、はっきりと故人の肖像を志向していた。そもそもそこに死体が埋葬されていなかったことは言うまでもない。であれば、それは墓碑であるよりも故人を記録し顕彰するための肖像彫刻であると考えるべきだ。そのため、彫刻家は、故人が生きている時に製作を準備したが、それができなかった場合、死後まもなく石膏で型を取って(→デスマスク)、それを元に彫刻がつくられた。こういう流れから、墓碑は死の瞬間の故人を固定するようなものになっていくのである。14世紀にはすでにそうした「作品」が散見される。つまり「死面」(死んだときの顔だけの彫刻作品)とか死者の胸像のようなものが造られたのである。これまた、日本的感覚からするとちょっと異様な墓碑の形態だ。生前の姿の肖像ではなく、死体の肖像が写実的に表現されるようになったのである。ただし先述の通り、本来は生きている間に肖像を準備するのが望ましかったので、墓碑は生前の姿と死体の姿という二系統が存在していた。だが生前の姿の系統の方は、(墓碑ではない)単なる肖像彫刻と区別がつかなくなり、やがて溶解していったように見える。ヴェネツィアのサンタ・マリア・ゾベニーゴ・オ・デル・ジーリオ教会の正面には、17世紀のバルバロ家の一族の生き生きとした彫刻が並んでいるが、これは墓碑であるという性格が希薄になっている。そしてこの17世紀の大きな像からなる墓碑は、横臥像から始まり祈禱像まで続いてきた一連の動きに終止符を打つものであった。

なお、一般の墓碑の大多数が、こうした高度な芸術性を持つものでなかったのはいうまでもない。大多数は平面の石板に銘文を刻む墓碑銘という形式を好み、そこには図像があしらわれることも多かったが、やはり浮彫りの費用がかさばったためか、大多数は文章の方が中心であった。そこには面白いことに、「教会には〇〇を遺贈し、その引き換えに永続的な回向を依頼する」というような契約の文面が広く見られた。しかもそこには、故人とその相続人と同資格で、公証人の名前が刻まれているのである! 故人は教会との契約に基づいて確かに天国へ召されたという証明書のごときものとして墓碑銘が刻まれたということになる。逆に言えば、それがなければ人々は天国に行けないものと観念していたのかもしれない。

「第3章 家から墓まで」では、人が死ぬときはどんな状況で、死んでからどう埋葬されたのかを絵画資料を基に述べている。ここでは、古代の資料はなく、中世(11世紀頃)から始まっており、ほとんどは14世紀以降だ。

14世紀、人が死ぬときには大勢の人が集まって、最後の罪の許しを請う儀式を行った。これは死にゆく人に長いロウソクを持たせて行うものらしい(後には、参列者の方が長いロウソクを持つように変わったようだ)。修道僧や高位聖職者の場合は、今わの際に教会に運ばれ、最後の聖餐と終油を受け、息を引き取った後に「最後の祈禱」を受けた。ともかく、人が死ぬときには聖職者が呼ばれ、告解とか聖体拝領とか、さまざまな儀式が行われたのである。そしてその場には聖職者だけでなく大勢の人が集まっていた。これまた驚くべきことに、この臨終の場面は画題として好まれ、芸術作品には様々な人の入滅の場面が描かれた。またこうした臨終の場面でなくても、死の間際はよく画題となった。有名なところでは、『ソクラテスの死』(ダヴィッド)、『聖母の死』(カラヴァッジォ)などが想起できる。これも日欧の違いを感じさせる事象だ。

そしてそれらの作品を見てみると、19世紀には司祭が描かれなくなっていることが注意される。「キリスト教的な死の荘厳な儀礼は、迷信的なものだと見なされ(p.164)」るようになったらしい。そして参列者の数も減っている。かつては大勢が死に立ち会ったが、もっとも近親で悲嘆にくれる親族のみに限定されるべきものとなっていった。アリエスはこれを「死の死化(p.165)」という。しかしながら、高貴な人から貧しい人まで、臨終の場面が大量に描かれたことを考えると(それにしても、貧民窟で死ぬ母親がどうして画題になったのか理解に苦しむ。誰がどこにその絵を飾ったのだろう⁉)、死が秘匿すべきものでなかったことだけは確かだ。

次に人が死んだ後について述べる。ここは時代が行ったり来たりしてわかりにくい。まず中世では、遺体は裸にされて屍衣という布によってくるまれ石棺に安置された。中世では屍衣をぴったりと縫い合わせて死体を覆っていた(顔も見えない)。13世紀頃に、死体が目に見えるのはよくないことだという風潮になったためらしい。また中世の半ばには木の棺が普及する(アリエスは強調していないが、これは大きな変化だ)。それでも屍衣の習慣は変わらなかった。ただし南ヨーロッパでは頭部だけは見えるようにされた。

遺体の葬送は、中世の初期ではかなり簡素だったらしく、それを描いたものは残っていない。聖職者とか高位の者が死んだ場合も特段の葬送行列はなかったらしい。一方で、埋葬には意味が付与されており、13世紀の墓にはしばしば副葬品が伴っている。盃や壺、水差しといったものが副葬品として出土しているが(何が入っていたのか不明)、不思議なことにこうしたものを埋葬することについて同時代の記録がない。おそらく知的エリートにとって不合理な習俗だったのであろう。なお、先に「人々は死体の場所には無頓着であることが多かった」と書いたが、それは全ヨーロッパ的な現象ではなかったようだ。

中世半ば以降には、徐々に葬送行列が儀礼化する。また都市においては、敬虔な俗信徒たちの団体(信心会とか兄弟団などと呼ばれる)は貧者たちを葬送する手伝いをしていたらしい。14~15世紀には大勢での葬送行列がありうべきものとして観念されていた。

そして徐々に、(少なくとも高位の人の場合は)死体は人々に示されるべきだと考えられるようになり、防腐処理が施されたり(内臓が腐りやすいので取り出すなど)、遺体の代わりの蝋人形のようなものが代わりに葬送行列で見せられたりした。こういう代理の像は言うまでもなく本人に似ている必要があったから、デス・マスクが取られるようになった。また中世末頃からは、葬送行列は土葬の前に教会の内部へゆくようになった。聖壇でミサをあげるためである。臨終の儀礼や埋葬の意義が退潮して、死後のミサの方が大事になっていったのである。

こうした変化に基づいて、16~18世紀では、死体の安置は(貴族を別にすれば)家の門口や通りにおいてなされていた。そして19世紀には全く新しい死の文化が登場することになる。

