幕末の勤王僧・月照の評伝。
月照といえば、西郷隆盛と共に錦江湾で入水自殺したことで有名であるが、逆にそれ以外のことはほとんど知られていない。私自身も月照について無知であった。そこで読んだのが本書である。
月照は、京都清水寺の本坊付の塔頭(たっちゅう)成就院の住職であった。これは、一山(清水寺全体)の経営を預かる立場だったようだ。月照は、決して政治活動に血道を上げるような人物ではなく、病弱ではあったが戒律を厳しく保ち、世間と距離を置いて宗教性の中に沈潜するような人物であった。
そんな月照がどうして勤王の活動で活躍するようになったか。本書によれば、それは月照自身の考えと言うよりも、様々な巡り合わせによるものなのである。
こうした大寺院では公卿の子が住持をしたり、住持を公卿の猶子(養子)にしたりする慣習があり、公家との関係が近かった。月照も園基茂の猶子となり、俗名「宗久」を「久丸」と改め、2ヶ月後に出家して公家風に「中将房」と字(あざな)している(なお法名は「忍鎧(にんかい)後に「忍向」、「月照」は晩年に用いた雅号)。こうして月照は公家の社会に近づいていくのである。
さらに、清水寺は元々近衛家との繋がりが深かった。清水寺が、近衛家の祈願寺であったからである。幕末に異国船がやってくると、神社では「攘夷祈願」なるものが盛んに行われたが、寺院でも法力によって夷狄を追い払うということで同様な祈願が行われ、成就院でも安政元年に「異船退治祈願」を行っている。堕落し形式化してしまっていた僧侶たちの中にあって、宗教的であった月照の法力がこうした祈願に恃まれたのに違いない。
また近衛忠煕(ただひろ)の八男(後の水谷川忠起(みやがわ・ただおき))は、嘉永5年に興福寺の一乗院の附弟(跡継ぎ)となっている(のち、門跡となる)。興福寺一乗院は清水寺の本山であるから、近衛家が一乗院を支配したということは、月照にとって近衛家はいわば経営者一族ということになる。
さらに月照は、歌道にものめり込んでいた。近衛家に積極的に近づこうという意味合いがあったのかどうか定かでないが、月照は安政元年に近衛家の歌道に入門している。こうして近衛家と成就院という祈檀関係から出発した関係が、次第に近衛忠煕と月照という個人の繋がりへと深化していった。
この関係の仲立ちをしたのが、原田才輔(才介)という近衛家の侍医(鍼灸師)であった謎の人物。 原田は薩摩藩出身で近衛家に入り、近衛家・月照・薩摩藩の間の周旋を行っている。原田の周旋によって月照は近衛家と親密に付き合うようになり、また薩摩藩とも繋がって国事に奔走することになったのである。
月照がこうした中で果たした役割は、一言で言えば近衛家と薩摩藩の連絡係ということになるだろう。というのは、当時幕府の公武離間政策によって、武家と公家は自由に交わることができなかった。近衛家と島津家は姻戚関係で結ばれていたのだから(近衛忠煕は島津興子を正室に迎えている)、ある程度自由に交通ができたのではないかと思われるが、一般的には執奏・伝奏などいった取次なくしては公武の勢力は接近できない仕組みとなっていた。幕府の規制では公武の交流が完全に禁じられていたわけではないものの、非常に手間がかかる仕組みとなっていたのである。
しかしこの仕組みには「祈祷寺院」という大穴が残されていた。祈祷寺院には、公武双方が病気平癒をはじめとして様々な祈願を行っていたから、ここを通じて公家と武家が直接連絡を図ることが可能となっていたのだ。そして国事が囂しくなる時期に、ちょうど清水寺という大祈祷寺院の住職をしていたのが月照その人なのであった。
もちろん、月照自身にも国事に奔走する気質がなかったとはいえない。月照は外国人がキリスト教を広めることで仏教の危機になるのではないかと心配していたし、月照は政治状況を的確に判断して、各種の周旋を俊敏にこなしもしているのである。「清水寺の月照に頼めばうまくやってくれるだろう」というような評価が定まったことで、いろいろな案件が月照に持ち込まれることになったのだろう。
ところで既に述べたように、月照は清水寺の経営に携わっていたのであるが、この頃の清水寺は今の立派な様子とは違い、「破れ寺」になり山内はもめ事が絶えなかったらしい。収入も少なく借金経営であり、山内の不和は覆うべくもなかった。そうした俗事に嫌気が差したのか、月照は隠居願い(住職を退職する)を出したが許可されない。しかし山内不和のため許可も得ずに黙って清水寺を去り寺務を放り出してしまった。その非により月照は「境外隠居」(境外というが清水寺を追放されたわけではなく立ち入りはできる身分)の処分を受ける。
こうして月照は、清水寺から去って不安定な立場となったものの、逆に言えば自由に動ける遊軍的な存在となり、この隠居の身になってからさらに近衛家との親密度を増して(歌道入門したのがこの時期=嘉永7年)、その身軽さを利用して国事周旋に奔走するのである。
そうして、月照は幕府によって危険人物とみなされるようになる。井伊直弼による安政の大獄で捕縛の危険を感じた月照は薩摩藩の導きによって大阪に一時避難。この時近衛家から月照の警護を任されたのが西郷隆盛であった。しかしそこにも危険が迫ったため、薩摩にまで落ち延びてはきたものの、島津斉彬の急死によって一変した藩論をどうすることもできず、西郷にはあまつさえ月照追放(実質的には斬り捨て)の指示すら出る。こうして西郷は、月照警護が果たせなかったことを死を以て償うため、月照と共に冬の錦江湾に飛び込んだのであった。西郷は助け出されて蘇生したが、月照は享年46歳であった。
西郷と月照は、史料上で見る限りそれほど長い付き合いではなく、両者の激しい交渉が始まったのは、著者は安政5年7月以降と見ている。つまり親密に付き合うようになったのは死の僅か半年前に過ぎない。さらに近衛忠煕をはじめとして原田才輔など月照の勤王運動との関わりが深い人はいずれも『成就院日記』にたびたび登場し詳しく記録されているにも関わらず、そうした記録には西郷のことは一度も登場しないのだという(ただし安政5年の『成就院日記』は欠けている)。
