2017年6月1日木曜日

『狐になった奥様』ガーネット作、安藤 貞雄 訳

不思議にも狐になってしまった妻をあくまで愛し抜こうと苦悩する男の物語。

主人公デブリック氏の妻は、ある日散歩中に突然狐になってしまう。その時は精神はまだ元の人間のままで、突然の変身に悲嘆しつつも狐の姿で夫と共に暮らしていくが、だんだん野生化していき、次第に人間であるよりも狐らしくなって、家を飛び出して狐として生きるようになる。

一方デブリック氏は、そんな妻を人間であった頃と変わらず愛そうとする。最初は、狐の中に潜む妻の人間性を愛おしんでいるが、その人間性はどんどん失われていってしまう。それでもデブリック氏は狐を愛そうとすることを辞めない。苦悩と悲嘆の果てに、狐を狐として愛するようになり、雄狐へ嫉妬するようにすらなる。しかしその嫉妬すらも乗り越え、最後には狐や子狐たちへの無償の愛の境地へと至るのであった。

本書は、カフカの『変身』を髣髴とさせるものであるが、『変身』が様々な寓喩的解釈を惹起するのと違い、いかなる寓喩をも拒絶するかのような内容である。例えば、妻が狐になったということは、一体何を表しているのか? といったことを考えてみても、浮気、精神病、認知症、本来の自己への回帰、といったものの寓喩ではないか、といったありがちな解釈は全く当たらない。妻は夫との生活に満足し、自尊心を持って生きており精神的にまいるようなこともない。狐になったことには苦悩するがやがて狐として自立した生き方をするようになるし、無残に死ぬだけのグレゴール・ザムザとは違う。

こういった調子で、妻が狐になったこと一つを取ってみても、一体それが何を寓意しているのか読者にはサッパリ分からない。むしろ「解釈」といった浅知恵を捨てて、この物語そのものをただ理解して欲しい、という意志を感じさせる作品である。この物語のテーマは何か、ということすら型に当てはめて考えることはできない。

だがこの物語は、何かの寓意であろうとなかろうと、どんなテーマの下に書かれていようと、非常に面白く、一気に読ませるものである。

本書によって思い起こされるもう一つの作品は『美女と野獣』だ。ディズニー版の『美女と野獣』は、「見た目に騙されてはいけない」という教訓的テーマがありながら、結局そのテーマは作中であまり省みられず、最終的には美男美女の幸せな結婚へと話が回収されるが、本書の場合は美女が野獣化して、それを受け入れて野獣を愛す男の話となっており、より美醜を超えた愛の形が徹底している。

しかしやはり、本書を「真実の愛がテーマの本」などとまとめることには違和感がある。デブリック氏が到達したところが、真実の愛であったのか、それとも狂気の世界だったのか読者には分からない仕掛けとなっており、むしろ自分も野生化して狐と同化していったくだりから判断するに、狂気的な部分が大きい。そもそも、妻が完全に狐になった時点で、デブリック氏は新たな妻を迎える選択もできだだろうに、なぜそこまで狐に執着するのかという点からしてもほとんど狂気的な愛情を感じるところである。

だが、「狂気をも突き抜けた愛」がテーマかというとそれも違う。作中では、デブリック氏はあくまで冷静な紳士であり、常識人として描かれる。妻への愛だけは人並み外れているが、決して狂人ではない。

愛、美醜、狂気…こうして並べてみても本書を説明するキーワードにはならない。というより、本書のテーマは何なのか、と問うこと自体が、何か野暮な気さえしてしまう。

こういった調子で、本書はあらゆる解釈を峻拒して、ただ作品それ自体として屹立するような傑作である。

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