「第4章 あの世」では、あの世や死者の世界が中世以降にどう表現されてきたかを墓碑や芸術作品に基づいて述べている。

古代(カロリング朝)の人々は、死者の魂は天使に連れられて天国へ行く、とシンプルに考えていた。ところが中世になると、死者は天国へ行くのではなく、一種の待機場所に置かれ、キリストが解放してくれるのを待つと考えられるようになった。すなわち、死者の魂は「最後の審判」を受けるまで待機するというわけだ。「最後の審判」という観念は壮大に表現された(1335年ポルトガルのイネス・デ・カストロの墓碑を見よ!)。復活した死者は一人ひとりが人生の決算表を持って裁きを受け、悪しき行いをした人間は地獄に落ちることとなった。地獄はビザンツの宗教画ではつつましやかなものだったが、13-16世紀には厖大で雑多な世界へと発展する。

なお、待機場所の観念は14世紀に神学者たちによって否定され、死者の魂は直接に天国や地獄に行くように考えられるようになったらしい。ただし、待機場所の観念は公式には否定された後も長く影響を持ち続けた(後述)。16世紀には「最後の審判」は墓碑からは姿を消し、地獄がしばしば表現された。墓碑に地獄を表現するとはいったいいかなる心象なのか不思議だ。

15世紀に流行した『往生の術』という小さな印刷本には、人が死に直面した時に、誘惑するために、あるいはそれを妨害するためにいろんな存在が取り囲む様子をありありと表現されており興味深い。そして死は生の終わりというより、一種の救済でもあった。最後の審判ではなく、死の瞬間に全生涯が清算され、それが神によって認められるというのが『往生の術』の死生観なのだ。

同じ時代、「主流とはいえない(p.240)」が、全く別の死の潮流があった。それは「マカーブル(おぞましい)」(死)と呼ばれており、その主人公は「トランジ」すなわち腐乱しつつある死体である。アラス(フランス)の旧サン=ヴァースト修道院にある15世紀の横臥像は衝撃的だ。骨と皮ばかりになって、体中に蛆が湧いているのだ。このような横臥像がなぜ製作されたのか理解に苦しむ。一体、この横臥像で表された人物はいかなる考えでこのようなおぞましい像で表現されたのだろう。ともかく、この潮流では、死は思い切りおぞましく表現され、絵画には死神がおどろおどろしく死体を取り囲んだ。この潮流は、14-15世紀のペスト禍が生み出したものと解釈されている。

少し時代が遡るが、11−12世紀にあの世観に大きな変化があった。それは煉獄の発見である。煉獄とは、地獄に落ちることはまぬかれるが、一定の罰を受けてから救済されるという場所である。これは先述の「待機場所」に取って替った。煉獄のイメージは長いこと表されなかったが(地獄っぽかったり天国っぽかったりして固定的イメージがなかった)、17世紀以降に爆発的に表現された。煉獄は、あの世ではあるが未だ天国や地獄には行っていないという意味で現世に近い。故人が煉獄にいるという観念によって、故人の魂をより身近に感じられたようだ。故人は、アイデンティティ(=精神や肉体)を保持したまま、いまだに存在し続けていると考えられたのだ。なお、煉獄はキリスト教の教義にはうまくはまらなかったのだが、民衆側が主体となってその観念が成長した。

本書には詳らかでないが、17世紀には横臥像にしろ往生術にしろ、あるいはトランジにしろ、死の表現は下火になったように見受けられる。それは、カトリックとプロテスタントの抗争が影響しているのかもしれないがよくわからない。ともかく、18世紀になるとそれまでの伝統的な死者の表現は影を潜め、ふたたび屍衣のヴェールに包まれた立像として表されるようになった。そして18-19世紀は死にまつわる豊かなイメージは姿を消し、不信仰を咎める教会プロパガンダ(壮大ではあるが個人的・個性的な要素が希薄でひたすらに教会への服従を喧伝する作品)が大量に表現されるようになった。

このような中、19世紀にあの世は「愛しあっていた者どうしが再会できる場だ(p.263)」という新しい観念が登場する。19世紀といえば、幽霊との交信術がまことしやかに研究されたが、人々は死者と再会することを求めていたのである。

「第5章 すべては空なり」では、16世紀から始まる死を芸術に表現する潮流について概観される。

それは「暴力と恐怖とセックスと(p.272)」が、生と死を媒介として混じりあったものである。この潮流では、おどろおどろしいトランジは、乾いた骸骨になって戯画化される。トランジは個別的死者であったが、この骸骨は抽象的な「死」を表すアイコンになっているように見受けられる。そして死神は骸骨によって表徴された。また若い娘と死(骸骨やトランジ)がエロティックに絡み合う絵画が制作されるようになった。若い娘の死が画題になるのはわかるとして、その陰部に手を伸ばすのが骸骨であるというのは今日的感性からすると全く腑に落ちない。

また死体や骸骨は、解剖学的な興味のまなざしを向けられるようになった。解剖の様子は画題となり、解剖標本も芸術作品のように扱われた。もしかしたら、学問的な興味にかこつけて、実はエロティックな興味が先行していたのかもしれない。ともかく、解剖学的に正確で戯画化された骸骨はいわば「市民権」を得て、多くの芸術に登場した。「死を想え(メメント・モリ)」だけではその現象は説明できない。

17世紀後半、ローマのサンタ・マリア・デル・ポポロ教会に設置された彫刻家ジョヴァンニ・バッティスタ・ジスレーニの墓碑は、上部に本人の肖像があるのに、下の方に骸骨になった本人の彫刻が安置されている。何のための骸骨なのだろうか。18世紀前半、ルクセンブルクの教会に納められた葬礼メダルでは、骸骨になった夫婦が抱き合った姿が表現されている。なぜ二人は骸骨で表現されなければならなかったのかこれまた不明だが、この作例からは骸骨の表現が広く受け入れられていたことが如実に窺える。

さらに骸骨は、天使のように羽を生やし、故人の魂を天に連れて行く表現もされるようになった。羽を生やした骸骨がキリスト教の教理の中でどう理解されたのか極めて興味深い。このように、骸骨が活躍する一方で、同時にあの世観は地殻変動を起こしつつあった。それを象徴するのが、1709年のローマの墓碑だ。それは夫婦の墓碑で、夫の彫像の下には「虚無(ニヒル)」と、妻の彫像の下には「闇(ウンブラ)」とだけ刻まれているのだ。もはや確固たる信仰は退潮していた。日常的なものの中に骸骨が置かれた静物画は、「空虚」なるジャンル名を以って呼ばれる。死はいつもそばにあるで、生ははかないのだ。

また骸骨そのもの(かつて教会の納骨堂に放り込まれていたもの)やミイラが、展示されるようになった。ローマのサンタ・マリア・デㇽラ・コンチェツィオーネ教会の地下礼拝堂(カプチン会のもの)は、18世紀におびただしい骸骨で装飾が施されている。特にイタリアではこのような顕示が長い間続いていたらしい。

