2017年8月8日火曜日

『夜明け前』島崎 藤村 著

幕末明治の社会を、ひとりの町人の一生を通して描いた大河的小説。

本書は文庫本で全4冊の長大な作品である。そのほとんど全てが、木曾街道の馬籠という宿場の、青山半蔵という人物の一生を辿るという内容。時々、時代背景を理解するための説明も展開されるが、基本的には半蔵の目で見る幕末明治、という趣だ。

半蔵は、馬籠の本陣、庄屋、問屋(といや)の三役を兼ねる旧家に生まれた。本陣とは宿場の中心で公的な宿泊場、庄屋は百姓のとりまとめ役、問屋は物流の責任者である。この3つを兼ねる青山家は、武士でこそないながら、苗字帯刀を許された名家だった。

馬籠は山深い宿場であるが、江戸と京都のちょうど中間に位置する。街道は人とものの移動を担うものであるから、その動きは世相をそのままに反映し、馬籠に居ながらにして幕末の激動は伝わってくる。 こうして、馬籠の青山半蔵の目を通じて、読者は幕末の動乱を窺い知るようになる。

半蔵は、宿場の責任者の家に生まれたが、生来学問を好み、家業に勤しむよりは学問の道に進みたいと願う人間だった。彼は国学を志し、これこそ新しい時代に必要となる思想だとして平田篤胤(没後)の一門へと入門する。しかし、名家の跡取りとして生まれた責任も強く感じている半蔵は、他の国学を奉ずる仲間のように、家業を打ち捨てて国事に奔走するようなことはできない。かといって、日々の暮らしを淡々とこなすことだけで満足できるタイプでもない。彼は今にも家を飛び出してしまいそうなはやる気持ちを抑えながら、宿場の仕事に忙殺される日々の中で王政復古を迎える。ここまでが第1部。

第1部では、半蔵は結局のところ何もしない。というかできない。彼の人生に何も起こらないわけではないが、大きな事件があるわけでもなく、足早に動いていく時代を横目で見ていることしかできない彼である。そういう、ある種退屈な筋書きでありながら、小説の筆は冴え渡っており、特に何も起こらないにも関わらず読ませる作品である。

第2部に入ると、半蔵の人生は一転して事件の連続となる。国学を奉ずるものとして半蔵が希求し続けていた王政復古は、復古というよりも旧いものの破壊としてまず半蔵の前に現れる。これまで世襲によっていたものの廃止、旧社会の仕組みの徹底的な否定の運動だった。つまり、既得権の破壊だ。国事へ奔走したい気持ちを抑えながら必死で勤めてきた本陣・庄屋・問屋は、こうしてあっさりと廃止されてしまう。それでも、半蔵は不満を抱かない。何しろ、幕府が大政を奉還し、藩主も藩を返上したくらいである。それも天皇親政の世の中にするため、復古の道を進むためである。半蔵はむしろ積極的に自らの権限を手放していく。

しかしそれは、自らが没落していくことも意味していた。半蔵は山林の使用権についての悪政を糺す活動をしていたところ、上役から目をつけられ、本陣だった関係から任ぜられていた戸長の役職も罷免される。家業を失った青山家は、どんどん没落の足を速めていく。そんな折、長女粂(くめ)の縁談がまとまり、いざ結婚という時、粂が自殺を図る。粂は、半蔵の血を強く受け継いで学問もあり、あっさりと自分の運命に身を任せるような人間ではなかった。そういう粂の気持ちをそれまで受け止めていなかった半蔵は、深く反省して斎(いつき)の道を志すようになる。

こうして半蔵は、神社への就職を斡旋してもらおうと国学者の人脈を頼って東京へ出てゆく。だが一時的に教部省に身を置いた彼が見たものは、国学の挫折であった。かつて「御一新」の精神的支柱であったはずの国学は頑迷固陋なものとみなされ、一時は政府に重んじられた国学者たちがたいした仕事もできないまま閑職へ追いやられていた。半蔵が新しい時代を開くものと頼んだ国学は、もはや無用なものとなりつつあった。目指したはずの復古よりも、新しい時代は開国と文明開化に浮かれ、国学よりも洋学が幅をきかせるようになっていた。

