2021年12月20日月曜日

『「不屈の両殿」島津義久・義弘—関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』新名 一仁 著

島津義久・義弘を中心とした歴史書。

本書は、戦国時代末期から江戸時代の当初を記述の対象とし、当時の島津家の当主である島津義久、その弟の義弘、義弘の息子忠恒の動きを中心にして記述した歴史書である。

彼らの活躍した時代、島津家は破竹の勢いで九州をほぼ統一する。豊臣秀吉に下った後、関ヶ原では西軍に参加して外様となったものの外交によって本領を安堵されて薩摩藩を確立するなど、激動のまっただ中にあった。そんな中で、巷間に流布されている説では、義久・義弘は固い兄弟の結束によって難局を切り抜けてきたとされてきた。

しかし実際には、兄弟の方針はバラバラで、しかも家臣団を統制することができない状況にあり、「強大な戦国大名」というイメージとは裏腹に非常にあやうい状態であったのである。本書は、そのあやうさを一次史料に基づいて丁寧に描くもので、特にこれまであまり注目されず伝記も明治以降出版されていない島津義久を丁寧に描いたところが新鮮である。

「第1部 戦国期の義久・義弘兄弟」では、島津家が三州(薩隅日)統一し、続いて九州をほぼ制圧するが秀吉に下るまでが記述される。第1部はほとんど、戦がいかにして起こり、それを収めたかという記述である。そこで強調されていることは、当主義久は、重臣談合——重臣たちの話し合い——の結果を尊重し、基本的にはそのまま承認して意志決定していたということである。つまり義久はボトムアップ型のリーダーだった。

そして島津家の行動原理は、「自他之覚」「外聞実儀」を重視するものだった。つまり「外から見てどう思われるか」ということをいつも気にしていたのだ。九州統一戦も、実は最初から九州を統一しようと思ってやったのではなく、あちらを倒せばこちらが頼ってくる、こちらを助けるとあちらと戦わねばならなくなる…といったように、行き当たりばったりで対立と和平が繰り返されて結果的に成し遂げられたもののようだ。ちなみに義久自身はほぼ常に慎重派・和平派で鹿児島を動かなかったのに対し、義弘は血気にはやり各地を転戦していた(といってもこの頃は家臣の立場なので自分の意志のみで転戦していたわけではない)。

この九州統一戦の中で、一つの重要な決定がなされる。義弘を当主の「名代」「守護代」とするというものだ。これは、島津家の領土が拡大したことから鹿児島にいる義久だけでは意志決定が遅くなったこと、義久に後継者がなく健康が勝れなかったことなどからなされた決定である。こうして義久・義弘の両頭体制が敷かれることとなった。ただ、この二人はお互いに尊重し合ってはいたが、戦略を共有していたとはいえない。豊臣秀吉との決戦においても、義久は一刻も早い講和を望んでいたらしいが、義弘は戦端を開き敗北している。こうして島津家の九州統一戦は終わりを告げ、義久は出家して秀吉に恭順の意を表した。

「第2部 豊臣政権との関係」では、朝鮮出兵への対応と秀吉の死までが記述される。島津氏は秀吉に下り、交渉の末に本領を安堵されたが、全てが当主義久に帰属したのではなく、直接に秀吉の家臣となったもの(御朱印衆)も多かった。御朱印衆の場合は秀吉から直接所領を宛がわれたため、彼らは義久の家臣であると同時に秀吉の家臣でもあるというねじれ状態になった。

義弘も御朱印衆となり、豊臣政権と接近していく。義弘は「両殿」ではあったが、家臣達は義久を当主と見なしており鹿児島では基盤が脆弱だった。しかも、朝鮮出兵において派兵された義弘は鹿児島からろくな補給を得られないまま孤立し、鹿児島への不信を強めていく。そうしてむしろ豊臣政権をバックにして鹿児島を動かすしかないと感じていくのである。

それでなくても強権的な秀吉の力を利用してのし上がろうとするのは御朱印衆にとっては自然なことだった。石田三成とその家臣安宅秀安に取り入り、豊臣政権との連絡役を買って出て家老から大名的な存在にまでなったのが伊集院忠棟であり、忠棟は三成の手代となって次期当主として義弘の息子島津忠恒を指名させるとともに太閤検地を主導した。三成の太閤検地とその所領分配は従前の領地を大きく入れ替えるもので、特に義久を鹿児島から追い出して義弘を代わりに据えようとし(しかし実際には義久はそれを遠慮して本拠地を帖佐とした)、さらに忠恒の所領を組み込んで、鹿児島で義久[浜之市]・義弘[帖佐]・忠恒[鹿児島]の三分割(三殿)体制が出現することとなった。