これまでは骸骨の系譜であったが、再び16世紀に戻って別の系譜について述べる。それは、人の死体を写実的に表現するものである。第2章では写実的な死体が表現された墓碑を見たが、16世紀には絵画でも死体が好んで描かれた。故人を表現するにしても、生き生きとした姿ではなくなぜ死んだ姿を描くのか、不思議だ。特に17世紀の『死んだ子供』という絵画など、「どうせなら楽しく笑った子供のを絵を描いてもらったらよかったのに」と思ってしまう。アリエスはこうした作品を「家の室内にかけられるためのものだったにちがいありません(p.318)」というが、誰が好き好んで死体の絵を掛けたのかと思う。

17世紀には死体の写実性はさらに進み、絵画の中ではリアルな死が劇的に表現された。ルーベンスの『墓に納められる聖ステパノ』などはその際立った例である。19世紀には、死はもはや官能的に表現されている。これは日本で切腹が美化されているのと似たような部分がある。こうした動向を総括して、アリエスは「わたしたちの文化には16-17世紀の前後で、驚くほどの差異があることに、目を奪われます(p.331)」としているが、私にはその差異が明確にはわからなかった。ただ、やみくもに昇天を願うとか地獄を怖れるとかではなく、好奇のまなざしが「死」に注がれ、死にロマンが付与されるようになったようには感じられる。

「第6章 墓地の回帰」では、18世紀末から登場した新しい墓地のモデルについて述べている。

第1章では教会付属の墓地が述べられたが、一方で野外墓地もなかったわけではない。野外墓地で重要なアイコンになったのが十字架である。墓に十字架を立てるのは意外と古くメロヴィング朝からと考えられる(仮説としている)。そうした墓地では、墓石の上部に丸い枠の中に表現された十字架が刻まれていた。十字架に終末論的要素を付与するのは、元来のキリスト教の教義にはなく、「たぶん、キリスト教圏の神経中枢にあたる部分ではなく、孤立した、あるいは周辺的な地域(p.338)」に墓に十字架をあしらう習慣が続けられたと考えられる。

しかし墓石に十字架のみをあしらうことだけでは人々は満足せず、16世紀頃からは徐々に故人の個性を墓石に反映させるようになった。墓石自体が十字架型に加工されて、その内部に職人の道具が刻まれている、というような調子である。そして18世紀頃になると、農民や職人など、これまで個別的な墓を持てなかった人々が墓を建立するようになり、個性的でエネルギッシュな墓石が創作されるようになった。そして「墓碑が個人別で目に見えるようなものになっていったとき、それは十字架とはちがった形を、むしろ採ってゆきます。すなわち、頂点の部分が丸くなった長方形の墓標、という形(p.346)」になった。第2章で見た墓碑は全部が教会内部に設置されたものだったが、ここでは野外に設置される墓標に墓碑があしらわれるようになったことを述べている。墓標という小さな壁面に、十字架や、故人の立像や、故人の商売道具など様々なものが素朴に表現された。それらから感じるのは、「自分らしい墓石をつくりたい」という自己確認の欲求である。

そして18世紀に、水平状の墓石が現れる。さらに19世紀前半に「それまでは別々だった三つの要素(十字架、垂直に立った墓標、水平状の墓石)が接合され、(中略)一般的な型の墓がひとつのものとして形成された(p.354)」。先述のようにヨーロッパでは長く、墓碑の場所と遺体の埋葬場所は違ったが、この墓地では、遺体の場所を正確に表示するのが墓石の役割となり、埋葬場所を覆うために水平状の墓石が採用されたのである。これは野外墓地の場合であるが、教会に埋葬される場合も遺体は匿名的なものでなくなり、バラバラに遺骨を投げ込むようなやり方はもはやされなかった。遺骨は個人ごとに分けられて管理された。南欧では、「たんすの引き出しのような納棺用の蜂の巣状の小穴(p.361)」の教会墓地(納骨堂)が設けられることとなった。いわば墓地のマンションである。

そうでもしなくては個人の遺体を埋葬するには土地が足りなかったので、やがて墓地は郊外の風光明媚な場所に公園のように作られるようになった。それは、伝統的な宗教の墓地の在り方からは全く導き出せないものである。そして「生き残った人たちは、死によって引き離された人たちの墓を定期的に訪れるという、かつてはなかった習慣を、身につけ(p.367)」た。いうまでもなくキリスト教では年忌法要がないから墓参の習慣はこれまでなかったのである。なおこうした墓地は、ほどなく墓で埋め尽くされてしまい、また都市の膨張によって市街地へ吸収された。

「第7章 他者の死」では、19世紀以降の死生観が述べられる。

前章で述べたように、19世紀には墓は大激変を迎えた。そこには死生観の変化をも伴っていた。1815年にアメリカの女の子が学年末の実習課題で作った壁掛けの詩集は、それを象徴的に示している。それは「ABC…」と文字を刺繍する練習課題なのだが、そこに亡くなった兄弟の墓誌情報まで刺繍されているのだ。さらに、その時にはまだ死んでいなかった兄弟については、後に追加で刺繍された。現代人には「そんなことは子供むきのテーマではない(p.373)」と思うが、子供が練習課題で作ってしまうくらい、当時は普及したものであった。死者を記録し、追悼することは「残された者のつとめ」として受け取られた。

こうして現代まで続く「服喪の拡大」「想い出の崇拝」「墓地通いや墓参り」という死の習俗が出来上がった。アリエスはそう言っていないが、死は準備すべきものであるという観念が発達し、その手続きに沿って処理することに人々は美徳を見出していたように思われる。さらにその観念には、意外と信心・信仰が影響していないようなのも注目される。

そして死者との想い出を記録する、肖像や墓参の様子をあしらった小物(ペンダントとかブローチ)が誂えられ、さらに死後の肖像も盛んに描かれた。これは、第2章で見た死者の横臥像のリバイバルである。死産によって死後硬直した母子と悲嘆にくれる親族を描いた19世紀アメリカの絵は、死の想い出という観念の要諦を饒舌に物語っている。現代日本では、「こんなものをどこに飾るというのか」となりそうな画題が、当時は人気があった。19世紀末に写真が登場すると、死んだ子供の写真を(晴れ着を着せて)撮ることが人気となった。子供との楽しい想い出を記録するならばわかるが、死んだ子供の写真であるのがポイントだ。美化された想い出よりも、おどろおどろしくてもリアルな死に顔を記録することに意味があった。そもそも16世紀以前には子供の墓はなかったが、19世紀以後には子供の墓が一般的になったのも大きな変化だった。