そんな折りに天皇の巡幸が行われた。半蔵は群衆の中、発作的に持っていた扇子を天皇の一行へと投げ入れる。社会はこれでいいのか、という意味を仄めかす歌が扇子に書かれていた。この扇子こそが、半蔵が半生をかけた国学思想の凝縮だった。この廉で半蔵は逮捕され取り調べを受ける。結果的にはさほどの咎めもなく、その後半蔵は予定通り神官へと転職するが、この事件を境に半蔵は次第に狂気へと進んでいく。

4年間の神社への奉職を終えると、半蔵は若くして家督を長男に譲った。というより、家の者から早く隠居するよう強いられた。半蔵は公共の仕事のみに奔走し、家業を顧みなかったために家の没落を早めたと見なされていた。実際、彼に経営の才はなかった。

半蔵は新しい時代に裏切られ続けた。国学は無力で、家は没落し、家族は傷つき、望んでいた社会は彼を無用の存在にした。そして遂に、青山半蔵は発狂し、座敷牢に幽閉される。半蔵は、社会はこれでいいのか、という問いを暗闇に対して突きつけながら、見えない怪物と戦う人間となった。そして、座敷牢の中で彼は絶命し、物語は終わる。

私が本書を手に取ったのは、当時の社会の中で国学がどのように見られていたのか、という興味からである。国学の興隆と挫折、それは知っていたつもりであったし、本書に描かれる国学の流転の様子は、私にとって未知なものではない。しかし藤村の歴史に対する骨太な思索は、そういう表面的な理解を塗り替えるほどの力がある。国学は、何かに対決して敗北したわけではなかった。洋学はおろか、漢学とも思想的対決をしなかった。むしろしてもらえなかった。政治的に都合のよい時だけつまみ食いされ、「旬」が過ぎてからはまともに受け取ってもらえすらしなかった。

青山半蔵という、純直な人間は、もし国学が洋学に敗北したのであれば、潔く兜を脱いだであろう。しかしそうではなかった。国学は、独り相撲をとらされていた。半蔵の人生と同じように。

そもそも、国学者たちは洋学を敵視していたわけでもなかったそうだ。外国のものを無闇に排斥しようとすることはむしろ日本らしさに反すると考えた。進んでそうしたわけではないが、半蔵自身、息子が洋学を勉強することを許した。洋学は半蔵の敵ではなかった。敵は、建国の理想を忘れた社会だった。

その社会は、かつては精神的支柱と頼んだはずの国学を、もはや真正面から批判することすらしなかった。それは黙殺ですらない。なんとなく、盛りが過ぎるのに任せたのである。国学は、いつのまにか時代遅れになっていた。そして、半蔵が暗闇に対して突きつけた問いも、もはや誰からもまともに受け取られることはなかった。

おそらく藤村がこの長大な作品を通して言いたかったことは、明治維新を問い直す、歴史を見つめ直す、ということを避けている限り、見えない怪物をやっつけることはできない、ということなのではないだろうか。本書が書かれたのは昭和の初期、国学から鬼子のごとく生まれた「皇学」が、人々を覆い尽くそうとし始めた時期だ。半蔵が座敷牢で戦った見えない怪物が、それだったのかもしれない。

青山半蔵は、藤村の父がモデルである。モデルというより、父そのものであるといってもよいらしい。本書は、藤村が父の謎多き人生を徹底的に調べ上げ、歴史を再構成することによってできた作品である。そこには大上段の問題提起は一切書かれないにも関わらず、結果的に明治維新を反省させる大作となっている。

そこに描かれた明治維新は、英傑たちが活躍する凡百の「維新」とは全く異なっている。もうすぐ明治維新から150年。我々はそろそろ、青山半蔵が残した問いに、向かい合ってもいい頃である。