西郷との入水は、確かに月照の人生のハイライトであった。しかしそれは彼の人生の中にあって、かなり例外的な展開を見せた事件であった。月照は幕末の志士にありがちな梗概家タイプとは違った。自ら国事に進んでいったというよりは、清水寺という寺院の機能が彼にそれを求め、巻き込まれていったのであった。
月照の名は、西郷との入水という事件によって幕末史に永く留まることだろう。しかし、社会を変えようなどと大それたことは思っていなかったに違いない地味な僧侶が、なぜ担ぎ出されなければならなかったのか、ということも同時に記録に留めるべきだ。月照は時代に翻弄されただけの存在ではなかったが、結果的には近衛家や薩摩藩にいいように利用され切り捨てられたのであった。それを真摯に受け止め責任を感じ命を投げ出したのが、月照より15歳年下だった、31歳の西郷隆盛だったのである。
コンパクトにまとまった月照伝であり、勤王僧という存在の意味を考える上でも参考になる好著。
2019年3月17日日曜日
2019年3月13日水曜日
『支配者とその影(ドキュメント日本人4)』谷川健一、鶴見俊介、村上一郎 編集
社会の上層部に生きた人々の陰影を描く。
「ドキュメント日本人」は、明治から昭和に至るまでの様々な人々を(脈絡なく)取り上げ、日本にとっての近代化・現代の意味を浮かび上がらせるシリーズ。本書はその第4巻。
取り上げられている人は、姉崎嘲風、本田庸一、広瀬武夫、石原莞爾、山県有朋、明治天皇、渋沢栄一、甘粕正彦、大谷光瑞、佐藤紅緑の10人。
取り上げられ方は様々で、評伝(本田庸一)もあるし対談(石原莞爾)、自伝(渋沢栄一)もある。変わり種としては、慰霊祭の祭文(広瀬武夫)も掲載されている。本書は書き下ろしもあるが、それよりも様々な機会に発表されたもののアンソロジーという性格が強く、その脈絡のなさが一種の魅力となっている。
特に面白かったのは、山県有朋について伊藤痴遊が書いた「山県有朋と山城屋事件」。「山城屋事件」とは、山県との繋がりを利用して陸軍の御用商人となった山城屋が、投資のためと称して大量の金を陸軍から引き出し、しかも投資に失敗した上遊興に使いこんだという事件。この事件は証拠書類の湮滅と山城屋の自殺によってうやむやになったが、追って明治六年政変の伏線にもなる重要な事件である。
佐藤愛子(佐藤紅緑の娘)による「わが父・佐藤紅緑」も、ごく簡単なスケッチに過ぎないが忘れがたい一篇。佐藤紅緑は少年小説作家で、反権力でありながら国家主義者でもあり、矛盾に満ちた人物。社会主義者に金をめぐむかと思えば忠君愛国を鼓吹し、本人は軍人が大嫌いであったが軍国主義にも迎合せざるを得なかった。
晩年はただ烈々たる忠君愛国の精神のカタマリとなり、天皇を思い国の前途を憂う日記を書くことだけが唯一の生きがいとなる。ある日、長男八郎(後のサトウハチロー)から差し出された恩賜の煙草に「蓋し佐藤家万代の栄誉にして余が一身及び父母の一大光栄なり」と感動。日記はその日が最後となり、2ヶ月後に死んだ。矛盾を抱えながら生きた男の最期は忘れがたい。
「ドキュメント日本人」は、明治から昭和に至るまでの様々な人々を(脈絡なく)取り上げ、日本にとっての近代化・現代の意味を浮かび上がらせるシリーズ。本書はその第4巻。
取り上げられている人は、姉崎嘲風、本田庸一、広瀬武夫、石原莞爾、山県有朋、明治天皇、渋沢栄一、甘粕正彦、大谷光瑞、佐藤紅緑の10人。
取り上げられ方は様々で、評伝(本田庸一)もあるし対談(石原莞爾)、自伝(渋沢栄一)もある。変わり種としては、慰霊祭の祭文(広瀬武夫)も掲載されている。本書は書き下ろしもあるが、それよりも様々な機会に発表されたもののアンソロジーという性格が強く、その脈絡のなさが一種の魅力となっている。
特に面白かったのは、山県有朋について伊藤痴遊が書いた「山県有朋と山城屋事件」。「山城屋事件」とは、山県との繋がりを利用して陸軍の御用商人となった山城屋が、投資のためと称して大量の金を陸軍から引き出し、しかも投資に失敗した上遊興に使いこんだという事件。この事件は証拠書類の湮滅と山城屋の自殺によってうやむやになったが、追って明治六年政変の伏線にもなる重要な事件である。
佐藤愛子(佐藤紅緑の娘)による「わが父・佐藤紅緑」も、ごく簡単なスケッチに過ぎないが忘れがたい一篇。佐藤紅緑は少年小説作家で、反権力でありながら国家主義者でもあり、矛盾に満ちた人物。社会主義者に金をめぐむかと思えば忠君愛国を鼓吹し、本人は軍人が大嫌いであったが軍国主義にも迎合せざるを得なかった。
晩年はただ烈々たる忠君愛国の精神のカタマリとなり、天皇を思い国の前途を憂う日記を書くことだけが唯一の生きがいとなる。ある日、長男八郎(後のサトウハチロー)から差し出された恩賜の煙草に「蓋し佐藤家万代の栄誉にして余が一身及び父母の一大光栄なり」と感動。日記はその日が最後となり、2ヶ月後に死んだ。矛盾を抱えながら生きた男の最期は忘れがたい。
2019年3月6日水曜日
『明治維新』遠山 茂樹 著
唯物史観から見た明治維新の分析。
本書は、奇形的な本である。というのは、注の方が本文よりも多く、本文と注を行ったり来たりしながら読むのにかなり苦労するからだ。このような構造なのは、本書が東京大学で行われた講義を元にしているためで、講義本体の概略的な明治維新の分析と、その背景となっている大量の資料や関連の研究への言及が、本文と注にそれぞれ分かたれて書かれているのである。
よって本書を読み解くには、まず明治維新の歴史を予め把握している必要がある。概略的な本文の記載にはいちいち何があったとは書いていないし、注の方では微に入り細に入った資料が次々と提示されるばかりで出来事の説明というのを丁寧にはしてくれない。本書は大学の講義と同じように、ある程度予習をしてから向かうべきものである。
実は私は、数年前予習無しで本書を読んだ。明治維新に興味が出始めたくらいの時に本書を手に取ったのである。その時は一応読んだものの、その奇形的構造と、明治維新の歴史が頭に入っていなかったことから歯が立たず、あまり理解できなかったというのが正直なところだ。