もちろん写真や絵画だけでなく、上級の人々は手の込んだ彫刻を作った。それはさすがに死に姿ばかりでなかったが、死んだ子供を彫刻で表現することは愛情の表現でもあったに違いない。「19世紀の新しい墓地に立てられた墓は、悲愴感と想像力とにおいて、その先行者である17世紀バロックのものをしのいで(p.388)」いる。そしてこうした墓地での肖像彫刻は、やがて家族全員が表現されるようになった(犬まで含め!)。まったく集合写真のような墓碑彫刻が出来上がったのだ。もっとも、死んだ時の姿をリアルに記録する潮流はそれとは別に続いた。この二つの潮流が組み合わさって、死体と、それに寄り添う遺族をドラマチックに表現した墓碑もある。ジェノヴァの墓地にある1879年のラファエル・ピエノーヴィの墓碑彫刻はその驚異的な例だ。この彫刻では、若い女性が、ベッドに横たわる死んだ夫に語りかけている。二人の愛は、この墓碑によって永遠に記録されたのである。「19世紀の墓地は、いわば家族愛の博物館です(p.394)」。19世紀の人々は、故人がいかに家族から愛されていたかを劇的な表現で記録したがった。

もちろん、庶民の場合はそんなコストをかけられなかったが、墓石にレリーフをあしらうなどして家族愛を天真爛漫に表現した。それすらもできなかった人々は、集合写真で故人との想い出を記録した。写真は、一種の墓碑として扱われた

「第8章 そしていま」では、現代の死が扱われる。現代では、死は見せびらかすものではなくなり、家の私的な空間、あるいは病院でひっそりと処理される。もはや死は神との関係ではなく、単なる生の終わりであり、豊穣な(というよりも過剰な⁉)象徴性はそぎ落とされ、原初的なものへと回帰しているのかもしれない。

***

本書は全体として、時代が行ったり来たりし、ヨーロッパの死の文化を一緒くたにしてまとめているので、文章は平易ではあるものの、なかなかわかりづらい。死の文化は、イタリアやスペインなどの南欧とフランス・ドイツ・イギリスにはやや差異があるようなので、2本立てにして語った方がわかりやすかったように思う。またテーマごとに語っているのは理解はしやすいが、テーマの内部でも編年的ではない記述となっているのがややこしい。要するにアリエスの筆はあっちに行ったりこっちに行ったりする。また、ヨーロッパの死の文化について疎い私には判断ができないのだが、なんとなく「つまみ食い」的な部分があるようにも感じる(本書は400ページ以上もある大著であるから「つまみ食い」というのは失礼だが)。

というような不備があるものの、本書はヨーロッパの死の文化を語る上で画期的なものであると私は思う。おそらく、本書に書かれていることの多くはヨーロッパでは常識的なことなのだろう。ところがそれを総合し、文化史として結実させたことに大きな意義を感じる。

また私は日本の死の文化に大きな関心を寄せているが、日欧の比較を行う上で本書は啓発的な価値が大きい。冒頭にも述べたが、ヨーロッパでは死を写実的に表現しようという流れがずっと続いていた。日本では死そのものを観念的に美化する方向へ向かったが、ヨーロッパでは死は肉体的でありおどろおどろしく表現された。特に鋭い違いを見せるのは、ヨーロッパではリアルな死体が好んで表現(彫刻・絵画・写真)されたということである。

では、なぜ死体はリアルに記録されたのか。実はアリエスは、「どうしてこうなったか」について本書ではごく簡潔にしか書いていない。しかもそれは象徴的な理由に留まり、その考察は埒外に置かれている。もしかしたらそれは前著『死を前にした人間』で展開されている可能性はあるが、どうやらそうではなく、意図的にそういう考察を排除している感じがする。少なくとも、本書ではキリスト教の教理の変遷についてほとんど説明していない。アリエスは、死に対する感性は、キリスト教がどう教えたかとは無関係に変遷したと考えているようだ。考察はともかくとして、死の文化がどうであったかを総合することに注力されているのが本書なのだ。

ところで、本書を読みながら日欧の違いを面白く感じた一方で、そこには巨大な共通性が横たわっていることも指摘せざるを得ない。それは、ヨーロッパ文化は一見キリスト教に支配されているように見えるが、実際のところ庶民はそこまで思想的に統制されていなかったことを示唆している。要するに庶民は、自分たちが自然と思える方法で死に向き合った。そしてそれは日欧でそれほどの違いはなかったのだ。庶民がつくった素朴でしかも個性的な墓は、そういう共通の心情をはっきりと伝えている。そこにキリスト教も仏教も関係ない。故人の魂を天国(や浄土)へ向かわせ、故人の戸籍情報を記録し、埋葬した場所を大切にするという心情は不変なのだ。

ヨーロッパの死の文化を図像によって総合的に述べた労作であり名著。

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2025年12月13日土曜日

『近世史講義―女性の力を問い直す』高埜 利彦 編

近世史を女性の観点を踏まえて概観する本。

ちくま新書の「〇〇史講義」は、まるで大学の授業を受けているような気分になるシリーズである。学術的ではあるが個別事項に深入りせず、その時代を概観することができる論考が納められている。 このシリーズは、通史を読んだ後に、もう少しその時代を勉強してみようと思ったときに最適だ。

そんなシリーズの『近世史講義』の副題が「女性の力を問い直す」なのが画期的だ。つまり、本書は特に女性をテーマにした本ではなく近世史の概説であるのだが、それでも女性に力点を置いているのである。もはや女性の在り方も理解しなければ近世史をしっかりと理解することができないということだ。

「第1講 織豊政権と近世の始まり」(牧原成征)では、近世権力の確立と社会の変化について概観している。かつて信長は改革者として描かれたが、最近は信長の統治に画期性はなく、秀吉こそが近世の基本路線を敷いていることが指摘されている。大名の妻子を中央に集める政策も近世の大名統制の基本となった。なお、このため江戸では女の出入りを関所で厳しく管理した。近世の武家女性は形式的には「囚われの身」となったのである。秀吉が実施した近世的政策としては、大名統制のほかに刀狩と検地、土豪層の権利の制限、キリシタンを敵に仕立てることでの思想統制、町方への集住・優遇政策などが挙げられる。

「第2講 徳川政権の確立と大奥―政権期の成立から家綱政権まで」(福田千鶴)では、徳川政権のツールとして婚姻が使われたことを述べている。家康は秀吉を倒して天下人になったのではないから、大名を自らの家臣にする手法に苦心した。そこで活用されたのが婚姻だ。「秀吉は遺言で五大老が自由に婚姻関係を結ぶことを禁止していたが、家康はこれに背き、結果として実娘3人、幼女18人の計21人を大名家に嫁がせた(p.29)」。家康は各大名と姻戚になることで自らの体制に取り込んでいったのである。また国持大名に松平名字・将軍偏諱・徐爵(従五位下)を与えることで「松平一門」に編成した。

将軍家周辺の女性は、名が残っていない人も多いが、婚姻政策で重要だったのみならず、大奥の差配でも大きな責任と権限を有した。「一位局」こと飯田阿茶(家康の別妻の一人)が従一位に除されているのは特筆される。「春日局」(家光の乳母)の存在感も大きい。なお、近世初期には大名の妻は江戸集住が義務付けられていない。というのは、彼女らは多くが将軍家と血縁関係にあったためである。大名の妻子の江戸集住が義務となるのは元和7年(1621)の老中奉書以降である。なお、詳細は略すが、加藤家の改易の理由は、徳川氏が進めた婚姻政策を尊重しなかったからだという。