2017年7月18日火曜日

『陵墓と文化財の近代(日本史リブレット)』高木 博志 著

文化財としてあやふやな位置づけのまま、保存と研究、公開と秘匿の間を揺らめいている「陵墓」が抱える課題をまとめた本。

陵墓とは、歴代の皇室関係の墓所のことであり、本書においてはその中でも古墳(陵=みささぎ)の話題が中心的に扱われる。

陵墓は、江戸時代から既に治定(ちてい=どの古墳がどの天皇の陵であるかを決定すること)がなされてきたが、幕末明治になってそのスピードが加速し、歴代天皇の陵がどんどん治定されていった。しかし、当時の学知(19世紀の学知)は、現代から見ると厳密な考証に欠け、明らかに間違った治定が行われている場合がかなりある。

具体的には、文献(『古事記』『日本書紀』『延喜式』など)の記載や現地での「口碑流伝(こうひるでん)」を無批判に受け取って治定が行われていたのである。特に記紀を神話としてではなく歴史としてそのまま信じることは、戦前には「国史」の常識であった。

ところが、そうしたウブな方法によって歴代天皇の陵が治定され、宗教的な場所として研究が凍結・秘匿されてしまうことは、学術的な誤りを修正していく機会を失うことを意味していた。

また、既に元禄時代から陵墓の補修事業も行われており、「万世一系」を視覚化するものとして、墓所が改変されている。例えば、公武合体運動の中で行われた山稜補修の事業では、歴代天皇陵109箇所が、1865年(慶応元年)までに補修され、白砂敷きの方形拝所、鳥居と燈籠など、聖域化し拝礼する場所へ墳丘が変化した。

こうしたことは、歴史的遺物を文化財として保護する、または学術的な調査をおこなって真実を明らかにする、という現代の歴史学・考古学の方法論とはほど遠い。しかし、ひとたび宮内庁の管理となってしまうとその研究は極めて限定されることになった。また、陵を公共の文化財としてではなく、あくまで皇室の私的財産(皇室用財産)の聖域であるとする整理では、文化財保護法による保護の手も届かず、「19世紀の陵墓体系」は悪い意味で保存されてしまった。

要するに、現代の学知から見ると、宮内庁により決定され、管理されている陵墓には学問的にも、保存方法的にも問題があるのに、その問題を棚上げして視て見ぬ振りがされているわけである。本書は、そうした問題がどうして起こり、現代の学知との乖離がどうなっているのか、ということを論じるものである。

書名には「陵墓と文化財の」とあり、「陵墓の問題のみならず、広く文化財をめぐる歴史認識としてとらえたい」とのことだが、実際には記載のほとんどは陵墓に尽きている。この意図であれば、もう少し文化財保護の議論も丁寧に追ってもよかったかもしれない。

また、どうして「19世紀の学知」が暴走したのか、ということについてはあまり検証されておらず、「今から見ると問題が多いが、当時としては大まじめだった」というようなことが書かれている。確かに、江戸幕府や明治政府には陵墓体系を「捏造」しようという意図はなかったのかもしれない。しかし、なぜ陵墓が「万世一系」の理念を体現するアイコンとなったのか、という点についてはこの問題の本質と思われるので、もっと丁寧に書いてもらいたかった。

とはいっても、本書はそうした「国体」の問題よりも、文化財保護の視点で陵墓が扱われており、こういう指摘はちょっと当を得ていないのかも知れない。


2017年7月17日月曜日

『エピクロスとストア』堀田 彰 著

エピクロスとストアの生涯と思想を概説する本。

本書を手に取ったのは、エピクロスの生涯に興味を持ったからで、ストアについてはあまり熱心に読んでいない。本書はちょうど半分ずつエピクロスとストアについて書かれているが(内容はあまり関連していない)、以下エピクロスの項のみについて述べる。

ギリシアの多くの哲学者とエピクロスの違いは、エピクロスが高貴な生まれではなかったということだ。「エピクロスは小島生まれの市民で、たえず母国の保護を求め、そのための貢租を支払い、そのうえしばしば略奪の浮目にも会う人々の中のひとり」である。こういう境遇のエピクロスは、「ポリスを前提として立てられた倫理学に背を向ける」ようになった。