一方、義久は一貫して豊臣政権とは距離を取り、家臣団の再編成と信頼の回復に努めると共に豊臣政権の内政干渉を無効化しようと試みた。例えば太閤検地において分配された領地を旧来の領地割に戻そうとしたり、上知された(取り上げた)寺社領を戻そうとしたりといったことである。義久は明らかに政権の命令をのらりくらりとはぐらかそうとしていたが、それでも強制的に排除されることがなかった要因として、義久が琉球とのパイプを独占していたらしきことがあるようだ。豊臣政権は島津氏の代表を当主義久ではなく義弘としていたのだが、こと琉球との外交に関しては義久を経由しているのである。

「第3部 庄内の乱と関ヶ原の戦い」では、徳川幕府の樹立と薩摩藩の琉球侵攻、そして後日談的な義久・義弘の老後が記述される。先述の通り、忠恒は伊集院忠棟を通じて石田三成に取り入って家督相続を確かなものにしたが、あろうことか伊集院忠棟を茶会に招いて斬殺する。伊集院忠棟は、薩摩の太閤検地を主導してただひとり大幅な領地の加増を受けており、豊臣政権の力をバックにした専横が多くの家臣から恨みを買っていた。しかしながら彼を殺害することは公然とした石田三成への反逆であった。忠恒は直ちに蟄居させられたが、幸運なことに石田三成が失脚しその罪がうやむやになった。

しかしそれでは伊集院一族は黙ってはいられない。こうして島津家への反乱「庄内の乱」が起こった。忠恒はこれを鎮圧しようとしたがなかなか手こずった。忠恒は家臣を未だ統制できておらず、戦のセンスもなかったのである。

伊集院忠棟の誅殺は島津家として計画したものではなく突発的なものだったようだが、石田三成=伊集院忠棟への領内の反発が大きかったのは事実であり、京都に在番していた義弘も徳川家康について伏見城の警護を命じられていた。ところが関ヶ原の戦いが起こると、義弘は行きがかり上西軍に参加する。手勢の少ない状態であった義弘は本国に増援をお願いするが、反三成で合致していた国元の義久・忠恒はこれをほぼ無視。義弘を見捨てたのであった。

結果的にはこの判断が島津家を救った。島津家は明らかに西軍に参加しながら、義久・忠恒は「西軍へ参加したのは義弘の独断で島津家としては家康に従っていた。義弘も参加したくて参加したのではない」という理屈で押し通し、なんと本領の全ての安堵を受けるのである。なお、徳川政権と島津家の和平に当たっては、義久の上洛と謝罪が一つの焦点になっていたことが面白い。豊臣政権においては義弘が島津家の代表として扱われていたが、徳川政権になると義弘が西軍に参加したためもあり、再び義久が主役になってくるのである。

しかし義久はなかなか上洛せず、最終的には一度も上洛しなかった。どうやら富隈衆(義久の家臣)には、徳川政権と徹底抗戦を主張するものがいて、義久はそれに配慮して上洛ができなかったようだ。あまりにも義久が動かないため、家康の方が逆に下手になっていく感じが興味深い。普通なら逆心有りとして怒りそうなところである。そしてこの交渉中に忠恒へ家督が継承され、当主となった忠恒の上洛によって和平(本領安堵)と義弘の赦免が実現するのである。

さらに忠恒は、これまでほとんど軍功がない弱みを克服するためもあってか、琉球侵攻を計画する。先述のように琉球関係は義久が独自のパイプと権益(朱印状発給の権利)を持っていたのだが、それを忠恒は奪って琉球侵攻を徳川政権に認めさせ、また実際の侵攻にあたっては大きな戦いなくあっさりと琉球を制圧して属国とした。名実共に島津家の家督は忠恒に移ったのである。

本書は全体を通じ、こうした歴史の動きの背景にある義久・義弘の人間性に着目しているところが面白い。義久は鋭い大局観を持ったリアリストであり、大きな方針を示して細かいところは家臣たちの意志を尊重するリーダーだった。一方で義弘は上から示された方針を遮二無二貫徹するタイプで、情に篤く義理堅く多くの人から信頼された。同時に家臣や息子にやたらと細かく指示を下したり細かいことで叱責を加えるようなところもある、義久とは真逆の人間だったと言える。戦国末期にこの正反対の名将が対立しつつもバランスをとって島津家を支えたことが、難局を乗り切れた一因であったという。

戦国末の薩摩の歴史書としては、現時点で最良唯一の平易な良書。

 

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