寛文10年(1670)には「女中法度八カ条」及び老中連名の条々七カ条が出されている。そこでは、奥方のコネを通じて様々な案件が将軍家綱の耳に入れられることを制限しようとする性格が濃厚だ。逆に言えば、女性のコネを通じた「政治」が行われていたことが窺えるのである。

「第3講 天皇・朝廷と女性」(久保貴子)では、近世の朝廷における高位の女性について概観している。まとめて述べられることが少ない貴重な論述である。秀吉は太政大臣になり、後陽成天皇に即位灌頂を伝授している。また秀吉は近衛前久(さきひさ)の娘前子(さきこ)を養女にして後陽成天皇に入内させた。これが南北朝期以来途絶していたUである。秀吉は、自らを摂関家に擬えていたのである。

しかし家康は摂家の家職を復帰させ、自らは征夷大将軍に任官して、武家官位と公家官位を切り離した。以後、将軍家は公家世界を保護・統制することが基本政策となった。秀忠の娘和子は後水尾天皇の女御となり、寛永元年(1624)に皇后(中宮)に冊立された。皇后の復活は念願だったようだ。霊元天皇正妻(房子)以降、女御→准三宮→皇后となるのが定石となった。また中御門天皇の女御尚子が第一皇子出産後に死亡すると、その皇子(→桜町天皇)の立太子後に「皇太后」が贈られて「皇太后」が復活した。

近世では、天皇の母(先帝の正妻に限る)に対して女院号が宣下された。特に東福門院(←徳川和子)の存在感は大きい。その後の女院で注目されるのは、桜町天皇の正妻青綺門院である。彼女は院不在の状況で幼い桃園天皇を後見した。

近世における皇女は、前代と違って3割近くが婚姻した。特に摂家重視政策の結果、婚姻先は摂家が多かった。東山天皇の皇妹綾宮(あやのみや)が伏見宮家に嫁ぐと、その後は皇女の婚姻先は親王家に移った。これは18世紀半ばから皇子女の数が減少し、天皇家の血筋の人間が少なくなったことに対応していたと思われる。

一方、近世においても皇女の6割近くは比丘尼御所に入寺した。中世に盛衰があった尼寺は近世に整備され、その過程で17世紀に比丘尼御所が3寺(霊鑑寺・円照寺・林丘寺)が創始され、後に序列もできた。その上位4寺が大聖寺・宝鏡寺・曇華院・光照院である。これら(に入寺した皇女たち)は紫衣・色衣勅許の問題を引き起こすなど序列を競ったが、大聖寺の永皎(中御門天皇皇女)を最後に、皇女の比丘尼御所はなくなった。光格天皇は皇女を入寺させるつもりであったがいずれも夭折したためである。

また、堂上公家の娘は典侍(ないしのすけ)・掌侍(ないしのじょう)として後宮に出仕した。彼女らは一生独身で仕事し、朝廷運営においても奥の院の果たす役割は大きかったので、その人事は重要であった。

「第4講 「四つの口」―長崎の女性」(松井洋子)では、江戸幕府の貿易政策とともに長崎の女性が考察される。家康は朱印船貿易を続けるつもりだったが、結局は貿易を制限する方向へ向かった。貿易の制限の背景には、朱印船が襲撃されると家康の権威が傷つけられるという問題もあったらしい。また家康は異教対策から外国人に嫁した日本人妻子をも追放したが、これはキリスト教対策ばかりではなく、「人についてもその支配の及ぶ「日本人」の範囲を明らかにすべく、日本に住み着く「異国人」やその家族という両属的・中間的な存在を排除するためであったと考えられる(p.64)」。なおこの後の外交体制は、最近では「鎖国」とはあまり呼ばない。幕府直轄の長崎の他、宗氏(→朝鮮)・島津氏(→琉球)・松前氏(→蝦夷)という4つの窓口があったためである。

長崎には、外国人相手の遊女屋が公許されており、18世紀以降は20~30軒、遊女が400~500人いたという。こんなにも需要があったことに驚く。興味深いことに、中国船の来航者の中には遊興目的の客もいたという。近世の日本は「売春社会」であった。長崎の遊女たちは異国人との間に子を産むことも許されていた。「両属的・中間的な存在」が特別に許されていたのである(しかし生まれた子供がどうなったかはほとんど不明)。「長崎においては遊女なくては、只今の三つが一つも栄えまじ(p.76)」と延宝版『長崎土産』はいうが、遊女は単に男性に性を提供していたばかりでなく、外来者と現地社会の縁を作り保つ役割をいびつな形で果たしていたのかもしれない。

「第5講 村の女性」(吉田ゆり子)では、郷村の女性の社会的地位について概観している。貝原益軒は身分ごとのあるべき姿を論じているが、女性について「婦女は」と一括している。女性は士農工商ではなく「女性」という身分であったのだろうか?

19世紀半ばの「諸国郷村被仰出」(以前「慶安御触書」と呼ばれていたもの)は、為政者が一般的と認識した百姓の姿が投影されているが、ここでは「夫婦ともにかせぎ申すべし」と夫婦協業が勧奨されている。実際に男女は農作業を分担して行っていた。しかし宗門改帳では名前ではなく「女房」とだけ書かれる場合も多かった。

しかし地域によっては男女にかかわらず長嫡子が家を相続する慣行があり、また19世紀には家族に成人男性がいても女性が宗門改帳の筆頭人になる例がみられる。最初は後家が相続するとか、男子がいない場合の中継ぎ相続で女性がピンチヒッター的に登場したのだが、次第に女性が戸主になってもおかしくないというように変わってきた地域があった。どうも近世を通じて、農村の女性は一個の法的人格として認められるようになっていった流れがありそうだ。

そうした事例の一つとして、武蔵国の生麦村の上層農民に生まれた関口千恵が紹介されている。彼女は、武家奉公→町人に奉公→大名家の奥に奉公→嫁入りして一子をもうけたが死別→義弟と再婚するも離縁→旗本に奉公→女中として大奥勤め→実家に戻り奉公で蓄えた金を元手に貸し付けを行い生涯を終えた。彼女は今でいえばワーキングマザーであり、夫なくして自らの財産を持ち自立した人生を送ったのである。

「第6講 元禄時代と享保改革」(高埜利彦)では、綱吉から吉宗までの朝幕関係を中心とした時代の趨勢を述べている。

天和3年(1683)に5代将軍綱吉は「武家諸法度」の第1条を「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」から「文武忠孝を励まし、礼儀を正すべき事」に改めて公布した。この頃、東アジア全体が静謐であり、国内は安定していた。平和な時代の訪れである。綱吉は「忠孝礼儀を前面に打ち出し、身分・階層秩序の維持を目指す方向に転換(p.102)」したのである。