しかしある程度明治維新に詳しくなってから再読してみると、こんな面白い本もないのである。
本書は、明治維新を理解するにあたり、それが外圧(黒船)への対応として行われたという立場を取っていない。明治維新は、天保の頃から顕在化していた社会の矛盾を解消するために行われたと考え、下は百姓一揆のような民衆的レベル、上は幕府と朝廷、志士と公家といった権力闘争のレベルのそれぞれの層においてどのような構造的な変動があったのかを分析している。
それにあたり、著者はマルクスの唯物史観、すなわち階級闘争史観を採用していて(と本書に書いているわけではないが自明)、本書は階級闘争史観から見る明治維新史の趣がある。そしてそこから予想される通り、著者の明治維新の評価は極めて厳しい。というのは、幕末には百姓一揆の多発など下からの社会変革の兆しがありながらも、それが一つの力として糾合されていくことがなく常に場当たり的な生活改善要求に終始し、さらにはそれすらも幕府や続く明治政府によって弾圧されてしまい、結局民衆のレベルでの社会矛盾は解消されるどころか明治政府というより強大な権力によって抑圧される結果となったからである。
明治維新は確かに封建社会の崩壊をもたらし、人々はある種の自由を上から与えられて謳歌はしたが、そこからさらに自由や権利の思想を発達させることはなく、むしろ天皇を中心とする絶対主義体制を生みだし、封建時代以上に強権的な原理主義体制へとなだれ込んだ。「明治維新は、社会変革としての底のきわめて浅い、政権移動として実現されたのであって、薩州・土州・宇和島・長州・芸州などの雄藩大名と、それを背後から動かす少数の指導的藩士、および将軍・幕閣、さらにそれらと結び合う公卿、これらの人々の、政権取引をめぐる複雑怪奇な個人的策謀に矮小化され、卑俗化された」(p.146)のである。
こうした見方は、英傑達が活躍した明治維新をイメージしている人には受け入れがたいに違いない。 しかしながら本書には非常な説得力があり、著者の述べる個々の主張を覆すにはかなりの考究が必要である。本書は、戦後の明治維新研究の古典となったのであるが、その見方に賛同するにせよ反対するにせよ、いわば乗り越えなければならない峰のような本であったようだ。
そして、それは今でも変わっていないと思う。執筆から60年以上が経過し、やや時代遅れの点は見受けられるが、著者の主張は概ね覆っていない。だが、明治維新が単なる支配者の交替に過ぎないとしても、経済発展の端緒を開いたことは事実だし、日本の独立を守り、大規模な内戦や混乱に陥ることなく、速やかな政権交代を成し遂げたことは評価しなければならない、と人は言うだろう。
しかし本書は、終戦間もない頃に書かれている。本書にはっきりとは書いていないが、太平洋戦争まで突き進まざるを得なかった、その見えない不気味な力を、明治維新の頃にまで遡って反省したのが本書だと考えることもできる。明治維新にはある程度功績があるとしても、明治維新の生んだ絶対主義——近代天皇制——に破滅への道が内在していたのだとしたら、その功罪を比較考量してみないことには明治維新の評価は出来ないのである。
明治維新について考える際には必ず手に取るべき古典。
※私は岩波現代文庫版で読んだが、現在は岩波文庫になっている。
本書は、奇形的な本である。というのは、注の方が本文よりも多く、本文と注を行ったり来たりしながら読むのにかなり苦労するからだ。このような構造なのは、本書が東京大学で行われた講義を元にしているためで、講義本体の概略的な明治維新の分析と、その背景となっている大量の資料や関連の研究への言及が、本文と注にそれぞれ分かたれて書かれているのである。
よって本書を読み解くには、まず明治維新の歴史を予め把握している必要がある。概略的な本文の記載にはいちいち何があったとは書いていないし、注の方では微に入り細に入った資料が次々と提示されるばかりで出来事の説明というのを丁寧にはしてくれない。本書は大学の講義と同じように、ある程度予習をしてから向かうべきものである。
実は私は、数年前予習無しで本書を読んだ。明治維新に興味が出始めたくらいの時に本書を手に取ったのである。その時は一応読んだものの、その奇形的構造と、明治維新の歴史が頭に入っていなかったことから歯が立たず、あまり理解できなかったというのが正直なところだ。
しかしある程度明治維新に詳しくなってから再読してみると、こんな面白い本もないのである。
本書は、明治維新を理解するにあたり、それが外圧(黒船)への対応として行われたという立場を取っていない。明治維新は、天保の頃から顕在化していた社会の矛盾を解消するために行われたと考え、下は百姓一揆のような民衆的レベル、上は幕府と朝廷、志士と公家といった権力闘争のレベルのそれぞれの層においてどのような構造的な変動があったのかを分析している。
それにあたり、著者はマルクスの唯物史観、すなわち階級闘争史観を採用していて(と本書に書いているわけではないが自明)、本書は階級闘争史観から見る明治維新史の趣がある。そしてそこから予想される通り、著者の明治維新の評価は極めて厳しい。というのは、幕末には百姓一揆の多発など下からの社会変革の兆しがありながらも、それが一つの力として糾合されていくことがなく常に場当たり的な生活改善要求に終始し、さらにはそれすらも幕府や続く明治政府によって弾圧されてしまい、結局民衆のレベルでの社会矛盾は解消されるどころか明治政府というより強大な権力によって抑圧される結果となったからである。
明治維新は確かに封建社会の崩壊をもたらし、人々はある種の自由を上から与えられて謳歌はしたが、そこからさらに自由や権利の思想を発達させることはなく、むしろ天皇を中心とする絶対主義体制を生みだし、封建時代以上に強権的な原理主義体制へとなだれ込んだ。「明治維新は、社会変革としての底のきわめて浅い、政権移動として実現されたのであって、薩州・土州・宇和島・長州・芸州などの雄藩大名と、それを背後から動かす少数の指導的藩士、および将軍・幕閣、さらにそれらと結び合う公卿、これらの人々の、政権取引をめぐる複雑怪奇な個人的策謀に矮小化され、卑俗化された」(p.146)のである。