そしてエピクロスの思想家としてのビジネスモデルも、他の哲学者とは全く違っていた。彼は信奉者からなるサークルを作り、組織化した。リュケイオンやアカデメイアと違い、全く私的な学園であった。学園では位階制が取られて宗教的な組織構成を持ち、入学に際しては「私は喜んでエピクロスにしたがおう。彼にしたがうことが私の生きるよすがである」という誓約書を出した。学園には女性も数多く混じっていたが、これは男尊女卑の風潮が支配的だった当時としては特異なことだった。

学園には老若男女誰でも受け入れられていた。そして学園では出版活動が重んじられ、奴隷による筆写が盛んに行われていた。学園の教科書を準備しなければならなかったという理由もあって、彼の著作は並外れて多く300巻以上もあったという。学園の目的は「真の哲学の普及」にあったので、その門戸は開かれ、誰にでも公開されていた。このように、エピクロスが他の哲学者と全く違ったのは、権力者に取り入ることなく、市井の人々に広く訴えることで収入を得た点であった。

エピクロスの名は、「エピキュリアン=快楽主義者」の元になったが、実際の彼の哲学は快楽主義とはほど遠い。彼は快こそ自然から命じられた目的であるとは考えた。しかし思慮を持ち健康であることにともなう快こそ持続的で基本的な快だとし、その他の快は余計なものだとした。例えば、お腹が減った時に食事をするのは快であるが、その上美味しいものを食べたいと思うのは、同じ快であっても質的に異なる余計なものだいう。

そのため、学園の生活は当然に質素なものとなった。彼の思想は、快楽主義というよりも、必要最低限の充足で満足すべきという禁欲主義に接近した。

また、エピクロスは神の摂理や霊魂の不死、祈祷といったものも否定した合理主義的側面があった。しかし学園においてはエピクロス自身が崇拝の対象となっており、それは他の学派から揶揄されることもあった。一方で宗教的行事が持つ道徳的影響については敏感であり、サークルの人々のための祭りが慣習的に催された。彼は、宗教を国民国家が利用したような形で見ていたようなフシがある。

本書にはこのほか、エピクロスの思想として基準論、自然学、倫理学について述べられている。しかし、現代の科学を知っている目からすると、これらについてはさほど重要とも思われず斜め読みした。

名高いが簡便な紹介本に恵まれていないエピクロスについて、概略を知ることができる手軽な本。


2017年6月16日金曜日

『庭園の世界史―地上の楽園の三千年』ジャック・ブノア=メシャン著、河野鶴代・横山 正 訳

世界の諸民族がどのように庭園を造ってきたかエッセイ風に語る本。

著者ブノア=メシャンは庭師ではないし、庭園の専門家でもない。中近東を中心とする在野の歴史家である。本書は、歴史家の視点から中国、日本、ペルシア、アラブ、イタリア、フランス、スペインの代表的な庭を紹介してその背景となる考え方を語るものである。

庭の様相については、何の樹木が植えられていたか、といった具体的な部分についてはさほど触れられず、ほとんどがその構成(設計)の説明に終始している。そして本書の中心は、庭の構成にあたって一体どのような価値観や美意識が働いていたのかという、いわば庭の哲学・美学を語ることであり、それは本書の用語では「庭の神話学」と表現されている。

その内容は非常に理念的なものであって、頭でっかちすぎるきらいがある。正直、ピンと来ない説明が多かった。その上、中国と日本の庭園に関しては、著者は全く実見せずに文献のみによって様々に論評していて(歴史家ならではとも言える)、基本的にかなり褒めているので東洋人として悪い気はしないが、ちょっと正鵠を射ていないようなところも散見された。

私が本書を手に取ったのは、本書にはメディチ家のロレンツォが作ろうとしていて果たせなかった庭のことが書いてあるからで、特にその庭にどのような樹木を植えようとしていたのかが知りたかったのだが、前述のように本書は樹種についてはほとんど触れられていないからそれは分からなかった。