綱吉は「かぶき者」を強権的に取り締まり(打ち首にした!)、「生類憐みの令」と「服忌令」によって武に頼る価値観を転換させた。ここでは死の穢れや血の穢れが強調された。戦場で相手を殺傷することが価値であった武士と血の穢れは本来は相容れないが、これらにより折衝や死を遠ざけ忌み嫌う風潮となった。このため、死んだ牛馬を片付ける「かわた」や「長吏」「非人」の仕事が社会的に重要となった。

一方、朝廷では復古の機運が高まっていた。「朝廷復古」を強く望んだ霊元天皇の執念は幕府を動かし、貞享4年(1687)に221年ぶりとなる大嘗祭が挙行された(東山天皇即位時)。これらの他、石清水八幡宮の放生会が214年ぶりに再興されるなど、伝統的な権威の確認とその復興が進められ、将軍権力が伝統的権威によって潤色された。6代将軍家宣政権でもこの方針は変わらず、朝幕協調が踏襲されるとともに、武家諸法度は新井白石によって全面改訂された。家宣は御台所の実家でもある近衛家の基煕(前太政大臣)を江戸に招き、基煕は2年間も江戸に滞在している。このような中、閑院宮家が白石の建言により創設される。家宣の死去後、3歳の家継が将軍となり、白石はこの将軍の権威を高めるために霊元天皇の13番目の姫君との婚約を構想したが、家継が夭折したため実現はしなかった。

こうして将軍本家が途絶え、後継者選びのゴタゴタがあったが、吉宗の受諾の決定打となったのが基煕の娘で家宣の御台所であった天英院の鶴の一声であった。吉宗は幕府の財政難に対処し、諸改革を断行し、社寺造営などの予算を削減したが、「将軍の地位を権威がましくするために、朝廷との関係をいっそう協調的になるように図った(p.114)」。桜町天皇の即位時には、吉宗の側から働きかけて大嘗祭が挙行され、新嘗祭も正式に再興された。

「第7講 武家政治を支える女性」(柳谷慶子)では、奥向の女性が果たした役割について概説している。大名の正室や後家は意思決定に重要な役割を果たした。明治維新の時、天璋院が果たした役割の大きさについては改めて述べるまでもない。なおここの議論の本質ではないが、福岡藩黒田家の事例の中で、正室・後家の名前がすべて院号なのが気になった(→圭光院、桂香院、歓心院)。後家は菩提を弔うために出家するものとしても、圭光院の場合は当主は死亡・出家していないようだ。この院号が持つ意味は何なのか調べてみたい。

一方、奥女中は男性家臣と変わらない、れっきとした仕事であった。大名家の奥女中は、国元では家臣の子女や妻・後家が務めていたが、江戸城(大奥)や大名家の江戸屋敷では少し違う。旗本の子女に加え、公家の子女もいたが、これだけでは足りず、近隣の豪農の子女が奉公していた。奥女中が身分を超えた協業の場となっていたことは注目される。江戸城では約2500人もの女性が奥女中で働き、江戸全体で考えると2~3万人もの奥女中の需要があったとみられる。一大産業なのだ。

奥女中で奉公したことは立派なキャリア(功績)と認められ、将軍家・大名家ともに自己の家を立てることが許された。事例として鳥取藩池田家の場合が挙げられているが、こうして女系の家が家臣団に加わったことは興味深い。鳥取藩では家臣団のうち5%がこのような女性を始祖とする家であったという。ただし家を立てることは費用がかかり、またこれは老後の生活保障の意味が大きかったため、家を立てるのではなく一代限りの扶持を支給する方向となっていった。

「第8講 多様な身分―巫女」(西田かほる)では、巫女の身分的特質について述べる。近世の神職身分は、年貢を免除された土地にある神社に奉仕する者を基本として吉田家や白川家が許状を発行することによって成立した。例えば、富士山御師(おし)は曖昧な身分であったが、吉田家から許状を得る浅間神社と、白川家に頼る御師のいさかいの後に、吉田家からの許状を得ることで身分が確立した。

両家の勢力争いの結果、百姓や大工、医師、木地師のようなものにまで免許状が発給され、多様な「神職身分の者」が生み出された。下級宗教者としてはほかにも、陰陽師、万歳(まんざい)、神事舞太夫、夷職(えびすしょく)や説教大夫(簓(ささら))、願人坊主、鉢叩きがあるが、彼らはそれぞれ本所(身分保障をしてくれる機関)を仰いで身分を確立させた。そこには、集団を編成し力をつけようとする本所の思惑と、本所を通じて住民を把捉しようとする幕府の思惑があった。

しからば巫女はどういう身分であったか。興味深いことに、巫女を編成する特定の本所はなかった。巫女・神子は独身の若い女性であるという先入観とは逆に、史料に現れる巫女は結婚しており若くもない(女性とも限らなかった!)。むしろ、彼女らは神職との婚姻によって巫女となったと考えた方が自然だ。巫女の実態は、社人・社僧・修験・陰陽師などの妻であったのだ。神職と僧侶は近世の身分体系では別であったが、女性は身分の主体でなかったために神仏習合的なのだ。

そして巫女の身分は、夫の身分(本所)に影響を受けた。吉田家なら「巫女」、神事舞太夫なら「梓神子(あずさみこ)」、修験道本山派の場合は「守子(もりこ)」など。ただし人別帳では夫に従属していた場合と、別記される場合があったようだ。ちなみに妻が巫女である場合に、その娘の身分はどうなるか。これについては本稿では判然としないが、神事舞太夫の場合、一人の神事舞太夫につき3~4人の梓神子がいた。これは、妻と各地で預かった養女らしい。この養女は売春させられていた可能性がある。

本稿には、幕末(天保年間)にいた陰陽師の守屋安芸(男性)の妻と息子の嫁の事例簡潔に述べられているが、これは極めて興味深い。まず、守屋安芸は無宿であったが土御門家から許状を得ていた。無宿とは人別帳から除外されているということだ(行方不明や追放刑などで除外される)。無宿であれば身分は不確定なのだが、一方で土御門家の配下にある。身分の原則が崩れているのだ。土御門家は積極的に許状を出すことで配下の獲得に努めていたのである。お金さえ払えば誰でも(百姓でも僧侶でも神主でも)許状を得られた。実際、土御門家では女性にも許状を出した。「貢納料の前には身分の性別もない。全て平等なのであった(p.148)」。

「第9講 対外的な圧力―アイヌの女性」(岩﨑奈緒子)では、蝦夷地をめぐる幕末の情勢が概説される。幕府がロシアを認識したのは、天明3年(1783)の工藤平助「加模西葛杜加(かむさすか)国風説考」である。そこには巨大国家ロシアが描かれた地図も描かれていた。1792年にはラクスマンが来航。蝦夷地は、ロシアとの緩衝地帯として重要な意味を帯びるようになり、1799年には幕府は東蝦夷地を直轄化し(わざわざエトロフに会所を置いた!)、1807年には全蝦夷地を直轄化した。ロシアの存在を認識してからたった20年ほどで蝦夷地の持つ意味はすっかり変わった。