こうした見方は、英傑達が活躍した明治維新をイメージしている人には受け入れがたいに違いない。 しかしながら本書には非常な説得力があり、著者の述べる個々の主張を覆すにはかなりの考究が必要である。本書は、戦後の明治維新研究の古典となったのであるが、その見方に賛同するにせよ反対するにせよ、いわば乗り越えなければならない峰のような本であったようだ。
そして、それは今でも変わっていないと思う。執筆から60年以上が経過し、やや時代遅れの点は見受けられるが、著者の主張は概ね覆っていない。だが、明治維新が単なる支配者の交替に過ぎないとしても、経済発展の端緒を開いたことは事実だし、日本の独立を守り、大規模な内戦や混乱に陥ることなく、速やかな政権交代を成し遂げたことは評価しなければならない、と人は言うだろう。
しかし本書は、終戦間もない頃に書かれている。本書にはっきりとは書いていないが、太平洋戦争まで突き進まざるを得なかった、その見えない不気味な力を、明治維新の頃にまで遡って反省したのが本書だと考えることもできる。明治維新にはある程度功績があるとしても、明治維新の生んだ絶対主義——近代天皇制——に破滅への道が内在していたのだとしたら、その功罪を比較考量してみないことには明治維新の評価は出来ないのである。
明治維新について考える際には必ず手に取るべき古典。
※私は岩波現代文庫版で読んだが、現在は岩波文庫になっている。
2019年3月3日日曜日
『薩摩蔭絵巻—儒者泊如竹の生涯』家坂 洋子 著
薩摩藩出身の儒者泊如竹(とまり・じょちく)の生涯を描く小説。
泊如竹は、戦国期末から江戸初期を生きた儒者である。元亀元年(1570年)、屋久島の安房村で船大工の子として生まれた泊市兵衛は、どういうわけか幼少の頃出家し日章となり、やがて本能寺、法興寺で仏道の修行をする(日蓮宗)。時の住職は同じ屋久島出身の日逕であった。しかし30代になっても日章は平僧のままで、寺院内で出世した気配はない。
日章は日蓮宗を去り、これまたどういうわけか還俗して泊如竹と名乗り、鹿児島正興寺(国分)の南甫文之(なんぽ・ぶんし)和尚の下で儒学を学ぶ。正興寺は禅宗(臨済宗)であるが、如竹は転宗したのか、それとも俗人のままで正興寺に属したのか明らかでない。ただ法名を名乗っていないところを見るとおそらくは俗人として文之に私淑したのであろう(このあたりは本書には詳らかでない)。
当時文之は薩摩藩の外交顧問のような立場にあり、琉球や明との外交文書の作成を一手に引き受けていたという俊英であった。この文之の下で儒学を修めた如竹は、慶長18年(1623年)、屋久島の本仏寺(法華宗)に住職として帰山し、母の死を看取ってから、藤堂髙虎に侍読として仕えた(1614年)。
本書では、藤堂髙虎に士官している間、髙虎の領地(伊勢)の祭礼や文教政策に携わったことになっている。この間、如竹は桂庵玄樹『四法倭点』、文之『四書新註文之点』、『周易伝義』、『南甫文集』を寛永元年〜6年(1624年〜1629年)にかけて京都の版元から刊行。如竹は自らは一冊の本も書かず、残したのはこれらの本だけだった。
藤堂家を去った後、いっとき本仏寺へ戻り、今度は琉球の尚豊王の寺読となる(寛永9年(1632年)。当時の琉球は薩摩藩の事実上の植民地であるが、表向きは独立国であるということに仕立て、明の属国(明の冊封)となっていたから、薩摩藩はこれを通じて明と貿易していた。如竹はこうした外交活動にも関わっていたのだろうか。
寛永12年(1635年)、琉球を去ると、またいっとき本仏寺へ戻った後、伊勢貞昌の薦めにより島津光久の師となり、藩の顧問のような立場になった模様である。その後屋久島へ帰島(正保元年(1643年))。屋久島では、安房村に水を引く工事を行う(如竹堀)など社会事業にも取り組み、村人は如竹を「屋久聖人」と呼んだ。
如竹は、ことさらに顕職を歴任した人物ではなく、著作を残さず学問的にも全国的に名高かったとは言えない。しかし歴史の端々に顔を見せる、不思議な人物である。一体どうして如竹は強力な後ろ盾もなく、権力者に魅入られたのだろうか。著者は、こうした疑問から如竹の生涯を小説にしたという。
本書を手に取る人は、面白い小説を求めるというより如竹に興味を抱いた人がほとんどであろう。実際、本書はかなり脚色も多いとはいえ、余計な創作(例えば秘められた恋、とか)はなく、如竹の人生を実直になぞるものであり好感が持てる。しかも、大事件が起こるわけでもなく地味な話ではあるが、歴史小説としても割合面白く、儒者の生涯という小難しいテーマにもかかわらず平易で読みやすい。
あまり知られていない地味な儒者、泊如竹の人生を小説で辿れる好著。
泊如竹は、戦国期末から江戸初期を生きた儒者である。元亀元年(1570年)、屋久島の安房村で船大工の子として生まれた泊市兵衛は、どういうわけか幼少の頃出家し日章となり、やがて本能寺、法興寺で仏道の修行をする(日蓮宗)。時の住職は同じ屋久島出身の日逕であった。しかし30代になっても日章は平僧のままで、寺院内で出世した気配はない。
日章は日蓮宗を去り、これまたどういうわけか還俗して泊如竹と名乗り、鹿児島正興寺(国分)の南甫文之(なんぽ・ぶんし)和尚の下で儒学を学ぶ。正興寺は禅宗(臨済宗)であるが、如竹は転宗したのか、それとも俗人のままで正興寺に属したのか明らかでない。ただ法名を名乗っていないところを見るとおそらくは俗人として文之に私淑したのであろう(このあたりは本書には詳らかでない)。
当時文之は薩摩藩の外交顧問のような立場にあり、琉球や明との外交文書の作成を一手に引き受けていたという俊英であった。この文之の下で儒学を修めた如竹は、慶長18年(1623年)、屋久島の本仏寺(法華宗)に住職として帰山し、母の死を看取ってから、藤堂髙虎に侍読として仕えた(1614年)。
本書では、藤堂髙虎に士官している間、髙虎の領地(伊勢)の祭礼や文教政策に携わったことになっている。この間、如竹は桂庵玄樹『四法倭点』、文之『四書新註文之点』、『周易伝義』、『南甫文集』を寛永元年〜6年(1624年〜1629年)にかけて京都の版元から刊行。如竹は自らは一冊の本も書かず、残したのはこれらの本だけだった。