この庭は、ロレンツォがルネサンス精神の体現として計画したもので、プラトニズムの理想を表す大規模な構成と知的な仕掛けによって古今不滅の庭となるはずのものであったが、ロレンツォの死によって中断され、その後雲散霧消してしまったものである。この計画のデッサンを著者は1927年にフィレンツェの市庁舎で見つけて記録し、本書の記述はこれに基づいている。しかしこのデッサンは第2次世界大戦で失われてしまったという。よって、このロレンツォの未完の庭は本書だけが伝えるもので、その検証もできないという幻の庭なのである。

本書に扱われるもう一つの幻の庭は、ルイ14世がヴェルサイユを越える庭としてつくりだした「マルリの庭」である。ヴェルサイユの庭園はフランスの庭園文化の一つの到達点とされるものであるが、ルイ14世はこの庭に次第に飽きるようになった。そして自分だけの隠棲の場所として計画したのがマルリ宮である。最初は密やかな場所であったが次第に計画は拡大され、巨費が投ぜられてヴェルサイユ以上に独創的な庭園として発展し、やがてはここで重要な政務も執るようになった。ヴェルサイユは貴族にとって特別な場所ではなかったが、マルリに招かれるということは「王の側近…(中略)…のごく少数の選ばれたグループに属することを意味した」のだという。

このマルリの庭へ王が情熱を傾けるところは、筆が冴え渡っているところで、ここはさすが歴史家という感じがした。

ところがこのマルリ宮は、今ではその痕跡も留めない。フランス革命によってこの庭園は競売に付され、庭に飾られていた傑作の数々は順次売り払われ、無関心の裡に破壊されていったのであった。こうして究極のフランス式庭園は、あっけなく消えてしまったのである。

ところで本書の大問題は、講談社学術文庫に入れる際に内容とかけ離れた大げさな題名をつけたことである。本書には庭園の世界史は語られない。原題は、『人間とその庭、あるいは地上の楽園の変容』である。こちらの方が、内容と合致していてずっとよい。

題名と内容が乖離しており、庭の哲学・美学の説明はかなり理念的であるが、失われた庭についての話は面白い本。

2017年6月11日日曜日

『シルクロードの天馬』森 豊 著

シルクロードにおける天馬の図像史。

著者の森 豊氏は研究者ではなくジャーナリスト(新聞記者)。しかしシルクロードに魅せられてシルクロードに関する著作が多く、「シルクロード史考察 正倉院からの発見」という叢書が(少なくとも)20冊刊行されている。本書はその13番目で、天馬——翼を持つ馬、天を翔ける馬——の図像が、シルクロードにおいてどのように伝わっていったかということを述べるものである。

基本的には、各種の図録や論文から事例を引いてきて天馬の事例を紹介していくという内容。日本から始まり、中国、中央アジア、中東、エジプト、ギリシアとシルクロードを遡っていく形で天馬のあれこれが語られる。ややエッセイ風な記述で、そこに考証や仮説といったものはあまり述べられないし、掲載された図版もちょっと少なめで天馬の図像史を明らかにするというものでもないが、著者はこれを専門に研究しているわけではないのでこれくらいの軽さは適切である。

本書に述べられる天馬の図像伝達史を簡潔に述べればこうである。本来翼を持たない生き物に翼をつけるという発想が産まれたのは中東からエジプトにかけてのことで、その時期は明確ではないが紀元前2500年以前に遡る。アッシリアでは翼のある人面獣が守護神的に信仰されたり、翼ある神が信仰された。しかし古代の幻想の有翼獣は、古くは獅子(グリフォンなど)であり、牡牛であり、羊であって、馬はいなかった。

馬に翼を生やすという着想を得たのは馬を重視する遊牧民の手に掛かってのことで、ギリシア、ペルシア、インダス文明あたりからのことである(が、はっきりとは分からない)。翼を持つ天馬は、ギリシア神話におけるペガサスが有名であるが、ユーラシア全体にその図像が分布しており、特にササーン朝ペルシアの影響力が大きいようである。中国では、天馬が竜への信仰と集合して竜馬(りゅうば)へと変遷していった。日本にも天馬は既に5〜6世紀に伝えられており、正倉院宝物にも天馬があしらわれた文物が収蔵されているのである。