それまで幕府や和人はアイヌに対して無関心で、どちらかというと蔑視していたが、こうしてアイヌは教化(=日本人化)が必要な対象となり、1800年、幕臣近藤重蔵によって「エトロフ村々人別帳」が作成された。本稿には詳細はないがこの人別帳は興味深い。おそらく宗旨は書いていなかっただろうし(ただし幕府は蝦夷三官寺=善光寺(浄土宗)・等澍院(天台宗)・国泰寺(臨済宗)を設けている(第9講参照))、身分なく一緒くたにアイヌとされたのかもしれない。近代の戸籍を先取りしているような気もする。ともかく、この人別帳を見れば和風の名前を持っている人がわかり、風俗改めの実態を窺うことができるのである。どうやら女性は風俗改めを受け入れない人が多かったようだが、これは逆に風俗改めが強制的なものでなかったことも示唆している。

「第10講 寛政と天保の改革」(高埜利彦)では、当時の日本が置かれた内憂外患に幕府がどう対処したかが述べられる。18世紀の末から、商品経済の発達による二極化、浅間山噴火による東北の冷害、既存の秩序の弛緩などを背景に百姓は徒党を組んで領主権力に対決した。大原騒動では一揆勢を領主側が鉄砲で多数打ち殺すという事態まで見られ、「天明の打ちこわし」では統率のとれた行動によって幕府に衝撃を与えた。これらは、庶民が追い詰められていたと同時に、力をつけていたことを示唆する。

このような中で天明8年(1788)に将軍補佐となった松平定信は棄捐令(借金の棒引き)や文武両道の奨励を行っている。このうち学問の試験結果によって登用される制度は、中下級の幕臣が農村で善政を振るう結果も生んだ。一方、都会に出てきた百姓を旧村に帰す「旧里帰農奨励令」を出したり、無宿を収容する石川島の人足場を設けたり、修験道・陰陽道などの本寺・本所に人別帳の作成を命じたりした(第8講参照)。つまり社会を不安定化させる浮動的な存在を把捉・削減しようとしたが、現代で人が東京に吸い込まれるがごとく、人々はそれぞれの損得で動いていたので実効性は上がらなかった。

一方、ロシアの南下(レザノフの来航)やイギリスのフェートン号の侵入(長崎奉行に食料・薪を要求)、英船・米船の近海への出没などを受け、幕府の対外政策は変化していった。そんな中で、朝鮮が一段低い国家とされて朝鮮通信使がなくなっている(両国ともに費用節減の必要があったのも一因)。そしてこのような中、国家・国民の輪郭を定めるべく、官制の編纂事業が相次いだ。塙保己一の『群書類従』『史料』、『徳川実記』、全国の地誌編纂、林述斎の『寛政重修諸家譜』などである。さらに各地の孝行者・貞女などを紹介する「孝義録」が編纂された。これらの事業は明治期に引き継がれた。「寛政期から「近代」は始まりだした(p.179)」のである。

天保の大飢饉を経て民衆の武装蜂起はより高まり、老中首座の水野忠邦は天保改革を実施した。だが寛政の改革を意識した「人返し令」は、むしろ浮動人口を関東周辺に分散させることとなり治安悪化を招いた。物価高騰の原因として株仲間(一種のカルテル)を解散させたが、物価高騰の真の原因は別のところにあったためこれもうまくいかず、10年後に株仲間を復活させた。また幕府は領地替えや上知令(土地を取り上げて幕府の直轄地化する)を行おうとしたがこれも反対され実施できなかった。天保改革の失敗は幕府の権威を低下させ、天皇・朝廷の権威が上昇し始めるのである。

「第11講 女性褒賞と近世国家―官刻出版物『孝義録』の編纂事情」(小野 将)では、『孝義録』の周辺が概観される。松平定信が全国から孝子・忠臣を報告させ、それをまとめたものが『孝義録』全50巻である。それは、百姓・町人のあるべき姿を喧伝するための教化の書物であったが、幕府による一方的な押し付けではなかった。当時懐徳堂周辺では、孝子・孝行者の顕彰が行われており、中井竹山の「草茅危言」でもその顕彰が訴えられている。幕府はこの動向を汲んだようだ。そして民衆の側でも、孝行のエピソードには需要があり、身を犠牲にして親に尽くすようなエピソードはすぐに評判になって広まった。

『孝義録』の編纂の中心となったのは大学頭の林述斎であるが、文体の統一など実務を担ったのが大田南畝である。大田南畝こと大田直次郎は下級御家人であったが、「学問吟味」によって登用されたのである。そして大田南畝が文体の検討を行うため主催した研究会「和文の会」にいたのが幕臣の八代弘賢である。当代一流の人物が精力を傾けて編纂したのが『孝義録』であったのである。ところが、これは高価なものだったためあまり売れず、民衆教化にどれだけ役立ったのかは定かではない。また「忠臣」の方は結局編纂されなかったようだが、太平の時代に「忠臣」はもはやあまりいなかったためなのかもしれない。

なお、『孝義録』においては、幕府領・私領などに関わらず、国郡ごとに記事が掲載されている。領有関係を超えた「全国」が意識されているともいえるし、あまりに複雑な領有関係が障害になっていたことを示唆しているともいえる。

「第12講 近代に向かう商品経済と流通」(髙部淑子)では、近世の商品流通の特徴が述べられる。江戸幕府は当初、商品を大坂に集め、それを江戸に運ぶという流通体制を構築した。これは江戸周辺の生産力が十分なかったことが背景にある。しかし次第に生産力が高まると廻船による流通が盛んになっていった。また米の生産量が上がって米価が下落すると、各地の農民は換金性の高い作物の生産に移行した。こうして商品流通が複線化すると、各地で特産品ができてくるようになる。現代でも同じだが、特産品としてのブランド力が価格に反映されるからだ。特に日本酒はそうしたブランドが早くから成立した商材の一つであった。特産品の江戸への出荷は、厳しく品質管理されて容量なども標準化された。こうして江戸の人々は、商品を選んで好みの物を買うというライフスタイルになっていった。近代の消費行動と全く同じである。また、こうした商品の製造を担ったのが女性でもある。農作業から女性が切り離されてマニュファクチュアに投下され、これは近代の女工につながっていく。

「第13講 遊女の終焉へ」(横山百合子)では、近世の遊女が概観される。中世では遊女は女系で家業を継承していく自営業者であったが、近世には男性の遊女屋が女性を抱え買売春させる仕組みとなった。最下層の遊女(夜鷹)でさえそれを所有する夜鷹屋がいた。本稿では述べられていないが、これは近世的身分の確立と密接に関連すると思われる。江戸の遊郭があった新吉原町五町は、近世当初は一般的な町と同様に公役(のちに金納)を負っていたが、近世後期には傾城町に固有の役として、売り上げの一部を町奉行に上納していた。これは町奉行所の収入の12%にもなったという。そして吉原の遊女は、「17世紀末から享保頃には二千数百人、その後、寛政期には四千人を越え、1801年(享和元)には4963人におよんだ(p.226)」。遊郭は徐々に大衆化・下層化していったのである。