藤堂家を去った後、いっとき本仏寺へ戻り、今度は琉球の尚豊王の寺読となる(寛永9年(1632年)。当時の琉球は薩摩藩の事実上の植民地であるが、表向きは独立国であるということに仕立て、明の属国(明の冊封)となっていたから、薩摩藩はこれを通じて明と貿易していた。如竹はこうした外交活動にも関わっていたのだろうか。
寛永12年(1635年)、琉球を去ると、またいっとき本仏寺へ戻った後、伊勢貞昌の薦めにより島津光久の師となり、藩の顧問のような立場になった模様である。その後屋久島へ帰島(正保元年(1643年))。屋久島では、安房村に水を引く工事を行う(如竹堀)など社会事業にも取り組み、村人は如竹を「屋久聖人」と呼んだ。
如竹は、ことさらに顕職を歴任した人物ではなく、著作を残さず学問的にも全国的に名高かったとは言えない。しかし歴史の端々に顔を見せる、不思議な人物である。一体どうして如竹は強力な後ろ盾もなく、権力者に魅入られたのだろうか。著者は、こうした疑問から如竹の生涯を小説にしたという。
本書を手に取る人は、面白い小説を求めるというより如竹に興味を抱いた人がほとんどであろう。実際、本書はかなり脚色も多いとはいえ、余計な創作(例えば秘められた恋、とか)はなく、如竹の人生を実直になぞるものであり好感が持てる。しかも、大事件が起こるわけでもなく地味な話ではあるが、歴史小説としても割合面白く、儒者の生涯という小難しいテーマにもかかわらず平易で読みやすい。
あまり知られていない地味な儒者、泊如竹の人生を小説で辿れる好著。
2019年3月2日土曜日
『バッハ(大作曲家 人と作品(1))』角倉 一朗 著
実証的なバッハ像を提示するバッハの伝記。
バッハの伝記は、これまでに数多く書かれている。しかしそれらには、バッハを理想化したり、さらには神格化したりするような面があった。また作品の作曲年代についても、思い込みやいい加減な措定がまかり通っていた。
ところが戦後、バッハ研究は実証的に進展した。例えば作品の作曲年代については、筆跡の鑑定や自筆譜の透かし模様の研究が行われ、かつての作曲年代を大幅に変更しなくてはならなくなった。バッハとはこういう人物だから、この曲はこの時期に書いたに違いない、というような思い込みから離れ、作品を並べることでバッハの人生を再構成していくと、今までのバッハ像を修正する必要が生じた。
そうして書かれたのが本書である。本書が書かれた時点(1963年)で、「新しいバッハ研究の成果をとり入れた評伝は、これが世界で最初のものである」と著者は自負している。
本書が提示する新たなバッハ像で最も強調されているのは、「バッハは教会音楽を最上の目的としていなかった」ということである。バッハが若い頃に書いた手紙に「自分は整った教会音楽を作る事を目標にする」といったことが書かれており、従来のバッハ評伝では、バッハは教会音楽こそ自分の使命と考え人生の選択を行ってきたと解釈されてきた。
しかし実際には、バッハが最も幸福な作曲生活を過ごしたのは、教会においてではなくケーテンの宮廷楽長として働いた期間であったようだ。後半生に長く務めたのはライプツィヒの教会であったが、そこでは教会とも大学(バッハは大学の音楽や教育にも関わった)とも、そして行政とも軋轢を抱え、やがて作曲の意欲をなくしカンタータはほぼ作曲されなくなってしまう。バッハにとって、教会音楽は重要なフィールドではあっても、それは人生の目的といえるようなものではなかった。従来のバッハ像は「宗教的先入観に基づく誤解」だったと著者は言う。
また本書で描かれるバッハ像は、喧嘩っ早いトラブルメーカーで、些細なことでも自分の権利を主張するには妥協がない、ラーメン屋のオヤジのような職人肌の人物だ。神に捧げるための崇高な音楽を創り出す人物とは、ちょっと似つかわしくないのである。しかしそちらの方が、ずっと人間味があってリアリティもあり、私は納得した。バッハの超越的な音楽を前にすると、それを作曲した人間もまた世俗を超越した人間であってほしいと思うのは人情だが、それは幻想というものだろう。
等身大のバッハを実証的な研究によって描き出した、バッハ伝の好著。
バッハの伝記は、これまでに数多く書かれている。しかしそれらには、バッハを理想化したり、さらには神格化したりするような面があった。また作品の作曲年代についても、思い込みやいい加減な措定がまかり通っていた。
ところが戦後、バッハ研究は実証的に進展した。例えば作品の作曲年代については、筆跡の鑑定や自筆譜の透かし模様の研究が行われ、かつての作曲年代を大幅に変更しなくてはならなくなった。バッハとはこういう人物だから、この曲はこの時期に書いたに違いない、というような思い込みから離れ、作品を並べることでバッハの人生を再構成していくと、今までのバッハ像を修正する必要が生じた。
そうして書かれたのが本書である。本書が書かれた時点(1963年)で、「新しいバッハ研究の成果をとり入れた評伝は、これが世界で最初のものである」と著者は自負している。
本書が提示する新たなバッハ像で最も強調されているのは、「バッハは教会音楽を最上の目的としていなかった」ということである。バッハが若い頃に書いた手紙に「自分は整った教会音楽を作る事を目標にする」といったことが書かれており、従来のバッハ評伝では、バッハは教会音楽こそ自分の使命と考え人生の選択を行ってきたと解釈されてきた。
しかし実際には、バッハが最も幸福な作曲生活を過ごしたのは、教会においてではなくケーテンの宮廷楽長として働いた期間であったようだ。後半生に長く務めたのはライプツィヒの教会であったが、そこでは教会とも大学(バッハは大学の音楽や教育にも関わった)とも、そして行政とも軋轢を抱え、やがて作曲の意欲をなくしカンタータはほぼ作曲されなくなってしまう。バッハにとって、教会音楽は重要なフィールドではあっても、それは人生の目的といえるようなものではなかった。従来のバッハ像は「宗教的先入観に基づく誤解」だったと著者は言う。