本書を読みながら、80年代の「シルクロードブーム」が思い起こされた。ブームは「NHK特集 シルクロード」に追う面が大きかったとしても、80年代には本当に多くの人がシルクロードへの関心を持っていたのである。井上靖、平山郁夫、司馬遼太郎、松本清張…。小説や芸術の分野で多くのシルクロード関連作品が生まれたことだけでもその傍証とするに足る。当時はシルクロードの諸国にようやく行けるようになった時代で、どんどん研究が進んだ時期だという背景はあるが、今から考えると、どうしてこんなにシルクロードが人々の心を捉えていたのか不思議なくらいである。

しかし本書を読みながら、シルクロードへの関心は、日本の国際協調路線が確立したことを以て(特に日中国交正常化の影響が大きかっただろう)、日本の文化を「シルクロードの終着点」として世界的に位置づけ直すという心理的・象徴的な国民的ムーブメントだったように思った。当時はまさに「ジャパン・アズ・ナンバーワン」にさしかかろうとしていた時だったけれども、日本文化の独自性とか、優越性といったことを言うのではなくて、日本文化もユーラシア大陸の中に連綿と繋がった文化の珠の一つであるという認識を、我々は創り出そうとしていたのかもしれない。

そういう意味では、今の社会情勢に照らしてみると「シルクロード」は人気の出ない切り口だろう。「シルクロード」は、日本の国際協調路線を文化・心理面で支える重要な「思想」だったのではないか。本書を読みながら、そんな気がした。

2017年6月4日日曜日

『日本の名随筆 45 狂』中村 真一郎 編

説明不要の随筆の集成「日本の名随筆」より、「狂」にまつわる27編。

狂気や精神病、偏執症といったものに関する随筆が多い。というより、そうでないものは、西垣 脩「風狂の先達——増賀上人について」と石川 淳「狂歌百鬼夜狂」の2編のみである。

なかでも、印象深かったのは島尾敏雄「妻への祈り」。

これは、精神に異常をきたした妻を献身的に看病しつつも振り回されて、生活はめちゃくちゃになり、最後には転地療養のために妻の地元である奄美へと家族で移住していくまでの話(実話)である。

この話だけを読むと、狂気に冒された妻をその身を犠牲にして看病する夫、という美談に思えるのであるが、後代の我々は、そもそもこの妻の精神がおかしくなった理由は、夫(島尾敏雄)が愛人との情事にふけって家庭を顧みなかったことにあると知っている。となると、自分のせいで妻が病気になったことを棚に上げて、献身的に看病する自分のみを都合よく作品化する夫の方こそ狂っていて、病気になった妻の方がよほど正常だったのではないか、と思えてくる。

このように、「狂」ということの空恐ろしい魅力は、「狂っている方が正常で、実は正常だと思っている私たちこそ狂っているのではないか」という逆転がありうることだ。というのは、狂った世界にあれば狂った人こそ正常で、狂っていない人の方が異常だからである。狂っている人には自分が狂っていることはわからないから、自分は正常だと思い込めるし、私たちがそうであるかもしれないのだ。「狂」はあくまで、相対的概念だ。

「妻への祈り」の場合も、確かに病理学的に狂っていたのは妻の方であるが、その背景を知ってみると作家自身の方も深い狂気へと陥っている。島尾は、文学で身を成すため、というより売れっ子になるために、自らの浮気によって狂った妻を赤裸々に描いて売文していたのだ(『死の棘』として出版され高評価を受ける)。島尾は、狂った妻を文学的に利用したのである。こんなことは、とても普通の精神では行えない。当時は「私小説」が流行っていた時期で、破滅的な私生活を「赤裸々」に書くことが売れっ子になる近道だった事情があるとしても、相当に厚顔無恥であったか、あるいは島尾自身も狂っていたかだろう。