遊女は、一応は奉公の形態をとっていたが実際には人身売買にほかならず(→身売り奉公)、遊女の世界は一見華やかであったがその支配は暴力的であった。新吉原では1800年から幕府が倒れるまでの約70年間に18回も火事が発生し、うち11回は吉原全町が消失した。これらのうち13回は遊女の放火であり、遊女への暴力的支配を窺わせる。

このように火事のたびに経営再建をするためもあり、遊郭は融資を恒常的に必要とした。遊郭の多くが利用したのが寺社名目(みょうもく)金貸付である。江戸幕府は、金銭貸借については当事者間での解決を原則としており、踏み倒しでも裁判はできなかった。ところが寺社や皇族・摂関家などが堂舎建立など名目で貸し付けを行う場合には例外的に幕府が債権取り立てに関与した。つまりこれは取りっぱぐれがない安全な貸し付けであった。この一つを浄土真宗本山仏光寺が行っていた。仏光寺は北信濃の豪農の資金提供を受け、遊郭に貸し付けをしていたのである。この名目金貸付の収益は大きく、幕末、これに目を付けた内大臣の二条斉敬(なりゆき)は名目金貸付の乗っ取りを図って仏光寺と争っている。しかしながら遊郭の収奪の構造に浄土真宗が絡んでいたとは驚きだ。

明治5年、芸娼妓解放令によって遊郭は終焉を迎えた。従前、これはマリア・ルス号事件での国際的な名聞を気にしてなされた処置だとされてきたが、近年、その前から解放令の動きが始まっていたことがわかった。イギリスはマリア・ルス号以前から日本の遊女の奴隷的境遇について外務省に尋ねているのである。日本では買売春は不道徳とは全く考えられていなかったのだが、国際的に問題があることを認識して「身売りによる売春」の否定が不可欠であるとの判断になっていたようだ。そして芸娼妓解放令では、①遊女らの即時解放、②身代金返済も不要とする無償解放が謳われた。しかし、これは遊郭を壊滅させただけで、その後は女性が自らの意思で(という体で)売春することになった。そして遊女への同情や共感が弱まり、自ら売春する淫乱不道徳な女という蔑視に傾いていくのである。

「第14講 女人禁制を超えて―不二道の女性」(宮崎ふみ子)では、不二道を題材に近世の女人禁制が述べられる。ある種の聖地では古くから女人禁制が続けられてきているので、女人禁制は古くからの習俗と思いがちだが、女人禁制が広まったのは近世中期であると考えられる。これは女性を不浄とする観念が広まったためと考えられる。一方で、同時に女人禁制の形骸化が始まったのも近世中期である。本稿でそう指摘されてはいないが、むしろ形骸化したからこそ広まったのかもしれない。

山岳信仰では早くから女人禁制が行われたが、都から遠い富士山では、女人禁制の成立が遅く、近世初期にかけてである。そんな中で女人禁制を受け入れなかったのが富士講身禄派やそこから分かれた不二道である。身禄派の創唱者、食行は「身分や性別は本質的な価値とは無関係で、道徳的な生き方をする人間が尊い(p.244)」と教えた。商人の禄行三志(ろくぎょう・さんし)はその女性観を発展させ、家業出精や孝行を勧めるとともに、男女の調和・均衡のために(現在は男性優位に偏っているから)「女性を先に」と格差是正的な主張をしている。三志らは身禄派から独立して不二道を形成して多数の信者を獲得し、1860年代には「近世後期の非公認の宗教団体として最大規模に達した(p.246)」。不二道には聖職者も上下の階層もなかった。これは伝統的な宗教団体との大きな違いである。なお女性信者の割合は30~40数%と見られる。

不二道の女性信者たちは、富士山登頂を目標として運動したが、それに反対したのは富士山麓の農山村であった。彼らは女性の登攀が長雨などの異常気象を招き飢饉の原因となると主張した。富士山の御師らは女性の登攀需要が高いことが分かっていた(=それが商売になった)ので、1800年には、60年に一度の庚申年には女人禁制を緩和するという説を出して4合5勺までの登山を認めたが、地元の村落の反対で実現はできなかった。天保3年(1832)に不二道の女性信者が登頂を強行したが、折あしく天保の大飢饉が起こり、これは女性が富士山に登頂したせいだとされてかえって女性禁忌が強くなり、検問所まで設けられた。御師たちは1860年の庚申の年に8合目まで登れるという規制緩和を行い、今回は江戸の寺社奉行に「そういう伝統がある」と訴えて許可させた。この時に8合目まで登攀したのは男女混合で1034名だった。これが契機となり、「他の登山口の職業的宗教者も女性登山の解禁が参詣者誘致の切り札であることを認識し(p.252)」、女性へ門戸が開かれるようになった。

明治維新後には、京都博覧会の時に外国人女性が比叡山に入れないという問題を契機として女人禁制を撤廃したが、これも不合理な旧習と考えて撤廃したのではなく、観光客誘致のためであった。逆に言えば、女人禁制の形骸化が進んでいたからこそ、商業的な理由で撤廃されたのである。

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本書は全体として、教科書とは少し違う方法で幕末より前の近世史を描いている。つまり、政治史や為政者の歴史を描くのでも、大きな事件を描くのでもなくて、社会が置かれた状況を主役にして、人々がどういった方向に流れていったかを描いている。その中で女性の観点が意図的に導入される、一味違った近世史だ。ただし、本書は文化史については全く触れられていない。多分これから「文化篇」などが出るのではないかと思われる。今後の出版に期待したい。

【関連書籍の読書メモ】
『江戸時代の神社』高埜 利彦 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/12/blog-post_28.html
江戸時代の神社や神道がどのようであったか述べる本。江戸幕府の神社政策の概略がまとまった良書。

『日本の近世7 身分と格式』朝尾直弘 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/05/blog-post_8.html
江戸時代の身分について考察する論文集。近世の身分について多角的に検討した充実した好著。

『後水尾天皇』熊倉 功夫 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/03/blog-post_28.html
後水尾天皇の評伝。後水尾天皇と寛永文化の価値を詳述した名著。

『徳川家の夫人たち(人物日本の女性史 8)』円地 文子 監修https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/01/blog-post_6.html
徳川家の女性たちを描く本。徳川幕府を女性から見る好著。

『女人禁制』鈴木 正崇 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/01/blog-post_7.html
女人禁制とは何かを多角的に述べる本。女人禁制を歴史・思想から中立的に考える貴重な本。 

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