また本書で描かれるバッハ像は、喧嘩っ早いトラブルメーカーで、些細なことでも自分の権利を主張するには妥協がない、ラーメン屋のオヤジのような職人肌の人物だ。神に捧げるための崇高な音楽を創り出す人物とは、ちょっと似つかわしくないのである。しかしそちらの方が、ずっと人間味があってリアリティもあり、私は納得した。バッハの超越的な音楽を前にすると、それを作曲した人間もまた世俗を超越した人間であってほしいと思うのは人情だが、それは幻想というものだろう。
等身大のバッハを実証的な研究によって描き出した、バッハ伝の好著。
2019年2月25日月曜日
『虹と水晶—チベット密教の瞑想修行』ナムカイ・ノルブ著、永沢 哲 訳
チベットの「ゾクチェン」の尊者が語る悟りへの道。
本書は、チベット密教とチベット土着のボン教につたわる「ゾクチェン(大いなる完成)の教え」の修行者であるナムカイ・ノルブが講演などで語った内容を文字に起こしたものである。
前半はナムカイ・ノルブの半生が語られ、後半は「ゾクチェンの教え」についての概説が述べられる。
ナムカイ・ノルブの半生は劇的である。彼は幼いころに高徳な尊者の転生仏(生まれ変わり)と認められ、幼くしてエリート教育が施される。彼は学業を優秀にこなしたので若年にして大学に入り、高度な宗教理論と儀式の手法を身につける。しかし自らのラマ(師匠)と出会い、それらの知識を本当には全くわかっていなかったという衝撃を受ける。彼のラマとなったチャンチュプ・ドルジェは高度な教育を受けていなかったどころか文盲であり、高僧のようでもなく、俗人と変わらぬ暮らしをしていながら、真理の体得者だったのである。
後半の「ゾクチェンの教え」の概説については、私にチベット密教の基礎知識がないために十分理解したとは言い難い。ゾクチェンとは、「リクパ」と呼ばれる三昧の状態(普通の仏教用語では「禅定」が近い)に入り、それを持続させることを目指すものである(と私は理解した)。
この「リクパ」とは、二元論(善か悪か、彼か我か、これかあれか、といった思考の枠組み)を越え、あらゆる制約から解き放たれて思考が澄み渡り、透明に覚醒した状態なのだという。しかもこの状態に至ると、感覚の物理的制約からも自由となり、千里眼とか他人の心を読む能力すら手に入る(ただしそれは副次的な成果であって、それを目的に修行がなされるわけではない)。この三昧の状態にいる人間が、いかに優れた特質を示すかということは本書の随所で述べられる。
ところが本書を読んでいてよくわからなかったのが、まさにこの「リクパ」に至った修行者、ゾクチェンを完成した者の具体的イメージなのである。例えば、彼はこの三昧の状態にいるとき、肉親の訃報に接したらどんな反応を示すのだろうか。感情を超越して平静を保つのか、それとも素直に悲しむのか、あるいは人それぞれなんだろうか。もっと卑近な状況を考えると、リクパの中にある人が車の運転をしていたら、どんな運転になるのだろう。注意深い安全運転なのか、高速で暴走するのか、どっちなのかイメージが摑めないのだ。
ゾクチェン——大いなる完成、という言葉からは、その修行者が穏和で円満な人格となっているかのような印象を受けるがそれは違う。本書に描かれる尊者には、狂人のような生活をする人や、ひどい癇癪持ち、他人など歯牙にも掛けないような態度の人もいる。一方でナムカイ・ノルブのラマ、チャンチュプ・ドルジェは多くの人に敬慕される人格者であった。一体全体、ゾクチェンとは何を目指すものなのか。少なくともそれが人格的完成を目指すものではないことは明白である。
ゾクチェンが目指すものは、禅宗の悟りに近い。私は本書を読んで盤珪禅師の「不生禅」を思い出した。「不生禅」とは、人は生まれながらにして必要なものは全て備わってると考え、人はあるがままで悟りの境地にいるとするものである。ゾクチェンの教えも「ひとりひとりの個人そのものに生まれつきそなわっている本性なのである(p.28)」とされ、「この境地にはいることは、あるがままの自分を経験すること」(同)なのだという。
もちろん「あるがままの自分」でいることは難しいことだから(そもそも「あるがままの自分」とは何だろうか)、このために厳しい修行が求められる。そこが苦行を不要とした盤珪との違いとなっているが、他にも禅宗との類似点はある。例えば両者とも悟りを平安で寂滅な状態としては描いていない。むしろあらゆる制約から自由になった能動的な状態と見なしている。そして悟りを非日常的なものではなく、むしろ日常生活全体が悟りの世界たりうると考えるのも禅宗と通じるところである。私はチベット密教の知識が薄弱なため、本書を禅宗の考え方を土台として読んだから、特にそう感じたのかもしれない。
本書を読んでもう一つ感じたのは、「ゾクチェンの教え」による心の働かせ方が、心理療法におけるカウンセラーの心の働かせ方と非常に似通っているということである。例えば「この自然な状態から善や悪、多様な思考の動きがわき起こってきたら、(中略)覚醒を保って、そこにあらわれてくるすべての思考をただ認めてやればいい(p.200)」とか、「嫌悪がわき起こっても、その感情をコントロールしようとしたり、逆にそれにまどわされたりせずに、覚醒したままでいることが必要だ(p.204)」などという心の在り方は、まさにカウンセラーがクライアント(患者)と向かい合うときに必要とされる態度なのである。
「ゾクチェンの教え」には、迷信的に感じられる部分(千里眼とか、超自然的存在の顕現など)も多いのであるが、その心の働かせ方については現代の心理療法と通じているのである。しかもそれは治療法(どうやったら心の病気が治るか)においてではなく、治療者(カウンセラー)の心の持ち方(どうやって患者に向き合うか)においてなのだ。してみると、ゾクチェンとは自分で自分の治療者となる方法ということなのだろうか。
不思議な「ゾクチェンの教え」を垣間見ることができる良書。
【関連文献】
『プロカウンセラーの共感の技術』杉原 保史 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/09/blog-post_20.html