さらに、未読であるが『狂うひと ──「死の棘」の妻・島尾ミホ』(梯 久美子)によると、妻の方にも浮気による精神疾患だけとはいえない狂気の世界があって、自分の病状が文学的価値を持つことを理解するや、夫の作品の題材となることに自らの存在価値を見いだして、あろうことか原稿チェックまでしていたという。

しかしそういう状態を、献身的な夫と(なぜだか)精神病になってしまう困った妻、としてあくまでも自分に都合よく描いている「妻への祈り」は、短いながら寒々とした狂気を感じる作品である。

2017年6月1日木曜日

『狐になった奥様』ガーネット作、安藤 貞雄 訳

不思議にも狐になってしまった妻をあくまで愛し抜こうと苦悩する男の物語。

主人公デブリック氏の妻は、ある日散歩中に突然狐になってしまう。その時は精神はまだ元の人間のままで、突然の変身に悲嘆しつつも狐の姿で夫と共に暮らしていくが、だんだん野生化していき、次第に人間であるよりも狐らしくなって、家を飛び出して狐として生きるようになる。

一方デブリック氏は、そんな妻を人間であった頃と変わらず愛そうとする。最初は、狐の中に潜む妻の人間性を愛おしんでいるが、その人間性はどんどん失われていってしまう。それでもデブリック氏は狐を愛そうとすることを辞めない。苦悩と悲嘆の果てに、狐を狐として愛するようになり、雄狐へ嫉妬するようにすらなる。しかしその嫉妬すらも乗り越え、最後には狐や子狐たちへの無償の愛の境地へと至るのであった。

本書は、カフカの『変身』を髣髴とさせるものであるが、『変身』が様々な寓喩的解釈を惹起するのと違い、いかなる寓喩をも拒絶するかのような内容である。例えば、妻が狐になったということは、一体何を表しているのか? といったことを考えてみても、浮気、精神病、認知症、本来の自己への回帰、といったものの寓喩ではないか、といったありがちな解釈は全く当たらない。妻は夫との生活に満足し、自尊心を持って生きており精神的にまいるようなこともない。狐になったことには苦悩するがやがて狐として自立した生き方をするようになるし、無残に死ぬだけのグレゴール・ザムザとは違う。

こういった調子で、妻が狐になったこと一つを取ってみても、一体それが何を寓意しているのか読者にはサッパリ分からない。むしろ「解釈」といった浅知恵を捨てて、この物語そのものをただ理解して欲しい、という意志を感じさせる作品である。この物語のテーマは何か、ということすら型に当てはめて考えることはできない。

だがこの物語は、何かの寓意であろうとなかろうと、どんなテーマの下に書かれていようと、非常に面白く、一気に読ませるものである。

本書によって思い起こされるもう一つの作品は『美女と野獣』だ。ディズニー版の『美女と野獣』は、「見た目に騙されてはいけない」という教訓的テーマがありながら、結局そのテーマは作中であまり省みられず、最終的には美男美女の幸せな結婚へと話が回収されるが、本書の場合は美女が野獣化して、それを受け入れて野獣を愛す男の話となっており、より美醜を超えた愛の形が徹底している。

しかしやはり、本書を「真実の愛がテーマの本」などとまとめることには違和感がある。デブリック氏が到達したところが、真実の愛であったのか、それとも狂気の世界だったのか読者には分からない仕掛けとなっており、むしろ自分も野生化して狐と同化していったくだりから判断するに、狂気的な部分が大きい。そもそも、妻が完全に狐になった時点で、デブリック氏は新たな妻を迎える選択もできだだろうに、なぜそこまで狐に執着するのかという点からしてもほとんど狂気的な愛情を感じるところである。

だが、「狂気をも突き抜けた愛」がテーマかというとそれも違う。作中では、デブリック氏はあくまで冷静な紳士であり、常識人として描かれる。妻への愛だけは人並み外れているが、決して狂人ではない。

愛、美醜、狂気…こうして並べてみても本書を説明するキーワードにはならない。というより、本書のテーマは何なのか、と問うこと自体が、何か野暮な気さえしてしまう。

こういった調子で、本書はあらゆる解釈を峻拒して、ただ作品それ自体として屹立するような傑作である。