プロのカウンセラーである著者が、相談を受ける立場として身につけたい共感の技術を解説した本。
本書は、チベット密教とチベット土着のボン教につたわる「ゾクチェン(大いなる完成)の教え」の修行者であるナムカイ・ノルブが講演などで語った内容を文字に起こしたものである。
前半はナムカイ・ノルブの半生が語られ、後半は「ゾクチェンの教え」についての概説が述べられる。
ナムカイ・ノルブの半生は劇的である。彼は幼いころに高徳な尊者の転生仏(生まれ変わり)と認められ、幼くしてエリート教育が施される。彼は学業を優秀にこなしたので若年にして大学に入り、高度な宗教理論と儀式の手法を身につける。しかし自らのラマ(師匠)と出会い、それらの知識を本当には全くわかっていなかったという衝撃を受ける。彼のラマとなったチャンチュプ・ドルジェは高度な教育を受けていなかったどころか文盲であり、高僧のようでもなく、俗人と変わらぬ暮らしをしていながら、真理の体得者だったのである。
後半の「ゾクチェンの教え」の概説については、私にチベット密教の基礎知識がないために十分理解したとは言い難い。ゾクチェンとは、「リクパ」と呼ばれる三昧の状態(普通の仏教用語では「禅定」が近い)に入り、それを持続させることを目指すものである(と私は理解した)。
この「リクパ」とは、二元論(善か悪か、彼か我か、これかあれか、といった思考の枠組み)を越え、あらゆる制約から解き放たれて思考が澄み渡り、透明に覚醒した状態なのだという。しかもこの状態に至ると、感覚の物理的制約からも自由となり、千里眼とか他人の心を読む能力すら手に入る(ただしそれは副次的な成果であって、それを目的に修行がなされるわけではない)。この三昧の状態にいる人間が、いかに優れた特質を示すかということは本書の随所で述べられる。
ところが本書を読んでいてよくわからなかったのが、まさにこの「リクパ」に至った修行者、ゾクチェンを完成した者の具体的イメージなのである。例えば、彼はこの三昧の状態にいるとき、肉親の訃報に接したらどんな反応を示すのだろうか。感情を超越して平静を保つのか、それとも素直に悲しむのか、あるいは人それぞれなんだろうか。もっと卑近な状況を考えると、リクパの中にある人が車の運転をしていたら、どんな運転になるのだろう。注意深い安全運転なのか、高速で暴走するのか、どっちなのかイメージが摑めないのだ。
ゾクチェン——大いなる完成、という言葉からは、その修行者が穏和で円満な人格となっているかのような印象を受けるがそれは違う。本書に描かれる尊者には、狂人のような生活をする人や、ひどい癇癪持ち、他人など歯牙にも掛けないような態度の人もいる。一方でナムカイ・ノルブのラマ、チャンチュプ・ドルジェは多くの人に敬慕される人格者であった。一体全体、ゾクチェンとは何を目指すものなのか。少なくともそれが人格的完成を目指すものではないことは明白である。
ゾクチェンが目指すものは、禅宗の悟りに近い。私は本書を読んで盤珪禅師の「不生禅」を思い出した。「不生禅」とは、人は生まれながらにして必要なものは全て備わってると考え、人はあるがままで悟りの境地にいるとするものである。ゾクチェンの教えも「ひとりひとりの個人そのものに生まれつきそなわっている本性なのである(p.28)」とされ、「この境地にはいることは、あるがままの自分を経験すること」(同)なのだという。
もちろん「あるがままの自分」でいることは難しいことだから(そもそも「あるがままの自分」とは何だろうか)、このために厳しい修行が求められる。そこが苦行を不要とした盤珪との違いとなっているが、他にも禅宗との類似点はある。例えば両者とも悟りを平安で寂滅な状態としては描いていない。むしろあらゆる制約から自由になった能動的な状態と見なしている。そして悟りを非日常的なものではなく、むしろ日常生活全体が悟りの世界たりうると考えるのも禅宗と通じるところである。私はチベット密教の知識が薄弱なため、本書を禅宗の考え方を土台として読んだから、特にそう感じたのかもしれない。
本書を読んでもう一つ感じたのは、「ゾクチェンの教え」による心の働かせ方が、心理療法におけるカウンセラーの心の働かせ方と非常に似通っているということである。例えば「この自然な状態から善や悪、多様な思考の動きがわき起こってきたら、(中略)覚醒を保って、そこにあらわれてくるすべての思考をただ認めてやればいい(p.200)」とか、「嫌悪がわき起こっても、その感情をコントロールしようとしたり、逆にそれにまどわされたりせずに、覚醒したままでいることが必要だ(p.204)」などという心の在り方は、まさにカウンセラーがクライアント(患者)と向かい合うときに必要とされる態度なのである。
「ゾクチェンの教え」には、迷信的に感じられる部分(千里眼とか、超自然的存在の顕現など)も多いのであるが、その心の働かせ方については現代の心理療法と通じているのである。しかもそれは治療法(どうやったら心の病気が治るか)においてではなく、治療者(カウンセラー)の心の持ち方(どうやって患者に向き合うか)においてなのだ。してみると、ゾクチェンとは自分で自分の治療者となる方法ということなのだろうか。
不思議な「ゾクチェンの教え」を垣間見ることができる良書。
【関連文献】
『プロカウンセラーの共感の技術』杉原 保史 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/09/blog-post_20.html
プロのカウンセラーである著者が、相談を受ける立場として身につけたい共感の技術を解説した本。
2019年2月24日日曜日
『石と人間の歴史—地の恵みと文化』蟹澤 聰史 著
世界各地の地質の説明と、それに付随する文化の話。
著者は東北大学名誉教授で地質学を専門とする。本書は、地質学の調査で訪れた各地の見事な景観や地形を紹介することを中心として、それに著者が定年退官してから触れるようになった美術史、歴史学、民俗学、宗教学といった文系学問の話題をちりばめ、地質と文化の繋がりについても述べた本である。
構成としては、概ね古い地質の地域から新しい地質の地域へと進んでいる。日本にはそれほど古い地質がないから、特に原生代と呼ばれる時代のことなどは興味深く読んだ。
「第1部 古い大陸とその周辺の石」では北欧が取り上げられ、「石の国」イギリスについて述べられる。イギリスは地質学を作った国であり、ストーンヘンジだけでなく様々な石の文化があるそうだ。
「第2部 テチス海の石」は「テチス海」を中心として地中海諸国の地質が述べられる。「テチス海」とは、石炭紀に存在した超大陸パンゲアの東にあった海で、パンゲアが分裂すると北のローラシア大陸と南のゴンドワナ大陸に挟まれた海になり、徐々にその海が狭まってできた名残が今の地中海なのだという。地中海の石の文化というとギリシアとローマの壮大な石造建築物が思い浮かぶ。あれらを育んだ大理石は、テチス海の珊瑚礁によって厚く堆積した石灰岩が変成したものだ。
「第3部 アジアの古い大陸とテチス海の石」では、モンゴル、アンコール遺跡、中国について触れている。アジアの石文化というとアンコール遺跡、中国の万里の長城は当然として、そこにモンゴルが取り上げられていたのが意外だった。モンゴルは後期原生代から新生代にかけての地層や火成岩、変成岩類が複雑に分布していて、地質的に面白いところなんだそうだ。ちなみに中国の能書家として知られる顔真卿が、唐の時代に化石について正しい認識をしていたというのが興味深かった。「滄桑之変(滄海変じて桑田と為す)」とは修辞的な表現ではなく、撫州の刺史(県知事)として彼が赴任した際、近くの麻姑山に巻き貝や二枚貝の殻が見られるのは海底が隆起して山になったためだと考えたことから出来た言葉だという。
「第4部 新しい活動帯の石」では、トルコ、イタリア、日本といった火山国・地震国が取り上げられ、 火山国ならではの特徴的な景観(トルコのカッパドキア、イタリアのヴェスヴィオ火山など)について述べられる。日本は木と紙の文化と言われるが、石造物も意外とあって、例えば城郭の石垣などは技術的にも造形的にも見事だという。日本は地震が多いことと、加工に適した石が少なかったことなどから壮大な石造建築物は発展せず、その代わり小さな石仏など民衆的なものとして石の文化が育まれたという。
「第5部 天から降ってきた石と地の底から昇ってきた石」では、隕石と地球深部から溶岩や凝灰岩中に取り込まれて湧き上がってきた「捕獲石」が取り上げられている。
全体として、地質学に疎い人間でも楽しめるように様々な話題がちりばめられており、飽きない本である。一方、体系的な説明はないので、例えば石の種類がよくわからない私のような人間には、もう少し地質学の説明をして欲しかったという部分もある。
石と人間の歴史について大上段に何かを論じるのではなく、半ばエッセイ風に地質に親しむ本。
著者は東北大学名誉教授で地質学を専門とする。本書は、地質学の調査で訪れた各地の見事な景観や地形を紹介することを中心として、それに著者が定年退官してから触れるようになった美術史、歴史学、民俗学、宗教学といった文系学問の話題をちりばめ、地質と文化の繋がりについても述べた本である。
構成としては、概ね古い地質の地域から新しい地質の地域へと進んでいる。日本にはそれほど古い地質がないから、特に原生代と呼ばれる時代のことなどは興味深く読んだ。
「第1部 古い大陸とその周辺の石」では北欧が取り上げられ、「石の国」イギリスについて述べられる。イギリスは地質学を作った国であり、ストーンヘンジだけでなく様々な石の文化があるそうだ。
「第2部 テチス海の石」は「テチス海」を中心として地中海諸国の地質が述べられる。「テチス海」とは、石炭紀に存在した超大陸パンゲアの東にあった海で、パンゲアが分裂すると北のローラシア大陸と南のゴンドワナ大陸に挟まれた海になり、徐々にその海が狭まってできた名残が今の地中海なのだという。地中海の石の文化というとギリシアとローマの壮大な石造建築物が思い浮かぶ。あれらを育んだ大理石は、テチス海の珊瑚礁によって厚く堆積した石灰岩が変成したものだ。
「第3部 アジアの古い大陸とテチス海の石」では、モンゴル、アンコール遺跡、中国について触れている。アジアの石文化というとアンコール遺跡、中国の万里の長城は当然として、そこにモンゴルが取り上げられていたのが意外だった。モンゴルは後期原生代から新生代にかけての地層や火成岩、変成岩類が複雑に分布していて、地質的に面白いところなんだそうだ。ちなみに中国の能書家として知られる顔真卿が、唐の時代に化石について正しい認識をしていたというのが興味深かった。「滄桑之変(滄海変じて桑田と為す)」とは修辞的な表現ではなく、撫州の刺史(県知事)として彼が赴任した際、近くの麻姑山に巻き貝や二枚貝の殻が見られるのは海底が隆起して山になったためだと考えたことから出来た言葉だという。
「第4部 新しい活動帯の石」では、トルコ、イタリア、日本といった火山国・地震国が取り上げられ、 火山国ならではの特徴的な景観(トルコのカッパドキア、イタリアのヴェスヴィオ火山など)について述べられる。日本は木と紙の文化と言われるが、石造物も意外とあって、例えば城郭の石垣などは技術的にも造形的にも見事だという。日本は地震が多いことと、加工に適した石が少なかったことなどから壮大な石造建築物は発展せず、その代わり小さな石仏など民衆的なものとして石の文化が育まれたという。
「第5部 天から降ってきた石と地の底から昇ってきた石」では、隕石と地球深部から溶岩や凝灰岩中に取り込まれて湧き上がってきた「捕獲石」が取り上げられている。
全体として、地質学に疎い人間でも楽しめるように様々な話題がちりばめられており、飽きない本である。一方、体系的な説明はないので、例えば石の種類がよくわからない私のような人間には、もう少し地質学の説明をして欲しかったという部分もある。
石と人間の歴史について大上段に何かを論じるのではなく、半ばエッセイ風に地質に親しむ本。
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